日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ミッドウェー海戦

南太平洋のガダルカナル島・・・今から77年前、このジャングルで日本軍とアメリカ軍が死闘を繰り広げました。
森の至る所に戦争の爪痕が残っています。
死者2万人以上、ガダルカナルは地獄の戦場といわれ、島で戦った日本陸軍の一木支隊は、最強の精鋭部隊といわれましたが全滅・・・
その責めを負い自殺したとされる指揮官・・・陸軍・一木清直大佐・・・
無謀な突撃にこだわり大敗北を招いた張本人として非難を浴びてきました。

謎だった日本軍の無謀な戦い・・・
日本と戦った米軍の上陸部隊は1万人・・・わずか900人の一木支隊と比べると、圧倒的な大兵力の部隊でした。
一木支隊は米軍の周到な罠にはまっていきます。
そして、部隊全滅の影に、陸海軍の熾烈な対立があることがわかってきました。
海軍はアメリカの艦隊をおびき寄せて叩くために、陸軍を囮にする作戦でした。
陸海軍の対立が深まり、補給が滞る中、すさまじい飢えが兵士たちを襲います。
日本は敗戦に向かう転換点が、ガダルカナルの激戦です。

ガダルカナル島は、日本からおよそ6000キロ・・・
アメリカと日本は、6か月にわたってこの島で激戦を繰り広げました。
ここは、日米が初めて総力戦を始めた場所でした。
喉かな南の島で、血で血を洗う戦いが行われました。

日本軍が作った島で唯一の飛行場・・・ホニアラ国際空港(旧日本軍飛行場)を巡って、日米は激突しました。
日本海軍は現地の住民を使い、森を切り開き、建設を進めていました。
800mの滑走路を備えた飛行場は、重要拠点となるはずでした。

1941年12月8日、真珠湾攻撃で、連合国との全面戦争に突入した日本・・・
米軍の拠点ハワイとオーストラリアの線上にあるガダルカナル島に着目します。
ここで制空権を得れば、連合国を分断し、更に優位に立てる・・・!!と。
危機感を募らせたアメリカは、飛行場を占領し、制空権を奪おうと計画します。

米軍の飛行場占領作戦とは・・・??
残されたフィルムによると・・・。
1942年8月7日、アメリカ海兵隊がガダルカナル島上陸!!
1万人の兵力で、たちまち完成間近の飛行場を占領!!
米軍機を迎えるために、整備を進めました。
そして・・・圧倒的な火力で、飛行場奪還に現れた日本軍を撃退します。
全滅し、大地に横たわる日本兵・・・わずか900人で、10倍の兵と戦った結果でした。

この時殲滅したのは、陸軍屈指の精鋭部隊といわれていた一木支隊。
兵を率いた一木清直大佐は、敵を侮り、自信過剰、無謀な作戦、偵察をせずに突撃、致命的なミスをしたとして、轟々たる非難を浴びてきました。
一木大佐はどうして隊を全滅することとなったのでしょうか?

ガダルカナルの敗北の責めを負った一木大佐・・・しかし、部隊全滅の影には、日本軍の組織の抱える問題がありました。

1942年8月7日、大本営・・・
ガダルカナル米軍上陸の報せは、直ちに大本営にもたらされました。
陸海軍の作戦参謀が一堂に会して、飛行場奪還作戦のための緊急会議が行われました。
両軍の議論を資料を基にすると・・・

この2か月前の6月5日、ミッドウェー海戦で敗北、空母4隻を失い、報復の機会をうかがっていた海軍・・・
一方の陸軍は、中国やアジア各国で勝利し、向かうところ敵なしと自信を深めていました。
米軍を倒すべく、初の陸海軍共同作戦が行われようとしていました。
陸海軍は、それぞれ、連合艦隊(海軍部)と第17軍(陸軍部)に作戦準備を命令。
海軍は艦隊と航空艦を、陸軍は歩兵部隊を派遣し、連携して飛行場を奪還する作戦でした。
この時、白羽の矢が立ったのが、中国戦線で名を上げた陸軍・一木支隊でした。

一木支隊の故郷は北海道の旭川・・・
彼等が出征の直前、必勝祈願を護国神社で行います。
その時、境内で撮った写真が残っていました。
総勢2000名、農家出身、20代の若者が厳しい訓練を経て精鋭部隊に・・・!!
その強さは・・・日本最強であったと、今も地元で語り継がれています。
その隊員たちは、ほぼ全滅となりました。


飛行場を奪還する初の陸海共同作戦・・・海軍の側はどう動いたのでしょうか?
ガダルカナル島の沖合で、沈没船の調査が行われています。
この調査は、戦艦武蔵を発見した実績を持つ国際的なチームが行っています。
無人潜水艇で、日米の戦いの痕跡を探す・・・。
沈んだ軍艦・・・アメリカ重巡洋艦クインシー・・・
日本海軍の攻撃で、船体に大きな穴が開き、沈没したようです。
海軍の作戦は、アメリカが飛行場を占領したその日のうちに始まりました。
指揮官は、第八艦隊司令長官・三川軍一中将。
闇に紛れた奇襲を決断します。
攻撃目標は、米軍の輸送船団!!
空母や巡洋艦に護衛されていました。
夜、10時50分・・・連合艦隊はアメリカの艦隊を発見!!
しかし、すぐに攻撃を仕掛けず夜の闇に紛れて敵陣深く忍び込みました。
11時38分、攻撃開始!!
連合艦隊は重巡洋艦クインシーなど巡洋艦4隻を沈め、他、3隻に大ダメージを与えます。
ミッドウェー海戦の敗北以来、久々の大戦果を挙げた海軍!!
勝利は大々的に報じられました。
しかし、海軍はこの戦いで大きなミスを犯します。
空母や巡洋艦への攻撃を優先する・・・当初の目的だった輸送船団を見逃していたのです。
米軍は、補給が途絶える危機を脱し、武器や食料を受け取ります。
ラバウルの陸軍第17軍司令部は、この海軍の判断を非難します。
一木支隊の作戦を担当する参謀長の二見秋三郎少将の手帳には、海軍に対して痛烈な批判が書かれていました。

”ニュース、海軍大々的ニ報ズ
 ヤリ方ナマヌルキコト多ク 全クキガシレズ”

海軍のミスでアメリカの兵力は増強され、一木支隊にとって不利な状況が増していきます。

共同作戦と言いながら、優先順位が食い違う海軍と陸軍・・・大勝利の影で、亀裂が生じようとしていました。
一木支隊の上陸地点は、ガダルカナル島のタイボ岬・・・
日本軍のものとみられる船の一部が残されていました。
8月18日、一木支隊無血上陸に成功!!
一木大佐自ら隊を率いていました。
米軍が占拠する飛行場まで35キロ・・・行く手に残酷な運命が待ち受けていることに兵士たちは気付いていませんでした。
一木支隊のこれまでの行動がアメリカで新事実として発見されました。
戦場でのそれぞれの出来事を時間ごとに細かく記入されている・・・併せて1000ページを超える米軍機密文書・・・。
米軍陣地の突破を図った一木支隊が、反撃を受け殲滅されるまでが分刻みで細かく書かれています。

陸軍屈指の精鋭部隊が全滅・・・その始まりは、作戦を立案した大本営陸海軍の参謀が、米軍の兵力を見誤ったことでした。
1942年8月10日・・・
海軍の情報を元に、陸軍は推定2000人と見積もりました。
しかし、実際は1万人・・・!!
致命的なミスが生れていきます。
謎をさらに深める資料・・・日本海軍がアメリカに潜入させていたスパイの極秘情報として、
「今朝、大船団が戦車や軍隊を乗せて南太平洋方面へ向かった」
海軍は、偵察に当たった航空機の情報からも、米軍輸送船団の動きを掴んでいました。
海軍参謀・佐薙毅・・・輸送船団の数から敵兵力は1個師団(1万5000人)と、的確に見積もっていました。
それを狂わせたのが、連合艦隊が夜襲でアメリカ艦隊を撃破した戦いの勝利でした。
戦果を受け、陸海軍の参謀は、見積もりを削減。
輸送船団は、大部分の兵を乗せて撤退したと判断し、残る兵力は2000と考えたのです。
一木支隊が所属する陸軍第17軍司令部は、見積もりに疑問を持ちました。
二見参謀長は、すでに上陸を果たして空港の占領を続ける米軍は、8000人はいると考えていました。
初公開の手帳にこう書いています。

