日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ザビエル

今からおよそ480年前・・・
1543年、種子島に漂着したポルトガル人が日本に鉄砲を伝えました。
これが、日本人が初めてヨーロッパ人と出会ったときといわれています。
その6年後の1549年、薩摩に再びヨーロッパ人が上陸しました。
日本に初めてキリスト教を伝えたカトリック修道会であるイエズス会の宣教師です。
彼の名は、フランシスコ・ザビエルです。
ザビエルが日本に滞在したのは、わずか2年半ほど・・・。
しかし、その間に、鹿児島、平戸、山口、京都、大分と移動して、精力的に布教活動を行いました。
初めてのキリスト教・・・日本人はどのように対応したのでしょうか??

「日本へ行く聖職者は、考えも及ばぬほど大きな迫害を受けなければなりません」byザビエル
 
そして、ザビエルが日本を去っておよそ12年、来日したのがイエズス会宣教師ルイス・フロイスです。
フロイスは、あの信長の信頼を勝ち取り、自身が亡くなるまで30年以上も日本に滞在し、布教活動を行ったひとりです。
彼が残した記録「日本史」は、当たり前すぎて日本人は書かなかった当時の日本の様子が鮮やかに、そして詳細に綴られています。

宣教師ザビエルと被差別民 (筑摩選書) [ 沖浦 和光 ]
宣教師ザビエルと被差別民 (筑摩選書) [ 沖浦 和光 ]

1549年、フランシスコ・ザビエルは、43歳の時、イエズス会の宣教師としてキリスト教を伝えるために薩摩に上陸しました。
どうして日本だったのでしょうか??
ザビエルは、1506年、イベリア半島のナバラ国王の貴族の子として生まれました。
しかし、フランスとの戦争に巻き込まれ没落・・・聖職者を目指すようになります。
そして28歳の時、6人の同志と一緒にイエズス会を創設。
6年後、ローマ教皇パウルス3世によって、カトリック教会における修道会として正式に認められました。
イエズス会の創設の目的の一つは、キリスト教の世界布教でした。
ローマ教皇の命令であればどこであっても赴くのです。
キリスト教を世界に広めるため、ザビエルたちがまず向かったのは、インド内のポルトガル領だったゴアでした。
そこを拠点に、アジアにキリスト教を広めていくことになります。
その一環として、マレー半島のマラッカに・・・そこで、運命の出会いを果たします。
アンジローという日本人です。
元武士だったといわれるアンジローは、故郷・薩摩国で殺人を犯してしまったため、ポルトガル船に乗り込み海外に逃亡していました。
しかし、ザビエルに出会ったときには、罪の赦しを得るため、キリスト教への改宗を願っていました。
そんなアンジローに、こう尋ねます。

「もしも私が、あなたと日本に行くならば、日本人は信者になるであろうか」byザビエル

アンジローに出会ったことで、ザビエルは、日本という未知の国に強い興味を持ったのです。
さらに、ザビエルは、日本でのキリスト教の布教の可能性を強く感じていました。
インドや東南アジアは、他民族・多言語だったため、部卿が難しいと感じていたのです。
日本が一言語であるため、布教がしやすいと考えていました。
日本人が、物事を理性で判断する民族で、言語が一つであることを知り、キリスト教を理解してもらいやすいと考え、来日を決めました。

こうしてザビエルは、1549年6月24日、宣教師の同志らと共に、受洗し日本人初のキリスト教徒となったアンジローを伴い、マラッカから出航。
およそ2か月後の8月15日、薩摩に上陸しました。

ザビエルと天皇 豊後のキリシタン歴史秘話 [ 守部喜雅 ]
ザビエルと天皇 豊後のキリシタン歴史秘話 [ 守部喜雅 ]

応仁の乱ののち、戦乱の世に突入し、30年近くが経とうとしていました。
薩摩についたザビエルたちは、アンジローを通訳として、薩摩国の守護大名・島津貴久に謁見。
すると、以外にもキリスト教布教の許しを得ます。
幸先のいいスタートを切った布教・・・ザビエルは、ゴアのイエズス会に向けて最初に受けた日本の印象を書き送っています。

”この国の人は、今まで発見された国民の中では最高であり、日本人より優れている人々は異教徒間には見出すことができないでしょう
 彼等は皆、親しみやすく、一般的に善良で悪意がありません
 彼等は驚くほど名誉心の強い人々で、他の何よりも名誉を重んじます”

特にザビエルが優れていると感じたのが、読み書きの能力でした。
日本人の識字率の高さに着目しました。
識字率の高さが、祈りや教理を短時間で覚え、理解するのに役立つと期待したのです。

