日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:お市

1573年9月・・・戦国最強と謳われた巨大山城が落城しました。
城の名は小谷城・・・城主・浅井長政は、織田信長の妹・お市を妻にして、信長と同盟関係を結んでいました。
小谷城を落としたのは、身内のはずの信長でした。
長政の裏切りをきっかけに、血で血を洗う戦いが始まったのです。
しかし、城の守りは固く、落城までは3年の月日が必要でした。
小谷城を信長はこう評しています。

”高く険しい要害の地、攻め上がること困難なり”

小谷城とはどのような山城だったのでしょうか?
織田信長が、天下統一への第一歩となった小谷城落城・・・この攻防が現代に残す教訓とは・・・??

滋賀県北東部の長浜市・・・琵琶湖を見下ろす山に、巨大な山城・小谷城がありました。
標高495m・・・今は木々に覆われた山は、かつて巨大な山城として近江国にそびえたっていました。
自然の地形を生かしながら、巨大な要塞として構築された小谷城です。

曲輪には兵を配置し、尾根筋を進んでくる敵を鉄砲や弓矢で攻撃する拠点となります。
曲輪の外側には、敵の攻撃を防ぐ工夫があります。
切岸です。
急斜面を作り、下からの敵の侵入を防いでいるのです。

尾根沿いの道は、曲輪に横を過ぎると曲がっています。
これも側面から敵を倒す工夫です。
何の変哲もない山道も、綿密に設計された敵を倒す防御システムだったのです。

尾根沿いの道を避け、斜面から攻めようとすると・・・竪堀があります。
竪堀を掘っておくことで、敵が山の斜面を横移動して城内の中心部に入ることを防ぐ防御施設です。
竪堀の先は、数多くの曲輪があり、敵を皆殺しにするためのワナです。
竪堀に足止めされたところを曲輪から攻撃されます。
斜面からは攻め込めません。

本丸を目指す・・・その先には、今まで以上に強力な曲輪が待ち構えていました。
防御のための土塁を全周回していています。
鉄砲を撃ちかけることもできます。
仮に銃撃をかいくぐることができても、その先に侵入することも難しい・・・
見事な守りの城です。

本丸の出入り口・・・
石段の上には見事な黒鉄門という鉄ばりの城門がありました。
門の中には、小谷城最大の曲輪がありました。
大広間といい、幅35m、奥行き85mあります。
政治の中心地でした。
城主・長政が暮らしたこの空間からは、壺や皿などの日常生活や宴会に使用されたとみられる遺物が3万点以上発見されています。
大広間と本丸の背後には、尾根を断ち切った深さ9mの大堀切が作られています。

大堀切の奥には、城主・浅井長政の大切な人が暮らす曲輪が連なっています。
地元北近江の守護だった京極氏を住まわせる京極丸、長政の父・久正が入る小丸、本丸よりも高いところに置かれています。
しかし、小谷城はまだまだあります。
そこから急な坂道を登る事50分・・・
標高495mの山頂に、巨大な防衛陣地が作られていました。
大嶽城です。

たどり着くことさえ困難な山頂に、三重の土塁が張り巡らされています。
小谷城を背後から攻撃しようとする敵に備えたものだと考えられます。
さらに、大嶽城から南にのびる尾根筋にも、砦がいくつも配置され、西側からの攻撃に備えていました。
小谷城は、あらゆる方向からの敵に備えた難攻不落の要塞でした。
南国屈指の巨大山城・小谷城・・・
木々の下に隠れていたのは、戦国乱世が行きついた究極の城の姿でした。

浅井長政の居城・・・北近江の巨大山城・小谷城・・・。
長政は、小谷城の他にも、領内各地にいくつもの小さな城を配置していました。
こうした城は、どのような役割を持っていたのでしょうか?

横山城には、重要な意味がありました。
横山城は、小谷城の南にある軍事拠点で、街道が三角形に集まってくる真ん中にある城でした。
主要な街道を監視し、南、東の動きを把握することができ、即座に対応することができました。
浅井氏の支城は、色々な役割を担っていました。
小谷城の西の山本山城・・・琵琶湖の脇を日本海側に抜ける街道は、この山本山城と小谷城の間を通っていました。
二つの城で街道を囲んでいる・・・経済のポイントを山本山城が押さえていました。
私情を築くことで、地域を守るだけでなく、街道・・・流通そのものを把握していくことにつながりました。

小谷城の麓を通る街道・・・浅井氏は、この街道を小谷城の城下町まで引き込んでいました。
小谷城自体が、流通を支配する!!
重要な幹線道路を浅井氏が遮断している・・・きちんと管理していました。
小谷城の城下町は、川で琵琶湖ともつながっていました。
川を下ると姉川に合流し、姉川からすぐに琵琶湖で下。
琵琶湖の湖上交通という大きな物流の大動脈につながったのです。

浅井氏は、城下に川湊を作り、琵琶湖の物流と直接つなげていたのです。
北陸の米などを京都に運ぶ琵琶湖の大規模の水運は、物流の幹線ルートとして重要な意味を持っていました。
このルートを掌握する役割を持たせていたのが佐和山城です。
佐和山城は湖の入り江に接していました。
浅井氏は、湖に接する城を通じて、琵琶湖の水運にもにらみを利かせていました。
北陸から朝井領を通る琵琶湖の物流ルートには、隣国の大名も注目していました。
越前の朝倉氏は、早くから朝井氏と同盟を結んでいます。
天下統一に向かう織田信長も、妹・お市を長政に嫁がせ、緊密な関係を築いていました。

1570年4月、信長は、浅井氏と同盟関係にあった朝倉氏を攻撃!!
これを機に、長政は信長から離反します。
長政の裏切りを知った信長は、朝倉攻めを断念し、命からがら京に逃げ帰るのです。

長政の裏切りから2か月後・・・
1579年6月、信長は浅井領に侵攻します。
兵を向けたのは、小谷城ではなくその南の支城・横山城でした。
横山城を包囲した信長に、長政も出陣!!
姉川の戦いです。
戦は信長の勝利に終わり、長政は横山城を失います。
その頃、浅井長政、朝倉義景、武田信玄、石山本願寺、三好三人衆・・・信長包囲網が築かれようとしていました。
信長は大ピンチだったのです。
それでも信長は、浅井への攻撃を続けます。
狙ったのは、南の橋の佐和山城!!
佐和山城は、全体の戦局を左右する要の場所でした。
佐和山城は8か月にわたる籠城戦の末、信長の手に落ちました。
要となる城を奪われた長政・・・厳しい選択を強いられます。

佐和山城、横山城を落とされ、小谷城に来るのは時間の問題・・・和睦を願い出る・・・??
信長が、裏切ったものを許すはずがない・・・鉄壁の小谷城で戦いに打って出る・・・??

