日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:アヘン戦争

令和元年11月27日・・・即位の礼と大嘗祭を終えた天皇皇后両陛下が京都を訪問されました。
令和という新たな時代・・・その代替わりを160年前の激動の時代の一人の天皇に報告するためです。
その天皇とは、明治天皇の父・孝明天皇・・・江戸時代最後の天皇です。

攘夷派が台頭し、京を舞台に相次ぐテロを実行・・・暴力を武器に時代を動かしていました。
1963年、攘夷派は天皇を巻き込んだある計画を企てます。
”大和国行幸”です。

大和行幸は、表向きは天皇が奈良にある神武陵などを参拝し攘夷を祈願するというものです。
しかし、そこには恐ろしい計画が隠されていました。
それは、行幸先の大和で軍議を開き、攘夷を天皇が指揮することを表明するというものでした。
天皇の決断次第では、幕府を敵に回す可能性も・・・
欧米列強との戦争、幕府との内戦・・・かつてない危機が迫っていました。
江戸から明治へのターニングポイントで、苦悩の選択を迫られた孝明天皇・・・その知られざる実像とは・・・??

孝明天皇が皇位を継いだのは1863年・・・父・仁孝天皇が突然崩御し、16歳で皇位を継ぎました。
時あたかも時代の激変がこの国を飲み込もうとしていました。
1840年、アヘン戦争が勃発!!
隣国清が、イギリスの圧倒的な軍事力の前に敗北、港や領土の割譲を強いられていました。
列強の触手は、日本にも伸び始めていました。
孝明天皇が皇位を継いだ年、英仏の軍艦が琉球に来航・・・
さらに、浦賀や長崎など日本本土の港にも相次いで姿を現しました。
報告を受けた若き天皇は、朝廷は外交には口を出さないという慣例を破ってまで幕府に命令を下します。

異国船来航があまりに頻繁なので心配である。
海防を強化し、清国の瑕瑾とならぬよう処置するように。

攘夷を命じたのです。

ところが、幕府の対応は、天皇の意に反するものでした。

1853年ペリーが浦賀に来航。
圧倒的な軍事力を前に、幕府は和親条約を締結。
下田と箱館で水と燃料を供給することを認めたこの条約を天皇は事後承認するほかありませんでした。
それから1月ほど後、事件が起きました。

1854年4月6日、突然黒い煙が京の町に・・・!!
天皇が住む御所が炎上したのです。
その場に居合わせた公家の日記によると・・・

贅を尽くした大和絵の絵や調度が燃え上がる中、公家たちは口々に天皇に避難を促しました
5,6人がかりで板輿に乗せられた天皇は、炎に追われるように御所の外に逃れ出ました
この時天皇は、生れてはじめて民衆の姿を目の当たりにしました。
はだしのまま供をしていた公家に草履を与える者、手桶に水を汲んで焼け出された女官に飲ませる者・・・人々の情けを受けながら、一行はようやく避難所の下賀茂神社にたどり着きました。

この頃に詠まれた孝明天皇の歌に・・・

あさふゆに 民安かれと 思ふ身の 
             こころにかかる 異国の船

とあります。

この国土に住む民衆を、自分が天皇として守らなければならない・・・!!
この時、孝明天皇は伊勢神宮など畿内22社、畿外11社に異国船退去の祈祷を繰り返し命じます。
神々の力で攘夷を実現せんと願ったのです。
しかし、開国への流れはさらに加速していきます。

1857年、ハリスが日米通商条約締結を要求。
外国人が日本に滞在し、通商を行うという”開国”を求める内容でした。
武力を背景にしたハリスの主張の前に、幕府は条約締結しかないと判断。
1858年2月、老中・堀田正睦が京に赴き、朝廷に条約締結への許可を求めます。

「もし、条約を拒んで戦となっても勝ち目はない・・・」

しかし、堀田に対して孝明天皇はこれを拒絶。

「私の代より開国することになっては後々までの恥の恥である」

代々守ってきた鎖国を、自分の代で放棄するのは、断じて許せないことだったのです。
ところが、この年の4月、井伊直弼が大老に就任するや、事態は急変・・・
天皇の許しのないまま・・・1858年6月、日米修好通商条約調印に踏み切ったのです。
さらに、井伊は反対勢力への大弾圧・安政の大獄を断行します。
それは朝廷にまで及び、公家たちは震え上がりました。
一方これと並行して井伊は、老中を京に派遣、孝明天皇に対してこう弁明させます。

