日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: THE ナンバー2

THE ナンバー2、ヒストリーチャンネルでなんか再放送?をやってくれています。
私が見だす前の人たちをやってくれています。
そうなのよね・・・
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1598年5月病に伏した豊臣秀吉が、一人の男を枕元に呼びました。
前田利家、加賀100万石の領主です。

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秀吉は苦しい息の中・・・
「私が万一の時は、秀頼をお頼み申す。
 秀頼をわが子と思って助けてくだされ。
 お頼み申す・・・」
そういうと、利家が頷くのを確かめるように8月その生涯の幕を閉じました。

1599年元旦新年のあいさつの為に伏見城に集まりました。
大広間に集められた大名の筆頭は徳川家康、ようやく自分に回ってきたかもしれない順番・・・

秀頼がやってきましたが・・・その秀頼を抱いていたのは利家でした。
大名たちがひれ伏しているのは秀頼ですが、どこをどう見ても利家にひれ伏しているようです。
しかし、前田利家は、天下に律義者として知られていました。天下を取る野望があるなどとは思われなかったのです。

家康は苦虫をかみつぶしていたようです。この男がNo,2にいる限り自分の天下はない!!
この律義者が最も恐るべき男だったのです。


戦国時代の利家の立ち位置は・・・
準主役、豊臣政権のNo,2が利家でした。

利家と秀吉・・・
秀吉はフリーターからアルバイト・・・契約社員から正社員となった人で、利家は子会社の社長の息子・・・そして、若社長(信長)にも気に入られていた。それくらい立場が違いました。

しかし、美濃併合し、信長が天下布武に乗り出した頃、屋敷が近所になります。
普通は、成り上がりの秀吉と付き合うのを嫌がったようですが、利家は傾奇者。異風を好み、派手な身なりをするなどの常識を逸脱していたので、お構いなしでした。
槍の又左と呼ばれ、派手好み、男伊達でした。


石川県金沢市に居城・金沢城があります。
此処には戦国を生き抜いてきた利家の様々な工夫があります。

なまこ壁・・・これは、装飾性や耐湿性優れているだけではなく、鉄砲狭間があり、壁の内側から瓦を外すことが出来ました。

屋根にも工夫が・・・鉛瓦。普通の瓦に見えますが、積雪に耐えるように木で作り、周りを鉛で覆っているのです。
そして・・・籠城の際には、この鉛を溶かして鉄砲の弾にすることが出来ました。

もともとは、尾張の国に生まれた前田利家。
14歳で織田信長の小姓となって侍人生が始まります。
この利家、信長と男色の関係にあったと言われています。
当時は合戦に女性は連れていけない・・・とか、寝所を襲われたときにボディーガード・・・楯になってくれるとか・・・もっとも頼りになる男の1人だったようです。
おまけに長身で美男子。

背中に母衣を纏った利家。

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若いころの利家は・・・傾奇者でした。
かなり仰々しい姿で町を歩いていたようです。
普通を飛び越えたことをしよう・・・という気持ちが異形を好んだようです。
信長も、「肝に毛が生えた男」と褒めています。

21歳の利家は、結婚をしました。
相手は9歳年下の松。
松は腹の座った女性で、教養も、優しさもあったようです。

そんな利家を奈落の底に落としたのが・・・笄(こうがい)。
おしゃれな武士が刀に差していた櫛のことですが・・・
拾阿弥手打ち事件勃発・・・
信長の茶坊主・拾阿弥が利家の笄を盗んで咎められたのです。
拾阿弥は、表向きは誤ったものの裏では。。。
「盗られるのは、本人にも隙のある証拠・・・」と、陰口をたたきます。
怒った利家は、拾阿弥を斬ると息巻いているのを聞きつけた信長が間に入り、今回だけは許してやれと言われ一度は矛を納めます。が、

周りの者から、武士が一度言い出したことをやめるのか?と、嘲笑されたため、信長の見ているまでで手打ちにしてしまいました。

激怒した信長は、利家を手打ちにしようとしますが、柴田勝家が間に入りことは治まりますが、織田家を追放されてしまいます。
この事件以来、柴田勝家を親父様と呼ぶようになり、織田家に戻るチャンスを伺います。
柴田勝家は男気があり、織田を支え、義を持って最後まで守ろうとした人物です。
そんな勝家が、利家を支えます。