1571年5月、長政は、奪われた支城の奪還に打って出ました。
あくまで信長と戦う道を選んだのです。
しかし、強力な信長軍を前に敗戦が続きます。
勢いづく信長は、小谷城に近づき・・・小谷城から500mのところに虎御前山城を築きます。
目の前に大規模な陣を構え、長政を物理的にも精神的にも追いつめていきます。
信長は、新しい戦略をとっていきます。
信長は、幅6mの軍用道を5km作ったとされています。
高い塀で目隠しをし、浅井側に見えない徹底ぶりでした。

じわじわと小谷城を締め上げる織田軍・・・
一方の長政は、味方を次々と失っていきます。
比叡山延暦寺は焼き打ち、武田信玄は病死・・・

1573年8月、小谷城のすぐそばの支城・山本山城が信長に降伏・・・。
羽柴秀吉の巧みな調略によるものでした。
山本山城が陥落することによって、小谷城の裏に回れる・・・!!
山本山城降伏からわずか4日後・・・信長は勝負に出ます。
振りしきる雨をものともせずに、自ら手勢を率いて小谷城背後の要・大嶽城に攻め上ります。

8月27日、信長は総攻撃を命じます。
羽柴秀吉率いる軍勢は城下町を突破、谷から急斜面を駆け上がります。
京極丸の辺りに乱入!!
長政の父・久正の籠る小丸を攻めたて自刃に追い込みます。
滅亡を悟った長政は、妻・おとに三人の娘たちを信長の元へ送り出します。
そして自らは、最後まで残った家臣たちと共に本丸で打って出ます。
総攻撃開始から3日後・・・
1573年9月1日、小谷城城主・浅井長政は自決・・・28年の生涯を閉じました。
落城した小谷城は、秀吉に預けられましたが、琵琶湖湖畔にある長浜に新たな城が築かれると廃城が決まります。
この後、再び巨大山城が築かれることはありませんでした。
山城に立て籠れば守り切れるという戦国の常識が崩れた瞬間でした。
中世的な山城から近世の平城に・・・この転換を武将に決断させた大きなきっかけが小谷城の戦いでした。

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今から400年前の戦国時代、誰よりも激しく運命に翻弄され、誰よりも強く生きようとした一人の女性がいました。
淀殿です。
織田信長の姪に生まれ、豊臣秀吉の側室となり、最後は一人の母として徳川家康に立ち向かいました。

天下人・豊臣秀吉の妻として強大な権力を握り、秀吉と共に天下に君臨した淀殿・・・
江戸時代の絵や本では、彼女は冷酷で横暴な稀代の悪女として描かれています。
大坂城を落城させ、我が子と共に死んだ愚かな母・・・??
焼け落ちる大坂城と共に、波乱の生涯を閉じた淀殿・・・その実像とは・・・??

淀殿はもともと茶々という名でした。
淀殿と呼ばれるようになったのは、天下人・豊臣秀吉の側室となってからです。
京都の南にある淀城・・・秀吉から城ひとつ与えられるほど愛され、家臣から淀殿と呼ばれた茶々。
しかし、茶々にとって秀吉は、実の両親を死に追いやった仇でした。

どうして親の仇を夫としたのでしょうか?

茶々が生れたのは、1569年、琵琶湖を望む交友の要所・北近江でした。
父はこの一帯を支配した戦国大名・浅井長政、母は織田信長の13歳年下のお市でした。
天下取りを目指す信長の意向で、お市は政略結婚として浅井長政に嫁ぎ茶々を産みました。
お市は、戦国一の美女・・・茶々もその美貌を受け継ぎ、美しい女性でした。
茶々が生れた翌年には次女・初が生れ、1573年には三女・江が生まれます。
政略結婚でしたが、仲の良かった父と母・・・家族と一緒に平穏な日々を送っていました。
しかし、運命の歯車は動き出していました。

父・長政が、越前の朝倉氏と組み、織田家を裏切って攻撃します。
長政の裏切りに怒った信長は、近江に出陣!!
姉川の戦い・・・浅井・朝倉の軍と激闘の末、蹴散らします。
長政も粘りよく戦ったものの・・・2年後、遂に城に追いつめられてしまいます。
浅井三代記によると、城が攻め落とされる直前・・・

「そなたは信長の妹なのだから、ここで死ぬことはない
 信長の元に送り返すから、生き長らえて菩提を弔ってほしい
 今、花のような姫たちを殺すのは不憫だ・・・
 理を曲げて逃げてほしい」by長政

父・長政は白と共に自刃。
5歳の茶々は、母と妹たちと共に城を脱出しました。
この時、茶々の腹違いの兄・万福丸は、秀吉の手で串刺しにされたといいます。
その後、伯父・信長の元に引き取られた茶々たち・・・
しかし、9年後・・・またもや運命の荒波が・・・!!

