マリア・カラス・・・美貌と実力を兼ね備え、歌に生き、愛に生きた世紀の歌姫です。
その最後のステージは日本でした。
まだ50歳だったマリア・カラスの早過ぎる終幕・・・その訳とは・・・??

maria
類まれな表現力で、オペラ界を変えたカラス・・・”カラス以前””カラス以後”という言葉が生まれたほどでした。
歌声だけでなく、エキゾチックなその美貌で世界中の聴衆を魅了しました。
しかし、彼女はその外見に強いコンプレックスを持っていました。

世紀の歌姫と言われ、世界中の劇場から依頼が殺到したマリア・カラス・・・しかし、反面、色々なトラブルを起こしました。
突然の公演キャンセル、大劇場との対立、いつしか”高慢””金の亡者””キャンセル魔”と言われるようになります。


私生活もたたかれます。
夫がある身にもかかわらずギリシャの大富豪オナシスと9年間の大恋愛、しかし、オナシスはマリアを裏切り元アメリカ大統領夫人ジャクリーン・ケネディと再婚。

世紀の歌姫・・・その人生に秘められた愛と悲しみとは・・・??

マリア・カラスの家は決して裕福ではなく、両親は音楽関係ではありませんでした。
しかし、マリアはオペラ歌手への道を選びます。
どうしてオペラ歌手となったのでしょうか?
1923年、マリアはニューヨークで誕生しました。
両親はギリシャ移民でした。

父・ジョージは平凡な薬剤師、母・エヴァンゲリアは幼い男の子を失くしたばかり・・・男の子が欲しかったといいます。
しかし、生まれてきたのは女の子のマリア・・・
我が子を見た母は、「その子をあっちへやって!!」
母は、姉のジャッキーにだけ愛情を注ぎました。
かつて歌手を夢見ていた母は、ジャッキーに蓄音機を買い、ピアノを学ばせて音楽の才能を伸ばそうとしました。
マリアは、母に気に入られようと姉のすることは何でもしました。
7歳の時、マリアはレコードに合わせて姉のように歌ってみました。
すると母は・・・才能があるのは姉ではなくマリアであると気づきます。

「母は、私に並外れた音楽の才能があることに気付いた最初の人でした。」

母は、突然マリアに興味を抱くようになります。
マリアにもピアノのレッスンを受けさせ、図書館でレコードを聞かせ、厳しい英才教育を施しました。
マリアも母の関心が自分に向いたので、喜んで練習をしました。

1935年、11歳の時、ラジオの音楽コンテストに出場します。
マリアはアコーディオン奏者に次いで2位となりました。

「私が母に愛されていると感じたのは、歌っている時だけでした。」

母は、薬剤師の父を見下しており、両親の不仲は子供が見ても明らかでした。
そして母は、父をアメリカに残し、1937年、13歳の時ギリシャに移住。
マリアは奨学金を得てアテネの音楽学校へ・・・!!
その学校で教えていた世界的なソプラノ歌手エルビラ・デ・イダルゴは、すぐにマリアの才能にほれ込みました。

「マリアが孤独なのは気付いていました」byイダルゴ
 
母に愛されていないマリアを娘のようにかわいがるイダルゴ・・・
普段の生活でも何かと面倒を見ました。
オペラ歌手の卵だったマリアは体重が80キロ以上あり、外見には無頓着でした。

「先生は私の服装を嘆いていた
 容姿に磨きをかけよようと本気で努力をしないなら、もうレッスンはいないとおっしゃったほどよ」

家庭では得られなかった安らぎ・・・
マリアは歌のレッスンに集中しました。

こうしてマリアが声楽の練習をしていた時に第二次世界大戦が勃発!!
1941年、17歳の時、ドイツ軍・イタリア軍がアテネを占領します。
占領下におかれたアテネは、食糧不足に陥ります。
すると母は、マリアにドイツ兵やイタリア兵との親密な関係を強要・・・食料得るためでした。
この頃から、母とマリアの溝は深まったといいます。