そしてチャンスが到来・・・
1560年桶狭間の戦いです。
織田軍3000、今川義元2万・・・織田軍は、奇襲をかける為、桶狭間に向かいます。
その知らせを聞いた利家は、自ら参陣します。
陣借りです。陣借りとは、戦の際に正規軍でない勢力が自分の意志で駆けつけて参加すること。。。
桶狭間では、命を惜しまず・・・3人の首を取りました。
信長にとっては律儀な家臣と映り・・・許されたのです。
この間2年、この時の苦労が、利家をまともな人間に引き戻しました。


戻ってきた利家に運命の出会いが・・・
その男が、利家がNo,2として仕えることとなる豊臣秀吉です。
垣根越しに秀吉の家が見えました。

天下統一に向けて、八面六臂の活躍をする織田軍団。
秀吉、利家も各地を転戦します。
そして天正十年・・・二人の運命を揺るがす事件が・・・!!

天正十年(1582年)本能寺の変。
その時秀吉は、備中高松で毛利輝元と戦、利家は勝家の下で北陸を平定する為魚津城を攻めていました。
秀吉は本能寺の変を知ると、すぐに毛利と和睦を結び京都に帰ってきました。
そして・・・山崎の合戦で光秀を打ち破ると、信長の後継者として名乗りを上げました。

これを快く思っていなかったのが柴田勝家。
1583年この勝家と秀吉の間で賤ヶ岳の戦いが勃発。
前田利家は、勝家の部隊として賤ヶ岳に来ていました。
悩んでいました。どちらにつこうかと・・・
この時の利家の立ち位置は、府中三人衆。勝家の配下として付けられた三人(利家・佐々成政・不破光治)の与力の1人でした。

恩人の柴田勝家・・・
三女は勝家のところに人質に。

友人の秀吉・・・
秀吉のところには自分の四女が養女に行っていました。

利家の心は激しく揺れ動き。。。
いよいよ決戦のときが近付きます。
まだ迷っている利家。
家臣団の生活も背負っています。
義だけでは動けない状況にありました。

そんなときに秀吉から手紙が・・・
「明日の合戦では勝家を裏切ってもらいたいが、
 おぬしの性格ではそれは出来まい。
 せめて明日の戦には加わらず
 中立を守ってもらいたい」

そこには利家の性格をよく知る秀吉らしい文面がありました。

1583年4月20日賤ヶ岳の戦い。
戦いは、勝家軍が勢いがありましたが、秀吉軍が盛り返し・・・
翌日未明、戦いは突然終わります。
それが・・・利家の陣地を引き払ったことでした。
このことが、勝家軍にパニックを起こし、戦場を逃げ出すものが続出・・・負けてしまったのです。

それは、やむに已まれぬ行動だったのかもしれません。

その後、数人の共を連れて利家の城にやってきた勝家。

それを見た利家の家臣が・・・
「柴田殿を討ち取り、秀吉殿に差し出せば手柄になります」
と言ったところ・・・
「「武士の作法を知らぬのか!!」
と叱りつけ、勝家を城に招き入れました。

「私はここで秀吉軍を防ぎますから
 貴方は自分の城に戻り、再起を図ってください。」
と言って、新しい馬を差し出しました。

すると勝家は・・・
「貴方は秀吉と昵懇であるから 
 今後は私に対する義理を棄て家の安泰を図りなさい。」
と言い残し、去っていったとか・・・。

翌日、秀吉が一人でやってきます。
利家は・・・門を開けて招き入れます。

勝家に義理を立てた利家は・・・
「腹を切るので暫く待ってくれ」
秀吉は、
「私はおぬしを殺すつもりでここに来たのではない。
 敵味方に分かれるのは武士の習い
 おぬしに恨みはない」
そして松に・・・
「腹が減ったので、冷や飯を一膳もらいたい」
と、頼みました。

この瞬間、利家は秀吉につくことに決めたのでした。

計算づくで行動するのではない心意気で生きる利家。
秀吉の為に労を惜しまず働きます。
北条氏政を倒した秀吉は、ついに天下を統一。
これらの戦いが終わったとき、信長の家来で秀吉のライバルとなるべき有力大名はほとんどいなくなっていました。
が・・・利家は、加賀100万石の大名となっていました。

その利家が、秀吉のNo,2となります。
加賀100万石には数々の伝統工芸がありますが、この芸術を受け入れ保護したのが利家です。単なる武人ではなく、多くの人から尊敬される教養を身につ行けていたのです。

