日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:エニグマ

この地球に君臨するホモ・サピエンス・・・ラテン語で賢いを意味します。
しかし、人類を上回る知能を持った存在が現れた時、何が起きるのか・・・??
2017年、人間を打ち負かした人工知能AI・・・
コンピューターが、プロ棋士のTOP名人を破りました。
いまや機械は、自ら学習し、進化し始めています。
人が操作しなくても走る自動運転・・・専門の医師も見逃すようなガンをコンピューターが見つけ出す・・・
こうした人工知能を70年も前に予言した男がいました。
数学者アラン・チューリングです。

「我々が求めているのは経験から学習する機械だ!!」

彼は時代を先取りしていました。
知性とは何かを問い、科学の新境地を切り開こうとしたのです。
しかし、チューリングの人生は大きく狂わされます。
それは、第二次世界大戦での秘密作戦への参加でした。
ドイツの暗号・・・エニグマの解読です。
不可能とされたこのミッションを、チューリングは超高速な計算機を開発し、成功させます。
この功績は戦後も極秘中の極秘とされ、チューリングは忘れられた科学者となります。
機密を他言した場合は、刑務所行きか射殺されると言われていたようです。
その為に、チューリングの人生は悲劇に見舞われるのです。

人工知能を予言した男・・・アラン・チューリング・・・
その知られざる悲劇の物語とは・・・??

イギリス・・・ロンドン・・・この町の地下に、第二次世界大戦当時の戦時内閣執務室が残されています。
時の首相ウィンストン・チャーチルは、大きな危機に直面していました。
ナチス・ドイツによって、ロンドンの街は猛烈な空爆に晒されました。
海では、神出鬼没の潜水艦Uボートによってイギリスの輸送船が次々と撃沈されていました。
ドイツは高度な暗号を使って作戦を展開・・・イギリスには、その攻撃を防ぐ術がありませんでした。
チャーチルの命じた最高気密の作戦・・・暗号の解読でした。
ナチス・ドイツの暗号期の名はエニグマ!!ドイツ語で謎を意味します。
生み出される暗号のパターンは、1京の1万倍以上・・・世界中の暗号解読者たちが10年以上かけても解読されませんでした。
ナチス・ドイツは、解読は不可能だと絶対の自信を持っていました。
その不可能を可能にした男・・・アラン・チューリングです。
後に、人工知能を予言する天才数学者です。
1912年、ロンドンに生まれたチューリングは、孤独な少年時代を送りました。
両親は、当時イギリスの統治下にあったインドに赴任・・・知人の家に預けられました。
幼いころからチューニングは数字に異様な興味を示しました。
街灯に作られた番号を見ると、一つ一つ立ち止まって読み上げる変わった子でした。
10歳の時、ある1冊の本と出会います。
「自然の不思議」という本を読んで、能の仕組みに夢中になりました。
その本は、「人間の体は機械である」と定義しています。
そして、脳も機械的に機能するものであり、その働きは科学的に説明できると書かれています。
チューリングにとっては驚きでした。
13歳の時、全寮制の男子校に入学・・・人づきあいが悪く、科学の話しかしないチューリングは、変り者として扱われ、友達はひとりもいませんでした。
床下に閉じ込められるなど、陰湿ないじめも受けました。
そんなチューリングにある時、1年上の先輩が手を差し伸べます。
クリストファー・モーコム・・・学校一の秀才でした。
モーコムは、難解な科学の話も真剣に聞いてくれました。
初めて自分を理解してくれる人間と出会い、チューリングの心は次第に満たされていきます。
二人はともに、科学の最高峰・ケンブリッジ大学への進学を目指すようになります。
これは、チューリングにとって、恋愛感情の芽生えでもありました。
彼は、モーコムに淡い恋心を抱いたのです。
出来るだけ一緒にいたかったのです。
17歳のチューリングは、卒業を目の前にしたモーコムと一緒にケンブリッジを訪れています。
しかし、モーコムは、ケンブリッジ大学への進学が決まった直後、18歳で息を引き取りました。
結核でした。

チューリングが母に宛てた手紙には・・・

「僕が、モーコム以外の誰かと友達になろうと思うことは、二度とないかもしれません
 モーコムに、またきっとどこかで会える・・・」

それは、モーコムの死を否定するものでした。
モーコムの心は生きていると思いたかった・・・そして、チューリングは、何としても心というものを知りたかったのです。
心は脳によって生み出されるもの、しれは一体何なのか、理解したいという衝動にかられます。
これが彼の研究の原動力となり、後に人工知能へとむかわせることになるのです。

1931年、モーコムが亡くなった翌年に、チューリングは一緒に通うはずだったケンブリッジ大学へと進学。
新進気鋭の数学者マクスウェル・ニューマンの講義を受けます。
チューリングは、彼の運命を決定づけるある言葉とここで出会います。

「人間が行う数学の計算は、いずれ全て機械がこなせるようになる」

当時、計算機と言えば、特定の計算しかできないものでした。
四則演算を行う計算機、微分解析機、人間のように様々な計算のできるものはありませんでした。
人間の脳のようにあらゆる計算の完璧にできる計算機を作ることはできないか・・・??
チューリングは、全く新しい概念にたどり着きます。
足し算や引き算など一つ一つの計算方法を数字に置き換えて表現できないか・・・??と。
あらゆる計算方法が数字に返還できれば、一台の計算機で処理することが可能になる・・・!!
それは、プログラムで機械を動かすという、現在のソフトウェアの概念そのものでした。

