今からおよそ480年前・・・
1543年、種子島に漂着したポルトガル人が日本に鉄砲を伝えました。
これが、日本人が初めてヨーロッパ人と出会ったときといわれています。
その6年後の1549年、薩摩に再びヨーロッパ人が上陸しました。
日本に初めてキリスト教を伝えたカトリック修道会であるイエズス会の宣教師です。
彼の名は、フランシスコ・ザビエルです。
ザビエルが日本に滞在したのは、わずか2年半ほど・・・。
しかし、その間に、鹿児島、平戸、山口、京都、大分と移動して、精力的に布教活動を行いました。
初めてのキリスト教・・・日本人はどのように対応したのでしょうか??
「日本へ行く聖職者は、考えも及ばぬほど大きな迫害を受けなければなりません」byザビエル
そして、ザビエルが日本を去っておよそ12年、来日したのがイエズス会宣教師ルイス・フロイスです。
フロイスは、あの信長の信頼を勝ち取り、自身が亡くなるまで30年以上も日本に滞在し、布教活動を行ったひとりです。
彼が残した記録「日本史」は、当たり前すぎて日本人は書かなかった当時の日本の様子が鮮やかに、そして詳細に綴られています。
宣教師ザビエルと被差別民 (筑摩選書) [ 沖浦 和光 ]
1549年、フランシスコ・ザビエルは、43歳の時、イエズス会の宣教師としてキリスト教を伝えるために薩摩に上陸しました。
どうして日本だったのでしょうか??
ザビエルは、1506年、イベリア半島のナバラ国王の貴族の子として生まれました。
しかし、フランスとの戦争に巻き込まれ没落・・・聖職者を目指すようになります。
そして28歳の時、6人の同志と一緒にイエズス会を創設。
6年後、ローマ教皇パウルス3世によって、カトリック教会における修道会として正式に認められました。
イエズス会の創設の目的の一つは、キリスト教の世界布教でした。
ローマ教皇の命令であればどこであっても赴くのです。
キリスト教を世界に広めるため、ザビエルたちがまず向かったのは、インド内のポルトガル領だったゴアでした。
そこを拠点に、アジアにキリスト教を広めていくことになります。
その一環として、マレー半島のマラッカに・・・そこで、運命の出会いを果たします。
アンジローという日本人です。
元武士だったといわれるアンジローは、故郷・薩摩国で殺人を犯してしまったため、ポルトガル船に乗り込み海外に逃亡していました。
しかし、ザビエルに出会ったときには、罪の赦しを得るため、キリスト教への改宗を願っていました。
そんなアンジローに、こう尋ねます。
「もしも私が、あなたと日本に行くならば、日本人は信者になるであろうか」byザビエル
アンジローに出会ったことで、ザビエルは、日本という未知の国に強い興味を持ったのです。
さらに、ザビエルは、日本でのキリスト教の布教の可能性を強く感じていました。
インドや東南アジアは、他民族・多言語だったため、部卿が難しいと感じていたのです。
日本が一言語であるため、布教がしやすいと考えていました。
日本人が、物事を理性で判断する民族で、言語が一つであることを知り、キリスト教を理解してもらいやすいと考え、来日を決めました。
こうしてザビエルは、1549年6月24日、宣教師の同志らと共に、受洗し日本人初のキリスト教徒となったアンジローを伴い、マラッカから出航。
およそ2か月後の8月15日、薩摩に上陸しました。
ザビエルと天皇 豊後のキリシタン歴史秘話 [ 守部喜雅 ]
応仁の乱ののち、戦乱の世に突入し、30年近くが経とうとしていました。
薩摩についたザビエルたちは、アンジローを通訳として、薩摩国の守護大名・島津貴久に謁見。
すると、以外にもキリスト教布教の許しを得ます。
幸先のいいスタートを切った布教・・・ザビエルは、ゴアのイエズス会に向けて最初に受けた日本の印象を書き送っています。
”この国の人は、今まで発見された国民の中では最高であり、日本人より優れている人々は異教徒間には見出すことができないでしょう
彼等は皆、親しみやすく、一般的に善良で悪意がありません
彼等は驚くほど名誉心の強い人々で、他の何よりも名誉を重んじます”
特にザビエルが優れていると感じたのが、読み書きの能力でした。
日本人の識字率の高さに着目しました。
識字率の高さが、祈りや教理を短時間で覚え、理解するのに役立つと期待したのです。
ザビエルたちは、布教を許可してくれた島津家の菩提寺の門前で、布教を開始。
ところが、期待したほど信徒が集まりません。
原因は、アンジローの通訳にありました。
日本語の翻訳が不十分で、誤りも多かったのです。
アンジローは、キリスト教の用語を仏教用語に置き換えて訳しました。
日本人は、キリスト教を仏教の一宗派と勘違いし、「天竺宗」と呼ぶ人もいました。
これは、アンジローの無知によるものと考えられます。
しかし、一般の日本人では仕方がなかったと考えられます。
誤解に気付いたザビエルは、神をラテン語やポルトガル語の「デウス」のまま表現しました。
創造主としての神→キリストの生涯→最後の審判
を説いていきました。
薩摩にやってきて日本人の優秀さに感心したザビエルでしたが、どうしても許せない日本の慣習がありました。
「ボンゾズ(僧侶たち)には、私たちはしばしばそのような醜い罪を犯さないように言いました
ボンゾズは、私たちの言うことを嘲笑してはぐらかし、極めて醜い罪について非難されても、恥ずかしいとは思わないのです
ボンゾズは、修院に読み書きを教えている武士の子供たちを多数住まわせて、その子供たちに邪悪な罪を犯していますが、その罪が習性となっているので、たとえ全ての人々に悪であると思われても、それに驚きません」byザビエル
僧侶たちの醜い罪とは・・・??