ザビエルたちは、布教を許可してくれた島津家の菩提寺の門前で、布教を開始。
ところが、期待したほど信徒が集まりません。
原因は、アンジローの通訳にありました。
日本語の翻訳が不十分で、誤りも多かったのです。
アンジローは、キリスト教の用語を仏教用語に置き換えて訳しました。
日本人は、キリスト教を仏教の一宗派と勘違いし、「天竺宗」と呼ぶ人もいました。
これは、アンジローの無知によるものと考えられます。
しかし、一般の日本人では仕方がなかったと考えられます。

誤解に気付いたザビエルは、神をラテン語やポルトガル語の「デウス」のまま表現しました。

創造主としての神→キリストの生涯→最後の審判

を説いていきました。

薩摩にやってきて日本人の優秀さに感心したザビエルでしたが、どうしても許せない日本の慣習がありました。

「ボンゾズ(僧侶たち)には、私たちはしばしばそのような醜い罪を犯さないように言いました
 ボンゾズは、私たちの言うことを嘲笑してはぐらかし、極めて醜い罪について非難されても、恥ずかしいとは思わないのです

 ボンゾズは、修院に読み書きを教えている武士の子供たちを多数住まわせて、その子供たちに邪悪な罪を犯していますが、その罪が習性となっているので、たとえ全ての人々に悪であると思われても、それに驚きません」byザビエル

僧侶たちの醜い罪とは・・・??
男色のことで、衆道ともよばれていました。
男色は、日本では寺院だけでなく、戦国大名から一般庶民に至るまで、広く行われていました。
これは、それまでの布教の地とは全く違っていました。
同性愛は、キリスト教の倫理に外れることになります。
ザビエルの嫌悪感は、大きかったのです。

僧侶たちも、異教であるキリスト教を布教するザビエルたちを疎んじ、嫌がらせをする者もいました。
やがてその動きが波及し、キリスト教への迫害が薩摩で強くなってきたことで、ザビエルたちは薩摩を離れる決断をします。

薩摩でキリスト教布教を始めたザビエルたちでしたが、キリスト教迫害の動きが強くなってきたので、1550年9月、アンジローを薩摩に残し、肥前国の港町・平戸に移ります。
領主・松浦隆信は、自らキリスト教に入信することはありませんでしたが、宣教師たちには好意的で、平戸での布教を許可。
松浦にはある目論見がありました。
自分たちの船を持たない宣教師たちは、布教のため海を渡る際、商人の船・南蛮船に乗せてもらっていました。
キリスト教の布教を認めれば、必然的に宣教師たちを乗せた南蛮船が来ることになります。
松浦の狙いは、その南蛮船でした。
キリスト教の布教を認めることで、南蛮貿易を盛んにし、鉄砲や海外の品々をいち早く入手することを目論んだのです。
ザビエルもこれを利用するようになります。
日本で貿易できることを口実に、宣教師たちが日本に来るための船を確保できたのです。

平戸での布教活動も困難を極めます。
子供たちが驚いて、嘲笑したり、石を投げたり、大人からの暴力・・・
はじめて見る異国の人々・・・ただただ怖かったのかもしれません。
日本での布教が困難なことを身をもって知ったザビエルは、これから来る宣教師たちにこう伝えます。

「日本へ行く聖職者は、考えも及ばぬほど大きな迫害を受けなければなりません」byザビエル

ザビエルは、更なる信者獲得のために、山口へ・・・京の都に向かうのです。
天皇への謁見は、ザビエルの大きな目的の一つでした。
しかし、都は応仁の乱の爪痕が大きく、天皇との謁見を断念。
失意の中、山口に戻ったザビエルでしたが、ここで事態が一変・・・布教の許可が下ります。
許可を下したのは、山口を拠点に周防・長門・石見・安芸の中国地方・・・さらには、豊前・筑前といった北九州を支配する西国一の戦国大名・大内義隆でした。
どうして、大内義隆は、戻ってきたザビエルたちに布教活動を許したのでしょうか??
ザビエルは、天皇に献上するはずだった海外の品々を、大内義隆に献上し、布教の許可を得たのです。
ザビエルは、このことも日本で布教するための教訓として伝えています。

