南太平洋のガダルカナル島・・・今から77年前、このジャングルで日本軍とアメリカ軍が死闘を繰り広げました。
森の至る所に戦争の爪痕が残っています。
死者2万人以上、ガダルカナルは地獄の戦場といわれ、島で戦った日本陸軍の一木支隊は、最強の精鋭部隊といわれましたが全滅・・・
その責めを負い自殺したとされる指揮官・・・陸軍・一木清直大佐・・・
無謀な突撃にこだわり大敗北を招いた張本人として非難を浴びてきました。

謎だった日本軍の無謀な戦い・・・
日本と戦った米軍の上陸部隊は1万人・・・わずか900人の一木支隊と比べると、圧倒的な大兵力の部隊でした。
一木支隊は米軍の周到な罠にはまっていきます。
そして、部隊全滅の影に、陸海軍の熾烈な対立があることがわかってきました。
海軍はアメリカの艦隊をおびき寄せて叩くために、陸軍を囮にする作戦でした。
陸海軍の対立が深まり、補給が滞る中、すさまじい飢えが兵士たちを襲います。
日本は敗戦に向かう転換点が、ガダルカナルの激戦です。

ガダルカナル島は、日本からおよそ6000キロ・・・
アメリカと日本は、6か月にわたってこの島で激戦を繰り広げました。
ここは、日米が初めて総力戦を始めた場所でした。
喉かな南の島で、血で血を洗う戦いが行われました。

日本軍が作った島で唯一の飛行場・・・ホニアラ国際空港(旧日本軍飛行場)を巡って、日米は激突しました。
日本海軍は現地の住民を使い、森を切り開き、建設を進めていました。
800mの滑走路を備えた飛行場は、重要拠点となるはずでした。

1941年12月8日、真珠湾攻撃で、連合国との全面戦争に突入した日本・・・
米軍の拠点ハワイとオーストラリアの線上にあるガダルカナル島に着目します。
ここで制空権を得れば、連合国を分断し、更に優位に立てる・・・!!と。
危機感を募らせたアメリカは、飛行場を占領し、制空権を奪おうと計画します。

米軍の飛行場占領作戦とは・・・??
残されたフィルムによると・・・。
1942年8月7日、アメリカ海兵隊がガダルカナル島上陸!!
1万人の兵力で、たちまち完成間近の飛行場を占領!!
米軍機を迎えるために、整備を進めました。
そして・・・圧倒的な火力で、飛行場奪還に現れた日本軍を撃退します。
全滅し、大地に横たわる日本兵・・・わずか900人で、10倍の兵と戦った結果でした。

この時殲滅したのは、陸軍屈指の精鋭部隊といわれていた一木支隊。
兵を率いた一木清直大佐は、敵を侮り、自信過剰、無謀な作戦、偵察をせずに突撃、致命的なミスをしたとして、轟々たる非難を浴びてきました。
一木大佐はどうして隊を全滅することとなったのでしょうか?

ガダルカナルの敗北の責めを負った一木大佐・・・しかし、部隊全滅の影には、日本軍の組織の抱える問題がありました。

1942年8月7日、大本営・・・
ガダルカナル米軍上陸の報せは、直ちに大本営にもたらされました。
陸海軍の作戦参謀が一堂に会して、飛行場奪還作戦のための緊急会議が行われました。
両軍の議論を資料を基にすると・・・

この2か月前の6月5日、ミッドウェー海戦で敗北、空母4隻を失い、報復の機会をうかがっていた海軍・・・
一方の陸軍は、中国やアジア各国で勝利し、向かうところ敵なしと自信を深めていました。
米軍を倒すべく、初の陸海軍共同作戦が行われようとしていました。
陸海軍は、それぞれ、連合艦隊(海軍部)と第17軍(陸軍部)に作戦準備を命令。
海軍は艦隊と航空艦を、陸軍は歩兵部隊を派遣し、連携して飛行場を奪還する作戦でした。
この時、白羽の矢が立ったのが、中国戦線で名を上げた陸軍・一木支隊でした。