”海軍急グモ不安 一木支隊ヤレズ”

敵の数がはっきりしない中、攻撃をせかす態度に不安を抱いていました。
二見参謀長は、一木支隊の進軍に待ったをかけようとしていました。
ところが、陸軍参謀本部のナンバー2・参謀次長から電報が入ります。

”速やかに(飛行場を)兌換することを考えよ”

米軍機が配備され、戦況が不利になる前に、飛行場奪還を求めたのです。
二見参謀長は、大本営の命じるまま、一木支隊の進撃を認めるしかありませんでした。

8月19日、一木支隊は飛行場を目指し、行軍を続けていました。
兵士から慕われていた一木大佐・・・作戦を遂行する上で、敵の情報が全くないことを問題視していました。
8月19日8時30分・・・偵察部隊派遣
偵察部隊はジャングルに身をかくし、西に向かいました。
ところが、米軍はジャングルに周到な監視体制を敷いていました。
小さなマイクを無数にしかけ、日本の隠密行動を丸裸にしました。
さらに鉄条網を張り巡らせ、万全な迎撃態勢を取っていました。

偵察部隊38名は、米軍の待ち伏せ攻撃にあい全滅!!
これまで無謀な作戦を非難されてきた一木大佐・・・
作戦を続けるべきか司令部の判断を仰ごうにも連絡できない状況に置かれていました。
どうして通じない・・・??
陸軍司令部のあるラバウルは、ガダルカナルから1000キロと遠く、無線が届きません。
海軍の潜水艦が中継することとなっていました。
ところが、この共闘作戦に潜水艦は任務を放棄し、もち場を離れていました。

何が起きていたのか・・・??
連合艦隊の動きは・・・??

”空母を含む敵機動部隊を発見”

この日・・・8月20日の9時、偵察に当たっていた海軍機が米空母を発見!!
連合艦隊は、周辺にいた全艦に出撃命令を出しました。
その命令に従ったために、一木支隊は無線連絡できない状況に置かれてしまったのです。
連合艦隊参謀長の宇垣纒・・・ミッドウェー海戦で大敗し、復讐に燃えていました。

宇垣の日記には・・・アメリカ艦隊をおびき出すためにガダルカナルの陸軍部隊を利用する策が記されていました。

”陸軍を種とし 囮となす”

陸軍が米軍と戦えば、救援のためにアメリカの空母が来る・・・そこをたたこうというのです。
海軍の中では、陸上部隊は待っていろ・・・アメリカの空母の方が大事だ!!という判断でした。
それで、陸軍側が非常に混乱と迷惑を被る・・・しかし、それはアメリカの空母をたたくことに比べれば大したことはない!!ということなのです。

アメリカの空母部隊を殲滅することを最優先した海軍・・・
一木達陸軍部隊をおとりにすることも作戦の一つでした。

孤立無援となった一木部隊・・・
一木大佐は、この作戦に当たって大本営から命令を受けていました。

”速やかに奪回せよ!!”

何より重要なのは、敵が使う前に飛行場を奪還すること・・・

この時、一木支隊は先遣隊の916名のみ。
遅れていた後続部隊の1000人の到着を待たずに命令に従って攻撃を急ぎました。
しかし・・・目標の飛行場に到着する直前に恐れていた事態が起きました。

8月20日16時・・・
アメリカ軍の戦闘記録によると・・・
”飛行場に味方の戦闘機が到着した”
米軍機31機が飛行場に配備され、制空権はアメリカの手に渡りました。

状況が悪化する中、一木支隊は望みを捨てず進軍します。
決戦に臨む兵士の日記には・・・悲壮な決意が書かれていました。

8月20日夜10時30分・・・
一木支隊、闇に紛れて飛行場に接近!!
その時・・・突然照明弾が光り、待ち構えていたアメリカ軍から攻撃を受けます。
日米が激突したイル河の河口・・・一木支隊が悲劇の最期を迎えた場所です。
無謀な突撃で自滅したと言われていた一木支隊・・・
全滅までの数時間、何が起こっていたのでしょうか?

日本側から見ると、川向うは少し高くて見えにくい場所にアメリカは軍をおき・・・米軍側からは河で足止めされた日本軍を上から見下ろせます。
アメリカからは、天然の要塞のような地形でした。
日本軍は丸見えでした。
待ち構えていたアメリカ軍は、一木支隊に二方向から十字砲火を浴びせました。
圧倒的な火力で攻撃するアメリカ軍・・・銃撃を避けようと川べりのくぼ地に身を潜めた日本軍・・・
しかし、それは罠でした。
アメリカ軍は、くぼ地めがけて迫撃砲を雨あられと打ち込んだのです。

敵の罠を察知した一木大佐は、部隊に突撃中止を命じました。
その時、米軍の戦車隊が出現!!逃げ道を塞ぐように側面から背後に回りました。
日本軍を袋小路に追い込みます。
それは、日本海軍が海の戦いで見逃した輸送船団が運んだ兵器でした。
行き場を失った一木支隊は、狭い砂洲を進みます。
しかしそこはアメリカ軍の攻撃が集中する最も危険な場所でした。
絶体絶命・・・!!
その時、夜が明けて・・・

8月21日6時7分・・・日本海軍の基地からゼロ戦が緊急発進!!
向かった先は、一木支隊が戦う陸の戦場ではなく、海でした。
米軍の空母発見の報せに攻撃命令が下ったのです。
一木支隊が全滅の危機にあっても、海軍は空母攻撃を優先させました。
同じころ、島の飛行場から米軍機が離陸・・・僅かに残った一木支隊に機銃掃射を・・・!!

午前10時25分、空母を見失ったゼロ戦が、ガダルカナル島上空へ・・・!!
しかし、時すでに遅し・・・一木大佐と共に部隊は全滅・・・。
部隊の殆ど・・・777人が命を落としました。

作戦失敗の報せがラバウルの陸軍司令部に届きました。
一木支隊の派遣に不安を抱いていた二見参謀長は日記にこう綴っています。

”夜12時 一木全滅の報あり 寝られず 寝られず”

一方、海軍側の反応は全く異なるものでした。
宇垣参謀長の日記では・・・
”敵を軽視”したことが作戦失敗としていました。
海軍は、自分たちの行動が、一木支隊の全滅に関わったとは受け止めなかったのです。

陸海共同作戦とは名ばかり・・・それぞれ全く別の戦いを進めた陸軍と海軍・・・
部隊全滅の原因を見極めようとはしませんでした。
一木大佐は責任を取って自決したとして幕引きが図られたのです。
一木大佐の娘は、部隊の全滅を知らされても、秘密を守るように軍に口止めされました。

大本営は、その後もガダルカナルに小出しに部隊を送り込みます。
敗北を重ねるたびに兵力を増やし、日本人延べ3万人以上が戦いました。
一木支隊で辛くも生き延びた敗残兵は、帰国も敵わず密林で戦い続けました。
そしてそれは、更なる悪夢の始まりでした。

一木支隊が全滅した後、アメリカ軍は飛行場を拡張し、戦闘機の数を増やしていきました。
日本軍の輸送船が島に近づくたびに、襲い掛かります。
食糧の補給も途絶え、生き残った一木支隊の兵士たちは地獄を見ます。
兵士たちは次々と飢餓に斃れ、命を落としていきました。

1942年12月・・・
このまま戦いを続けるか、撤退をするのか??陸海軍が衝突していました。
日本軍がガダルカナル島から撤退したのは、一木支隊が全滅してから半年後・・・1943年2月のことでした。
この間に、1万5000人が飢えと病で命を落としました。

アメリカ軍は、次々と太平洋の島に上陸し、日本を追いつめます。
日本は、陸海軍の対立が続く中、人命を軽視した戦いが続きます。
1943年11月ギルバート島タワラ
1945年2月硫黄島
1945年4月沖縄
終戦までに犠牲者は300万人を超えました。

組織の狭間で無謀な戦いを強いられた一木支隊・・・
日米の激闘で地獄の戦況と化したガダルカナル島・・・
日本軍の組織の論理は悲劇の指揮官を生んでいました。

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「昭和の選択」シリーズです。

1941年12月8日、日本軍の航空機三百数十機が、ハワイ真珠湾奇襲。
次々と爆弾、魚雷を落とし、米軍艦船を大破、沈没させました。
爆撃機の名は、「九七式艦上攻撃機」・・・航空機が戦争の主役となったことを世界に示しました。
作ったのは、軍用機メーカー「中島飛行機」です。
その創業者は、中島知久平・・・早くから航空機の重要性に着目し、国土防衛のためには、民間による軍用機開発が必要だと、開発・生産しました。
しかし、太平洋戦争の戦況は逆転し、米軍の航空戦力は質・量ともに力を増し、日本軍は太平洋各地で劣勢に追い込まれていきます。
さらに・・・アメリカは、日本本土を空襲するために、「超大型爆撃機 B-29」の開発を進めていました。
このままでは、アメリカによる本土爆撃で日本が焼け野原になってしまう・・・!!

