日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ニクソン

アメリカ・サウスダコタ州・・・ここに、アメリカ軍のかつての核ミサイル発射基地があります。
核ミサイルの使用が準備されていた時期がありました。
発車キーを回せば、1分で数百発の核ミサイルが発射できました。
すぐにでも第3次世界大戦を始める準備ができていたのです。

それは1973年、あの核をめぐる対立・・・じゅーば危機からわずか11年後のことでした。
アメリカとソビエト連邦・・・二つの超大国が、かつてないほどの強硬な関係になったため、この危機は起きています。
これまで知られてこなかった核戦争の危機・・・
ソ連、アメリカ、イスラエルとエジプトが、複雑に絡み合っていました。
最近になって閲覧が可能となった各国の機密資料の数々・・・
膨大な資料と新たな証言から埋もれていた真相が明らかになってきました。
最大の発見は、ソ連が核戦力を含めた警戒態勢に入ろうとしていたことです。
当時のソ連の指導者は、書記長レオニード・ブレジネフ!!
友好的な振る舞いの裏で、したたかな戦略を練っていました。
ソ連の明らかな二枚舌・・・アメリカを裏切ることにためらいはありませんでした。

一方、アメリカは、政治スキャンダルの渦中にありました。
ニクソン大統領は、ウォーターゲート事件で機能不全に陥っていました。
ホワイトハウスを仕切ったのは、国務長官のヘンリー・キッシンジャー!!
しかし、ソ連の裏をかこうという目論見が仇となり、追い込まれていきます。

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刻一刻と訪れる核戦争の危機・・・深刻な危機から、人類が直面する恐怖を見つめていきます。

1973年10月6日、アメリカ・ワシントン・・・
ホワイトハウスは、緊張に包まれていました。
アメリカの国務長官ヘンリー・キッシンジャーのもとに、緊急の報告が飛び込んできました。

「イスラエルが、エジプトとシリアが攻めてきたと伝えてきた
 単なる軍事演習だと思っていたエジプト軍らが、突如襲い掛かってきたというのだ」

この日、エジプト軍はスエズ運河を渡り、シリアと共にイスラエルに対し、奇襲を仕掛けました。
第4次中東戦争の勃発でした。
奇襲を仕掛けたのは、エジプトの大統領アンワル・サダトでした。

「我々には戦争しかない
 どんな代償を払っても、我々は退却しない
 アラブの土地を諦めるつもりはないのだ」

エジプトは、それまでイスラエルとの間で3度大規模な戦争をし、そのすべてで敗北していました。
石油資源の豊富な領土を、イスラエルに奪われ、国家収入は激減していました。
エジプト経済は、戦争が原因でマヒ状態に陥っていました。
サダトは、領土問題を解決する方法を、懸命に探らざるを得なかったのです。
もし、彼が決断力をもって動かなければ、クーデターが起きていたかもしれません。
軍部は、戦争突入を望んでいました。
キッシンジャーは、エジプトが戦争を起こすかもしれないという情報を、事前につかんでいました。
その情報をもたらしたのは、エジプトを支援し、関係の深かったソ連でした。
当時、アメリカとソ連は、両首脳が互いの国を頻繁に行き来し、デタント=緊張緩和が進んでいました。
エジプトの不穏な動きを知った時、キッシンジャーは戦争が始まれば、アメリカにとってはチャンスかもしれないと考えていました。

「情勢を左右するのに、アメリカは絶好の立場にある・・・アメリカがうまく対処すれば、エジプトはソ連に頼るのをやめ、アメリカに協力を求めるかもしれないのだ」byキッシンジャー

アラブの盟主と目されていたエジプトに、ソ連は軍事拠点を置くなど中東戦略の要にしていました。
サダトは、大統領就任から3年・・・国の置かれた状況を、改善する必要に迫られていました。
キッシンジャーは、戦争でイスラエルが有利に立った際に、サダトを救い、アメリカ側に寝返らそうともくろんだのです。
キッシンジャーは、二週間前に国務長官に任命されたばかりでした。
大統領リチャード・ニクソンは、この4年前にハーバード大学の政治学者だったキッシンジャーを補佐官に抜擢・・・以来、その卓抜した能力に一目を置いていました。

当時、彼は50歳前後でした。
なので、学術分野の経歴は申し分なくても政治の世界では比較的新参者でした。
政策面でインパクトを残そうと、非情に意欲的でした。

一方、デタントの流れの中で、アメリカに情報をもたらしていたソ連・・・
書記長のブレジネフ・・・戦争を仕掛けようとするエジプトを、表向きは止めていましたが、実は別の思惑も持っていました。
ブレジネフは、サダトが戦争を始めるなら、エジプト側から仕掛けてほしかったのです。
その為、ソ連は、エジプトに、戦争に必要な武器だけでなく、軍事アドバイザーまで提供しました。

先制攻撃によって、大きな戦果が上がれば、その後の交渉も優位に進められる・・・しかも、その戦果がソ連製の武器によるものならば、国威も上がる・・・ソ連は、そう目論んでいました。
交錯する超大国の思惑・・・しかし、事態は予想外の展開を見せ、核戦争へと近づいて行きます。

突如エジプトに攻め込まれたイスラエル・・・四国ほどの面積の小国です。
当時の人口は、およそ300万人・・・1948年の建国以来、周辺のアラブ国と衝突が絶えず、男女問わず兵士として戦ってきました。
戦争では、アメリカの支援もあり、一度も負けたことがありませんでした。
当時の首相は、ゴルダ・メイア・・・建国運動をけん引し、過去三度のアラブとの戦争を勝ち抜いてきました。

「この地に生きるための大将が必要ならば払う
 私たちは屈しない
 なぜなら、賢明な民族だからだ」byメイア

メイアは、ユダヤ系のキッシンジャーに、親近感を持っていました。
この時も、2人は緊密に連絡を取り合い、戦況を共有していました。
メイアは、我が国は無敵だ
誰も我々には指示は出来ない・・・と、考える傲慢さのようなものがありました。
キッシンジャーも、イスラエルは、数日のうちにエジプトを打ち負かすと信じていたのです。
しかし、この時アメリカは混乱の中にいました。
第四次中東戦争は、ウォーターゲート事件と時期が重なっていました。

「全国民に深くかかわる問題について心の底から話す」byニクソン

ニクソンは、前年に行われた大統領選挙の際に、敵陣営の本部に盗聴器を仕掛けた違法行為に関わっていると疑われ、激しく追及されていました。
マスコミに追い回され、支持者たちも離れていました。
誰もがニクソンの精神状態を心配していました。
まともに職務ができず、憔悴していました。