1582年、茶々、14歳の時に本能寺の変!!
信長は、天下統一目前で命を落とします。
信長を失った織田家で、後継者争いが始まります。
名乗りを上げたのは、有力武将の羽柴秀吉と柴田勝家。
秀吉は巧みな計略で、実質的に織田家の主導権を握ります。
お市は、対抗馬の柴田勝家の元に嫁ぎます。
秀吉を嫌っていたから・・・とも言われています。
この時、茶々14歳・・・母と二人の妹と共に、現在の福井県にある勝家の城で暮らし始めました。
しかし、ここでも平穏な生活は1年だけ・・・

1583年、15歳の時・・・賤ケ岳の戦い
秀吉を、織田家の当主と認めない勝家は、秀吉と衝突!!
戦う道を選びます。
しかし、大敗・・・!!
茶々たちの暮らす勝家の城も、秀吉の大軍に囲まれてしまいました。
その時、秀吉からの使者が・・・!!
母・お市と三姉妹は助命するという・・・。
しかし、母は申し出を拒否、そして、15歳の茶々に二人の妹を託し、三人だけで秀吉の元に行くように命じます。
この時、茶々は、母から弁財天の小さな像を託されます。
父・浅井長政と、母・お市は弁財天を篤く進行していました。
自分は浅井の血をひく娘だ・・・相当強く意識したと思われます。
そして、母・お市は、夫・勝家と共に自ら命を絶つのでした。

秀吉の保護された茶々たちは、織田の血をひく娘として多くの縁談がありました。
そして秀吉からも、茶々に使者が・・・
「私と一緒になっていただきたい」
天下一の美女・・・お市に憧れていたという秀吉。
秀吉が母に似た美女となっていた茶々に迫ってきたのでした。
秀吉は、かつて父・浅井長政を攻め、弟・万福丸を殺され・・・母も死に追いやり・・・何人も身内を滅ぼされた仇・・・
しかし、茶々はこう秀吉に返事をしたといいます。

「このように親なしになって秀吉さまを頼みにするからには、どのようにも秀吉さまの指図通りにしますが、先に妹たちの縁組を整えていただき、秀吉さまとのことはどのようにもしていただきたい」

秀吉に、妹たちにしっかりとした嫁ぎ先を探してくれるならば、側室になってもいいといったのです。
二人の妹を守っていかなければ・・・!!

三女・江・・・11歳で秀吉が仮親となり、尾張の佐治一成に嫁ぎます。
次女・初・・・京極高次に嫁ぎます。
秀吉の申し出があってから4年・・・妹たちが無事に嫁いだのを見届け、1588年、20歳の茶々は秀吉の側室となるのでした。
秀吉は52歳でした。

秀吉の側室となった事で、茶々の運命は大きく変わっていきます。
庶民から関白まで上り詰め、あらゆる望みをかなえた秀吉が、唯一叶えられなかった望みは、世継ぎでした。
茶々は側室に入ってから1年後・・・秀吉を狂喜乱舞させます。
1589年、21歳の時に待望の男の子・鶴松を産みます。
秀吉は、茶々が出産する為にわざわざ淀に城を建てさせます。
茶々が淀殿と呼ばれたのも、この頃とされます。
秀吉にはおね・・・北政所がいましたが、世継ぎを産んだことで淀殿の立場は北政所と同じ正室となりました。
鶴松出産の褒美として茶々がねだったものは・・・
それまで許されなかった父・長政の十七回忌、母・お市の七回忌の法要をお願いしています。
浅井を大切にする気持ちが、淀殿の中にはずっとあって、その一心でした。
淀殿は、戦災の為に失われていた両親の面影を、供養のために書かせています。
これが、今も残っている唯一の肖像です。

1590年、秀吉は小田原攻め・・・北条氏を降伏させます。
豊臣日に歯向かうものはなくなり、秀吉は天下統一を果たします。
しかし・・・1591年、茶々23歳の時、病弱だった鶴松が3歳で死去。。。
秀吉の落胆は激しく・・・
しかし、その2年後の1593年、25歳で男の子を出産。
秀吉は大喜び・・・その子こそ、後の当主となる秀頼です。
淀殿25歳、秀吉57歳の時の子でした。

この頃、秀吉が淀殿に送った手紙が残っています。

”ひろい(秀頼)にお乳を十分に与えなさい
 お乳が足りないときは(お乳が出るようお前が)飯を多く食べなさい”

想いが天に通じたのか、秀頼はすくすくと育っていきます。
無ず子を溺愛する秀吉に、淀殿は褒美を願い出ます。
浅井家の菩提寺の建立です。
その時建てられた寺は、今も京都に・・・

1598年、30歳の時に醍醐の花見・・・淀殿を始め、多くの側室、一族、重臣たちを率いて盛大な花見を催します。
今も伝わる醍醐の花見です。

しかし、この時、すでに秀吉は病魔に侵されていました。
その年の8月・・・秀吉は有力な大名を五大老、有能な五人の家臣を五奉行とし、秀頼を支える体制を整えます。
そして、大老の筆頭・・・徳川家康の手を握ってこう言いました。

「どうか、どうか、秀頼のことをよろしく頼む」

天下人秀吉は、62歳の生涯を閉じました。

大坂城には、淀殿や家族が残っていました。
秀吉を長年支えていた北政所は、出家して大坂城を出ていきました。
一説では、世継ぎを産んで我が物顔の淀殿を快く思わず出ていったといいます。

しかし・・・
秀吉が死んで2年後・・・大老の筆頭・徳川家康が、密かに勢力を拡大していました。
それを察知した秀吉の家臣・石田三成が反徳川の狼煙を挙げます。
1600年、関ケ原の戦いです。
この戦い、淀殿にとっては同じ豊臣の家臣である家康と三成の・・・いわば家臣同士の内紛・・・積極的にかかわりませんでした。
しかし、ある知らせが届いて否応なく、この戦いに巻き込まれることに・・・。
それは、妹・初の命が危ないという報せでした。
東軍について大津城に立てこもった京極高次とその妻・初が西軍に取り囲まれ、命が危ないというのです。
この時、淀殿が協力を仰いだのが北政所でした。
淀殿と北政所は、いがみ合っていたわけではなく、お互いの役割を理解しあっていました。
淀殿と北政所はそれぞれの使者を一緒に大津へと送り込みます。
そして二人の名で、両軍に停戦を求めたのです。
大津城は無血開城・・・淀殿は、無事に妹・初の救出に成功するのでした。

1614年11月、淀殿のいる大坂城に向かって、20万もの徳川の兵が攻め寄せました。
大坂冬の陣です。
豊臣方は、大坂城に籠城・・・難攻不落の大坂城を攻めあぐねる徳川軍・・・
戦は豊臣方の優位でした。
しかし、家康から和平を持ちかけられるとあっさり受け入れてしまいます。
どうして和平を結んだのでしょうか?