「開港 貿易を好むものは、幕府重役に一人もおりませぬ
 軍事力が整えば以前の国法(鎖国)に引き戻す」

いずれ鎖国に戻すという約束に、天皇は次のように返答。

「以前の通りに戻されるとの事、条約締結のやむ終えざる事情については疑念は氷解した」

攘夷を実行しない幕府にいら立ちながらも、井伊の強権政治をまえに、天皇は妥協せざるを得なかったのです。

1860年3月・・・
開国を推し進めていた井伊直弼が水戸藩浪士らの手によって暗殺されました。
世に言う桜田門外の変です。
時の最高指導者が、江戸城の目と鼻の先で暗殺されたことで、幕府の威信は地に落ちました。
失地回復を図るために幕府が打ち出したのが公武合体でした。
そのために幕府は、孝明天皇の妹・和宮の将軍・家茂への輿入れを要請します。
1861年和宮は江戸に下り、朝廷と幕府が手を携える体制が確立しました。

ところが、これに反発したのが、尊王攘夷派でした。
急進的な浪士たちが次々と京に集結します。
幕府の出先機関の襲撃や、要人の暗殺など倒幕に向けた武装蜂起をし動き出しました。
京に不穏な空気が立ち込める中、孝明天皇に接近する勢力が・・・薩摩藩!!
1862年、島津久光は、1000人もの軍隊を率いて上洛。
朝廷に取り入り、その権威を背景に幕府政治に参画しようとしました。
一方、この接近は、天皇にとっても渡りに船でした。
上洛した久光に対し、孝明天皇は命じます。

「今日に滞在し、浪士共の蜂起を抑えるように」

攘夷の実現を目指す浪士たちを取り締まろうとした理由は・・・??
孝明天皇は、基本的に秩序を守る、維持するという立場でした。
そこに浪士たちがやってくるのは孝明天皇にとっては有難迷惑なことでした。
そこに、1000人の藩兵を連れてやってきた久光・・・頼りになる存在でした。
久光はすぐに行動を移します。
1862年4月、寺田屋事件
久光は、伏見寺田屋で、尊王攘夷派を粛正させました。
京での武装蜂起は未然に防がれ、孝明天皇は安堵しました。
ところが・・・その年の8月、予期せぬ事件が起こります。
久光の行列を横切ったイギリス人を、薩摩藩士が切り捨てた生麦事件です。
イギリスの報復に備えるため、久光は急遽薩摩へと帰国。
そして薩摩不在の京では、尊王攘夷派が再び勢いを取り戻します。
公武合体のために働いた公家の家臣から京都奉行所の与力までを標的に、テロの嵐が吹き荒れます。
この情勢の中、急速に朝廷に接近したのが藩を挙げて攘夷を掲げる長州藩でした。
久坂玄瑞、桂小五郎と言った弁舌に秀でた藩士が、三条実美ら公家を次々と取り込んでいきます。
朝廷の主導権は、完全に長州藩に握られました。

1862年11月、三条実美が、勅使として江戸へ・・・幕府にこう通告します。

「攘夷期限を決めて朝廷に報告すべし」

対応を迫られた幕府は、1863年3月、将軍・徳川家茂上洛。
実に229年ぶりの将軍の上洛でした。
これに合わせて天皇の周囲では、ある計画が進められていました。
京都市北区上賀茂神社・・・3月11日、孝明天皇加茂行幸。
孝明天皇は、楼門から中門に輿に乗り進み、中で攘夷祈願をされました。
天皇自ら神社に赴き攘夷祈願を行うのは、極めて異例のことです。
この行幸で、人々はさらに前代未聞の状況を目にしました。

孝明天皇が乗る鳳輦・・・その前後を将軍・家茂をはじめ武士たちが警護しながら神社に向けて進んでいきます。
天皇が将軍を従えて行幸し、攘夷を祈願する・・・これは、他ならない長州藩によって仕組まれたことでした。
さらに家茂は、尊攘派に押し切られるかのように5月10日をもって攘夷の実行を約束します。
猶予は3週間足らずでした。
孝明天皇が望む攘夷へ・・・時代は急速に旋回していきました。

攘夷決行の期日とされた1863年5月10日、長州藩は下関海峡でアメリカ船を砲撃!!
ついに攘夷の火ぶたが切られました。
しかし、列強との軍事力の差は歴然でした。
砲撃から20日後・・・6月にはアメリカ軍艦が聴衆に報復!!
長州の軍艦や砲台に壊滅的な打撃を与えました。
この時、長州にとって計算外だったのは・・・長州以外にどの藩も攘夷を行わなかったのです。
孤立した窮状を打開するため、長州は朝廷を動かし、ある秘策を打ち出します。
大和行幸です。
孝明天皇が、攘夷祈願のために大和の神武天皇陵などに行幸し、そこで軍議を開くという計画でした。
天皇が先頭に立って攘夷を行う・・・
天皇の権威によって、攘夷実行を各藩に強制していく・・・!!
極めて巧妙な秘策でした。