10月9日・・・開戦4日目・・・
キッシンジャーは、イスラエル大使から衝撃的な事実を知らされます。

「イスラエル軍は戦闘機49機、戦車500台を失った
 この損害は驚くべきものである
 状況は非常に厳しい」

「私は驚きのあまり、どうしてこんなことになったのかと、不躾にただした
 イスラエルは、消耗戦に入るが兵力の差から見て勝ち目はなかった」byキッシンジャー

戦場では、エジプト軍がソ連の新型兵器・誘導型対戦車ミサイルなどを手に、イスラエルを圧倒していました。
前線を視察したイスラエルの国防大臣モシェ・ダヤンは、こうつぶやきました。

「第三神殿(現在のイスラエル)も終わりだ」

戦争開始3日目で、パニック状態になっていました。
多数の死傷者が出ていたからです。
彼等は、一体何が起きているのだ、どうすればいいんだ・・・という状況でした。
彼等は、ヒステリーになっていたのです。
メイアは、キッシンジャーに緊急連絡を送り、大量の武器の援助を求めました。

「必要なら、これからアメリカに行く」

キッシンジャーは、その時のことを恫喝の匂いがしたと振り返っています。
メイアがワシントンに来て、議会や民衆に「アメリカの武器が必要だ」と、訴えると考えたのです。
メイアは、一見したところ、か弱い親切な老婆に見えますが、交渉の席につくと相手が根負けしてしまいます。
彼女は非常に頑固で、妥協することはありませんでした。
窮地に追い込まれたイスラエルは、極秘裏に驚くべき行動に出ていました。

ある機密文書・・・そこにははっきりと、「我々は核ミサイルの基地で電子信号を受信した」と書かれていました。

つまり、イスラエルの核兵器が高い警戒レベルに引き上げられていたのです。
この時のイスラエルの行動を詳細に書かれた史料・・・米海軍分析センター報告書によると・・・

”ほとんどパニックの状況下で、イスラエルの首脳部は核兵器使用の準備を命令した”
 
準備したのは、ジェリコと呼ばれる最新鋭の核ミサイルです。
エジプトの首都カイロを射程に収めていました。
もしイスラエルが滅びるなら、エジプトも道連れにする・・・心中を考えていました。
それは、非常に不穏で極めて危険でした。
エジプトがさらに進軍すれば、イスラエルは消滅させられる・・・何としても、食い止めなくてはならなかったのです。
イスラエルの核兵器倉庫で、車両の動きが確認されました。
この動きを通して、イスラエルはソ連とアメリカに対して必要とあれば核に訴えるという明確なメッセージを送っていました。
丁度その頃、ソ連ではブレジネフが、アメリカに対し、停戦に持ち込めないかと打診していました。
イスラエルの敗色が濃いうちに停戦できれば、子の後有利な条件で交渉ができるともくろんでいたのです。
その裏で、停戦が実現するまでは周辺のアラブ諸国に対しエジプトに加勢するように促していました。
これは、ソ連の明らかな二枚舌でした。
アラブが買っている限り、戦争の拡大を望んだのです。
彼等は、アメリカを裏切ることに何の抵抗も感じなかったのです。
しかし、なんとか早く停戦に持ち込もうというブレジネフの目論見は、サダトの野心によって頓挫します。
サダトは、停戦を拒絶しました。
このまま戦争で、勝利できると確信していたのです。

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その後、イスラエルのもとにアメリカから大量の戦車や戦闘機が届き始めます。
大型機の輸送だけで500回以上・・・前例のない規模でした。
それらの兵器を手に、イスラエル軍はエジプトに対し猛反撃を行っていきます。
1週間あまりたった10月19日・・・モスクワ。
ブレジネフの停戦の打診を拒否し続けたサダトから、緊急のメッセージが届きました。

「即時停戦のために介入してほしい」

急速に悪化する戦況をどうする事も出来ず、サダトが助けを求めたのです。
ブレジネフは激怒しました。

「サダトはバカ者だ
 エジプトを破滅に導いている」

しかし、ブレジネフにはサダトを簡単に突き放せない事情がありました。
ブレジネフが心配していたのは、信用ならないサダトがアメリカに寝返ることでした。
サダトがソ連を裏切れば、威信は失墜します。
さらに、この戦争には超大国の立場もかかっていました。
サダトが負ければ、ソ連のメンツは大きく傷つきます。
ソ連の兵器が打ち負かされたことになるからです。

10月20日・・・
サダトがブレジネフに助けを求めた翌日、アメリカの代表としてキッシンジャーがモスクワへ向かいました。
ブレジネフが呼び掛けた停戦調停にアメリカが応じたのです。
この時、キッシンジャーは、停戦ラインの交渉など一筋縄ではいかないと考えていました。

「通常、ソ連は彼らの立場に固執し続ける・・・
 その途方もない提案を引っ込めることをまるで譲歩したかのように売り込んでくるのだ」

しかし、この停戦協議はわずか4時間で終わります。
停戦協議としては異例の早さでした。

「今回、ブレジネフは、私が主張をしないうちから譲歩する姿勢を見せた
 全く珍しいことだった」

ブレジネフは、多くの譲歩をしたと感じていました。
合意の背景には、ブレジネフが大事にしていたニクソンとの関係があったのです。
当時、アメリカのニクソンは、キッシンジャーと共に、米中の国交正常化を果たし、その後、中国と関係の悪化していたソ連とも緊張緩和を進めました。
ブレジネフは、ソ連に歩み寄ったニクソンに応える形で個人的な交流を深めていました。
ブレジネフは、ニクソンとの関係を国際政治の新たな象徴と思っていました。
ソ連とアメリカが、共に舵を取るのです。
ブレジネフにとって、アメリカが対等だと認識し、超大国のリーダーとして認めてくれたことが、非常に重要でした。
アメリカと肩を並べて、世界の問題を解決することが、ブレジネフの望みでした。
米ソの協議の後、国連の決議として停戦発効時刻は現地時間の10月22日午後6時52分。

しかし、この停戦合意の裏で、キッシンジャーはソ連を出し抜く策略を具体化しようとしていました。
水面下でサダトと連絡を取り合い、直接会談など次の段階を画策していました。
ブレジネフはこの時点で、キッシンジャーの戦略が理解できていませんでした。
キッシンジャーは、ソ連との協力に興味がなかったのです。
彼は、ソ連を中東政治から切り離したかったので、すでに両者の間に相違があったのです。
停戦日と決められた10月22日・・・午後6時52分の停戦発効時刻のわずか5分前・・・ブレジネフのもとに緊急の報告がありました。
それは、想定外の事態でした。
サダトが停戦直前のイスラエルの報復できないタイミングで2発のミサイルを撃ち込んだのです。
それは、進撃を続けるイスラエル軍への脅しの意味が込められていました。