この方法を発展させ、計算だけでなく人間の行うあらゆる行動を数字に置き換えれば、機械で実行できるに違いない・・・!!
後に、万能チューリング・マシンと言われ、これはまさに世界初のコンピューターの構想でした。

1936年、論文が学会誌に掲載されると、クルト・ゲーテル、ジョイ・フォン・ノイマンら学者たちに驚きをもって受け入れられます。
しかし、彼らを除くと、あまりに斬新なチューリングの発想は、理解されませんでした。
1つの機械があらゆる仕事をこなすというアイデアは、驚異的なことでした。
人類史上、誰も考えつかなかったこと・・・ある意味、気味の悪い概念でした。
プログラムを書けば、望む事を何でもこなしてくれるという機械なのですから・・・。

チューリングの考えた数字化したソフトウェアを実際に処理する高速の演算機はまだありませんでした。
チューリングは、その開発に向けて研究を進めます。
しかし・・・1939年、第2次世界大戦が勃発・・・チューリングは、イギリス政府の情報機関・政府暗号学校にヘッドハンティングされました。
課せられた任務は、あのエニグマの解読でした。
当時、ドイツから奪い取ったエニグマから複製機が作られていました。
配線と歯車によって文字を変換する設定が決まる・・・
配線を繋ぎ変え、歯車を回転することで設定は容易に変えられる・・・!!

配線を越えると文字の変換方法が変わり、歯車によっても変わる・・・これを何度も繰り返すことで、複雑な暗号化を可能にしました。
配線と歯車の設定がわかれば、暗号を解読できるが、その組み合わせは1京の1万倍以上・・・
さらに、ドイツは、その設定を毎日変えていました。
解読は不可能だと考えられていました。
政府暗号学校には、ケンブリッジ大学を中心に若手の優秀な数学者が集められていました。
中でも、チューリングは大型新人として期待されていましたが、一方、エキセントリックな性格で注目されました。
職場でもプライベートでも一人で過ごし、自分よりも知的レベルが低いと思う人間とは付き合わない・・・
花粉症だったため、ガスマスクをつけてサイクリングに出かけました。
その姿に、天才だが変人だと評されました。

その頃の政府暗号学校では、人海戦術によって一部を解読していましたが、1週間もかかっていました。
その時には既に、ドイツ軍の攻撃は終わっていました。
チューリングは、その役に立たなかった解読文目をつけました。
分析を繰り返した結果、ドイツは決まり文句を使用していることが分かったのです。

その一つ・・・ドイツ語で天候を意味する”WETTER”
毎朝6時過ぎに気象情報を暗号化して送っていたため、通信文にたくさんありました。
暗号文のどの部分が”WETTER”に対応するのか??人間が探すこととなりました。
エニグマの構造上、入力された文字は違う文字に暗号化されます。
どの文字とも一致しない部分を探します。
”WETTER”に当たる暗号文が見つかれば、次は”WETTER”をそのように変換する設定を突き止めることとなります。
しかし、これは大変な作業でした。
”WETTER”6文字のヒントがあっても、設定には天文学的なパターンがあったからです。
そこで、チューリングは、人間の能力を超えた速さで設定を探し出す新たな機械を考案します。
暗号解読機”ボンブ”・・・それは、36個のエニグマを同時に稼働させるというものでした。
歯車を高速で回転させ、暗号の設定を自動的に一つ一つ試していく・・・
設定を突き止めると回転が止まり、結果が表示されるのです。
1940年8月には、人手で1週間かかった解読が、1時間にまで短縮されました。
翌年、Uボートの暗号解読にも成功します。

「敵影なし 翌朝までにコース070に引き返せ」

「区画4925にて1時間以内に攻撃開始」

ボンブは素晴らしい成果をあげました。
しかし、現代のコンピューターの祖先とまでは言えません。
後に、電子工学が実用化され、大幅な計算スピードの向上が達成されて初めて、今のコンピューターが生れるのです。
不可能とされた暗号解読を見事に成し遂げたチューリング・・・
しかし、コンピューター実現に向けた本来の研究を中断せざるを得ませんでした。

エニグマの解読に成功したイギリス・・・しかし、その事実は極秘中の極秘・・・ウルトラシークレットとされました。
ドイツに気付かれれば、エニグマが改良され、再び解読不能となる恐れがあったからです。
そこでイギリスは、様々な偽装作戦を実行しました。
エニグマの解読によって、Uボートの位置が解読できても、わざわざ偵察機を飛ばし、たまたま発見したように装いました。
また、Uボートが水面に潜っていても、検地できる長距離レーダーを開発したと嘘の情報を流しました。
偽装工作によって、エニグマが解読できていることをなんとか気付かれないようにしていました。
その為に、多くの命が犠牲になったという話もあります。
攻撃のアリバイを作るために、偵察機が来るまでUボートを攻撃できなかったのです。
偵察機を待っている間に、イギリスの日ねがUボートによって撃沈されることもありました。

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イギリスは、チューリングが作ったボンブをさらに進化させ、新たな暗号解読機コロッサスを開発。
2400本の真空管を使うことで、ボンブよりも劇的に早い処理速度が可能となりました。
このコロッサスの東條は、1944年のノルマンディー上陸作戦の成功に、決定的な役割を果たします。
ドイツ軍は、イギリスに最も近いカレー二千rにょくを集中させて連合軍の常陸に備えていることを暗号解読で解明・・・
手薄だったノルマンディーからの上陸が決行されました。
上陸を成功させた連合国軍は、ベルリンを目指し、快進撃を続けます。
1945年5月7日、ナチス・ドイツ無条件降伏!!
チューリングの暗号解読は、戦争の終結の大きく貢献し、連合国を勝利に導きました。