1600年、関ケ原の合戦に勝利した家康は、実質的ナンバー1となります。
しかし、淀殿はそのことをさほど深刻に考えていませんでした。
というのも、家康はじめ全員、秀頼に忠誠を誓っていたからです。
その間、家康は着々と豊臣の力を削いでいきます。
家康は秀吉の代行として、領地を淀殿に相談せずに諸大名に分け与えます。
そのため、200石以上あった豊臣の領地は半分以下になってしまいました。
さらに家康は、京都南にある伏見城に居を構え、それまで大坂城にいた多くの大名を伏見へ集めてしまいます。
秀頼の周りから大名がいなくなっていく・・・流石の淀殿も、不信感が増していきます。

淀殿の医師の診察記録・・・家康が伏見城に移って2か月後のもの・・・
不食、めまい・・・淀殿は、気がめいり、食欲がなくなりめまいに苦しんでいました。
この時、淀殿33歳・・・。
その心の支えは、大坂城と秀頼でした。
家康は、あくまで豊臣家の家臣・・・!!
秀頼が成人すれば、豊臣家に天下は戻るはず・・・!!

1603年、家康は朝廷から武家のTOPである征夷大将軍に任じられます。
同じ年、家康の孫・千姫が、秀頼に輿入れ。
そのため、淀殿は家康の忠誠を信じて疑わなかったといいます。
しかし2年後・・・愕然とする出来事が・・・!!
1605年、家康は将軍職を嫡男・秀忠に譲ります。
家康亡き後、徳川家が代々将軍となって政権を担っていくことを全国に知らしめたも同然でした。
淀殿も秀頼が成人するまでのつなぎであると思っていたのに・・・!!
徳川家が将軍職を世襲するとなると、諸大名の大阪場慣れが始まる・・・!!

1614年、淀殿と家康が対立する決定的な事件が・・・!!
淀殿の肝入りで改築工事がされていた方広寺・・・鐘楼に納められる鐘には”国家安康”の文字が刻まれていました。
これを見た家康は、自分の名前を分断して呪う行為だとして猛反発します。
淀殿にとっては言いがかりにしか思えない行為・・・淀殿は、家康の誤解を解くために、最も信頼する家臣を使者に出します。片桐且元です。
且元の父は、長政の家臣でした。淀殿にとって且元は二代にわたって自分たちに仕えてくれる数少ない身内と言える存在でした。
この時、淀殿か且元に送った手紙には・・・

「私と家康の間柄を、親密なものに戻せるかどうかは、すべてあなたにかかっています。
 私はしっかりとした親を持っておらず、相談する相手もいないので、あなただけが頼りです。」

しかし、徳川方との交渉が難航・・・且元は一か月近くも戻ってきませんでした。
戻ってきた且元は、事態を治めるために家康が出した条件を淀殿に伝えます。

秀頼が大坂城を出て国替えをする・・・!!
または、淀殿を人質として徳川へ差し出す!!

豊臣家を一大名に落とす厳しい条件でした。
淀殿にとって飲めない理不尽な要求・・・
このため、使者を務めた且元にも疑惑の目が向けられます。
ことごとく対立していた家臣たちは、この機に乗じて且元を暗殺する計画も・・・!!
且元も、危機を察して病気を理由に屋敷に引きこもってしまいました。

しかし、淀殿は且元を信頼していました。

「決して親子ともどもあなたをおざなりにはしていません
 長年の温情をどうして忘れることができましょうか
 あなたをひたすら頼みにしています」

しかし、手紙を送った甲斐もなく、且元は淀殿の元を去ってしまいました。

一方家康は、豊臣側から正式な答えがないことで大阪城攻めを決断・・・
諸大名を集め進軍します。

1614年11月、大坂冬の陣・・・
豊臣方は、浪人などを集め、10万の兵で大坂城に立てこもります。
取り囲む徳川方は、その倍の20万です。
難攻不落の大坂城・・・その理由は、城の三方向を外堀、内堀、さらに河出囲んでいる構造にありました。
徳川方も、その方向からは攻めず、堀のない南の方から攻めていました。
しかし、そこには真田氏の最強の砦・真田丸が・・・!!
真田丸の戦いでは、徳川は2万の戦死者を出し惨敗・・・こうした戦いで、豊臣方が優勢でした。
負け戦が長引けば、徳川方に離反者が出るかもしれない・・・。
家康は、和平を申し込みます。
豊臣方にしてみれば、応じる必要はない・・・
しかし、淀殿は徳川方とあっさりと和平を結んでしまいます。
しかも、大坂城の外堀を埋めるという徳川に都合のいい条件を、受け入れたのです。

和平を結んでわずか半年後・・・大坂夏の陣・・・!!
家康が豊臣方を攻め、大坂城は落城し、豊臣方は壊滅・・・!!
女性である淀殿は、城を落ち延びる選択もありました。
しかし、淀殿は、息子秀頼と共に、大坂城でその命を落とすのです。

