日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ユダヤ人

第2次世界大戦中のプラハで、多くのユダヤ人の子供をホロコーストから救ったイギリス人男性がいました。
1939年3月、ドイツ軍はチェコスロバキアの首都プラハを占領!!
ロンドンの金融街で働いていたニコラス・ウィントンは、プラハに向かいます。
ウィントンは、ホテルの一室でパスポートとイギリス行きのビザを偽造。
ウィントンは数カ月の間に、8本の記者で数百人の子供たちをプラハから脱出させました。
それは親を失うことになる旅でした。
669人の子供を救ったニコラス・ウィントン。
しかし彼は、そのことを決して口にはしませんでした。
彼の行動が知られることになったのは、50年近くたってからです。
妻が偶然古い資料を見つけたのです。

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1988年、テレビ番組に招かれたウィントンは、突然、周りにいるのが自分が救った子供たちだと知らされます。
イギリスのシンドラーともいわれるウィントン。
彼は、あるモットーに従って行動していました。

「不可能でない限り 必ず道はある 私はそう信じています」

1988年2月、BBCがウィントンの日誌を紹介し、センセーションを巻き起こします。
そこには彼が1939年に、ユダヤ人の子供669人をプラハから救出したことが記されていました。

事の発端は、1987年の冬・・・
ウィントンの妻がロンドン郊外にある自宅の屋根裏部屋を片付けていた時のこと。
ウィントン夫人は、革張りの古いアルバムを見つけました。
ページをめくるうちに、夫ニコラスのものだと気づきます。
書類や報告書、写真の数々・・・それは、夫が第2次大戦直前、子供たちの救出活動に動いたことを示していました。
ウィントンは、妻にさえその話をしていませんでした。

「戦争を経験した人は、当時のことを語ったりしないものです
 他の人に比べて、私が特に謙虚だったわけではありません」byウィントン

ニコラス・ウィントンの両親は、イギリスに移住したドイツ系ユダヤ人で、元々の苗字はベルトハイムでした。
夫妻は子供たちに、イギリス式の教育を受けさせました。
ウィントンは幼いころに、英国国教会で洗礼を受けます。
運動も得意で、フェンシングでオリンピックのイギリス代表を目指していました。
ナチズムが台頭する中、一家は苗字をイギリス風に変えることを決めます。
そして、たまたま電話帳で見つけて気に入ったウィントンを名乗るようになりました。
ロンドンの金融街で働き始めたウィントンは、証券ディーラーとして成功をおさめます。
ドイツ語が堪能で、仕事でヨーロッパ中を飛び回っていた彼は、ヒトラーの台頭がヨーロッパに戦争をもたらしかねないと、危惧していました。

「私はイギリス国内やヨーロッパの政治情勢をよく理解していました
 イギリスの政策が正しいとは思えませんでした」byウィントン
 

「英国のシンドラー 669人の子どもを救った男」



1938年9月、ドイツ・イタリア・イギリス・フランスの首脳によるミュンヘン会談で、チェコスロバキアのズデーデン地方がドイツに割譲されることが決まります。
イギリスとフランスが宥和政策をとったため、ヒトラーは戦わずして勝利を得ます。
大ドイツ帝国の建設を目指していたヒトラーが、ドイツ系住民が多いズデーデン地方の併合に成功したのです。
首都プラハのユダヤ人は不安を募らせます。

1938年11月、ドイツ全土で水晶の夜と言われるユダヤ人への襲撃が起きます。
シナゴーグに火が放たれ、商店は略奪され、多くの人が命を奪われました。
クリスマスが近づくロンドンでは、誰もが平和を願っていました。
ヒトラーは、ミュンヘン会談で平和を約束していました。
当時29歳だったウィントンは、クリスマス休暇をスイスで過ごすことにしていました。
しかし、荷造りの最中にかかっていた1本の電話が、スキー旅行の計画はおろか、彼の人生までも帰ることとなります。

1938年のクリスマス直前・・・
親友のマーティン・ブレイクとスキー旅行に行く準備をしていました。
その時、マーティンから電話がありました。

「スキーには行かない・・・今、僕はプラハにいるんだ
 君にも来てほしい」

と言われました。

親友の電話で、緊急事態に違いないと思ったウィントンは、すぐにロンドンのリバプールストリート駅からチェコスロバキアへと向かいました。
その時点でわかっていたのは、マーティンが難民支援活動をしていて助けを必要としているということだけでした。
それでも、ウィントンは、親友が待っているプラハのホテルへと向かいました。
到着すると、マーティンは真っ先にドーリーン・ウォーリナーという女性に引き合わせました。
イギリス難民委員会という組織のプラハ支部の責任者でした。
彼女の薦めで数日後、ウィントンはユダヤ人の難民キャンプを訪れました。

「あの冬、難民キャンプで何が起きていたのか、私はこの目で見ました」byウィントン

ナチスによる迫害を恐れ、ドイツやオーストリアから逃れてきたユダヤ人・・・
そして、ズデーデン地方から追放されたユダヤ人が、プラハ郊外の難民キャンプに押し込められていました。
空腹を抱え、寒さに震える子供たちの姿に衝撃を受けたウィントンは、直ちに行動を起こします。
一刻の猶予もないと思ったウィントンは、文章を偽造し始めました。
難民委員会のレターヘッドがついた便せんに、手作りのスタンプを押して、児童保護課という架空の部署を作り出したのです。
そして、イギリス内務省あてに数通の電報を送って、当局から活動へのお墨付きを得ました。
時間との戦いでした。
ドイツ軍は、まだプラハに入っていませんでしたが、秘密国家警察ゲシュタポがユダヤ人を捕らえ始めていました。

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ウィントンの部屋は、難民委員会の本部と化し、朝6時にはもうホテルの廊下に人があふれていました。
ユダヤ人の子供を救ってくれるというイギリス人に会おうと、親たちがホテルに詰めかけたのです。
ウィントンは、朝早くから日が暮れるまで親たちと面会しました。
金融業界で培った手際の良さで、危険な状況にある子供たちの記録を次々とまとめていきます。
その数は、2週間で400人ののぼりました。
作業量は膨大で時間が足りませんでしたが、ウィントンのクリスマス休暇は終わりに近づいていました。
そこで彼は上司に休暇の延長を申し出ます。
しかし、返信は・・・”会社のために働いてもらいたい”でした。
止む無く帰国することになったウィントンは、なんとか資金を工面し、プラハに事務所を設置しました。
ウィントンは、1939年1月21日に仕事に復帰します。
しかし、頭の中はユダヤ人の子供をプラハからイギリスに連れてくるため、イギリス政府の許可を取ることでいっぱいでした。
証券取引所が午後3時半に閉まると、家に帰るとすぐに本当の仕事に取り掛かりました。
ウィントンは、ロンドンの実家に事務所を開設し、母親と二人のボランティアに手伝ってもらって活動を続けました。
2月初め、ようやく内務省から子供たちの受け入れに許可が出ます。
しかし、それには条件がありました。
すべての子供に里親を見つけること、そして、ひとり50ポンドの保証金を支払うことでした。
受け入れ家庭を見つけるため、ウィントンは1ページに6人の子供の写真を載せたカタログを用意し、新聞や慈善団体に送りました。
彼のもとには、大量の郵便物が届くようになり、地元の郵便局が不審に思い始めます。

「どうしてチェコスロバキアから大量の手紙が届くのか??」

工作員ではないのか??と。

ウィントンにとって手段は重要ではなく、結果が全てでした。
この方法は功を奏し、イギリス中の人が彼の呼びかけに応じました。
里親が決まった子供には印がつけられます。
選ばれなかった子供たちは、消えゆく運命にありました。
チェコスロバキアでは、1万5000人ものユダヤ人の子供が収容所に送られ命を失いました。

ユダヤ人の中には、ウィントンの活動に異議を唱える人もいました。
ユダヤ上司同社のグループが訪ねてきて、

「ユダヤ人の子供をイギリスに連れてきて、キリスト教徒の家庭で養育させようとしているそうだがやめるべきだ」と。

「第一に、あなた方には関係ないことです
 第二に、あなた方はユダヤ人の子がキリスト教徒の家庭で生き延びるよりも死んだ方がいいとおっしゃるのか!!」

ヒトラーにとって、答えは単純明快でした。
よいユダヤ人とは死んだユダヤ人でした。

ミュンヘン協定の代わりに約束された平和は、わずか半年で崩れ去りました。
1939年3月15日、ドイツ軍は、何の抵抗も受けることなくプラハを占領します。
ヒトラーは、プラハ城でドイツ軍部隊を前に、チェコスロバキアのボヘミア地方とモラビア地方を保護領にしたと宣言しました。
チェコスロバキアは解体され、この国のユダヤ人30万人の自由が奪われました。
難民委員会は、里親が見つかった子供たちの渡航書類の準備に追われていました。
ウィントンは、ゲシュタポに金を支払い、プラハを発つ汽車を手配しました。

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イギリス当局は、戦争が迫っているとは考えていなかったため、ビザの発給を急ごうとはしませんでした。
不可能でない限り道は必ずあると考えるウィントンは、密かに印刷機を購入しビザの偽造をはじめます。
手遅れになる前に、子供たちを救いださなければなりません。
1939年7月31日の日の夜、悲しげな一団がカレル橋を渡ってプラハの駅へと向かっていました。
この日は、ウィントンが手配した8本目の記者が出発する日でした。
プラハ中央駅では、68人の子供が親と別れ旅立とうとしていました。
その後ろにはドイツ兵が立っていました。

ドイツにとっては悪くない話でした。
ウィントンが、ユダヤ人の子供を厄介払いしてくれる上、汽車1本につき1000ポンドを払ってくれるのです。
一人につき3枚の荷札が配られました。
2枚は荷物用、1枚は子供につけるためです。
荷物は衣類のみ、貴重品の持ち出しは禁じられました。

子供たちの多くは、しばらく旅行に出かけるだけだと思っていました。
ナチスから守るために、見ず知らずの人に託すのだと言えない親もいました。
ドイツが出国を許したのは、生後数カ月から17歳までの子供でした。
汽車はドイツを横断しなければなりませんでした。
しかし、旅の終わりには自由が待っていました。
自由になったと実感したのは、汽車がドイツからオランダに入った瞬間でした。
それまで固く閉じられていた窓も開けられました。
子供たちに笑顔が戻りました。
オランダの民族遺書いうに身を包んだ女性たちが、ココアやサンドイッチで出迎えてくれました。
そのあと、大きな船に乗せられて、イギリス海峡を渡ったのです。
朝、イギリス南東部はリッジの港に到着。
祖国を追われた子供たちにとって、新たな人生の始まりでした。