一木支隊の故郷は北海道の旭川・・・
彼等が出征の直前、必勝祈願を護国神社で行います。
その時、境内で撮った写真が残っていました。
総勢2000名、農家出身、20代の若者が厳しい訓練を経て精鋭部隊に・・・!!
その強さは・・・日本最強であったと、今も地元で語り継がれています。
その隊員たちは、ほぼ全滅となりました。


飛行場を奪還する初の陸海共同作戦・・・海軍の側はどう動いたのでしょうか?
ガダルカナル島の沖合で、沈没船の調査が行われています。
この調査は、戦艦武蔵を発見した実績を持つ国際的なチームが行っています。
無人潜水艇で、日米の戦いの痕跡を探す・・・。
沈んだ軍艦・・・アメリカ重巡洋艦クインシー・・・
日本海軍の攻撃で、船体に大きな穴が開き、沈没したようです。
海軍の作戦は、アメリカが飛行場を占領したその日のうちに始まりました。
指揮官は、第八艦隊司令長官・三川軍一中将。
闇に紛れた奇襲を決断します。
攻撃目標は、米軍の輸送船団!!
空母や巡洋艦に護衛されていました。
夜、10時50分・・・連合艦隊はアメリカの艦隊を発見!!
しかし、すぐに攻撃を仕掛けず夜の闇に紛れて敵陣深く忍び込みました。
11時38分、攻撃開始!!
連合艦隊は重巡洋艦クインシーなど巡洋艦4隻を沈め、他、3隻に大ダメージを与えます。
ミッドウェー海戦の敗北以来、久々の大戦果を挙げた海軍!!
勝利は大々的に報じられました。
しかし、海軍はこの戦いで大きなミスを犯します。
空母や巡洋艦への攻撃を優先する・・・当初の目的だった輸送船団を見逃していたのです。
米軍は、補給が途絶える危機を脱し、武器や食料を受け取ります。
ラバウルの陸軍第17軍司令部は、この海軍の判断を非難します。
一木支隊の作戦を担当する参謀長の二見秋三郎少将の手帳には、海軍に対して痛烈な批判が書かれていました。

”ニュース、海軍大々的ニ報ズ
 ヤリ方ナマヌルキコト多ク 全クキガシレズ”

海軍のミスでアメリカの兵力は増強され、一木支隊にとって不利な状況が増していきます。

共同作戦と言いながら、優先順位が食い違う海軍と陸軍・・・大勝利の影で、亀裂が生じようとしていました。
一木支隊の上陸地点は、ガダルカナル島のタイボ岬・・・
日本軍のものとみられる船の一部が残されていました。
8月18日、一木支隊無血上陸に成功!!
一木大佐自ら隊を率いていました。
米軍が占拠する飛行場まで35キロ・・・行く手に残酷な運命が待ち受けていることに兵士たちは気付いていませんでした。
一木支隊のこれまでの行動がアメリカで新事実として発見されました。
戦場でのそれぞれの出来事を時間ごとに細かく記入されている・・・併せて1000ページを超える米軍機密文書・・・。
米軍陣地の突破を図った一木支隊が、反撃を受け殲滅されるまでが分刻みで細かく書かれています。

陸軍屈指の精鋭部隊が全滅・・・その始まりは、作戦を立案した大本営陸海軍の参謀が、米軍の兵力を見誤ったことでした。
1942年8月10日・・・
海軍の情報を元に、陸軍は推定2000人と見積もりました。
しかし、実際は1万人・・・!!
致命的なミスが生れていきます。
謎をさらに深める資料・・・日本海軍がアメリカに潜入させていたスパイの極秘情報として、
「今朝、大船団が戦車や軍隊を乗せて南太平洋方面へ向かった」
海軍は、偵察に当たった航空機の情報からも、米軍輸送船団の動きを掴んでいました。
海軍参謀・佐薙毅・・・輸送船団の数から敵兵力は1個師団(1万5000人)と、的確に見積もっていました。
それを狂わせたのが、連合艦隊が夜襲でアメリカ艦隊を撃破した戦いの勝利でした。
戦果を受け、陸海軍の参謀は、見積もりを削減。
輸送船団は、大部分の兵を乗せて撤退したと判断し、残る兵力は2000と考えたのです。
一木支隊が所属する陸軍第17軍司令部は、見積もりに疑問を持ちました。
二見参謀長は、すでに上陸を果たして空港の占領を続ける米軍は、8000人はいると考えていました。
初公開の手帳にこう書いています。