男色のことで、衆道ともよばれていました。
男色は、日本では寺院だけでなく、戦国大名から一般庶民に至るまで、広く行われていました。
これは、それまでの布教の地とは全く違っていました。
同性愛は、キリスト教の倫理に外れることになります。
ザビエルの嫌悪感は、大きかったのです。
僧侶たちも、異教であるキリスト教を布教するザビエルたちを疎んじ、嫌がらせをする者もいました。
やがてその動きが波及し、キリスト教への迫害が薩摩で強くなってきたことで、ザビエルたちは薩摩を離れる決断をします。
薩摩でキリスト教布教を始めたザビエルたちでしたが、キリスト教迫害の動きが強くなってきたので、1550年9月、アンジローを薩摩に残し、肥前国の港町・平戸に移ります。
領主・松浦隆信は、自らキリスト教に入信することはありませんでしたが、宣教師たちには好意的で、平戸での布教を許可。
松浦にはある目論見がありました。
自分たちの船を持たない宣教師たちは、布教のため海を渡る際、商人の船・南蛮船に乗せてもらっていました。
キリスト教の布教を認めれば、必然的に宣教師たちを乗せた南蛮船が来ることになります。
松浦の狙いは、その南蛮船でした。
キリスト教の布教を認めることで、南蛮貿易を盛んにし、鉄砲や海外の品々をいち早く入手することを目論んだのです。
ザビエルもこれを利用するようになります。
日本で貿易できることを口実に、宣教師たちが日本に来るための船を確保できたのです。
平戸での布教活動も困難を極めます。
子供たちが驚いて、嘲笑したり、石を投げたり、大人からの暴力・・・
はじめて見る異国の人々・・・ただただ怖かったのかもしれません。
日本での布教が困難なことを身をもって知ったザビエルは、これから来る宣教師たちにこう伝えます。
「日本へ行く聖職者は、考えも及ばぬほど大きな迫害を受けなければなりません」byザビエル
ザビエルは、更なる信者獲得のために、山口へ・・・京の都に向かうのです。
天皇への謁見は、ザビエルの大きな目的の一つでした。
しかし、都は応仁の乱の爪痕が大きく、天皇との謁見を断念。
失意の中、山口に戻ったザビエルでしたが、ここで事態が一変・・・布教の許可が下ります。
許可を下したのは、山口を拠点に周防・長門・石見・安芸の中国地方・・・さらには、豊前・筑前といった北九州を支配する西国一の戦国大名・大内義隆でした。
どうして、大内義隆は、戻ってきたザビエルたちに布教活動を許したのでしょうか??
ザビエルは、天皇に献上するはずだった海外の品々を、大内義隆に献上し、布教の許可を得たのです。
ザビエルは、このことも日本で布教するための教訓として伝えています。
「布教を進めるには、日本の領主たちに贈り物をして喜ばせることが必要」
この時、布教の許しを得た山口の町は、西国随一の町として繁栄!!
ザビエルは、ここを日本の布教の拠点としました。
早速布教を始めますが、日本人を観察してきた結果・・・
布教場所に最適と選んだのが、井戸端でした。
女性だけの家に入り込むこともはばかられたため、人が集まる井戸端を選び説教したのです。
その中で、日本人が一番関心を持ったのが、キリストの物語でした。
キリストが十字架に架けられる受難のくだりに、多くの人が涙を流したといいます。
ザビエルが、山口に滞在したのはわずか半年でしたが、およそ500人の信者を獲得しました。
インド・ユダヤ人の光と闇 ザビエルと異端審問・離散とカースト [ 徳永恂 ]
その後、ザビエルは豊後に移動します。
そこで、布教活動をしながらこう考えます。
「キリスト教を、日本全土に広がるためにはどうしたらよいものか・・・」
ヒントとなったのは、仏教でした。
仏教は、古代大陸から日本に伝わり、広まったというし、日本人は大陸文化の影響を強く受けている・・・
ならば、明にキリスト教を広め、明から伝われば日本に広まりやすいのでは・・・??
そこで、ザビエルは、明でキリスト教を布教するため、1551年、日本を去り、インドのゴアへ・・・そして明に・・・!!
