日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:三好長慶

1573年7月、織田信長が将軍・足利義昭を追放・・・
室町幕府を事実上の滅亡に追い込みました。
しかし、信長よりも20年も前に、時の将軍を都から追い出した戦国武将がいました。
その男の名は、三好長慶。

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長慶は、畿内を実効支配、足利将軍に変わって自ら政権を握ろうとしました。
治安維持から中国との外交まで、将軍が行っていた政務を滞りなく行う長慶に、天応や朝廷が信任を寄せていきます。
その名は、遠くヨーロッパまで轟いていました。

室町時代末期、畿内と呼ばれた京の都周辺では応仁の乱の余波ともいえる争いが続いていました。
足利将軍家、さらには将軍家の補佐役の管領の細川家、畠山家が家督継承をめぐって分裂。
三好家は、細川家の家臣としてこの骨肉の争いに巻き込まれていきます。

1522年、三好長慶は阿波国で生まれます。
ところが、長慶11歳の時に、父・元長が主君・細川晴元に謀反の疑いをかけられ、自害に追い込まれてしまいます。
若くして家督を継ぐことになった長慶には、父の仇である晴元に従い続ける以外には道がありませんでした。
転機が訪れたのは、18歳の時・・・
長慶は、現在の兵庫県西宮市にあった越水城の主となります。
この地で長慶は、三好家の立て直しと父の敵討ちのために改革に乗り出します。

父の死の際に、三好家は多くの家臣を失っていました。
そこで長慶は、大胆な人材登用をします。
身分や家柄にとらわれず、幅広い階層から積極的に優秀な人材を取り立てて行きました。
この時に召し抱えられた者たちは、長慶の家臣団の中核をなしていきます。
その中には、土豪身分の出身とされる松永久秀もいました。
長慶は、統治者としての才能を開花していきます。
兵庫県尼崎市にある法華宗大本山本興寺・・・長慶と寺が交わした禁制と呼ばれる取り決めを記した文書が残っています。
禁制には、
・軍勢が乱入し狼藉を働かない
・本興寺の断りなしに、家を建てないこと
などが記されています。
三好が本興寺にある程度の自治を認めているということのひとつです。

本興寺の自治を認め、積極的に保護した長慶。
そこには、彼ならではの狙いがありました。
本興寺には、影響下にある末寺と呼ばれる寺が多く、そのネットワークは堺を起点に畿内や瀬戸内海沿岸、さらには種子島にまで及んでいました。
法華宗の信者たちには商人が多く、彼らはこのネットワークを活用して東アジアを結ぶ貿易ルートを築いていました。
法華宗日隆門流の日本の首都・京都と、琉球や民国に開かれた種子島を結ぶ交易ネットワーク・・・これを保護することによって、東アジア世界に自分の経済基盤を作っていきたいと考えていました。

長慶が手に入れた交易品のひとつとされるもの・・・
それこそが、最新鋭の武器・鉄砲でした。
当時、三好勢と戦をした相手方の記録には、城の壁を二重にし、間に石を詰めて鉄砲の備えとしたとあり、既に長慶が大量の鉄砲を実践投入していたことが伺えます。
実力本位の人材登用、南蛮貿易へとつながる経済活動によって着々と力を備える長慶・・・
父の仇・細川晴元打倒に向けて、機は熟していきました。

1549年、長慶は、主君である細川晴元に決戦を挑みます。
細川勢の重要拠点とされた淀川とその支流に囲まれた江口に攻め込みます。
長慶の軍勢は川を封鎖、細川勢の逃げ道をふさぎ、800人余りを討ち取る大勝利を収めました。
劣勢となった晴元は京都を脱出、ところがこの時思わぬ事態が起こります。
晴元が、14歳の将軍・足利義輝を連れて逃亡!!
当時、将軍家は細川晴元と連携関係にあり、晴元が都を離れれば義輝もついていかざるを得なかったのです。
長慶は、思わぬ形で将軍・義輝にも刃を向けることとなってしまいました。
父の無念を晴らすために戦っていた長慶・・・
しかし、この戦いが、将軍との長い対立の発端となってしまいました。

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室町幕府13代将軍・足利義輝・・・
三好長慶に都を追われた当時、まだ14歳でした。
母は公家社会の頂点に立つ近衛家の出身です。
それまでの足利将軍の中で、最も高貴な血を引き、幕府再建に向けて周囲の期待も大きかったのです。
しかし、都を追われた翌年・・・1550年、父・足利義晴死去。
都に帰れない失意の中で、自害したともいわれています。
葬儀の際、義輝は三好への徹底抗戦を誓う言葉を残しています。

「たとえわが命を父祖のために亡くし、屍を三好の軍門に晒すことになろうとも、一歩たりとも引くことはせん””」by義輝

義輝は、自分にかけられた期待を強く理解していて、自分が将来将軍として執政をするときには幕府を再興しなければいけない意識を強く持っていました。
陪臣である三好に攻められて、京都を追われて、父まで失うという状況の中で、三好に対する憎悪、憎しみはかなり強く持っていました。
しかし、三好軍に対抗できる軍勢を持たない義輝は、なりふり構わない手段に出ます。

長慶暗殺を幾度も企てます。
一度目は、長慶の滞在する屋敷に火を放とうとするものの事前に発覚し失敗。
二度目は、宴会中の長慶を刺客に襲わせました。
しかし、手傷を負わせただけで失敗。
義輝は、長慶の周囲にも刺客を放っていました。
そして、長慶の義理の父の暗殺に成功します。
血なまぐさい緊張状態に陥っていく義輝と長慶。
すると、この状況を憂いた幕府の六角氏が和睦を仲介に動き出します。
これを受けて長慶は、将軍・義輝との和睦を決断します。
長慶としては、将軍を追放するとか、室町幕府を滅ぼして管領家もなくなってしまえばいいとか・・・
そういうことではなくて、問題であった家の分裂を一本にまとめ上げることで、畿内に平和を取り戻す・・・これが当初考えていたことでした。

和睦に際に、長慶は条件を出します。
将軍義輝の帰京は認めるが、細川晴元を幕政から排除してほしい・・・
混乱の火種だった細川家の分裂争いを解消する狙いがありました。
さらに長慶は、将軍の直臣となることを要求します。
義輝の政務を直接補佐し、幕府の再建を目指そうとしました。
長慶との和睦が成立し、京都に戻った義輝・・・
ここで義輝も行動に出ます。
長尾景虎・尼子晴久・朝倉義景など地方で頭角を現した大名達へ幕府の役職などの栄典授与しました。

従来のように家格や身分を重視するのではなく、実力で評価し、新興大名を取り込もうとしたのです。
しかし、彼らは下剋上によって主家に代わって台頭した武将たち・・・
これは、将軍自ら下剋上にお墨付きを与える行動にも見えました。
幕府再建に向けて歩み出した三好長慶と将軍・義輝・・・
しかし、両者の平穏は一時的なものにすぎませんでした。

将軍直臣となった長慶・・・徐々に幕府内での影響力を強めていきます。
しかし、成り上がり者の長慶をよく思わない反三好派が将軍・義輝に接近していきました。
その一人が、細川晴元でした。
義輝の周辺では、三好協調派と反三好協調派に分裂していました。
反三好派とよばれる人たちが、三好と手を切って、細川晴元と手を結ぼうと義輝に口にしていきます。そんな中、義輝も、幕府を支えてきた細川晴元と再び連携をして以降と考えるようになります。

そして事件は起こりました。
1553年3月、足利義輝挙兵。
長慶との和睦を一方的に破棄、細川晴元とともに挙兵し、京の霊山城に立てこもりました。
さらに義輝は、長慶を将軍に刃を向ける賊軍・御敵であるとし、各勢力に長慶攻撃を呼びかけました。
2人の協調関係は、1年余りで破綻・・・!!

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1553年8月、三好長慶挙兵。
2万5000の大軍で、義輝の籠城する霊山城を包囲しました。
この時、義輝の期待に反し、畿内諸国や義輝が栄典を授与した地方の大名が援軍を送ることはありませんでした。
さらに、義輝にとってまさかの事態が起こります。
長慶側の大軍に動揺した細川晴元が、一戦も交えずに逃亡!!
一気に孤立無援の状況に陥った義輝・・・
再び近江へと落ち延びざるを得ませんでした。
こうして、京の都はまたしても将軍不在となりました。

新たな将軍を擁立する??それとも自ら政権を握る??

将軍を都から追いやった三好長慶の選択は・・・自ら政権を握るというものでした。
将軍やその後ろ盾すら持たない、後に三好政権と呼ばれる長慶の政権が誕生しました。
三好政権とはどのようなものだったのでしょうか?

