現在、世界中で飛行機に乗る人の数は、1年間で約45億!!
地球上のどこでも気軽に飛んでいけます。
旅客機の時代は、一人の若者の快挙から始まりました。
チャールズ・リンドバーグ・・・およそ100年前、ニューヨーク⇔パリ間の5800キロの無着陸飛行に初めて成功しました。

1929年にアメリカで公開されたウォルト・ディズニーの初期作品「プレーン・クレイジー」・・・飛行機に夢中になった主人公が、パイロットにチャレンジする物語です。
主人公が、その髪型を真似するほど憧れたその人物・・・それがリンドバーグでした。

1927年5月20日、ニューヨーク⇔パリ間を大西洋単独無着陸飛行という世界初の快挙に成功したリンドバーグ・・・
ニューヨークの凱旋パレードでは、400万人もの人が祝福、一夜にして世界中のヒーローとなりました。
しかし、その後リンドバーグを待っていたのは、英雄ゆえの悲劇の連続でした。

20世紀は飛行機と共に始まりました。
1903年、ライト兄弟が世界初の友人動力飛行に成功します。
1914年、第1次世界大戦で、飛行機が戦闘に投入されます。
飛行機の運動性能は瞬く間に向上し、その後は如何に長く飛ぶか・・・飛行距離を競う時代となりました。
そして1919年、アメリカで世界最大の航空レースが催されます。
ニューヨーク⇔パリ間の5800キロ・・・大西洋を横断し、しかも無着陸のレースです。
1番乗りの賞金は、2万5000ドル・・・現在の価値でおよそ4000万円でした。
前人未到のこのレースに挑み、初の偉業達成した若者こそ、リンドバーグでした。

リンドバーグは、どのようにして大西洋無着陸横断に成功したのでしょうか?
1902年、リンドバーグは、ミシガン州デトロイトで生まれました。
父は弁護士、母は教師・・・しかし、両親はリンドバーグが5歳の時に別居します。
母に引き取られたリンドバーグ・・・しかし、母が仕事に出かけると、リンドバーグはひとり・・・。
ひとり遊びが好きな内気な少年でした。

「私は部屋の中で生白い顔をして何時間もずっとあれこれつまらないことを考えて過ごした」

時折会いに来る父は、友達のいないリンドバーグをこう励ましました。

「一人は一人前の仕事をする
 二人では半人前の仕事をする
 三人になると何も達成できない・・・ということわざがある
 他人を頼り過ぎてはいけないよ」

そんなリンドバーグは心を惹かれたのは機械でした。
近くに住んでいた祖父は、歯科医で発明家。
リンドバーグは祖父の研究室に入り浸り、様々な工具や機械に夢中になりました。

「科学はあらゆる謎を解き明かす鍵なんだ!」

やがてリンドバーグの興味は、最先端のメカ・飛行機に向いてきます。
10歳の時、母と共に試験飛行を見学しました。
リンドバーグの目の前で、飛行機が大空へと駆け上がっていきます。

「僕も空を飛びたい!!」

20歳になったリンドバーグは、パイロットを目指して飛行学校へ入学。
1週間後、初めて飛行機に乗せてもらいました。

「美しさと危険に満ち 生と死を超越した永遠の空間の中に生きている気がした」

在学中、リンドバーグはアルバイトして稼いだ金をつぎ込んで中古の飛行機を手に入れます。
その目的は、プロの曲芸飛行士!!
第1次世界大戦が終わり、仕事にあぶれたパイロットが始めたこのショーは、全米で大人気でした。
リンドバーグは、”命知らずの空中軽業師”というキャッチフレーズで、各地を回り、操縦の腕を磨いて行きました。
その後、リンドバーグは、22歳で陸軍飛行学校に入学。
曲芸飛行で磨いた操縦の腕前は、教官を凌ぐほどだったといいます。
翌年、リンドバーグは首席で卒業、航空産業の中心だったセントルイスに移住します。
セントルイスでは、全米に先駆けて、民間の航空郵便が発足、リンドバーグはその会社のチーフパイロットに採用されました。
嵐でも、闇夜でも、たった一人で飛ぶ航空郵便・・・
それは、孤独を苦にしないリンドバーグにうってつけでした。
しかし、当時、航空郵便のパイロットは、最も危険な職業でした。
墜落死亡事故が後を絶たなかったのです。
リンドバーグも、2度墜落事故をに遭いましたが、その度にパラシュートで脱出し、生還しました。
そんな頃、耳にしたレースが、大西洋横断レースでした。
ニューヨーク⇔パリ間、5800kmの無着陸飛行です。
それまで大西洋横断の最長記録は3000km・・・
今回のレースは、その2倍近い前人未到の距離でした。
名だたるパイロットが挑戦したものの、次々と失敗、6人の犠牲者が出ていました。
しかし、リンドバーグに迷いはありませんでした。