アメリカを上回る超大型爆撃機を新しく開発し、アメリカ本土の直接爆撃をする??
戦闘機を大量生産し制空権をとり、戦況を打開する・・・??

日露戦争から数年後・・・一人の若い海軍機関少尉が巡洋艦での任務についていました。
この機関少尉が毎日のように時間外外出を願い出ることを不審に思った上官が尋ねました。

「佐世保の下士官集会所で飼っている鷲を調べているのです」

「どういうことだ?」

「これから飛行機は進歩し、将来必ず国防上重要になります。
 もし飛行機で、爆弾や魚雷を投下できるようになれば、軍艦一隻の何百分の一の費用で日本を守ることができます。
 鷲の研究をするのも、飛行機研究の参考になると思うからです。」

彼こそ、中島知久平でした。

ライト兄弟の初飛行から数年・・・航空機が軍艦を倒す日が来ると予見、貧しい日本の有力な武器になると考えていました。
1884年1月11日、群馬県新田郡(現・太田市)の養蚕農家に生まれました。
18歳で故郷を出奔!!東京で勉強し、陸軍士官学校に入ろうとしました。
軍人になって大陸に渡ったら、馬賊の棟梁となり、自らの手で当時の敵国・ロシアを打ち負かしたい!!
そう思っていました。

しかし、陸軍士官学校や海軍兵学校の試験には失敗し、合格した海軍機関学校へ・・・!!
思わぬところから技術者の道へ進むこととなりました。
そして出会うのが飛行機でした。
もともと数学が得意で、機関学校を3位で卒業し、技術将校となると、飛行機の魅力に取り付けれていきます。
そして大胆な行動へ・・・

1910年英国国王即位記念行事に派遣されると、イギリスへの航海の途中で・・・フランス・マルセイユで船を下ります。
当時、最先端だったフランスの航空機を視察したい!!
この思いは認められ、2か月の間、各地の飛行場、工場を精力的に回ります。
最先端のフランスでも木と布でできた機体・・・その機体が数機ほど存在していました。

中島は、27歳で海軍大学飛行機科選科学生となります。
当時は、航空技術のことを教えられる教官がおらず、独学で研究しました。
卒業後、海軍命令でアメリカへ航空機製作と整備の技術習得に行きます。
ここでも・・・本来の任務を越え、航空機の操縦を学びました。
アメリカの飛行機ライセンスを無断で取得してしまいました。
勝手な行動を詰問する上官に中島は・・・
「飛行機の製作・整備に関する技術を身につけるには、飛行機を実際に飛ばす技術をも身に着ける必要があると気づいたのです。
 したがって、命令に違反したとは思っていません。」

1913年横須賀海軍工廠飛行機工場長となった中島は、飛行機製作を開始します。
はじめての経験にもかかわらず、僅か2か月で日本海軍製を第1号機を完成。
しかし、当時軍艦には数億円の予算を割いても、航空機には僅か20万円というものでした。
中島は上官に長文の意見書を提出!!
当時の海軍の主流だった”大艦巨砲主義”を真っ向から否定、軍艦を増産する競争ではかなわない、国力の劣る日本だからこそ、少ない経費で有効な攻撃力を持つ航空機開発に予算を割くべきだと主張しました。

その信念を裏付けるかのように、独自の新型機を開発。
日本では誰も見たことのない斬新なものばかりでした。
が・・・中島の航空機開発は行き詰っていきます。
海軍という組織の中では、彼の考え方は理解されなかったのです。
反発を買い・・・開発した飛行機の一つは試験飛行もままなりませんでした。

1917年中島は海軍を退役。。。
そして故郷の群馬県に、民間の飛行機研究所(中島飛行機)を立ち上げます。
最初は、楊さん小屋を借り受けた設計事務所・・・
経理を担当する弟と、5人の技術者のみ・・・!!
それでも、中島の信念は・・・

「飛行機開発は、民間をもって行うときは、一ヶ年に12回の改革を行ない得るも、官営にては正式に言えば僅かに1回のみ。
 故に、官営の進歩は、民営の12分の1たるの理なり」

しかし、民間の航空機製造会社は苦難のスタートでした。
利根川の河川敷を借りて飛行実験すれども、墜落などの失敗の連続・・・
人々は、中島の航空機を皮肉ります。

「札はだぶつく
 お米はあがる
   何でもあがる
     あがらないぞい 中島飛行機」

1919年中島式四型複葉機 試験飛行に成功

さらに改良した五型練習機は、陸軍からの大量注文を獲得!!
後れて海軍からも、横廠式ロ号甲型水上機の大量注文が・・・!!
中島飛行機は、急速に拡大していきます。
そして、性能向上と大量生産への道を邁進していくのです。

群馬県太田市には、旧中島飛行機の工場跡がいくつも残されています。
中島の予見通り、第一次世界大戦以降世界中で航空機の需要が高まっていました。
中島飛行機も、日本初の金属製飛行機「軽銀号」をはじめ、生産機種、機体数ともに急成長を遂げることとなります。
1925年、航空機エンジン国産化のために、東京にも工場を建設。
群馬県に7万5000坪の新工場も!!
1930年46歳となった中島は政界に進出!!
地元群馬県から国会議員に出馬し当選。
政治家となることで、古い考えの大艦巨砲主義から抜け出せない軍部にも意見できるようになりました。
中島は、当選直後の国会で、反目しあう陸海軍から独立した「空軍」創設を主張!!
航空兵力の一元化によって、少ない軍事費で最大の効果を得る・・・ことを考えます。

1937年日中戦争勃発
戦線の拡大とともに、航空機の需要はますます増していきます。
最盛期、中島飛行機は機体数で1位、エンジン数で2位・・・財閥系の三菱重工と並ぶ軍用機メーカーとなっていきます。
議員となって社長を退いても、会社への影響力を持ち続け、大社長と呼ばれ・・・そこには最高の頭脳を持った技術者たちが集まりました。

1939年ノモンハン事件・・・
地上戦ではソ連軍の戦車に完敗するも、空の戦いにおいては九七式戦闘機が圧倒!!
中島飛行機の性能を支えたのが、優れたエンジンの開発力でした。
軍部に正式採用された「栄」エンジン・・・
小型軽量でありながら、高馬力を達成したこのエンジンが、日本海軍の最重要作戦に導入されることに・・・!!