「私はイスラエルに対し、我が軍が最新型ミサイルを装備しており、打ち込めることを教えてやりたかった」

最新ミサイルとは、ソ連がエジプトに貸与していたスカッドミサイル・・・イスラエルの中心都市・テルアビブを射程距離に納めていました。
しかも、核弾頭が搭載できるものでした。
ソ連がミサイルを送ったのは、イスラエルの核兵器抑止のためでした。
それは、脅しです。
そちらが核兵器を使うのならこちらも用意はある・・・と!!
だから使わずにおこう・・・

停戦直前のサダトによるソ連製ミサイルの発射・・・
ブレジネフは衝撃を受けます。
スカッドミサイルは、核兵器を搭載できるので、アメリカも警戒していました。
エジプトが、スカッドミサイルを発射したことで、アメリカは「ソ連がエジプトの能力をあげ、大量破壊兵器を所有させる意図がある」という、明確なサインだと解釈しました。
さらに、ブレジネフはある事実を知ってショックを受けます。
ソ連側にスカッドミサイルの許可を独断で与えた人物がいたのです。
それは、国防大臣のアンドレイ・グレチコです。
グレチコは、ソ連指導部のタカ派で、ブレジネフの進めていたアメリカとの緊張緩和に否定的でした。
停戦直前・・・エジプトからスカッドミサイルの発射許可を求められた際、ためらうことなくこう叫んだといいます。

「ぐずぐずしないで、さっさと打ち込んでやれ!!」

グレチコは指導部の中で、最も好戦的で、状況を不安定にさせる人でした。
スカッドミサイルは戦略兵器なので、事前に周囲に相談するべきでした。
しかし、グレチコは、そんなことはしない人間でした。
グレチコは、第2次世界大戦で多くの軍港をあげ、ブレジネフも無下にできない軍人でした。
こうしたタカ派の軍人はいます。
アメリカで言えば、ダグラス・マッカーサーです。
この事件は、ソ連の命令管理が政治局を通さず、国防大臣や陸軍元帥が独断で決定していたことを示しています。
しかし、アメリカとイスラエルは、そうとは知らずにソ連は戦争規模を拡大するつもりかと疑いました。

10月23日、ワシントン・・・停戦発効から20時間後。
今度はキッシンジャーのもとに、衝撃的な情報が・・・!!
”イスラエル軍が国連の停戦決議を無視し、戦闘を続けている
 エジプト領土へと侵攻し、軍事拠点を奪いつつある”
キッシンジャーは叫びました。

「大変だ、ソ連は私が裏切ったと考えるだろう
 彼らの立場だったら、間違いなくそう思うだろう」

キッシンジャーが焦ったのには理由がありました。
実は、この停戦違反は、キッシンジャーがメイアにしたある会話が引き金になっていました。
CIAの機密文書の中に、キッシンジャーとメイアの会話の記録が残されていました。

10月22日、停戦学校5時間前の事です。
キッシンジャーは、停戦に納得していなかったメイアから、強い不満をぶつけられていました。
メイアは、停戦の相談がなかったことを非常に怒っていたのです。
彼女は、大勝利の目前なのに、アメリカは妨害しているといいました。
思わずキッシンジャーはこう言ってしまいました。

「停戦発効から数時間は、もし何かあったとしてもワシントンから抗議を受けることはない」

キッシンジャーは、メイアにもう少し駆け引きをしてもよいという感触を与えてしまいました。
これが大きな間違いでした・・・事態をエスカレーションさせる引き金になってしまったのです。
一方、キッシンジャーはイスラエルに限度を超えて進軍してほしくはありませんでした。
ソ連の軍事介入を招きかねなかったからです。
結局、停戦合意は名ばかりとなっていました。
このまま戦争が続き、状況が悪化すれば、核弾頭が使われる可能性がありました。
エジプトには、核弾頭搭載可能なスカッドミサイルがあり、イスラエルにも核兵器があったからです。

10月23日モスクワ・・・ソ連もサダトからイスラエルの停戦違反を知らされていました。
ブレジネフは苛立ちます。

「ここモスクワで、キッシンジャーはずるがしこい振る舞いをした
 モスクワではソ連との友好に忠誠を誓っておきながら、イスラエルではメイアと取引をしたのだ」

アメリカの許可がなければ、イスラエルが大胆な停戦違反をするはずがない・・・ブレジネフは、キッシンジャーが意図的に停戦違反をさせていると判断しました。
停戦合意の翌日に、イスラエル軍が何事もなく戦闘を続ける・・・
アメリカに対し、非常に強い不満を抱きました。
裏切られた、はめられたという感覚です。

キッシンジャーに騙されているなら、それはとてつもない無礼で、侮辱であり、米ソ関係を根底から壊す行為と感じました。
当時ソ連は、アメリカとの核戦争に備え、クレムリン近郊に核シェルターを作っていました。
地下65mへと続く階段・・・ブレジネフら指導部は、ここから戦争を指揮することを想定していました。
このシェルターの戦略的な意味は、核の報復にあります。
ソ連が核攻撃を受けた場合、指導部が生き残り、核の報復を行えるのです。
イスラエルの停戦違反に対し、ブレジネフはどのような対応を考えていたのでしょうか?

ソ連の公式の記録は公開されていません。
しかし・・・アメリカ・ペンシルベニア州・・・当時、ソ連の政府高官だった人物がアメリカに記録を持ち込んでいました。
第4次中東戦争中の会議の記録、外交戦略のメモ・・・
この記録から、ソ連指導部の動きの全貌が浮かび上がってきました。

イスラエルの停戦違反を知ったブレジネフは、最も親しい幹部を集めました。
外務大臣のグロムイコ、KGBトップのアンドロポフ、そして、国防大臣のグレチコです。
イスラエルの行動にどう対応するか、話し合う中で、最も強硬な意見を言ったのはグレチコでした。

「直接軍事介入すれば、中東の平和は一夜にして取り戻せるだろう」

ソ連軍部にとって、エジプトは戦略的に重要なエリアでした。
ソ連の管理する石油のルートがあり、介入する動機となりました。
アメリカとの世界的な対立を見越して、地中海を支配するための軍事拠点をエジプトにもうけることも望んでいました。
グレチコの強硬論は、キッシンジャーが裏切ったと考えるソ連指部の中で賛同を得るようになっていました。