しかし・・・この極秘作戦について語ることは厳しく禁じられました。
チャーチルは、チューリング達暗号解読者についてこう評しています。

「金の卵を産んでも決して鳴かないガチョウたち」

戦後、イギリスはドイツから没収した数千台のエニグマを、解読できない暗号機だと偽って、旧植民地などに普及させます。
そして、彼らの通信を密かに解読し、各国の内情を掴んでいました。
チューリングの偉業は、戦後もずっと世間に知られないままとなりました。
それどころか、事実と正反対の不当な評価を受けていました。
暗号解読に従事した人たちは、戦地に赴くことはありませんでした。
その為”兵役逃れ”というレッテルを貼られました。
戦争に何も貢献していない人たちだと思われていたのです。
圧倒的に重要な仕事をし、戦争における中心的な役割を担っていたにもかかわらず、そのことを誰かに告げることは許されませんでした。
両親や家族にも知らせることが出来なかったのです。
チューリングが本来進めたかっらコンピューターの研究は、止まったまま・・・世界で初めてソフトウェアの概念を打ち立てた論文を発表して、8年余りが経っていました。



1945年6月・・・チューリングのもとをある男が訪ねてきました。
イギリス国立物理学研究所の数学部門のTOP・・・ジョン・ウォームスリーです。
ウォームスリーは、チューリングが8年前に発表した論文を読んで以来、その才能を高く評価していました。
そして、コンピューターを作るチャンスを提供したのです。
終に長年の夢をかなえられる・・・チューリングは友人に宣伝しました。

「能を作るぞ」

1946年、チューリングは、世界初のコンピューターを設計。
エースと名付けられました。
設計の基本思想は、ハードウェアをなるべくシンプルにして、その分を高度なプログラムで補うというものでした。
当時最先端の電子工学を駆使して、超高速の演算処理を可能としていました。
新聞には、エースを称える文字が踊りました。
ところが、実際に作り上げる段階で、開発は難航します。
戦争で破壊されたインフラの復興に、技術者たちの手が取られ、夢のような計画には人手を回せないという現実がありました。
チューリングの設計思想にも批判が・・・
理解しがたい難しいプログラムに頼らず、ハードウェアを大きくすればいいという指摘でした。
チューリングの本当の経歴を誰も知りませんでした。
単に優秀な数学者という程度で、それ以上の評価はありませんでした。
もし、チューリングの戦時中の功績が知られ、国民的英雄だと評価されていたら、全く違っていた結果になっていたはずです。

チューリングは激怒・・・研究所の上司に意見書を提出します。

「困難な問題を思 考ではなく多くの装置で解決しようとする
 全くスマートでないやり方だ」

研究所の同僚が、まずはレベルを落とした現実的なパイロット版をと提案しますが、その製作を拒否。
レベルを下げてでも試作機を作るのは、賢明なやり方です。
しかし、チューリングはやりたいことではなかったのです。
ハイスペックのコンピューターを、作れる可能性があるのになぜそうしないのか・・・!!
低レベルの試作機を作るなんて、時間の無駄だと思ったのでしょう。
チューリングは結局、チームプレーヤーではなかったのです。

チューリングはどうしてもハイスペックなコンピューターが欲しかった・・・
そのコンピューターに、人間の脳の機能をプログラミングすることで、人工知能の実現を目指していたのです。

1947年、チューリングは数学者の学会で、世界初ともいわれる人工知能の宣言を行います。

「我々が求めているのは、経験から学習する機械だ」

その翌年、知能機械と題した論文を発表。
人間の脳をモデルにして、コンピューター上に神経細胞、ニューロンのネットワークを構築するというものでした。
チューリングは、人間の脳の中で、ニューロン同士が接続と解除を繰り返し、学習していくという現象に着目します。
この現象を再現できれば、人間の脳は作れるはずだ・・・!!
脳の働きを機械的にとらえた先駆的な発想でした。
現在、この研究が、巨額な資金を投入して進められていますが、彼は1948年にすでにこのアイデアを思いついていたのです。

しかし、あまりに早すぎた研究は、理解されませんでした。
論文を読んだ国立物理学研究所の上司はこう言ったといいます。

「まるで小学生の作文だ
 発表に値しない」

その頃、一つのニュースが世界を駆け巡りました。
1948年6月、マンチェスター大学で遂に世界初のコンピューター・ベビーが作動したのです。
かつてチューリングの講義を受けたことのある研究者たちによるものでした。
チューリングは、すぐさまマンチェスター大学に移籍。
そこで、人工知能はあくまで可能だと主張します。
そして、それを証明する為に、ある考え方を発表しました。
機械の知能を判定するテスト・・・現在、チューリング・テストと呼ばれているものです。
このテストで、一人の人間が相手が機械か人間かわからないように質問していきます。
質問者は、それぞれの返答からどちらが本当の人間かを判断します。
もし、質問者が、機械の方が人間だとみなした場合、その機械は人間と同等の知能を持つと言えるのではないか??
チューリングは、知能に対する考え方自体を根本から変えるように訴えました。
知能とは何かを問い、科学の新境地を切り開こうとしました。
人間でも他人の脳の内部のことはわかりません。
その人の知能を離す内容や行動で判断します。
機械に対しても同じように考えるべきです。
脳や機械の内部で何が怒っているかは重要ではなく、アウトプットが全てなのだと主張したのです。
知性とは何か、思考とは何か、人類は長年議論してきましたが、明確な答えはまだ出ていません。
チューリングは、そこに全く新しい考え方で、疑問を投げかけたのです。