「賞金よりコースを飛んでみたい」

リンドンバーグは、他の挑戦者が考えもしなかったアイデアを次々と実行していきます。
大西洋横断は、30時間以上の長距離飛行です。
操縦を後退するため、他の挑戦者は2人乗りの飛行機を使っていました。
しかし、リンドバーグは・・・

「僕はひとりだけで飛ぼう」

狙いは、軽量化でした。
2人乗り用の飛行機では、どうしても重くなり、長距離に適しません。
一人乗りならば劇的に減る・・・
しかし、その代わりにリンドバーグは飛行中一睡もできない!!
さらにリンドバーグは、無線機も非常用のパラシュートも積みませんでした。
命の危険と引き換えに、ギリギリまで軽くしたのです。

リンドバーグは、飛行機の設計の時点で細かく常識外れの注文をつけます。
操縦席の前に、巨大なガソリンタンクを設置しろと言うのです。
操縦席からは、全く前が見えなくなってしまう・・・

「前が見えないと危険だ」と、技術者は猛反対・・・しかし、リンドバーグは反対を押し切ります。
その設計にした理由は、飛行機に燃料を一番多く積める方法だったからです。
彼の飛行技術であれば、前方の視界は必要ありませんでした。
航空郵便では闇夜に飛ぶことも多く、彼にとって飛行は感覚的なものでした。
航路はわかっていて、メーターで高度も解り、飛行の状況をちゃんと把握できたのです。
完成した飛行機の名は、”スピリット・オブ・セントルイス号”でした。
地図には大西洋上空を吹く季節風なども計算し、1時間で飛べる距離・・・すなわち100マイルごとに方向を細かく書き込みます。

「正確であることは、とても重要なことだ
 ぼくの職業は、命そのものが正確さに依存しているから」

1927年5月20日・・・大西洋横断飛行出発当日・・・。
入念に準備をしてきたリンドバーグでしたが、大きなミスを犯していました。
記者たちの取材攻勢で眠ることができず、フライトを前に24時間も眠っていない状態でした。
積んでいた食料は、サンドイッチ5食分だけ・・・
「それで足りるのか?」と聞かれたリンドバーグは、

「パリに着けばサンドイッチはいらない
 パリに到着しなければやはりサンドイッチはいらない」

午前7時54分離陸・・・
ところが燃料が満タンで重かったうえ、滑走路が雨でドロドロにぬかるんでいたため、なかなか離陸ができない・・・
なんとか機体を持ち上げた飛行機・・・パリへの長い旅が始まりました。
離陸から14時間・・・飛行機は大西洋上空へ・・・!!
リンドバーグの最大の敵は、睡魔でした。
飛行前からの睡眠不足と疲労で、激しい睡魔に襲われ、幻覚まで見えたといいます。

「なんとかして気を張り詰めておく方法を見つけなくてはならない
 この分では、死か失敗しかない」

窓から顔を出し、プロペラからの熱風を浴びてなんとか眠気を覚ましたといいます。
ニューヨークを出発してから33時間30分・・・リンドバーグの目に映ったのは・・・

「星空の下に星がきらめくような大地がある・・・ パリの灯だ!!」

空港には、15万人のパリ市民がリンドバーグを一目見ようと殺到しました。
アメリカに帰国後、大統領からは勲章が与えられました。
その後、リンドバーグは全米の82都市を訪問、熱烈な歓迎と祝福を受けました。
リンドバーグ25歳の時でした。