1941年12月8日、真珠湾攻撃!!
栄エンジンを積んだ九七式艦上攻撃機から落とされた魚雷が、アメリカの軍艦を次々と沈めていきました。
若き日の中島が予見した航空機による魚雷攻撃が、戦艦を倒す時代が到来したのです。
しかし、大勝利の知らせに沸く国民をよそに・・・中島飛行機の幹部たちは大変なことになった・・・と、思ったといいます。
進歩したと言っても、日本はまだアメリカの指導を受ける程度・・・
中島飛行機では、アメリカの提携会社から技術指導を受けているような状況でした。


日米開戦を機に、軍の要請によって航空機を増産・・・中島飛行機も、工場数105、就業人員25万人に膨れ上がっていました。
開戦から5か月後・・・アメリカの反撃が始まりました。
1942年4月、太平洋上の米空母を発した爆撃機が東京をはじめとする6都市を始めて爆撃したのです。
その日、東条英機首相は、中島飛行機の太田工場を視察予定でしたが、空襲の知らせに驚き、急遽東京に戻っています。
中島は、いずれ日本本土の空襲の本格化を予想しました。
アメリカは、真珠湾攻撃を機に、航空戦力の大拡充を図っていたのです。

本土空襲から2か月後・・・6月ミッドウェー海戦で日本は主力空母4隻を沈められ、海上の航空戦力の多くを失ってしまいます。
その2か月後の8月・・・連合軍は、日本軍は飛行場を作ったばかりのガダルカナル島上陸!!
激しい争奪戦が始まりました。
9月、アメリカはB-29初飛行に成功・・・エンジンを4基備え、日本の戦闘機が到達できない高度1万メートルを飛ぶことのできる”超空の要塞”!!
日本まで行ける飛行場さえ確保できれば本土大空襲が可能となりました。
10月、南太平洋海戦では日本軍も、米空母を撃沈。
南太平洋の戦況は一進一退を続けていました。
しかし、中島の元には、B-29完成の報が入っていました。
おそらく2年後には、東京が焦土と化すだろう・・・
11月、ひそかに一部の社員を集めて対抗策を研究し始めました。

1943年1月、東京三鷹研究所で「必勝防空研究会」と称する会議を開き、会社の幹部技術者たちに語りました。
「米軍も、大艦巨砲主義を捨てて、航空機主義に転向してしまった。
 戦いは航空機の量と質を考えて、作戦を勧めなくてはならない状態になった。
 国力の貧弱な日本としては、誠に憂慮すべき重大決意を要する事態に立ち至ったわけである。」

アメリカの大型爆撃機B-29による空襲は迫っていました。
航空機に関わるものとして、選択肢は限られていました。

①日本を空襲から守るために、超大型爆撃機を新たに開発する??
資材や人材はどうする・・・??
B-29より先に実戦配備できる可能性は・・・??

②戦闘機を大増産する
前線の兵士が一機でも多くの戦闘機を望んでいる。
B-29よりも先に、制空権を支配してしまう・・・??
しかし、日本本土への爆撃できる島を抑えられてしまったら・・・??


中島の選択は、①超大型爆撃機を新たに開発するでした。

超大型戦略爆撃機Z飛行機の生産・・・
大きさはB-29の1.5倍、幅65m、5000馬力のエンジンを6基積み、爆弾20トンを搭載しても、航続距離16000㎞・・・速度は、時速680㎞、高度7000mを飛ぶ。。。

「これが日本の技量を以て、果たして実現性があるのだろうかとの懸念が生ずるのは一応尤もであります。
 しかし研究の結果、生産は断然可能であることを確認せられたのであります。」

アメリカの製鉄能力は日本の20倍、工作機械生産能力は50倍・・・不利は明らか・・・

「一、二年の間に於て、日本の生産力が米国に拮抗しうるに至ることは思いもよらざる所である。
 生産絶対量の差は、寧ろ更に拡大するの憂さえある。」

敗戦を予言しています。

日本とアメリカとの航空機の生産力の差は16倍・・・
相手の物量にはかなわない・・・

Z機は、日本への空襲を防ぐために、太平洋上の敵飛行場を破壊・・・
次に、千島列島から偏西風のジェット気流に乗って太平洋を無着陸横断・・・
アメリカ本土を爆撃したのち、ドイツ軍占領下のフランス基地に着陸する計画でした。
アメリカの工業地帯や主要都市を破壊することで、アメリカの生産力を減らし、国民の士気を鈍らせようとしたのです。
そして、米軍の大空襲を防ぐための、Z機完成・配備を期限を昭和20年6月・・・最少機数を400としました。

「米国に於ける超空の要塞の整備と何れが速いかに依って、国家の運命は決するのである。」

未知の大型機を2年以内に完成させるという計画・・・軍部や内閣の説得は困難を極めます。
それでも1944年2月、陸海軍も協力し、Z機を元にした超大型爆撃機の試作研究開始が発表されました。
それは「富嶽」と名付けられました。
富嶽専任委員長となった中島は・・・ 

「残るは技術で勝つしかない
 だからこれをやるのだ。」

設計は、現場の技術者にとっても試練・・・不眠不休で新技術開発に挑みます。
前代未聞の大型機の設計・・・様々な工夫がなされました。
5000馬力のエンジンの設計にも難航します。
試作の直前までたどり着いていましたが・・・
悪化する戦況が全てを変えます。

1944年7月、サイパン島陥落
日本本土へのB-29の攻撃が可能となりました。
8月・・・”富嶽”計画中止・・・
軍の方針は、戦闘機の大量生産へと舵を切ったのでした。
当時、南方からの資源輸送ルートがアメリカ軍によって遮断され、アルミニウムの原料が手に入らなくなっていました。
富嶽計画をやめれば、1000機以上の戦闘機や小型爆撃機が作れる・・・という計算でした。

設計者のひとりは・・・
「この瞬間に、戦争に負けてしまった。」

富嶽に関わった技術者一部の人は、特攻機の開発に・・・
富嶽計画中止と同じくして・・・B-29がサイパン島などに実戦配備されます。
11月からは、東京への本格的な爆撃開始!!
その最重点目標は、中島飛行機のエンジン工場・武蔵製作所でした。
空襲は9回に及び、工場は使用不能に・・・!!

1945年3月、B-29による無差別爆撃によって、東京は焼け野原となりました。
その後、日本軍が戦況を打開することはなく・・・

1945年8月ポツダム宣言受諾・・・日本は無条件降伏をしました。
富嶽の資料はすべて焼却・・・占領軍に富嶽計画を知られることを恐れたためでした。
終戦後・・・中島飛行機はその生産をすべて停止・・・
GHQの財閥解体命令によって、11の会社に分割されました。
中島は、永久戦犯指名によって、逮捕命令が出るものの、病気のため収監されることなく、三鷹研究所近くの別邸に拘禁されます。
2年後、永久戦犯指名解除・・・そして、1949年10月29日、脳出血で・・・65歳で中島知久平死去。
中島が再び航空機に関わることはありませんでした。



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東京国立近代美術館で、秋に一人の画家の展覧会が開かれました。
ひときわ目立つ位置に・・・

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1943年に書かれた「アッツ島玉砕」・・・
太平洋の小島で繰り広げられた米兵との凄惨な戦いの場面です。

現実の戦いでは存在しなかった肉弾戦・・・画家が伝えたかったものとは・・・??
この絵を描いたのは、藤田嗣治。
戦前、芸術の都・パリで日本人初の成功を修めた画家でした。

一大センセーションを巻き起こした「ジョイ布のある裸婦像」
西洋美術では見られなかった乳白色の肌・・・第1次世界大戦後のデカダンスな風潮で飛ぶように売れました。
そんな藤田がどうして戦争の絵を・・・??

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藤田嗣治・・・1886年東京牛込に生まれます。
軍人を志した兄とは反対に、内向的で絵を描くことを望む次男坊でした。

画家・藤田を語るうえで欠かせないのが、父・・・陸軍軍医総監を務めた藤田嗣章でした。
海外経験も多かった父は、絵を描く嗣治を後押しします。

1905年東京美術学校西洋画科に入学。
しかし、待っていたのは劣等生の烙印でした。
このまま日本にいては芸術家としての未来はない・・・
藤田が選択したのは、パリへの留学でした。

1913年パリへ留学!!
パリには世界中から芸術家の卵たちがやってきていました。
スペインからはパブロ・ピカソが・・・イタリアからはモディリアーニが・・・エコール・ド・パリの時代だったのです。
模倣な絵をかきながら、勉強に励みます。
絵は売れず、小さな部屋で空腹を紛らわす日々が続きました。
が・・・そんな藤田を支えたのは父でした。
海外勤務をしたりしてお金を作って留学資金をフランスへ送金します。
絵描きとして成功することが父親を喜ばせること・・・
8年たったころ、苦労が報います。

hujita











裸婦像がサロンで入選します。
西洋の油絵とは全く違う表現方法に、パリじゅうが熱狂します。
人気画家となり1時間で絵が売れることも・・・!!
浮世絵を参考にした作品だったのです。
日本人である自分がここで勝負するためには・・・??
東洋美術の伝統を導入しようと考えて、オリジナリティのある油絵に到達したのです。

藤田は時代の寵児となり、裸婦像を増産し、夜な夜な画家仲間たちとパーティーに繰り出しました。
ドジョウ掬いや民謡を披露することも・・・”お調子者”の異名をとることになります。
が・・・そんな日々は長く続きませんでした。
1929年世界大恐慌!!
裸婦像は全く売れなくなり、放蕩した分の巨額の負債が藤田を直撃します。
一度はパリの頂点に立ったものの、このままでは埋もれてしまう!!