そして、研究を続けていた1952年・・・事件は起こりました。
チューリングが逮捕されたのです。
イギリスで当時犯罪とされていた同性愛の罪でした。
裁判の結果は有罪・・・12か月の保護観察処分が言い渡されました。
精神科にかかり、女性ホルモンの定期的な投与が義務付けられました。
乳房が膨らみ、性的能力を奪われました。

「私は間違いなく まるで違う人間になるだろう
 自分でも知らない誰かに」

チューリングはこの事件によって研究の第一線から退かざるを得なくなりました。
逮捕から2年が経った1954年・・・チューリングはベッドに倒れている姿で発見されました。
脇には青酸カリの付着したかじりかけのリンゴがありました。
検視の結果、自殺とされました。
享年41歳・・・

人工知能の夢は、道半ばで潰えました。

1956年・・・チューリングの死から2年後・・・アメリカ・ニューハンプシャー州のダートマス大学に、数学や電子工学の研究者10名が集まりました。
テーマは人工知能・・・アーティフィシャル・インテリジェンス・・・
AIという言葉が、初めて使われました。
チューリングの業績が正しく評価されるようになったのは、それからさらに18年後の1974年。
イギリス情報部の元大佐が、一冊の本を世に送り出しました。
タイトルは「ウルトラ・シークレット」
イギリス政府の許可を得て、チューリングら暗号解読者たちの功績を初めて公開したものでした。
この出版をきっかけに、徐々に情報が公開され、チューリングはコンピューター科学の始祖としてようやく認められました。
そして現在・・・人工知能の分野では、チューリングが目指した経験から学習する機械の回路の実現は急速に進んでいます。
機械が人間の力を借りず、自ら進化することが可能となりました。
もはや開発者でも、人工知能内部で何が起きているのかわからないといいます。
2045年には、人工知能は予測不能な姿に変化し始めるシンギュラリティ―が起きるという予測もあります。

日本人高次脳学会が、倫理指針を発表しました。
人工知能の研究者に守るべき基準として、安全性や、社会に対する責任などをあげました。
そして最後の項目では、AI自身に対してもこの倫理指針を守るように求めています。
人工知能が、社会の構成員となるためには、人工知能学会員と同様に、倫理指針を順守できなければならない。

今から70年前に人工知能を予言した男・・・アラン・チューリング・・・
彼はその死の3年前、こう語っています。

「機械が思考する方法をひとたび確立したならば、我らの如きひ弱な力は、すぐに追い抜かれるだろう
 機械が実権を握ることになると考えねばなるまい」


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史上最も壮大にして複雑な軍事作戦・・・
1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦開始!!
第二次世界大戦で、連合軍に勝利の道をもたらしました。
しかし、一歩間違えば、大惨事となる危険な賭け・・・万全の準備が必要でした。
ノルマンディー上陸を成功に導いたのは、ある大掛かりな嘘でした。
連合国は、欺瞞作戦フォーティテュード作戦を展開し、決行の時期と上陸の地点について偽の情報を流し、ヒトラーを出し抜いたのです。

イギリスの諜報機関が架空の部隊を作り上げ、その情報をスパイたちがドイツに流しました。
この作戦で活躍したのが、スペイン人の二重スパイ・・・コードネームはガルボです。
ガルボの活躍なしには、成功はありませんでした。
連合軍は、どうしてドイツの諜報機関を欺くことができたのでしょうか?
見事にヒトラーの裏をかいた謀略の立役者は、いかなる人物だったのでしょうか?

1944年6月・・・連合軍のフランス上陸は、失敗の許されない危険な賭けでした。
フランスをナチスドイツから解放すべく、イギリス・アメリカ・カナダ軍の将兵13万人以上が、ノルマンディーに殺到しました。
この作戦を成功に導いたのは何だったのでしょうか?
連合軍は、少なくとも数の上でははるかに劣る兵力で、4年にわたって敵の配下にあった地域に乗り込んでいきました。
イギリスからの距離・・・わずか160キロとはいえ、ノルマンディー地方の上陸には様々な困難が予想されました。
イギリス海峡は波が荒いことで有名・・・完璧な兵力で、船酔いもなく到着することが必須条件でした。
1942年8月19日、連合軍はディエップの戦いで、上陸作戦に失敗・・・負傷兵1800人を失っていました。
敗因は、ドイツ軍による港の防御が予想以上に堅かったことでした。
この失敗を踏まえて、今度は港から離れた場所に狙いを定めます。
ドイツ軍は、連合軍は次も港を狙ってくると思っていました。
連合軍は、港を避けます。
アメリカの参戦以来、連合軍はフランス上陸への新たな機会をうかがっていました。
1943年連合国首脳は相次いで会談し、年末のテヘラン会談では、アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソビエトのスターリンが顔をあわせます。
この時、ノルマンディー地域への上陸を目指すオーバーロール作戦が、具体化しました。
しかし、フランスへの上陸を見越して準備を進めていたのは、連合国側だけではありませんでした。

ヒトラーは、1940年にイギリスとの航空戦に敗れ、ソ連との戦いにもてこずっていました。
連合軍のフランス上陸は、もはや避けられないと感じていました。
問題は連合軍が、どこを、いつ、攻めて来るのか??でした。
ドイツははるかに戦闘経験豊かな部隊が、連合軍を待ち構えていました。
ヒトラーは、連合軍は必ず主要な港を攻めてくると考えていました。
中でも、自分がかつてイギリス侵攻への足掛かりにしようとしたパ・ド・カレーは最も近く、その距離は、50キロ足らずでした。
空軍が、燃料を保ちながら最大限に闘うためには、近い距離が必須でした。
もちろん、連合軍もパ・ド・カレーが一番でした。
しかし、連合軍は、最短距離のパ・ド・カレーではなく、ノルマンディーに・・・。
敵の不意を突き、時間を稼ごうとしたのです。
上陸作戦は、往々にして最初の数時間が勝敗を決します。