1942年、18歳の時「トスカ」でプロのオペラ・デビュー。
マリアはこのトスカをこの後も何度も演じ、得意のレパートリーとします。
上演が終わると、何度もカーテンコールが起きるほど好評でした。
これを機に、ドイツ兵や、イタリア兵の前で歌うようになります。
しかし、このことが後に災いしてしまうのです。
対戦も終わりに近づいた1944年、20歳の時にアテネが開放。
すると、マリアがドイツ兵やイタリア兵のために歌っていたことが問題視されました。
劇場から追放され、音楽学校の奨学金も打ち切られます。
1945年、21歳の時に、マリアは仕事を求めて母と離れ、父のいるアメリカ・ニューヨークに向かいます。

しかし、いくらオーディションを受けても不合格。
ギリシャで有名になったぐらいでは、アメリカでは通用しませんでした。
世界屈指のオペラハウス・メトロポリタン歌劇場のオーディションもうまくいきません。
しかし、マリアは地震に満ち溢れていました。

「メトロポリタンはいつか歌ってくれ、と私に頭を下げて来るでしょう」

歌手活動を本格化させたマリア・カラスは、30キロ以上のダイエットをします。
あまりに急激な原料は、歌声に影響する可能性がありましたが、マリアは大変身を遂げました。
ニューヨークに戻って2年、ようやくマリアにチャンスが巡ってきました。
イタリアでのオペラ出演です。
マリアはすぐに、イタリアのベローナに向かいます。
1947年、23歳の時に「ラ・ジョコンダ」でイタリア・デビュー。
2万5000人も集まった野外劇場で歌い上げます。
しかし、公演は成功したものの、次の契約につながりません。
そこに、救いの手を差し伸べたのが、オペラ好きで地元では有名な実業家のジョヴァンニ・バッティスタ・メネギーニでした。
マリアより30歳ほど年上の52歳でした。
公演前の食事会で、マリアに一目ぼれしたのです。
その後、マリアを高級レストランに誘っては口説きます。
初めてレディーとして扱われるマリア・・・次第にメネギーニを愛するようになっていきます。
あえない時、マリアがメネギーニに贈った手紙には・・・

「私がどんなにあなたを恋しがっているかお分かりにならないでしょう
 あなたの腕に戻る日が待ちきれません」

裕福なメネギーニは、マリアの生活を保障。
マネージャーも務め、仕事上のパートナーになりました。
メネギーニの援助でイタリアを拠点としたマリアに、少しづつオペラの仕事が舞い込むようになります。

1948年、24歳の時、フィレンツェで「ノルマ」が大成功!!
カラスブームが巻き起こります。
ノルマは最も難しい曲の一つで、それまであまり歌われてはいませんでした。
しかし、マリアは見事に歌いこなして観客を魅了します。
それが可能だったのは、マリアが様々な声を使いこなせたからです。

「美しい声だけでは十分ではありません
 役を演じる時は、幸福感・喜び・悲しみ・恐れなどを表現する為に、千種類もの声を使い分ける必要があります。
 美しい声だけでそれができますか?」

さらにマリアがこだわったのが演技です。
当時のオペラは、あまり演技にこだわっていませんでした。
当時は、”ちゃんと楽譜通りにやりましょう”というオペラでした。
そして衣装を着けて棒立ちで歌っている・・・
マリア・カラスは、激しい演技を行うことによって、歌い手としての個性を発揮するのに成功したのです。
オペラ歌手として軌道に乗ったマリアは、1949年、25歳の時にメネギーニと結婚。
そして主役のチャンスが訪れます。

1951年ミラノ・スカラ座で正式にデビューします。
スカラ座といえば、誰もが憧れるイタリアオペラの殿堂・・・!!
この時演じたのは、「シチリア島の夕べの祈り」
マスコミの反応は・・・

”驚異的な広がりを持つ中音域と低音域はきらめくような美しさに満ちている”

その歌声に熱狂した聴衆は、いつしかマリアをこう呼ぶようになります。

”スカラ座の女王”と。

マリア・カラスの名は世界中に響き渡り、王族や大富豪も、マリアの舞台を見ることがステータスとなりました。
新境地を次々と開いていくマリアは、オペラの常識にも挑戦します。
体重が必要とされるオペラ歌手にもかかわらず、痩せようと考えたのです。
きっかけは、映画「ローマの休日」でした。
オードリー・ヘップバーンに憧れたマリアは、ダイエットを決意しました。
そして、11か月で30キロ以上の体重を落としました。
マスコミでも話題となり、その減量法聞かれると・・・