「布教を進めるには、日本の領主たちに贈り物をして喜ばせることが必要」

この時、布教の許しを得た山口の町は、西国随一の町として繁栄!!
ザビエルは、ここを日本の布教の拠点としました。
早速布教を始めますが、日本人を観察してきた結果・・・
布教場所に最適と選んだのが、井戸端でした。
女性だけの家に入り込むこともはばかられたため、人が集まる井戸端を選び説教したのです。
その中で、日本人が一番関心を持ったのが、キリストの物語でした。
キリストが十字架に架けられる受難のくだりに、多くの人が涙を流したといいます。
ザビエルが、山口に滞在したのはわずか半年でしたが、およそ500人の信者を獲得しました。

インド・ユダヤ人の光と闇 ザビエルと異端審問・離散とカースト [ 徳永恂 ]
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その後、ザビエルは豊後に移動します。
そこで、布教活動をしながらこう考えます。

「キリスト教を、日本全土に広がるためにはどうしたらよいものか・・・」

ヒントとなったのは、仏教でした。
仏教は、古代大陸から日本に伝わり、広まったというし、日本人は大陸文化の影響を強く受けている・・・
ならば、明にキリスト教を広め、明から伝われば日本に広まりやすいのでは・・・??
そこで、ザビエルは、明でキリスト教を布教するため、1551年、日本を去り、インドのゴアへ・・・そして明に・・・!!
しかし、明は鎖国中で入国できず、熱病にかかったザビエルは、明の沖に浮かぶ小島・上川島で志半ばで亡くなります。
1552年12月3日、46歳でした。


ザビエルが日本を去って12年後の1563年6月16日、第4次日本派遣宣教師団として来日したのが、イエズス会宣教師ルイス・フロイスでした。
この時、31歳でした。
フロイスは、インド・ゴアにある宣教師教育機関で教育を受けています。
宣教師たちは、ザビエルに憧れ、日本布教に従事しようとしていました。
佐世保湾を望む長崎県西海市・・・かつて横瀬浦と呼ばれた場所に、フロイスは上陸しました。
その時の様子をこう書き残しています。

”横瀬浦のキリシタンたちは、司祭たちが到着したと聞くと200人ばかりが出迎えのため、急ぎ馳せつけ、大変な感動ぶりだった”

歓迎を受けたのには理由がありました。 
領主・大村純忠の存在です。
純忠は、ザビエルとともに来日し、日本に残った宣教師コスメ・デ・トーレスから洗礼を受けたばかりの日本初のキリシタン大名でした。
純忠が、横瀬浦周辺の土地を、イエズス会に与えたため、港は南蛮貿易で活気づき、キリシタンの集落や教会が作られました。
その為、フロイスたちは歓迎されたのです。

サンエイムック 時空旅人 ベストシリーズ ルイス・フロイスが見た明智光秀
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しかし・・・時は戦国・・・宣教師たちもその荒波に飲み込まれていきます。
純忠の義理弟・後藤貴明が挙兵。
横瀬浦もその攻撃を受け、火の海となります。
フロイスたちは、命からがら平戸に近い度島に避難・・・
横瀬浦は・・・

”海岸地帯には人が住んでおらず、ポルトガルの船がそこに入港する便宜も失われてしまっているということであった”

横瀬浦の惨状に心炒めるフロイスでしたが、自身もこの時、病気による高熱で苦しんでいました。
それでも望みを捨てることなく、難解な日本の言語と風習を学ぶなど、布教再開に向けて準備をします。

1565年12月、フロイスたちは京の都へ・・・。
都に入る時には、将軍・足利義輝に強い影響力を持つ三好長慶から布教活動を容認されていました。
長慶の家臣たちを中心に、500人ほどがキリシタンとなっていました。
フロイスは、都での布教に、強い期待を抱いていました。
しかし、平和な布教活動は、長くは続きませんでした。

1865年5月19日、実質的に都を支配していた三好長慶の養子・義継達が、将軍御所を襲撃。
13代将軍・足利義輝を殺害したのです。
世に言う永禄の変です。
フロイスは、こう書き残しています。

”この事件により、教会が存亡の危機に直面して、修院の全員が死を決意した”

首謀者たちが、法華宗の熱心な信者であるため、この混乱に乗じフロイスらを殺すかもしれない・・・と、言われたからです。
そして、不安におびえるフロイスたちをさらに追い詰めたのが、時の天皇第106代正親町天皇でした。
キリスト教の布教を良しとしない本願寺の意をくみ、宣教師追放の詔を出したのです。
フロイスたちは、遂に都を負われ、摂津国の堺に避難します。
劣悪な環境での暮らしを余儀なくされながらも、そこで布教を続けました。