「アメリカを信用できない
 我々の力を見せつけるべきだ」

クレムリンには、軍事介入を推奨する人たちがいました。
ブレジネフは、中東戦争の間、陸軍や政治局のタカ派・・・つまりデタント反対派から突き上げられていました。
ブレジネフは、軍事支援するサダトが敗北すれば、ソ連の権威は失墜し、自らの立場も危うくなると危惧していました。
ソ連は、超大国なので、何もしないわけにはいかない・・・アラブ諸国が見ているからです。
超大国のどちらもメンツがかかっていました。
そして、ブレジネフは23日夜・・・イスラエルに対し、怒りを込めた声明を発します。

”イスラエルの停戦受諾はエジプトを攻撃するための欺瞞に満ちたウソだった
 ソ連政府は、イスラエルに警告する
 アラブ諸国への攻撃を続けた場合、最終的に最も深刻な結果がもたらされる”

そして、水面下でソ連軍を戦場に送る計画をはじめます。
密かに7つの空挺師団4万5000と、空軍が警戒態勢に入りました。
地中海艦隊は、85隻という前例のない規模まで増強されました。
イスラエルの停戦違反をきっかけに緊張が高まるアメリカとソ連・・・・。
しかし、この後メイアは、ソ連の警告を無視し、エジプトへの攻撃を続けます。
そして、ブレジネフとキッシンジャーの対立は激化し、想定外の事態を招いて行きます。
ソ連は、核の警戒態勢を高めようとしていました。
すぐにでも、核戦争を始める覚悟でした。
ついに、超大国が、核警戒態勢をを発動する緊迫の4日間が始まるのです。

ソ連が戦争に介入するので、キッシンジャーは恐ろしいと思っていました。
疑念が重なり合い、引き返せない事態へとエスカレートしていきます。
アメリカ軍が使用していた極秘施設・・・
地下10メートルの深さに、核ミサイルを発射するコントロールルーム・・・
箱には発射に必要なカギとコードが入っています。
司令官と副官が、同時に回すと核ミサイルが発射されます。
アメリカ全土に配備されていた大陸間弾道ミサイル・・・合計1000発以上が、発射体制におかれていました。
1発で1都市を消滅させる巨大な破壊力を持つ兵器です。
高まる核戦争の危機・・・ついに、二つの超大国が破滅への階段を登り始めます。

いま、解読する戦後ジャーナリズム秘史

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1973年10月24日、ワシントン・・・ソ連がイスラエルへの警告を発した翌日・・・
緊急の判断が求められたホワイトハウスは、危機的な状況に陥っていました。
この4日前に、ニクソンはウォーターゲート事件を操作され、特別検察官を解任し、激しい批判にさらされていました。
ニクソンは、かつてないほど動揺していました。
彼は、
「政治的生命ばかりか命そのものも絶たれそうだ
 みな、大統領を殺そうとしている」
と言っていました。
軍の最高司令官である大統領が、執務に専念できなくなる中、キッシンジャーは、前夜遅くのブレジネフの声明に恐れを抱いていました。

「ソ連の警告は、軍備増強と相まって、一段と不吉な重みを帯びてきた
 イスラエルは、停戦違反が大ごとと考えなかったが、はるかに重大で、我々は深刻な状況におかれていた」

しかし、イスラエルはいまだソ連の警告を無視し、エジプトへの攻撃をやめませんでした。
イスラエルのメイアには、引き下がれない事情がありました。
この戦争で、かつてないほどに損害を被っていたのです。
人口300万の国で、犠牲者は3000人にも上りました。
国民は、エジプトへの復讐心に燃えていました。

今もイスラエルには当時の記憶が残っています。
建国以来、国のために戦った兵士たちの慰霊碑・・・
ここには、エジプトとの戦争で犠牲になった名が記されています。

戦場にいなければ、停戦決議が採択できます。
しかし・・・戦場は・・・??
イスラエル軍がエジプト軍を包囲すれば、彼らは水が無くなり餓死すると確信していました。
硫黄島の戦いのように、イスラエルの旗を掲げる瞬間を待っていました。
国民は、この戦争をメイア政権の大失敗と見なしていました。
メイアには、エジプトへの勝利の証が必要でした。
その標的としたのが、エジプト軍の最重要部隊・エジプト第3軍・・・2万人を擁していました。
第3軍は、戦争初期の快進撃をもたらしました。
エジプトにとって大切な部隊で、戦地のエジプト軍の半分に当たりました。
エジプトが餓死や投降で第3軍を失えば、サダトの立場が危うくなります。

イスラエルはスエズ運河の西側に展開していた第3軍を包囲し、水や食料など全ての物資を遮断する作戦に出ていました。
イスラエル軍に警告を発してから一夜明けたモスクワ・・・
ブレジネフは、サダトから第3軍の窮地を聞かされ憤慨しました。
停戦合意にならず、自ら発した警告も完全に無視され、踏みにじられていました。

「非常に不愉快であり、アメリカはソ連を完全に欺こうとしている」

イスラエル軍が、攻撃を継続したことで、ブレジネフの堪忍袋の緒が切れました。
アメリカは、イスラエルが戦いをやめたと言った・・・
それに対し、ブレジネフは最後通牒を突き付けていくのです。
ブレジネフは、ニクソン大統領あてに緊急書簡を送ります。

「イスラエルが我々を欺き、進撃していると知っているだろう
 イスラエルがこれ見よがしに停戦決議を無視しているのは明白だ」

そして、書簡の最後でアメリカを脅迫・・・

「我々は、イスラエルの勝手な行動を許しておけない
 ”一方的な適切な措置”を取る緊急の必要に迫られるだろう」

一方的な適切な措置・・・それは、ソ連が中東に軍を送り込むことを意味していました。
ブレジネフは信じられないほど苛立ちを覚えていて、キッシンジャーのいかさまで、どれだけ裏切られたと感じたか伝えようとしました。
一方的に中東に軍を送る・・・
この脅迫は、驚くべき経緯で作られえていたことが分かりました。
ニクソンへの書簡は、ソ連の閣僚たちの会議で原案を練っていました。
最終原稿がブレジネフに届けられたのは、日付が25日に変わった午前1時30分でした。
ブレジネフの日記によると、夜通しの作業が続き、物凄いストレスを感じていました。
しかも、この頃のブレジネフは、医師の記録によると睡眠薬を常用していました。
ブレジネフは睡眠薬を飲むと、過剰に興奮しているような精神錯乱の症状が現れました。
ブレジネフは、薬に依存していましたが、幹部たちはどう対処すべきかわかりませんでした。
そしてその当時の記録や証言によれば、その日の深夜、書簡を推敲していたブレジネフはひときわ感情的になっていました。

