THE ナンバー2、ヒストリーチャンネルでなんか再放送?をやってくれています。
私が見だす前の人たちをやってくれています。
そうなのよね・・・
初めにやってくれる人の方が、有名どころです。
穴埋めできれば嬉しいです。
1598年5月病に伏した豊臣秀吉が、一人の男を枕元に呼びました。
前田利家、加賀100万石の領主です。
秀吉は苦しい息の中・・・
「私が万一の時は、秀頼をお頼み申す。
秀頼をわが子と思って助けてくだされ。
お頼み申す・・・」
そういうと、利家が頷くのを確かめるように8月その生涯の幕を閉じました。
1599年元旦新年のあいさつの為に伏見城に集まりました。
大広間に集められた大名の筆頭は徳川家康、ようやく自分に回ってきたかもしれない順番・・・
秀頼がやってきましたが・・・その秀頼を抱いていたのは利家でした。
大名たちがひれ伏しているのは秀頼ですが、どこをどう見ても利家にひれ伏しているようです。
しかし、前田利家は、天下に律義者として知られていました。天下を取る野望があるなどとは思われなかったのです。
家康は苦虫をかみつぶしていたようです。この男がNo,2にいる限り自分の天下はない!!
この律義者が最も恐るべき男だったのです。
戦国時代の利家の立ち位置は・・・
準主役、豊臣政権のNo,2が利家でした。
利家と秀吉・・・
秀吉はフリーターからアルバイト・・・契約社員から正社員となった人で、利家は子会社の社長の息子・・・そして、若社長(信長)にも気に入られていた。それくらい立場が違いました。
しかし、美濃併合し、信長が天下布武に乗り出した頃、屋敷が近所になります。
普通は、成り上がりの秀吉と付き合うのを嫌がったようですが、利家は傾奇者。異風を好み、派手な身なりをするなどの常識を逸脱していたので、お構いなしでした。
槍の又左と呼ばれ、派手好み、男伊達でした。
石川県金沢市に居城・金沢城があります。
此処には戦国を生き抜いてきた利家の様々な工夫があります。
なまこ壁・・・これは、装飾性や耐湿性優れているだけではなく、鉄砲狭間があり、壁の内側から瓦を外すことが出来ました。
屋根にも工夫が・・・鉛瓦。普通の瓦に見えますが、積雪に耐えるように木で作り、周りを鉛で覆っているのです。
そして・・・籠城の際には、この鉛を溶かして鉄砲の弾にすることが出来ました。
もともとは、尾張の国に生まれた前田利家。
14歳で織田信長の小姓となって侍人生が始まります。
この利家、信長と男色の関係にあったと言われています。
当時は合戦に女性は連れていけない・・・とか、寝所を襲われたときにボディーガード・・・楯になってくれるとか・・・もっとも頼りになる男の1人だったようです。
おまけに長身で美男子。
背中に母衣を纏った利家。
若いころの利家は・・・傾奇者でした。
かなり仰々しい姿で町を歩いていたようです。
普通を飛び越えたことをしよう・・・という気持ちが異形を好んだようです。
信長も、「肝に毛が生えた男」と褒めています。
21歳の利家は、結婚をしました。
相手は9歳年下の松。
松は腹の座った女性で、教養も、優しさもあったようです。
そんな利家を奈落の底に落としたのが・・・笄(こうがい)。
おしゃれな武士が刀に差していた櫛のことですが・・・
拾阿弥手打ち事件勃発・・・
信長の茶坊主・拾阿弥が利家の笄を盗んで咎められたのです。
拾阿弥は、表向きは誤ったものの裏では。。。
「盗られるのは、本人にも隙のある証拠・・・」と、陰口をたたきます。
怒った利家は、拾阿弥を斬ると息巻いているのを聞きつけた信長が間に入り、今回だけは許してやれと言われ一度は矛を納めます。が、
周りの者から、武士が一度言い出したことをやめるのか?と、嘲笑されたため、信長の見ているまでで手打ちにしてしまいました。
激怒した信長は、利家を手打ちにしようとしますが、柴田勝家が間に入りことは治まりますが、織田家を追放されてしまいます。
この事件以来、柴田勝家を親父様と呼ぶようになり、織田家に戻るチャンスを伺います。
柴田勝家は男気があり、織田を支え、義を持って最後まで守ろうとした人物です。
そんな勝家が、利家を支えます。
そしてチャンスが到来・・・
1560年桶狭間の戦いです。
織田軍3000、今川義元2万・・・織田軍は、奇襲をかける為、桶狭間に向かいます。
その知らせを聞いた利家は、自ら参陣します。
陣借りです。陣借りとは、戦の際に正規軍でない勢力が自分の意志で駆けつけて参加すること。。。
桶狭間では、命を惜しまず・・・3人の首を取りました。
信長にとっては律儀な家臣と映り・・・許されたのです。
この間2年、この時の苦労が、利家をまともな人間に引き戻しました。
戻ってきた利家に運命の出会いが・・・
その男が、利家がNo,2として仕えることとなる豊臣秀吉です。
垣根越しに秀吉の家が見えました。
天下統一に向けて、八面六臂の活躍をする織田軍団。
秀吉、利家も各地を転戦します。
そして天正十年・・・二人の運命を揺るがす事件が・・・!!