1863年8月13日、大和行幸の詔発布。

出発は1か月後・・・。
大和行幸を実行する??
この時、大和行幸を阻止するべく動き始めていたのが薩摩藩でした。
早くから異国の脅威にさらされてきた薩摩藩は、攘夷の危険性を痛感していました。
島津久光は、京都藩邸に使者を送り、工作を開始。
行幸の詔の出た8月13日、薩摩藩士高崎正風は、会津藩邸を訪問し、連携を図ります。
尊攘派から主導権を奪うため、京都守護職を務める会津藩900人の兵力を当てにしたのです。
御所を舞台にした大胆不敵な政変計画。
会津藩の回答は・・・??
”中川宮が決意されたのであれば如何様にでもご尽力する”
中川宮朝彦親王は、孝明天皇が兄とも慕う皇族です。
公武合体派の重鎮で、この時薩摩と共に政変計画に動いていました。
8月15日、高崎は、中川宮に政変計画を説明。
中川宮ら同志が参内したのち、御所の全ての門の出入りを厳重に差し止め、過激派公卿を退職、逼塞せしめる・・・御所封所計画です。
これに賛同した中川宮は、孝明天皇のもとに参内、天皇の判断を仰ぎました。

政変計画を承認して大和行幸を中止??

薩摩の島津久光に宛てた孝明天皇の宸翰には・・・
朕の存意はいささかも貫徹せず・・・尊攘派が牛耳る朝廷では、天皇の意見は何一つ通らないというのです。
尊王攘夷派の勢いに任せて、大和行幸を行うのか?
政変計画を認めて行幸を取りやめるのか・・・??
孝明天皇に選択の時が迫っていました。

1863年8月16日、孝明天皇は中川宮に密勅を下しました。
”会津中将に命じて処理せしむるのほかない
 よろしく命令して処分せよ”
天皇は、薩摩会津の政変計画を承認しました。
これによって、八月十八日の政変の幕が切って落とされたのです。
8月18日午前1時、中川宮をはじめとする政変の中心人物が密かに参内。
早朝4時ごろには、会津藩兵を中心とする兵力が御所の門を固めました。
公家たちは、正論、暴論の2つのグループに分けられ、暴論・・・長州と結託した尊攘派公家は、一歩たりとも御所に入れない警護が敷かれました。
次いで中川宮を中心に協議が行われ、尊攘派には過酷な処分が下されました。
三条実美ら尊攘派公家の官位剥奪、長州藩は御所の警備から外され追放!!
ともに長州に落ち延びていきました。
尊攘派は都から一掃されたのです。
この政変は、幕末の大きな転換点となりました。
長州藩はこれを機に武力闘争に舵を切り、1864年、京都で会津・薩摩と激突!!
禁門の変です。
長州が御所に向けて発砲したことに孝明天皇は激怒、以後2度にわたる長州征討を幕府に命じました。
ところが、1866年、第二次長州征討において、最新兵器を装備した長州に幕府が敗北。
その権威は地に落ちました。
一方、政変の筋書きを描いた薩摩の存在感は増大!!
幕末政治のキープレイヤーにのし上がっていきます。

1867年12月9日、御所を舞台に王政復古のクーデター
王政復古の大号令が行われ、天皇中心の中央集権国家が誕生しました。
孝明天皇の選択に端を発した一連の動きが、明治維新の道筋を決めたのです。
しかし、孝明天皇自身は、新たな時代を見ることなく1866年12月、36歳で崩御。
公式発表は、天然痘による病死・・・しかし、政治の渦中にいた天皇の早過ぎる死は、当時から噂がささやかれていました。
イギリス外交官アーネスト・サトウは、こう記しています。
天皇は毒殺された・・・??

「天脈拝診日記」・・・孝明天皇の侍医が残した日記をもとに子孫が発表したものです。
これによれば、天然痘の患者は発熱、発疹など五段階を経て快方に向かいます。
孝明天皇もその通りに順調に回復していました。
ところが・・・突然のたうち回って・・・手のつけようもなく・・・
”御九穴から御脱血”と書かれているものの、それが天然痘の症状とは思えない・・・。
図らずも江戸時代最後の天皇となった孝明天皇・・・
その死の真相については、論争は今も決着していません。

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神の子 洪秀全: その太平天国の建設と滅亡

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悠久の大河、果てしない大地・・・中国ではおびただしい数の人が歴史のドラマを紡いできました。
古よりこの国を治める者の戒めとなってきた言葉があります。

「君は船なり 民は水なり
 水よく船を乗せるも またよく船を覆す」荀子

君主という船は、民という水を制御できなければ転覆する・・・
歴代の殆どの王朝は、民衆の反乱から滅亡への道をたどってきました。
これほどの規模で反乱が繰り返された国は世界にも例を見ません。
反乱によって現れるのは、次の時代を担う英雄たちです。
英雄たちは人々とどう向き合ったのでしょうか?