この日、ブレジネフは夜に飲み過ぎてしまった・・・1.2杯ではなく、大量のウォッカです。
そのため、キッシンジャーが自分にウソをついたに違いない、イスラエルをけしかけるために自分もだまして停戦に合意させたと怒りをエスカレートさせました。
ブレジネフは、キッシンジャーへ怒りを募らせ、「ソ連は単独行動を検討する」と独断で追加しました。

ブレジネフが、ニクソン宛の書簡を推敲していた頃、キッシンジャーは、ワシントンにいるソ連大使からクレムリンの空気を伝えられます。

「モスクワでは、皆怒り心頭で、軍隊派遣を望んでいる
 アメリカは、イスラエルにしたい放題にさせている」

キッシンジャーは、偵察衛星の情報からソ連が空挺部隊を飛行場に集結させ、エジプトに派兵しようとしていたことを把握していました。
確かな情報があったので、大変な脅威を感じていました。
キッシンジャーは、ソ連大使に対し、

「我々を追いつめることはしてほしくない」

キッシンジャーは、今すぐにでも何か起き、戦争が制御不能に陥ることを恐れました。

そして2時間後の24日午後9時35分・・・ブレジネフからの書簡が届きます。
一方的に中国へ派兵すると脅すその内容を見て、キッシンジャーは最後通牒だと解釈しました。
キッシンジャーは、本当に恐ろしいと受け取りました。
これは暗黙の脅迫だ・・・書簡を見れば明らかだ・・・!!

書簡を読んだキッシンジャーは、すぐにニクソンに連絡を入れます。
しかし、思わぬ事態が待っていました。
大統領補佐官にこう言われます。

「大統領は起こせない」

大統領補佐官は、キッシンジャーに

「自分達でなんとかしてください
 ニクソンは酔っ払い、床に寝転がっている
 核兵器の危険という話は、絶対に伝えられない」 

と言いました。
その頃、ニクソンはお酒をのむようになりましたが、彼はめっぽう酒に弱く、思考停止になっていました。
国の最高指導者、軍の最高司令官が会議室に来て「核兵器で攻撃しろ」と言ったらどうすればいいのか??
ニクソンが、「ソ連を攻撃しろ」とか「エジプトのソ連軍を爆撃しろ」といったおかしな指令を出さないとも限りませんでした。
大統領が機能不全に陥る中、キッシンジャーは主要閣僚による会議を開きます。
自らが議長をしました。

「ソ連が露骨な挑戦に出たのは、ニクソンの権威が弱体化しているからだ
 ここで引き下がればさらに付け込まれるだけだ」

アメリカは、ボスポラス海峡の通過船を監視して、ある信号を察知します。
その船は、核物質を乗せていたのです。
船はアレクサンドリアで中身の分からない積み荷を降ろしました。
一部の人たちは、スカッドミサイル用の核弾頭で、核兵器として使用される可能性があるといいました。

当時、CIAの作成した極秘資料には・・・
それは、大統領あての報告書です。
次のように記されていました。

”おそらく核兵器を運ぶソ連の船が、10月24日に目的地アレクサンドリア港に到着する”

その後の報告では、更に詳しい情報が書かれています。
船の名前はメジュドゥレチェンスク号・・・22日にボスボラス海峡を通過・・・
25日にアレクサンドリア港で確認。
ソ連がエジプトに核兵器輸送の証拠があるが、おそらくスカッドミサイルに使用するためだろう

キッシンジャーは、「ソ連は戦争に向かっている」と言いました。
「ソ連が派兵するなら我が国もどこに軍隊を派遣できるか調べてくれ」と。
キッシンジャーは、その会議で、事態は新しいレベルに高まる可能性があると考えました。
追いつめられたキッシンジャーは、遂に重大な決断をします。
午後11時41分・・・アメリカは、軍の警戒態勢をデフコン3に引き上げました。
ソ連の動きをけん制しようと、最終手段で隔壁を持ち出しました。
デフコン3は、沖縄、ハワイ、モンタナなど、世界中の米軍基地が全兵士を動員する体制に入ります。
外出はすべてキャンセル・・・
B52爆撃機は核弾頭を搭載し、飛び立つよう命令が下されます。
世界中の戦略爆撃機が、15分以内に核攻撃に入れる体制になりました。
大型空母や戦艦が、各地から地中海に向かいました。
大陸間弾道ミサイルも、11年前のキューバ危機以来警戒態勢に入ります。
ソ連との全面核戦争に備えました。

デフコン3の決定直後・・・ソ連から打ち込まれる核兵器の爆風に備えて、シートベルトを締めます。
鍵を回せば、1分後に数百発のミサイルが発射できました。
すぐに第3次世界大戦を始める準備ができていました。
アメリカ軍が持つ大陸間弾道ミサイルは、1000発以上・・・ソ連に向けて、打ち込める体制に入りました。
通常兵器を使った激しい紛争が起きた時、どちらも次の段階に進む誘惑に駆られていきます。
軍の関係者は、「1回の核攻撃の応酬で、2000万人が殺される」と言いましたが、どんな結果になるのか誰もわかりませんでした。
戦争の規模拡大の梯子に足をかけると、そこから降りることが非常に難しくなります。
大量の核兵器を持つ超大国が睨み合いになれば、いかなる対立でも極めて危険なのです。

翌10月25日・・・ソ連は、諜報機関によって、すぐにアメリカのデフコン3の情報をつかんでいました。
地下65mに作られた核シェルター・・・主な目的は、核の報復を行うことです。
ブレジネフは、アメリカのデフコン3の発令を知った時、怒るのではなく驚いていました。
ブレジネフは、単にイスラエルの攻撃を止めるために、アメリカに圧力を加えようと脅しただけでした。
しかし、どう対応すべきかわからなくなってしまいました。
ただし、アメリカの行動に怯えていないと見えるように、断固たる姿勢を見せなければなりませんでした。
アメリカのデフコン3にどう対応するか・・・??
ブレジネフは、ソ連の指導者たちを集め、会議を開きます。
デフコン3は、ソ連への挑戦だととらえられていました。
国防大臣のグレチコは、アメリカの核警戒態勢に対して強硬策を主張します。

「中東へ派兵する
 軍事対応を取るべきだ」

KGBトップのアンドロポフもグレチコに賛同します。

「軍事動員に対しては、軍事動員で対応すべきだ」

グレチコ国防相と、反デタント派は、
「みよ、デフコン3は攻撃のサインだ!!
 アメリカが攻撃の意志を示した ひどいものだ」と述べました。

ソ連は、軍用機や空挺部隊を中東に近い基地に移していました。
第3軍の開放のため、空挺部隊の降下が真剣に検討されていました。
会議は4時間以上にわたって続けられました。
論争がピークに達した時、突然ブレジネフが提案します。