回想の織田信長 フロイス「日本史」より【電子書籍】[ ルイス・フロイス ]
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1560年、織田信長が、桶狭間の戦いで今川義元に勝利。
その勢いに乗り、天下布武を掲げると、1568年9月、暗殺された将軍義輝の弟で、室町幕府の再興を図る足利義昭を擁して上洛します。
これが、京の都を追われたイエズス会宣教師ルイス・フロイスの運命を大きく変えます。
信長が、将軍家と対立していた三好勢を都から追放したことで、足利義昭が15代将軍に就任。
その後ろ盾だった信長が、実質的に都を支配することになりました。
フロイスは、この翌年、信長との謁見に臨みます。
フロイス37歳、信長は2歳年下の35歳でした。
謁見の場とされたのは、建築途中の二条城。
フロイスは、信長に、都での布教活動の自由を保証してほしいと願い出ると、慣例通り銀の延べ棒を進呈します。
ところが・・・

「予には金も銀も必要ではない
 バテレンは異国人であり、もし、予が布教の許しを与えるためにそれを受け取るならば、予の品位は失墜するであろう」

信長は、これまでの戦国大名とは違いました。
貢物を受け取ることなく、畿内での布教を許可したのです。
信長が布教を許可した理由は・・・

新しもの好きの性格です。
信長にとってはキリシタンは物珍しい好奇心の対象で、その教えや考え方に関心がありました。
さらに、信長は政にも大きく影響を持ち、天下布武の生涯となる仏教勢力を弱体化させるためにキリスト教を対抗勢力にしようとしていたともいわれています。
そして、南蛮貿易で外国から鉄砲や火薬の原料などを手に入れやすくするためと考えたからでもありました。

いずれにせよ、信長から布教の許可を得たフロイスたち宣教師は、京の都を拠点に、畿内での布教活動を再開しました。
多くの信徒を得ていきます。

1569年、信長が岐阜に戻ります。
すると、状況は一転・・・
反キリシタン勢力だった法華宗の高僧・日乗が、フロイスたち宣教師たちの追放に乗り出したのです。
日乗は、朝廷に顔の利く都の有力者だったため、朝廷に直接働きかけ、正親町天皇にキリスト教の追放や財産没収などの綸旨を出してもらいます。

フロイスは、再び信長に助けを求めて岐阜に向かいました。
すると、信長はフロイスを篤くもてなし、彼らの保護を求める朱印状を朝廷と将軍に宛てて書いてくれました。
これによって難を逃れたフロイスでしたが・・・
かつてザビエルが教えてくれた布教の難しさを痛感していました。

「あなたが心底言わんとしたことが、今、ようやくわかりました」

この12年後、フロイスは、布教状況を査察するため来日したイエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノの通訳として、信長と安土城で再会します。
絢爛たるその城に驚嘆します。

”構造の堅固さ、装飾の華麗さにおいて、それらはヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうる
 天守は7層からなり、内部外部共に驚くほど見事な建築技術によって造営されていた”

天下取り目前の信長の威光を目の当たりにしたフロイス・・・またも乱世の厳しさを知らされます。
1582年6月・・・家臣であった明智光秀による謀反で、魔王と恐れられていた信長があっけなく命を落とすのです。
九州にいたフロイスは、本能寺近くにあった教会・南蛮寺からこんな報告を受けます。

”明智方は、本能寺に侵入すると、信長を見つけた
 彼は、手と顔を洗い終え、手拭いで体をぬぐっていたが、兵士たちはすぐに彼の背に矢を射た
 信長はこれを引き抜き、槍を手にしてしばらく戦ったが、片腕に銃弾を受けると、自室に退いて扉を閉じた
 彼が切腹したというものもいれば、放火して死んだというものもいる”

日本で伝わっている話とは少し違いますが、一報を聞いたフロイスは、その死を惜しみ、偉業を称えました。

”かつて、声はおろかその名だけで、人々を畏怖させた人物が、毛髪一本残すことなく灰燼に帰した
 地上のみならず、天井においても自分に勝る主人はいないと考えた者(信長)が、不幸で悲惨な最期を迎えた”

そして、信長が非凡なる統治者であることを締めくくるのです。
しかし、この信長の死が、キリスト教布教にまたもや大きな影を落とすことになります。

ルイス・フロイス日本書翰【電子書籍】[ ルイス・フロイス ]
ルイス・フロイス日本書翰【電子書籍】[ ルイス・フロイス ]