初日の課題は、最初の陣地となる橋頭堡を築くことでした。
しかし、橋頭堡は格好の標的になります。
連合軍は、巨大な港の建築を試みました。
この港から、兵士や物資を海岸に送ることができるのです。
しかし、連合軍の行く手には、大西洋の壁という強大な障壁がありました。
1941年、ヒトラーは、第三帝国の威信をかけた難攻不落の砦を作っていたのです。
ノルウェー北部からフランススペイン国境まで、およそ4300キロにわたり、8000を超える防御陣地、鉄条網、機関銃座や火炎放射台、対戦車砲、通信傍受施設を供えます。
しかし、防御施設の大半は作りかけで、人員、物資・・・不足していました。

1943年末、ヒトラーは、ロンメル元帥を大西洋の壁の補強に当たらせます。
進んでいない補強・・・ロンメルは全力でその強化に努め、改善します。
ロンメルは、フランスとオランダの海岸に、12の要塞を築きました。
中でも力を入れたのが、パ・ド・カレーの防御です。
ドイツ軍は、連合軍がパ・ド・カレーを狙ってくるとわかっていました。
人員や物資をこの地域に集中させ、防御を固めようとします。
そのことが災いして、それ以外は手薄なままでした。

1944年初頭、フランスにはドイツ軍150万人が駐留し、連合軍の侵攻への備えをはじめていました。
作戦の成功は、ドイツ軍の不意を突けるか??というところにかかっていました。
ヒトラーは、戦線が西になることは確信していたものの、パ・ド・カレーと思い込んでいました。
イギリスは、その思い込みを長引かせて、ノルマンディーから頭を外させなければなりません。
イギリスは、偽の情報を流して欺瞞作戦に力を入れます。
1942年には、北アフリカ戦線で効果をあげています。
イギリスの首相・チャーチルは、上陸作戦をドイツに悟られないために、軍の幹部たちに情報戦を指示します。

ロンドンでは、欺瞞作戦に特化した”ロンドン諜報司令部”が設置されました。
チャーチル自らがトップを選びます。
頭脳明晰で入隊まで金融機関で活躍していたイギリス陸軍ジョン・べヴァン中佐です。
作戦全体の管理を行いました。
彼は、欺瞞作戦の全貌を把握していました。
チャーチルはこの助言を頼りにし、そのオフィスを内閣戦時執務室の近くに置きました。
べヴァンは、国内での諜報活動が専門のMI6と、国土安全保障を担当するMI5の統括も任されます。
こうして、コードネーム・フォーティテュード(不屈の精神)作戦が始動・・・
作戦に関わる全ての人々にとって、膨大な挑戦の始まりでした。
フォーティテュード作戦は、二段構えの大掛かりなものでした。
ひとつは、フォーティテュード・ノース・・・
スカンジナビア侵攻をほのめかし、そこにいるドイツ軍をくぎ付けにし、西部戦線に加わるのを防ぎます。
そしてフォーティテュード・サウス・・・
連合軍がいつどこに上陸するのかを悟られないように、敵をかく乱します。
イギリス南東部に連合軍の部隊が集結していると情報を流すと、ヒトラーはパ・ド・カレーを目指していると思うはず・・・
この情報のために、本物の部隊を投入するわけにもいかないので、連合軍はアメリカ軍第一軍集団という架空の部隊を作り上げます。
当時の地図のケント州一帯には、架空の師団の配備位置が記されています。
どうやって信憑性を持たせたのでしょうか?
ヒトラーの注意をひくような、実在の人物を司令官にします。
連合軍総司令官アイゼンハワーが指名したのは、アメリカ陸軍のパットン将軍でした。
パットンなら申し分ありませんでした。
パットンの名前を聞いたドイツ軍は、「あのパットンが率いるのだから、連合軍の精鋭部隊に違いない!!」と考えたのです。

パットンは、かつてダンケルクからの撤退作戦で拠点となったドーバー城の地下に司令部を置きました。
ドーバー城に司令部を置くことで、連合軍の目標はパ・ド・カレーだと思わせます。
実際の司令部は、ポーツマスにありました。
上陸作戦の実行を決めてから、連合国は並行してフォーティテュード作戦を具体化させてきました。
1943年11月の極秘文書から、当時すでに作戦の詳細が検討されていたことがわかります。
第一段階は、架空の軍隊の装備を整えることでした。
ロンドン諜報司令部は、相当な費用を投じ、航空機や船舶などの木製のダミーを作らせます。
何百という艀や上陸用舟艇が作られました。
航空機が偽物の滑走路に・・・
しかし、問題が・・・戦時中、木材は高価だったので、費用が膨大なものに・・・!!
おまけに木製のダミーは重く、移動する部隊としては不向きでした。
低コスト、軽量で敵を威圧するためには・・・??
アメリカ軍の士官が、秀逸なアイデアにたどり着きました。
ニューヨークの感謝祭パレードののバルーンを思い出したのです。
ゴムなら軽くて丈夫、様々な形に作ることができます。
1944年の3月以降、アメリカのタイヤメーカーが中心となって、ダミーの戦車づくりを始めました。
空気で膨らませるゴム製の戦車が何百と作られ、イギリスに送り込まれたのです。
イギリス南東部の沿岸部に255台のゴム製の戦車が置かれました。
こうしてダミーの航空機や戦車が設置されていきました。
あとは、ドイツ軍の偵察飛行を待つだけでした。

その効果は抜群でした!!