子供たちは船を降りると汽車に乗ってロンドンに向かいました。
リバプールストリート駅には、イギリス各地から里親たちが迎えに来ていました。
ウィントンは、子供たちを乗せた汽車がロンドンにつくたび、自ら駅で出迎えました。
里親が子供たちに会うのは初めてでした。
目当ての相手を探し当てるまでには混乱がありました。
子供たちは、新しい親につれられ、イギリス各地に旅立っていきました。
駅には、引き取り手が見つからなかった年長の子供たちが残されました。
ウィントンは、里親を見つけるという条件を無視して、彼等を連れてきていました。
見捨てることができなかったのです。
後にウェールズに送られた子供もいました。
チェコスロバキアの亡命政府が、引き取り手のいない子どものための施設を用意したのです。
1939年3月以降、8本の汽車がプラハを出発、669人の子供たちが、イギリスで安全な居場所を手に入れました。
しかし、救出を待つ子供は、まだ5000人残っていました。

ウィントンたちは、これまでで最大規模の計画の準備を進めていました。
250人の子供が親元を離れてプラハを出発し、里親が待つイギリスに渡ることになっていたのです。
しかし、この9本目の汽車が出発することはありませんでした。
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻。
ヨーロッパは戦争に突入しました。
国境は閉鎖され、子供たちは行き場を失います。

「それまでで最大の250人の子供が、9月1日に出発する予定でした
 しかし、それはかないませんでした
 悔やんでも悔やみきれません
 250人の子供をイギリスに送るために、膨大な労力と費用をかけて準備しました
 でも、たった1日の差で、250人を安全な場所に移すことができなかったのです
 ひとりかふたり、生き延びたという話を耳にしましたが、ほとんどの子が命を失いました」byウィントン

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1939年9月3日、イギリスが参戦すると、ウィントンは、赤十字の難民支援活動に参加します。
しかし、ナチスの残虐行為に衝撃を受け、イギリス空軍に参加。
プラハから助け出された年長の子供の中にも、イギリスとチェコスロバキアのために戦うことを望み、軍に志願する者もいました。
15歳でイギリスにやってきた少年は、18歳になるとイギリス空軍のチェコスロバキア部隊への入隊を認められます。
機関銃の射手として爆撃機に乗って戦った少年をはじめ、プラハから逃れてきた子供の多くが連合軍の勝利に貢献しました。

1945年5月、ドイツの無条件降伏を受け、バッキンガム宮殿では後に女王となるエリザベス王女が、群衆と共に勝利を祝いました。
この日はまた、犠牲者を悼む日となります。

兄弟のもとにその手紙が届いたのは、書かれてから4年後のことでした。
両親は手紙を書いた数日後にプラハの北にあるテレジンのユダヤ人強制収容所に送られていました。

”愛する息子たちへ
 あなたたちがこの手紙を読むときには戦争は終わっているでしょう
 私たちにとって何より大切なあなたたちにお別れを言いたくてペンを執りました
 母さんたちは未知の世界に向かいます
 二人が同じ運命をたどらずに済んだことに心から感謝しています
 あなたたちを里子に出すと決めた時から、父さんと母さんの心は常に二人と共にあります
 あなた達に良くしてくださった人々に感謝します”

テレジン収容所に送られ、飢えやナチスの残虐行為で命を落としたユダヤ人は3万3000人。
また、9万人がここから汽車でアウシュビッツに送られました。
我が子の命を救った親たちは、今、テレジンの墓地で眠っています。

戦後、ウィントンは、証券取引の仕事には戻らず、国際難民帰還でナチスに奪われたユダヤ人の財産を取り戻す仕事に尽力します。
パリで出会ったデンマーク人のグレタと結婚。
ロンドン近郊に居を構え、3人の子供に恵まれました。
1971年には仕事を引退します。
そしてある日、彼の話が有名なジャーナリスト、エスター・ランツェンの耳に入ったのです。

屋根裏部屋をかたずけていたウィントン夫婦・・・
夫人がブリーフケースを見つけました。
開けてみると・・・中にはスクラップブックが入っていました。
夫人が聞くと・・・ウィントンは、戦前の出来事の記録だと答えました。
スクラップブックに収められた書類や写真を見た夫人は、

「命を救われた子供たちにとっては、とても価値のある貴重な資料よ!!」

と言いました。
ウィントン夫人は、スクラップブックを歴史家の友人に見せます。
彼女の夫は、新聞王ロバート・マックスウェルで、彼自身ホロコーストを生き抜いたチェコスロバキアのユダヤ人でした。
ニコラス・ウィントンの話は新聞に掲載され、テレビ番組も企画されました。

1988年2月、ウィントンは、BBCの番組(司会エスター・ランツェン)に招かれます。
しかし、番組の内容についてはほとんど知らされていませんでした。

「父は二人の女性の間に座っていました
 父は彼女たちが誰であるのかを知りませんでした
 しかし、2人は父のことを知っていました
 司会者は、父のスクラップブックの資料を説明し始めました」byバーバラ・ウィントン
 
「客席のヴェラ・ギッシングさん、あなたの隣にいるのがニコラス・ウィントンさんです」byエスター・ランツェン

全く予期せぬ出来事でした。
ウィントンは、50年前に救った子供と初めて再会したのです。

「当時9歳のミレナ・フライシュマンさんは、父親がナチスの標的となり妹と脱出
 リストに彼女の名前があります
 今はグレンフェル・ベイン夫人です
 イギリスに来た日の名札を今もお持ちだとか??」byエスター・ランツェン

「これを首から下げていました
 入国の許可証もあります
 私もあなたに救われた子です」

反響が大きかったため、司会者のエスター・ランツェンは、他の子供たちも探すことを決めます。

「もし、ウィントン氏に救われた方がいたら、是非手紙か電話でご連絡ください」byエスター・ランツェン

電話も手紙もたくさん来たので、再度番組にウィントンを招きます。

「ウィントン氏に感謝を伝える機会を提供したいと呼びかけました
 彼に命を救われたという方が、この場にいたらご起立ください」byエスター・ランツェン

その場所にいたすべての人が立ちました。
この再会で、ニコラス・ウィントンの子供は一気に数百人に増えました。
かつての子供たちは、遂に命を救ってくれた父親と会えたのです。

「子供たちとの再会には、本当に素晴らしい出来事でした
 彼等だけでなく、その子供や孫たちとも親しくさせてもらっています
 まるで第二の人生をプレゼントされたようです」byウィントン

2009年、ウィントンに救われた子供たちは命の恩人の100歳の誕生日を祝って列車をチャーターしました。
プラハからロンドンまで・・・かつて命と自由を求めて通った道のりを再びたどります。

”今の私があるのはひとえに彼のおかげです”

この日、リバプールストリート駅には、最後の汽車とともに消えた250人の魂も来ていたかもしれません。
彼等もまた、ウィントンの子供たちとして、恩人に敬意と感謝を表していたことでしょう。

「私たちは、ニコラス・ウィントンを父親のように思っています
 娘は子供をニコラスと名づけました
 私には、ニコラスという孫と、ウィントンという名のひ孫がいます」

669人の子供たち・・・その孫やひ孫の数は6000人余りに上ります。
ナイトの称号を与えられたニコラス・ウィントンは、106歳で点に召されました。

「不可能でない限り、必ず道はある
 私はそう信じています」byニコラス・ウィントン


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「アメリカの移民として最近起きた事件について、市民の皆さんと世界中の友人に伝えたいことがあります」byアーノルド・シュワルツェネッガー

2021年1月、アーノルド・シュワルツェネッガーさんがアメリカで起きた連邦議事堂襲撃事件についてメッセージを発表し、世界から注目を集めました。

「私はオーストリアで育ちました
 ”水晶の夜”という事件を良く知っています
 1938年、ナチの過激グループによって多くのユダヤ人の街が襲撃された事件です
 水曜日は、ここアメリカにおける”水晶の夜”でした
 この国や世界中で、同じようなことが起こり得る恐怖があるのです」byアーノルド・シュワルツェネッガー

ヒトラーの大衆扇動術

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21世紀、民主主義の国アメリカが、どうして80年前の独裁政治のナチ・ドイツに重なるのか・・・??
あのような世の中は、いつ、どこでも現れ得るのだろうか・・・??

1930年代、ドイツ国民を独裁政治のもとに置いたアドルフ・ヒトラー・・・彼らはなぜ、笑顔で従ったのか??
今もヒトラーを慕う人々・・・その心の内とは・・・??
集団はなぜ簡単に従うのか??
ナチ社会がいきついたのは、弱者の安楽死でした。
庶民の笑顔が生み出した惨劇とは・・・??

総統アドルフ・ヒトラーのカリスマ的独裁・・・
メディアを活用した国民を欺くプロパガンダ。
批判するものは徹底的に取り締まる恐怖政治。
これまで、ヒトラー時代のドイツ国民は、狂気の集団・ナチ党に騙され、統制され、強引に熱狂に巻き込まれたと思われていました。
しかし、1990年代以降、新たな研究が進みました。

「まさに過ちのない神でした
 それが、我らの総統でした」

「1932年頃、ヒトラーをバカにしている子供たちに出会ったとき、私は”あれは許せない!”と怒って、その子たちとつかみ合いのケンカになりました
 私たち家族は、心の底からナチでした
 いつもヒトラーの写真を持ち歩いていたのです」

当時、ヒトラーを心から支持し、何十年たってもあの頃は良かったと語る人々・・・
一体、ヒトラーとナチのどこに惹かれたのでしょうか?