大阪府高槻市には、本拠地とした芥川城があります。
長慶の政治の特徴は・・・??
水争いでは、長慶が実際に検使など派遣して実況見分をして裁判の結果を出しています。
当時の戦国武将の中でも、画期的なことだと評価されています。
当時、このような水争いで集落同氏が対立すると、大きな衝突に発展することが度々ありました。
長慶は、公平な調停者として争いを無くそうと努めたのです。
寺や神社の争いにも、長慶は公平な裁決を下しました。
時には、義輝や幕府が過去に下した採決を無効にしてしまうことすらありました。

三好政権での長慶の活躍は、外交にも及びます。
1556年、中国の明の使節が倭寇の取り締まり強化を求めて来日した時のこと・・・
本来、こうした外国使節への応対は、将軍の専権事項とされてきました。
しかし、この時、武家の代表として長慶が、後奈良天皇らと共に明の使節と対面しています。
長慶は、明の使節からも高く評価され、中国の歴史上の偉人になぞらえて記録されるほどでした。
優れた統治者として畿内を治める長慶は、将軍に代わる天下人とも呼べる存在となっていました。

一方、長慶によって都を追放された将軍・足利義輝・・・
滋賀県高島市・・・かつては朽木谷と呼ばれたこの山間の地に身を寄せていました。
父・義晴のために京の銀閣の庭園を模して造られた庭を眺めながら、都への返り咲きを虎視眈々と狙っていました。
この頃、義輝が積極的に行ったのが、全国各地の大名間の和睦調停です。
将軍の名で和睦を仲立ちすることで、地方勢力と関係を築こうとしていました。
やがて、それが実を結び、巨大宗教勢力・本願寺を味方につけ、長慶に対抗できる体制が整っていきます。
こうした中、起きたのが改元問題です。

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1558年2月・・・弘治4年に永禄元年・・・新たに即位した正親町天皇が、「永禄」へ改元します。
本来、武家の代表である将軍が儀式の費用を負担しつつ、天皇と改元を行うのが通例でした。
しかし、正親町天皇が、改元に当たって選んだのは、義輝ではなく長慶でした。
現職の室町将軍である自分を蔑ろにした改元・・・義輝には、到底受け入れることができませんでした。
義輝は、前の元号・弘治の使用を続け、長慶への抵抗を表明します。
この改元問題を機に、両者の緊張関係が高まっていきます。
そして義輝は、京の都を奪い返すべく挙兵。
三好勢との戦闘を開始しました。
この動きに対して、毛利は改元後も弘治を使い続け、義輝支持を打ち出しました。
さらに全国でも、毛利家同様に義輝を支持する反三好勢力の存在が浮き彫りになっていきます。
図らずも改元によって三好政権の基盤の弱さを見せつけられた長慶は、苦渋の決断をします。
1558年11月、義輝と二度目の和睦をし、再び都に迎え入れました。
すると、越後の長尾景虎、美濃の斎藤高政、そして、尾張の織田信長らが次々と上洛。
義輝の帰京を祝しました。
長尾景虎は、将軍・義輝に謁見すると、「越後の国を捨てても御前をお守りする覚悟」とまで発言しました。
こうして三好政権は、およそ5年でその幕を閉じました。
将軍なくしては、全国の大名を従えることはできないと、長慶は思い知らされたのです。

義輝との2度目の和睦の後に、長慶が移った山城・・・飯盛城。
標高300mの山の上に築かれています。
東西およそ400m、南北およそ650mの規模を誇る近畿地方最大級の山城です。
発掘調査で、城の50カ所以上で石垣が発見されました。
長慶が、織田信長に先駆けて本格的な石垣づくりの城を作っていたと注目されています。
かつては城の全域に石垣があった可能性が高いと思われます。
まさに、難攻不落の要塞です。
石造りの城を見せることで、長慶の権威を見せつけようとしていたのかもしれません。
さらに、発掘調査からは、一風変わった宗教施設を作っていたようです。
記録によれば、長慶は、源氏の氏神を勧請しようとしていました。
城の北側の曲輪にある御体塚の付近がその場所ではないかと言われています。
源氏の氏神を祀ることで、三好一族は足利家にも対抗しうる正当な家柄であるとする気持ちがありました。
三好家は、正当な家筋の人たちではないので、我々は源氏の血を引いているということを主張したかったのです。
ここからも、まだまだ支配者たらんとする長慶の姿が見えてきます。

そして長慶は、この飯盛城を拠点に、急速に領土拡大戦争を始めました。
若狭や丹後にまで進出、その支配領域は13カ国にも及びました。
ところが・・・ここから次々と悲劇が長慶を襲います。
三好家を支えていていた2人の弟が相次いで死去。
さらに、1563年には嫡男・三好義興急死。
立て直しを図る間もなく、長慶自身までもが病に倒れ、あえなくこの世を去ります。
享年43歳。
一方、長慶の死の翌年、将軍義輝の身にも悲劇が・・・!!
1565年、三好家の軍勢が、義輝を襲撃!!
なんと、義輝は、その場で討ち取られてしまいました。
享年30歳。

16年に及んだ三好長慶と将軍・義輝の対立は、2人の死で幕を閉じることとなります。
そして、義輝殺害から3年・・・最後の将軍となる足利義昭と共に上洛してきたのは、あの織田信長でした。

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1530年1月21日、雪深き越後国に一人の男の子が生まれました。
やがて若武者へと成長した子は、龍の如く戦国の世を駆け抜けていきます。
人々は、その生きざまを”越後の龍”と称しました。
そう・・・上杉謙信です。
自らを毘沙門天の化身と名乗り、仏教に深く帰依していた上杉謙信・・・
そんな幻覚で真面目な謙信が目指したのは、騒乱の終息と、秩序の回復でした。
義の武将、軍神として人気の上杉謙信が悩み、挑み続けた若かりし日々とは・・・??



謙信の姓は・・・上杉??
上杉は、後に次いだ家の名・・・元々の名前は長尾です。
上杉家と長尾家の関係は、上杉・守護と、長尾・守護代です。
守護は、室町幕府のもと領国を治める行政官のことで、国の主です。
守護代は、守護の補佐役です。
京都にいることが多かった守護に変わって、それぞれの領国の国人領主たち(国衆)を、現地で束ねていたのです。

鬼若殿、寺に入れられる
謙信は、越後国の南西部にあった長尾家の居城・春日山城で、越後守護代・長尾為景と虎御前との間に生れました。
幼名は虎千代・・・謙信は、後に出家した法名です。
謙信の父・為景は、戦に臨むこと100回以上、冷徹無比なその戦い方から、戦の鬼と呼ばれていました。
下剋上を果たし、越後の国をわがものにしたいと思っていた為景は、武力によって主君である越後守護の上杉房能を自害に追い込むと、房能の養子・忠実を名ばかりの守護につけ、実質上支配してしまいます。
そんな戦の鬼の血を引く謙信は、幼いころから腕白でした。
チャンバラ争いをしては相手を泣かせる毎日・・・
そんな謙信についたあだ名は、鬼若殿!!
ただし、負かす相手は年上ばかり。
年下や弱い者には決して手を出しませんでした。
その理由は・・・観音菩薩を熱心に侵攻していた母に弱い者いじめをしない思いやりのある子に育てられていました。
そんな中、父・為景は戦に明け暮れていました。
為景の、無慈悲で強引なやり方に、国人領主たちが反発し、度々蜂起していたからです。
その中心となったのが、越後守護の上杉定実の実家・上条家でした。
上条家は、打倒・長尾為景を掲げ挙兵・・・上条の乱です。
そんな戦のさ中、1536年5月・・・
7歳になっていた謙信は、父・為景から突然命じられます。

「お前は寺に入れ!!」と。

謙信は、春日山城下にあった長尾家の菩提寺・林泉寺に入れられたのです。
謙信には、18ほど年の離れた母違いの兄・晴景がいました。
長尾家の家督は、嫡男である晴景が継と決まっていたからです。
武家において家督争いを防ぐために、嫡男以外の男子を出家させることは通例で、それに従い、父・為景は、謙信を寺に入れたのです。

ただし・・・それは表向きの理由でした。
一説には、気質が合わず嫌って寺に入れた??
が、これは後世に作り話だと思われます。
実際は・・・上条の乱でほとんどが反・為景派となりました。
越後中の領主が、春日山城に迫ろうという勢いでした。
謙信が危険に晒されないように、林泉寺に避難させたというのが妥当です。
兄・晴景は病弱で、軍隊を指揮することが期待できませんでした。
父・為景は、謙信を兄・晴景の陣代として線状に赴く大将に育成したいと考えていました。
兄・晴景に万が一のことがあった時のために、謙信の命を守る必要があったのです。



その後、父は不利な状況を覆し、上条の乱を鎮めます。
1536年8月、為景は、勝利に安堵したのか、長尾家の家督を謙信の兄・晴景に譲ります。
一方、いやいや寺に入れられた謙信は、そこで障害の師と出会います。
曹洞宗の僧侶で林泉寺の住職・天室光育です。
謙信は、天室和尚から、仏の教えだけでなく、陣代となるべく兵法も学んでいきました。
厳しい修行の中、謙信が何より楽しみにしていたのが城攻め遊びでした。
それは、一間以上ある城の模型を使い、兵士に見立てた駒や引きを配置するシミュレーションゲームのようなものでした。
上杉家歴代当主の誕生から葬儀までを記した”上杉家御年譜”によると、謙信の城攻め遊びの才は、見事だったようで・・・

「虎千代さまは、軍配に優れ、尋常の人ではない
 将来、家運を開く器である」

それを聞いた父や兄は、大いに喜んだといいます。
ただ、腕白ぶりは相変らずで・・・
ある日、寺の本堂で兄弟子たちと大喧嘩・・・たまりかねた和尚が、

「本堂でけんかをする者は柱に縛り付けるぞ」

そう叱り飛ばすと、兄弟子の一人が、

「虎千代さまが乱暴者で悪いのです」

と、謙信のせいにします。
すると謙信は・・・

「和尚様、私が兄弟子と相撲を取り始めると、もう一人の兄弟子が後ろから組み付いてきたのです
 相撲は1対1でやるもの・・・
 それを2人がかりで来るのは卑怯なふるまいと思い、懲らしめていたのです」