1939年第2次世界大戦勃発!!
ドイツ軍がポーランドに進攻・・・翌年にはパリに迫ります。
藤田は戦火を避けるように日本に帰国!!
1941年12月8日ハワイ・真珠湾攻撃!!陸軍はマレー半島で行動開始!!
太平洋戦争がはじまりました。
1942年・・・藤田の姿はシンガポールに向かう船上にありました。
従軍画家としてシンガポールに赴いたのです。

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「シンガポール最後の日」
手前には日本軍、奥には陥落寸前のシンガポール!!
実際の兵士の話をもとに書き上げました。
”当時のままの血に濡れた服装で、つらいポーズも厭わずモデルになってくれた。
 僕もすっかり感激して、連日ぶっ通しで休まず描きまくった。”
出来上がった絵は”聖戦美術展”として全国を回り、喝さいを送りました。
戦意高揚に大きな影響を与えた絵でしたが・・・
開戦から半年・・・戦況に暗雲が立ち込め始めました。


1942年6月ミッドウェー海戦!!日本は、主力空母4隻を失うという大敗を喫し太平洋の制海権を失います。
占領していた島々は・・・補給もままならない厳しい状況へと陥っていきます。
悲劇はアリューシャン列島のアッツ島で起こります。
1943年1万人に及ぶアメリカ軍が突然アッツ島に上陸!!
すさまじい戦いで2,600人以上の日本軍守備隊が・・・初めて喫した全滅でした。

大本営発表では・・・
「アッツ島守備の我が部隊は、ついにことごとく玉砕しました。
 山崎部隊長は、ただの一度でも一兵の増援も要求したことがない、
 また一発の弾薬の補給も願ってまいりません。」
玉砕という文字がはじめて使われたのでした。
玉が弾けるほどの潔い死・・・玉砕をも美化し、戦意高揚へと向かわせようとする軍の意図がありました。

突然の玉砕の知らせに、藤田は芸術家としてこの悲劇を描くという選択をしました。

アッツ島につながる絵・・・それはこちら。

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1937年に画いた”秋田の行事”です。
一年を通じた秋田の暮らしが生き生きと描かれています。
日本の普遍的な営みを表現しています。
祝祭と戦争・・・裏と表・・・
戦争を前に藤田がたどり着いた生命を感じさせる群像表現・・・
アッツ島玉砕というテーマの大きな手掛かりとなりました。

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戦後70年の今年、藤田の展覧会にアッツ島玉砕が飾らられました。
敵味方すらわからないほど茶色で塗り固められた絵・・・
よく見ると、日本刀を振りかざす日本人とピストルを持つアメリカ人の群像が・・・
実際の戦場が全くわからないまま、この作品を2週間で仕上げます。
日本兵の死を描かずに全滅を書く・・・この難題に藤田が出した答えが激しい肉弾戦でした。
 
この絵の持つ力は、作者の想いをはるかに超えて・・・
作品の完成は新聞で大々的に!!
全国の美術館を目玉で巡回します。

””アッツ玉砕の前に跪いて、両手を合わせて祈り拝んでいる老男女
 お賽銭を画前に投げてその画中の人に供養を捧げて瞑目していた””

藤田は、自分の描いた絵が人々の心を動かしていることに心を打たれます。
「この絵だけは、数多く描いた作品の中の最も会心の作だった」

1945年ポツダム宣言受諾。
敗戦という事実は、藤田の人生を大きく変えていきます。
戦後GHQは、戦争に協力した者をリストアップし、公職から追放します。
追及は芸術家にも及ぶ・・・??
敗戦から2か月後の新聞には・・・
”自分の芸術供用を曲げて軍部に阿諛し、うまい汁を吸った茶坊主画家は誰だったのだ”などと書かれています。
率先して多くの戦争画を描いた藤田は、罪から逃れたい画家たちにとって格好の的だったのです。
ある日・・・ともに戦争画を描いていた友達が訪ねてきました。
友人は藤田に対しこう言いました。
食事をふるまった後・・・
「皆に変わって一人でその罪を引き受けてください。」と言われてしまいます。
その言葉は、藤田に計り知れない衝撃を与えました。

「絵描きは絵だけを描いてください
 日本画壇は早く世界的水準になってください」
藤田はこの言葉を残し、日本を後にし・・・6年後にはフランス国籍を手に入れました。
二度と母国に帰ることはありませんでした。

フランス・ランス地方・・・藤田最後の仕事は、自らを葬るための礼拝堂の建設でした。
hujita4

















内壁一面にフレスコ画・・・80歳を迎える画家は、新しい画法でこの絵を完成させます。
背景に・・・キリストに祈りを捧げる藤田の姿がありました。
カトリックに改宗し魂の救いを求めます。
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礼拝堂を飾るステンドグラスは・・・
骸骨が書かれています。
アッツ島を思わせる・・・??
20世紀を弔うために・・・??
礼拝堂完成1年後、藤田は病のために死去。
この礼拝堂で静かに眠っています。



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人生のあらゆることを勝負とし、日本の運命を賭けた勝負をした男・・・
勝負師~山本五十六~です。

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海軍航空の父と言われ、ゼロ戦パイロットに繋がる航空部隊を育成しました。

勝つために何をすべきか???

昭和16年12月8日未明・・・。
日本軍の機動部隊がハワイに奇襲攻撃をかけました。
真珠湾攻撃・・・太平洋戦争の幕開けでした。

この作戦を指揮したのは、時の連合艦隊司令長官・山本五十六。。。
それはアメリカ艦隊に大打撃を与え、海戦を変える作戦でした。
しかし、五十六はここに来るまでもいろいろな勝負をしてきました。
ギャンブル好きだったと言われる山本五十六・・・
カード・花札・チェッカー・麻雀・ルーレット・・・確立をひたすら経験していました。

isoroku













勝負必勝の三カ条とは???


新潟県長岡・・・明治17年4月4日高野家に6男が誕生・・・五十六でした。
高野家は、長岡藩の武士の家系・・・
父は、戊辰戦争にも参加していました。
長岡藩は、賊軍の汚名を着せられていました。
五十六が常に思っていたのは・・・
「常在戦場」
戦場での緊張感を日常の生活でも持ち続け常に備えよ・・・
という長岡藩の信条でした。

五十六は、2階の小さな部屋で、勉強熱心な父に育てられましたが、明治政府の中、賊軍にはつく仕事はありませんでした。
賊軍の汚名を晴らすためには、軍人・医者・教育者しかありませんでした。
13歳の時・・・長男の長男を・・・跡取りを軍人にしようと思っていた父・・・
しかし、24歳の時に突然の病で亡くなってしまいました。

葬儀に駆け付けた五十六の恩師に・・・
「よりによって跡取りを召されたのでつい愚痴が出まる。
 これが代わってくれれば何のことはなかったのにのう。」
と、五十六を見ました。
必至に涙をこらえながら・・・
「自分がきっと海軍に入って2人分のご奉公をします。
 安心してください。」
と言ったとか。。。

どんなに勉強ができても体が丈夫でないと駄目だ!!
と、必勝肉体改造計画!!
走る。鉄棒。走る。勉強。走る。自主トレ。。。
中学を卒業するころには、誰もスポーツで勝てなくなっていました。
お勉強は主席から十数番に落ちたけれど。。。

明治34年3月五十六中学卒業。
超エリートの難関校・海軍兵学校を目指します。
入学試験までは3か月!!
合格を目指して必勝受験作戦!!
姉夫婦の家を勉強部屋とし、予定表を作ります。

「きちんと計画を立ててやりぬきさえすれば、やれないことはこの世にはありません。
 やれないのは、初めの計画が間違っているか、計画通り実行しないかのどちらかです。」

努力の甲斐あって、海軍兵学校を200名中2番の成績で合格します。
これには父も大喜び!!