31歳で来日したイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、日本の情勢や文化・風習なども記録して、ローマに報告し続けていました。
ヨーロッパと日本の違いについては・・・
会話・・・ヨーロッパでは、ハッキリとした物言いをするが、日本ではあいまいなのが良いとされている
衣服・・・我々のものは、男が女の服を着ることはできないが、日本の着物は男でも女でも着られる
履物・・・我々は履物をはいたままで家に入るが、日本では失礼なことで履物を戸口で脱がなければならない
洗濯・・・我々は手でこすって服を洗うが、日本では足で踏みつけて洗う
夫婦関係・・・ヨーロッパでは男たちの方が妻を離縁するが、日本ではしばしば妻たちが夫を離縁する
と、布教を進めたことで、多くのキリシタン大名が誕生します。

民衆の間にもキリシタンたちが増えていきます。
しかし・・・拡大するキリスト教勢力に危機感を抱いたのが・・・
フロイスが気品がなく悪賢いと評した豊臣秀吉でした。
当初、秀吉はキリスト教を黙認していましたが、宣教師たちが住民たちを無理やり改宗させ、寺や神社を破壊させている・・・ポルトガル商人が日本人を奴隷として海外に売っているという報告を受けると・・・
1587年6月、伴天連追放令を発布、キリスト教の布教も禁じるのです。
それでもフロイスたちは、日本にとどまり、目立たないように布教活動を続けることにします。
フロイスは、日本に最初に降り立った地・長崎へ。。。
その後、1592年、アレッサンドロ・ヴァリニャーノと共に一時マカオに渡りますが、3年後、長崎に戻ってきます。
その翌年・・・恐ろしい事件が起こります。
嵐によりスペイン船サン=フェリペ号が土佐沖に漂着。
日本がその積み荷を没収します。
これに腹を立てたスペイン人航海士は、日本にこう言い放ちました。

「スペインは、世界全土と取引をする大国で、拒否すれば軍事力で領土を奪ってきた
 その手始めが、宣教師を送ることである」

「宣教師は、我が領土を奪う手始めとな!!」

激怒した秀吉は、京の都などで捕縛した26人のキリスト教徒を長崎に送り、磔の刑に処すのです。
この痛ましい事件の記録を、フロイスは病床で体に鞭打つようにして書き上げたといいます。
殉教した26人の名が、聖人として事件の詳細と共にしっかりと歴史に刻まれ、語り継がれていくように・・・。
そして、事件の翌年の1597年5月24日、フロイスは長崎の修道院で静かにその生涯を閉じるのです。
66歳でした。

フロイスの著書「日本史」は、あまりに長く、詳細過ぎるという理由で、当初イエズス会での刊行が見送られ、マカオの教会で保管されていました。
そのフロイスの自筆原稿は、1835年、教会の火事で焼失
しかし、18世紀前半に作られた写本が、ポルトガルのリスボンに残っています。
その写本をもとにフロイスの母国・ポルトガルで「日本史」が刊行されました。
そこには、日本の資料にないリアルな日本の姿が記されていました。

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1582年6月2日・・・天下統一目前で織田信長が家臣・明智光秀の謀反で命を落とします。
本能寺の変です。
戦国の世を大きく変えたこの事件は、信長と光秀を取り巻く女たちの運命も翻弄しました。
光秀の娘・・・細川ガラシャもその一人です。

戦国の革命児・織田信長が、尾張の一大名から天下布武を掲げ走り出したころ・・・
1563年、細川ガラシャは武勇、教養を兼ね備えていた明智光秀の三女・玉として生まれました。
ガラシャとは、キリスト教の洗礼名です。
幼少の頃の玉の記録はありません。
歴史にその名が現れるのは、16歳で名門・細川家の嫡男・忠興と結婚した時です。
当時、二人の父・・・明智光秀(近江国)と細川忠興(山城国)は、織田信長の家臣した。
その婚儀を取り持ち、媒酌人を買って出たのが、主君・信長本人でした。
そこには信長の思惑がありました。
この頃の明智光秀は信長の重臣で、西を攻める・・・細川藤孝も援軍として、この二組を固く結びつけようとしていたのです。
京都府長岡京市・・・細川家の居城・勝龍寺城で婚儀が執り行われました。
誰もがうらやむ美男美女のカップルでした。
夫・忠興は玉の美しさに惚れ込み、手作りのカルタを作るなどして喜ばせ、夫婦仲は良かったといいます。
結婚した翌年には、長女・於長、その翌年には長男・忠隆が生れます。
そんな中、明智家は丹波国を、細川家は丹後国を見事平定・・・拝領し、順風満帆でした。
勝龍寺城での生活が、玉にとって一番幸せな時期でした。