間違った行いを許せない謙信に感心した和尚・・・
そんな和尚が、謙信に常々教えていたのは、”兄を侮って家を乱す企みをせぬこと”でした。
その為、儒教を中心とする教育・・・四書五経などで、忠誠心・道徳心の強化が図られました。
あくまでも謙信は兄・晴景の陣代として教育されたのです。
物事の道理を守る筋目と、道理に外れたことをしない非分・・・
謙信が将来貫くこととなる義の心は、天室和尚によって培われたのです。
時は過ぎ、謙信が寺に入って6年・・・運命が大きく動きます。



戦の鬼・父・為景も、病には勝てず、この世を去りました。
謙信は、急いで春日山城に向かいましたが、城内は大混乱に陥っていました。
為景による支配に反感を持っていた越後の国人領主たちが、為景の死を知り・・・好機と見、春日山城下に迫ってきていました。
その為、敵の攻撃に備え、鎧をつける謙信・・・
まるで出陣前の緊張感の中、執り行われた父の葬儀。

「仏門にいる私に、今、何が出来ようか・・・」

戦にも出られない自分に、ただただ腹立たしく思う謙信・・・この時、13歳でした。
1543年、謙信は、兄の命を受け、長尾家の居城・春日山城に戻ります。
そこで、14歳の謙信は元服し、名を景虎と改めました。

謙信の父・為景が亡くなった越後国は大混乱!!
戦の鬼と恐れられた為景と違い、当主となった晴景は病弱で、国をまとめる力がないと侮られ、長尾家を倒すのは今しかないと、亡き為景に反感を抱いていた国人領主たちが各地で蜂起したからです。
中でも当主・晴景を悩ませたのが、一族である長尾平六でした。
平六は古志郡で挙兵、反目していた為景に父親を殺されたことを恨んでのことでした。

1543年、兵六方の攻撃が激しさを増す中、晴景は古志郡で平六方と戦う晴景方の栃尾城主・本庄実乃にこんな書状を送ります。

”病気も治ったので、安心してほしい
 景虎を援軍に送るから、勝利は眼前であろう”

晴景は、寺から呼び戻し、景虎を名を改めさせた弟・謙信を、反乱鎮圧の切り札として送ったのです。
こうして、晴景の陣代となった謙信は、

「兄上に代わって逆賊を討ってみせる!!」

力強く、家臣たちの前で宣言・・・謙信、この時14歳でした。
初陣と言われる栃尾城の戦いの始まりでした。

謙信・・・初めての戦
1543年10月、長尾平六の反乱を鎮圧すべく、援軍として栃尾城に入った謙信に対し、平六は・・・
若い謙信を子バカにして、まるで猫がネズミをいたぶるように栃尾城攻めを繰り返します。
それでも、謙信は動揺を見せませんでした。
謙信たちが籠った栃尾城の守りは固く、平六方の猛攻にも耐え、膠着状態に・・・
1544年1月23日・・・謙信方の軍勢が城を出て、平六方の軍勢に近づいたのです。
これに対し、平六方は激しい攻撃を仕掛けますが・・・謙信は、はやる将兵を戒めます。
しかし、平六方の猛攻は止まず・・・家臣たちは、謙信に突撃の許可を求めます。
すると謙信は・・・

「汝ら老巧の勇士たりと言えども、戦術に練達せず
 今は、兵を出すべき時節にあらず
 しばし、敵勢を耐えよ」

この謙信の命令に対し、

「聡明を謳われて世に出たものの、結局は若造だ
 臆病なことよ」

そう陰口をたたく者もいました。
しかし、謙信には秘策がありました。
平六方が目の前の攻撃に集中している隙をつき、謙信は自らの軍勢を二つに分け、片方の軍勢を平六方の背後に回したのです。
陣形が整うと、謙信は・・・

「かかれ!!」

背後から平六方に奇襲をかけたのです。
これに驚いた平六方は、混乱状態に・・・
すると謙信は、追い打ちをかけるように正面からも猛攻撃をかけ、平六方を制圧!!
総大将の長尾平六をはじめ、多くの敵将を討ち取りました。
指揮官として並外れた才能を見せた謙信・・・見事初陣を飾ったのです。

その後も各地で謀反が起こり、その度に謙信が晴景に代わって鎮圧に・・・
その武功を聞いた越後各地の領主たちの謙信に対する期待が高まります。
そして、謙信の兄・晴景に不満を抱く一部の領主たちが、晴景に退陣を求めるようになります。
中には、謙信を擁立し、越後を一つにまとめようと画策する者たちも現れました。

謙信、守護代になる
15歳で初陣を飾った長尾景虎・・・後の上杉謙信は、病弱だった兄・晴景の陣代としてその後も出陣し、次々と勝利・・・
指揮官としての才を発揮していきます。

「景虎さまは負け知らずじゃ!!」
「まるで毘沙門天の化身じゃのう!!」

謙信は、戦いの神・毘沙門天に例えられるなど、日増しに家臣たちの人望を集めて行きました。
それに伴い、謙信が守護代になることを望む機運が高まっていきます。

相模の北条氏康が関東制覇に向けて快進撃を・・・武田晴信は信濃攻略を進めていました。
その二つの勢力が、越後に迫る可能性がありました。
これに対抗するためには、病弱な兄・晴景では心もとない・・・
晴景に代わって将来有望な景虎に守護代になってもらいたいと周囲が望むのは当然の成り行きでした。
そんな中、謙信の軍記物などによれば・・・
越後守護代・晴景の陣代として活躍する謙信のことを苦々しく思っていた人物がいました。
誰あろう謙信に陣代を任せていた本人・・・兄・晴景です。
さらに、謙信を守護代にしようと目論む勢力が、謙信に晴景との戦いを持ち掛けたといいます。
それを知った兄・晴景は、先手を打つことに・・・
謙信がいた栃尾城に兵を送り、城を包囲したのです。
兄から攻められることとなった謙信は、

「兄上の兵は必ず今宵引き返す
 故に、日が沈むのを待って打って出る!
 それに備えよ!

 よく見て見よ、小荷駄を連れておらぬであろう
 腰兵糧だけでは、行き帰りの行軍が、精一杯だからな」

その読みは的中!!
晴景方の軍勢は、日没を待って撤退していきました。
すると謙信は、その背後を急襲!!
晴景方を大混乱に陥らせたのです。
その知らせを聞いた兄・晴景率いる本隊は、慌てて居城・春日山城へ退却!!
しかし、謙信方の追撃を受け、多くの兵を失ってしまいました。
兄弟対決は、謙信の圧勝で終わりました。



そんな兄弟の対決に胸を痛めていたのは、越後守護・上杉定実です。

「長尾の兄弟げんかがもとで、越後国が乱れては困る!!」

定実は、2人の仲裁に入ります。
そして、周囲の評判や、両者の器量などを考慮した説得により、謙信が兄・晴景の養子となって長尾家の家督を継ぎ守護代になることが決まりました。
こうして、兄との戦いの末、勝利した謙信が越後守護代になったことから・・・
謙信が兄から守護代の座を奪ったといわれてきました。
しかし、本当にそうだったのでしょうか??

兄・晴景派、早い段階から家臣たちからの「守護代を景虎に譲る」という進言を受け入れていました。
兄の家督相続の打診に、景虎は「まだ若く、その器ではない」と断っていました。
しかし、最終的に、守護である定実から命令され、三者合意のもと平和的に家督が譲られたのです。
軍記物にある戦いも、実際にあったのかどうか定かではなく、謙信・晴景・上杉定実の三者会談も、謙信を守護代にするべく説得するために開かれたものでした。
兄と対立する気などさらさらなかった謙信・・・
越後守護代になる際には、兄を立て、誓いを結んでいます。

”兄・晴景の病気療養中のみ家督を預かり内乱を収めること
 国の運営などの政策は、兄・晴景の許可を得て行うこと”

謙信は、少年時代に天室和尚から叩き込まれた
「兄を侮って家を乱す企みをせぬこと」
という教えを守り、あくまでも兄の病気が治るまで越後守護代となったのです。
謙信、19歳のことでした。

謙信、越後国主になる
長尾景虎・・・後の上杉謙信が19歳で家督を継ぎ、越後守護代となった2年後の1550年。
謙信を守護代に推した越後守護の上杉定実が病で亡くなります。
定実には、跡継ぎがいなかったため、越後国には守護がいなくなったのです。
守護になれるのは、定められた格式の家柄のみ・・・
その為、その家格でない長尾家の謙信は、守護にはなれませんでした。
しかし、事実上の越後国の国主となりました。
そんな謙信に、室町幕府将軍・足利義輝から書状が届きます。

「公方様から、毛氈鞍覆と白傘袋を使っても良いとのお許しが出たぞ」by謙信

毛氈鞍覆を許すとは、行列の先頭にいる馬の鞍の覆いに動物の毛を固めて作った毛氈を使ってもよいということ。
また、白傘袋を許すとは、高貴な人が外出する際に、後ろから衣笠を翳す・・・それをしまう袋の色に白を使ってもいいということです。
毛氈鞍覆の使用は、守護代でも使用可能でしたが、白傘袋の使用は守護しか許されませんでした。
将軍・義輝が、謙信に白傘袋の使用を許可したということは、室町幕府が謙信を守護国主として認めたということなのです。
しかし、その裏には、将軍・義輝の思惑がありました。
伝える書状には、こんな事も書かれていたのです。

