日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: 戦国の豆知識

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 小西行長・・・1555年、豪商の次男として生まれました。小さい頃から教会で、キリシタンの教義を学んだと言われています。
備前・宇喜多家に仕えていましたが、豊臣秀吉が織田軍中国方面司令官として備前に攻めてきたので・・・秀吉に属するようになりました。

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秀吉に重用された行長・・・
1582年ごろには、物資の海上輸送について、責任のある立場にあったようです。
ぐんぐんと秀吉の信頼を勝ち取って・・・船奉行として水軍を率いるまでになりました。


文禄・慶長の役では、行長は秀でた統率力を示します。
第1軍の司令官として、1万の軍勢を率いて先鋒に立ちます。
計算もでき・・・部下からの信頼も厚かったようです。


しかし、キリシタンのため、戦いを好む性格ではなかったようで、講和を好み、極力犠牲者を出さない様に・・・日本軍の侵攻ルートを敵に知らせたり、女子供を逃がしたりしています。

関ケ原の合戦では、西軍の主力として6000の兵を与えられ戦いましたが、西軍が敗退。。。
行長は、伊吹山中で村人に捕えられ、家康側に引き渡されたのでした。


その村人は、関ヶ原の庄屋・林蔵主。
近くの山中で、落人に声をかけられた林蔵主・・・
その落人は小西摂津守と名乗ります。
「内府(家康)のもとに連れて行き、褒美をとれ」と言われます。
「とんでもない!!」
と、早く逃げるようにすすめると・・・

「自害するのはたやすいことだか、われはキリシタンである。
 キリシタンの法では、自害は禁じられているのだ。」by行長

やり取りの末に、林蔵主は説き伏せられ・・・やむを得ずその落人・小西行長をとらえ、自宅に隠しました。
その後、関ケ原領主の竹中重門(あ・・・半兵衛の息子ね。)の家老に事情を話し、ともに行長を護衛して、家康の陣営である草津の村越茂助の元へ連れて行きました。
茂助は行長に縄をかけ、林蔵主に金10両を与えたと言います。


行長が捕らえられた2日後に三成が,その翌日には安国寺恵瓊が捕らえられます。
3人は9月29日に大坂および堺の町を引き廻され,10月1日,京都の六条河原にて処刑された後,首は三条河原で晒されました。


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 山中鹿之助・・・今大河でやっている”軍師官兵衛”では、別所哲也さんがやっていました。
もっとカッコよく、話を膨らませて欲しかったなあ・・・なんて、物足りなさを感じながら。。。

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尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月祈った逸話は有名です。

その山中鹿之助・・・
「尼子十勇士」を集めた智将・山中鹿之介幸盛。
山陰、山陽で「11州の太守」と言われていた尼子氏が、毛利元就に滅ぼされ・・・
再興をかけて十勇士と共に、何度も毛利氏を攻め立てた男です。

尼子氏が滅ぼされたのは、鹿之介が21歳の時。。。
降伏した尼子義久に、元就は切腹を許さず・・・兄弟共々、安芸に幽閉してしまいました。

山伏姿となり、各地を歩き、十勇士を集めた鹿之介・・・
しかし、再興のためには旗印・・・尼子の血を引いた殿が必要だと考えるようになります。
そこで以前、内紛の時に京都に預けられていて僧侶となっていた・・・全盛期の当主・尼子経久の次男の孫を説き伏せ、当時17歳だった彼に尼子孫四郎勝久を名乗らせるのでした。

勝久を当主とし、200の兵を率いて但馬に渡った鹿之介・・・
この地で海賊・奈佐(なこ)日本之介などの見方を得、出雲に上陸しましたが、この時の兵力は6000人を超えていました。

その時・・・尼子のかつての居城月山富田城には300の兵しかいなかったので、毛利方は降伏を願い出ます。

遂にお家再興が・・・!!

と思ったものの・・・謀略長けた毛利の家臣が鹿之介に斬りかかります。
鹿之介は、命からがら逃げのびて、奪還計画は失敗に終わったのです。


でも・・・へこたれません。
次は、毛利と戦っている九州の大友宗麟と結んで挟み撃ちにする作戦に出ます。
この時も、わずか6000の尼子軍は1万5000の毛利軍に敗れてしまいました。
吉川元春に捕えられた鹿之介は、赤痢にかかったと言って何度も厠へ・・・その隙をついて逃げ出したのでした。
その2年後にも挙兵しましたが、やはり失敗してしまいます。

これまで鹿之介を援助してきたのは、毛利と敵対していた織田信長。
毛利を羽柴秀吉に攻めさせたとき、上月城に尼子軍を2300の兵と共に戦わせました。
毛利3万の大軍が上月城に!!