秦の始皇帝以来2000年、中国を治めてきた皇帝。。。
1912年その統治が終わりを告げます。
辛亥革命です。
最後の王朝清を倒した革命軍・・・指導者・孫文は革命の父とよばれ、人々の敬愛を一身に集めてきました。
太平天国の乱・・・辛亥革命の60年前に起きた太平天国の乱・・・。
清王朝を揺るがした大きな民衆の反乱でした。
リーダーの名は洪秀全。
一握りの民族・満州族が治めた清・・・その支配がほころびを見せる中、貧しい漢民族の農家に生まれた洪秀全が反乱を起こします。
都・北京にまで迫ったのです。
13年に及んだ太平天国の乱・・・清に鎮圧され、乱に関わる文書などが焼かれたため、長い間謎に包まれてきました。
しかし・・・近年、洪秀全が民衆に宛てた檄文が発見されました。
そこから洪秀全が掲げた壮大な理想が見えてきます。
浮かび上がる歴史の真相とは・・・??

中国南部の大都市・広東省の広州・・・
太平天国の乱を起こした男は、この郊外のちいさな農村・官禄坿で生まれました。
1814年農家の3男に生まれた洪秀全・・・どのようにして、国を動かすような大乱を起こしたのでしょうか?
一族の住んでいた長屋は窓がなく、部屋が狭い事です。
洪秀全は、漢民族の中でも「客家」に属していたので、貧しく地元の住民と対立しやすかったので、周りの十人との防犯の意味で、窓がなかったのです。
「客家」には、よそ者という意味があります。
過去の王朝が滅んだときなどに故郷を追われ、流民となった漢民族の事です。
18世紀以降、客家は敢闘賞に多く移住・・・その多くが、大地主の元で、小作として生活していました。
地元の小作農よりも安い賃金で働いた客家の人々・・・働き口を奪うものとして敵視されることも多く、固まって暮らしていました。
非常に貧しかったものの幼いころから勉強熱心だったので、両親は塾の費用を工面しました。
すべては、科挙に合格するためでした。

科挙は、中国で7世紀以来続いてきた官僚の採用試験です。
主な科目は儒教と詩作。
男性であれば、身分を問わず受検することができたので、14歳から何度も受けました。
受験料が要ったので、毎年ではありませんでしたが・・・。
洪秀全の村の近くにある富裕層向けの塾・・・富裕層の子弟たちは、高額な授業料を払って充実した教育を受けていました。
一方、洪秀全が通った塾には優秀な先生もおらず、半ば独学でした。
厳しい農作業の合間に、懸命に塾に通い学び、受験し続けること14年・・・
しかし、合格の通知は届きませんでした。

この頃、科挙に大きな問題があったことが、近年解ってきました。
紫禁城にあった資料には・・・1833年広東省の科挙について記された資料が・・・
科挙を受ける学生たちの管理をする「学政」という官僚がいて、その広東学政の李泰交が1834年の正月に自殺しています。
自殺をしたときの手紙が発見されたのです。
それは・・・採点官が手心を加えた・・・カンニングなどの不正を取り締まることができなかったことに対する、抗議の自殺でした。
背景にあったのは、科挙の倍率の急激な上昇でした。
17世紀には人口8000万ほどの清でしたが、洪秀全が生きた19世紀には4億となっていました。
科挙の試験がますます狭き門となる中、実力での合格を諦め、不正を働くものが出てきたのです。
不正を告発した監督官の自殺・・・
清王朝は公にしませんでしたが・・・洪秀全には伝わっていたようです。
自分が一生懸命受けて・・・あれは何だったんだ・・・
不正を取り締まれないような試験の中で、自分が結果を出せないことに対するいら立ちは大きいものでした。
清王朝の支配にほころびが見え始めた19世紀・・・
この頃、中国の利権をめぐり、欧米列強が進出します。
1840年、イギリスとの間でアヘン戦争・・・清は大敗を喫し、時代は転換点を迎えるのでした。

貿易の拠点として外国人たちがたくさんやってきた広州・・・
そこで科挙を受けた洪秀全は、人生を変える教えと出会うのです。

キリスト教の教会”石室聖心大聖堂”です。
19世紀、欧米の宣教師たちは、中国人たちに積極的に布教活動を行っていました。
洪秀全が初めてキリスト教徒であったのは、19歳の時でした。
宣教師が街角で配布していたパンフレットを手にしたのがきっかけでした。