天正十年(1582年)本能寺の変。
その時秀吉は、備中高松で毛利輝元と戦、利家は勝家の下で北陸を平定する為魚津城を攻めていました。
秀吉は本能寺の変を知ると、すぐに毛利と和睦を結び京都に帰ってきました。
そして・・・山崎の合戦で光秀を打ち破ると、信長の後継者として名乗りを上げました。
これを快く思っていなかったのが柴田勝家。
1583年この勝家と秀吉の間で賤ヶ岳の戦いが勃発。
前田利家は、勝家の部隊として賤ヶ岳に来ていました。
悩んでいました。どちらにつこうかと・・・
この時の利家の立ち位置は、府中三人衆。勝家の配下として付けられた三人(利家・佐々成政・不破光治)の与力の1人でした。
恩人の柴田勝家・・・
三女は勝家のところに人質に。
友人の秀吉・・・
秀吉のところには自分の四女が養女に行っていました。
利家の心は激しく揺れ動き。。。
いよいよ決戦のときが近付きます。
まだ迷っている利家。
家臣団の生活も背負っています。
義だけでは動けない状況にありました。
そんなときに秀吉から手紙が・・・
「明日の合戦では勝家を裏切ってもらいたいが、
おぬしの性格ではそれは出来まい。
せめて明日の戦には加わらず
中立を守ってもらいたい」
そこには利家の性格をよく知る秀吉らしい文面がありました。
1583年4月20日賤ヶ岳の戦い。
戦いは、勝家軍が勢いがありましたが、秀吉軍が盛り返し・・・
翌日未明、戦いは突然終わります。
それが・・・利家の陣地を引き払ったことでした。
このことが、勝家軍にパニックを起こし、戦場を逃げ出すものが続出・・・負けてしまったのです。
それは、やむに已まれぬ行動だったのかもしれません。
その後、数人の共を連れて利家の城にやってきた勝家。
それを見た利家の家臣が・・・
「柴田殿を討ち取り、秀吉殿に差し出せば手柄になります」
と言ったところ・・・
「「武士の作法を知らぬのか!!」
と叱りつけ、勝家を城に招き入れました。
「私はここで秀吉軍を防ぎますから
貴方は自分の城に戻り、再起を図ってください。」
と言って、新しい馬を差し出しました。
すると勝家は・・・
「貴方は秀吉と昵懇であるから
今後は私に対する義理を棄て家の安泰を図りなさい。」
と言い残し、去っていったとか・・・。
翌日、秀吉が一人でやってきます。
利家は・・・門を開けて招き入れます。
勝家に義理を立てた利家は・・・
「腹を切るので暫く待ってくれ」
秀吉は、
「私はおぬしを殺すつもりでここに来たのではない。
敵味方に分かれるのは武士の習い
おぬしに恨みはない」
そして松に・・・
「腹が減ったので、冷や飯を一膳もらいたい」
と、頼みました。
この瞬間、利家は秀吉につくことに決めたのでした。
計算づくで行動するのではない心意気で生きる利家。
秀吉の為に労を惜しまず働きます。
北条氏政を倒した秀吉は、ついに天下を統一。
これらの戦いが終わったとき、信長の家来で秀吉のライバルとなるべき有力大名はほとんどいなくなっていました。
が・・・利家は、加賀100万石の大名となっていました。
その利家が、秀吉のNo,2となります。