”将軍家のために尽くせ”

この時、将軍・義輝は、陪審の三好長慶と争って、京都を追われ近江に避難していました。
下剋上の憂き目にあっていたのです。
将軍の権威は保てない・・・京都に戻らなければ・・・!!
義輝は、京都に戻るには有力大名たちの支援が必要で、景虎に箔をつけて味方につけよう目論んだのです。
しかし、謙信はまだ21歳の若輩者・・・
将軍義輝が期待したのは、長尾家の財力でした。
長尾家の治める越後国は、他国の数倍に値する国力を持っていました。
実際、謙信の父・長尾為景は、越後で権力を守るため、後ろ盾になってもらおうと朝廷や幕府に働きかけていました。
その際の貢ぎ物から、将軍・義輝は、長尾家の資金力の豊かさを知っていたのです。
長尾家の豊かな資金力・・・その源となっていたのが、青苧と越後上布です。
青苧は、カラムシの皮から取った麻糸で、その麻糸で紡いだのが越後上布です。
高級品として高値で取引されていました。
長尾家は、その売り上げから税収を得ていたのです。
さらに、長尾家には、大きな資金源がありました。
銀山です。
越後北東部の鳴海金山をはじめとする鉱山郡・・・通称・越後黄金山などで、大量の金を産出していました。
こうした資金源を背景に、謙信は越後国主として邁進していくのです。

”晴景 嫡男成長の時に至りては、速やかに家督を渡すべし”

謙信は、中継ぎでした。

「結婚して子が生まれては、兄の子に家督を返すことが難しくなる
 生涯、妻を持たぬと誓ったのは、全て兄への義を立てるため」by謙信

その意志は強く、兄の子が亡くなった後でも、中継ぎ当主という立場を貫きました。

「依怙によっては弓矢は取らぬ
 ただ節目をもって何方なれど 合力す」by謙信

そんな義の武将だからこそ、謙信のもとには助けを求める武将が・・・!!

謙信、いざ川中島へ!



1553年8月、国主となった謙信のもとに、ひとりの武将が助けを求めてやってきました。
北信濃国人領主・村上義清です。
甲斐の虎と恐れられた武田晴信・・・後の信玄との戦いに2度も勝利した男です。
ところが、武田方の策略によって、精力を削がれ、居城を追われることとなり領地を武田に奪われてしまいました。
そこで義清は、「武田から領地を取り返してほしい」と、謙信に助けを求めてやってきたのです。

「貴殿ほどのお方が、この若い私を頼られたのだ
 武士として見捨てることはできぬ、お助けしましょう」by謙信

謙信は、8000の兵を率いて出陣!!
義清の領地を取り戻すため、信濃の川中島で武田ん軍勢と対峙!!
11年、5度に及ぶ川中島の戦いの始まりでした。
戦いを優位に進めた謙信は、義清の領地を次々と奪い返していきます。
一方、武田の軍勢も反撃に出ます。
しかし、深入りしてくることはありませんでした。
こうして、一度目の対決は、両者腹の探り合いで終わったのです。

この戦ののち、謙信が向かったのは、京都。
前年、謙信は朝廷から従五位下の叙位と、弾正台の次官弾正少弼に任じられていました。
その返礼の為、朝廷のある京都に向かったのです。
謙信は、時の後奈良天皇に拝謁、天皇から上洛したことのねぎらいから、天盃と、御剣をもらいました。

「この上ない名誉、心して御奉公いたします」by謙信

さらに・・・

「住国ならび隣国に、敵心を差し挟む輩を治罰せよ」by後奈良天皇

これは、越後国内と隣国での謙信の戦いを、天皇が正義の行いと認めたということ・・・。
こうして謙信は、越後の統一、武田信玄との戦い・・・義の武将として戦っていくこととなります。

はじめて京の都を見て回った謙信は、朝廷や幕府の逼迫した実態を知り、自分がそれらを立て直すと心に誓ったといいます。
そして、謙信はそのあとの人生を捧げていくこととなります。
謙信、24歳の時のことでした。

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今からおよそ480年前・・・
1543年、種子島に漂着したポルトガル人が日本に鉄砲を伝えました。
これが、日本人が初めてヨーロッパ人と出会ったときといわれています。
その6年後の1549年、薩摩に再びヨーロッパ人が上陸しました。
日本に初めてキリスト教を伝えたカトリック修道会であるイエズス会の宣教師です。
彼の名は、フランシスコ・ザビエルです。
ザビエルが日本に滞在したのは、わずか2年半ほど・・・。
しかし、その間に、鹿児島、平戸、山口、京都、大分と移動して、精力的に布教活動を行いました。
初めてのキリスト教・・・日本人はどのように対応したのでしょうか??

「日本へ行く聖職者は、考えも及ばぬほど大きな迫害を受けなければなりません」byザビエル
 
そして、ザビエルが日本を去っておよそ12年、来日したのがイエズス会宣教師ルイス・フロイスです。
フロイスは、あの信長の信頼を勝ち取り、自身が亡くなるまで30年以上も日本に滞在し、布教活動を行ったひとりです。
彼が残した記録「日本史」は、当たり前すぎて日本人は書かなかった当時の日本の様子が鮮やかに、そして詳細に綴られています。

宣教師ザビエルと被差別民 (筑摩選書) [ 沖浦 和光 ]
宣教師ザビエルと被差別民 (筑摩選書) [ 沖浦 和光 ]

1549年、フランシスコ・ザビエルは、43歳の時、イエズス会の宣教師としてキリスト教を伝えるために薩摩に上陸しました。
どうして日本だったのでしょうか??
ザビエルは、1506年、イベリア半島のナバラ国王の貴族の子として生まれました。
しかし、フランスとの戦争に巻き込まれ没落・・・聖職者を目指すようになります。
そして28歳の時、6人の同志と一緒にイエズス会を創設。
6年後、ローマ教皇パウルス3世によって、カトリック教会における修道会として正式に認められました。
イエズス会の創設の目的の一つは、キリスト教の世界布教でした。
ローマ教皇の命令であればどこであっても赴くのです。
キリスト教を世界に広めるため、ザビエルたちがまず向かったのは、インド内のポルトガル領だったゴアでした。
そこを拠点に、アジアにキリスト教を広めていくことになります。
その一環として、マレー半島のマラッカに・・・そこで、運命の出会いを果たします。
アンジローという日本人です。
元武士だったといわれるアンジローは、故郷・薩摩国で殺人を犯してしまったため、ポルトガル船に乗り込み海外に逃亡していました。
しかし、ザビエルに出会ったときには、罪の赦しを得るため、キリスト教への改宗を願っていました。
そんなアンジローに、こう尋ねます。

「もしも私が、あなたと日本に行くならば、日本人は信者になるであろうか」byザビエル

アンジローに出会ったことで、ザビエルは、日本という未知の国に強い興味を持ったのです。
さらに、ザビエルは、日本でのキリスト教の布教の可能性を強く感じていました。
インドや東南アジアは、他民族・多言語だったため、部卿が難しいと感じていたのです。
日本が一言語であるため、布教がしやすいと考えていました。
日本人が、物事を理性で判断する民族で、言語が一つであることを知り、キリスト教を理解してもらいやすいと考え、来日を決めました。

こうしてザビエルは、1549年6月24日、宣教師の同志らと共に、受洗し日本人初のキリスト教徒となったアンジローを伴い、マラッカから出航。
およそ2か月後の8月15日、薩摩に上陸しました。

ザビエルと天皇 豊後のキリシタン歴史秘話 [ 守部喜雅 ]
ザビエルと天皇 豊後のキリシタン歴史秘話 [ 守部喜雅 ]

応仁の乱ののち、戦乱の世に突入し、30年近くが経とうとしていました。
薩摩についたザビエルたちは、アンジローを通訳として、薩摩国の守護大名・島津貴久に謁見。
すると、以外にもキリスト教布教の許しを得ます。
幸先のいいスタートを切った布教・・・ザビエルは、ゴアのイエズス会に向けて最初に受けた日本の印象を書き送っています。

”この国の人は、今まで発見された国民の中では最高であり、日本人より優れている人々は異教徒間には見出すことができないでしょう
 彼等は皆、親しみやすく、一般的に善良で悪意がありません
 彼等は驚くほど名誉心の強い人々で、他の何よりも名誉を重んじます”

特にザビエルが優れていると感じたのが、読み書きの能力でした。
日本人の識字率の高さに着目しました。
識字率の高さが、祈りや教理を短時間で覚え、理解するのに役立つと期待したのです。

ザビエルたちは、布教を許可してくれた島津家の菩提寺の門前で、布教を開始。
ところが、期待したほど信徒が集まりません。
原因は、アンジローの通訳にありました。
日本語の翻訳が不十分で、誤りも多かったのです。
アンジローは、キリスト教の用語を仏教用語に置き換えて訳しました。
日本人は、キリスト教を仏教の一宗派と勘違いし、「天竺宗」と呼ぶ人もいました。
これは、アンジローの無知によるものと考えられます。
しかし、一般の日本人では仕方がなかったと考えられます。