前人未到の偉業を成し遂げ、一躍世界のヒーローとなったリンドバーグ・・・
しかし、その僅か8年後、リンドバーグ一家は祖国アメリカを去りイギリスに移住します。
英雄となったリンドバーグを待っていたのは、祝賀行事の分刻みのスケジュールでした。
行く先々で、待ち構えるマスコミから猛烈な取材攻勢を受けます。
端正な顔立ちも、人気に益々火をつけます。
多くの女性が、独身のリンドバーグに熱い視線を送ります。
しかし、彼は何の関心も示しませんでしたが・・・

メキシコシティ・・・1927年、アメリカ政府の要請で親善大使としてメキシコへ
そして、アメリカ大使館のクリスマスパーティーに出席します。
そこでリンドバーグを迎えたのが、大使の娘アン・モローでした。
文学を愛する物静かな女性にリンドバーグは一目ぼれします。
大西洋横断から2年後、27歳になったリンドバーグはアンと結婚。
リンドバーグは、しばしばアンを飛行機に乗せて空を飛びました。
そしてこんな夢を語りました。

「僕が今、興味があるのはね 国と国の間にある偏見を打ち破って、飛行機を通じてお互いを結びつけることなんだ」

リンドバーグは、航空会社の技術顧問に就任。
ニューヨークから西海岸への航路の開発に乗り出します。
当時、ニューヨークから西海岸までは、大陸横断鉄道・・・一番早い汽車でも丸3日かかりました。
このルートを飛行機が飛ぶようになれば、客が殺到するのは確実だ!!
リンドバーグは、安全で効率的なルートを探すため、何度も大空に飛び立ちました。
なんと、妻のアンも一緒でした。

1929年、ニューヨークロサンゼルス間を48時間で結ぶ大陸横断旅客航路、就航。
リンドバーグ・ラインと呼ばれるこの航路は、誰もが飛行機に乗って旅をする先駆けとなりました。
私生活も充実し、この頃、長男チャールズが誕生します。
リンドバーグは、静かな環境を求めてニューヨークから車で2時間ほど離れた郊外に移り住みます。
航空ルート開拓の仕事は、子供が生まれても続けました。
アンと二人でアラスカからベーリング海、日本に至る北太平洋航路の開発の旅に出ます。

1931年8月、夫妻は茨城県霞ヶ浦に到着。
日本での滞在はおよそ1か月・・・東京、大阪、福岡と訪問し、各地で熱烈な歓迎を受けます。
その後、アメリカに戻ったリンドバーグ・・・しかし、その6か月後悲劇が・・・。
1932年3月1日、自宅で一家団らんを過ごした夜9時すぎ・・・当時1歳8か月の長男チャールズが2階の寝室から忽然と姿を消したのです。
部屋には脅迫状が残されていました。

「5万ドルを用意しろ
 警察には知らせるな」

世界的な英雄を襲った誘拐事件・・・!!
静かな森は、報道陣と警察で騒然となりました。
妻アンはリンドバーグの母への手紙にこう書いています。

「恐ろしく非現実的な状況に私の感覚は麻痺しています」

リンドバーグは、身代金5万ドルを用意します。
犯人から受け渡しに指定された墓地・・・
リンドバーグは、離れたところから身代金受け渡しに立ち会いました。
しかし・・・金を渡したもののチャールズは帰らず、犯人からの連絡も途絶えました。
事件から70日後・・・自宅から5キロほど離れた松林で、変わり果てた我が子が発見されました。

「抑えようのない感情がこみ上げてくる
 今はこの悲しみを受け入れることができない」

事件から2年半後、身代金の紙幣を使った男が逮捕されました。
ドイツ系移民のブルーノ・ハウプトマン・・・不法入国者で逮捕歴もありました。
裁判でハウプトマンは、無罪を訴えました。
その内容をリンドバーグは欠かさず傍聴したといいます。
リンドバーグは、ハウプトマンの声を聞いてこう証言しました。

「あの晩に聞いたのと同じ声です」

リンドバーグの証言が決め手となり、ハウプトマンは死刑となりました。
しかし、判決の後、リンドバーグへの取材攻勢はやむこともなく・・・さらに、事件後に生れた次男のジョンを誘拐するという予告状まで舞い込み、リンドバーグ一家の忍耐力は限界に達していました。
1935年、妻と次男と共にイギリスに移住・・・33歳の時でした。