明治37年日露戦争勃発。
五十六は、日本海海戦に参加。。。
21歳、生まれて初めての実戦でした。
この時、日本海軍連合艦隊は、ロシアに奇跡的に勝利!!
しかし五十六は・・・この戦いで大怪我をします。

戦闘中の爆発で足を傷め・・・左手の人差し指・中指を失いました。
そればかりか・・・バイ菌が入り・・・左腕を切断しなければ命に係わると言われてしまうのです。
腕を失えば、もう海軍軍人ではいられない・・・
志半ばで断念するのか???
命を賭けた勝負に五十六は、切らずに生きる・・・わずかな望みに賭けたのでした。

「死も生も天命であり、あれこれというべきものではない。
 つつしんで日本の為に身を捧げ、天子の御恩に報いることを心がけようと思う。」

五十六は賭け事を通して、勝負必勝の三カ条を見つけます。

大正8年5月、五十六は、海軍のエリート登竜門であるアメリカ駐在武官として渡米。
目的はアメリカの国情研究でした。
当時は仮想敵国になりつつあったアメリカと日本。
重要な視察の意味があったのです。

そこで五十六は・・・アメリカを目の当たりにします。
自動車の保有台数・・・日本・7500台・・・アメリカ・750万台。
石油産出量・・・日本・30万トン・・・アメリカ・5200万トン。
アメリカは日本など足元にも及ばない産業大国でした。
五十六は衝撃を受けます。
今の日本の国力ではアメリカとの戦争はやりぬけるものではない。。。
アメリカとの戦争がいかに無謀だということを、身をもって知るのです。

そして・・・航空機の発達。。。
戦艦よりも安く、速い!!今後画期的な戦力となる!!
これが、真珠湾攻撃に繋がっていきます。

ギャンブルの腕前は強く・・・
「モナコで2年ほど遊ばせてくれれば、戦艦1隻分の建造費を稼いでみせる」
というほどでした。

一、私利私欲を捨てること
一、科学的・数学的根拠にもとづく判断をすること
一、勝機が来るのを待つ忍耐

これが、勝負必勝の奥義でした。

五十六にとってギャンブルとは・・・
勝っても負けても冷静に物事を判断する修練、
そして、機を狙って、勇往邁進、相手を撃破する修練ができるものでした。

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昭和9年・・・
海軍少将・山本五十六に重要な任務が。。。
当時は条約によって戦艦の保有率が決められていて・・・
日本の主力艦保有比率は対英米の6割でした。
その条約が期限切れとなるので、新たな交渉の代表に任命されたのです。
日本は、この不平等条約を破棄しようと考えていました。
アメリカはまた、この条約を破棄させようと強硬な姿勢をとっていました。
条約が破棄されれば、好きなだけ戦艦をつくることができる!!

しかし五十六はラジオで。。。

「ロンドンにおきましては”和敬協力”。
 全力をあげて働いておるのでございます。」

つまり、各国に協調を求めたのです。

五十六は是が非でもこの条約を存続させようと思っていました。
条約が破棄された場合、アメリカは主力艦を大量に建造するから・・・。
日本との主力艦保有量の格差は広がるばかりだからです。

五十六は、アメリカとあらゆる説得を試みます。
日本にも・・・多少不平等でも、条約を維持させてほしいと打診していました。

ところが・・・2か月後。。。日本政府から電報が・・・
「交渉打ち切り」の指示でした。
根負けさせるはずの勝負が打ち切りとなってしまったのです。 

アメリカとの戦いを避けたかった五十六・・・どうして真珠湾攻撃を考えたのでしょうか???
昭和16年、日米関係は悪化の一途をたどっていました。
日本が資源を求めて東南アジアに進出するに当たり、アメリカは経済制裁を始めました。
戦争回避のため、外交交渉が行われます。
五十六は、連合艦隊司令長官という立場にありながら、アメリカと長期戦になれば負ける!!と、主張していました。
しかし、日米交渉が決裂すれば、戦争を指揮しなければならない・・・。
司令長官の職を辞するか?
軍人として職を全うするか?

友人あての手紙には・・・
「個人としての意見と正反対の意見を固め、その方向に一途邁進の外なき現在の立場は、誠に変なもの也。
 之も、命(天命)というべきか。」

アメリカと戦うことを想定して真珠湾攻撃を考えていた五十六。。。
その作戦内容は・・・
ハワイは、アメリカにとって太平洋の軍事拠点・・・そこへ、密かに空母を中心とした艦隊で攻撃する!!
というものでした。
この作戦の最大の目的は・・・
「日米戦争でまず最初に行うべきことは、敵の主力艦隊を猛撃し、アメリカ海軍とアメリカ国民の士気を喪失させることである」

長期戦では勝てないと踏んでいた五十六は、大打撃を与えて早期講和に持ち込もうとしたのです。

海軍は、旧来の作戦・・・長期持久戦を考えていましたが、五十六は短期決戦を考えていたのです。
そんな作戦を海軍は一か八かの作戦で、正気の沙汰とは思えないと反対します。

理由は・・・
・天候のリスク・・・悪天候の確立が8割
・発見されるリスク・・・長距離の航海で他国に見つかれば敵に通報される
・前例のないリスク・・・これまでの海軍の戦いは、軍艦対軍艦の艦隊決戦・航空機は偵察用
全ては賭けでしたが、五十六はこれ以上の手はないと思っていたのです。
これが出来ないなら戦うべきではない!!
国家の命運をかけた作戦は、立案から10か月後の10月9日に海軍上層部が認可したのでした。

11月30日日米交渉決裂!!
12月1日御前会議にて開戦が正式に決定!!
既に択捉を出発していた艦隊が、ハワイに向かっていました。
日本から6000キロ、10日以上の航海でした。

心配されていたリスクは・・・
幸運にも海は穏やか、6000キロの航海中出会ったのは商船1隻だけ。
12月7日ハワイ沖およそ300キロの地点に到着します。
奇跡の航海でした。
日本時間8日午前1時30分、ハワイ時間の7日午前6時・・・
6隻の空母から、183機の攻撃隊が発艦を開始、1時間50分後真珠湾上空に到達します。
ハワイ時間午前7時55分、真珠湾攻撃開始。

攻撃隊は、停泊する艦隊や飛行場に魚雷や爆弾で襲いかかります。
真珠湾への攻撃は、軍艦18隻・航空機200機以上の大打撃を・・・神がかった成果を挙げたのでした。

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アメリカ国民たちは戦意喪失した???
当初、攻撃前に届くはずだった日本からの宣戦布告が攻撃後となってしまったので、アメリカはだまし討ちだと非難し始めました。

F・ローズベルト大統領の演説で・・・
「リメンバー・パールハーバー!!」となり・・・

日本はこの真珠湾攻撃の戦果に大喜び!!
開戦前の不安は一気に吹っ飛んで、アメリカに勝てる!!となってしまったのでした。

講和には向かわない・・・
五十六は、この戦果にこれほど国民が高揚するとは思っていなかったでしょう。
あまりにも勝ちすぎたのです。

戦争を考える以上は、終わり方を考えなければならない・・・

五十六を英雄として祀りだした人々・・・
しかし五十六は・・・長期戦になれば日本は必ず負ける!!とし、早期講和の道を模索していました。
そんな中、ハワイ占領という案を考えます。
ハワイにいる40万人のアメリカ人を捕虜とするというのです。
これによって優位な停戦交渉を!!!

その為の作戦は、ミッドウェー島の攻略でした。
連戦連勝を重ねていた日本海軍は、ミッドウェー海戦も必ず成功すると考えていました。
しかも・・・五十六立案の作戦。。。
しかし、真珠湾作戦は立案から決行まで10か月、ミッドウェー作戦は立案から決行までわずか2か月。
最悪のケースは考えられていませんでした。
それに対しアメリカ軍は、太平洋艦隊暗号解読班に150人を投入し、解読に成功するのです。

昭和17年6月5日ミッドウェー海戦!!