ロンドンの映画スタッフも参加します。
ドーバー近郊に、燃料貯蔵庫を造れ!!
手に入るものを・・・ガラクタをかき集めて・・・ダミーを作ります。
タンカー、石油ポンプ・・・連合軍は、設備に至るまで細かく作り上げました。
国王ジョージ6世も現地を視察します。
連合国は、総力を挙げて一芝居を撃ちます。
あらゆる産業が協力します。
当時、イギリス南東部には数千人の兵しかいませんでしたが、それを100万人規模に見せる必要があったのです。
ドーバーには多くの人や車が行き交うようになりました。
アメリカ軍第一軍集団司令部の標識が立ち、地元の人々もそれを信じていました。
しかも、ドイツの諜報員が見ることを見越して、新聞社を巻き込んだプロパガンダが展開されます。
新聞には架空の記事が・・・!!

無線通信は傍受される可能性がありましたが、それを逆手に取ります。
ドーバーの無線室から、軍の動向を知らせるメッセージを大量に送ります。
ここに大規模な部隊がいるとドイツ軍に思わせるために・・・!!
こうして、実在しない部隊に命が吹き込まれていきました。
架空の師団に割り当てる徽章まで・・・!!

しかし、ドイツ側が気付かなければ意味がない・・・
どれだけ把握していたのでしょうか?
ドイツには、架空の師団の配置を正確に伝わっていました。
1944年当時、ドイツ軍によるイギリス本土の偵察飛行はほぼ不可能でした。
当時、イギリス上空を飛ぶドイツ軍機は、連合軍にことごとく撃ち落されていて、写真を持ち帰ることができませんでした。
そこで、あえてドイツ軍機を誘い込み、イギリス南部に集中させている様子をわざと撮影させます。
ドイツ軍は1944年1月~3月まで、一度もイギリスの偵察飛行を行いませんでした。
4月~5月にかけては成功しています。
そこには、ハッキリとダミーの上陸用舟艇が映っています。

架空の部隊、架空の無線通信、偵察機の誘導・・・しかし、数回の偵察飛行をしただけで、ドイツ軍が詳しく情報を入手することができたのか・・・??

そこにはスパイの存在が・・・
イギリスには2つの諜報機関MI5と、MI6があります。
国土安全保障を目的とするMI5の戦時中の方針は明確でした。
敵国のスパイは、協力させたうえで本土に帰らせ、それを拒むものは処刑しました。
潜入したドイツのスパイは、たちまちあぶり出され・・・ドイツ国防軍の諜報機関アプヴェーアは、イギリスで確かな情報源を一人も確保することができませんでした。

二重スパイ・・・ウソにウソを重ね・・・イギリスは、目標を達成するためには大掛かりに展開します。
しかし、ドイツにはそんな発想はありませんでした。
二重スパイを使って、偽の情報を流します。
ドイツが其れに騙されていることをどうやって確認したのか・・・??
イギリスは、1941年以降・・・ドイツの暗号エニグマの解読に成功していたのです。
暗号解読によって手に入れた情報は、最高機密とされました。
エニグマの解読・・・それによって、ドイツ軍司令部の通信内容を把握することができました。
暗号解読の拠点だったブレッジリーパーク・・・1944年には、難解の暗号も、8時間程度で解読可能でした。
相手の反応をリアルタイムで把握し、敵のスパイも把握していたのです。

一方、ドイツ国防軍諜報機関アプヴェーアは、自分たちのスパイ網に自信を持っていました。
イギリス各地にスパイを配置させ、通信傍受で得た情報の裏付けをとっていました。
ところが、ネットワークを統括していた人物こそが・・・二重スパイ、フアン・プジョルです。
フォーティテュード作戦に欠かせない人物でした。
ドイツの分析結果を裏付けるような情報を提供するのが彼の役目でした。
しかし、どうしてスペイン人のプジョルがイギリスの作戦に加わることになったのでしょうか?

バルセロナ出身のプジョルは、スペイン内戦を経験し、独裁者フランコやファシストを憎悪していました。
第二次世界大戦が激化する中、連合軍のスパイになることを決意します。
ヨーロッパの文明が、ヒトラーによって破壊されてしまう・・・!!
しかし、イギリスは門前払いします。
敵の諜報機関の回し者かもしれない・・・!!
プジョルは大胆なプランを考えます。
イギリスの関心をひくために、ドイツのスパイとして働くことにしました。
ドイツ側の信頼を得ることで、イギリスの興味をひきたかったのです。
1941年、プジョルはマドリードでドイツ軍のスパイにスカウトされます。
こうして中立国スペインで、ドイツのスパイとして活動し、連絡係のキューレンタールとも信頼を得ていきます。
プジョルは、ドイツにイギリスの入国許可証を持っていると嘘をつきます。
当時、ドイツはイギリスにスパイを潜入させるのに大変苦労していました。
この機会に飛びつき、プジョルに秘密の連絡手段を教えます。
報酬も与えます。
41年の夏・・・プジョルはロンドンに渡ったと思わせながら、実際にはポルトガルのリスボンに到着。
スパイの多かったこの町で、活動を始めました。
彼はイギリスに行ったこともありませんでした。
リスボンの図書館で時刻表を見て到着・・・あたかもイギリスにいるようにしてやり取りを始めます。
ドイツ側にはアラリックというコードネームで呼ばれたプジョルは、巧妙にウソをつきました。
そもそも、ドイツに有利な情報を渡すつもりはなかったため、様々な話をでっち上げ、永遠と描写させたのです。