利家は、人生のうち30以上の戦いに参加していますが、自ら仕掛けた戦いは殆どなく、天下統一で平和の来たことを喜んでいました。


が・・・秀吉が朝鮮出兵に乗り出します。
この無益な戦いが長引くにつれて、朝鮮に出兵した大名と国内の大名との間に亀裂が入ります。不穏な気配が・・・

1598年5月秀吉が病に倒れます。
死期を悟った秀吉は五大老を呼びます。
幼い秀頼の行く末を案じてのことです。
五大老の中でも一番信頼していたのが利家。。。

「利家殿 人は大勢いるが、真の友人はお主だけだ
 私が万一の時には 秀頼をお頼み申す
 秀頼をわが子と思って助けてくだされ
 お頼み申す」

この瞬間、利家は秀吉に最も信頼されるNo,2となったのです。

8月18日62歳で秀吉はこの世を去ります。

秀吉が亡くなると、家康はそんな約束はなかったかのように裏工作をします。
そして、天下をその手中に納めようとします。
怒った利家は、家康のもとに乗り込みます。
すでに利家は、病に侵されていました。。。
家康と刺し違えよう・・・???
自分が殺された場合、家康に大義はなくなり、豊臣の大名たちが立ち上がるだろうと思ってのことでした。

秀吉との約束を守ろうとしたのです。
まさにNo,2だったのです。
利家が生きている間・・・家康は動けませんでした。
合戦では勝てても、利家の人望には勝てなかったのです。

病床に伏した利家に松は、魔よけの守・鍾馗(しょうき)の陣羽織を縫います。
「若いころから多くの人を殺した罪で地獄に行かぬようにこれを着てください。」

と言ったところ、利家は、

「多くの人を殺したが、訳なく殺したことはない。
 だから、地獄にはいかない」
と、着るのを断ったそうです。

「私の行く先より気になるのは、
秀頼公の行く末だ・・・ 
あと7年・・・せめて5年あれば
秀頼公が天下を治める姿を見ることが出来るのだが・・・」

慶長4年閏3月3日、前田利家は、62歳の生涯を閉じました。
それを待っていたかのように、家康は翌年に関ヶ原の戦いを起こします。
念願の天下を掌中に納めるのです。

前田利家・・・大きなNo,2を失った豊臣政権は、大坂の陣で滅亡するのです。

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なんと、THEナンバー2最終回になってしまいました。
まあ、思っていました。もうネタ切れになってきたのかなあ・・・って。


今回は、でも、No,1になった男、徳川慶喜さんです。


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慶喜が第15代将軍となったのは、慶応2年、時代は大きなうねりの中にいました。
日米修好通商条約、開国・・・国論が真っ二つに分かれる中、幕府は弱体化・・・

倒幕・尊皇攘夷が声高に叫ばれ始めました。
その中心には、公家の岩倉具視、薩摩・長州・土佐が出入りをし、天皇を中心とする政治を目論んでいました。

徳川幕府最大の危機・・・
自らの手で未曽有の決断をします。

慶喜には謎が2つあります。
①徳川家康から続いた260年に及ぶ天下を・・・大政奉還しようということ。
どうして自ら大政奉還したのか???
②戊辰戦争を・・・なぜ戦いを放棄したのか???


その時、慶喜は何を考えていたのでしょうか?

揺れ動く幕末の日本にあって、一番悩んだ人かも知れません。
徳川家茂のNo,2からNo,1へとなった男。
その男が描いた国のあるべき姿とは?


「なりたかった」将軍と、
「なりとうはなかった」将軍・・・


13代将軍家定が、頼りにならなくなった混迷の世・・・
①年長 ②英明 ③人望
を条件に将軍を選ぼうとします。

それは・・・
一橋慶喜(21歳)VS徳川慶福(13歳)でした。

慶喜は、20歳を超えてインテリ、将軍候補に擁立されますが、井伊大老が推薦したのが慶福でした。

慶喜ははNo,2として働き始めます。

慶喜は、天保8年徳川斉昭の7男として江戸・小石川に生まれます。
斉昭は烈公と呼ばれる攘夷派、慶喜が2歳になると水戸学を学ばせました。

11歳となった慶喜のもとに、一橋の養子になる話が持ち上がります。
御三卿は、将軍になれる血筋・・・息子が将軍になれるかもしれない!!

たびたび将軍候補に挙げられましたが、1862年家茂の将軍後見職となります。
この時から、ナンバー2として頭角を現します。

どうして大政奉還をしたのか???