しかし、明は鎖国中で入国できず、熱病にかかったザビエルは、明の沖に浮かぶ小島・上川島で志半ばで亡くなります。
1552年12月3日、46歳でした。
ザビエルが日本を去って12年後の1563年6月16日、第4次日本派遣宣教師団として来日したのが、イエズス会宣教師ルイス・フロイスでした。
この時、31歳でした。
フロイスは、インド・ゴアにある宣教師教育機関で教育を受けています。
宣教師たちは、ザビエルに憧れ、日本布教に従事しようとしていました。
佐世保湾を望む長崎県西海市・・・かつて横瀬浦と呼ばれた場所に、フロイスは上陸しました。
その時の様子をこう書き残しています。
”横瀬浦のキリシタンたちは、司祭たちが到着したと聞くと200人ばかりが出迎えのため、急ぎ馳せつけ、大変な感動ぶりだった”
歓迎を受けたのには理由がありました。
領主・大村純忠の存在です。
純忠は、ザビエルとともに来日し、日本に残った宣教師コスメ・デ・トーレスから洗礼を受けたばかりの日本初のキリシタン大名でした。
純忠が、横瀬浦周辺の土地を、イエズス会に与えたため、港は南蛮貿易で活気づき、キリシタンの集落や教会が作られました。
その為、フロイスたちは歓迎されたのです。
サンエイムック 時空旅人 ベストシリーズ ルイス・フロイスが見た明智光秀
しかし・・・時は戦国・・・宣教師たちもその荒波に飲み込まれていきます。
純忠の義理弟・後藤貴明が挙兵。
横瀬浦もその攻撃を受け、火の海となります。
フロイスたちは、命からがら平戸に近い度島に避難・・・
横瀬浦は・・・
”海岸地帯には人が住んでおらず、ポルトガルの船がそこに入港する便宜も失われてしまっているということであった”
横瀬浦の惨状に心炒めるフロイスでしたが、自身もこの時、病気による高熱で苦しんでいました。
それでも望みを捨てることなく、難解な日本の言語と風習を学ぶなど、布教再開に向けて準備をします。
1565年12月、フロイスたちは京の都へ・・・。
都に入る時には、将軍・足利義輝に強い影響力を持つ三好長慶から布教活動を容認されていました。
長慶の家臣たちを中心に、500人ほどがキリシタンとなっていました。
フロイスは、都での布教に、強い期待を抱いていました。
しかし、平和な布教活動は、長くは続きませんでした。
1865年5月19日、実質的に都を支配していた三好長慶の養子・義継達が、将軍御所を襲撃。
13代将軍・足利義輝を殺害したのです。
世に言う永禄の変です。
フロイスは、こう書き残しています。
”この事件により、教会が存亡の危機に直面して、修院の全員が死を決意した”
首謀者たちが、法華宗の熱心な信者であるため、この混乱に乗じフロイスらを殺すかもしれない・・・と、言われたからです。
そして、不安におびえるフロイスたちをさらに追い詰めたのが、時の天皇第106代正親町天皇でした。
キリスト教の布教を良しとしない本願寺の意をくみ、宣教師追放の詔を出したのです。
フロイスたちは、遂に都を負われ、摂津国の堺に避難します。
劣悪な環境での暮らしを余儀なくされながらも、そこで布教を続けました。
回想の織田信長 フロイス「日本史」より【電子書籍】[ ルイス・フロイス ]
1560年、織田信長が、桶狭間の戦いで今川義元に勝利。
その勢いに乗り、天下布武を掲げると、1568年9月、暗殺された将軍義輝の弟で、室町幕府の再興を図る足利義昭を擁して上洛します。
これが、京の都を追われたイエズス会宣教師ルイス・フロイスの運命を大きく変えます。
信長が、将軍家と対立していた三好勢を都から追放したことで、足利義昭が15代将軍に就任。
その後ろ盾だった信長が、実質的に都を支配することになりました。
フロイスは、この翌年、信長との謁見に臨みます。
フロイス37歳、信長は2歳年下の35歳でした。
謁見の場とされたのは、建築途中の二条城。
フロイスは、信長に、都での布教活動の自由を保証してほしいと願い出ると、慣例通り銀の延べ棒を進呈します。
ところが・・・
「予には金も銀も必要ではない
バテレンは異国人であり、もし、予が布教の許しを与えるためにそれを受け取るならば、予の品位は失墜するであろう」
信長は、これまでの戦国大名とは違いました。
貢物を受け取ることなく、畿内での布教を許可したのです。
信長が布教を許可した理由は・・・
新しもの好きの性格です。
信長にとってはキリシタンは物珍しい好奇心の対象で、その教えや考え方に関心がありました。
さらに、信長は政にも大きく影響を持ち、天下布武の生涯となる仏教勢力を弱体化させるためにキリスト教を対抗勢力にしようとしていたともいわれています。
そして、南蛮貿易で外国から鉄砲や火薬の原料などを手に入れやすくするためと考えたからでもありました。
いずれにせよ、信長から布教の許可を得たフロイスたち宣教師は、京の都を拠点に、畿内での布教活動を再開しました。
多くの信徒を得ていきます。
1569年、信長が岐阜に戻ります。
すると、状況は一転・・・
反キリシタン勢力だった法華宗の高僧・日乗が、フロイスたち宣教師たちの追放に乗り出したのです。
日乗は、朝廷に顔の利く都の有力者だったため、朝廷に直接働きかけ、正親町天皇にキリスト教の追放や財産没収などの綸旨を出してもらいます。
フロイスは、再び信長に助けを求めて岐阜に向かいました。
すると、信長はフロイスを篤くもてなし、彼らの保護を求める朱印状を朝廷と将軍に宛てて書いてくれました。
これによって難を逃れたフロイスでしたが・・・
かつてザビエルが教えてくれた布教の難しさを痛感していました。
「あなたが心底言わんとしたことが、今、ようやくわかりました」