どうして大坂城と運命を共にしたのか・・・??
大坂冬の陣の後、家康はあっという間に外堀を埋めました。
しかし、条件にはなかった内堀まで埋めてしまったのです。
堀を失くした大坂城は、最早どこからでも攻められるので、防御力の大半が削がれてしまいました。
戦が始まる前、淀殿は家康から”徳川の家臣としてなら豊臣家を存続させる”という屈辱的なことを言われます。
この時、仲介役となったのが、淀殿の妹・初でした。
初は、かつて関ケ原合戦の時に、淀殿に命を救われていました。
今度は自分が・・・と、初が淀殿を説得します。
降伏の条件を飲むように説得し続けます。
しかし、初の言葉に耳を貸さず、家康の家臣となることを拒否。
徳川方の大坂城総攻撃が始まります。
戦いが始まってなお、初は説得し続けますが、城を脱出せざるを得なくなります。
この頃、大阪城にいたのは、戦闘経験の乏しい家臣だけでした。
徳川方が豊臣方を圧倒・・・大坂城は落城寸前に追いつめられます。

しかし、淀殿には最後の切り札・・・千姫が残っていました。
千姫は家康に対しての人質・・・千姫が逃げ出さないよう、淀殿は千姫の袖を捕まえていました。
しかし、千姫は一瞬のスキを突いて逃亡・・・
徳川方の手引きで大坂城を脱出したといいます。

意気消沈する淀殿・・・そんな中、前線からは秀頼出陣の要請が・・・
前線で指揮をあげてほしいと何度も言われるも、淀殿はそれを許しませんでした。
やがて豊臣方は総崩れとなり、大坂城は炎に包まれました。
5月8日、秀頼と淀殿は大坂城で自害・・・秀頼23歳、淀殿47歳でした。
淀殿は、大坂城と共に滅びる道を選びました。
しかし、母から受け継いだ弁財天は無事でした。
落城前に徳川に使者を送り、三女・江に弁財天を託していたのです。
今は、父母を弔うため、淀殿が立てた菩提寺に今も祀られています。

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1582年6月2日、織田信長は天下統一を目前に、家臣・明智光秀の謀反によって命を落とします。
本能寺の変です。
この事件は、信長や光秀を取り巻く女たちにも影響を及ぼしました。
信長の妹・お市の方もその一人です。
戦国一の美女と謳われ、二度も政略結婚の道具となり、嫁ぎ先が二度とも滅亡・・・
その生涯はなぞに包まれています。


お市は、尾張の戦国大名・織田信秀の五女として1547年に生まれました。
代名詞は、「無双の美人」・・・
”緑鬢紅顔 楊柳の風に随ふ如く 桃花の露を 含むに似たり”とされ、つやのある黒髪を持つ、変な美人で、しなやかさと華やかさを併せ持っていたと言われています。
嫡男・信長と13歳も離れたお市の少女時代ことは、ほとんどわかっていません。

兄・信長は、美濃の斎藤家を滅ぼし、本拠地を岐阜に移して天下取りを目指そうとしていました。
西へ向かおうとする信長に立ちはだかっていたのは近江国・・・南近江は名門で名君・六角義賢が、北近江は六角家から独立した若き当主・浅井長政が治めていました。
そこで信長が選んだのは・・・
この二つの勢力と争うのではなく、浅井家と同盟を結び、六角家を滅ぼそうとするものでした。
そのために妹・お市を長政に嫁がせようとしました。

政略結婚を、女性はどう考えていたのでしょうか??
親が決めた相手と結婚する・・・それが普通の時代でした。
武将の場合は、特に政略結婚が当たり前・・・娘たちも違和感がありませんでした。
もちろんお市も受け入れますが・・・浅井家の方から猛反対が・・・!!
浅井家は織田家と敵対していた越前の朝倉家と同盟を結んでいたからです。
その中には、長政の父・久政もいました。
織田の家臣もついてくる・・・
信長としては、長政を見込んでいて、ゆくゆくは家康と同等の評価を与えようと思っていたようです。

何としても同盟を結びたい信長は、浅井家の反対の意見を抑えるべく、「朝倉家との不戦の誓い」を立てます。
もし、戦う場合には、前もって浅井家に連絡すると・・・
ようやく1568年結婚。

不安なお市を待っていたのは、穏やかで幸福な結婚生活でした。浅井長政は、知友と義侠心を併せ持つ・・・兄・信長に勝るとも劣らない武将で、純粋に夫としてお市を愛してくれました。
夫婦は仲睦まじく・・・茶々・・・初・・・を設けました。

そんな市には、兄から言いつけられた役目がありました。
①実家と嫁ぎ先との外交官
②実家のスパイ
重要な使命を帯びていました。
お市、長政の協力を得て、六角軍を打ち破り、天下にその名を轟かせることとなった信長!!


お市の悲劇①兄と夫の断絶
1570年お市を驚愕させる事件が・・・!!
突如、兄・信長が朝倉義景に「叛意あり」と、不戦の誓いを破り、3万の軍勢で朝倉領に攻め込みました。
しかも、朝井領を通るという知らせは一切ありませんでした。

それは織田家と浅井家の蜜月関係の終わりを意味していました。
浅井家に嫁いだお市の立場などはお構いなし!!
信長は、朝倉方の所領を奪い、金ヶ崎城まで・・・!!
一気に朝倉の本拠地・一乗谷城に迫ろうとしていました。

この暴挙に、長政の父・久政を筆頭に、信長憎しの声が上がり始めます。
板挟みとなったお市・・・
夫の長政は、信長との戦を避けたいと考えますが・・・抑えきれずに・・・ついに、信長からの離反を決意します。

「信長を討つ・・・!!」

金ヶ崎城を落とし、ほぼ勝ちを手中にした信長・・・
お市からの陣中見舞いが送られてきました。
それは、両端を紐で縛った小豆の袋でした。
袋の両端が縛られている・・・
既に織田軍が、前にも後にも逃げられない・・・ということを示していました。
信長にとっては寝耳に水の浅井の離反でした。
お市からの知らせで、僅か10人ほどで京都に逃れ、九死に一生を得ました。
”金ヶ崎の退き口”と呼ばれています。

このエピソードは、江戸時代の創作と思われます。
お市そのものはスパイ活動ではなく・・・お付きの者からの知らせだったのでは・・・??

しかし、互いを思いやるお市と長政に悲劇が・・・!!