誤解に気付いたザビエルは、神をラテン語やポルトガル語の「デウス」のまま表現しました。

創造主としての神→キリストの生涯→最後の審判

を説いていきました。

薩摩にやってきて日本人の優秀さに感心したザビエルでしたが、どうしても許せない日本の慣習がありました。

「ボンゾズ(僧侶たち)には、私たちはしばしばそのような醜い罪を犯さないように言いました
 ボンゾズは、私たちの言うことを嘲笑してはぐらかし、極めて醜い罪について非難されても、恥ずかしいとは思わないのです

 ボンゾズは、修院に読み書きを教えている武士の子供たちを多数住まわせて、その子供たちに邪悪な罪を犯していますが、その罪が習性となっているので、たとえ全ての人々に悪であると思われても、それに驚きません」byザビエル

僧侶たちの醜い罪とは・・・??
男色のことで、衆道ともよばれていました。
男色は、日本では寺院だけでなく、戦国大名から一般庶民に至るまで、広く行われていました。
これは、それまでの布教の地とは全く違っていました。
同性愛は、キリスト教の倫理に外れることになります。
ザビエルの嫌悪感は、大きかったのです。

僧侶たちも、異教であるキリスト教を布教するザビエルたちを疎んじ、嫌がらせをする者もいました。
やがてその動きが波及し、キリスト教への迫害が薩摩で強くなってきたことで、ザビエルたちは薩摩を離れる決断をします。

薩摩でキリスト教布教を始めたザビエルたちでしたが、キリスト教迫害の動きが強くなってきたので、1550年9月、アンジローを薩摩に残し、肥前国の港町・平戸に移ります。
領主・松浦隆信は、自らキリスト教に入信することはありませんでしたが、宣教師たちには好意的で、平戸での布教を許可。
松浦にはある目論見がありました。
自分たちの船を持たない宣教師たちは、布教のため海を渡る際、商人の船・南蛮船に乗せてもらっていました。
キリスト教の布教を認めれば、必然的に宣教師たちを乗せた南蛮船が来ることになります。
松浦の狙いは、その南蛮船でした。
キリスト教の布教を認めることで、南蛮貿易を盛んにし、鉄砲や海外の品々をいち早く入手することを目論んだのです。
ザビエルもこれを利用するようになります。
日本で貿易できることを口実に、宣教師たちが日本に来るための船を確保できたのです。

平戸での布教活動も困難を極めます。
子供たちが驚いて、嘲笑したり、石を投げたり、大人からの暴力・・・
はじめて見る異国の人々・・・ただただ怖かったのかもしれません。
日本での布教が困難なことを身をもって知ったザビエルは、これから来る宣教師たちにこう伝えます。

「日本へ行く聖職者は、考えも及ばぬほど大きな迫害を受けなければなりません」byザビエル

ザビエルは、更なる信者獲得のために、山口へ・・・京の都に向かうのです。
天皇への謁見は、ザビエルの大きな目的の一つでした。
しかし、都は応仁の乱の爪痕が大きく、天皇との謁見を断念。
失意の中、山口に戻ったザビエルでしたが、ここで事態が一変・・・布教の許可が下ります。
許可を下したのは、山口を拠点に周防・長門・石見・安芸の中国地方・・・さらには、豊前・筑前といった北九州を支配する西国一の戦国大名・大内義隆でした。
どうして、大内義隆は、戻ってきたザビエルたちに布教活動を許したのでしょうか??
ザビエルは、天皇に献上するはずだった海外の品々を、大内義隆に献上し、布教の許可を得たのです。
ザビエルは、このことも日本で布教するための教訓として伝えています。

「布教を進めるには、日本の領主たちに贈り物をして喜ばせることが必要」

この時、布教の許しを得た山口の町は、西国随一の町として繁栄!!
ザビエルは、ここを日本の布教の拠点としました。
早速布教を始めますが、日本人を観察してきた結果・・・
布教場所に最適と選んだのが、井戸端でした。
女性だけの家に入り込むこともはばかられたため、人が集まる井戸端を選び説教したのです。
その中で、日本人が一番関心を持ったのが、キリストの物語でした。
キリストが十字架に架けられる受難のくだりに、多くの人が涙を流したといいます。
ザビエルが、山口に滞在したのはわずか半年でしたが、およそ500人の信者を獲得しました。

インド・ユダヤ人の光と闇 ザビエルと異端審問・離散とカースト [ 徳永恂 ]
インド・ユダヤ人の光と闇 ザビエルと異端審問・離散とカースト [ 徳永恂 ]

その後、ザビエルは豊後に移動します。
そこで、布教活動をしながらこう考えます。

「キリスト教を、日本全土に広がるためにはどうしたらよいものか・・・」

ヒントとなったのは、仏教でした。
仏教は、古代大陸から日本に伝わり、広まったというし、日本人は大陸文化の影響を強く受けている・・・
ならば、明にキリスト教を広め、明から伝われば日本に広まりやすいのでは・・・??
そこで、ザビエルは、明でキリスト教を布教するため、1551年、日本を去り、インドのゴアへ・・・そして明に・・・!!
しかし、明は鎖国中で入国できず、熱病にかかったザビエルは、明の沖に浮かぶ小島・上川島で志半ばで亡くなります。
1552年12月3日、46歳でした。


ザビエルが日本を去って12年後の1563年6月16日、第4次日本派遣宣教師団として来日したのが、イエズス会宣教師ルイス・フロイスでした。
この時、31歳でした。
フロイスは、インド・ゴアにある宣教師教育機関で教育を受けています。
宣教師たちは、ザビエルに憧れ、日本布教に従事しようとしていました。
佐世保湾を望む長崎県西海市・・・かつて横瀬浦と呼ばれた場所に、フロイスは上陸しました。
その時の様子をこう書き残しています。

”横瀬浦のキリシタンたちは、司祭たちが到着したと聞くと200人ばかりが出迎えのため、急ぎ馳せつけ、大変な感動ぶりだった”

歓迎を受けたのには理由がありました。 
領主・大村純忠の存在です。
純忠は、ザビエルとともに来日し、日本に残った宣教師コスメ・デ・トーレスから洗礼を受けたばかりの日本初のキリシタン大名でした。
純忠が、横瀬浦周辺の土地を、イエズス会に与えたため、港は南蛮貿易で活気づき、キリシタンの集落や教会が作られました。
その為、フロイスたちは歓迎されたのです。

サンエイムック 時空旅人 ベストシリーズ ルイス・フロイスが見た明智光秀
サンエイムック 時空旅人 ベストシリーズ ルイス・フロイスが見た明智光秀

しかし・・・時は戦国・・・宣教師たちもその荒波に飲み込まれていきます。
純忠の義理弟・後藤貴明が挙兵。
横瀬浦もその攻撃を受け、火の海となります。
フロイスたちは、命からがら平戸に近い度島に避難・・・
横瀬浦は・・・

”海岸地帯には人が住んでおらず、ポルトガルの船がそこに入港する便宜も失われてしまっているということであった”

横瀬浦の惨状に心炒めるフロイスでしたが、自身もこの時、病気による高熱で苦しんでいました。
それでも望みを捨てることなく、難解な日本の言語と風習を学ぶなど、布教再開に向けて準備をします。

1565年12月、フロイスたちは京の都へ・・・。
都に入る時には、将軍・足利義輝に強い影響力を持つ三好長慶から布教活動を容認されていました。
長慶の家臣たちを中心に、500人ほどがキリシタンとなっていました。
フロイスは、都での布教に、強い期待を抱いていました。
しかし、平和な布教活動は、長くは続きませんでした。

1865年5月19日、実質的に都を支配していた三好長慶の養子・義継達が、将軍御所を襲撃。
13代将軍・足利義輝を殺害したのです。
世に言う永禄の変です。
フロイスは、こう書き残しています。

”この事件により、教会が存亡の危機に直面して、修院の全員が死を決意した”

首謀者たちが、法華宗の熱心な信者であるため、この混乱に乗じフロイスらを殺すかもしれない・・・と、言われたからです。
そして、不安におびえるフロイスたちをさらに追い詰めたのが、時の天皇第106代正親町天皇でした。
キリスト教の布教を良しとしない本願寺の意をくみ、宣教師追放の詔を出したのです。
フロイスたちは、遂に都を負われ、摂津国の堺に避難します。
劣悪な環境での暮らしを余儀なくされながらも、そこで布教を続けました。

回想の織田信長 フロイス「日本史」より【電子書籍】[ ルイス・フロイス ]
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1560年、織田信長が、桶狭間の戦いで今川義元に勝利。
その勢いに乗り、天下布武を掲げると、1568年9月、暗殺された将軍義輝の弟で、室町幕府の再興を図る足利義昭を擁して上洛します。
これが、京の都を追われたイエズス会宣教師ルイス・フロイスの運命を大きく変えます。
信長が、将軍家と対立していた三好勢を都から追放したことで、足利義昭が15代将軍に就任。
その後ろ盾だった信長が、実質的に都を支配することになりました。
フロイスは、この翌年、信長との謁見に臨みます。
フロイス37歳、信長は2歳年下の35歳でした。
謁見の場とされたのは、建築途中の二条城。
フロイスは、信長に、都での布教活動の自由を保証してほしいと願い出ると、慣例通り銀の延べ棒を進呈します。
ところが・・・