それは、慶喜が水戸学を学んでいたから・・・
戊辰戦争を放棄したのは、江戸の人々を救いたかったから・・・


帝王学に基づいた、水戸学・・・

慶喜が将軍ではなく、天皇のNo,2となった瞬間でした。


今回で終わりになってしまいました。


この最終回に関しては今までTHEナンバー2でやった、岩倉具視・勝海舟・小栗上野介なんかを観るとよく解るのかなあ・・・って思います。

毎週楽しみにしていたので、とっても寂しいですが・・・
徳川慶喜が大政奉還したように、THEナンバー2も、粋な計らいをしてくれました。黒ハート

次回からの番組も、歴史物みたいです。黒ハート


楽しみにして1週間過ごします。るんるん

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私の大好きな「THEナンバー2」ですが・・・

ここ何回か、「◎◎のナンバー2△△ VS ☓☓のナンバー2◆◆」みたいなのをやっていました。

ナンバー2も70回を越えると、ナンバー2自体なくなってきているのかしら???

と、心配していました。

次回第77回は徳川慶喜さんです。

で・・・
ふと考えてみました。

日本の歴史のナンバー2がなくなってきているのだったら、
現代史のナンバー2・・・例えば今ドラマでやっている吉田茂なら白州次郎とか・・・

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世界の歴史のナンバー2・・・
って、劉備のナンバー2、諸葛亮孔明

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ヒトラーならゲーリングとか、ルドルフ・ヘスとか???

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って・・・???
他にはピンときませんあせあせ(飛び散る汗)

世界的に見るともしかしてNo,2って、あんまり存在しないのかしら???
それとも私が知らないだけなのでしょうか???

そう・・・

よーく考えると、外国は独裁者が多いですよね。
日本は例えば平清盛が政権を握って以来、鎌倉・室町・徳川・明治維新以降・・・
ずーっと”傀儡政権”っていうか、天皇はマッカーサーが言い渡すまでもなく象徴だったような気がします。


だから、ナンバー2が活躍するのは、日本以外にありえないのかもしれない。。。
と、思ってしまいました。

私の勉強不足でしょうか???

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元禄15年(1702年)12月14日

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「狙うは殿 浅野内匠頭の敵
 吉良上野介の御首のみ!!」

赤穂藩筆頭家老大石内蔵助をはじめ四十七士が討ちいったのが“忠臣蔵”。
その忠義のための義の心が、今も日本人の心を掴んで離しません。
この事件の中心人物が、浅野内匠頭のNo,2大石内蔵助です。

大石内蔵助は、赤穂藩代々の家老の家に生まれました。

21歳の若さで家老となり、筆頭家老として22年間その座にありました。
そして・・・昼行灯と呼ばれていました。

元禄14年3月14日・・・大事件が起こります。
江戸城内松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に突然斬りかかったのです。

浅野内匠頭は、将軍綱吉の怒りを買い、即日切腹。。。
お家断絶となりました。
その知らせを聞いた内蔵助は愕然とし・・・

しかし、なぜ浅野内匠頭が斬りかかったのか・・・
その理由は300年たった今もわかりません。
意地悪説・賄賂拒否説・・・


しかし、新たな説が出てきました。
その謎が解明されたとき、赤穂浪士が討ち入りました???

江戸時代から親しまれてきた「仮名手本忠臣蔵」。
なぜこのようなタイトルなのでしょうか?
仮名・・・つまり、“四十七文字”手本忠臣蔵ということです。

では、どうして忠臣蔵?
吉良を炭蔵で見つけたから、とか、忠臣たちが蔵に詰まっているからとか言われています。


加藤廣さんが、広い視野で考えてくれました。

なぜ浅野内匠頭は、刃傷沙汰に及んだのでしょう??
刃傷沙汰の2週間前・・・

元禄14年2月28日
五代将軍綱吉のお側用人筆頭柳沢吉保のもとにやってきたのは、幕府の朝廷外交を一気に預かる肝いり・吉良上野介。

吉保は4年前に作成した桂一計画の進行度合いを聞くために呼んだのでした。
桂一計画とは・・・綱吉の母・桂昌院に女性の最高位である従一位を取らせることでした。
朝廷は、ここ数年、これを渋っていたのです。
出来なければ、腹を切るしかない吉保でした。