この12年後、フロイスは、布教状況を査察するため来日したイエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノの通訳として、信長と安土城で再会します。
絢爛たるその城に驚嘆します。
”構造の堅固さ、装飾の華麗さにおいて、それらはヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうる
天守は7層からなり、内部外部共に驚くほど見事な建築技術によって造営されていた”
天下取り目前の信長の威光を目の当たりにしたフロイス・・・またも乱世の厳しさを知らされます。
1582年6月・・・家臣であった明智光秀による謀反で、魔王と恐れられていた信長があっけなく命を落とすのです。
九州にいたフロイスは、本能寺近くにあった教会・南蛮寺からこんな報告を受けます。
”明智方は、本能寺に侵入すると、信長を見つけた
彼は、手と顔を洗い終え、手拭いで体をぬぐっていたが、兵士たちはすぐに彼の背に矢を射た
信長はこれを引き抜き、槍を手にしてしばらく戦ったが、片腕に銃弾を受けると、自室に退いて扉を閉じた
彼が切腹したというものもいれば、放火して死んだというものもいる”
日本で伝わっている話とは少し違いますが、一報を聞いたフロイスは、その死を惜しみ、偉業を称えました。
”かつて、声はおろかその名だけで、人々を畏怖させた人物が、毛髪一本残すことなく灰燼に帰した
地上のみならず、天井においても自分に勝る主人はいないと考えた者(信長)が、不幸で悲惨な最期を迎えた”
そして、信長が非凡なる統治者であることを締めくくるのです。
しかし、この信長の死が、キリスト教布教にまたもや大きな影を落とすことになります。
ルイス・フロイス日本書翰【電子書籍】[ ルイス・フロイス ]
31歳で来日したイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、日本の情勢や文化・風習なども記録して、ローマに報告し続けていました。
ヨーロッパと日本の違いについては・・・
会話・・・ヨーロッパでは、ハッキリとした物言いをするが、日本ではあいまいなのが良いとされている
衣服・・・我々のものは、男が女の服を着ることはできないが、日本の着物は男でも女でも着られる
履物・・・我々は履物をはいたままで家に入るが、日本では失礼なことで履物を戸口で脱がなければならない
洗濯・・・我々は手でこすって服を洗うが、日本では足で踏みつけて洗う
夫婦関係・・・ヨーロッパでは男たちの方が妻を離縁するが、日本ではしばしば妻たちが夫を離縁する
と、布教を進めたことで、多くのキリシタン大名が誕生します。
民衆の間にもキリシタンたちが増えていきます。
しかし・・・拡大するキリスト教勢力に危機感を抱いたのが・・・
フロイスが気品がなく悪賢いと評した豊臣秀吉でした。
当初、秀吉はキリスト教を黙認していましたが、宣教師たちが住民たちを無理やり改宗させ、寺や神社を破壊させている・・・ポルトガル商人が日本人を奴隷として海外に売っているという報告を受けると・・・
1587年6月、伴天連追放令を発布、キリスト教の布教も禁じるのです。
それでもフロイスたちは、日本にとどまり、目立たないように布教活動を続けることにします。
フロイスは、日本に最初に降り立った地・長崎へ。。。
その後、1592年、アレッサンドロ・ヴァリニャーノと共に一時マカオに渡りますが、3年後、長崎に戻ってきます。
その翌年・・・恐ろしい事件が起こります。
嵐によりスペイン船サン=フェリペ号が土佐沖に漂着。
日本がその積み荷を没収します。
これに腹を立てたスペイン人航海士は、日本にこう言い放ちました。
「スペインは、世界全土と取引をする大国で、拒否すれば軍事力で領土を奪ってきた
その手始めが、宣教師を送ることである」
「宣教師は、我が領土を奪う手始めとな!!」
激怒した秀吉は、京の都などで捕縛した26人のキリスト教徒を長崎に送り、磔の刑に処すのです。
この痛ましい事件の記録を、フロイスは病床で体に鞭打つようにして書き上げたといいます。
殉教した26人の名が、聖人として事件の詳細と共にしっかりと歴史に刻まれ、語り継がれていくように・・・。
そして、事件の翌年の1597年5月24日、フロイスは長崎の修道院で静かにその生涯を閉じるのです。
66歳でした。
フロイスの著書「日本史」は、あまりに長く、詳細過ぎるという理由で、当初イエズス会での刊行が見送られ、マカオの教会で保管されていました。
そのフロイスの自筆原稿は、1835年、教会の火事で焼失
しかし、18世紀前半に作られた写本が、ポルトガルのリスボンに残っています。
その写本をもとにフロイスの母国・ポルトガルで「日本史」が刊行されました。
そこには、日本の資料にないリアルな日本の姿が記されていました。
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完訳フロイス日本史 豊臣秀吉編 4 秀吉の天下統一と高山右近の追放 中公文庫 / ルイス・フロイス 【文庫】
1543年、種子島に漂着したポルトガル人が日本に鉄砲を伝えました。
これが、日本人が初めてヨーロッパ人と出会ったときといわれています。
その6年後の1549年、薩摩に再びヨーロッパ人が上陸しました。
日本に初めてキリスト教を伝えたカトリック修道会であるイエズス会の宣教師です。
彼の名は、フランシスコ・ザビエルです。
ザビエルが日本に滞在したのは、わずか2年半ほど・・・。
しかし、その間に、鹿児島、平戸、山口、京都、大分と移動して、精力的に布教活動を行いました。
初めてのキリスト教・・・日本人はどのように対応したのでしょうか??