「私も軍の警戒態勢の引き上げに賛成したいのだが、それは、私たちの重要方針にそぐわないと思い始めた」

実はこの時、ブレジネフはモスクワでの大規模なイベントを30分後に控えていました。
144か国から参加者を招いた世界平和会議です。
1年前から準備したソ連の一大プロパガンダでした。
この場で、ブレジネフは近年の米ソの連携を踏まえ、武力より対話だとスピーチし、世界平和への貢献をアピールするはずでした。
もし今、軍事対応に出れば、矛盾した行動をすることになる・・・自らの威信がかかったこの会議が、混乱することは避けたかったのです。
ブレジネフはこう言いました。

「アメリカの核警戒に対し、何も反応しないのはどうだろうか
 彼らの次の行動を待とう」

それは、全くの偶然でした。
世界平和会議は、危機の最中に計画されたわけではありません。

デフコン3の発動から2日・・・ソ連側の反応はありませんでした。
この日、キッシンジャーの元にはイスラエルに包囲されたエジプト軍第3軍の危機的状況が伝えられていました。
第3軍は、飢えのため、降伏に追い込まれていました。
アメリカの医療品補給隊は、イスラエルが足止めしていました。
キッシンジャーは、メイアに第3軍への食糧や水の輸送を認めるように求めました。
しかし、メイアは断固反対します。
イスラエルとしては、このまま戦争を終わらせられませんでした。
決定的勝利という意味で失敗していたので、挽回の機会を狙っていました。
国民の多くは、エジプトへの補給に反対していました。
イスラエルでは、総選挙が2か月後に迫っていました。
エジプトに、決定的敗北をお見舞いしろという国民からの強いプレッシャーが、メイア政権を突き上げていました。
それができなければ、政府は権力の座から引きずり降ろされていたでしょう。
イスラエルの軍人は、アラブから受けた被害に対して大きな屈辱を感じていて、重要な問題でした。
彼等は、明らかな勝利を望んでいたのです。
その為なら、超大国間の核兵器対決になってもいい覚悟があったのです。
第3軍の危機的状況・・・ブレジネフが動き出す可能性が高まっていました。

「第3軍を壊滅させれば、ソ連との直接対決という重大な危機を、引き起こさずにはすむまい
 イスラエルの立場を慮ってきたが、私はアメリカの国務長官なのだ」byキッシンジャー

ソ連とイスラエルの直接対決になった場合、地上戦でソ連が劣勢になることがあれば、核弾頭搭載のスカッドミサイルを使った可能性がありました。

日付も変わろうかという26日午後11時・・・キッシンジャーは、メイアに最後通告をします。

「アメリカも加わった停戦後に、エジプト軍を壊滅させることは許されない
 明日の朝8時までに、第3軍へ物資を供給せよ」

しかし、メイアは納得しませんでした。
停戦の条件として、エジプトがとても飲めない要求を持ち出しました。
それは、アラブの盟主であるエジプトとイスラエルとの直接会談でした。
アラブ諸国から見れば、イスラエルとの会談を行えば、イスラエルという国家の存在を認めることになります。
それは、これまでのアラブ諸国の戦いを、無意味に終わらせることになる・・・。
アラブにとって、とても難しく、起こり得ないことでした。
もし行えば、裏切り者として扱われます。
パレスチナの同胞を見捨てると宣言する事なのです。
キッシンジャーは、メイアの実現困難な要求は、第3軍を全滅させるための時間稼ぎだと考えました。

「第3軍が、苦境にあるからと言って、エジプトがイスラエルと直接会談をするとは思えなかった
 イスラエルは、第3軍を飢え死にさせる決意を固めたようだ」byキシンジャー

緊迫した時間が流れる中で、さらに危機を加速する出来事が起きていました。
ウォーターゲート事件の渦中にあったニクソンが、その夜の会見で、デフコン3発動後のソ連を、腰の引けた対応だと侮辱する発言をしたのです。

「ブレジネフは、アメリカの力を理解しているから引き下がった」

ニクソンは、ウォーターゲート事件からマスコミの注意をそらすため、デフコン3を発令したと疑われました。
ニクソンは、追いつめられていたので、「成果を出したのは、大統領の私だ」という必要がありました。
確実に非常に危険な状況になりました。

10月26日モスクワ・・・ニクソンの会見の直後、ブレジネフは、侮辱されたと知り激怒しました。

「ソ連を威嚇する為に、核警戒態勢をとるとはバカげている
 このような謝った手段を選んだものは、然るべき処罰を受けるべきだ」

この時、ブレジネフは、どのような対応を考えていたのでしょうか?
この日、ニクソンの送るための書簡があることが発見されました。
何度も書き直された分の中に、極めて攻撃的な一文がありました。

「状況を考慮し、国防大臣にソ連軍の警戒態勢を高める命令を下した」

最も大きな発見は、書簡には「ソ連軍の核戦力を高度の警戒態勢に置いた」とあることです。

核兵器・・・アメリカだけでなく、ソ連も核兵器の使用までも想定していました。
アンドロポフや、グロムイコなど、経験豊かで慎重な人たちまでこの文章を入れるという向こう見ずな賭けに出たことに驚かされます。
緊張があまりに高まっていたため、リスクをとるべきだろ感じたのかもしれません。
これは、ソ連とアメリカの度胸比べ・・・
まさに、チキンレースだったのです。

深夜になっても、キッシンジャーは情報収集に努めていました。
ソ連の軍事介入まで残された時間は長くありませんでした。

今度は、ソ連からアメリカに核兵器が向けられる可能性が高まっていました。

「ソ連の指導者として、ブレジネフにも我慢の限度があることは明らた
 破局の兆候は、既に顔をのぞかせていた」

翌、27日の未明、メイアに補給を通告した期限が迫る中、イスラエル側に動きはありません。
そして、夜明け前の午前3時・・・キッシンジャーのもとに衝撃的な連絡が入ります。

「我がエジプトは、イスラエルとの直接会談を受諾する」

急転直下、歴史的な直接会談が決まりました。
エジプト第3軍は、救われます。
それは、サダトのギリギリの選択でした。
これ以上状況が悪化すれば、自らの立場が危うくなっていました。
当時、それは誰にも想像できないものでした。
サダトもそのことは理解していました。
戦争終盤のサダトには、凄まじい圧力がかかっていました。
エジプト首脳陣は、言い争いを繰り返していました。
イスラエル軍が、海路まで侵攻するかもしれず、ソ連が参戦して大規模な戦争に発展する恐れもありました。
また、サダトは軍部のクーデターで、権力を失う可能性もあったのです。