元禄14年3月14日
この日は、江戸城内で、綱吉が朝廷の勅使に御礼を述べて、勅使を送り出す・・・
そんな大切な日でした。

浅野内匠頭は、朝廷の勅使を接待する“勅使供応役”を任命されていました。
勅使は10時にやってきます。

そんな9時に。。。事件は起こりました。

儀式に向かう吉良・・・突然浅野内匠頭が斬りかかりました。
こんないざこざが朝廷の耳に入れば・・・
不安がよぎる吉保・・・

桂一計画に暗雲が立ち込めます。
浅野内匠頭は、大番所に留め置かれます。
「その方、場所もわきまえずに吉良に刃傷沙汰に及んだのはどのようなつもりであったのか???」

浅野内匠頭「吉良には、私的な遺恨があったので刃傷に及びました。」

吉良上野介「拙者何の恨みも受ける覚えはなく内匠頭の乱心と思われます。」

結局、吉良は何の責任も取ることはなく・・・内匠頭は即日切腹という異例の処分が下されました。
35年の生涯が閉じられたのです。

吉保は、忍びの黒鍬組から意外な知らせを受けます。内匠頭の妻阿久利は、夫が吉良に恨みがあったことを知っていたのです。

桂一計画が裏にあるのでは・・・?
つまり、幕府のNo,2・柳沢吉保と赤穂藩のNo,2大石内蔵助の戦いがあるというのです。

幕府は密偵を放って、諸藩のことは調べ上げていました。
だから、柳沢は大石を知っていました。
柳沢は幕府では怖い存在で、側用人として主君のそばに仕え、全てのことに携わっていました。
江戸幕府では、将軍側近の実質的な最高職だったのです。


昼行灯の大石内蔵助が輝く日がやってきました。
元禄14年3月19日、松の廊下事件から5日後・・・浅野大学からの手紙を受け取ります。

「今14日、殿中において吉良上野介殿を内匠頭様一太刀切りつけのところ内匠頭様命の別状これなき由・・・」

今回の殿の所業は、痞(さしこみの一種)による突発的発作によるものと思われた・・・

最後に。。。
「札座のことよろしく申し付けられるべく候」
とありました。

大きな不安がよぎりました。

昼行灯がNo,2として大きく動き出します。
内蔵助が最初に手を付けたのが、藩札の換金でした。
当時、大名家が断絶の場合、藩札の換金率は、3割から5割・・・引き換えなしという場合もありました。

領民の動揺を抑えるために、6割で換金しました。
また、300近い藩士の数を抑えること。
このままでは、混乱が起きる・・・。

江戸から早籠が届きました。
「14日即日ご切腹とお家取り潰しでござる」

内蔵助は・・・突発的発作事件ではないかも知れない・・・

3月19日・・・
赤穂上籠城と徹底抗戦と、全員の自決・・・第3の道を探す時間があまりにも短すぎ・・・

翌20日。
城を枕に自決することを藩士に提案します。
そこに、黒鍬組がいることを知ってのことでした。

2日後、赤穂城から藩士がめっきり減りました。
本当に残った忠臣たち・・・そこで、残った藩士に退職金を分配しました。
しかし、内蔵助は思っていました。なぜ刀を抜いたのか・・・本当のことがわかるまでは死ねない・・・と。


元禄14年3月26日夕刻・・・第三の使者が・・・
殿は切腹に対しても、庭先で・・・一般人と同じ扱いを受けたことを知ります。
当時、大名の切腹は、室内ですることになっていました。

そして、遺言は・・・
「これまでのことは、かねてから知らせようと思っていたが
 今日せっぱ詰まったことなので知らせることが出来ない
 不信に思うかもしれぬが・・・」

内蔵助は衝撃を受けました。
吉良との間に何かあったに違いない・・・
妻の阿久利様に会うために、江戸に向かいます。

そしてそのことは、黒鍬組を通じて柳沢には筒抜けでした。

江戸・赤坂にある屋敷にて阿久利様から聞きます。・・・

吉良に、「これは、田舎大名が口をはさむことではない」と言われたとか・・・

殿の言われたこれとはなんであろうか・・・
じっと考える・・・

黒鍬組からそのことを聞いた柳沢吉保は・・・
それは、桂昌院の従一位のことでは???と思ったとか。

つまり、吉良は浅野内蔵助に桂一計画を自慢げに話したのではないか???
あるいは浅野内蔵助が桂一計画に対して警告したのかもしれない・・・

それに対して、田舎大名が口をはさむことではないと言ったのではなかったか???

その後、桂昌院には従一位が、柳沢吉保には2万石の加増が・・・
内蔵助の言ったことは・・・
朝廷思いの内蔵助が、幕府の横暴に口出しし、その先鋒の吉良を咎め、言い争いになったのではないか???