「儒教はウソに満ちていませんか?
 みなさん、幼いころから儒教の勉強をしてきたのに70歳、80歳になっても科挙に合格できない者がいるなんて・・・」

洪秀全は、このパンフレットをずっと持っていたといいます。

23歳の時、洪秀全は、3度目の科挙の試験に失敗し・・・そうしてその夜、不思議な夢を見ます。
夢の中、天に上った洪秀全は、金髪の黒い衣服をまとった一人の老人と出会います。
「洪秀全よ、まずそなたの体を清めよう」
そう言って、老人は洪秀全の内臓をすべて取り去り、代わりに新しい真っ赤な臓腑を埋め込みます。
そして老人は剣を渡してこう言いました。
「そなたの天命はこの剣を振るい、腐敗した世を正しい方向に導くことだ。」
その後、科挙に挑戦するも不合格に終わった洪秀全・・・
遂に、夢のお告げに従うことを決意します。
洪秀全は独学でキリスト教を学び始めます。
それが腐敗した世を変える力だと信じたからです。

洪秀全は30歳の時、上帝教という教団を作ります。
当初は聖書に基づく不況をしていましたが、中々信者が集まらず・・・
洪秀全は、上帝以外は神でないとし、中国伝統の儒教や道教の寺院を仲間と共に破壊しました。
さらにそこに、神のお告げが下り、洪秀全は上帝の息子であり、キリストの弟ということに・・・。
異端ともいえる教えでしたが、多くの人が耳を傾け、崇めるようになりました。
僅か3年で、信者は2万に上りました。
その信者の殆どが、貧しき客家の人々でした。
清への強い不満・・・アヘン戦争で敗れた清は、賠償金返済のために土地の税を増額・・・重くのしかかったのが小作の客家の人々だったのです。
腐敗した世を正せ・・・遂に、お告げを叶える時がやってきました。
1851年、37歳の洪秀全は、江西省の金田という村で、兵を挙げます。
太平天国の乱です。
突然の反乱に、清は後手に回る中、洪秀全たちは南部の年を次々と攻略!!

清の人たちは、彼らの事を長髪賊と言いました。
国が決めた辮髪を結っていなかったからです。
辮髪は、清を支配する少数民族満州族の独特の風習でした。
17世紀に王朝ができて以来、ほとんどを占める漢民族をはじめ全国民に強要されていました。
殆どが百家・・・漢民族だった太平天国の兵士たちは、清の支配に反発し、髪をほどいたり、切ったりしました。
太平天国の乱は、満州族を倒し、漢民族を復活させる・・・滅満興漢の戦いでもあったのです。

決死の覚悟を支えたものは一体何だったのでしょうか?
湖南省・長沙で・・・「太平王洪秀全檄文」が発見されました。
洪秀全が人々に反乱への参加を求めたビラです。
太平天国の乱に関する記録は、清王朝が燃やしてしまったので、極めて貴重です。
このビラは、太平天国の極めて初期のもので・・・
興味深いのは、キリスト教や饅頭族のことについてほとんど触れられていない点です。
強調されているのは、どんな新しい国を築くか?というものでした。
・一つでも技能のある者は、身分を問わず、1000人のリーダーにします。
・富めるものが分け与え、貧しい民が決して見捨てられないようにします。
・もし、権威をかさに貧しいものから略奪する者があれば、誰であろうと即刻処刑します。
身分を問わず、人材を登用する・・・貧富の差を無くす・・・全く新しい平等の世を築くことを宣言していました。
これは、中国で最も早くに考えられた社会主義の思想です。
貧しい民衆たちは、これに心惹かれました。
キリスト教の教えに基づくように思われますが、洪秀全独自の考えによるものです。
聖書には神の下の平等は書いてあっても、政治や経済の平等は具体的には書かれていません。
それを言い出したのは洪秀全でした。
元々農民であった洪秀全にしか書けない農民の心に訴える思いが書かれていました。
平等を目指す戦い・・・洪秀全は、社会を支配する皇帝という存在にまで疑問の目を向けていきます。

「神である上帝以外は、帝などと名乗らせてはいけない・・・
 帝などと名乗る大それた者は永遠に地獄に落ちるだろう。
 その罪の先駆けは、秦のせいである。」

秦とは・・・始皇帝の事です。
始皇帝以来2000年続いて以来続いてきたこの国の皇帝社会を否定したのです。
太平天国で、無条件に上に立つ存在は、上帝・・・つまり、神だけ・・・。
他は皆平等・・・洪秀全は、この平等な社会を徹底する為に、不平等の象徴だった皇帝を倒そうとしたのです。
最初に皇帝なき世界を目指したのは洪秀全でした。

挙兵からわずか2年で南京にせまります。
清にとっても要の地・・・。
高さ20メートル、全長25キロの防壁で、守りを固めていました。
指揮髙い太平天国軍は、装備もままならぬ中、一気に城壁を駆けあがります。
当初、2万人だった太平天国軍は、20万にまで膨れ上がっていました。
その圧倒的な数を前に、清軍はなすすべなく敗れ去りました。