加賀100万石には数々の伝統工芸がありますが、この芸術を受け入れ保護したのが利家です。単なる武人ではなく、多くの人から尊敬される教養を身につ行けていたのです。
利家は、人生のうち30以上の戦いに参加していますが、自ら仕掛けた戦いは殆どなく、天下統一で平和の来たことを喜んでいました。
が・・・秀吉が朝鮮出兵に乗り出します。
この無益な戦いが長引くにつれて、朝鮮に出兵した大名と国内の大名との間に亀裂が入ります。不穏な気配が・・・
1598年5月秀吉が病に倒れます。
死期を悟った秀吉は五大老を呼びます。
幼い秀頼の行く末を案じてのことです。
五大老の中でも一番信頼していたのが利家。。。
「利家殿 人は大勢いるが、真の友人はお主だけだ
私が万一の時には 秀頼をお頼み申す
秀頼をわが子と思って助けてくだされ
お頼み申す」
この瞬間、利家は秀吉に最も信頼されるNo,2となったのです。
8月18日62歳で秀吉はこの世を去ります。
秀吉が亡くなると、家康はそんな約束はなかったかのように裏工作をします。
そして、天下をその手中に納めようとします。
怒った利家は、家康のもとに乗り込みます。
すでに利家は、病に侵されていました。。。
家康と刺し違えよう・・・???
自分が殺された場合、家康に大義はなくなり、豊臣の大名たちが立ち上がるだろうと思ってのことでした。
秀吉との約束を守ろうとしたのです。
まさにNo,2だったのです。
利家が生きている間・・・家康は動けませんでした。
合戦では勝てても、利家の人望には勝てなかったのです。
病床に伏した利家に松は、魔よけの守・鍾馗(しょうき)の陣羽織を縫います。
「若いころから多くの人を殺した罪で地獄に行かぬようにこれを着てください。」
と言ったところ、利家は、
「多くの人を殺したが、訳なく殺したことはない。
だから、地獄にはいかない」
と、着るのを断ったそうです。
「私の行く先より気になるのは、
秀頼公の行く末だ・・・
あと7年・・・せめて5年あれば
秀頼公が天下を治める姿を見ることが出来るのだが・・・」
慶長4年閏3月3日、前田利家は、62歳の生涯を閉じました。
それを待っていたかのように、家康は翌年に関ヶ原の戦いを起こします。
念願の天下を掌中に納めるのです。
前田利家・・・大きなNo,2を失った豊臣政権は、大坂の陣で滅亡するのです。
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前田利家、加賀100万石の領主です。
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秀頼がやってきましたが・・・その秀頼を抱いていたのは利家でした。
大名たちがひれ伏しているのは秀頼ですが、どこをどう見ても利家にひれ伏しているようです。
しかし、前田利家は、天下に律義者として知られていました。天下を取る野望があるなどとは思われなかったのです。
家康は苦虫をかみつぶしていたようです。この男がNo,2にいる限り自分の天下はない!!