松の廊下から9か月・・・
吉良への復讐に、準備が始まりました。

隠居した高家を深川に追い出した柳沢・・・
桂一計画が達成された今、大石の仇討に協力するかのような行為でした。
「やるなら江戸のど真ん中ではなく深川でやれ」と言ってるかのようでした。


討ち入りの時期と手段は???

討ち入り作戦其の一。
急進派(堀部安兵衛ら)の説得。
「十分な準備なくして討ち入りを急いでは必ず失敗する
 下手な大工仕事と同じよ」

安兵衛は激怒!!
そこで内蔵助は、同志を京都・丸山に集めます。
会議の直前、安兵衛のことは、黒鍬組に筒抜けだということを知らせました。
安兵衛は反省し、内蔵助に忠誠を誓うことになります。

討ち入り作戦其の二。
決意表明。
大石の決意表明に、万感胸に迫る藩士たち・・・一つにまとまります。

討ち入り作戦其の三。
意思の確認。
「筆頭家老大石殿には、重ね重ねの屈辱的処分に対しても
 反発はおろか復讐のお気持ちすら見せませぬ
 ただただ女遊びにうつつを抜かす有様・・・」

といって、怒り狂うものに対してだけ討ち入りの決定をあかし・・・江戸へと向かう準備をします。その数、50人ばかり。。。

頭を悩ませたのが、武具でした。
資金がありません。
瑶泉院に用立ててもらったり・・・暗闇でも目立たないように、黒っぽい同じものに・・・
防具は脇楯、手には籠手、足には脛当、頭には針金入りの頭巾をつけました。

元禄15年10月7日。
江戸に向けて、京都を出発しました。
同志たちは、続々と江戸に集結。

12月2日。
赤穂浪士たちは、深川八幡の茶屋で策を練りました。
上野介の寝所を探ります。

しかし・・・
幕府は、吉良上野介の米沢隠棲願いをご裁可します。
米沢に行かれては、仇討もままならない・・・・・。

12月14日、年忘れ茶会の日に決定します。
浪士は47人。

12月14日・・・あれから1年9か月が経っていました。

そして、この物語は、時代を超えて忠義の物語として語り継がれることになります。
討ち入りの翌年、16年2月4日、赤穂浪士たちはそれぞれのお預け先の大名家で切腹します。
そして、浅野内匠頭の眠る泉岳寺へ・・・

この時代、おとり潰しになった大名は248にも上ります。
しかし、赤穂浪士だけが忠義を全うしました。


う~ん・・・どうでしょうか???
どうして浅野内匠頭が切りつけたのか?やっぱり闇のなかでしょう???
大石が”皇室崇拝の祖父に育てられた”という部分で、朝廷方の考えがあったかもしれませんが、浅野内匠頭がそんなに朝廷のことを思っていたのかはわからないし、そうでないとこの話も始まらないので・・・

やっぱり真相はやぶの中でしょうか・・・???
ただ言えることは、今でもいろいろな考え方が出てくるのは、やっぱり人気があるからなのでしょうね。黒ハート

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ペリー来航で、260年に渡る太平の世から目を覚まされ、開国した日本。

井伊直弼が独断で日米修好通商条約を結び、徳川の時代が軋みはじめました。。。

従来の開国の歴史はこうして始まります。

しかしペリー来航は1853年、日米修好通商条約は1858年。。。
その間に空白の5年があります。
この5年の間に一体何があったのでしょうか?

阿部正弘とペリーの日米和親条約、大老・井伊直弼とハリスの日米修好通商条約。。。
しかし、日本がこの時期に開国できたのは、もう一人の埋もれた宰相がいたからでした。

13代将軍家定の老中首座・堀田正睦です。

うつけと言われた家定を支えた堀田正睦。
昼行燈と呼ばれていましたが、本当は日本の将来を案ずる開国派で、
清国の様に海外列強の食い物にされないためには開国しかない!!と、思っていました。

その堀田の前の、三つの大きな壁が立ちはだかります。

①堀田を老中首座に据えた開国に否定的な阿部正弘

②条約交渉の相手・アメリカ行使タウンゼント・ハリス。
 商人上がりのハリスは、開国のみならず自らの利益に執着する男でした。

③最大の壁は、御三家・水戸の徳川斉昭でした。
 斉昭は、攘夷派として怖れられていました。

このままでは、アメリカとの条約交渉は進まない・・・
そこで、堀田は江戸幕府始まって以来の奇策に打って出ます。

京都御所の天皇の勅許を手に入れることで、反対派に有無を言わせないようにしようと考えたのです。
中央突破を図ります。

では、どうして堀田が老中首座となったのでしょうか?
当時堀田は、蘭癖大名と揶揄されるほどの西洋かぶれ、知識人でした。
今の順天堂・・・佐倉順天堂は、堀田の招きを受けた蘭医・佐藤泰然が1843年に開いた蘭医学の塾です。
そんな蘭学を、保護して、繋がりがあり発展に尽くした人でした。