第2次世界大戦が起きると、リンドバーグは英雄から一転、国民の批判にさらされることとなります。
どうして英雄の座から転げ落ちたのでしょうか?
1935年、イギリスに移住したリンドバーグ一家・・・ロンドンの郊外で、おだやかな日々を過ごしていました。
1年後・・・リンドバーグのもとに、アメリカ政府から1通の手紙が届きます。
ヒトラー率いるナチスドイツの空軍を視察する依頼でした。
1936年7月、34歳のリンドバーグは、妻のアンと共にベルリンに飛びます。
ドイツを視察訪問・・・リンドバーグの名声は、ドイツでも絶大でした。
ヒトラーの右腕で、ドイツ空軍総司令官だったゲーリングは、リンドバーグを大歓迎・・・
軍事機密である戦闘機の視察も特別に許可されます。
ドイツ空軍の戦闘機を見たリンドバーグは、高い技術力に感銘を受けます。
第1次世界大戦の負け、兵器を破壊されてから20年足らず・・・
驚異のスピードでドイツを復興し、軍備を整えたヒトラーを高く評価しました。
リンドバーグは、日記にこう記しています。

「彼に対して批判はあるが、偉大な人物であることに間違いない
 若干の狂信的行為はあるが、ある程度の狂信性がないと、これほどまでのことは達成できなかっただろう」

その後、リンドバーグにはドイツに貢献した外国人に与えられるという荒鷲十字勲章が与えられました。
リンドバーグは、意味を深く考えずに勲章を受け取ったといいます。
彼は決して”親ナチス”ということではありませんでした。
しかし、彼は間違いなく、ナチスドイツの技術の進歩、そしてヒトラーが作り上げた空軍に感銘を受けていました。

1939年4月・・・3年半ぶりにアメリカに帰国。
その9月、第2次世界大戦が勃発!!
ナチスドイツがポーランドに侵攻したのです。
これを受けアメリカでは、ナチスドイツを批判するローズベルト大統領がアメリカも参戦すべきだと主張していました。
リンドバーグは、この主張に真っ向から対立!!
中立を訴えました。

「私は皆さんにアメリカの中立を訴えたい
 戦争に介入すれば、私たちは大変な損害を受けます
 我が国の指導者の判断は間違っています」

リンドバーグの主張は、大きな支持を集め、次期大統領の有力候補という声まで聞かれるようになっていました。
1940年、ナチスドイツがロンドンを空爆開始、アメリカの世論は一気に参戦に傾きます。
それでも参戦に反対し続けるリンドバーグに、民衆は失望していきました。

「アメリカを戦争へと駆り立てるのは、ローズベルト大統領に他ならない」

風刺画にはナチスの手先として描かれ・・・ドイツの勲章を持っていたことも、ナチスとの関わりの証拠だとされ、国中から大バッシングを受けたのです。

リンドバーグの立場がさらに悪くなる事態に・・・
1941年、日本がハワイ真珠湾のアメリカ軍を攻撃、太平洋戦争が勃発しました。
こうなっては、リンドバーグも反戦の主張を撤回する以外にありませんでした。

「我が国に対して武力を行使された今、武力によって報復せねばなりません」

自らも参戦したいと希望したリンドバーグ・・・
しかし、ローズベルト大統領と廃立している時に軍籍を返上していました。
軍には戻れない・・・そこで、戦闘機を作る民間会社の技術顧問として参戦します。
太平洋のニューギニアへ・・・!!
到着すると、軍法を無視して爆撃機に搭乗します。
米軍は、日本軍の拠点ラバウルの爆撃を計画、パイロットにはニューギニアからラバウルを往復する長距離飛行の技術が必要でした。
すでに40歳を超えていたリンドバーグ・・・しかし、長距離飛行で彼の右に出る者はいませんでした。
最高司令官マッカーサーは、リンドバーグの参戦を黙認。
若いパイロットの指導役として燃料の節約教えます。
ゼロ戦の激しい攻撃をかわしながら、日本軍に爆撃を続けたリンドバーグ・・・
しかし、爆撃後地上に降りて日本兵の死体を見た時、大きな衝撃を受けました。