1920年代、ドイツ・・・ヒトラー登場以前のドイツは、新たな民主主義の時代・・・女性も選挙権を持ち、外に出て働く新しい女性がもてはやされました。
都市部での工業化が進み、産業が発展、当時の政治・・・ワイマール共和制では、議会主導のもと人権を尊重する自由な社会を目指していました。
ところが・・・この頃、ドイツの経済は二重の困難に見舞われていました。

1914年~1918年の第一次世界大戦に敗北し、領土の13%を失い、莫大な賠償金1320億金マルクを戦勝国に支払わされていました。
さらに、1929年の世界恐慌で、国民の暮らしはどん底に・・・失業者は550万人以上!!
そこに現れたのが、アドルフ・ヒトラー・・・過激な言動や演説で話題を集め、弱小政党だったナチ党・・・国民社会主義ドイツ労働者党を急速に成長させつつあるリーダーでした。

ヒトラーは、戦勝国に奪われたドイツ領土の奪還を国民に宣言!!
敗戦によってドイツがうけた恨みと屈辱を打ち破ろうと、いう呼びかけは、生活苦に苦しむ人々の心に火をつけました。

「ヒトラーこそ、敗戦からドイツを立ち直らせ、成功に導く救世主だ」

ヒトラーの呼びかけは、ドイツ人男性の心をくすぐるものでした。
当時のドイツ男性の多くは、戦争で戦って世界大戦で失ったものを取り戻したいと考えていました。
15世紀ドイツに”ランツクネヒト”という傭兵たちがいます。
彼等のように、最前線で泥にまみれて勇猛果敢に戦い抜くことに、魅力を感じていたのです。

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1940年、ナチ党女性向け機関誌の表紙は・・・工業労働者、農民と並ぶ兵士がいます。
男たちの団結によって、母親と赤ん坊が守られています。
当時、都市部の工業優先に不満を感じていた農民に、ヒトラーは目をつけます。
盛んに農村を訪れ、農村にも役割があり、国家は君を必要としていると、呼びかけました。
さらに、保守的な主婦層の声を拾い、社会進出する女性よりも、家庭で子供を産み育てる女性こそ大切だと語り掛けたのです。
新しい女性を興奮して受け入れた女性たちは案外少なく大多数は新しい現象を見て不安に陥っていたのです。
大多数の女性たちがよって立つところは、女性のいる場所は家庭であって、妻であり母である・・・この役割を認知してもらわなければならない・・・というのが、ナチ党を受け入れる太い下地になっていたのです。

民族共同体・・・男女の性の違い、労働の種類に関係なく、ドイツ民族の誰もが国家のために役立つ存在であり、皆で一致団結した公平な社会を目指そう!!と訴えたのです。
自分たちは、国家の必要とされている・・・!!
承認欲求をくすぐられ、喜びを感じた人々は、次々にナチ党を支持・・・
1928年にはわずか12/491席だったナチ党の国会での議席数は、1930年には107/577議席、1932年には230/608議席にまで急増・・・
1934年、ヒトラーは大統領と首相を兼ねた国家元首・総統を名乗り、前権力を握ったのです。

「必要不可欠なのは、ひとりの指導者の医師、ひとりが命じ、他の人々はそれを実行すればよい
 統治とは、上から始まり下で終わるものだ」byヒトラー

ナチ党のスローガン”そうとは命じ我々は従う”

統一された制服を身に着け、一糸乱れぬ更新をする八の隊員たち・・・
こうした集団行動も、人々が自らナチスに従う感情を掻き立てたといいます。


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「総統は命じ、我々は従う
 我々は彼に敬意を払い、愛したのです
 我らの総統として
 単純なことです」

近年の研究で合意独裁・・・ヒトラーが命じ、従うことに誇りと喜びを感じる国民の共同作業によって、独裁政治が実現したのです。

ヒトラーに、本当にカリスマ性があったのでしょうか??
カリスマとは、民衆が特定の人物に願いを投影したその結果です。
それによって、本当にカリスマに見えてしまうのです。

”勝利万歳!!”

”総統万歳!!”

1933年、政権を取ったヒトラーは、国民の更なる一致団結を目指し心をくすぐる政策を打ち出していきます。


ヒトラーの国民サービス ①歓喜力行団
旅行代理店のような政府機関で、旅行やスポーツ、コンサートなどの贅沢なレジャーを国民に格安で提供する組織です。
労働者の月給が1か月7万円ほどの時代に、絶景が大人気シュヴァルツヴァルトの旅1泊3食付きで1400円!!
後に世界遺産にもなる温泉地・エルツ山地への温泉旅行・8泊9日で1万2000円!!
安い!!かつて、お金持ちの特権だったレジャーを、労働者たちに開放。

”よく働いたらよく休む、国家のために力を蓄えてくれ”

という触れ込みでした。

ヒトラーの国民サービス ②国民車構想

一家に一台自動車を・・・!!エリート層限定だった自動車を、労働者層でも買えるようフォルクスワーゲン社が開発!!
数年後の納車を楽しみに、人々は積立金を支払いました。

ヒトラーの国民サービス ③アウトバーン

全国7000キロもの高速道路網アウトバーン計画・・・大型機械の使用を控え、出来るだけ手作業にすることで、年間60万人もの雇用を約束。
一時期550万人を越えていた失業者数は、ナチス時代に見る見るうちに下がり、1939年には12万人に!!

ところが、こうした魅力的な政策には、からくりがありました。
アウトバーンは、ヒトラー以前からアイデアがあり、計画が進んでいました。
ヒトラーの功績ではないのです。
国民車も、人々から積立金を集めるだけで、実際には納品されませんでした。
戦争に向けて、軍用車の製造で手いっぱいだったのです。
また、失業対策も、年間60万人の雇用を約束したアウトバーン建設では、実際の雇用者は10万人どまり。
それでも失業者が大きく減っ多様に見えるのは、若者を年間40万人も勤労ボランティアにつかせ、専業主婦にさせることで失業者のカウントから外したというのが実態でした。
さらに、1935年からは、戦争に向けての徴兵や軍需産業への動員で、失業者を減らしています。
ところがこれをヒトラーは、経済政策の政策だと宣伝・・・人々はこれを喜び、国家のために働く団結心を強めたのです。

しかし・・・表向きの一致団結には、裏側で生贄が必要でした。
それは、共同体の敵を作ること・・・!!

その標的が、ユダヤ人でした。
ユダヤ人は、古くからヨーロッパ各地で迫害を受け続けてきました。
苦境にあえぐドイツの中で、商業の成功で豊かな暮らしをするユダヤ人に妬みと憎しみが集まっていました。
ヒトラーたちは、ユダヤ人をドイツ人を食い物にし、ドイツが堕落した原因と決めつけ弾圧を開始。

1933年4月1日、ナチ党は国民にユダヤ人商店へのボイコットを呼びかけました。
ナチ党の武装組織・突撃隊が、ユダヤ人を象徴する六芒星や罵倒する言葉を落書き・・・買い物しようとする人を威圧しました。
この騒ぎに、ユダヤ人商店の前は、やじ馬で溢れかえりました。
当時の映像には、ボイコットという名の迫害現場を笑顔で見物する人々が記録されています。
映像に映っている人々の大半は、ナチの突撃隊ではなく、ただの見物人でした。
しかし、映像を見た人は、こう受け取ってしまいました。

「あの店ではもう買うべきではない」
「店のユダヤ人と自分たちは別である」

国民の中でバリアができてしまいました。
こうした直接暴力を振るうものと、見物するものとの関係が、予想だにしない恐ろしい効果を生みます。

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その後、ナチ党は、新たな法律によってユダヤ人への迫害を強めていきます。
弁護士や医師などの職業、商業の権利などをユダヤ人から奪い、ドイツ人のものとしました。

こうしたユダヤ人から合法で略奪した金品は、国の財源に充てる一方、格安で競売にかけることで、共同体を構成する国民に分配されたのです。
収容所送りとなったユダヤ人一家の家財道具を大勢のドイツ人が競り落としました。
彼等は、元の持ち主であるユダヤ人家族が、二度と戻ってこないとわかっているからこそ、安心して買えたのです。

共同体が団結すれば、皆が一緒に豊かになれる・・・
この幻想に喜ぶに人々は、その裏にある迫害を見て見ぬふりをすることで、さらにヒトラーの独裁を支えていきました。

街中で燃え上がる炎・・・まるでキャンプファイヤーを楽しむかのように笑うドイツの若者たち・・・
彼等が燃やしているのは書物の山・・・焚書です。
1933年5月10日、国内34の大学都市で学生団体が呼びかけます。
伝統的なドイツの価値観を守るためと称して、ユダヤ人の書物などを焼き払いました。

そして5年後・・・民衆の暴走が一銭を超える事件が起きます。
11月・・・ポグロム(虐殺)・・・水晶の夜
ドイツ全土のユダヤ人街を、ナチ突撃隊が襲撃、放火した事件です。
発端は、1938年11月7日、フランス・パリで、ドイツ大使館職員がユダヤ人青年に銃撃され死亡する事件が発生しました。
すると、ドイツの複数の地域で、ユダヤ教礼拝堂・シナゴーグへの放火など、報復行為が始まりました。
さらに事件の2日後、国民啓蒙宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスが奇妙な演説をしました。

「各地の反ユダヤデモで商店が破壊され、シナゴーグが焼かれている
 しかし、この行動は、あくまで自然発生的なので、抑える必要はない
 それが総統のご意向だ」byゲッベルス

報復を政府は止めない・・・
ところが、これが党幹部を通じて、全国のナチ党支部へ伝わるうちに、恐ろしい事態を引き起こします。

11月9日夜・・・ドイツ全土でナチ突撃隊によるユダヤ人街襲撃が始まりました。
一方、警察は、こうした暴力に対してみて見ぬふり・・・
だれも止める者がいない中、見物していた一般市民も暴走し始めます。
自分は手足となって、代弁者となって、権威者の願いや希望を遂行する・・・
野蛮な行動や暴力的な行為でも、責任を負わない・・・。
正しいことをやっている、いいことをやれる、模範市民として正当化する論理を持っていました。

襲撃は朝まで続きました。
放火されたシナゴーグ1400。
略奪、破壊されたユダヤ人商店7500軒。
負傷者多数、死者100人以上。

その後、事件の原因はユダヤ人側にあるとして、ユダヤ人3万人が逮捕。
頭を丸刈りにされ、収容所で強制労働をするか、財産を放棄して国外退去するか選択が迫られます。
上層部の無責任な扇動がもたらす民衆の無責任馬暴力の解放・・・
止めるもの無き共同体の暴走は、その後、急激に加速していきます。

首都ベルリンの中心地ティアガルテン通り4番地・・・
美術館やベルリンフィルハーモニーと並んで、ガラスの慰霊碑が立っています。
かつてここにあった司令部から障害者を安楽死させよという作戦・・・T4作戦です。
1939年9月1日、ポーランド侵攻・・・
これを機に第2次世界大戦がはじまりました。
この頃作られたナチ党のプロパガンダ映画「過去の犠牲者」・・・精神障害者の施設が映し出されています。

「健康な国民を健全にするための資金が、障害者を扶養するために使われている
 この施設の費用に、これまで7700万円かかった
 この資金があれば、数多くの健康な人が、家を買えたはずだ」

ヒトラーはこの障害者を5000人安楽死させることができれば、年間50億円の介護費が軽減できると計算しました。
莫大な戦争費用の足しにできると考えたのです。
1939年10月、T4作戦発動!!
医師たちは、全国の障害者施設や病院を調査して回り、労働力になりそうもない者を見つけると見つけるとこう呼びました。

「生きるに値しない命」

親に対しては、特別な治療が必要と嘘をつくとバスに乗せて安楽死施設へと連れ去りました。
彼等が連れてこられた施設内には、離れの建物がありました。
障害者たちはまずシャワーを浴びよと中に入ります。
そこは、ガス室でした。
全国6カ所の安楽死施設・・・その一つがあるハダマー・・・。
住民たちは、丘の上にある施設で何が行われているのかうすうす感付いていました。

「施設から煙がのぼっているのが見えて、何だろうと皆で噂しました
 戦場からの帰還兵が言いました
 死体が焼けるにおいと同じだと
 満席のバスが丘の上にのぼるのですが、帰りはいつも空っぽです
 施設はもう人でいっぱいのはずなのに、おかしいと思いました」