当時の人々の常識としては・・・
開国=貿易=商売は、朱子学では卑しいものとされていたので、受け入れられにくかったのです。
「武士たるものが、卑しい商売とは・・・」
どうして開国の必要があるのか?という考え方でした。

1853年6月3日浦賀沖が一変します。
4隻の巨大な黒い船が・・・
ペリー率いる艦隊・黒船の来航です。
この4隻は、73門の大砲が臨戦態勢を取りながら投了します。
空砲を撃つと、江戸が大混乱となりました。

"太平の眠りを覚ます上喜撰たった4杯で夜も眠れず"

相対するときの将軍は12代家慶。
しかし、間もなく死去。あとを継いだのは、4男うつけものの家定でした。
その家定を支えるのは、超エリートの阿部正弘。
阿部は、ペリー来航に対し、御三家・水戸斉昭を幕閣に迎え、難局を乗り切ろうとしましたが、斉昭は評判とは違い、”烈公”として、誰とでも対立して期待はずれでした。

そんな中、阿部はしぶしぶ日米和親条約を締結。英・ロとも調印させられます。
おまけに斉昭は、意にそぐわない老中2人の罷免を強要します。

この難局に能力のある者を!!
白羽の矢が立ったのが、佐倉藩主堀田正睦でした。
安政の大地震のどさくさの中、堀田に登城の連絡が来ます。

「老中首座に!!」

阿部が堀田を老中首座にしたのは、実務能力にたけていたからです。
だから、老中筆頭に置いたものの、権力を渡す気など毛頭ありませんでした。
西洋の事情をよく知っている堀田をとりあえず風よけにし、自分が幕閣を仕切るつもりだったのです。

そして、その知らせは堀田にとっても青天の霹靂でした。

「西洋諸国は、次は交易を求めてやってくる!!
 その時我が国は、清国の様に戦うのか?
 戦いに敗れて言われるままに賠償金を支払い、領土までとられるのか!!
 それだけは絶対に避けなくては!!」
堀田は、アヘン戦争を知っていたのです。

攘夷鎖国のエリート老中・阿部正弘 VS 開国論者の実務派・堀田正睦

の始まりでした。

阿部は、現状を変えるのが嫌でした。
今まで何の支障もないのに、変える必要があるのか???
あえて、改革する必要があるのか???

日本=清らかな国。
外国人=肉を食らい、血のような酒を飲む。。。
今まで上手くいっていたのに、なぜ変える必要があるのか?と、危機感のないものでした。


そして、アメリカからは、嵐を巻き起こす男がやってきました。
アメリカ行使・タウンゼント・ハリス

1854年阿部が締結した日米和親条約には・・・
アメリカの文には、どちらかの国が望めば外交官を置ける。。。と。
日本の文には、双方の国が望めば。。。となっていました。

だから、日本側にとってハリスが来たことは、青天の霹靂だったのです。

そして、堀田が開国するには数々の高い壁がありました。
今と同じで幕府も官僚社会、思いのままになるわけではなく、役人にもそれぞれの管轄があり、それ以外のことには口出しできませんでした。

諸外国の通商条約は、海防掛の担当・・・
当時は外交掛は、交易反対を取っていました。
トップは宿敵・阿部正弘。
頑なに通商を避け、鎖国を保とうとします。

こんなことをしていては、清国のようになってしまう!!
海防掛に自分の考えを浸透させ、一気に通商にもっていこうとします。
しかし海防掛は、やはり阿部の息のかかったものばかりでどうしようもなりません。

そこで、外圧を利用しようとします。
ハリスです。
しかし、ハリスも一筋縄ではいきません。
自分の利にならないことははぐらかし、通常の3倍の貨幣の交換レートをねじ込ませようとしていました。

対応した下田奉行は・・・
「憤怒募らせ候。
 趣意も通りかね候に付き
 対話相止め申し候。」
興奮して怒り狂ったと言います。

こんな強気の態度に出ることが出来たのは、もちろんバックにアメリカの艦隊がいたからです。
そして、そんなに本を英・ロも狙っていました。


しかし、反目し合っていた阿部は、病で幕閣を去ります。
阿部に代わり、ついに堀田正睦がNo,2となったのです。
自分の思うように歴史を動かし始めます。

1856年10月21日ハリスは江戸城に登城し、家定に謁見します。

堀田はハリスに手を焼きながらも条約締結に向けて歩みを進めていました。
そこに強敵・徳川斉昭が!!