このままでは攻め落とされる!!と、信長に訴える秀吉。。。
しかし、共倒れになることを怖れた信長は、上月城を見放したのです。

鹿之介はまたもや破れてしまいました。

毛利は、勝久が切腹すれば、ほかの者は助けると言うので、26歳の勝久は自害。。。
敵の吉川元春に一太刀浴びせてから後を追う!!と、約束した鹿之助も、安芸に護送される途中で斬りつけられ・・・思いを遂げぬまま34歳でこの世を去りました。

この鹿之介。長男は新六幸元。
1570年生まれの幸元は、山中氏の一族、黒田幸隆の養子でした。
秀吉の攻撃で黒田城が陥落すると摂津国伊丹近くの鴻池村に移り、武士を捨て・・・
商人になることを決意します。
名も鴻池新右衛門直文と改めました。

鴻池では濁酒造りが盛んで。。。
しかし、苦労の末、芳醇な清酒造りに成功します。

この清酒造りに関しては、新右衛門を恨んでいた下男が、腹いせに酒に灰を投げ込んで出来た・・・という伝説まであります。

この清酒を江戸に運んで・・・評判となります。
その後、酒造りを辞め、運送業が主となります。
さらに両替商となった鴻池は、大坂一の豪商となり、やがて銀行業を始めます。
それが三和銀行・・・現在の三菱東京UFJ銀行なのです。

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小早川秀秋・・・彼は、豊臣秀吉の正室・おねの甥で、幼い頃養子となりました。
10歳で丹波国亀山城10万石を与えられ・・・その後秀吉に実子・秀頼が生まれたので小早川隆景の養子に出され、その後継者となりました。

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出されたとはいえ、秀吉は秀秋をかわいがり、筑前国名島36万石の大名にしています。

慶長の役では、総大将として渡航。
しかし、この時戦略を巡って石田三成と対立し、軽挙に出てしまいました。
秀吉はこの事を怒り、秀秋を処罰しようとします。


が・・・家康がその場をとりなし秀秋を助けたのです。
そう・・・家康が恩を売ったのでした。

慶長5年7月、秀秋は西軍に属し、家康軍の武将・鳥居元忠らが守る山城国伏見城を攻撃します。
その一方で、秀秋は密使を送って家康側と通じ、伏見落城後は病気療養を理由にして、近江国高宮に陣を置いたのです。

9月14日、秀秋のもとに書状が届けられました。秀頼が15歳になるまで秀秋に関白職を委ねたい。。。
播磨国を加増するなどの条件を記した誓約書です。
三成と小西行長の連名で、秀秋に再度出馬を申し入れたのです。

拒否し続ければ、西軍に包囲されるかも???

秀秋はこの要請を承諾してしまいました。
再び家康と内通し、戦が始まれば東軍に寝返ると・・・内応していました。


9月15日、関ヶ原の決戦の火蓋が切られました。
東西両軍は攻防を重ねます。。。が・・・
正午近くになっても小早川軍は日和見を続け・・・行動を起こす気配が全くなし!!
そこで、西軍は狼煙をあげて秀秋に戦闘への参加を促します。

「あの小倅に謀られたか・・・??
 金吾の陣に向け、鉄砲を撃て!!」

と、命じました。
金吾???金吾とは、秀秋の通称で・・・「金吾中納言」から来た呼び名です。

その銃撃で秀秋は意を決し、正午過ぎ、小早川軍1万5000余りは東軍に寝返り、家康を勝利に導いたのです。

秀秋は戦功の恩賞として、備前岡山城主となったのです。
しかし、わずか1年でその生活も終わりを迎えることとなります。

諫言した家老・杉原紀伊守を殺すなどの乱行ぶりが伝えられ、さらに国政が乱れていきます。

家老の稲葉正成、平岡頼勝らも秀秋を見限って出て行ってしまいました。

若くして大封を与えられたプレッシャーから、関ケ原の合戦における自らの行動に対する悔恨からか、さまざまな要因も絡みノイローゼ気味に。。。

頼れるべき家臣もおらず、それも災いし。。。
関ケ原の合戦からわずか2年後、秀秋は21歳という若さで病死しました。

世間からは、裏切り者のレッテルを張られた哀れな最期でした。
なお・・・小早川家は子供が居なかったために断絶となっています。

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 土佐24万石の大名、長宗我部元親と織田信長は、もともと親交がありました。
しかし、土佐を平定した元親が伊予、阿波、讃岐・・・四国全土に勢力を拡大しようとしたので、仲がこじれてきました。