玉は、美しいだけでなく、和歌、儒学、仏教にも精通していました。
才色兼備で、義父・細川藤孝も「一入 最愛の嫁」と絶賛していました。

1582年6月2日、結婚から4年がたった玉20歳の時・・・運命が急転します。
本能寺の変が起きるのです。
父・明智光秀が、主君である織田信長を討ったことで、謀反人の娘となってしまった玉・・・
これが悲劇の始まりでした。

ガラシャの悲劇①謀反人の娘

信長に謀反を起こした光秀は、すぐさま細川家に援軍を要請・・・
上洛し、味方に加わるように書状を送りました。
しかし、細川家が出した答えは非常なものでした。
「光秀は主君の敵」
光秀に味方することを拒んだのです。
当主の藤孝は、髻を切って息子・忠興に家督を譲ります。
主君信長への哀悼の意を示します。
昵懇であった実家と嫁ぎ先の対立・・・その狭間で苦しむ玉に・・・
織田家、細川家家臣たちから謀反人の娘・玉に対する離縁や自害を求める声があがります。

この時夫忠興が取った策とは・・・??

父を助けてほしい・・・愛する夫と一緒にいたい・・・そう願う玉・・・
夫・忠興に一縷の望みを託していました。
しかし、忠興は・・・「最早、共に暮らすことはできない」そう言って、玉を丹後国のはずれ味土野に幽閉してしまうのです。
明智軍記には、味土野に明智家の茶屋があったといいます。
忠興は、玉を実家ゆかりの地へ移すことで、様々な圧力から守ろうとしたのです。
そんな忠興の気持ちなど知る由もない玉は・・・
「(父上が)腹黒なる御心ゆえ
 自らも忠興に捨てられ
 微かなる有り様なり」と、認めています。
本能寺の変から11日後・・・1582年6月13日、山﨑の戦い
父、光秀は信長の家臣だった羽柴秀吉と戦い、惨敗・・・敗走する中、落ち武者狩りにあい落命・・・母や玉の男兄弟たちも命を絶ち、明智家は乱世に散りました。

玉は・・・数人の家老と侍女をつれ、陸の孤島で幼い子たちとも引き離され孤独の日々を送っていました。
この時、身籠っていた玉は、次男・興秋を出産。
そんな玉の支えとなっていたのは、身の回りの世話をしてくれていた清原いとという侍女でした。
このいとは、儒学者の娘で、玉の教養の高さは彼女の影響もあったようです。

秀吉の臣下となり武功をあげて行った細川忠興は、妻・玉の幽閉を解いてもらえるように秀吉に願い出ます。
秀吉は、あっさりと主君・信長の敵を許します。
この頃、秀吉自身は地位を不動のものとしていました。
徳川家康、織田信雄など周りに敵もいたので、忠興が自分の手足となって働いてくれるようにと思ってのことでした。
かつて大阪での大坂での屋敷のあった地に玉は戻ってきました。
しかし、その暮らしは幽閉生活よりも苦しいものでした。

ガラシャの悲劇②戦国一の美女
玉の幽閉中に側室を持ち、子まで成していた夫・忠興・・・たまに厳しく接します。
それは、かつての優しい夫ではありませんでした。
短気な忠興に、頑なになっていく玉の心・・・。
どうして忠興は玉に厳しかったのでしょうか?

”彼女に対して行った極端な監禁は、信じられぬほど厳しいものであった”byルイス・フロイス

そして出入りを逐一報告させました。
窮屈な生活を強いられていた玉・・・どうしてそんな必要があったのでしょうか?

理由❶謀反人の娘ということへの世間体を気にした
理由❷戦国一の美女だったので、忠興の過度の嫉妬がそうさせました。
     美しい妻が、他の男の目に触れることを嫌ったのです。

次第にふさぎ込んでいく玉・・・。
常に監視されている窮屈な暮らし・・・

玉を他の男の目に触れさせたくない・・・その心を最も駆り立てたのは、主君である秀吉でした。
忠興が秀吉の命で朝鮮出兵した時の事・・・
秀吉が九州の名護屋城に大名たちの妻子を招き、茶会を行うという噂を聞くと、忠興はいてもたってもいられず、玉に何度も手紙を送っています。
その中には歌も・・・

なびくなよ
  わが姫垣の
       女郎花
男山より
  風は吹くとも

女郎花とは玉の事、男山は秀吉の事・・・どんなことがあってもなびくなということです。
秀吉は女好きで有名で、留守見舞いとして家臣たちの妻を呼び寄せていました。
それであわよくば自分のものにしようと・・・そこを気にしていました。
そんな忠興に対して、こんな歌を返しています。