条約締結については、御三家と諸大名に説明し、質疑応答し、協議を尽くさなければなりません。
その為にも、根回しは必要でした。

そんなころ、水戸ではお家騒動で斉昭が評判を落としました。
斉昭は幕府の使いに対して・・・
「備中(堀田)は腹を切らせ、ハリスは首を刎ねる!!」と、言い放ちます。

「烈公」斉昭が、条約調印に断固反対!!
これが広まったら、これまでのハリスの交渉も、諸大名への根回しも、吹っ飛んでしまう!!
頓挫してしまいます。
何かいい方法は?!

1857年1月堀田正睦は京都御所にいました。
朝廷から直々に天皇の勅許をもらうために!!

家康が徳川幕府を開いて以来、天皇の勅許は形だけのものになっていました。
事実天皇が、幕府に逆らったことは一度もありません。

理由は・・・
斉昭は、尊王攘夷を美とする水戸学の総帥・・・天皇の言葉には反対できない!!ということだったのです。
しかし、それは思わぬ方向に・・・
朝廷は、御三家・諸大名をまとめてから勅許をもらいに来いという不許可の連絡でした。

これまでの幕府は、朝廷には全て事後報告でした。
しかし、今回初めて事前に勅許だったので、政治に敏感な孝明天皇に、政治介入の野心を抱かせてしまったのです。孝明天皇は、攘夷鎖国派でした。

堀田は納得できずに粘り強く公家たちに揺さぶりをかけます。

朝廷では、天皇に決定権はない・・・
全ては、太閤・鷹司政通と関白・九条尚忠がにぎり、2人は常にケンカ争いをしていました。
今回の勅許は関白がまとめていました。

そこに絡んできたのが、将軍跡継問題です
慶喜か慶福か???
公家たちもどちらにつくか、激しい綱引きをしていました。

関白は、元々藤原氏が天皇を抑えるために作った地位なので、幕府寄り。将軍家は常に、関白の力を以てして天皇を抑えてもらっていました。
九条にたどり着いた堀田は、天皇に反目させることに成功、一度は勅許をいただけることが決まりましたが・・・
そこに下級公家の反乱が。。。
裏で糸を引いていたのは九条の政敵、太閤・鷹司でした。
権力奪取と慶喜まき返しの為、岩倉具視ら88人の公家が九条のもとに押しかけて勅許を書き換えさせます。88卿列参事件です。

勅許は一夜にして差し戻し不許可。
堀田の最善のアイデアは最悪な結果に・・・

その最大の理由は、この時代が関白と対抗・・・二大勢力時代だったことがあげられます。

勅許に失敗した堀田に、
「苦労をかける。」
と、将軍からの手紙が届きます。

「上様に信頼してもらえれば大丈夫」
と、条約締結に向けて邁進します。

次なる一手は将軍お世継ぎ問題を利用して、斉昭を味方につけること。
慶喜と慶福ですが・・・。
慶喜は実は斉昭の7男でした。
将軍職をエサに、黙らせようとします。
そこで、松平越前守慶永を将軍補佐役にしようとします。

家定は、「さようせい」・・・
とは言わずに、井伊を大老に任じてしまいました。
家定は、紀州・慶福を推していたのです。
家定、本当はうつけものではなく冷静だったようです。

そして、将軍職跡継ぎ問題に対して一度も相談がないことを理由に遠ざけるようになりました。

No,1の家定をおろそかにしていた堀田、気づいたときはすでに時遅し。。。
No,2の座から転げ落ちます。

堀田にしては、自分の行っていることが正しいから、将軍も支持してくれるだろう!と、思っていたのでした。
まさか、足元をすくわれるとは思っていませんでした。

井伊が大老となっても、堀田が老中首座を持することはありませんでした。
在任中に条約締結を!!

1858年6月15日神奈川県小柴沖・・・
日米修好通商条約は、御三家・天皇の勅許ももらえないまま、井伊の独断で締結されてしまいます。

翌日堀田は罷免。

そして、歴史書に、最も開国と向き合った、この堀田正睦の名はありません。。。


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