元親にとっては悲願の四国統一だったのですが、信長は・・・元親には土佐と阿波南、三好康長に阿波北と讃岐を与えようとしていたのです。
元親はこれを拒否っちゃいました。

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そこで信長は、1582年5月上旬に康長を先鋒として阿波勝瑞城に送り込みました。
さらに・・・元親討伐は本格化。
三男信孝を大将として丹羽長秀・織田信澄・蜂屋頼隆らの大軍を送り込む計画を立てます。
そして・・・いざ!!という時に、本能寺の変が起こったのです。
そう、その6月2日に四国に渡海する手筈になっていたのでした。

康長に知らせが届いたのは、6月3日。
知らせを聞くと、すぐに対処した康長。
攻めてこない信孝の大軍。。。

元親は、本能寺の変のことを境の上之坊という者から聞いたとか・・・。

信長の死を聞いた元親の長男・信親は、康長に奪い取られた城を取り戻すために出陣しようとしました。
が・・・元親はそれを止めています。
信長の後ろ盾のない三好は、恐るるに足らずというところなのでしょう。

その後元親は、綿密に計画を練り、8月27日大軍を阿波に派遣し、三好勢の総帥・十河存保と戦い、翌日破っています。
9月には勝瑞城を落として阿波を平定し、讃岐へと侵攻するのでした。

中央では・・・信長を討った明智光秀を羽柴秀吉が破り天下を取りました。
そして織田信孝と柴田勝家、織田信雄と徳川家康が対立。
勝家と家康は、秀吉を背後から攻めさせるために元親を味方に引き入れます。
一方、秀吉は、仙石秀久を淡路に帰し、元親に備えます。
1583年元親は秀久を破り、淡路の洲本城も手に入れたのです。

しかし同時期、勝家が賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れていたので、秀吉包囲網はもろくも崩れ・・・元親も洲本城を手放すことになるのです。

小牧・長久手の戦いで、秀吉に打撃を与えました。
徳川陣営に引き入れられた元親は、1584年6月に十河城を陥落させ、讃岐を制圧します。翌年には河野氏も下し、伊予も制圧・・・。
元親は中国統一を果たします。

しかし、その年のうちに羽柴秀長を将とする征討軍を受けて降伏。。。再び土佐一国に押し込められてしまったのでした。

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織田信長に仕えた大物家臣といえば・・・
柴田勝家と丹羽長秀です。
秀吉が姓を名乗るときに、この2人にあやかって、”羽柴”秀吉と名乗ったのは有名な話。

信長が、浅井長政を討ち滅ぼした時、朝廷の許可のもと部下たちに官位を与えました。
秀吉は”筑前守”、明智光秀は”日向守”、勝家は修理亮、滝川一益は”左近将監”、荒木村重が”摂津守”で・・・
長秀には越前守を与えようとしました。
すると・・・長秀は、今までどおりでいいと言い張って、さすがの信長も折れる他なかったとか・・・。
長秀は、忠実であったものの融通の利かない頑固者でした。

織田家臣のなかでの出世頭はもちろん”秀吉”。
勝家はそれを快く思わず敵意むき出しのバチバチ状態でしたが、長秀は秀吉を庇う立場をとります。
なので、信長の死後も、長秀は秀吉に味方しています。


1582年6月の本能寺の変後、秀吉は信長の敵・光秀を討つべく中国大返し!!
同じころ、四国征伐に備えて摂津・住吉の浦にいた長秀は、途中で秀吉軍と合流しています。

清州会議も、秀吉と勝家の権力争いの場になりましたが、長秀は秀吉と同じく信長の嫡孫・三法師を推しています。

でも・・・秀吉が賤ヶ岳の戦いで勝家を破ってから、丹羽家に陰りが見え始めました。
天下をとった秀吉に・・・下僚だった秀吉に臣従しなければならなくなったのです。
さらに・・・秀吉は、信長の三男・信孝を自害させ、小牧の戦いでは次男・信雄を攻撃しました。

怒った長秀は、越前府中の居城に籠もり、秀吉の招きに応じなくなります。
長秀にとっては織田家は主家。。。その主家の子供を次々と手にかけ、天下取りに突き進む秀吉に我慢ならなかったのです。

そのうち長秀は、持病が悪化し床に臥せるようになりますが。。。
1585年4月に突然病床で自害します。
勝家のように秀吉と戦うこともできず、前田利家のように従うこともできず・・・
自害は長秀の最大の抵抗だったのでしょう。

長秀は、腹を切り開き病巣を抉り出し・・・
握りこぶし大だったその病根を遺書と共に秀吉に送らせたと言われています。
秀吉も腰を抜かしたことでしょう。

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