障害者の親の一部は、安楽死を歓迎しました。
わが子が障害者であることを恥と思う親もいたのです。
当時、精神的な疾患の場合、親や兄弟も障害者と疑われるからです。
しかし、T4作戦のうわさが広がると、次第に反発の声が上がります。
ドイツカトリック教会のフォン・ガーレン司教は強く非難しました。

「私たちは、他者から生産的であると認められた時だけ生きる権利がるというのでしょうか
 もし、非生産的な市民を殺してよいとするならば、病人、傷病兵、仕事でケガをした人、老いて弱った時の私たちすべてを殺すことが許されるのです」

宗教界からの反発に、国民がなびくことを恐れたヒトラーは、1941年8月、T4作戦の中止を命令します。
しかし・・・

「医療施設自身でどうにかする時が来たのだ」by安楽死施設医師

作戦の中止が伝えられたのちも、医師や看護師が自発的に安楽死を続けたのです。
この暴走に対して、ナチ政府が罰則を設けたり、富めたるすることはありませんでした。

「私は生涯一度も悪いことをしていません
 私は常に勤勉で、患者にも人気があり、上司の評価も良かったのです
 治療不可能な精神病患者が、国や国民、家族の負担になっているため、惠の死を与える法律が作られたせいなのです
 私は当時、そう信じていました」by安楽死施設の看護師

やがて安楽死の対象は、高齢の病人、空襲で傷を負った市民、さらには第1次世界大戦で負傷した退役軍人まで、戦争の役に立たないと殺害・・・その数は、20万人に拡大しました。

このT4作戦で使われた技術や使われた医師や看護師は、後にホロコースト・・・ユダヤ人大量虐殺の担い手となりました。

1945年4月30日、独裁者アドルフ・ヒトラー自殺・・・。
彼がドイツ国民に見させた夢・・・民族共同体は崩壊します。
ドイツは再び敗北・・・国民が喜んで従い、一致団結した独裁の結果、国民自身も含め数千万もの命が失われました。



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我が目的・・・優れし者の理想郷・・・
600万人のユダヤ人を殺害し、20万人以上の障害者を殺害・・・
ナチス・ドイツ・・・その陰には、ナチスの政策に協力した数多くの科学者がいました。
残虐行為の重要人物でありながら、未だほとんど知られていない科学者がいます。
人類遺伝学者オトマール・フォン・フェアシュアー。
優秀な人間だけのユートピアを目指す化学・・・優生学を絶対視した男でした。

「病人と障害者は不妊手術すべきである」

フェアシュアーが作成した極秘文書が見つかりました。
そこに記された断種の文字・・・
障害者への強制的な不妊手術、断種がナチスの大虐殺の始まりでした。
フェアシュアーは、ナチスが目指したユダヤ人根絶に貢献しました。
しかし、フェアシュアーは、その罪に問われることなく、戦後は科学界のTOPとして君臨し続けました。
謎に包まれた科学者・・・命に優劣をつけた男は、いかにしてナチスを支えたのか??

古代ギリシャ世界で最強とされたスパルタの戦士たち・・・
スパルタでは、新生児が長老によって選別され、完全に健康で強い子供だけが、生きることを許されたといいます。
選ばれし優れた者だけのユートピア・・・
それは天国・・・それとも地獄なのか・・・??

2015年1月27日、ナチス・ドイツによる大量虐殺の象徴アウシュビッツ・・・
開放から70年を迎え、収容所跡では、追悼式典で祈りに包まれました。
ナチス・ドイツは、ユダヤ人だけでなく、障害者も殺害しました。犠牲者は600万人以上にのぼります。
こうした虐殺は、ドイツ最高の頭脳を誇る多くの医師や科学者の関与によって実現したものでした。

ヒトラーの主治医カール・ブラント・・・障害者を安楽死させる計画を立案、遂行・・・
精神医学者カール・シュナイダー・・・人体実験で、精神疾患の患者を殺害、解剖を繰り返しました。
アウシュビッツの医師ヨーゼフ・メンゲレ・・・収容された人々の標本を作り、死の天使と恐れられました。
さらに、近年の調査によって、これまで知られていなかった大物科学者の存在が浮かび上がってきました。

人類遺伝学者オトマール・フォン・フェアシュアーです。
戦後、大学教授として要職を歴任し、ドイツの学会トップとして君臨し続けた人物です。
2001年、かつてフェアシュアーが所長を務めた研究機関は、フェアシュアーが犯罪行為に手を染めていたことを認めました。
多くの学生や研究者から慕われていた穏やかな教授・・・
その男が、ナチスによる大量虐殺を科学者として後押ししていたというのです。

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ベルリン市内から4時間・・・ドイツ中央部に位置するゾルツ・・・
1896年、フェアシュアーはこの村を代々領地としてきた貴族の家に生まれました。
幼いころから自然科学に強い関心を抱いていたフェアシュアーは、
1919年、マールブルク大学で医学を学びます。(23歳)
そこで出会い、夢中になったのが、当時最先端の科学・優生学でした。

優生学・・・それは、19世紀から20世紀にかけて生物学の目覚ましい発展と共に誕生した新しい学問でした。
その基礎となったのは、ダーウィンの「種の起源」でした。
進化論・・・生物は、生存競争と自然淘汰によって進化を遂げてきたというものです。
さらにメンデルが、遺伝の法則を発見・・・この遺伝学が進化論と結びついて、優生学を推し進めます。
遺伝的に優れた者を残し、劣るものを取り除いて人為的に淘汰を行う・・・
そうすることで、人類の進歩を促し、よりよい社会・ユートピアの建設を目指す・・・それが、優生学です。

優生学は、当時世界中でブームでした。
優生学のテーマは、民族全体の健康を守ることでした。
病気や障害が高い確率で遺伝するのであれば、いかにして予防できるか・・・
つまり、”遺伝によって病気や障害が広まる事”をどうやって防ぐか・・・??
それが重要だったのです。

目の前の患者だけでなく、民族全体を救うことが出来る・・・
フェアシュアーは、優生学に取りつかれます。
卒業したフェアシュアーは、1923年、大学の附属病院に勤務・・・遺伝生物学の研究を開始します。
そこで、優生学の研究対象として目をつけたのが、双子でした。
一卵性双生児は、同一の遺伝子を持ち、二卵性双生児は半分ほどの遺伝子を共有している・・・
一卵性と二卵性の双生児を統計的に比較することで、人間的に外見や体質に遺伝がどの程度関与しているのかがわかると考えました。

例えば、ある病気に二人ともかかる割合が一卵性双生児の方が高い場合、その病気のかかりやすさに遺伝が関わっていると考えられます。
フェアシュアーが調査したのは、当時死の病と恐れられていた結核でした。
結核は、感染しても発症する人としない人がいる・・・ここに遺伝的な影響があるのではないか??
一卵性と二卵性・・・併せて127組の双生児を調査します。
双生児が二人とも結核を発症する確率は、一卵性が二卵性に比べて45%高いという結果になりました。
フェアシュアーは、「結核の発症には、遺伝的な性質が相当な重要性を持つ」と結論付けました。
このフェアシュアーの結論は、間違ってはいなかったと最新の研究で解明されつつあります。
遺伝学者たちは、彼の研究を高く評価しました。
フェアシュアーは、遺伝に関する研究者として国際的に認められ、地位を確立しました。
フェアシュアーは、この研究の成果を優生学の分野で応用するべきだと主張しました。

「結核から民族を救うために、優生学を取り入れ、患者は不妊手術を行うべきである」byフェアシュアー

男性は輸精管、女性は輸卵管を切除するのが不妊手術です。
優生学では、これを断種と呼びました。
優生学の観点からすると、望まれない遺伝子を持った人間の生殖によって、特定の病気や障害が子孫へ受け継がれることを防がなければならなかったのです。

1931年・・・フェアシュアーは、障害者に対しても断種を行うべきだと主張・・・

「生涯がある子供を身籠る可能性があるならば、キリスト教的慈愛精神によって不妊手術、つまり断種を行うべきである」byフェアシュアー

キリスト教では許されないはずの不妊手術を正当化しました。
フェアシュアーは、断種を行わない方が、残酷なことだと考えました。
重い病気や、障害のある人々が増え続けると、ドイツ民族の負担は大きくなる・・・
多くのドイツ民族を救うために、小さな犠牲は仕方のないことだと考えたのです。

この頃、第1次世界大戦の敗北の痛手からようやく立ち直りかけたドイツを、世界恐慌が襲いました。
失業者は600万人にも及び、国民の生活は困窮を極めました。
ドイツの財政は、危機的状況に陥りました。

最大の人口を抱えるプロイセン州政府は、歳出削減の策を検討するため、フェアシュアーら科学者を招集しました。

「フェアシュアー教授は、非常に慎重であり、その計算によるとドイツにおける障碍者の数は20万人以上にも上ります
 障害者のためにさかれる支出を健常な人々のために役立てるべきではないか・・・」

プロイセン州政府は、フェアシュアーのデータをもとに、障害者の不妊手術を・・・断種法案を策定します。
そこにはこう書かれています。

”本人の同意があれば不妊手術を認める”

しかし、当時、国の法律では不妊手術は禁じられていました。
そのため、州独自の断種法は実現には至りませんでした。

1933年、事態は一変・・・フェアシュアーの救世主となる男が現れました。
アドルフ・ヒトラーです。
この年、ヒトラー率いるナチスが政権を掌握しました。
優生学に共感したヒトラーは、
「肉体的にも精神的にも不健康で無価値な人間は、子孫の体にその苦悩を引き継がせてはならない」と主張。
”遺伝病の子孫を予防する法律”・・・断種法を成立させました。
対象となったのは、当時は遺伝すると思われていた様々な病気、そして障害です。
さらに、この断種法は、フェアシュアーらの法律案から一歩大きく踏み込んでいました。
本人の同意なし・・・”強制的な不妊手術が可能”だったのです。

1933年は、優生学者にとって開放の都市でした。
彼等は新しい法律に満足でした。
そこに、”強制”という文字があったからです。
フェアシュアーはこの政策をさらに医学界に広げるため、自ら主宰して雑誌を発行します。
その中でヒトラーを、「優生学を国家の主要原則とした初の政治家」として称賛しています。
一方、ナチスもフェアシュアーを評価します。

”我が党に対して、完全な忠誠心を持っており、政治的宣伝の前でも意義がある”