なびくまじ
   わがませ垣の
         女郎花
男山より
  風は吹くとも

そして茶会当日・・・玉はある覚悟をもって秀吉と謁見します。
秀吉の前に進み出て挨拶をした玉は、その懐からわざと短刀を落としたのです。
私に触れれば自害するという意思表示でした。
流石の秀吉もその覚悟を知り、そのまま帰したといいます。
とはいえ、自分の幽閉中に側室を持ったうえ、嫉妬・監禁というゆがんだ愛情表現・・・
玉の夫への不信感は強まっていきます。
そんな中でも、忠興のある話には熱心に耳を傾けました。
キリスト教の話です。
忠興は、親交の深かった大名・高山右近から聞いたキリスト教の教えを玉によく聞かせました。
何より自分の話を聞き、こちらだけを見てくれる・・・
玉の心を唯一引き止められる幸せな時間でした。

1549年、イエズス会の宣教師ザビエルによってキリスト教は伝えられました。
30年余りで全国に広まり、信者は15万人に達したといいます。
夫・忠興からキリスト教の話を聞かされた玉は、その教えに大きく心を動かされました。

「神の前では何人も平等であり、愛をもって接しなければならない」

玉は、教会に行き、もっと教えを聞きたいと思うようになっていきます。

ガラシャの悲劇❸キリシタン
厳しい監視の中、外に出ることのできない玉に、チャンスが巡ってきたのは1587年3月のことでした。
夫・忠興が秀吉の命を受け、九州討伐へ・・・!!
大坂の屋敷を離れたのです。
玉は、病気と偽り部屋に籠ると監視の目を欺き、侍女たちと屋敷を抜け出します。
向かったのは、天満の教会です。
玉は、日が暮れるまで宣教師にキリスト教の教えについて質問を繰り返しました。
玉に会った宣教師は・・・イエズス会日本通信にこう書いています。

”これほどの理解力を持つ聡明な日本女性を見たことがない
 明晰かつ果敢な判断ができる女性であった”

玉は、すぐに洗礼を受けることを望みましたが、かないませんでした。
細川家の素性を明かさない玉を、宣教師が怪しんだからです。
諦めて屋敷に戻った玉でしたが、その後、外出の機会がもどってくることはありませんでした。
そこで、どうしてもキリシタンになりたかった玉は、まず侍女・清原いとに洗礼を受けさせます。
そしてそのいとから洗礼を受け、ようやくキリシタンとなったのです。
洗礼名はガラシャ・・・ラテン語で神の恩恵という意味です。
玉という名から連想された”賜る”からつけられたといわれています。
この時、25歳でした。

どうしてガラシャはそこまでしてキリシタンになりたかったのでしょうか?
儒教の”三従の教え”から解き放たれたかったのでは・・・??
三従の教え・・・子供の時は父に、結婚してからは夫に、年老いたら長男に従うというものです。
女性は生涯男性にしたがうという三従の教えから解き放たれたかったのです。
そして三男の忠利が病弱だったため、その回復を願ったのだともいわれています。

キリシタンとなって充実な日々を送っていたガラシャですが、生きる希望となっていたキリスト教が、またもや悲劇を起こします。
1587年6月・・・九州を平定した秀吉が、キリスト教への入信および日本人奴隷の売買への禁止、宣教師の国外退去を命じる伴天連追放令を発布しました。

秀吉は、実際に九州に足を踏み入れて、キリスト教が強くなってきていることに気付いたのです。
長崎の出島をイエズス会が占拠している・・・!!
憤りを感じているところへ、日本人の男女が奴隷として東南アジアへと売られていったことを知ります。
そしてキリスト教徒の結束力の強さ・・・そこに信長が苦しめられてきた一向一揆と同じものを・・・結束力の恐ろしさを感じたのです。
秀吉のキリシタンに対する迫害は、次第に強くなっていきます。
大名たちにもキリスト教を禁止・・・破ったものは領地没収など厳しく接します。

秀吉がキリスト教への締め付けを強める中、ガラシャは娘や侍女たち、家臣たちにも洗礼を受けさせていました。
これに激高したのは九州から帰ってきた細川忠興でした。
忠興は、ガラシャの喉元に短刀を突き付け改宗することを迫りましたが、ガラシャは決して首を縦に振りませんでした。
そこで、忠興は、洗礼を受けた周りの者たちを攻撃し始めます。
キリシタンとなった侍女たちの髪を切ったり、鼻や両耳を削ぎ落され屋敷の外に追い出されるものまでいました。
忠興自身もキリシタンに共感している部分もありましたが、秀吉も伴天連追放令を出したことに従うほか、家を守れませんでした。
妻がキリスト教にのめり込んでいく・・・立場上許せませんでした。
ガラシャは、忠興との離縁を望むようになります。
侍女を通じて宣教師に相談するも・・・・キリスト教では離婚は禁じられているといわれます。
ガラシャは覚悟を決めて宣教師に手紙を書きました。