「もし痩せる方法がわかっていたら、私は世界一の金持ちになれたと思いませんか?」

ハリウッド女優並みのスタイルを手に入れると、ディオールやジバンシーなどのデザイナーが、ドレスや宝飾品を提供。
マリア・カラスは、誰もがうらやむ大スターとなりました。
さらに、マリアの勢いは止まりません。
駆け出しのころからあこがれていた生まれ故郷ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の出演!!
1956年、32歳の時にメトロポリタン歌劇場で初公演。
マリアは聴衆を感動と興奮の渦に巻き込んで、16回ものカーテンコールを受けました。
ダイエットをしてもその歌声は、衰えませんでした。
大スターとなったマリア・・・ギリシャの母とは疎遠になっていました。
マリアは仕送りをしていましたが、母はそれ以上にお金を欲しがりました。
マリアが断わると、母はマスコミを通じて冷たい娘と非難しました。
マリアはそんな母が許せず、生涯あうことはありませんでした。

35歳の時、マリア・カラスは17歳年上の大富豪オナシスと恋に落ちます。
オナシスは妻も子もありながら、女遊びの絶えないプレイボーイ・・・。
それなのに、どうしてマリアは恋に落ちたのでしょうか?

30代で世界で最も有名な歌姫となったマリア・・・
しかし、栄光の影で様々な苦悩を抱えていました。
その一つが、夫メネギーニのお金への執着。
マネージャーでもあるメネギーニは、マリアが売れてくるとギャラを法外に吊り上げました。
1947年・・・1公演:4万リラ
しかし、10年後には、80万~100万リラと20倍以上に・・・
今の日本円で1000万円以上です。
余りに高額な請求に、困惑する劇場側に、メネギーニは「妻が望んでいるので・・・」と言いました。
実際には、マリアは夫に任せっきりだったので、ギャラの金額などわかっていませんでした。
さらにマリアを悩ませたのは、大御所の批評家たちでした。

「マリア・カラスの声は、力強さはあるが清らかさがない」

若い批評家には熱狂的に評価された一方で、大御所の受けは悪かったのです。
というのも、マリアは今までにいないタイプでした。
マリアは自分を侮辱する手紙ばかりを100通ほど保管していました。
どうしてこのような手紙を保管していたのかは難しいですが、自分をさらに精進させるために自分の糧にするためだったと思われます。
絶頂期だったマリア・・・しかし、翌年から破滅の足音が聞こえてくるのでした。

1957年、33歳のエディンバラでの公演以来、喉の調子を崩します。
医者に休養を命じられていました。
それでもどうしてもと頼み込まれ、5回の上演・・・しかし、喉は4回が限度でした。
そのため、1回分の代役を頼みます。
オペラでは、体調に合わせて代役が歌うのはよくあること・・・
ところが・・・

「あの忌まわしいパーティーに行ったのが間違いでした」

5回目の公演キャンセルの日にパーティーに出席・・・
これが報道され、マスコミから非難の嵐が・・・!!
オペラ歌手としては当たり前のことをしただけなのに・・・。

この事件から4か月後・・・
1958年1月にローマで事件を起こします。
イタリア大統領も見に来る公演でマリアはノルマを演じることになっていました。
ところが、またしても喉の調子を崩してしまう・・・
一幕目は乗り越えたものの、二幕目以降は出演できないというマリアに、スタッフは・・・

「あなたならできます
 舞台を続けないとダメですよ!!」

「声が出ないのよ・・・」

「いい加減でいいんだよ、それなら!!」

遂に、二幕目をすることなく公演中止。
これが大問題となり、マリアは会見を開いて声が出なかったと弁明します。
しかし、マスコミは気まぐれでワガママだと非難します。
これをきっかけに、スカラ座を始めイタリアでの契約が無くなります。
大統領も出席する公演をキャンセルしたことで、イタリア政府の介入もあったとされます。
さらに同年、メトロポリタン歌劇場と演目で衝突!!