「日本へ行く聖職者は、考えも及ばぬほど大きな迫害を受けなければなりません」byザビエル
そして、ザビエルが日本を去っておよそ12年、来日したのがイエズス会宣教師ルイス・フロイスです。
フロイスは、あの信長の信頼を勝ち取り、自身が亡くなるまで30年以上も日本に滞在し、布教活動を行ったひとりです。
彼が残した記録「日本史」は、当たり前すぎて日本人は書かなかった当時の日本の様子が鮮やかに、そして詳細に綴られています。
宣教師ザビエルと被差別民 (筑摩選書) [ 沖浦 和光 ]
1549年、フランシスコ・ザビエルは、43歳の時、イエズス会の宣教師としてキリスト教を伝えるために薩摩に上陸しました。
どうして日本だったのでしょうか??
ザビエルは、1506年、イベリア半島のナバラ国王の貴族の子として生まれました。
しかし、フランスとの戦争に巻き込まれ没落・・・聖職者を目指すようになります。
そして28歳の時、6人の同志と一緒にイエズス会を創設。
6年後、ローマ教皇パウルス3世によって、カトリック教会における修道会として正式に認められました。
イエズス会の創設の目的の一つは、キリスト教の世界布教でした。
ローマ教皇の命令であればどこであっても赴くのです。
キリスト教を世界に広めるため、ザビエルたちがまず向かったのは、インド内のポルトガル領だったゴアでした。
そこを拠点に、アジアにキリスト教を広めていくことになります。
その一環として、マレー半島のマラッカに・・・そこで、運命の出会いを果たします。
アンジローという日本人です。
元武士だったといわれるアンジローは、故郷・薩摩国で殺人を犯してしまったため、ポルトガル船に乗り込み海外に逃亡していました。
しかし、ザビエルに出会ったときには、罪の赦しを得るため、キリスト教への改宗を願っていました。
そんなアンジローに、こう尋ねます。
「もしも私が、あなたと日本に行くならば、日本人は信者になるであろうか」byザビエル
アンジローに出会ったことで、ザビエルは、日本という未知の国に強い興味を持ったのです。
さらに、ザビエルは、日本でのキリスト教の布教の可能性を強く感じていました。
インドや東南アジアは、他民族・多言語だったため、部卿が難しいと感じていたのです。
日本が一言語であるため、布教がしやすいと考えていました。
日本人が、物事を理性で判断する民族で、言語が一つであることを知り、キリスト教を理解してもらいやすいと考え、来日を決めました。
こうしてザビエルは、1549年6月24日、宣教師の同志らと共に、受洗し日本人初のキリスト教徒となったアンジローを伴い、マラッカから出航。
およそ2か月後の8月15日、薩摩に上陸しました。
ザビエルと天皇 豊後のキリシタン歴史秘話 [ 守部喜雅 ]
応仁の乱ののち、戦乱の世に突入し、30年近くが経とうとしていました。
薩摩についたザビエルたちは、アンジローを通訳として、薩摩国の守護大名・島津貴久に謁見。
すると、以外にもキリスト教布教の許しを得ます。
幸先のいいスタートを切った布教・・・ザビエルは、ゴアのイエズス会に向けて最初に受けた日本の印象を書き送っています。
”この国の人は、今まで発見された国民の中では最高であり、日本人より優れている人々は異教徒間には見出すことができないでしょう
彼等は皆、親しみやすく、一般的に善良で悪意がありません
彼等は驚くほど名誉心の強い人々で、他の何よりも名誉を重んじます”
特にザビエルが優れていると感じたのが、読み書きの能力でした。
日本人の識字率の高さに着目しました。
識字率の高さが、祈りや教理を短時間で覚え、理解するのに役立つと期待したのです。
ザビエルたちは、布教を許可してくれた島津家の菩提寺の門前で、布教を開始。
ところが、期待したほど信徒が集まりません。
原因は、アンジローの通訳にありました。
日本語の翻訳が不十分で、誤りも多かったのです。
アンジローは、キリスト教の用語を仏教用語に置き換えて訳しました。
日本人は、キリスト教を仏教の一宗派と勘違いし、「天竺宗」と呼ぶ人もいました。
これは、アンジローの無知によるものと考えられます。
しかし、一般の日本人では仕方がなかったと考えられます。
誤解に気付いたザビエルは、神をラテン語やポルトガル語の「デウス」のまま表現しました。
創造主としての神→キリストの生涯→最後の審判
を説いていきました。
薩摩にやってきて日本人の優秀さに感心したザビエルでしたが、どうしても許せない日本の慣習がありました。
「ボンゾズ(僧侶たち)には、私たちはしばしばそのような醜い罪を犯さないように言いました
ボンゾズは、私たちの言うことを嘲笑してはぐらかし、極めて醜い罪について非難されても、恥ずかしいとは思わないのです
ボンゾズは、修院に読み書きを教えている武士の子供たちを多数住まわせて、その子供たちに邪悪な罪を犯していますが、その罪が習性となっているので、たとえ全ての人々に悪であると思われても、それに驚きません」byザビエル
僧侶たちの醜い罪とは・・・??