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暗号を解読された日本軍は、投入していた空母4隻を喪失!!
惨敗を喫するのです。
五十六は、早期講和の道さえも失ってしまったのです。
この後・・・戦局はアメリカに傾いていくのでした。

司令官長として後方にいた五十六は、この頃から前線に赴くようになります。
それと共に、黒革の手帳を見つめることが多くなって。。。
そこにはこれまで戦死・殉職した部下の名が書かれていました。

アメリカとの長期戦では日本は必ず負ける!!その言葉通り、長期戦に入った日本には勝ち目はありませんでした。

昭和18年4月18日・・・
五十六は最前線の視察に向かいましたが・・・
アメリカ軍に暗号解読され、待ち伏せにあってしまいます。

長官機ニューギニア前線上空で撃墜。

山本五十六 戦死 享年59。

戦死から2か月後の6月5日・・・山本五十六の葬儀が行われました。
賊軍と呼ばれた土地に生まれた五十六・・・
その最後は、多くの国民に見送られる国葬として営まれました。

勝負に勝つためには時が来るのをひたすら待つ・・・
「苦しいこともあるだろう
 言いたいこともあるだろう
 不満なこともあるだろう
 腹の立つこともあるだろう
 泣きたいこともあるだろう
 これ化をじっとこらえていくのが男の修業である。」



 2014年03月01日 10:02に大石五雄さんからご指摘をいただきました。

「上記の伝記には山本が新橋芸者の河合千代子と恋仲の関係にあり、彼がミッドウェー出撃の日付まで彼女に教えた軍紀違反の事実などがありません。加えてください。」

どうもありがとうございました。 



第3回なぜ太平洋戦争は引き起こされたのか?はこちら
第5話太平洋戦争への道~近衛文麿と東條英機はこちら
ミッドウェー海戦 敗北が語る日本の弱点はこちら
真珠湾攻撃への7日間・外交官たちの苦悩と誤算はこちら

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ミッドウェー海戦「運命の5分」の真実

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2012年6月に行われた式典・・・それは、ミッドウェー海戦の60周年というものでした。
アメリカ・ミッドウェー島・・・小さな島をめぐっての激しい戦いでした。

1942年6月4日日本軍は、島にあったアメリカ軍基地への攻撃を開始します。
真珠湾攻撃の成功によって、勢いに乗っていた日本軍・・・
ミッドウェー海戦では、4隻の主力空母を投入、勝利を確信していました。

負けるなんて疑ってもいませんでした。
アメリカの攻撃の前に、空母は次々と炎上・・・
わずか1日で、空母4隻沈没、戦死者3000人以上も出してしまいました。
大敗北を喫したのです。

なぜ、負けるはずのなかった戦いに敗れたのでしょうか?
そこには、日本が想定していなかったアメリカ軍の奇襲作戦がありました。

アメリカは徹底した情報戦略で、空母で待ち伏せしていました。
近年公開された文書で、作戦の全貌が暴かれていたことがわかりました。

日本軍の情報は???
日本は、敵の戦力を過小評価していました。

一体どんな戦いだったのでしょうか?
それは、日本の組織の悪いところが全部出てしまった戦いでした。

アメリカが、日本の敗戦を分析したところによると・・・
①国力判断の誤り
②情報軽視
③兵站軽視
④組織の不統一
をあげています。

この④が、アメリカから見ても明らかだったそうです。

日本軍は、作戦重視、情報軽視で突き進んでいきます。
作戦ありきで後付していく・・・
そんな情報でした。

1941年12月8日ハワイ真珠湾攻撃をもって、日米の火ぶたあが切って落とされました。
この戦いで、アメリカ太平洋艦隊の主力戦艦を多数撃沈し・・・
大戦果を挙げることになります。

以来、半年にわたり、海軍はラバウル・オーストラリア・セイロン島を強襲・・・快進撃を続けました。

その推進役が・・・
連合艦隊司令長官・山本五十六でした。
山本は当時、航空母艦をあえて主力にして戦いを決行。
空母は、飛行機の発着を目的とした飛行甲板を持つ大型戦艦、画期的な兵器でした。

一見、日本の大勝利に見えた真珠湾攻撃・・・
しかし、山本はこの時、敵の3隻の主力空母を取り逃がしていました。
いずれ日本の脅威になる・・・
そう思った山本が立案したのが、ミッドウェー島攻略でした。


広島県呉市、かつて帝国海軍の拠点となりました。
ミッドウェー海戦の1か月前、1942年5月1日、戦艦大和で、ミッドウェー作戦図上演習が行われました。およそ100人が集まりました。
それを統括したのが、山本五十六と参謀長・宇垣纏です。

山本五十六は、アメリカに留学経験があり、日米の圧倒的な国力の差を知っていました。
だからこそ、長期戦に勝ち目はないと、考えていました、
早期決戦を考えていたのです。

作戦実施日は、1942年6月上旬とさだめました。

作戦計画では・・・
日本の空母は、赤城・加賀・蒼龍・飛龍。
①空母の飛行部隊がミッドウェー基地を空襲
②攻略部隊が上陸・占領
③ハワイからアメリカ空母を誘い出し撃滅させる
というものでした。

図上演習では・・・
サイコロを振って演習を行うのですが・・・

その出た目は。。。
アメリカ空母が逆襲・・・
空母は2隻沈没・1隻大破というさんさんたるものでした・・・。

参謀長の宇垣は・・・
「今のアメリカの命中弾は、1/3の3発とする。
 加賀沈没、赤城小破とせよ」
と、変更させました。

しかし・・・異議を唱える者はいません。
図上演習は、そのまま進み・・・日本の勝利で終わりました。
作戦を見直す時間のない中で、日本の勝利は変更できなかったそうです。

この作戦で勝つ・・・とならなければ、海戦後に上陸する輸送部隊、上陸部隊の演習が全部ストップしてしまう・・・。

実際に、敵空母が現れたらどう戦うのか???
本来、問題点を考えるための図上演習であるのに、作戦の練り直しは行われませんでした。
これがのちに、致命的な問題となることは、誰も知る由はありませんでした。

このミッドウェー作戦は、これから続くハワイ攻略の前哨戦・・・
止めてしまうことは出来なかったのです。

真珠湾の時も、この図上演習は行われています。
空母4隻で壊滅させられたので、2回目の図上演習を空母6隻で行っています。
時間があれば、作戦の見直しが出来たであろうに・・・

幕僚は延長した方が良いのでは???
でも、山本が首を縦にふらなかったのです。
アメリカが対日戦の前面に出てくる前に・・・
短期決戦をしたかったのでしょう。
山本は、戦果を見せつけないと、国民の心は離れてしまう・・・そう、思っていたようです。
国民の士気に対する平板な思い、固い考えがあったのです。

快進撃の絶頂期にあったミッドウェー海戦。そんな中、戦いの質が変わってきました。
軍艦による戦いと、空母による戦いの違いです。
軍艦はお互いが見えますが、空母は全く見えません。
つまり、情報戦へと変化していったのです。

日本が戦いに急ぐ中、アメリカ軍はどう動いていたのでしょう?
上官は、日本海軍の作戦内容について詳しく知っていました。
日本艦隊は162隻、4つの異なる進撃ルート・・・
司令官山本率いる戦艦大和の部隊、加賀・赤城・蒼龍・飛龍4隻の空母による奇襲攻撃だと・・・

どうして、筒抜けになっていたのでしょう??

ミッドウェー海戦の半年前、ハワイ真珠湾で日本に屈辱の敗北を喫したアメリカ・・・
責任を問われた太平洋艦隊司令長官・ハズバンド・キンメルは・・・更迭され、信任はチェスター・ミニッツでした。

真珠湾の過ちを繰り返さない・・・
ミニッツが最も大事にしたのが情報でした。
日本軍の暗号の解読に成功します。
太平洋艦隊司令部・暗号解読反では150人近い要員が、真珠湾攻撃の雪辱を晴らそうと・・・
24時間体制で解読に当たっていました。

日本側の動向を監視するミニッツ。
アメリカ国立公文書館には・・・決定的な文書が残っていました。

1942年5月13日、航空機運搬艦 五州丸の暗号解読電文です。
「基地設備と兵員を乗せAFに進出せよ」
とあります。
日本の攻撃目標をAFと特定したのです。
地点符号AF・・・それは、ミッドウェー島かさらに南のジョンストン島・・・と割り出します。
そこで・・・アメリカ軍はミッドウェーからハワイに平電文を出します。

「ミッドウェー島は真水が不足している」と。

偽の情報を傍受した日本軍は、本国に打電します。

「AFは真水が不足している」

日本軍の攻撃先が、ミッドウェーとバレた瞬間でした。


さらにミニッツは、日本軍の攻撃日を6月4日と断定。
戦いの準備を始めました。
ミッドウェーに爆撃機、戦闘機を増援、防衛も強化しました。
南太平洋にいた主力空母3隻をハワイに呼び戻します。
空母ヨークタウンは、90日の修理を不眠不休の72時間で突貫工事します。