政略結婚で嫁いだお市にもはやとどまる理由はありませんが・・・
家臣やお付きの者が織田に帰っていく中、浅井に残りたいと・・・実家に帰ることを固く拒みます。
普通は離縁され実家に戻されるのですが・・・
浅井家の嫁として生きようと考えていたようです。

長政の妻でありたい・・・それは、死を覚悟することでもありました。
兄・信長は、妹のお市が残ると言っても、将来を嘱望していた長政の裏切りが許せません!!
裏切りから2か月後・・・家康の協力の元、浅井領に攻め入ります。
浅井軍は朝倉軍と合流し、激しい戦いが繰り広げられました。
この姉川の戦いで、浅井・朝倉連合軍に大勝利を収めた信長は、浅井家を追いつめていきます。
信長との縁を切ったお市は、浅井家で不安な日々を送りながら、1573年三女・お江を出産。

しかし、この年ついに運命の日が・・・!!
当時、信長の周りの武将たち・・・武田信玄・朝倉義景・松永久秀・本願寺の蓮如そして浅井長政は、信長包囲網を作っていました。
ところが、その要だった武田信玄が急死したことによって、信長包囲網が瓦解!!
この機を逃さなかった信長は、浅井・朝倉討伐へと乗り出すのです。

1573年越前に攻め込み、朝倉家を滅亡させ、北近江の浅井に侵攻!!
その先頭を任されたのが羽柴秀吉でした。
秀吉は、姉川の戦いで浅井から奪い取った最前線の横山城から浅井家を徹底的に監視!!
浅井家の家臣たちを次々に調略。
浅井の勢力を突き崩していきます。


お市の悲劇②浅井家滅亡

秀吉の調略によって家臣たちに裏切られて行った浅井家は、信長の圧倒的軍事力の前に、あっという間に居城・小谷城のみになってしまいました。
浅井家、絶体絶命の危機!!

そこへやってきたのは秀吉。・・・長政に告げます。
「城を明け渡してくだされば、命だけはお助け申そう。」by秀吉
断固拒否する長政!!

「命を惜しんで信長に屈するよりも、たとえ浅井が滅びようとも武士として最後まで戦うのみ!!」

そんな中、お市は三人の娘を連れて浅井家を脱出するのですが・・・

落城を覚悟した長政はこう切り出します。

「お前と子供たちは、今すぐ信長のもとへ帰るのだ。」by長政

一緒に覚悟するというお市を説き伏せて・・・
幼い娘たちのために生き延びて、私の菩提を弔ってほしい!!
諭され、これが、長政との最後の約束となるのです。

8月28日、妻と子の命だけは助けてほしいという長政の願いが聞き入れられ、お市は三人の娘を連れて信長の陣へ・・・!!
幼い子たちのために生き延びるという約束を果たすために・・・!!

無事に織田方に渡されたのを見守って・・・長政、自刃!!
9月1日、小谷城は落城したのでした。
お市との結婚からわずか4年の事でした。
浅井家は信長によって領地をすべて没収され、嫡男・万福丸は串刺し、末子の幾丸は出家させられてしまいました。
忘れ形見は3人の娘たちでした。


織田家に戻ったお市たちは、信長の弟・信包に預けられ、伊勢・上野城で手厚く保護されました。
戦国時代、嫁ぎ先から戻ってきた女性は尼になることが多かったのですが、お市は出家しませんでした。
それは、織田信長が敢えて出家させなかったのではないか??
政略結婚の駒として使えるのではないか??
3人の子供たちと穏やかな日を過ごすお市。。。
しかし、運命は一変します。


お市の悲劇③兄・信長の死

小谷城落城から9年後の1582年6月2日、本能寺の変!!
明智光秀の謀反の謀反によって兄・信長が急死!!
最大の庇護者であった信長を失ってしまいました。
そして・・・織田家臣団に覇権争いが勃発するのです。

しかもこの時、家督を継いでいた信忠も亡くなったため、家臣団は混乱を極めます。
次の覇権を握るのは誰・・・??
家臣が集まって、清須会議が行われました。

この話し合いで、織田家の将来を決めるとともに、お市の将来を決めるのです。
最も力を持っていたのが、織田家・筆頭家老&猛将の柴田勝家。
織田家のために一途に生きてきた勝家の想いは、信長亡き後の織田家を守り抜くことでした。
そこで、三男・信孝を支持します。

頼りない次男・信勝よりも、体制が維持できると考えたのです。
これに異を唱えたのが羽柴秀吉!!

中国大返しの強行軍に、謀反人・明智光秀の天下を三日天下とし、勝家をしのぐ勢いを持っていました。
秀吉は長男・信忠の子・三法師を推挙!!
実質的な権力を自分が取ろうとします。
秀吉の用意周到な根回しによって、会議では三法師が跡継ぎと決まってしまいます。

秀吉の策略に破れてしまった勝家・・・
そのうえ、秀吉は播磨に加え、山城国などを領地とし、光秀の領地であった丹波を自分の一族に分け与えました。
かたや・・・勝家の領地は北近江の36万石のみ・・・
筆頭家老としての面目をなくしたばかりか、領地においても秀吉に大きな差をつけられてしまいました。

これに対し・・・
「お市の方を嫁にもらっていただきたい。。。」
提案してきたのは・・・??
 