男色のことで、衆道ともよばれていました。
男色は、日本では寺院だけでなく、戦国大名から一般庶民に至るまで、広く行われていました。
これは、それまでの布教の地とは全く違っていました。
同性愛は、キリスト教の倫理に外れることになります。
ザビエルの嫌悪感は、大きかったのです。
僧侶たちも、異教であるキリスト教を布教するザビエルたちを疎んじ、嫌がらせをする者もいました。
やがてその動きが波及し、キリスト教への迫害が薩摩で強くなってきたことで、ザビエルたちは薩摩を離れる決断をします。
薩摩でキリスト教布教を始めたザビエルたちでしたが、キリスト教迫害の動きが強くなってきたので、1550年9月、アンジローを薩摩に残し、肥前国の港町・平戸に移ります。
領主・松浦隆信は、自らキリスト教に入信することはありませんでしたが、宣教師たちには好意的で、平戸での布教を許可。
松浦にはある目論見がありました。
自分たちの船を持たない宣教師たちは、布教のため海を渡る際、商人の船・南蛮船に乗せてもらっていました。
キリスト教の布教を認めれば、必然的に宣教師たちを乗せた南蛮船が来ることになります。
松浦の狙いは、その南蛮船でした。
キリスト教の布教を認めることで、南蛮貿易を盛んにし、鉄砲や海外の品々をいち早く入手することを目論んだのです。
ザビエルもこれを利用するようになります。
日本で貿易できることを口実に、宣教師たちが日本に来るための船を確保できたのです。
平戸での布教活動も困難を極めます。
子供たちが驚いて、嘲笑したり、石を投げたり、大人からの暴力・・・
はじめて見る異国の人々・・・ただただ怖かったのかもしれません。
日本での布教が困難なことを身をもって知ったザビエルは、これから来る宣教師たちにこう伝えます。
「日本へ行く聖職者は、考えも及ばぬほど大きな迫害を受けなければなりません」byザビエル
ザビエルは、更なる信者獲得のために、山口へ・・・京の都に向かうのです。
天皇への謁見は、ザビエルの大きな目的の一つでした。
しかし、都は応仁の乱の爪痕が大きく、天皇との謁見を断念。
失意の中、山口に戻ったザビエルでしたが、ここで事態が一変・・・布教の許可が下ります。
許可を下したのは、山口を拠点に周防・長門・石見・安芸の中国地方・・・さらには、豊前・筑前といった北九州を支配する西国一の戦国大名・大内義隆でした。
どうして、大内義隆は、戻ってきたザビエルたちに布教活動を許したのでしょうか??
ザビエルは、天皇に献上するはずだった海外の品々を、大内義隆に献上し、布教の許可を得たのです。
ザビエルは、このことも日本で布教するための教訓として伝えています。
「布教を進めるには、日本の領主たちに贈り物をして喜ばせることが必要」
この時、布教の許しを得た山口の町は、西国随一の町として繁栄!!
ザビエルは、ここを日本の布教の拠点としました。
早速布教を始めますが、日本人を観察してきた結果・・・
布教場所に最適と選んだのが、井戸端でした。
女性だけの家に入り込むこともはばかられたため、人が集まる井戸端を選び説教したのです。
その中で、日本人が一番関心を持ったのが、キリストの物語でした。
キリストが十字架に架けられる受難のくだりに、多くの人が涙を流したといいます。
ザビエルが、山口に滞在したのはわずか半年でしたが、およそ500人の信者を獲得しました。
インド・ユダヤ人の光と闇 ザビエルと異端審問・離散とカースト [ 徳永恂 ]
その後、ザビエルは豊後に移動します。
そこで、布教活動をしながらこう考えます。
「キリスト教を、日本全土に広がるためにはどうしたらよいものか・・・」
ヒントとなったのは、仏教でした。
仏教は、古代大陸から日本に伝わり、広まったというし、日本人は大陸文化の影響を強く受けている・・・
ならば、明にキリスト教を広め、明から伝われば日本に広まりやすいのでは・・・??
そこで、ザビエルは、明でキリスト教を布教するため、1551年、日本を去り、インドのゴアへ・・・そして明に・・・!!