「予には金も銀も必要ではない
 バテレンは異国人であり、もし、予が布教の許しを与えるためにそれを受け取るならば、予の品位は失墜するであろう」

信長は、これまでの戦国大名とは違いました。
貢物を受け取ることなく、畿内での布教を許可したのです。
信長が布教を許可した理由は・・・

新しもの好きの性格です。
信長にとってはキリシタンは物珍しい好奇心の対象で、その教えや考え方に関心がありました。
さらに、信長は政にも大きく影響を持ち、天下布武の生涯となる仏教勢力を弱体化させるためにキリスト教を対抗勢力にしようとしていたともいわれています。
そして、南蛮貿易で外国から鉄砲や火薬の原料などを手に入れやすくするためと考えたからでもありました。

いずれにせよ、信長から布教の許可を得たフロイスたち宣教師は、京の都を拠点に、畿内での布教活動を再開しました。
多くの信徒を得ていきます。

1569年、信長が岐阜に戻ります。
すると、状況は一転・・・
反キリシタン勢力だった法華宗の高僧・日乗が、フロイスたち宣教師たちの追放に乗り出したのです。
日乗は、朝廷に顔の利く都の有力者だったため、朝廷に直接働きかけ、正親町天皇にキリスト教の追放や財産没収などの綸旨を出してもらいます。

フロイスは、再び信長に助けを求めて岐阜に向かいました。
すると、信長はフロイスを篤くもてなし、彼らの保護を求める朱印状を朝廷と将軍に宛てて書いてくれました。
これによって難を逃れたフロイスでしたが・・・
かつてザビエルが教えてくれた布教の難しさを痛感していました。

「あなたが心底言わんとしたことが、今、ようやくわかりました」

この12年後、フロイスは、布教状況を査察するため来日したイエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノの通訳として、信長と安土城で再会します。
絢爛たるその城に驚嘆します。

”構造の堅固さ、装飾の華麗さにおいて、それらはヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうる
 天守は7層からなり、内部外部共に驚くほど見事な建築技術によって造営されていた”

天下取り目前の信長の威光を目の当たりにしたフロイス・・・またも乱世の厳しさを知らされます。
1582年6月・・・家臣であった明智光秀による謀反で、魔王と恐れられていた信長があっけなく命を落とすのです。
九州にいたフロイスは、本能寺近くにあった教会・南蛮寺からこんな報告を受けます。

”明智方は、本能寺に侵入すると、信長を見つけた
 彼は、手と顔を洗い終え、手拭いで体をぬぐっていたが、兵士たちはすぐに彼の背に矢を射た
 信長はこれを引き抜き、槍を手にしてしばらく戦ったが、片腕に銃弾を受けると、自室に退いて扉を閉じた
 彼が切腹したというものもいれば、放火して死んだというものもいる”

日本で伝わっている話とは少し違いますが、一報を聞いたフロイスは、その死を惜しみ、偉業を称えました。

”かつて、声はおろかその名だけで、人々を畏怖させた人物が、毛髪一本残すことなく灰燼に帰した
 地上のみならず、天井においても自分に勝る主人はいないと考えた者(信長)が、不幸で悲惨な最期を迎えた”

そして、信長が非凡なる統治者であることを締めくくるのです。
しかし、この信長の死が、キリスト教布教にまたもや大きな影を落とすことになります。

ルイス・フロイス日本書翰【電子書籍】[ ルイス・フロイス ]
ルイス・フロイス日本書翰【電子書籍】[ ルイス・フロイス ]

31歳で来日したイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、日本の情勢や文化・風習なども記録して、ローマに報告し続けていました。
ヨーロッパと日本の違いについては・・・
会話・・・ヨーロッパでは、ハッキリとした物言いをするが、日本ではあいまいなのが良いとされている
衣服・・・我々のものは、男が女の服を着ることはできないが、日本の着物は男でも女でも着られる
履物・・・我々は履物をはいたままで家に入るが、日本では失礼なことで履物を戸口で脱がなければならない
洗濯・・・我々は手でこすって服を洗うが、日本では足で踏みつけて洗う
夫婦関係・・・ヨーロッパでは男たちの方が妻を離縁するが、日本ではしばしば妻たちが夫を離縁する
と、布教を進めたことで、多くのキリシタン大名が誕生します。

民衆の間にもキリシタンたちが増えていきます。
しかし・・・拡大するキリスト教勢力に危機感を抱いたのが・・・
フロイスが気品がなく悪賢いと評した豊臣秀吉でした。
当初、秀吉はキリスト教を黙認していましたが、宣教師たちが住民たちを無理やり改宗させ、寺や神社を破壊させている・・・ポルトガル商人が日本人を奴隷として海外に売っているという報告を受けると・・・
1587年6月、伴天連追放令を発布、キリスト教の布教も禁じるのです。
それでもフロイスたちは、日本にとどまり、目立たないように布教活動を続けることにします。
フロイスは、日本に最初に降り立った地・長崎へ。。。
その後、1592年、アレッサンドロ・ヴァリニャーノと共に一時マカオに渡りますが、3年後、長崎に戻ってきます。
その翌年・・・恐ろしい事件が起こります。
嵐によりスペイン船サン=フェリペ号が土佐沖に漂着。
日本がその積み荷を没収します。
これに腹を立てたスペイン人航海士は、日本にこう言い放ちました。

「スペインは、世界全土と取引をする大国で、拒否すれば軍事力で領土を奪ってきた
 その手始めが、宣教師を送ることである」

「宣教師は、我が領土を奪う手始めとな!!」

激怒した秀吉は、京の都などで捕縛した26人のキリスト教徒を長崎に送り、磔の刑に処すのです。
この痛ましい事件の記録を、フロイスは病床で体に鞭打つようにして書き上げたといいます。
殉教した26人の名が、聖人として事件の詳細と共にしっかりと歴史に刻まれ、語り継がれていくように・・・。
そして、事件の翌年の1597年5月24日、フロイスは長崎の修道院で静かにその生涯を閉じるのです。
66歳でした。

フロイスの著書「日本史」は、あまりに長く、詳細過ぎるという理由で、当初イエズス会での刊行が見送られ、マカオの教会で保管されていました。
そのフロイスの自筆原稿は、1835年、教会の火事で焼失
しかし、18世紀前半に作られた写本が、ポルトガルのリスボンに残っています。
その写本をもとにフロイスの母国・ポルトガルで「日本史」が刊行されました。
そこには、日本の資料にないリアルな日本の姿が記されていました。

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大阪府大東市と四条畷市にまたがる飯盛山・・・
2019年6月、この地で今までの戦国史を覆す大発見がありました。
大東市と四条畷市の3年に及ぶ調査の結果、50カ所で石垣が発見されたのです。
それは、戦国時代その山に築かれた飯盛城の石垣でした。
城全体に石垣を施した初期の城として織田信長の小牧山城が知られていますが、その信長より前に、城に巨大な石垣を作り上げていた戦国武将のいることがわかりました。
三好長慶です。

最近、長慶はこう呼ばれています。
「戦国初の天下人 戦国の革命児」・・・それは織田信長のことでは・・・??
しかし、三好長慶のことです。

江戸時代に歴史家・頼山陽が書いた「日本外史」には・・・
織田信長のことを”世に優れた才能である”と、高く評価している一方、
長慶は”まだ若いのに病の老人のように政を家臣の松永久秀に任せきり”と全く評価していません。
長慶は、信長の影に隠れて忘れ去られてしまったのかもしれません。

そんな三好長慶とは・・・??
1522年、武士たちが覇権を争う真っただ中、三好長慶は阿波国の武将・三善元長の嫡男として生まれました。
長慶の父・元長は、阿波国守護・細川晴元の重臣でした。
当時、細川氏は、細川晴元と細川本家室町幕府No,2の管領・細川高国が勢力争いをしていました。
その内紛で功績を挙げたのが、長慶の父・元長でした。
管領の高国を討ち、主君・晴元に細川家の実権を握らせたのです。

これで三好家も安泰・・・と思っていた1532年、元長に悲劇が起こります。
元長の力を警戒した晴元が、排除すべく大坂の本願寺と手を組んで、一向一揆を起こさせたのです。
それによって、10万の一揆勢が、堺にいた元長を襲います。
追いつめられた元長は、顕本寺で自害・・・。
一説に、元長は腹を掻っ捌き、内臓を引き出し、天井に投げ出したといいます。
壮絶な最期、無念の死でした。
この時、父と共にいた長慶は、辛くも逃がされ、阿波国に帰ったことで命を救われます。
わずか11歳で家督を継ぐことに・・・しかし、一揆勢の為に多くの重臣を失い、三好家は危機的状況にありました。

「三好の家を守るには、どうすれば・・・?」

考えた末に、長慶の決断は・・・??
1533年、再び機内にわたると、父の仇である細川晴元に服従を示しました。
弱体化した三好家を滅亡させないためには、晴元に従うしかなかったのです。

細川で実験を握った晴元は、1537年12代将軍足利義晴の時に管領に就任。
幕政を取り仕切るほどの力を持つようになります。
長慶は、そんな晴元の家臣として戦歴を重ねます。
18歳の時、力が認められ・・・1539年摂津国の越水城主となり、守護の代わりに守護代に任命されます。

「いつの日か、父の仇を・・・!!」

耐え忍ぶこと、晴元に仕えること15年・・・1548年、仇を討つ好機が・・・!!
摂津国の池田城主・池田信正は、ある戦で晴元を裏切ったと疑われ自害します。
すると、晴元の側近・三善政長が、池田家の財産や領地を没収しようとしました。
子の横暴な振る舞いに、四国の武士たちは、強い不信の念を抱くことになります。
長慶は、これを好機ととらえました。
兵を挙げ、各地の武士に訴えます。

「我こそが、武士の利益を守るものである」

すると、晴元に不満を持つ武士たちが、長慶のもとへ・・・!!
1549年1月、長慶は晴元側の軍勢と激突!!
そして6月24日、大坂・江口で800人の軍勢を破り、見事勝利するのです。
これを知った晴元は、すぐさま京都に退散・・・
さらに、家慶の追撃を恐れ、12代将軍だった義晴、13代将軍になった義輝親子を連れて、近江に逃げるのです。 
主君と袂を分かった長慶は、細川氏内で晴元と対立していた細川氏綱(高国の養子)に付きます。
そして新たに主君となった氏綱と京都に入ると、本拠地・阿波を始め、淡路、讃岐摂津を支配下に・・・!!