勝家はお市より25歳年上で、この時61歳!!
昔からお市は勝家にとってあこがれの存在でしたが、信長の妹であり、絶世の美女であったため、高嶺の花でした。
勝家は、この提案を受け入れ、お市も受け入れます。

提案してきたのは秀吉だったという説もありますが、三男・信孝という説もあります。
信孝が、自分の勢力を強化するために、持ち掛けたというのです。
秀吉は反対しなかったんでしょうか??
三法師を跡継ぎとするためには、何かしら譲る条件としたのかもしれません。

勝家や秀吉に対してお市はどう思っていたのでしょうか??
浅井家を滅ぼした秀吉憎し・・・
秀吉は浅井家を滅ぼしたのち、お市の居城であった小谷城を自らのものとし、間もなく平地に長浜城を築きます。
小谷城は、山城で交通の便が良くないと潰してしまったのです。
秀吉はお市から思い出の場所さえも奪ってしまったのです。

そのうえ、三法師を操って織田家を牛耳ろうとしたり・・・絶対に許せない男でした。
それを見返すためには、柴田勝家に秀吉を討ってほしい!!
秀吉に一泡吹かせるためにも結婚したとも考えられます。

1582年織田家・筆頭家老の柴田勝家と結婚。
三人の娘を連れて越前国北ノ庄城へ・・・
北ノ庄城は、天守が九層もあり、信長の安土城を上回るほどの巨大な城でした。
ここで平和な新し暮らしが始まりました。

夫・勝家は優しく・・・鬼柴田の異名の強面も・・・お市を慈しみ、「城に花が咲いたようだ。」と、三人の娘も可愛がりました。
しかし・・・風雲急を告げる・・・


お市の悲劇④柴田家滅亡

勝家と秀吉の対立は激化し、戦に発展!!
1583年賤ヶ岳の戦いで敗れた勝家は、撤退を余儀なくされ、北ノ庄城へ・・・
秀吉は追撃の手をゆるめず・・・北ノ庄城は包囲されてしまいました!!

敗北を悟った勝家は、お市と娘たちを城の外へ出そうと試みます。
そんな勝家の言葉にお市は・・・
「殿の妻となりえたのが、我が運命・・・ 共に死にとうございます。」

勝家は何度も城の外に出るように諭しますが・・・
最後まで拒み、死を選んだのです。

どうして頑なに死を選んだのでしょうか??

①娘たちは大きくなり、自分が居なくても大丈夫だったから。
②実家の織田家に帰っても安泰ではなかった。
③秀吉の側室になることを嫌った。

③が大きな要因だったようです。

前の夫・長政を死に追いやり、兄・信長が盛り立てた織田家を乗っ取ろうとする秀吉に、命を救われるぐらいなら死んだほうがまし!!

「お前たちは何があっても生き抜くのです。
      浅井の血を絶やさぬために・・・!!」

三人の娘を落城寸前の城から出し・・・1583年4月23日。
お市は夫・勝家と共に命を絶つのです。

信長の妹にして無双の美女・・・お市・・・波乱に満ちた37歳の生涯・・・。
本能寺の変からわずか1年後の事でした。


”さらぬだに うちぬる程も なつの夜に
           わかれをさそふ ほととぎすかな”


武将たちの政略に巻き込まれたお市・・・
しかし、三人の娘たちはお市の想いを遂げていきます。

浅井と織田の血を引いた茶々・初・江が、柴田家滅亡のあと秀吉の庇護をうけることとなります。
長女・茶々は秀吉の側室となり秀頼を生みます。
皮肉にもお市の孫が、浅井と織田を蹂躙し、天下取りを成し遂げた秀吉の後継者となります。

次女・初は京極家に嫁ぎ、徳川の世になっても京極家は大名として生き残ります。

三女・江は、徳川家康の息子・秀忠に嫁ぎ二男・五女を設け・・・その一人が、江戸幕府三代将軍家光となるのです。
浅井長政の孫が・・・天下人となったのです。
お市の死から40年後の事でした。


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1582年6月27日・・・
歴史を動かす会議が・・・!!
柴田勝家VS羽柴秀吉!!

織田信長を継ぐ天下人の戦いでした。
世にいう清州会議。。。

本能寺で斃れた信長の後継者を決める会議です。

自分に有利な後継者を拝し、天下の実権を握ろうとする秀吉・・・
それを阻止しようとする勝家の戦いでした。

清州会議の資料は残っていません。
しかし、これが秀吉の天下取りの足掛かりとなりました。
戦国時代にあって・・・戦いではなく会議で天下が決まっていく!!
まさに、ターニングポイントでした。

会議は調略とも言えます。
気を見るに敏な秀吉は、そのような能力に長けた人。。。
交渉の天才で、計画を立てタイミングを逃さない・・・そんな人でした。


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一代で天下人となった秀吉・・・
秀吉の陣羽織には、背中に黄金の富士山が書かれています。
”富む武士”と書かれてあるのです。
江戸時代までは・・・”不二”二番ではない=№1・・・”不死”死なない・・・
戦場で富士山の陣羽織を背負うことで自分は№1であって死なないということを想っていました。
自分こそが天下人だ!!

しかし、その出自は貧しい農民でした。
足軽から織田家重臣へ!!
天下を意識したのは・・・1582年。
あの本能寺の変でした。

天下統一を目前にした信長が、明智光秀に討たれてしまいました。
当時織田軍団は、方面軍として地方で・・・それぞれの敵と戦っていました。

中国方面軍司令官羽柴秀吉・・・
織田家最大の敵・毛利と戦っていました。
秀吉は信長の死を知るやすぐさま毛利と講和を結び、すぐさま光秀討伐に・・・中国大返しをします。
本能寺の変からわずか11日で”山崎の合戦”を!!

兵力に勝る秀吉軍は、光秀軍を圧倒!!
光秀も絶命しました。
主君の仇討ちを果たし、一躍歴史の表舞台に出て来た秀吉。。。
しかし、その前に立ちはだかった男が・・・!!!
織田家筆頭家老・・・鬼柴田こと柴田勝家でした。

柴田勝家は、今の福井市に当たる越前・北ノ庄に本拠を置いていました。
信長の父の代から仕えていた勝家・・・古参の重臣として戦場で数々の武勲を立てていました。
信長から拝領した北の地を終の棲家にしようと思っていた柴田勝家。
織田家に対して特別な思いがありました。
”織田家”というものに忠義をもっている古い形の武将だったのです。
常に織田家を第一に考えていた勝家。
勝家は・・・上杉と戦っていました。
そんな勝家に本能寺の知らせが・・・!!
勝家は、それぞれの土地を守ることが織田家の安泰につながるとして、北陸から動かなかったのです。

そんな勝家を出しぬき・・・明智討伐の最大の功労者となった秀吉。。。
焦った勝家は、織田家の家臣に向け書状を書きます。

「談合申したいことがある。。。」

信長の後継者を決める会議を自ら申し出たのです。
会議の場は織田家ゆかりの”清州城”。

本来ならば、信長の家臣の自分は筆頭だと思っていました。
しかし、秀吉に先を越されてしまった・・・
だからこそ、清州会議の呼びかけ人になることが必要だったのです。
”遅れを挽回したい!!”