ブレジネフにとっては、全く寝耳に水の展開でした。
ブレジネフは激怒しました。

「サダトがどうなろうとかまわない
 我々は、サダトのために世界大戦を始めるつもりはない」

と、これまでとは全く逆のことを言って怒りました。

キッシンジャーは、予想だにしない展開に驚きます。
キッシンジャーは、周囲に感謝の意を述べて、
「今回は、非常に危険な瞬間が何度も訪れたが、我々は、見事に切り抜けた」と、言いました。
そして、イスラエルの大使に、運の強さを皮肉交じりに言いました。
「あなたたちは、まさに奇跡の国のお人ですな」

超大国が、ギリギリの瀬戸際まで対峙した核戦争の脅威は終わりました。
核戦争の危機は、関係した各国にその後も大きな影響をもたらしました。

エジプトとの直接会談を実現したイスラエル・・・
しかし、国民は戦争の幕引きに納得しませんでした。
戦後、レイアは怒りの抗議に晒され辞職しました。
エジプトのサダトは、ソ連を裏切ってアメリカにつき、イスラエルとの和平交渉を進めました。
しかし、アラブ諸国から激しい怒りを買いました。
そして、第4次中東戦争記念式典の最中に、反イスラエルの軍人たちの手で暗殺されました。
一方の超大国・・・
キッシンジャーとブレジネフは、その後も職にとどまり、完全に敵対することはありませんでした。
キッシンジャーは後に、核戦争危機について振り返っています。

「デフコン3の発令は、行き過ぎた行動かも知れないが、避けられないことだった
 いうまでもなく、あの時のような一方的な措置はあくまで最後の手段であるべきである
 しかし、緊急事態は間違いなく再来するだろう」byキッシンジャー

あれから46年、ロシアとアメリカは核開発を続け、核はさらに世界に拡散し続けています。
我々は、核戦争の危険は、相手の計画的攻撃によると考えがちです。
本当の危険は、政治的な誤算、偶発的な事故やミスなど、人間のへまによって起きます。
我々はへまをして、核戦争に突入する可能性があります。
第4次中東戦争の政治的な誤算の代わりに、今は北朝鮮をめぐる政治的な誤算かもしれない・・・
我々が行っている核兵器開発戦争、核兵器製造、政治的意見の相違による睨み合い・・・
それらすべてが、意図せず、戦争突入の可能性を高めています。
私たちはそうして冷戦期と同じ状況を再現しています。
核戦争へと導きうる同じような事故やうっかりミスが生じる可能性に今も直面しています。

私たちが気付かないうちにある危機・・・
今も世界には、1万4000発を越える核弾頭が存在しています。


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第2次世界大戦後、世界各地で紛争が起き・・・アメリカは多額のお金を使うことになります。
お金を世界中にばらまいてしまったのです。

朝鮮戦争・ベトナム戦争の勃発・・・最盛期には、50万の兵士が南ベトナムに送られました。
そして、毎日大量の爆弾を北ベトナムへ・・・!!
とてつもないお金を使ってしまいました。

おまけに南米の反政府ゲリラが・・・腐敗した独裁政権を支援します。
アフリカでもソ連側に入らないように・・・アメリカ側につくならたとえ独裁政権であろうと援助をする・・・
アメリカの仲間であれば・・・と、お金を世界中にばらまいたのです。

アメリカの持っていた金の量が急激に減ってきました。
1949年には245億ドルあった金塊が、1970年には111億ドルとなってしまいました。

はじめ、アメリカ本土にある金の価値の方が、世界中にあるドルより高かったのですが、アメリカがドルをばらまいた結果、世界中に出回っているドルのお金の量が、アメリカ本国が持っている菌よりはるかに多くなってしまったのです。

アメリカに金が無くなってしまう・・・

アメリカは居直って・・・「交換できない!!」
1971年ニクソン大統領がホワイトハウスから交換しないと宣言したのです。

「アメリカはドルを守らなければならない!!
 世界中の通貨を安定させるため、ドルと金との交換を禁止することにした!!」

これをニクソン・ショックと言います。
ドルをいつでも金に変えることができるから、ドルには信用がありました。
ただの紙切れになってしまう可能性のあるドル・・・しかし、これに変わるものがなかったので、世界のお金として使われることになったのですが・・・ドルの価値がどんどん下がっていってしまいました。
金1オンス=35ドルで交換だったものが、38ドルとなったのです。

どうする??

改めて「1ドルいくら」ということを、決めなおそうということになりました。

「固定相場制を決めなおそう!!」ということで、ワシントンのスミソニアン博物館に世界の代表が集まりました。
これをスミソニアン体制と言います。

結果、1ドル=308円になりました。
これも長続きせず・・・固定しておくわけにはいかなくなって・・・変動相場制となり・・・外国為替市場が誕生するのです。

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ケネディからの贈り物―若きリーダーたちへ

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アメリカ大統領と言えばこの人、というくらいに人気は高く、世界的にも知られています。
テレビ時代の申し子と言われていました。
その在任期間はわずか、1036日。3年足らずです。
悲劇的な暗殺・・・その死もテレビが伝えました。

どうして今もなお、カリスマ大統領とされているのでしょうか?

ケネディがホワイトハウスで愛用していた机・・・
カーター、レーガン、クリントン、オバマ・・・歴代大統領が使ってきました。

ケネディが好きだった言葉

「神よ あなたの海は
 あまりにも広大で
 私の船はあまりにも小さい」

どうして今も昔もケネディは人を惹きつけるのでしょう?

①ホワイトハウス・・・大統領の生活は???

大統領一家が過ごします。地下三階、地上三階、132もの部屋があります。
1回には大広間が、2階は居住スペース
この場所で、生活し、仕事をします。
かっこいいイメージですが、小食でちょっとひ弱。
分刻みのスケジュールをこなしながら、お昼寝をしたり、自分の時間も大切にする・・・そんなジャックがそこにはありました。

②VOTE(投票)

43歳にして大統領となった男。
選挙によって史上最年少大統領となったジャック。
生まれ故郷ボストンで1917年5月29日に生まれました。
先祖はアイルランドからの移民、プロテスタントが政財界のボストンにあって、敬虔なカトリック信者でした。
父・ジョセフは、実業家として大成功。
でも、差別や偏見を受けた父は・・・勝負には絶対に勝て!!なんでも一番になれ!!と、育てます。

やがて、兄を追って名門高校へ進むものの・・・
あまり賢くはなかったようです。
ちなみに兄は、スポーツ万能・成績優秀で、将来は政治の世界で活躍することを期待されていました。
しかし、やんちゃなジャックは先生に怒られてばかり・・・
生徒同士の人気投票で・・・最も成功しそうな生徒に選ばれています。
勉強も、スポーツも得意ではないのに、魅力にあふれていました。

第2次世界大戦中海軍にはいったジャックに悲劇が・・・
1944年に兄・ジョーが戦死したのです。
ジョーを大統領に!!と、夢を描いていた父は、その思いを次男のジャックに!!