しかし、明は鎖国中で入国できず、熱病にかかったザビエルは、明の沖に浮かぶ小島・上川島で志半ばで亡くなります。
1552年12月3日、46歳でした。
ザビエルが日本を去って12年後の1563年6月16日、第4次日本派遣宣教師団として来日したのが、イエズス会宣教師ルイス・フロイスでした。
この時、31歳でした。
フロイスは、インド・ゴアにある宣教師教育機関で教育を受けています。
宣教師たちは、ザビエルに憧れ、日本布教に従事しようとしていました。
佐世保湾を望む長崎県西海市・・・かつて横瀬浦と呼ばれた場所に、フロイスは上陸しました。
その時の様子をこう書き残しています。
”横瀬浦のキリシタンたちは、司祭たちが到着したと聞くと200人ばかりが出迎えのため、急ぎ馳せつけ、大変な感動ぶりだった”
歓迎を受けたのには理由がありました。
領主・大村純忠の存在です。
純忠は、ザビエルとともに来日し、日本に残った宣教師コスメ・デ・トーレスから洗礼を受けたばかりの日本初のキリシタン大名でした。
純忠が、横瀬浦周辺の土地を、イエズス会に与えたため、港は南蛮貿易で活気づき、キリシタンの集落や教会が作られました。
その為、フロイスたちは歓迎されたのです。
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しかし・・・時は戦国・・・宣教師たちもその荒波に飲み込まれていきます。
純忠の義理弟・後藤貴明が挙兵。
横瀬浦もその攻撃を受け、火の海となります。
フロイスたちは、命からがら平戸に近い度島に避難・・・
横瀬浦は・・・
”海岸地帯には人が住んでおらず、ポルトガルの船がそこに入港する便宜も失われてしまっているということであった”
横瀬浦の惨状に心炒めるフロイスでしたが、自身もこの時、病気による高熱で苦しんでいました。
それでも望みを捨てることなく、難解な日本の言語と風習を学ぶなど、布教再開に向けて準備をします。
1565年12月、フロイスたちは京の都へ・・・。
都に入る時には、将軍・足利義輝に強い影響力を持つ三好長慶から布教活動を容認されていました。
長慶の家臣たちを中心に、500人ほどがキリシタンとなっていました。
フロイスは、都での布教に、強い期待を抱いていました。
しかし、平和な布教活動は、長くは続きませんでした。
1865年5月19日、実質的に都を支配していた三好長慶の養子・義継達が、将軍御所を襲撃。
13代将軍・足利義輝を殺害したのです。
世に言う永禄の変です。
フロイスは、こう書き残しています。
”この事件により、教会が存亡の危機に直面して、修院の全員が死を決意した”
首謀者たちが、法華宗の熱心な信者であるため、この混乱に乗じフロイスらを殺すかもしれない・・・と、言われたからです。
そして、不安におびえるフロイスたちをさらに追い詰めたのが、時の天皇第106代正親町天皇でした。
キリスト教の布教を良しとしない本願寺の意をくみ、宣教師追放の詔を出したのです。
フロイスたちは、遂に都を負われ、摂津国の堺に避難します。
劣悪な環境での暮らしを余儀なくされながらも、そこで布教を続けました。
回想の織田信長 フロイス「日本史」より【電子書籍】[ ルイス・フロイス ]
1560年、織田信長が、桶狭間の戦いで今川義元に勝利。
その勢いに乗り、天下布武を掲げると、1568年9月、暗殺された将軍義輝の弟で、室町幕府の再興を図る足利義昭を擁して上洛します。
これが、京の都を追われたイエズス会宣教師ルイス・フロイスの運命を大きく変えます。
信長が、将軍家と対立していた三好勢を都から追放したことで、足利義昭が15代将軍に就任。
その後ろ盾だった信長が、実質的に都を支配することになりました。
フロイスは、この翌年、信長との謁見に臨みます。
フロイス37歳、信長は2歳年下の35歳でした。
謁見の場とされたのは、建築途中の二条城。
フロイスは、信長に、都での布教活動の自由を保証してほしいと願い出ると、慣例通り銀の延べ棒を進呈します。
ところが・・・
「予には金も銀も必要ではない
バテレンは異国人であり、もし、予が布教の許しを与えるためにそれを受け取るならば、予の品位は失墜するであろう」
信長は、これまでの戦国大名とは違いました。
貢物を受け取ることなく、畿内での布教を許可したのです。
信長が布教を許可した理由は・・・
新しもの好きの性格です。
信長にとってはキリシタンは物珍しい好奇心の対象で、その教えや考え方に関心がありました。
さらに、信長は政にも大きく影響を持ち、天下布武の生涯となる仏教勢力を弱体化させるためにキリスト教を対抗勢力にしようとしていたともいわれています。
そして、南蛮貿易で外国から鉄砲や火薬の原料などを手に入れやすくするためと考えたからでもありました。
いずれにせよ、信長から布教の許可を得たフロイスたち宣教師は、京の都を拠点に、畿内での布教活動を再開しました。
多くの信徒を得ていきます。
1569年、信長が岐阜に戻ります。
すると、状況は一転・・・
反キリシタン勢力だった法華宗の高僧・日乗が、フロイスたち宣教師たちの追放に乗り出したのです。
日乗は、朝廷に顔の利く都の有力者だったため、朝廷に直接働きかけ、正親町天皇にキリスト教の追放や財産没収などの綸旨を出してもらいます。
フロイスは、再び信長に助けを求めて岐阜に向かいました。