フェアシュアーにとってナチスは、優生学に基づいたユートピアを実現してくれる存在でした。
ナチスもまた、政治でやりたいことを実現する為に、医学者や遺伝学者の知識を必要としていたのです。
ナチスと結びついたフェアシュアーは、凄まじい出世街道を歩むこととなります。
フェアシュアーは、フランクフルト大学に新設された遺伝病理学研究所の所長に就任・・・
まず最初に取り組んだのは、フランクフルト市民の遺伝情報の収集でした。
病院、養護学校、福祉施設から家族の病気や履歴、生涯の有無と言った情報を入手し、遺伝カードを作成。
3年間でフランクフルト市民のおよそ半分に当たる25万人の遺伝情報を収集しました。
断種すべき人々をあぶり出すためでした。
さらに、フェアシュアーは、自ら調査の現場に乗り出していきます。
彼が所長を務める研究所に保健所の資格を取得させたのです。
この資格があれば、住民を直接診断することが出来る・・・!!
これまで審査と診断結果をもとに、遺伝的に健康と判断したカップルには結婚を許可し、適正証明書を発行します。
しかし、遺伝的に問題があると判断した場合、断種をある場所に申請する権限がありました。
その名も優生裁判所です。
断種法遂行のためにナチスによって設立された裁判所です。
法廷では10分もかからず審査され、次々と判決が下されていきました。
その裁判の記録が残されています。
1000以上ある記録の中から、フェアシュアーが直接かかわったケースが見つかりました。
15歳の少年・・・養護学校を出たばかりで、フェアシュアーは彼を思考速度が遅いと診断しました。
少年は明確に能力が欠けていると書かれています。
彼には精神遅滞が確認されたのです。
先天性の知的障害でした。
診断の結果、断種が申請されたのです。

結婚の申請に来た女性は・・・
ドイツの首都は何処か?
フランスの首都は??という質問に答えられず、さらに、字を読むこともできないと付け加えています。
彼女は妊娠6か月で、お腹の子の父親と結婚するつもりでした。
フェアシュアーは、彼女を知的障害と診断し、早急に中絶し断種すべきだと記しています。

病気や障害のない社会を作ることが出来るならば、断種は素晴らしいことだと彼は思っていました。
つまり、自分達が行ったことは、人道的だと信じていたのです。
1945年までにおよそ40万人が強制的に断種されました。
犠牲者は、当時のドイツ国民の200人に一人にのぼりました。

病人や障害者を徹底的に排除してきたナチスは、次の段階へと進んでいきます。
ユダヤ人の根絶です。
ヒトラーは、ユダヤ人があらゆる欠陥を持った劣等人種であると主張しました。

「ユダヤ人は何処にでも住み着く 
 どこでも金儲けを始めるユダヤ人こそ、国際的な不穏分子だ」byヒトラー

これに科学者の立場から、フェアシュアーも加担します。

「異人種が移住してくると、異質な遺伝が持ち込まれ、ドイツ民族が変えられてしまう
 ユダヤ人が増加し、影響が大きくなることを阻止しなくてはならない」byフェアシュアー

ユダヤ人を排斥する動きは日ごとに激しさを増していきます。
1935年血統保護法を制定、ユダヤ人とドイツ人の婚姻・性交渉を禁止しました。
発覚すると禁固刑や懲役刑に処せられました。
優生学に基づく政策が次々と打ち出される一方で、ある問題が浮上します。

「ユダヤ人とはだれか・・・??」

ユダヤ人とは誰か・・・??
驚くべきことに、ナチスはユダヤ人をハッキリと特定する方法を持っていませんでした。
ユダヤ人とドイツ人の外見には、たいして差がありません。
ナチスにとって問題だったのは、誰がユダヤ人で誰がユダヤ人でないかをハッキリと確定できなかったことです。
こうしたユダヤ人問題を検討するナチスの委員会の顧問として招かれたフェアシュアー・・・
ユダヤ人を科学的に特定する方法の研究に取り掛かります。
フェアシュアーは、ユダヤ人の特徴を徹底的に検証します。
①ユダヤ人男性の身長は161cm~164cmである
②ユダヤ人の鼻はかぎ鼻である
③ユダヤ人は特有の体臭がある
④よくかかる病気
などを事細かく調査します。

その過程で、フェアシュアーは、ユダヤ人の特徴がわかったと考えました。
「ユダヤ人は他の民族と比べて、糖尿病などの発病、聾や難聴などの障害が起こる頻度が高い」byフェアシュアー

そして、こう訴えました。

「ドイツ民族の特徴の保存が脅かされないよう、ユダヤ人を完全に隔離することが必要である」byフェアシュアー

結局、彼はユダヤ人根絶に向けても協力したことになります。
ナチスがユダヤ人を隔離し、殺害することを正当化したのです。
フェアシュアーがユダヤ人の科学的特定に励んでいる頃、一人の新人医師が研究所に赴任してきました。
ヨーゼフ・メンゲレです。
メンゲレは、博士論文で最優秀という評価を受けた期待の新人でした。
フェアシュアーは、すぐにメンゲレの有能さを認め、自分の後継者に相応しいと考えました。
メンゲレもまた、フェアシュアーを師と仰ぎ、フェアシュアーのような教授となることが目標となりました。

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1942年、フェアシュアーは、ドイツが誇る世界的研究機関・カイザー・ウィルヘルム人類学 人類遺伝学 優生学研究所所長に46歳で就任します。
より化学的に、簡潔にユダヤ人を確定できないか・・・
フェアシュアーは、ある研究に取り組みます。
それは、血液の研究でした。
人種によって血液中のたんぱく質に違いがあるのではないか??
フェアシュアーは、ユダヤ人特有のたんぱく質を発見しようと考えました。

彼は、人種診断を客観化して、簡単に血液テストでユダヤ人を確認できるようにしようとしたのです。
つまり、人種の証明を外見のみに依存させないということです。
この研究には、大量の血液が必要となります。
ユダヤ人はもちろん、比較のために様々な人種の血液を入手しなければなりませんでした。
そこへ、弟子のメンゲレがある場所へ赴任することが決まります。
アウシュビッツ強制収容所です。
ユダヤ人をはじめ、ポーランド人、ソ連軍捕虜など、14万人が収容されていた最大の使節でした。
収容所医師となったメンゲレは、フェアシュアーの命令の元、ありったけの血液を集めました。
ある人は1日に2度も3度も採血されました。
抵抗することは許されませんでした。
ある人は血液がなくなるまで採血され、しぼんだビニール袋のようになって倒れました。
メンゲレが採取した血液標本には、人種や年齢、性別が記され、フェアシュアーの元へ次々と送られました。
フェアシュアーは、報告書にこう記しています。

「私の助手であり共同研究者のメンゲレ医師が、血液標本を続々と届けてくれている
 様々な人種200人以上の血液標本が集まった」

メンゲレは、フェアシュアーが興味を引きそうなもの・・・眼球や内臓、骨格なども手に入れようと考え、収容された人々を殺害し始めます。
当時、フェアシュアーは同僚に宛てた手紙・・・
「私の特異性たんぱく質についての研究が、ついに決定的な段階に達しました」

このプロジェクトは、誇大妄想でしかありませんでした。
科学的な事実というよりも、フェアシュアーの願望がもとになったものでした。
彼の研究は、論理的に非難されるべきもので、科学と呼べるようなものではなかったのです。

1945年1月27日、アウシュビッツ強制収容所開放・・・
5月7日、ドイツ降伏は無条件降伏を受け入れました。

フェアシュアーは、自分に不利な書類をすべて破棄、証拠を隠滅します。
敗戦と同時に、それまで権勢を誇ってきた科学者や医師たちは、一転して追われる身となりました。
障害者の人体実験を繰り返したカール・シュナイダーは、連合国軍に逮捕され、自殺。
障害者を安楽死させる計画を実行したカール・ブラントは、戦争犯罪人として裁判にかけられ死刑となりました。
フェアシュアーの愛弟子のヨーゼフ・メンゲレは南米へ逃亡・・・死ぬまで34年間、逮捕に怯える日々を送りました。
フェアシュアーも連行され、尋問が行われました。
フェアシュアーはそこで、「アウシュビッツでの出来事を一切しらなかった」と証言しました。
結局、フェアシュアーは罰金600ライヒスマルク・・・45万円ほどの罰金で許されました。
カール・ブラントは、誰一人として自分の手で直接殺していませんが、処刑されました。
フェアシュアーも同じように裁かれるべきでした。

フェアシュアーは、研究者としての実績が評価され、1951年名門ミュンスター大学に迎え入れられます。
新設された人類遺伝子学研究所の所長に就任します。
科学の世界に返り咲いたのです。
その翌年には、ドイツ人類学教会会長に就任。
フェアシュアーは、過去について沈黙を守り、学会トップの座に居座り続けました。

1968年・・・
フェアシュアーは、故郷ゾルツで家族と休暇中でした。
その帰り道、車にはねられ意識不明の重体に陥ります。
昏睡状態は11か月続き、1969年8月8日・・・家族に見守られながら、この世を去りました。
享年73歳でした。
学会から尊敬ウを集め、家族に愛された戦後の人生でした。

もし、彼が事実をすべて話していたら、そのキャリアは終わっていたでしょう。
フェアシュアーが反省していたか、罪の意識を感じていたかについては疑問です。
むしろ、自分の行いに誇りを持ったまま、墓場に行ったのではないか・・・??

フェアシュアーの追悼記事・・・

”オトマール・フォン・フェアシュアー教授は、信仰心があつく、模範的な人物であった
 彼はどんな困難に置いても理解に満ち、寛容だった”

戦後、フェアシュアーは、友人に手紙を書いていました。

”あの忌まわしい過去について話すのはやめておきましょう
 もうすぎさったことですから”

遺伝によって人間に優劣をつけた優生学・・・果たして過去のものなのか・・・??