本能寺の変で長男・信忠は討ち死に・・・
勝家が担いだのが信長三男・信孝。
名目上の総大将を務めるなど、家臣たちの評判も高くありました。
烏帽子親は勝家でした。
信孝を据えて・・・後見役となることで織田家の実権を握ろうとしました。
さらに強力な援軍は・・・お市の方。。。
この頃、勝家はお市との婚儀が約束されていました。
三男・信孝とお市。。。勝家の地位は盤石と思われました。

対する秀吉は・・・
明智討伐の勢いをもって・・・乾坤一擲の勝負に出ようとしていました。
明智討伐・・・それは織田家として闘ったのであり、まだまだ秀吉は安泰ではなかったのです。
風が吹いているうちに・・・戦後外交で何とかしなければ・・・!!

信長亡き後の織田家のリーダーを決める”清州会議”
信長の子どもは11人・・・成人しているのは、三男・信孝と次男・信勝でした。
ふたりは兄弟仲が悪かったのです。

信孝はあまりにも柴田勝家とべったりしている・・・
信孝が織田家の跡目を継げば・・・後見役として柴田勝家の株があがってしまう。。。
そうなると自分の出る幕はない!!

とすれば・・・次男・信勝。。。
序列的にも第1位・・・側室の子である信孝に比べ、正室扱いされた母親の子・・・正当性は申し分ない!!
これなら織田家中の実権を握れるかもしれない・・・!!
しかし・・・信勝では他の家臣が納得しない・・・???
信勝は、戦場では家臣たち評判が良くなかったのです。
最大の失態は・・・
明智の残党狩りで放った火で、安土城天守を焼いてしまったのです。

もう一人の後継者・・・!!
信忠の子であり信長の孫である・・・3歳の三法師です。
三法師なら、傀儡政権となり、自分が実権を握れるかもしれない・・・!!!
しかし・・・戦国の世で3歳の子の擁立に家臣が納得する???

天正10年6月27日清州会議当日・・・
参加メンバーは・・・4人。
丹羽長秀・羽柴秀吉・池田恒興・柴田勝家。
古参の幹部の丹羽長秀・・・織田軍団の実務責任者でした。
池田恒興・・・信長の乳兄弟としての参加でした。

信孝を推す勝家・・・三法師を推す秀吉。。。
三法師意外だと、秀吉に出る幕はなく・・・
この清州会議から天下取りの野望が徐々に芽生えたのではないかと思われます。

能力と信望の厚さから信孝を推す勝家。
血筋から跡目を主張する秀吉。。。
座は沈黙していたものの丹羽長秀が・・・
「秀吉の申すことは筋目が通っていて正論である。」
と言ったのです。

この発言に続くものはなく・・・
秀吉は、持病の痛風が出たとして退席してしまいました。
会議半ばにして中座・・・

秀吉不在のまま会議は進みます。

「上様が本能寺で亡くなった時、秀吉は中国から3日と休息せずにただちに京都に入り、見事亡き信長さまの仇を討ったではないか。。。
勝家殿もすぐに北陸から戻っていれば、光秀の2,3人は踏み潰すことが出来たであろうに。。。
油断なされたな・・・!!」by長秀

返事に窮した勝家は・・・三法師に納得するのでした。

丹羽長秀は、どうして秀吉側についたのか???
それは、本能寺の変の直後にありました。
本能寺の後の明智光秀軍は1万6千人。
丹羽長秀は四国攻めのための準備をしながら大坂にいました。
明智討伐の絶好の機会であったのに・・・その兵の数は3千人。。。
わずかでした。
秀吉の4万人に加えてもらうことで、何とか主君の仇討ちが出来たのです。
長秀は・・・秀吉の力を目の当たりにしていたのです。
新しい時代を見据えて・・・秀吉と長秀は手を結んでいたのかも知れません。

清州会議では・・・織田家の領地配分に関しても話し合われました。
秀吉が領地を増やす一方・・・丹羽長秀、池田恒興も加増。。。勝家も秀吉の治めていた近江・長浜を手に入れました。きめ細やかな配慮で秀吉は清州会議を乗り切ったのです。

三法師を盛り立てていくことで決まった清州会議。。。
ところが会議から4か月後・・・秀吉と勝家の対立が決定的となります。
大徳寺で行われた信長の葬儀・・・実質的に喪主を務めたのが秀吉だったのです。
秀吉は勝家の同意を得ずに・・・数百人の僧で17日間に及び盛大に葬儀を執り行いました。

”信長を一番慕っているのは私だ!!”

天下取りの布石を着々と築いていく秀吉。。。
織田家を守ろうとする忠臣勝家・・・。
両人は、遂に賤ヶ岳で戦います。
戦場には・・・秀吉と長秀の姿がありました。

大軍で包囲する秀吉に対し、北ノ庄に追い詰められた勝家の家臣は80人。。。
天正11年4月24日。妻・お市と共に自害するのでした。

katuie2

その壮絶な最期を描いたのがこの画です。
返り血を浴びて・・・しかし、目はただ一点を見据えています。
戦国乱世を織田家の忠義に生きた武将・柴田勝家と共に・・・一つの時代が終わりました。

秀吉は・・・信長が亡くなってから1年とたたずに勝家を滅ぼし、天下へ。。。
そのもっとも重要な布石となったのが、清州会議でした。


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