すると、信長はフロイスを篤くもてなし、彼らの保護を求める朱印状を朝廷と将軍に宛てて書いてくれました。
これによって難を逃れたフロイスでしたが・・・
かつてザビエルが教えてくれた布教の難しさを痛感していました。
「あなたが心底言わんとしたことが、今、ようやくわかりました」
この12年後、フロイスは、布教状況を査察するため来日したイエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノの通訳として、信長と安土城で再会します。
絢爛たるその城に驚嘆します。
”構造の堅固さ、装飾の華麗さにおいて、それらはヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうる
天守は7層からなり、内部外部共に驚くほど見事な建築技術によって造営されていた”
天下取り目前の信長の威光を目の当たりにしたフロイス・・・またも乱世の厳しさを知らされます。
1582年6月・・・家臣であった明智光秀による謀反で、魔王と恐れられていた信長があっけなく命を落とすのです。
九州にいたフロイスは、本能寺近くにあった教会・南蛮寺からこんな報告を受けます。
”明智方は、本能寺に侵入すると、信長を見つけた
彼は、手と顔を洗い終え、手拭いで体をぬぐっていたが、兵士たちはすぐに彼の背に矢を射た
信長はこれを引き抜き、槍を手にしてしばらく戦ったが、片腕に銃弾を受けると、自室に退いて扉を閉じた
彼が切腹したというものもいれば、放火して死んだというものもいる”
日本で伝わっている話とは少し違いますが、一報を聞いたフロイスは、その死を惜しみ、偉業を称えました。
”かつて、声はおろかその名だけで、人々を畏怖させた人物が、毛髪一本残すことなく灰燼に帰した
地上のみならず、天井においても自分に勝る主人はいないと考えた者(信長)が、不幸で悲惨な最期を迎えた”
そして、信長が非凡なる統治者であることを締めくくるのです。
しかし、この信長の死が、キリスト教布教にまたもや大きな影を落とすことになります。
ルイス・フロイス日本書翰【電子書籍】[ ルイス・フロイス ]
31歳で来日したイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、日本の情勢や文化・風習なども記録して、ローマに報告し続けていました。
ヨーロッパと日本の違いについては・・・
会話・・・ヨーロッパでは、ハッキリとした物言いをするが、日本ではあいまいなのが良いとされている
衣服・・・我々のものは、男が女の服を着ることはできないが、日本の着物は男でも女でも着られる
履物・・・我々は履物をはいたままで家に入るが、日本では失礼なことで履物を戸口で脱がなければならない
洗濯・・・我々は手でこすって服を洗うが、日本では足で踏みつけて洗う
夫婦関係・・・ヨーロッパでは男たちの方が妻を離縁するが、日本ではしばしば妻たちが夫を離縁する
と、布教を進めたことで、多くのキリシタン大名が誕生します。
民衆の間にもキリシタンたちが増えていきます。
しかし・・・拡大するキリスト教勢力に危機感を抱いたのが・・・
フロイスが気品がなく悪賢いと評した豊臣秀吉でした。
当初、秀吉はキリスト教を黙認していましたが、宣教師たちが住民たちを無理やり改宗させ、寺や神社を破壊させている・・・ポルトガル商人が日本人を奴隷として海外に売っているという報告を受けると・・・
1587年6月、伴天連追放令を発布、キリスト教の布教も禁じるのです。
それでもフロイスたちは、日本にとどまり、目立たないように布教活動を続けることにします。
フロイスは、日本に最初に降り立った地・長崎へ。。。
その後、1592年、アレッサンドロ・ヴァリニャーノと共に一時マカオに渡りますが、3年後、長崎に戻ってきます。
その翌年・・・恐ろしい事件が起こります。
嵐によりスペイン船サン=フェリペ号が土佐沖に漂着。
日本がその積み荷を没収します。
これに腹を立てたスペイン人航海士は、日本にこう言い放ちました。
「スペインは、世界全土と取引をする大国で、拒否すれば軍事力で領土を奪ってきた
その手始めが、宣教師を送ることである」
「宣教師は、我が領土を奪う手始めとな!!」
激怒した秀吉は、京の都などで捕縛した26人のキリスト教徒を長崎に送り、磔の刑に処すのです。
この痛ましい事件の記録を、フロイスは病床で体に鞭打つようにして書き上げたといいます。
殉教した26人の名が、聖人として事件の詳細と共にしっかりと歴史に刻まれ、語り継がれていくように・・・。
そして、事件の翌年の1597年5月24日、フロイスは長崎の修道院で静かにその生涯を閉じるのです。
66歳でした。
フロイスの著書「日本史」は、あまりに長く、詳細過ぎるという理由で、当初イエズス会での刊行が見送られ、マカオの教会で保管されていました。
そのフロイスの自筆原稿は、1835年、教会の火事で焼失
しかし、18世紀前半に作られた写本が、ポルトガルのリスボンに残っています。
その写本をもとにフロイスの母国・ポルトガルで「日本史」が刊行されました。
そこには、日本の資料にないリアルな日本の姿が記されていました。
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完訳フロイス日本史 豊臣秀吉編 4 秀吉の天下統一と高山右近の追放 中公文庫 / ルイス・フロイス 【文庫】