洪秀全は、南京を天京と改め、ここを都とする太平天国の建設を宣言します。
当時、南京にいた90万の人々も、そのまま太平天国の国民となり、その後11年間にわたり南京を治めた太平天国・・・
後に破壊されたため、謎に包まれてきました。
奇跡的に残されていた痕跡・壁画には・・・
発見当初、その壁は、白く塗りつぶされていました。
乱を鎮圧した軍が破壊する前に、白く塗られたのです。
その描かれた風景には太平天国特有のものが・・・
太平天国は、偶像崇拝を禁止していたので、一人の人物も書かれていないのです。
誰かを描いた瞬間に、その人が特別となって平等ではなくなるのです。
太平天国独特のユートピアなのです。

太平天国の国民になることを望んで、様々な階級の人々が集まってきました。
南京千両から2年後、遂に北京の攻略を目指します。
しかし、清の軍に敗退・・・
原因は、南京からの物資が届かず、食料不足に陥ったせいでした。
どうして食糧不足があったのでしょうか?
太平天国は、最初に蜂起した時から、全員で財産や食料を出し合い、均等に分配していました。
南京を落とした後も、同じように90万人の市民から食料を集めて倉庫に納めたあと、軍と市民に均等に分配しようとしたのです。
果たして均等にできるのでしょうか??
無理だったのです。
南京征服によって人数が膨れ上がり、90万もの人々から集めるのも分けるのも難しい・・・
迷っている間に、北京へ行っていた軍隊に食料を届けることができなかったのです。

北京攻略の失敗後も、平等であることにこだわり続けた洪秀全。
田畑も食料も、布も、貨幣も全部一旦預けてほしい・・・
みんなで平等に分ければ、飢えたり苦しんだりしないはず・・・
巨大な倉庫をたくさん作らせて、人々が財産を提供してくれるのを待ちます。
しかし、人々は応じません。
太平天国の高すぎる理想に戸惑いや疑問を感じる人が増えていました。
やがて太平天国は税を集めるようになります。
平等の理想は失われていきました。

太平天国が勢いを失う中、清が攻勢に転じていきます。
それは欧米列強からの援軍でした。
当時、列強は太平天国と友好関係を築こうとしましたが・・・求めていたアヘンの取引を洪秀全に拒否され・・・
認めた清に手を貸したのです。
南京総統府・・・洪秀全が最後に住んだ場所です。
勢いも衰え、清王朝の打倒の望みが潰えようとする中・・・洪秀全は変わっていきます。
黄金の玉座・・・玉座の形も部屋の作りも・・・清王朝の皇帝と同じです。
反乱末期は、側近に政治を譲り、言われるがまま判を押し続けたといいます。
着ていた衣の黄色は、皇帝だけに許されたものでした。
その姿は、洪秀全が否定しようとした皇帝そのものでした。
かつて新しい社会を築こうとした洪秀全の意欲は失われていたものの・・・部下たちは彼に縋り、祭り上げるばかり・・・。
理想通り平等にはできない社会。。。
ひとたび劣勢となった反乱軍が攻勢に転じることはありませんでした。
占領した都市を次々と失い・・・1864年南京包囲!!
南京に籠る反乱軍は、食料もなくなり、絶望的な状況に陥っていました。
清の軍の包囲が続く中、病を得た洪秀全はこの世を去りました。
享年50・・・。
それから1か月後、南京陥落。
清は、洪秀全の遺体を掘り出し焼き払います。
貧しい農民だった洪秀全は、蜂起してから13年・・・太平天国の乱は終わりました。

中国の国土の広さ、人の多さに挫折した洪秀全・・・
洪秀全の黄金の玉座が置かれていた総統府・・・ここで48年後、同じ場所で中国の指導者となったのは孫文でした。
1912年信を倒し、ここで中華民国初代臨時大総統となったのです。
孫文の部屋には・・・どこにでもある机と椅子がありました。
清王朝を倒し、皇帝なき世界を作ろうと二人・・・
洪秀全が挫折し、孫文が成功した理由は・・・??

孫文は、洪秀全と同じ広東省の出身です。
生まれたのは、太平天国の乱終結から2年後の事でした。
孫文の父は、農業の傍ら出稼ぎで家計を支えていました。
幼いころ、孫文は太平天国に参加した老兵から洪秀全の話を何度も聞きます。
後の側近によれば、自分の事を洪秀全第二と呼んでいたといいます。