フェアシュアーの死後、遺伝の研究は飛躍的に進み、生命科学の発展によって遺伝子の働きが次々と明らかになりました。
血を作る遺伝子、皮膚を作る遺伝子、筋肉を作る遺伝子、病気や障害の原因となる遺伝子も発見されています。
こうした遺伝子を調べることで、退治に病気や障害がないかを診断する出生前検査も格段に進歩しました。
最新の解析技術・次世代シーケンサー・・・人の全ての遺伝情報を、わずか1日で解読できます。
この技術を使って、妊婦の血液中に含まれるDNAを分析・・・簡単な血液検査だけで染色体異常の可能性がわかるようになりました。
日本でこの方法を使って受診した人は3万人以上・・・ダウン症などを引き起こす染色体異常の可能性が見つかり、精密検査で異常が確定した妊婦の9割以上が、人口妊娠中絶を選択しています。
さらに、生命のあり方を大きく変える技術も生まれています。
2015年4月、中国で人の受精卵に遺伝子操作が行われました。
特定の遺伝子を切断して働かなくさせたり、別の遺伝子を組み込ませたりするゲノム編集・・・
この技術を使って、血液の病気に関する遺伝子を操作したといいます。
生命の設計図を自在に操る力を手に入れた人類・・・
いずれ、望み通りの人間をつくることも可能とされています。

ナチスを率い、人間の淘汰を進めたアドルフ・ヒトラー・・・こんな言葉を残しています。

「大衆の理解力は非常に小さく、忘却力は非常に大きい」

かつてフェアシュアーが所長を務め、アウシュビッツから送られる血液を受け取っていた研究所・・・
現在では、ベルリン自由大学の施設として使われています。
その入り口にヒトラーの言葉に抗う一枚の碑文が掲げられています。

”フェアシュアーは、ナチス・ドイツの非人道的な政策に科学的根拠を提供し、淘汰と殺人にも積極的に関与した
 この犯罪は、あがなわれないままである
 科学者たちは、その学術研究の内容と結果に責任を持たなくてはならない”


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#18「“いのち”の優劣 ナチス 知られざる科学者」

障害者の安楽死計画とホロコースト ナチスの忘れ去られた犯罪

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1945年4月・・・ベルリン・・・
ドイツ第三帝国の最期の日々を、15歳にも満たない少年兵たちがアドルフ・ヒトラー総統の地下壕を守ろうとしていました。
ソビエト軍には到底太刀打ちできません・・・
しかし、ヒトラーのために戦うと誓った青少年たちは、その約束を最後まで守り通したのです。
ヒトラーのために命を投げ出す・・・
そのゆるぎない精神は、どのように培われたのでしょうか?
青少年たちは、いかにしてナチスの闇に取り込まれたのでしょうか?
ナチスの未来、宣伝材料、使い捨ての兵士の物語です。

ナチス・・・そしてヒトラーユーゲントの歴史は、1920年代に遡ります。
当時のドイツは、第1次世界大戦の敗戦の深い傷を負っていました。
ベルサイユ条約によって厳しい制裁を科され、領土の一部を失ったのです。
敗戦国にとって屈辱的なこの条約を改めようとした男・・・それが、アドルフ・ヒトラーでした。
1923年、クーデターに失敗したヒトラーは、選挙による政権奪取を目指します。
ナチ党は、党の軍事組織SA・・・突撃隊を始め、少年たちを選挙活動に動員しました。
若い活動員たちは組織を結成し、ヒトラーユーゲントと名乗ります。
年齢は14歳から18歳、まだ少人数でした。
1920年代のドイツでは、共産党やカトリック教会が独自に青少年団体を組織していました。
イギリスではじまったボーイスカウトを手本に作られ、子供たちにレクリエーションの機会を与えていました。
ヒトラーユーゲントも人気のあるイベントを催し、あらゆる階級の子供を参加させていました。
多くの子供たちにとって、それは夢のような時間でした。

当時、労働者階級はギリギリの生活をしていました。
青少年向けのレクリエーションは特別で、喜んで参加していたのです。
ヒトラーユーゲントと共に出かけることは、日常とは違う生活を送ることのできる素晴らしい体験でした。
ボーイスカウト同様、メンバーには制服の着用が義務づけられ、見た目には階級の違いは判りませんでした。
ナチ党と共に、ヒトラーユーゲントも急速に勢いを増していきます。
当初ヒトラーは、投票権もない彼らが自分の役に立つとは考えていませんでした。
しかし、1932年、ポツダムのスタジアムに7万の青少年が集まり、ヒトラーを盛大に迎えます。
その力の結集を見たヒトラーは、若者こそが自分の理想を実現する要だと考えます。
ヒトラーは側近に打ち明けました。

「我々は年を食った・・・しかし、この若者たちの力を借りれば新しい世界を作れる・・・!!」

経済危機に乗じて政権を奪取!!
1933年、ヒトラーはついに首相となります。
民主主義は葬られ、ナチ党以外の政党は活動を禁止させられます。
ヒトラーは、最高指導者に全権をゆだねられる民族主義国家をつくることを目指します。
900万人のドイツの子供達を狂信的なナチ党員に育て上げるために、ヒトラーは、脅迫と誘惑を使い分けます。
まず脅迫・・・
対立する政党の全ての青少年組織は解体され、ヒトラーユーゲントに統合されました。
次は誘惑です。
少年たちが一年で一番楽しみにしているサマーキャンプ・・・ヒトラーユーゲントはこのイベントを独占したのです。
親の目の届かない環境は、ナチスのイデオロギー教育に最適でした。
野外活動を通じて、幸せな将来が約束されていると子供たちに思い込ませます。
多くの子供達は、これまでにない楽しい経験をしました。
ユーゲントのメンバーの数は、1年で10万人から200万人以上に爆発的に増えました。
ユダヤ人や野党の党員でない限り、第三帝国の国民は快適な人生を送れたのです。
ユーゲントには女子も男子もいましたが、ヒトラーが計画を成し遂げるためには男子が重要でした。
将来、帝国の兵士となる男子には、特別なプログラムが用意されました。
本格的な戦争ゲームです。
少年たちは、敵の陣地にコンパスと地図をもって潜入し、偽装工作を続けながら標的に接近します。
アドベンチャーゲームは、少年たちの心を掻き立てました。

まるで、ドイツ版西部劇のような宣伝映画も作られました。
映画は劇場公開され、新しいメンバーの入団を促しました。

「ドイツの若き男たちよ!今一度野獣となり、美しさを求める軟弱より、無学な野獣の方がいいのだ!!」

腕っぷしが何より大事です。
ひ弱な子供は笑い者にされ、屈辱を受けました。
ナチスの理念の下では、強い者だけが優遇され、期待に応えられない人間は落伍者として扱われたのです。
いじめの余りのひどさに、若者の中には精神を病み、自殺を図るものまで現れました。
しかし、第三帝国では都合の悪い出来事は覆い隠され、ヒトラーユーゲントは全員勇猛果敢な戦士でした。
徐々に教会や様々な団体が運営する青少年組織は、ヒトラーユーゲントに吸収されていきました。
1937年までヒトラーユーゲントのへの加入は、法律で義務付けられます。
子供達は、幼いころから名誉あるメンバーとして、街頭のパレード行事に招かれました。
行進の練習をすることで、団結したのです。
その足並み同様、少年たちの考え方も統一されていきます。
大人たちに褒め称えられ、政権の宣伝の道具とされた彼らは、高揚感に包まれていきます。
大規模集会では、イベントが最高潮に達すると総統ヒトラーが登場することがありました。
第三帝国の将来を担う者と、その創始者との対面です。
若者たちは我を忘れ、ヒトラーをスターのように褒め称えます。

「我が若きドイツ人たちよ
 君たちがドイツの将来を保証する

 君たちは我々の血であり、肉であり、魂だ
 そして、我が国民の将来である

 君たちの中にある国の未来が、称賛されんことを!!」byヒトラー

ナチスのプロパガンダは、ドイツの若者に、君たちは成功し、強くなり、幸せな暮らしをすると思い込ませました。
若者は喜んで、その魔法にかかりました。
1936年には、500万人以上の若者が、ヒトラーに傾倒し、大きな歌声を響かせました。
国民の洗脳を徹底するため、日常生活にもナチス的敬礼が組み込まれます。
一日に何十回も「ハイルヒットラー」を繰り返す中で、ヒトラーユーゲントは、国家社会主義を刷り込まれました。
イデオロギーの強制は、さらに厳しさを増します。
ナチスは子供と接する大人全てに監視の目を・・・!!
協会の活動は、礼拝だけが許され、サマーキャンプの間に親の影響が取り除かれました。
ナチスは、学校の教育課程も変えました。
子供達は、ユダヤ人と共産主義者を憎むように教えられます。
民族を差別する法律も制定されます。
愛国的な歌は、徐々に憎しみの歌に代わりました。
何度も歌ったため、今でも歌えるといいます。
ひとたび憎しみに感染すると、行動に移すのは簡単です。
ヒトラーユーゲントは、親衛隊SSや、突撃隊SAと共に、ユダヤ排斥運動を大々的に展開していきます。

1936年までに、ドイツは不況から脱します。
ヒトラーは、軍備拡張と、大規模な公共事業を行うことで失業率を低下させ、ドイツをヨーロッパ内の強国に押し上げます。
1938年には、対外攻勢を加速させ、周辺の国や地域を次々とドイツに併合!!
戦争の足音が聞こえてきます。
ナチスにとって、将来の兵士となるヒトラーユーゲントはより重要になりました。
ヒトラーは、自分の望む戦士に仕立て上げるために彼らを厳しく鍛えようと考えます。
スポーツや遊びに加えて、若者たちは本格的な軍事訓練を始めます。
競争心を煽られ、16歳の少年が8キロのリュックを背負って20キロ以上の道程を歩きます。
恐怖心を克服し、戦士にならなければなりません。
ヒトラーユーゲントでは、夢で見た大人の世界のあらゆるものに手が届きます。
射撃訓練も行います。
海軍への入隊に備えた海上訓練・・・空軍の入隊を夢見る少年には、グライダーを使った飛行訓練を、こうした大きすぎるおもちゃを使ってヒトラーユーゲントの子供達は真剣な戦争ごっこをしました。
そして徹底させるために、宣誓をさせました。
年齢を問わず、帝国と総統に忠誠を誓います。

10歳が唱える宣誓・・・

「赤い血の旗の前で私は自分のエネルギーと力の全てを、我が国の救世主アドルフ・ヒトラーに捧げることを誓います。
 総統のためならば、命を捨てる意思と覚悟があります。
少年たちは動じることなく、この言葉を受け入れました。

ヒトラーユーゲントは、恐るべき大組織となります。
1929年に1万7000人だった団員の数は、10年後にはドイツの全ての青少年の98%にあたる800万人以上に達していました。
この頃、ヒトラーユーゲントへの参加は義務となっていましたが、招集に応じない家族には重い罰金が科され、逮捕されることもありました。
徴兵の年齢に達した若者は、国防軍やSS親衛隊に競って入隊しました。
1939年9月1日、戦争が勃発!!
ドイツは、先に攻撃されたという嘘を口実にポーランドに侵攻。
その進軍は、電光石火の早業でした。

ポーランド侵攻から8か月後の1940年5月、ドイツは、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスに侵攻します。
ドイツ国民にとって、ヒトラーは史上もっとも偉大な戦略家でした。
ヒトラーユーゲントは、ドイツ軍の進軍ぶりを信じられない思いで見ていました。
ドイツ国防軍は、フランスとの戦いを6週間で決着させ、勝利しました。
ヒトラーは攻勢を続けます。
1941年6月には、ソビエトに対して奇襲を仕掛けました。
長年の訓練が実を結び、ヒトラーユーゲント育ちの若い兵士たちが至る所で立派な戦士であることを証明します。
前線から戻ると、将来の兵士たちへ英雄となった体験を語ります。