プジョルは自分の身を護るために、イギリス国内に大勢の情報源を確保したように装います。
数か月のうちにプジョルのネットワークはイギリス全土に広がります。
情報が偽物だとバレてもその情報源のせいにして、難を逃れることができます。
イギリスMI5も動き始めます。
彼等はアラリック・・・プジョルの暗号の内容をすべて解読していました。
情報はマドリードのキューレンタール少佐を通じて、ベルリンに送られていました。
アラリックとは何者なのか・・・??どうして本土にスパイ網を巡らすことができたのか??
奇妙だったのは、彼の情報の殆どが全くデタラメだったこと・・・。
イギリスの諜報機関は、リバプールにいたスパイが送った情報を入手しました。
輸送船団がマルタ島を目指して出発したという情報・・・そんな事実はありませんでした。
その情報を受けたドイツは、迎え討とうと空軍と海軍から数多くの航空機を動員したのです。
ベルリンにこれほどまでの影響力を持つスパイ網を持つ人間がMI5の目を逃れて展開している・・・それを取り仕切っているのはアラリック・・・

アラリックとフアン・プジョルが重なり出しました。
1942年4月・・・MI5の諜報員が、プジョルに接触・・・
プジョルはドイツのスパイとして1年間活動していたと証言。
それは、イギリス側に認めてもらうためだったと告白します。
ついにプジョルは二重スパイとしてイギリスに採用され、コードネームはガルボ!!
1942年、プジョルはイギリスにわたりました。
偽の情報を流し続けてきたことを当局に認めます。
各地にいるはずのスパイは、全部架空の人物だと明かしたのです。
つまり、プジョルのイギリスでの組織自体も存在しませんでした。
偽のスパイ網は拡大し、1944年には27人にもなっていました。
ドイツが偽の情報を信じなければ、フォーティテュード作戦は失敗する・・・!!
全てはプジョルと架空のスパイたちにかかっていました。
プジョルは報告をロンドンから諜報機関アプヴェーアのマドリード支部に送ります。
支部長のキューレンタールは、そのままベルリンに転送します。

イギリスはエニグマの解読に成功していたので、プジョルが送った全ての情報がベルリンに転送されていることも解っていました。
ドイツ側がプジョルを高く評価していることも解っていました。
ヒトラーは、イギリスが南部に兵力を集中させていると確信するようになります。
1942年4月~44年8月まで、プジョルは毎日のように大量の情報をドイツ側に送っています。
中継係のキューレンタールは、プジョルを少しも疑わなかったのでしょうか??
彼を採用した自分に傷をつける・・・時間がたつにつれて、プジョルを切り捨てることができなくなってきていました。

ドイツ国防軍のアプヴェーアは、完全にヒトラーに従っていたわけではなく、北アフリカや南イタリアへの連合軍上陸を予想できなかったアプヴェーアに、ヒトラーは不信感を募らせ、強硬手段に出ます。
1944年2月、アプヴェーアのヴィルヘルム・カナリス長官を、故意に情報を改ざんしたとして更迭しました。
1920年代初頭に創設されたアプヴェーアは、ナチス傘下ではなく、国防軍の諜報機関です。
カナリス長官は愛国者でしたがナチスには反発していました。
レジスタンスに肩入れし、強く批判していたのです。
カナリスが更迭されたあとも、任務は続行されます。
キューレンタールはユダヤ系であり、ヒトラーが政権を握ると同時に、ベルリンを離れていました。
彼は、プジョルの情報を嘘だとしても見逃していたのでしょうか?
連合軍は、敵の諜報機関から思いがけない恩恵を受けていたのでしょうか?

プジョルは、架空のスパイ網を駆使し、ドイツ側に偽の情報を流し続けます。
上陸作戦を控えた5月・・・なぜかヒトラーはノルマンディーを強く警戒します。
しかし、ロンメルは不可能だと・・・ほとんどの部隊をパ・ド・カレーに集中させていたのです。

上陸作戦決行前夜・・・イギリスはまたもや名案を思い付きます。
上陸直前にドイツに本物の情報を伝えたのです。
朝の4時ごろ・・・プジョルは暗号化した情報をマドリードに送り、ベルリンに転送されます。
連合軍がノルマンディーに上陸・・・という情報です。
まだ海岸に部隊は到着していませんでしたが・・・

ドイツ軍のプジョルに対する信頼は劇的に高まります。
プジョルが見事に連合国の動向を読んだことを称賛し、情報が遅れたのは技術的な問題のせいだと思ったのです。
ついに6月6日・・・遂に連合軍はノルマンディーに上陸!!
しかし、プジョルの任務はまだ終わっていません。
パ・ド・カレーの装甲師団が、ノルマンディーに行くことを防がなければなりませんでした。
ここからがフォーティテュード作戦の山場・最大の快挙でした。
彼等は、ノルマンディー攻撃は陽動作戦にすぎず、本当の狙いはパ・ド・カレーだとヒトラーに思い込ませたのです。
ドイツをだまし続けます。
桟橋を組み立て、陣地を守るための物資を降ろすために時間稼ぎが必要でした。
プジョルの本当の任務はここからでした。
ドイツに情報を送ります。
イギリス南部で部隊の動きが活発化している・・・
第二の上陸作戦の目標はパ・ド・カレーだ!!