孫文の幼いころ、太平天国の痕跡は殆ど焼かれていましたが、人々の心の中には強く残っていました。
しかし、洪秀全を超えることを考えることをできたのは、孫文だけだったのです。
36歳の孫文が書いた太平天国戦史は、清王朝の目を逃れるために、日本で出版されました。
この頃すでに革命運動に身を投じていた孫文は、徹底的に太平天国の乱を分析しています。
孫文が革命を推し進めるうえで二つの事を重視しました。
それは、外交と革命資金の調達でした。
孫文はアメリカやイギリス、日本を頻繁に訪れ、中国の近代化を説き援助を求めます。
孫文は、イギリスやアメリカなど西側世界の人々から得た共感を、支持者たちに届けたいと訴えています。
中国の革命をアメリカやヨーロッパ世界と共に行おうとしているのです。
孫文の外交活動は功を奏し、清王朝は次第に列強の支援を失い、孤立していきます。
更に孫文は、海外からの資金調達に奔走します。
日本でも政治家の犬養毅、実業家の渋沢栄一と交流し、資金の調達に成功します。
こうして得た莫大な資金を、中国各地の革命勢力に送ります。

そして・・・1911年10月辛亥革命勃発!!
1912年宣統帝溥儀退位・・・清王朝は滅ぶのです。
中華民国の初代臨時大総統に就任した孫文は、就任時の宣言書で革命の総決算ともいえる理想を説きました。
それは「五族共和」です。
五族とは、清王朝の主要な民族漢民族・満州族・モンゴル族・ウイグル族・チベット族のことで、その五つの民族が違いを超えて一つになることを解いたのです。

かつて皇帝なき平等な世を唱えながら満州国打倒を唱え続けた洪秀全・・・これに対し、孫文は満州族も含む多様な民族があってこその中国だと宣言したのです。
洪秀全に憧れ、その失敗を学び続けた孫文・・・彼は周囲にどれだけ押されても、最後まで皇帝になること張りませんでした。
皇帝の時代が孫文によって終わりを告げたのです。

孫文が最も大切にした言葉は「天下為公」・・・天下は公の為、民のためにある。


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1882年イギリスにて・・・ひとりの日本人の伝記が発表されました。
タイトルは”吉田寅次郎”・・・幕末の志士・吉田松陰。。。
作者は、”ジギル博士とハイド氏”のロバート・スティーブンソンです。

「ほかの人間なら意気消沈してしまいそうなどんなことがおこっても、
 吉田はかえって自分の使命を果たす意欲をかきたてた。」

syouin松陰は、どんな困難が起こっても、常に自分の信じる方向へ向かっていきました。
あの時代・・・押し寄せる西欧列強!!開国を迫ってきました。
対等に見てくれない西欧列強に対して、断固と立ち向かう松陰!!
日本の独立を守るためにはどうすればいいのか??

松陰は、長州藩・下級武士杉家の次男として生まれます。
苦しい家計を支えるために、家族で畑を耕す毎日でした。
5歳の時・・・親戚の吉田家に仮養子として迎え入れられます。


吉田家は、長州藩で山鹿流兵法師範を務める家柄でした。
山鹿流兵学は、江戸時代に生まれた兵学で、戦術だけでなく、武士道・精神論を重視した兵学です。

松陰を指導したのは、叔父の玉木文之進。
その教育はまさにスパルタでした。
そこで教えられたのは「公」と「私」。
自分の人生は長州藩のためにある!!と、松陰は作り上げられていきます。
そして・・・わずか11歳で藩主・毛利敬親に兵学講義を行えるまでになりました。
長州藩は、松陰に一目置かれるようになり・・・明倫館で兵学講義を行うようになります。

その頃・・・アジアを震撼させたのはアヘン戦争!!
1840年イギリスが清でアヘンを密輸出したことが原因で起こった戦争です。
そして・・・あの清がイギリスに敗れた!!と、周辺諸国を恐怖に陥れます。
三方を海に囲まれた長州藩!!危機感を募らせていきます。

そして・・・松陰の関心は世界へ・・・!!
その中でも、もっとも関心があったのは、アメリカ合衆国のようです。

「不羈独立を目指す!!」ようになるのです。

長崎で・・・自分の浅はかさに気付き、アヘン戦争の実態を調べます。
”イギリスは百発百中だったのに対し、清の大砲は、十発のうち九発は当たらなかった”という現実に・・・西欧とアジアの力の違いは歴然としていました。

山鹿流兵学・伝統兵学・和流砲術で十分ヨーロッパと戦えると思っていた松陰・・・
アヘン戦争の厳しさ、中国の軍備が通用しない現実を知ることとなるのです。

自分が学んできたこれまでの兵学、軍備は役に立たない・・・!!
長州を守るためにどうすればいい??