ドイツ軍が東部戦線で進撃を続ける中、後方ではヒトラーユーゲント育ちのメンバーの多い特殊部隊アインザッツグルッペンに、ユダヤ人殺害の任務が与えられました。

前線の戦いが激しさを増す中、ヒトラーユーゲントには体を鍛える授業や、イデオロギー教育が続けられていました。
民族的優位についての授業では、頭蓋骨を奥行き、幅、高さの比率や、髪の毛と目の色が調べられ、ナチスの科学者が決めた基準で分類されます。

1942年の暮れには、ドイツは劣勢となり北アフリカ戦線や東部戦線の戦いは膠着状態となります。
成人男性の殆どが戦場に送られたドイツでは、ヒトラーユーゲントが前線の活動に動員されました。
14歳以上の少年は、一軒一軒家を回って、古着や金属などを集めました。
郵便配達、路面電車の運転、道路や線路の工事、収穫などの畑仕事に駆り出されたメンバーもしました。
戦時の経済を支えるうえで、若者の力は欠かせなくなりました。
プロパガンダ映像は、青少年の強い意志を掲げますが、実際には辛い思いをし、疑問を抱く者が続出します。
工場や鉱山での社会奉仕活動は、強制労働に近いものがありました。

1943年の冬、ヒトラーユーゲントは想定外の事態に直面しました。
劣った人間と呼ぶように教えられてきたロシア人が、ドイツが誇る屈強な軍人たちに反撃を始めたと伝わったのです。
スターリングラードの攻防戦で、ドイツ側は数十万の兵力を失いました。
モスクワ占領も、赤の広場の行進も、もはや夢物語です。

1943年になると、アメリカやイギリスは、地上部隊の損失を最小限に止めるために、大規模な空襲をドイツの工業施設や都市で繰り返しました。
戦争へ行きたいと願っていたヒトラーユーゲントのもとへ、戦争がやってきました。
ドイツは大きな打撃を受けます。
瓦礫の中で、ユーゲントは即席の消防隊員や救急隊員となります。
10年以上にわたってナチスに洗脳され、明るい未来を約束されたヒトラーユーゲント・・・
しかし、彼らは今、連合軍の空襲を受け、悪夢のただ中にいました。
そして、事態はさらに悪化・・・ドイツが敗戦に向かう中、完全な崩壊に至るまで、本土防衛が、この青少年たちに押し付けられたのです。


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独裁者アドルフ・ヒトラー・・・彼には唯一心を許した正式な妻がいました。
その名はエヴァ・ブラウン・・・ヒトラーより23歳年下の女性です。
しかし、その存在はドイツ国民に知らされることはありませんでした。
秘密の関係を続けたエヴァとヒトラー・・・二人が結婚式を挙げたのは、共に命を絶つ前日でした。
独裁者アドルフ・ヒトラーが愛した一人の女性・・・エヴァ・ブラウン。
幼いころから自由奔放、政治には関心がなく、ハリウッド女優になることを夢見ていました。
やがてヒトラーと恋人となると、エヴァはヒトラーが用意した豪華な山荘で暮らしました。
ファッションを楽しみ、大好きな動物を飼い、気ままに過ごす日々・・・
第二次世界大戦が勃発し、ドイツ国内が戦火に包まれる中でも、身の危険や貧困からは無縁の暮らしでした。
ヒトラーをはじめ、ナチスドイツの高官と他愛もない会話で周囲を和ませたエヴァ・・・
多くの召使に囲まれ、山荘の女主人と称しました。
しかし、その裏では家族との確執を抱えていました。
ヒトラーの過激な言動に反発し、別れを勧める父・・・
ナチスドイツの反ユダヤ政策に反対する姉・・・
そしてヒトラーには常に何人もの女性の影が付きまといました。
その一方でエヴァの存在は極秘・・・山荘という鳥かごに閉じ込められていました。
しかし、ナチスドイツが滅びる2か月前・・・
エヴァは自ら鳥かごを出てヒトラーがいる戦火のベルリンに向かいました。

エヴァ・ブラウンとヒトラーが出会ったのは1929年。
17歳のエヴァは、ミュンヘンにある写真館で働いていました。
そこへ店主に連れられて一人の男がやってきました。

「おかしな口ひげを生やし、大きなフェルトの帽子をかぶった中年紳士が入ってきたの
 私の足を見つめていて、あまりいい気がしなかったわ」

「君は、あの方が誰だかわからないのか?」

「さあ・・・」

この男こそ、アドルフ・ヒトラー。
当時40歳、急激に勢力を伸ばしていたナチ党の党首・・・すでにメディアを賑わす有名人でした。
エヴァにとっては、この中年男の初対面の印象はよくありませんでした。
しかし、後にエヴァとヒトラーは恋人同士になします。
どうして惹かれていったのでしょうか?

エヴァ・ブラウンは、1912年、ドイツ・ミュンヘンの中流家庭で誕生します。
エヴァは三姉妹の次女で、教員だった父のフリードリヒと母フランツィスカの元、娘たちは厳しく教育されました。
学校の成績は優秀でしたが、いたずら好きの問題児・・・教師たちに手を焼かせる生徒でした。
エヴァは思春期を迎えると、父の監視は益々厳しくなります。
父は娘たちの手紙すべてに目を通します。
門限を設けて夜10時には床につくように・・・。
1928年、16歳になるとカトリック修道会の女学院に入学させ、模範的な淑女に育てようとしました。
しかし、この頃エヴァが夢中になったのは恋愛小説と映画。
特に学芸会では演劇に熱心に取り組みます。
いつしか、ハリウッド女優として成功することを夢見るようになっていました。

教師の父親が一番重要視していたのは、娘たちに一流の専門教育を受けさせること・・・。
しかし、エヴァ達娘は、反抗的でした。
17歳になったエヴァは、近所の写真館で働き始めます。
これが、彼女の運命を大きく変えることとなります。

この頃ドイツは、第1次世界大戦で敗戦し荒廃していました。
戦争を再び起こさないように軍備を制限され、戦後賠償で経済はどん底・・・町には失業者が溢れていました。
そんな時、経済復興と失業問題の解決を掲げ、支持を集めたのがヒトラー率いるナチ党でした。
エヴァが働く写真館の店主は、熱烈なナチ党員・・・ヒトラーの専属写真家も務めていたため、店はヒトラーの写真で埋め尽くされていました。
ヒトラーと出会った夜、エヴァは父に聞いてみました。

「アドルフ・ヒトラーってどんな人?」

「ヒトラー?
 あいつは自分が万能だと思い上がっている青二才だ!!」

父親はもちろん心配していました。
なぜなら、当時のナチ党は、極めて暴力的で殺人を犯すこともありました。
しかし、エヴァは、父への反抗としてヒトラーに近づきました。
一方、ヒトラーは、エヴァを気に入りました。

「彼女は私を和ませるんだ」

ヒトラーは、周りを側近や気の置けない人で固める傾向にありました。
そういった狭い交友関係の中で女性も選んでしまうのです。
その後、ヒトラーは写真館を訪れるたびにエヴァへプレゼントを持ってくるようになりました。

「エヴァさん・・・オペラに招待してもよろしいですかな?」

23歳年上の男からの紳士的な誘いに魅了されていったエヴァ・・・
出会いから2年がたったころには姉にこう打ち明けています。

「絶対にあなたもヒトラーに会うべき!
 会えばあの人のイメージも変わるから・・・!!」

ヒトラーの女性に対するマナーには、うっとりとするものがありました。
夢中になってしまったのは、エヴァからでした。
しかし、この頃のヒトラーには特別に親密な女性がいました。
姪のゲリ・ラウバル(23歳)です。
ヒトラーの姉の娘で、エヴァより4歳年上でした。
ヒトラーとゲリは、2年の同居生活を送り、叔父と姪を超えた深い関係だったといいます。

「私は姪のゲリを愛している
 だが、結婚は出来ない」

タイプとしては、エヴァとおなじように非常に快活で行動的な女性でした。
そんな中、ヒトラーとエヴァが急速に近づく事件が起こります。
1931年ゲリが自ら命を絶ちました。
一説ではヒトラーの束縛が原因ともいわれています。
ヒトラーは憔悴しきっていました。
ゲリを失ってしまったショックがあまりにも大きかったのです。
それを見たエヴァは・・・

「ヒトラーにとってあの女は、きっと特別な人だったのね」

この直後、エヴァは思いがけない行動に出ます。
髪型や風貌、話し方まで自分をゲリそっくりに真似たのです。
いつしか二人は恋人同士になりました。
エヴァ19歳、ヒトラー42歳の時でした。

自ら望んでヒトラーの恋人となったエヴァ・ブラウン・・・しかし、わずか2年の間に2度も自殺を企てます。
何が原因だったのでしょうか?
エヴァがヒトラーと出会って3年後、1932年7月、ヒトラー率いるナチ党は、ドイツ国会選挙で第1党に躍進します。
ますます政治活動に力を入れるヒトラー・・・
エヴァをミュンヘンに残し、ドイツ中を飛び回ります。
以前より会う時間は減っても二人の関係は続いていました。
当時ヒトラーは、側近にこう漏らしています。

「私はミュンヘンにいる一人の娘を愛している」

しかし、エヴァの存在は、限られた一部の人だけの秘密でした。
それは、ヒトラーの結婚に対する考えからでした。

「私には既に花嫁がいる
 私はドイツと結婚したのだ!」

独身であることで、女性の支持が得られるという考え方がヒトラーにはありました。
結局最後まで、ヒトラーはエヴァと言う存在を国民の目からひた隠しにしました。
ヒトラーにとっては、女性よりも政治の方が大事だったのです。

この時、エヴァ・ブラウンは20歳・・・ミュンヘンの実家でヒトラーからの連絡を待つだけの生活でした。
そんな中、ある事件を引き起こします。
エヴァは、ヒトラーに別れの手紙を投函・・・そして・・・銃弾は首をかすめ、一命をとりとめました。
知らせを聞いたヒトラーは、すぐに病院へ駆けつけました。
そして医師にこうただしました。
 
「彼女は本気で自殺しようとしていたのか・・・??」

「彼女は心臓を狙っていましたが、なんとか助けられました」

エヴァは、ヒトラーとの関係が終わるのではないかと深く絶望していました。
これからは、この娘を気にかけてやらなければ・・・
2度とこんなことが起きてはならない・・・
ヒトラーは、いつでも連絡が取れるようエヴァの部屋に電話を設置しました。
自殺未遂の翌年・・・1933年1月にヒトラーは首相に就任。
一層政局に謀殺されていきます。
21歳の誕生日を迎えたエヴァの元には、ヒトラーから指輪やネックレス、ブレスレットが届きました。
しかし、肝心のヒトラー本人は現れませんでした。