フランスの地理学者シャトランの描いた「歴史地図帳」、日本の統治者の変遷の図に・・・
そこには、天皇の内裏、将軍の公方と一緒に、三好殿とあります。
天下をとった三好家は、日本の統治者であったと海の向こうまで知れ渡っていたのです。

1550年、京都から逃げていた12代将軍足利義晴が病で死去・・・
これによってまだ15歳の13代将軍足利義輝が、名実ともに将軍家の指揮を執るようになります。
すると義輝は、京都奪還を目指して兵を挙げ、幾度となく三好家と激突します。

1551年3月7日・・・
長慶が京都の寺で酒宴に興じていると、そこへ忍び込んだ子供が寺に火をつけようとしました。
その7日後には、酒宴に乱入してきた男が、長慶に刀で斬りかかる事件が発生しました。
この2度にわたる暗殺未遂事件で、長慶は一時京都をでます。
全ては、将軍義輝の差し金・・・

すると翌年、将軍義輝と和睦します。
京都に迎え入れたのです。
長慶の残した言葉の中に「理世安民」という言葉があります。
長慶は、道理の通った民が安心して過ごせるような平和な世の中にしたいと考えていたのです。
そもそも、16世紀初めの戦いの原因は・・・
応仁の乱以降、足利家が分裂し、それが一番の原因だったのです。
長慶は、個人的な恨みは捨て、世の中の平和を生み出そうとしました。
長慶は、義輝が都に不在であることも内紛の原因だと思っていました。
義輝を京都に戻し、将軍の権威を復活させることで、争いを無くそうとしたのです。
長慶はその約束の際、自身を将軍の直臣にすることを条件としました。
そのため、和睦後は細川氏を離れ、将軍の臣下となったのです。
ところが・・・和睦した将軍義輝が、再び長慶にかかってきました。
さすがの長慶にも、もう、和睦の選択はありませんでした。

1553年、長慶は2万5000の兵を率いて上洛し、将軍義輝の軍勢が守る霊山城を襲い、圧勝します。霊山城の戦い
義輝は、長慶と一戦も交えることなく敗走!!
再び近江へと逃げていきました。
長慶は、この時も義輝を追いませんでしたが、義輝に付き従っていた者たちに言い放ちます。

「将軍に従う者の領地をすべて没収する」

すると、多くのものが京都に戻り、義輝のもとに残ったのはわずか40人ほどでした。
そして長慶は決意を固めます。

「これからは、この三好長慶が都の泰平を守る」

長慶は、義輝に代わる新たな足利将軍を擁立せずに京都を支配します。
戦国時代、京都から将軍を追放したものは長慶以外にもいました。
しかし、足利家から他の将軍を擁立するのが当時の常識でしたが・・・長慶は、足利将軍を擁立せずに、京都を支配したのです。
これは戦国乱世の中でも初めてのことでした。
足利将軍家の代わりに京都を支配した長慶は、その後次々と畿内五か国を手に入れていきます。
戦国初の天下人の誕生でした。
天下とは、鎌倉時代は首都・京都を指していました。
そして、戦国時代は、天下は京都の周辺五か国(山城・大和・摂津・河内・和泉)を指していました。
長慶は確かに天下人でした。
公家や農民も、実力のある三好長慶の政治を求めるようになってきていました。
長慶は、結果的に天下人となったのです。

江戸時代初期の戦国武将の逸話集「武辺咄聞書」によると・・・
「信長は長慶の家臣になって働きたかった」とあります。
戦国の覇者となって世の中を次々と変えていった革命児である織田信長。。。
三好長慶の家臣になりたがっていたといわれるのは、信長が長慶に畏敬の念を抱いていたからかもしれません。
なぜなら、長慶は信長に先んじて常識破りの政策を行っていたからです。
信長が、足軽だった秀吉を重用しましたが・・・
戦国時代、このような画期的な人材登用は長慶の方が先でした。
武家では、代々仕える家臣を大事にするのが常でしたが、長慶はその常識を破り、身分や家格に関係なく、才能や実力を評価しました。

①人材を登用
その一人が摂津国の土豪出身とされる松永久秀です。
久秀は、長慶の右筆に抜擢されると、持ち前の知恵で、将軍や大名との交渉に力を発揮、三好家の重臣となります。
京都郊外の西九条の荘園の代官だった石成友通は、長慶の元で奉行で頭角を現し、三好家の中核となります。
長慶は自らの弟たちも上手に差配・・・
次男・実休、三男・冬康、四男・一存を敵に備えて重要な場所に置きます。
越水城主となった際、次男・実休を本拠地・阿波に、三男・冬康を淡路(安宅家の養子)に、四男・讃岐(十河家の養子)に出しました。
こうして長慶は、自身が治める畿内の周辺を兄弟で固めることで三好家を守ったのです。

②鉄砲の導入
長慶は、堺、尼崎、兵庫津など京都の物流拠点の大阪湾の主要港を支配することが重要だと考えていました。
そこで、港を拠点に活動していた法華宗の寺院や、その信者である有力な商人たちを保護、これによって流通ネットワークを掌握します。
日本国内のみならず、東アジアの貿易に関与します。
長慶の元には、明などから貴重な品が届くようになります。
その一つが、当時の最新鋭の武器・・・鉄砲です。
1550年、足利義晴方の記録に残っています。
三好長慶は、大量の鉄砲を持っていたことになり、これは信長の長篠の戦いの25年前になります。

③キリスト教の保護
1564年長慶は、領内でのキリスト教の布教を許可し、保護します。
南蛮貿易がもたらす経済効果を早くから熟知していたようで、宣教師からの最新の情報や、西欧の新しい技術を取り入れることが目的だったと考えられています。

④居城の移転
長慶は天下人となった際に、越水城から同じ摂津国でも京都に誓い芥川山城に居城を移します。
これにより、芥川山城は、幕府に代わり政治の中心となるのですが、1560年に嫡男・義興に譲ります。
自らは河内国の飯盛城に移るのです。
越水城は阪神間を、芥川山城は京を、飯盛城は河内、大和、伊勢、紀伊に拡大していく・・・
長慶は、政策課題に応じて、臨機応変に居城を移していくのが特徴で、他の戦国大名には見られません。
これは、織田信長につながっていく政策なのです。
織田信長も、那古野城→清洲城→小牧山城→岐阜城→安土城と、京都に近づいて行きながら戦国の覇者となっていきます。

⑤城の造り
大阪府大東市と四条畷市にまたがる飯盛山・・・
ここに、長慶最期の居城・飯盛城がありました。
長慶は、ここを新たな居城と定めると、大規模な工事を行い、南北700m、東西400mの山城を築きます。
山城は、山を削って、掘って盛り固めることで、堀や土塁なⅮ歩の防御システムを築き、それを囲った曲輪でつくられた構造となっています。
そんな当時は。。。石垣が施されるのは、土台が弱い一部のみ、補強でした。
石垣に適した花崗岩がなかなか手に入らなかったからです。
そのため、山城である飯盛城も石垣は一部だと考えられてきました。
大東市と四条畷市が3年間かけて発掘調査をしたところ、驚くべき事実がわかったのです。
千畳敷曲輪で・・・飯盛城の中でも最大級の石垣が発見されました。
その大きさは、長さ30m、高さ4mと推定され、石も大きなものが使われていて、一番大きなものは1.6mの花こう岩が使われていることがわかりました。
さらに、千畳敷曲輪を含めた50カ所で石垣が発見されました。
石垣が見つかったことで、飯盛城の全域に石垣が取り入れられていた可能性が高まったのです。
代全体に石垣を使った武将として有名なのが織田信長です。
1563年に築城した小牧山城をはじめ、岐阜城、安土城と総石垣にしています。
城を強固にするためだけでなく、貴重な花崗岩をふんだんに使うことで、その経済力を見せつけ、他を圧倒するためだったといわれています。
しかし、長慶の方が早く総石垣の城を作っていたという可能性が高まったのです。

大阪府堺市にある南宗寺・・・
ここは三好長慶が、非業の死を遂げた父・元長の菩提を弔うために、建てたといわれています。
その境内には天下人となった長慶の銅像があります。
そこには桐紋が・・・1561年、将軍足利義輝から、桐紋の使用を許可されていました。
名門の出ではない長慶が、桐紋を許されるのは、極めて異例なことでした。
この家紋のしようが許されたということは、三好家の家格が足利一門並みに上昇したことを意味しています。
長慶は、天皇からも大きな信頼を寄せられていました。
1558年、正親町天皇践祚(三種の神器を先帝から受け継ぐこと)のため、永禄の改元が行われたとき・・・
当時改元は、朝廷を代表する天皇から幕府を代表する将軍に相談や連絡があり、双方の合意により行われるのが通例でした。
しかし、正親町天皇は、将軍義輝を無視し、三好長慶に相談・連絡をしてきたのです。
これは、長慶が武家の代表者だと、天皇から認められたということでした。
名実ともに天下人となった三好長慶・・・
しかし、これから次々と悲劇に見舞われます。