この律義者が最も恐るべき男だったのです。
戦国時代の利家の立ち位置は・・・
準主役、豊臣政権のNo,2が利家でした。
利家と秀吉・・・
秀吉はフリーターからアルバイト・・・契約社員から正社員となった人で、利家は子会社の社長の息子・・・そして、若社長(信長)にも気に入られていた。それくらい立場が違いました。
しかし、美濃併合し、信長が天下布武に乗り出した頃、屋敷が近所になります。
普通は、成り上がりの秀吉と付き合うのを嫌がったようですが、利家は傾奇者。異風を好み、派手な身なりをするなどの常識を逸脱していたので、お構いなしでした。
槍の又左と呼ばれ、派手好み、男伊達でした。
石川県金沢市に居城・金沢城があります。
此処には戦国を生き抜いてきた利家の様々な工夫があります。
なまこ壁・・・これは、装飾性や耐湿性優れているだけではなく、鉄砲狭間があり、壁の内側から瓦を外すことが出来ました。
屋根にも工夫が・・・鉛瓦。普通の瓦に見えますが、積雪に耐えるように木で作り、周りを鉛で覆っているのです。
そして・・・籠城の際には、この鉛を溶かして鉄砲の弾にすることが出来ました。
もともとは、尾張の国に生まれた前田利家。
14歳で織田信長の小姓となって侍人生が始まります。
この利家、信長と男色の関係にあったと言われています。
当時は合戦に女性は連れていけない・・・とか、寝所を襲われたときにボディーガード・・・楯になってくれるとか・・・もっとも頼りになる男の1人だったようです。
おまけに長身で美男子。
背中に母衣を纏った利家。
若いころの利家は・・・傾奇者でした。
かなり仰々しい姿で町を歩いていたようです。
普通を飛び越えたことをしよう・・・という気持ちが異形を好んだようです。
信長も、「肝に毛が生えた男」と褒めています。
21歳の利家は、結婚をしました。
相手は9歳年下の松。
松は腹の座った女性で、教養も、優しさもあったようです。
そんな利家を奈落の底に落としたのが・・・笄(こうがい)。
おしゃれな武士が刀に差していた櫛のことですが・・・
拾阿弥手打ち事件勃発・・・
信長の茶坊主・拾阿弥が利家の笄を盗んで咎められたのです。
拾阿弥は、表向きは誤ったものの裏では。。。
「盗られるのは、本人にも隙のある証拠・・・」と、陰口をたたきます。
怒った利家は、拾阿弥を斬ると息巻いているのを聞きつけた信長が間に入り、今回だけは許してやれと言われ一度は矛を納めます。が、
周りの者から、武士が一度言い出したことをやめるのか?と、嘲笑されたため、信長の見ているまでで手打ちにしてしまいました。
激怒した信長は、利家を手打ちにしようとしますが、柴田勝家が間に入りことは治まりますが、織田家を追放されてしまいます。
この事件以来、柴田勝家を親父様と呼ぶようになり、織田家に戻るチャンスを伺います。
柴田勝家は男気があり、織田を支え、義を持って最後まで守ろうとした人物です。
そんな勝家が、利家を支えます。
そしてチャンスが到来・・・
1560年桶狭間の戦いです。
織田軍3000、今川義元2万・・・織田軍は、奇襲をかける為、桶狭間に向かいます。
その知らせを聞いた利家は、自ら参陣します。
陣借りです。陣借りとは、戦の際に正規軍でない勢力が自分の意志で駆けつけて参加すること。。。
桶狭間では、命を惜しまず・・・3人の首を取りました。
信長にとっては律儀な家臣と映り・・・許されたのです。
この間2年、この時の苦労が、利家をまともな人間に引き戻しました。
戻ってきた利家に運命の出会いが・・・
その男が、利家がNo,2として仕えることとなる豊臣秀吉です。
垣根越しに秀吉の家が見えました。
天下統一に向けて、八面六臂の活躍をする織田軍団。
秀吉、利家も各地を転戦します。
そして天正十年・・・二人の運命を揺るがす事件が・・・!!
天正十年(1582年)本能寺の変。
その時秀吉は、備中高松で毛利輝元と戦、利家は勝家の下で北陸を平定する為魚津城を攻めていました。
秀吉は本能寺の変を知ると、すぐに毛利と和睦を結び京都に帰ってきました。
そして・・・山崎の合戦で光秀を打ち破ると、信長の後継者として名乗りを上げました。
これを快く思っていなかったのが柴田勝家。
1583年この勝家と秀吉の間で賤ヶ岳の戦いが勃発。
前田利家は、勝家の部隊として賤ヶ岳に来ていました。
悩んでいました。どちらにつこうかと・・・
この時の利家の立ち位置は、府中三人衆。勝家の配下として付けられた三人(利家・佐々成政・不破光治)の与力の1人でした。
恩人の柴田勝家・・・
三女は勝家のところに人質に。
友人の秀吉・・・
秀吉のところには自分の四女が養女に行っていました。