「彼が殊勝になったところで、私に何の関係があるの??
 彼に会えない日が増えるだけだわ」

翌年ヒトラーは、ナチ党の党首・首相・大統領と全ての権限を持つ総統に就任し、独裁色を強めていきます。
武力を背景に、反対勢力を排除していきます。
しかし、エヴァは、ヒトラーの政治には関心を示さず、生涯ナチ党に入りませんでした。
そんなエヴァにとっての最大の関心ごとは、ヒトラーの周りの女性たちでした。
絶大な人気を誇るヒトラーの周りには、有名女優や歌手、映画監督などが集まりました。
青年時代は画家志望だったヒトラーは、芸術的才能を持つ女性たちと積極的に触れ合います。
それに対して、エヴァの存在はあくまで秘密にされ、公の行事に参加する事さえ許されませんでした。
エヴァは、ヒトラーに寄ってくる女性たちに、激しい嫉妬心を抱いていたといいます。
ヒトラーは、多くの著名な女性と出会っては、彼女たちの機嫌を取るため贈り物までしていました。
しかし、エヴァは、自分がとても難しい立場にいることも自覚していて、すべてを受け入れるしかありませんでした。

エヴァの23歳の日記には・・・ヒトラーと自分の関係が・・・その時々の気持ちが書かれています。

「昨日は思いがけなく彼が来て、うっとりとするような夜になったわ」

それから2週間後には・・・

「彼はもう、14日間も来ていない
 私は彼がなぜ怒っているのかわからない」

さらに12日後には・・・

「今は政治的にいろんなことが起きているから彼が私に興味を示さないのは当然のことよ
 ただ静かに待っていればいいのよ」

この日記が書かれた1935年3月16日、ヒトラーは第1次世界大戦後に禁止されていたドイツの再軍備を宣言しました。

エヴァの日記に書かれているのは、ありふれた日常ばかり・・・
国がひっくり返って、世界が崩壊するかもしれない中で、エヴァがはヒトラーが自分のために時間があるかどうかという観点からしか見ていませんでした。

翌月のエヴァの日記には・・・

「愛なんてものは彼の計画から外されてしまったんだわ」

そしてエヴァは再び事件を起こします。
自宅で大量の睡眠薬を飲み、2度目の自殺を図ったのです。

「親愛なる神様、今日中に彼と話すことができるようにお力をお貸しください
 明日では遅いのです
 私は35錠飲むことに決めました」

しかし、姉がすぐに発見して手当てをしたため、命はとりとめました。
この時姉は、エヴァの自殺の原因を両親に知られるのを恐れ、日記の一部を破りとりました。
エヴァの日記は後になくなりますが、姉が破った4か月分だけが偶然残りました。
再び自殺を図ったエヴァに対し、ヒトラーは驚くとともに心打たれたといいます。
ヒトラーは、自分に絶対的な忠誠心を誓った仲間に非常に温情をかけるような面があります。
自分の命をかけてまで、自分に忠誠を示してくれたというのが、ヒトラーの気持ちを動かしました。
2度目の自殺未遂から3か月後、ヒトラーは公式行事にエヴァも参加することを許しました。

1935年秋、ニュルンベルク党大会・・・ヒトラーのもとに10万もの人が集まるのをエヴァは初めて目の当たりにしました。
この党大会中にヒトラーはある重要な法案を可決しました。
ニュルンベルク法と呼ばれるユダヤ人の市民権を奪う人種差別法です。
エヴァは日記にこうつづっています。

「地球でもっとも偉大な人の恋人の私」

エヴァ・ブラウン23歳の秋のことでした。

エヴァとヒトラーが出会って6年が経った1935年、父・フリードリヒはヒトラーに手紙を送ろうとしました。
恋人とはいえ、秘密で結婚もしようとしないというエヴァとの中途半端な関係を心配したからです。
「子供達は結婚して初めて両親のもとから離れるもの」
これ以上付き合うなら、エヴァと結婚してほしいと遠回しに迫っています。
この手紙はヒトラーに届けられる前に、エヴァに見つかり破り捨てられてしまいます。
しかし、父が手紙の写しを持っていたため、どんな内容だったのかわかっています。

もちろん、エヴァは結婚したかったのです。
しかし、自分の立場を受け入れ、一度たりともヒトラーの邪魔をしようとはしませんでした。
常にヒトラーの言われたように動きました。
だから、あのような関係が長く続いたのです。
ミュンヘン近郊・・・自然に囲まれたオーバーザルツベルクの山荘・・・ここを気に入ったヒトラーは、山荘を買い取って改築しました。
改築が完成すると、エヴァ・ブラウンは実家から出て山荘で暮らすようになります。
この時、24歳・・・山荘には巨大な大広間をはじめ、30以上の部屋があり、最高級の木材などが使われていました。
人里離れた山荘は、関係を公にできない二人にとって絶好の隠れ家でした。
この山荘で、エヴァに仕えていた女性の証言が残っています。

「”ハッキリ言っておくわ”と初日に言われたの
 ”あれがヒトラーの部屋で、こっちがエヴァの部屋、利口ならば2人の関係はわかるわね
 あともうひとつ
 何を見ても、何が起こっても、絶対口外したり、書き留めたりしないこと
 エヴァの存在は極秘よ”とね
 だから、2人がどこまで進展しているのかは分からなかった」

エヴァとヒトラーは、人前では仲のいい友人として振る舞い、決して親密な態度は見せませんでした。
そんな2人が楽しみにしていたのが夜の映画鑑賞です。
その日何を見るか決めるのはエヴァ、特に好きだったのはハリウッド映画「風と共に去りぬ」でした。
エヴァは、主役のスカーレット・オハラを真似た衣装を着て、映画の一シーンを再現するほどお気に入りでした。

エヴァが山荘に移って3年が経った1939年、第2次世界大戦勃発。
9月、ドイツ軍はポーランドに侵攻。
戦争が始まると、山荘は総統大本営となりました。
ヒトラーは、ここで日夜作戦会議を開いて戦略を立てました。

戦争中でも、エヴァの暮らしにはほとんど変わりはありませんでした。
しかし・・・エヴァ自身にはある変化が起きていました。
ヒトラーが山荘を離れるとエヴァはそれを待っていたかのようにいそいそとパーティーの準備を始めるようになります。

「それまでおとなしくしていた彼女が一瞬で豹変した
 すぐに様々なお楽しみの準備が始まった
 はめを外し、まるで子供だった」

さらに、エヴァは家族も山荘に呼んで一緒に優雅な生活を送るようになりました。
そこには、ヒトラーをかつての青二才と嫌っていたフリードリヒの姿もありました。
この頃には、父もナチ党に入党しています。
いつしかエヴァは、自らを山荘の女主人と名乗るようになっていました。

開戦当初、ヒトラー率いるドイツ軍は快進撃を続け、1940年6月にはパリを占領するなどヨーロッパ中を震え上がらせました。
戦争を拡大する裏で、ナチスは数百万人のユダヤ人を強制収容所に送ります。
こうしたユダヤ人迫害など、ヒトラーの政策を批判していたのは姉のルイゼでした。
山荘で公然とヒトラーを批判する姉に対して、エヴァはこう言いました。

「総統が、あなたを強制収容所送りにしても私は助けないわよ!」

第2次世界大戦末期の1945年4月30日・・・
ナチスドイツの総統官邸でエヴァはヒトラーと共に命を絶ちました。
一体どうして・・・??
1944年、ヒトラー率いるナチスに開戦当初の勢いはありませんでした。
6月には連合軍がノルマンディ上陸作戦に成功。
ドイツ国内では市街地への空襲が激化!!
山荘にいたエヴァは、故郷ミュンヘンから立ち上る炎をじっと見つめていたといいます。
更に翌月には、ヒトラー自身に衝撃的な事件が起こります。
1944年7月20日、ヒトラー暗殺未遂事件・・・会議中、ヒトラーの傍に置かれていたカバンが爆発・・・戦争の敗北を悟った側近たちのクーデターでした。
この爆発で4人が命を落としたものの、ヒトラーは奇跡的に軽傷を負っただけで済みました。
この時、エヴァのもとにヒトラーからあるものが届けられました。
爆発の衝撃でボロボロになった軍服です。
エヴァはヒトラーにこう返事を書きました。

「あなたの身に万一のことがあったら、私は生きていくことができません
 たとえ死んでもあなたについていくと誓ってまいりました
 あなたを愛することが私の全てです・・・あなたのエヴァ」

1944年10月、エヴァは細かい遺書を書きます。
遺書には現金や車、買いそろえた毛皮のコートやじゅうたんなど、家族や友人の誰に渡すか・・・事細かに記されていました。

1945年1月、連合軍は首都ベルリンに迫っていました。
ヒトラーは、総統官邸の地下に作られた地下壕に籠り、ベルリン防衛を指揮。
エヴァに対しては、戦火から遠く離れた山荘に留まるように指示していました。
しかし、3月7日、ベルリンの戦火を抜けて走る一台の車が・・・
エヴァ・ブラウンでした。
ヒトラーは、彼女が言いつけに背いてやってきたことを心から喜んだといいます。
その後も連合軍の猛攻は続き、地下壕の側近たちにも不安が募っていきます。
しかし、エヴァは、地下壕に家具一式を運び込んで、美しく着飾って、山荘にいるのと同じように過ごしました。
エヴァは、ヒトラーが部下の前で弱みを見せることを許さず、時には軍服の乱れを注意することもありました。

「そんな薄汚れた格好で歩き回ってはいけないわ」

1945年4月、連合軍は総統官邸の目前まで迫ってきました。

「1日ごと、いや1時間ごとに最後が私たちに近づいてきています
 総統は、この戦争の全ての希望を失いました
 けれど、私たちは生きて捕らわれるつもりはありません」

敗戦が濃厚となり、逃亡する兵士が続出・・・
その中にエヴァの妹の夫・・・義理の弟もいました。
逃亡先で捕まった義理の弟には、処刑命令が下りました。
しかし、エヴァは救いの手を差し伸べませんでした。
すでに地下壕は絶望的な状況・・・連合軍がいつ押し寄せてもおかしくありませんでした。
そして、4月29日未明・・・
エヴァは、ヒトラーと結婚式をあげようとしていました。
写真館の出会いから16年が経っていました。
エヴァは、光沢を帯びたロングドレスに身を包み、美しい宝石で着飾ります。
式は、ナチスドイツの婚姻条例に従ってベルリン市役員立会いの下で行われました。
結婚証明書に署名する際、エヴァはブラウンと書きそうになり、慌ててエヴァ・ヒトラーと書き直しました。
朝になるとエヴァは使用人にこう言います。

「私のことをヒトラー夫人と呼んでもいいのよ」

結婚式の翌日・・・1945年4月30日午後3時・・・
ヒトラー夫妻はそろって部屋へと入っていきました。
そして銃声が・・・こうして、エヴァ・ヒトラー33年の生涯に幕を下ろしました。

2人の遺体は地下壕の外に運び出され、焼却されました。
2日後ベルリンが陥落し、ドイツは敗戦を迎えます。

 
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