1851年、松陰は自分の知識を高めるために、江戸へ遊学します。
そして・・・さらに東北への旅を計画します。
当時、津軽海峡にはロシア船の恐怖に晒されていたからです。
しかし・・・出発の期日までに藩の正式な許可証が発行されませんでした。
なので、脱藩して友人と東北の旅に出ます。
つまり、”私”よりも”公”を大切にするということです。
個人的に、脱藩の罪に処せられてもそれは個人の問題で、公の長州藩の名誉を守ったのです。

脱藩を冒してまで旅に出た松陰は・・・水戸でその後の人生を左右する人物に出会います。
会沢正志斎です。
当時・・・日本人は、自分たちの国は藩だと思っていました。
その中でも会沢は・・・”国とは天皇を中心とした日本全体”という考え方をしていたのです。
そう、どこまで守ればいいの?という答えは、水戸にあったのです。
そして、”日本”を意識するようになります。

旅から帰ってきた翌年の1853年・・・ペリー艦隊が浦賀に来航!!
幕府に開国を迫ります。
「これらの船は、艦隊のごく一部にすぎない!!今度は、全艦連れて帰ってくる!!」byペリー

不羈独立への道を進むために攘夷を・・・!?

翌年ペリーが来航した時にどういう対応をすべきか??
主君に進言し、長州藩を通して幕府に訴えようとします。
ペリーに対して攘夷を決行することを薦めます。
しかし、単なる追い払いではなく・・・大砲・小銃は西洋のモノに・・・海軍も西洋に習うべしとしています。
そのためには、国を開くこともありうると・・・!!

しかし・・・幕府も長州藩も・・・勝ち目のない戦には賛同してくれません。
当時の長州藩としては、幕府を重視していました。幕府を批判して軍備をやるというのは、長州藩の方針ではなかったのです。
松陰の危機感をよそに時間は過ぎていきました。

1854年1月ペリーが再び来航。
しかも、4隻ではなく・・・7隻で・・・!!

3月3日・・・遂に日本は日米和親条約を結びます。
武力を背景としたペリーに屈したのです。
アメリカとの国交ができたということは、松陰の攘夷も無くなり・・・しかし、大国に屈しないためにどうすればいいか?考えます。

条約調印後、ペリーは下田に移っていました。
ペリーの後を追って松陰は、3月18日弟子の金子重之助と一緒に下田に入ります。
厳戒体制の下田で・・・匿われながらあの計画を練っていました。
海外密航の・・・!!
優れた文明を学ぶために!!

当時、海外留学は幕府によって固く禁じられていました。
発覚すれば死罪かも・・・??
日本の独立をかけてそんな計画を練っていた松陰。
3月27日金子と共に港の中の小島に身を隠します。
寝静まるのを待って深夜2時・・・遂に決行します。
荒波の中、漁船でペリー艦隊へと向かいます。

「世界を見たい・・・!!」

懸命に、海外への思いを訴える松陰・・・しかし、それがペリーに届くことはありませんでした。
結局・・・送り返されることとなった松陰と金子。。。
人生をかけた松陰の計画は失敗と終ったのです。

この事件は死の危険を冒すことも厭わなかった二人の教養ある日本人の激しい知識欲を示すものとして非常に興味深かった。
この日本人を見れば、この興味深い国の前途はなんと可能性を秘めていることか。
失敗に終わった松陰の海外密航・・・それは、ペリーに日本人の力強さを見せつけたのでした。

ペリーの助言もあって、命を助けられた松陰は、萩にある実家の杉家で謹慎生活を送ります。
そこに集まってきたのは将来の日本を憂う若者たちでした。
松下村塾を開き、語り合うようになります。
久坂玄瑞・高杉晋作・・・明治維新の原動力となった人々に、大きな刺激を与えるのです。

松陰は罪人だから、松下村塾に行くのは立身出世にはマイナスです。
あえて行こうと思ったのは、松陰の人間性にだったのです。
集まった門下生にあった教育を施す松陰・・・
しかし・・・それも長くは続きませんでした。

幕府の実権を握っていたのは大老・井伊直弼。。。幕府の強化を進めるために、安政の大獄を行います。
松陰はこの取締りの対象となります。
江戸で幕府の取り調べを受ける松陰・・・。
取り締まりの結果・・・死罪・・・。

1859年10月27日吉田松陰・斬首。。。

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故郷の萩・・・生誕地のすぐそばに、松陰の墓があります。
この墓が建てられたのは、松陰の死からわずか4か月・・・。
罪人だった松陰の墓を造ることははばかられていました。
にもかかわらず・・・それを実行したのは、高杉晋作をはじめとする門下生たちでした。
松陰の意志を受け継ぎたいと、自らの名も彫り込んでいます。

松陰の死後8年・・・門下生たちは、徳川幕府を倒し、新しい時代を築いていきます。
新政府のメンバーとなった木戸孝允・伊藤博文は、明治4年に新政府主要メンバーと共に欧米視察に出ます。
松陰の意志を受け継いだのは他にも・・・
鉄道建設に尽力した飯田俊徳・東京工業大学初代校長の正木退蔵・近代造船の発展に尽力した渡辺蒿蔵・・・彼ら門下生も、海外留学し、日本をリードしていきます。

西欧に負けない国を目指す!!
不羈独立・・・門下生たちは、独立した確固たる日本を作るために走り続けたのです。


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