そして、日本軍のミッドウェーに至る進撃ルートも解析します。
日本の侵攻作戦に対し、奇襲作戦に打って出ます。
空母3隻で待ち伏せします。
暗号解読班の予測通りに日本軍がやってきました。

アメリカ軍は、情報を武器にしたのです。

日本の情報を完全に把握していたアメリカ・・・
それは、ミッドウェーで初めて解読されたわけではなく・・・
1942年5月にあった南太平洋「珊瑚海」で行われた日本対連合国の海戦で、日本の動きは察知していました。
しかし、日本軍は、それにさえ気付いていなかったようです。

日本軍の防諜については、やっているものの・・・
アメリカほど諜報を重んじていなかったのです。

アメリカに情報が漏れているかもしれない・・・
というのは、誰かが秘密を漏らしている、と、考えたようです。

例えば、代表的なのがゾルゲ事件。

日本海軍は、諜報活動は泥棒行為である・・・とすら思っていたようです。
正々堂々、作戦で打ち破る!!それが日本海軍の考え方でした。
そして、日本語の暗号が読まれるわけはないという根拠のない自信がありました。


アメリカの暗号と日本の暗号、難易度は???
日本海軍の暗号は、難易度は高かったようですが、アメリカが人海戦術を持って解読に成功したのです。
このアメリカと日本の情報に対する重きの違い・・・
それは、日本が情報を軽視しすぎる傾向があるのです。


1942年5月27日赤城・加賀・蒼龍・飛龍の機動部隊が出撃します。
空母機動部隊司令長官は南雲忠一でした。
そこに、山本率いる戦艦大和も続きます。

暗号が解読されているとも知らずに・・・

現地時間6月4日午前4時30分、空母部隊が到着すると・・・索敵を開始しました。
通常2回行われる索敵・・・ミッドウェー海戦時は1回のみでした。
その網も荒いものでした。おまけに、雲の上を飛ぶ者さえありました。
その雲の下に、敵艦隊が忍び寄っていたのです。3隻の敵戦艦があったのに・・・

午前6時30分ミッドウェー島空襲開始。
108機が空襲を開始します。
しかし・・・待ち受けていたのは、アメリカ軍の激しい反撃でした。
30分後、南雲司令部に報告が入ります。

「第2次攻撃の要あり」

この時、空母上には、攻撃機の約半数が待機、敵空母との戦いに備えていました。
魚雷・艦船用爆弾も装備しています。
しかし・・・第2次攻撃に見交わせるためには、対空母用の魚雷を陸上用爆弾へと変えなければなりませんでした。
作業に90分はかかるのです。

敵の空母に備えるのか?
ミッドウェー島の陸上攻撃を優先させるのか???

判断は・・・
「第2次攻撃隊の兵装を陸上用爆弾とせよ!!」
でした。

敵空母はいないだろうという判断でした。
急な作戦変更・・・
そこに危機が・・・

ミッドウェー島から攻撃隊が・・・次々と到達してきました。
迎撃したのは、当時世界最強と詠われた零戦でした。
攻撃は最大の防御とばりに攻撃をはね返します。

午前8時20分・・・
「敵は後方に母艦を伴う」との情報が入ってきました。
アメリカの航空母艦を発見したのです。


敵を探索すること・・・当時、空母にも偵察機すら乗せていませんでした。
偵察を軽んじていたこともうかがえます。
攻撃重視の日本海軍・・・

東条英機は、そもそもイギリスと戦争しようと思っていました。
アメリカが来るとは思っていなかったので・・・
アメリカと日本の関係は、抽象的だったとも言えるでしょう。

敵戦艦に驚愕する南雲中将。。。

急きょ空母との戦いを強いられます。
①陸上用爆撃機のまま直ちに出撃する
陸上用爆弾には、空母破壊の威力はありません。
でも、飛行甲板を破壊することで、航空機の発着を不能に出来ます。

②万全の態勢で攻撃に臨む。
時間をかけて、魚雷に付け替える・・・
これなら敵空母に致命傷を負わせることが出来ます。

南雲の決断は・・・
「雷装に転換せよ」
でした。

艦内は再び大混乱・・・
再び兵装転換作業に入ります。

零戦は、敵戦闘機と戦っており、空母上はがら空き状態・・・
そこに、新たな敵が・・・急降下爆撃機・ドーントレスです。

その時、甲板には、満タンに燃料を積んだ爆撃機と、魚雷、爆弾が所狭しと置かれていました。
あっという間の出来事でした。
わずか10分の間に、赤城・加賀・蒼龍の3隻が被弾、炎上しました。
最後に残った飛龍は、反撃を開始します。
必死の攻防の末、ヨークタウン大破。
しかし、反撃もそこまで・・・飛龍も敵の攻撃を受け炎上。
6月5日午前2時55分、全軍退去命令が出ました。

地獄のような有様でした。

日本は、1日で4隻の主力空母、約300機の航空機、3000人以上の将兵を失うことになりました。
日本海軍必勝の戦いだったミッドウェー海戦は、一方的な大敗北に終わったのです。


どうして、ずぶの素人の南雲中将が指揮したのか???
それは、年次と学校の成績です。
おまけに、空母戦は、1か月前が初めてという世界で初めての戦い方だったのです。
ドイツやイギリスなどではありえない戦い方です。

そこを考えると、南雲だけを責めるのは酷・・・
全ての人が、未知の戦いだったのです。
空母同士の戦いの勝敗は、10か0・・・五分五分のない戦いなのです。


兵装転換の理由は???
陸上用爆弾が空母に有効かどうかがわからない・・・
零戦の護衛なしでの行くのは危険・・・
この葛藤から、兵装転換を行ったようです。


「陸」の組織での情報収集は・・・
南満州鉄道による「陸」の情報収集があり、約40万人の社員を動員して満州国や中国の情報を・・・官と民の情報を上手く使っていました。

しかし、「海」の作戦での情報収集は、全く違うものでした。

敗北から3日後の1942年6月10日海軍情報部のラジオ放送では・・・
それは、ミッドウェー海戦の華々しい戦果でした。

「6月5日 
 敵アメリカの前進根拠地であるミッドウェーを急襲し、
 敵の航空母艦群を誘き出し、これと猛烈な格闘戦を演じ、
 ホーネット型航空母艦一隻を大破し、
 エンタープライズ型航空母艦1隻を撃沈いたしたのであります。」

あたかも日本が勝利したかのような報道でした。
軍令部により、国民には徹底的に隠ぺいされました。

それは、天皇にも・・・
1942年7月14日に、天皇に上奏された海軍の艦隊編成表には・・・
沈没したはずの赤城・飛龍が載っています。

ミッドウェーで戦った将兵たちもあおりを受けます。
外出禁止、内地に帰ってきても、一般の人びと、家族との接触すら禁じられました。

では、ミッドウェー海戦の責任者たちの処遇は???
沈没する空母から一命を取り留めた南雲忠一中将は・・・
後方にいた戦艦大和の山本五十六に敗戦の報告をします。
「大失策を演じ、おめおめ生きて帰れる身ではなかったのですが
 ただ復讐の一念に駆られ生還してきました。
 どうか、復讐できるよう取り計らって頂きたい」

「承知した」

この二人の責任が追及されることはありませんでした。


日本の海軍は、責任者を出しません。
どうして???
日本海軍の指揮官は、ほぼ全員海軍兵学校の卒業生です。
きわめて人数が少なく仲がいい。
日本海軍伝統の責任に対する処置と言えるでしょう。

その後南雲は、第3艦隊の司令長官など歴任し、1944年7月サイパンで戦死。

日本海軍の不敗神話が崩れ、大敗北を喫したミッドウェー・・・
以後、アメリカとの戦いで、日本が優位に立つことはありませんでした。
この敗北を知られると、勝てない戦争の意味が解らなくなってしまう。。。

ミッドウェー海戦について、陸軍は的確な評価をしています。
戦争の規模について再考しなければならない時期であると・・・。
でも、それは、“致し方ない”
ということで、国民の精神によって乗り切ろう・・・となったのです。

日本は、総括をしない国・・・総括すれば、責任が明確になってしまいます。

この体質は・・・今も変わらない???

このミッドウェーから何を学べるのでしょう???
それは、議会、政治家の役割、あり方です。
1937年以降、特別会計予算の7割だった空母予算。
日本人らしい自己満足的な作戦・・・
隠さないで総括すること、それが必要です。

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