「同じ演目ばかり・・・新しい試みがしたいの!!」

大劇場との関係悪化は、メネギーニの責任が大きいといわれています。
メネギーニにとって交渉はありえないことでした。
自分の要求額でなければ契約しませんでした。
アメリカに行って、メトロポリタンの支配人・ビングが相手でも、同じやり方をしました。
メネギーニ同様、ビングも譲らない性格だったので、二人は喧嘩になっていました。
さらに、マリアのビジネス用の口座からメネギーニ個人の口座にお金を移して使い込んでいたことが発覚。
マリアはショックを受け、夫への信頼は粉々に崩れました。

声の衰え・・・大劇場との衝突・・・夫の裏切り・・・
精神的にも追いつめられた時、一人の男性と出会いました。
マリアより17歳年上で、一代で巨万の富を築いた大富豪オナシスです。
しかし、オナシスは妻の間に二人の子供のいる既婚者でした。

1959年、35歳の時、オナシスがマリア夫婦を招待したオナシスの地中海クルーズがマリアの人生を変えました。
元イギリス首相・チャーチルなどを乗せた3週間の航海・・・
クルーズの間、マリアとオナシスは急接近します。
二人きりの時間を過ごしました。
港に戻ってきたころには、マリアはメネギーニと別れる決意をしていました。
結婚生活は終わりをつげ、マネージャーも辞めさせました。
世紀の歌姫の大富豪の恋は、マスコミも注目します。

「私は長いことカゴの中で飼われていると感じていました
 ですから、活気にあふれ魅力的なオナシスや彼の友人たちに出会った時、私は生まれ変わったのです」

マリア・カラスがオナシスと恋に落ちた翌年・・・
1960年、マリアが36歳の時、オナシスが妻と離婚します。
マリアは、アメリカの市民権を放棄して、1966年、42歳でギリシャ国籍を取得します。
オナシスと結婚するためでした。
当時、マリアを悩ませていたのは声の衰えでした。
ある時、パリのオペラ座で公演した時も、最後まで持たずに途中降板していまいました。

「歌っていたのは本当の私ではないのよ
 自分の声ではなくて、聞き覚えのない他人の声に聞こえたわ」

超えの衰えたマリアは、仕事を控え、オナシスとの生活を最優先しました。

「8年半もの間 共に生きてきて 私は心から言います
 あなたのことをとても誇りに思い 全身全霊をかけてあなたを愛していますと・・・
 そして、あなたもまた私に対して同じ思いでいることを願っています」

ところが・・・この手紙が書かれた9か月後・・・
1968年・・・オナシスは、もとアメリカ大統領夫人ジャクリーン・ケネディと再婚します。
この衝撃的なニュースを新聞で知ったマリア・・・
結婚式当日は、オナシスとよく行ったレストランに足を運びました。

「私には屈辱よ
 2か月たっても立ち直れない」

オナシスとジャクリーンが結婚して数か月後・・・
マリアのアパートを一人の男が訪ねてきました。
なんと、オナシス・・・ジャクリーンと離婚はしないが、マリアとよりを戻したいというのです。
マリアは拒絶・・・しかし、結局はオナシスを許し、受け入れるのです。
心の支えが戻ってきたマリアは、47歳で新たな挑戦を始めます。
ニューヨークのジュリアード音楽院で、若者たちに教えたのです。

聴講生には、世界三大テノールと言われるプラシド・ドミンゴ、ルチアーノ・パヴァロッティの姿もありました。
再びステージに立つ気力の湧いたマリアは、1973年、49歳で世界各地をコンサートで回ります。
ヨーロッパやアメリカなど世界9か国を回り、最後は日本でした。
札幌での公演を終わりホテルに戻ると、マリアを愕然とさせる報せが・・・オナシス緊急入院!!
マリアはパリで入院中のオナシスのもとへ・・・!!

「私よ マリア
 あなたのカナリヤよ
 あなたを愛している
 これからもずっと愛し続ける」
 
9日後・・・
1975年3月15日、オナシス死去・・・69歳でした。
マリアが葬儀に参列することは許されませんでした。
オナシスの死後、マリアはパリの自宅からほとんど出ませんでした。
ステージにも、札幌公演を最後に、二度と立つことはありませんでした。
過去に自分が歌った歌声を、聞いてばかりだったといいます。
夜・・・眠れなくて睡眠薬を飲み、朝・・・頭をすっきりさせるために興奮剤
1977年9月16日、マリア・カラス53歳、自宅で急死・・・
心臓麻痺と言われています。

晩年自伝を書くことを勧めた作家に対してこう言っていたといいます。

「自伝ならもう書いたわよ
 それは、私が演じてきた音楽の中にあるわ
 音楽こそ私が知る唯一の言語なんですもの」

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