ケネディは、父の全面的な支援を受けて、29歳の若さで下院議員に・・・
それ以後も負け知らずでした。

議員としての成績はあまりでしたが・・・人気はぴか一でした。

そして、大統領選挙へ・・・
実力者を抑えて・・・43歳という若さで、民主党の大統領候補に選ばれます。
共和党の候補は、副大統領を2期も務めたニクソン。
下馬評ではニクソンが圧勝する予定でした。。。

ジャックは、若さと新鮮さを全面的に押し出します。
みんなとともに・・・気さくに話しかけ、人々の心を掴んでいきます。
そして、史上初の生放送の大統領候補のテレビ討論で・・・

ダークなスーツに身を包み、身だしなみに気を付けてカメラ目線で話しかけます。
一方、ニクソンは・・・落ち着きがなく、汗をかき・・・視線が泳ぎます。

この討論をラジオで聞いた人々の判定は五分五分・・・
しかし、テレビで見た人たちの印象は・・・二人の差は明らかでした。
7000万人が見たといわれるこの討論、最初の15分で決まったといいます。
ケネディは国民に向けて討論し、ニクソンはケネディに対して討論していました。
討論前はケネディ47%・ニクソン53%が、討論後はケネディ51%・ニクソン45%となったのです。

その後ニクソンも必死に頑張りますが、わずか10万票の差で大統領の座についたのはジャックでした。
大統領就任式での国民への呼びかけは、後に有名な演説となりました。

そんなジャックの人気は???
人の心を掴むのが上手だったようです。
気取らない性格で、ハンディ、痛みのわかる人物だったようです。

そして、ジャクリーンと二人でホワイトハウスを変えていきます。
聡明なジャッキー、親友のチャールズ・バートレットが引き合わせました。

ケネディがホワイトハウスの主となると・・・
ジャッキーは知性的な女性で、芸術作品をそろえ、華やかな部屋へと変えていきます。
ホワイトハウスが人々の間に開かれた存在となるように・・・努力を惜しまなかったのです。
機知にとんだ受け答えをする二人の改革は、大統領を人々の身近な存在にさせていきました。

③フルシチョフ・・・若き大統領だったジャックを本当の政治家へと導いたのが、ソ連の最高指導者ニキータ・フルシチョフ。
1960年代、それは、資本主義と共産主義が真っ向から対立した冷戦の時代でした。

大統領に就任してから半年で・・・冷戦構造の打開を図るためにフルシチョフと会談へ・・・
フルシチョフは、話せば全て味方につけてしまうような人でした。誰であれ、説得できる人だったのです。

会談で、共産主義を高らかに主張するフルシチョフ・・・
ケネディは、話し合いの糸口も掴むことが出来ません。
普段は葉巻しか飲まないケネディが、通訳の煙草に手を伸ばしたと言います。
腰の痛みと極度の緊張。。。2日間の会談で具体的成果はほとんどゼロでした。

壁のようにそびえ立つフルシチョフに阻まれたケネディ・・・
肩を落としたと言います。

しかし、フルシチョフはケネディのリーダーとしての素質を見抜いていました。
フルシチョフの息子は・・・
「父・フルシチョフは、ケネディをひ弱な青二才だと見くびっていたというのは、アメリカ人の神話です。ケネディは、しっかりしたビジョンを持っていたと・・・アイゼンハワーよりも実力があると認めていたようです。」

1962年10月のキューバ危機・・・
アメリカのわずか南100キロにある共産主義国・キューバ・・・
ここにソ連が核ミサイルを配備しようとしていました。
のど元に突き付けられた核ミサイルの恐怖、人々は混乱し、マスコミは第三次世界大戦を煽ります。

ホワイトハウスでは・・・
軍の幹部がキューバへの軍事侵攻を求めます。
しかし、ケネディは・・・フルシチョフとの外交交渉で決着をつけようとしました。
キューバ近海を封鎖、ソ連の武器を積んだ軍艦の阻止を宣言しました。

「キューバからのミサイル攻撃は、どの西側諸国に対してであれソ連からアメリカに対する攻撃とみなす」

13日間にわたる交渉が始まりました。
その結果、アメリカはキューバを侵略しないと約束、あとはソ連側が決断すべきだ、とフルシチョフに委ねます。
これに対しフルシチョフは・・・
キューバからのミサイル撤去を約束しました。

1963年ケネディは西ベルリンを訪れます。
冷戦によって東西に分断された町・・・ここでケネディは、有名な演説をします。

「どこに暮らしていても、あらゆる自由な人はベルリンの市民です。
 ですから自由な人間として私は誇りを持って言うのです。
 イッヒ・ビン・アイン・ベルリナー
 (私はベルリン市民である)」

外交での実績を積み上げていたケネディは・・・リンカーン以来国内を揺るがしていた問題・・・黒人差別問題に取り組みます。
公民権を確立するためです。
「これまで長年、放置されてきた問題の解決を会議に求めます。
 アメリカの暮らしと法律から人種差別をなくすことです。」

黒人の公民権確立への道筋をたてたケネディ。
海を愛し、家族を愛し、自由の国を愛したケネディ。

1963年11月22日ダラスで・・・
人種差別が色濃く残るこの街で、自由で開かれたアメリカを訴えようとしていました。
しかし、12時30分、一発の銃声が鳴り響きました。
何者かによって銃撃されたのです。

若き大統領の死・・・

フルシチョフは、ジャッキーに、心のこもったお悔やみを・・・
これに対してジャッキーは、
「ケネディは、あなたと一緒に世界平和を実現したいと考えていました。
 しかし、夫はもういません。
 これからはあなた一人で実現していかねばなりません。」

もしケネディが生きていたら・・・
底辺の人々に手を差し伸べたケネディ。。。

ダラスにある博物館には、毎年30万人の人が訪れます。

どんな人の心の中にもある弱さ・・・
その弱さとうまく付き合ったからこそ相手を知り、自分を知り、国を知る・・・
それが、ケネディの強さでした。


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