”海軍急グモ不安 一木支隊ヤレズ”

敵の数がはっきりしない中、攻撃をせかす態度に不安を抱いていました。
二見参謀長は、一木支隊の進軍に待ったをかけようとしていました。
ところが、陸軍参謀本部のナンバー2・参謀次長から電報が入ります。

”速やかに(飛行場を)兌換することを考えよ”

米軍機が配備され、戦況が不利になる前に、飛行場奪還を求めたのです。
二見参謀長は、大本営の命じるまま、一木支隊の進撃を認めるしかありませんでした。

8月19日、一木支隊は飛行場を目指し、行軍を続けていました。
兵士から慕われていた一木大佐・・・作戦を遂行する上で、敵の情報が全くないことを問題視していました。
8月19日8時30分・・・偵察部隊派遣
偵察部隊はジャングルに身をかくし、西に向かいました。
ところが、米軍はジャングルに周到な監視体制を敷いていました。
小さなマイクを無数にしかけ、日本の隠密行動を丸裸にしました。
さらに鉄条網を張り巡らせ、万全な迎撃態勢を取っていました。

偵察部隊38名は、米軍の待ち伏せ攻撃にあい全滅!!
これまで無謀な作戦を非難されてきた一木大佐・・・
作戦を続けるべきか司令部の判断を仰ごうにも連絡できない状況に置かれていました。
どうして通じない・・・??
陸軍司令部のあるラバウルは、ガダルカナルから1000キロと遠く、無線が届きません。
海軍の潜水艦が中継することとなっていました。
ところが、この共闘作戦に潜水艦は任務を放棄し、もち場を離れていました。

何が起きていたのか・・・??
連合艦隊の動きは・・・??

”空母を含む敵機動部隊を発見”

この日・・・8月20日の9時、偵察に当たっていた海軍機が米空母を発見!!
連合艦隊は、周辺にいた全艦に出撃命令を出しました。
その命令に従ったために、一木支隊は無線連絡できない状況に置かれてしまったのです。
連合艦隊参謀長の宇垣纒・・・ミッドウェー海戦で大敗し、復讐に燃えていました。

宇垣の日記には・・・アメリカ艦隊をおびき出すためにガダルカナルの陸軍部隊を利用する策が記されていました。

”陸軍を種とし 囮となす”

陸軍が米軍と戦えば、救援のためにアメリカの空母が来る・・・そこをたたこうというのです。
海軍の中では、陸上部隊は待っていろ・・・アメリカの空母の方が大事だ!!という判断でした。
それで、陸軍側が非常に混乱と迷惑を被る・・・しかし、それはアメリカの空母をたたくことに比べれば大したことはない!!ということなのです。

アメリカの空母部隊を殲滅することを最優先した海軍・・・
一木達陸軍部隊をおとりにすることも作戦の一つでした。

孤立無援となった一木部隊・・・
一木大佐は、この作戦に当たって大本営から命令を受けていました。

”速やかに奪回せよ!!”

何より重要なのは、敵が使う前に飛行場を奪還すること・・・

この時、一木支隊は先遣隊の916名のみ。
遅れていた後続部隊の1000人の到着を待たずに命令に従って攻撃を急ぎました。
しかし・・・目標の飛行場に到着する直前に恐れていた事態が起きました。

8月20日16時・・・
アメリカ軍の戦闘記録によると・・・
”飛行場に味方の戦闘機が到着した”
米軍機31機が飛行場に配備され、制空権はアメリカの手に渡りました。

状況が悪化する中、一木支隊は望みを捨てず進軍します。
決戦に臨む兵士の日記には・・・悲壮な決意が書かれていました。

8月20日夜10時30分・・・
一木支隊、闇に紛れて飛行場に接近!!
その時・・・突然照明弾が光り、待ち構えていたアメリカ軍から攻撃を受けます。
日米が激突したイル河の河口・・・一木支隊が悲劇の最期を迎えた場所です。
無謀な突撃で自滅したと言われていた一木支隊・・・
全滅までの数時間、何が起こっていたのでしょうか?