ドイツはまたもや偽の情報に惑わされ・・・連合軍は時間を稼ぐことができました。
ノルマンディーへの上陸が成功し、足がかりができ、大規模な追撃が可能となりました。
これが戦争の流れを変え、退局を余儀なくされたドイツ軍はこの後勝機を見出すことができませんでした。
偽の情報を掴まされたドイツは、プジョルを問いただします。

「パ・ド・カレーへの攻撃などなかったではないか?」
「ノルマンディーの攻撃が予想以上の成果をあげたので、連合軍はパ・ド・カレーへの攻撃を取りやめたのだ」

ドイツ軍は納得します。
壮大な謀略作戦は成功をおさめました。
皮肉にも、ヒトラーは1944年7月、プジョルの功績をたたえ、鉄十字章を授与しました。
4か月後、イギリスからも大英帝国勲章を授かったプジョルは、敵対する2つの国から勲章を授与されたことになります。
第二次世界大戦が終わり、冷戦の時代になると、イギリスの諜報機関はフォーティテュード作戦を覆い隠してしまいます。
この作戦について多くが語られなかった背景には、人道的な理由もあります。
連合軍はパ・ド・カレーへの上陸に信憑性を持たせるために、一帯を爆撃・・・
何百というフランス市民が命を失いました。

非人道的な行為もやむ終えないと考えていました。
どんな犠牲を払っても目的を果たさなければ・・・!!
フランスのレジスタンス組織も犠牲になりました。
ドイツの諜報員が潜入していることを知ったイギリスが事前に通告しませんでした。
レジスタンスメンバーも騙され・・・フォーティテュード作戦の全体図を知っていたのは、イギリスとアメリカの諜報機関のみでした。
イギリスとアメリカが保管されている文書が全て公開されるためにはあと10年・・・もしくはあと35年必要です。
作戦の真相はまだ闇の中です。
第二次世界大戦が終わって70年以上たった今も、秘密は秘密のままなのです。

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暗号機エニグマへの挑戦 (新潮文庫)
暗号機エニグマへの挑戦 (新潮文庫) [文庫]
1939年イギリスのMI6、本部はブレッチリー・パーク。
どの地図にも所在はなく、チャーチル首相の秘密の場所でした。
ここで、ドイツ軍の”エニグマ”という暗号文の体系を解読します。
ステーションXと呼ばれたもの邸宅で、諜報活動が行われていました。
暗号解読の歴史は1939年、傍受基地ステーションXが作られたことに始まります。

戦争が経過し・・・建物は増築・・・
最大の挑戦は・・・”タニー”の解読。

アイゼンハワーは、このタニーの解読によって戦争が2年早くに終わったと言っています。
最盛期には何千人もこの場所で働いていました。
第2次世界大戦は・・・機密をどう伝達し活用するかが重要でした。
無線通信が主流になっていたのです。
敵の暗号体系を掴む!!!
その戦いが始まったのです。

ドイツの”エニグマ暗号機”。これを傍受します。
・・・1941年には印刷電信機・・・ドイツ軍はエニグマではない・・・モールスではない新しい暗号機を使い始めまたのです。
ブレッチリー・パークには数学者が集められました。
第1次世界大戦では言語学者でしたが・・・第2次世界大戦では数学者が最前線へとたったのです。
エニグマはもはや時代遅れ・・・
ヒトラーの支配体制を盤石なものにするために発明されたのがローレンツSZ40、連合軍がタニーと呼んだ暗号機です。
ローレンツを用いたドイツのテレプリンターは30に満たなく、これが第3帝国の生命線でした。
作戦、戦局まで把握していました。

この暗号を解き明かすために・・・若き数学者が挑みます。
ビル・タット。
その突破口は・・・ドイツ軍下級兵士のずさんな暗号管理。
殆どやけくその中・・・解読が始まります。
歯の数は41だということを突き止めます。
可能な組み合わせをすべて合わせていきます。
そこにはカイテル元帥・・・ヨードル・・・ヒトラーの名前まで出てくるようにまります。

東部戦線で・・・この暗号解読の情報使うことが出来ます。
ドイツ軍はソビエトを狙っており、それが挟み撃ちだということも掴んでいました。
このクルスクの戦いで・・・ドイツ軍の東部戦線は崩壊します。
暗号解読の重要性が証明された瞬間でした。

数学と統計学に基づいたタットの理論を・・・機械化の研究を実用化させたのは、トミー・フラワーズ。
機械による暗号解読を目指しました。
プログラム制御が可能な電子計算機・・・世界初のコンピューター”コロッサス”の誕生でした。

タニーの解読は、ノルマンディ上陸作戦の成功にも貢献します。
ローレンツは軍の上層部のみで使われていたため、軍の編成や戦車・戦闘機の臨時編成なども知ることが出来たのです。
ローレンツに過度の自信が・・・ヒトラーが連合軍に操られるという皮肉な結果になります。

戦争は終わり・・・しかし、タットやフラワーズにはある指令は???
暗号解読に対する沈黙でした。
コロッサスも・・・2台を除いて壊されました。
その2台は60年代まで使われていたようです。
というのも、米ソ冷戦当時、ソ連はローレンツ方式の暗号を使っていました。
その解読のためだったようです。
1946年2月、アメリカで・・・世界初のコンピューター”エニアック”の完成が発表されました。
高い評価を得ることもなく・・・
フラワーズは表舞台に出ることはなかったのです。。。

その後・・・タットやフラワーズの事も知られるようになり・・・
しかし、時すでに遅しでした。


第2次世界大戦時、人間の頭脳が機械を越えた偉大な勝利がありました。
タットとフラワーズの任務の一部は、現在も機密扱いです。
2人の功績の全貌は、未だに明らかになっていません。

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