「どのような迫害を受けようとも、私の信仰はかわりません」

厚い信仰心で自らの人生に立ち向かう決意をしたガラシャでしたが、時代の大きな波にのまれようとしていました。
1598年8月18日、天下人・豊臣秀吉死去・・・
秀吉亡き後、天下を狙って暗躍する徳川家康と豊臣政権を守ろうとする石田三成が対立・・・
再び戦乱に・・・
徳川家康の東軍7万8000VS石田三成の西軍・8万4000!!
天下分け目の関ケ原の戦いが始まりました。
しかし、この大戦は、わずか半日で決着・・・!!家康の東軍の圧勝で終わりました。
この勝敗に大きく関係していたのが、細川ガラシャだといわれています。
関ケ原の戦いとガラシャの関係とは。。。??
関ケ原の戦いの3か月前・・・細川忠興を始め多くの大名たちが家康に反抗していた上杉討伐の為に会津へと向かいます。
大坂城下に残されたのは、夫を待つ妻たち・・・。
三成は、敵対する大名の妻子を大坂城内に人質にとる作戦に出ます。
人質として三成がどうしても欲しかったのがガラシャでした。
ガラシャを人質にすれば、妻を溺愛する忠興は必ず寝返りする・・・!!
そうなれば、他の大名たちの次々と味方に付くだろうと考えたのです。

7月16日、三成の使者が大坂城下の細川家の屋敷を訪れて・・・
「御上様(ガラシャ)を人質として差し出すように・・・さもなければ屋敷に押しかける」
この時、大坂に残った細川家の重臣たちが出した結論を、侍女が書き残しています。
”一人も人質なし”と・・・!!
絶対に人質になってはいけないというのです。
この判断の元、ガラシャは人質になることを拒絶!!
すると翌日・・・石田軍によって細川家は取り囲まれてしまいます。
危機が迫る中、ガラシャの脳裏によぎったのは夫の言葉でした。

「いざという時には、そなたも細川忠興の妻として自害するように。」

ガラシャは悩みます。
キリスト教では自殺は禁止されていました。
しかし、このままでは人質として捕らえられてしまう・・・
そうなれば、妻としての面目が立たない・・・!!
神への祈りをささげたガラシャは侍女たちを集め、自らの覚悟を話します。

「私はひとりで死にます。
 皆は逃げよ・・・!!」

そして、夫に宛てた遺言を託すのです。

「側室を正室代わりにされることはないように」

妻の意地を見せたガラシャに、最早迷いはありませんでした。
そして家老である小笠原秀清に言います。

「私の胸をその長刀で突きなさい」

自害せず、家臣に殺させることでキリストの教えを守り、死によって大名の妻として細川家を守ったのです。
残った家臣たちもガラシャに続いて自刃・・・屋敷に火が放たれ、遺体は炎に包まれました。
細川ガラシャ・・・この時38歳・・・妻の死が、上杉討伐に行っていた夫・忠興の元に伝えられたのは数日後のことだったといいます。
この一連の出来事について細川家の記録にこう書かれています。

「自害せしむるの間 三成怖れて 人質を取り入ることならず」

ガラシャを死なせてしまったことで、三成は怖気づいてしまったのだ・・・と。
この事件が、三成が正室を人質にとる作戦を諦めさせる原因となりました。
結果、関ケ原の戦いで家康が不利にならずに済んだのです。

男たちの争いに翻弄されたガラシャの辞世のうた・・・

散りぬべき
   時知りてこそ
       世の中の
花も花なれ
      人も人あれ

散り際を知っている花は美しく、私もそうなりたい・・・
その潔い死は、歴史を大きく変えたのでした。

キリスト教が禁じられている中、忠興は妻の葬儀を教会で行いました。
その際、涙を流し泣き続けたといいます。
そして忠興は亡くなる83歳まで正室を迎えることはありませんでした。
ガラシャの遺言通り・・・
本能寺の変、関ケ原の戦いと、戦国の覇権争いに巻き込まれ、波乱の人生を送ったガラシャ・・・
自らが招いたわけではない悲劇に、何度も身を引き裂かれるような思いをし、キリスト教という救いに出会い、慈悲深い心で戦乱の世を必死に生き抜きました。
ガラシャはまさに戦国の世を象徴する女性でした。

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