日本側から見ると、川向うは少し高くて見えにくい場所にアメリカは軍をおき・・・米軍側からは河で足止めされた日本軍を上から見下ろせます。
アメリカからは、天然の要塞のような地形でした。
日本軍は丸見えでした。
待ち構えていたアメリカ軍は、一木支隊に二方向から十字砲火を浴びせました。
圧倒的な火力で攻撃するアメリカ軍・・・銃撃を避けようと川べりのくぼ地に身を潜めた日本軍・・・
しかし、それは罠でした。
アメリカ軍は、くぼ地めがけて迫撃砲を雨あられと打ち込んだのです。

敵の罠を察知した一木大佐は、部隊に突撃中止を命じました。
その時、米軍の戦車隊が出現!!逃げ道を塞ぐように側面から背後に回りました。
日本軍を袋小路に追い込みます。
それは、日本海軍が海の戦いで見逃した輸送船団が運んだ兵器でした。
行き場を失った一木支隊は、狭い砂洲を進みます。
しかしそこはアメリカ軍の攻撃が集中する最も危険な場所でした。
絶体絶命・・・!!
その時、夜が明けて・・・

8月21日6時7分・・・日本海軍の基地からゼロ戦が緊急発進!!
向かった先は、一木支隊が戦う陸の戦場ではなく、海でした。
米軍の空母発見の報せに攻撃命令が下ったのです。
一木支隊が全滅の危機にあっても、海軍は空母攻撃を優先させました。
同じころ、島の飛行場から米軍機が離陸・・・僅かに残った一木支隊に機銃掃射を・・・!!

午前10時25分、空母を見失ったゼロ戦が、ガダルカナル島上空へ・・・!!
しかし、時すでに遅し・・・一木大佐と共に部隊は全滅・・・。
部隊の殆ど・・・777人が命を落としました。

作戦失敗の報せがラバウルの陸軍司令部に届きました。
一木支隊の派遣に不安を抱いていた二見参謀長は日記にこう綴っています。

”夜12時 一木全滅の報あり 寝られず 寝られず”

一方、海軍側の反応は全く異なるものでした。
宇垣参謀長の日記では・・・
”敵を軽視”したことが作戦失敗としていました。
海軍は、自分たちの行動が、一木支隊の全滅に関わったとは受け止めなかったのです。

陸海共同作戦とは名ばかり・・・それぞれ全く別の戦いを進めた陸軍と海軍・・・
部隊全滅の原因を見極めようとはしませんでした。
一木大佐は責任を取って自決したとして幕引きが図られたのです。
一木大佐の娘は、部隊の全滅を知らされても、秘密を守るように軍に口止めされました。

大本営は、その後もガダルカナルに小出しに部隊を送り込みます。
敗北を重ねるたびに兵力を増やし、日本人延べ3万人以上が戦いました。
一木支隊で辛くも生き延びた敗残兵は、帰国も敵わず密林で戦い続けました。
そしてそれは、更なる悪夢の始まりでした。

一木支隊が全滅した後、アメリカ軍は飛行場を拡張し、戦闘機の数を増やしていきました。
日本軍の輸送船が島に近づくたびに、襲い掛かります。
食糧の補給も途絶え、生き残った一木支隊の兵士たちは地獄を見ます。
兵士たちは次々と飢餓に斃れ、命を落としていきました。

1942年12月・・・
このまま戦いを続けるか、撤退をするのか??陸海軍が衝突していました。
日本軍がガダルカナル島から撤退したのは、一木支隊が全滅してから半年後・・・1943年2月のことでした。
この間に、1万5000人が飢えと病で命を落としました。

アメリカ軍は、次々と太平洋の島に上陸し、日本を追いつめます。
日本は、陸海軍の対立が続く中、人命を軽視した戦いが続きます。
1943年11月ギルバート島タワラ
1945年2月硫黄島
1945年4月沖縄
終戦までに犠牲者は300万人を超えました。

組織の狭間で無謀な戦いを強いられた一木支隊・・・
日米の激闘で地獄の戦況と化したガダルカナル島・・・
日本軍の組織の論理は悲劇の指揮官を生んでいました。

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