利家の心は激しく揺れ動き。。。
いよいよ決戦のときが近付きます。
まだ迷っている利家。
家臣団の生活も背負っています。
義だけでは動けない状況にありました。
そんなときに秀吉から手紙が・・・
「明日の合戦では勝家を裏切ってもらいたいが、
おぬしの性格ではそれは出来まい。
せめて明日の戦には加わらず
中立を守ってもらいたい」
そこには利家の性格をよく知る秀吉らしい文面がありました。
1583年4月20日賤ヶ岳の戦い。
戦いは、勝家軍が勢いがありましたが、秀吉軍が盛り返し・・・
翌日未明、戦いは突然終わります。
それが・・・利家の陣地を引き払ったことでした。
このことが、勝家軍にパニックを起こし、戦場を逃げ出すものが続出・・・負けてしまったのです。
それは、やむに已まれぬ行動だったのかもしれません。
その後、数人の共を連れて利家の城にやってきた勝家。
それを見た利家の家臣が・・・
「柴田殿を討ち取り、秀吉殿に差し出せば手柄になります」
と言ったところ・・・
「「武士の作法を知らぬのか!!」
と叱りつけ、勝家を城に招き入れました。
「私はここで秀吉軍を防ぎますから
貴方は自分の城に戻り、再起を図ってください。」
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すると勝家は・・・
「貴方は秀吉と昵懇であるから
今後は私に対する義理を棄て家の安泰を図りなさい。」
と言い残し、去っていったとか・・・。
翌日、秀吉が一人でやってきます。
利家は・・・門を開けて招き入れます。
勝家に義理を立てた利家は・・・
「腹を切るので暫く待ってくれ」
秀吉は、
「私はおぬしを殺すつもりでここに来たのではない。
敵味方に分かれるのは武士の習い
おぬしに恨みはない」
そして松に・・・
「腹が減ったので、冷や飯を一膳もらいたい」
と、頼みました。
この瞬間、利家は秀吉につくことに決めたのでした。
計算づくで行動するのではない心意気で生きる利家。
秀吉の為に労を惜しまず働きます。
北条氏政を倒した秀吉は、ついに天下を統一。
これらの戦いが終わったとき、信長の家来で秀吉のライバルとなるべき有力大名はほとんどいなくなっていました。
が・・・利家は、加賀100万石の大名となっていました。
その利家が、秀吉のNo,2となります。
加賀100万石には数々の伝統工芸がありますが、この芸術を受け入れ保護したのが利家です。単なる武人ではなく、多くの人から尊敬される教養を身につ行けていたのです。
利家は、人生のうち30以上の戦いに参加していますが、自ら仕掛けた戦いは殆どなく、天下統一で平和の来たことを喜んでいました。
が・・・秀吉が朝鮮出兵に乗り出します。
この無益な戦いが長引くにつれて、朝鮮に出兵した大名と国内の大名との間に亀裂が入ります。不穏な気配が・・・
1598年5月秀吉が病に倒れます。
死期を悟った秀吉は五大老を呼びます。
幼い秀頼の行く末を案じてのことです。
五大老の中でも一番信頼していたのが利家。。。
「利家殿 人は大勢いるが、真の友人はお主だけだ
私が万一の時には 秀頼をお頼み申す
秀頼をわが子と思って助けてくだされ
お頼み申す」
この瞬間、利家は秀吉に最も信頼されるNo,2となったのです。
8月18日62歳で秀吉はこの世を去ります。
秀吉が亡くなると、家康はそんな約束はなかったかのように裏工作をします。
そして、天下をその手中に納めようとします。
怒った利家は、家康のもとに乗り込みます。
すでに利家は、病に侵されていました。。。
家康と刺し違えよう・・・???
自分が殺された場合、家康に大義はなくなり、豊臣の大名たちが立ち上がるだろうと思ってのことでした。
秀吉との約束を守ろうとしたのです。
まさにNo,2だったのです。
利家が生きている間・・・家康は動けませんでした。
合戦では勝てても、利家の人望には勝てなかったのです。
病床に伏した利家に松は、魔よけの守・鍾馗(しょうき)の陣羽織を縫います。
「若いころから多くの人を殺した罪で地獄に行かぬようにこれを着てください。」
と言ったところ、利家は、
「多くの人を殺したが、訳なく殺したことはない。
だから、地獄にはいかない」
と、着るのを断ったそうです。
「私の行く先より気になるのは、
秀頼公の行く末だ・・・
あと7年・・・せめて5年あれば
秀頼公が天下を治める姿を見ることが出来るのだが・・・」
慶長4年閏3月3日、前田利家は、62歳の生涯を閉じました。
それを待っていたかのように、家康は翌年に関ヶ原の戦いを起こします。
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