「自分がボタンを押すことで死が落下していく
 爆弾が落ちたところに人がいたら、その人の命を奪ったのは自分なのだ」

1945年5月、首都ベルリンが陥落・・・ドイツは降伏しました。

1960年代、60歳を過ぎてからリンドバーグはそれまでと全く違う活動を始めます。

「もしどちらかを選ぶとするならば、今の私は飛行機よりも鳥を選ぶだろう」

それは、絶滅危惧動物の保護でした。
飛行機という最先端の文明とは真逆の自然に生きがいを見つけたのです。

1945年5月、ドイツの敗戦から1か月後・・・ドイツ空軍の技術調査のためにドイツを訪問。
そして調査の一環として、ナチスの強制収容所を訪れます。
そこで、多くのユダヤ人が虐殺された生々しい現場を目の当たりにします。

「これこそ、人間の生と死が堕落の極みに達した場所・・・
 このような施設を正当化することは絶対に不可能だ」

太平洋戦争の終結から3年後、今度は日本へと飛んでいき広島を上空から眺めました。

「よく目を凝らすと、眼下には爆破され、放射能を浴び、焼けただれた広島の土が見えた」

そして1953年、リンドバーグは1冊の本を発表します。
タイトルは「翼よ、あれがパリの灯だ」。
ニューヨーク⇔パリ間の無着陸飛行を中心に書かれた青春の自叙伝です。
あれから26年経った今、リンドバーグは快挙に酔いしれた当時とは全く違う気持ちだと語りました。

「私たちは飛行機というものに命を捧げてきたが、それを作り出した文明を、いま私たちは破壊しているのだ」

60歳を過ぎたリンドバーグは、世界自然保護基金の団体と連携し、絶滅が心配される生き物の保護するため、世界中を飛び回るようになります。
フィリピンのミンドロ島にだけ生息する野生のタマラオ・・・この牛も、絶滅危惧種の一つでした。
リンドバーグは、その知名度を生かし、マルコス大統領の直談判、フィリピン政府を動かして、保護区を作らせました。
他にも、シロナガスクジラ・ハクトウワシ・ホッキョクグマ・マウンテンゴリラなど、世界中を飛び回りながら、その後の人生を動物たちを救うことに捧げました。

ハワイ・マウイ島・・・豊かな自然のこの島に、リンドバーグが晩年家族と過ごした家があります。
文明から遠ざかるように、電気もガスもひかず、ランプと薪の生活を送っていたといいます。
末の娘によると・・・

「父は優しくもあり厳しくもありました
 子供の頃には私を抱き上げて高く投げてくれたり、家ではロープで素敵なものを色々と作ってくれました
 機械であろうとお金であろうと、日常使うものの管理にはとても厳しかった
 車に乗る前には、私たちにもタイヤを蹴らせ、オイルの点検もさせました
 突然車を停めて、私たちにタイヤの交換をさせたりもしました
 まだ交換の必要が無くてもです」

そんな父が晩年、自然の保護活動に打ち込んだのも分かる気がするといいます。

「父は飛行機の技術が、世界中の自然を破壊していると考えたのです
 ”人類が生き残るには自然とテクノロジーのバランスをとらなくてはならない”と言っていました」

71歳の時、リンドバーグは悪性リンパ腫に侵され、ニューヨークの病院に入院します。
しかし、都会で死を迎えることをかたくなに拒み、医師の反対を押し切って島へ戻りました。

「マウイ島で死に、その地で埋葬される・・・
 そのことが、父にとって大事なことでした
 亡くなる10日前とか、1週間前に、死に向けて全ての準備が整っているか確認したかったのです
 父はどのようにお墓が建てられるかも知りたがりました
 自分の葬式で、母に讃美歌を歌ってほしいと希望したのに、”あれはダメ””これはダメ””他の賛美歌にして”と注文を付け、自分で決めようとしていました
 本当に父らしいと思います
 父は非常に細かいプランナーでした」

「どうせ死と対面するならば、前もって知っておきたいのだ
 死こそ人生における最後の、そして最大の冒険だろうから」

1974年8月26日、チャールズ・リンドバーグ死去・・・72歳の生涯でした。
今、リンドバーグは、マウイ島の自然の中で静かに眠っています。

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