1561年、和泉国を任せていた弟・・・四男の十河一存が病死、その翌年の1562年には次男の実休が戦死、そしてその翌年の1563年には長慶の嫡男・義興が22歳の若さでこの世を去ります。

「このままでは三好の家が・・・!!」

身を奮い立たせ、後継者選びに奮闘します。
候補となったのは、弟の中でまだ存命だった安宅冬康、亡き弟・実休の嫡男・長治、一存の嫡男・義継でした。
血縁の序列で言えば、弟・冬康ですが、長慶が選んだのは序列で一番下の義継でした。
長慶は、先の関白・九条植通の養女を母とする義継を選んだのです。
家格も天下人に相応しいようにと選んだのです。

「これで三好の家も安泰じゃ・・・」

しかし、1546年5月9日、弟・安宅冬康を飯盛城に呼び寄せると・・・殺してしまいました。
どうして・・・??
軍記物語などでは、長慶の家臣・松永久秀が三好家を乗っ取るために冬康を陥れるために画策・・・
「冬康殿が上様に謀反を起こそうとしております」
と、長慶にウソを吹き込んで殺害させたと書かれていますが・・・
松永久秀の讒言はなく・・・まだ幼少の三好義継が長慶の後継者となった事で、家臣団が義継と冬康に分かれてしまった事を恐れていました。
三好家の内紛で、世の中が乱れないように、内紛の火種になる弟・安宅冬康を殺害したのです。
内紛によって、衰退の一途をたどっていった足利将軍家や細川氏を目の当たりにしてきた長慶・・・三好家が同じ道を歩まないように、弟・冬康を殺害するという苦渋の結さんをしたのです。
実の弟を殺める・・・長慶は、病に伏してしまいます。
わずか2か月後・・・1564年7月4日、三好長慶、43歳で死去・・・。
この時、新たに当主となった義継はまだ15歳にも満たなかったため、混乱を避けるために長慶の死はふせられました。

家督を継いだ義継は、翌年の1565年、三好を陥れようとしたとして、将軍足利義輝を討ち取ります。
長慶の晩年より、将軍家との関係が急速に悪化していました。
そこを継いだ義継は、将軍義輝を討つことで、三好家を率いていくという姿勢を示したかったのです。
しかし、その後、長慶が憂いでいたことが起きます。

重臣・松永久秀と、三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、石成友通)が対立!!
義継は、家臣たちをまとめきれずに、結局三好家は分裂・・・。
そんな中、1573年、天下布武を掲げて躍進していた織田信長の軍勢に攻められ、義継が自刃・・・
三好家の天下はここに潰えたのです。
長慶が亡くなってから、わずか9年後のことでした。

織田信長より先んじていた戦国の革命児・三好長慶・・・
戦乱の世を終わらせ、平和を築くことを願い、天下を掌握した男でした。
しかし、その天下は、皮肉にも、あとを追ってきた戦国の風雲児・織田信長によって奪われてしまうのです。
まさに乱世の因縁・・・長慶の死から4年後・・・
1568年、京都を目指して進軍していた信長は、芥川山城を攻め、10日余り滞在しています。
芥川山城は、長慶の本拠地、京都に代わる政治の中心地でした。
そこを攻め落とすことで、三好家の時代は終わったのだと、世間にアピールする狙いがあったのだとされています。
信長にそうまでさせる三好長慶は、大きな存在だったのです。

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戦国時代、室町幕府の権威は地に落ち、大名や武将たちによる熾烈な戦いが繰り広げられていました。
暗殺や裏切りが当たり前の時代・・・この時代にも、悪人と呼ばれる男がいました。
松永久秀です。

応仁の乱からおよそ70年・・・京の都はいまだ混乱のさ中にありました。
この頃、幕府のj権威は失墜しており、実権を握っていたのは管領細川氏の家臣・三好長慶でした。
1550年長慶は、将軍・足利義輝を攻め追放、周辺に勢力を広げ、畿内を支配していきます。
この長慶の腹心として活躍したのが松永久秀です。
久秀は、出自も経歴も謎・・・武将としてだけでなく、行政面でも辣腕を振るっていました。
1560年、朝廷より弾正少弼に選ばれ、松永弾正が通り名となり、翌年には従四位下を賜わり、更に主君・三好長慶と共に、足利の紋と同じ桐を使うことを許されます。
当時、日本を訪れていた宣教師は・・・
「さして高い身分ではないが、その知力と手腕によって、家臣であるにも関わらず、公方様(将軍)と三好殿を掌握していた。」といっています。

1559年三好長慶の命により、久秀は大和へ侵入。
当時の大和国は大名の支配しない特殊な地域でした。
他のところは、細川氏、畠山氏・・・足利一門の武士が、その国の守護という役職を与えられ、支配していました。
大和は足利一門は入れず・・・興福寺が大和の国を支配し、武士たちを支配していました。
その大和に侵入した久秀の前に立ちはだかったのは、興福寺の配下として大きな力を持っていた筒井順慶でした。
久秀は、順慶を二度の戦いで打ち破り、大和を我が物とします。
しかし、その後も順慶は久秀への攻撃を繰り返し、二人は宿命のライバルとなるのです。
1561年、久秀は大和の中心・奈良に本拠地となる城・多門城を築きます。
多門城からは、東大寺や興福寺・・・大和の主だった寺を見下ろすことができました。
興福寺に代わる新しい支配者を示す城でした。

この城を訪れたポルトガル人の記録が残っています。
「これだけの優れた建造物は世界にもない。
 すべての城や、塔の壁には漆喰が塗ってあり、かつて見たことのないほど白く輝いていた。
 この中を歩いていると、まるで天国に来たようだ。」と。

その城を一目見ようと、奈良中の人が見物にやってきたといいます。
今まで興福寺や東大寺しか立派な建物を見たことのない人々が、武士でも作れる・・・
寺の時代は終わって、武士の時代が来ることを見せつけていきます。

多門城は・・・
昭和22年、小学校が立てられて、城の遺構は無くなってしまいました。
しかし、校舎の周囲には、その痕跡が残っています。
多門城には、それまでの城にはない4階建ての櫓もありました。
瓦葺・・・当時は瓦葺は寺院建築にしか用いていませんでした。
内装は、絢爛たる襖絵に彩られ、金色の柱が並んでいました。
城の中には、いくつもの茶室があり、久秀は頻繁に茶会を開いていました。
千宗易などの超一流の文化人が集まっていました。
松永久秀は、戦で領地を争うだけの武将ではなく、優れた築城家であり、教養人でもあったのです。

多門城が作られたころ、久秀の支配地は、南山城にも及んでいました。
しかし、久秀の大和支配に暗雲が立ち込めます。
長慶の死と共に動き出したのは・・・将軍・足利義輝でした。
長い間、長慶に実権を握られていた義輝は、三好をたたき実権を取り戻そうと謀ったのです。
不穏な気配が・・・先手を打ったのは三好側でした。
1565年5月、長慶の後を継いだ三好義継、久秀の息子・久通らは、およそ1万の大軍で将軍御所を攻め、義輝を亡き者にしようとします。
義輝殺害!!
その首謀者とされたのが久秀でした。
ルイス・フロイスによると・・・「謀叛人の筆頭者は弾正殿」
「さらに、久秀が絶対的君主となり、将軍義輝への気遣いなどをしなくても良いように、暴虐な方法を用いて権勢の最高位にのぼろうと決意した。」とあります。

ところが将軍を暗殺してまで権力を守ろうとした三好家の中で内紛が勃発!!
1567年久秀と対立する三好家の武将たちが1万の軍を率いて大和に侵攻・・・。
興福寺や東大寺に陣を構え、久秀と対峙しました。
小競り合いが続くものの・・・決着は尽きません。
半年後、久秀は東大寺に陣を敷いた軍に夜討ちをかけ、遂に打ち破ります。
しかし、この時大仏殿に火が付き全焼・・・大仏の上半身がとけ落ちてしまいました。
一方、久秀は新しい動きも・・・大和の地侍たちに手紙が届いていました。
「近々、足利義昭を奉じて上洛するので、義昭に対する忠節と、松永久秀親子といっそう懇意になることをお願いしたい。」
差出人は、織田信長でした。
なんと、久秀は、上洛前の信長と手を結んでいたのです。

1568年、義昭を奉じて信長上洛!!
久秀は、直ちに義昭と信長の元を訪れ、大和の支配を認めてもらいます。
この時、自慢の「付藻茄子」を信長に送っています。
効果は絶大!!
宿敵・筒井順慶が久秀の城を奪った時も、信長の2万の援軍で奪還に成功しています。
久秀は、信長との同盟で、大和支配を強固なものにしていくのです。

信長上洛から3年後、久秀の大和支配を脅かす事態が・・・。
将軍・足利義昭が、久秀の宿敵・筒井順慶に娘を嫁がせ姻戚関係となったのです。
更に順慶は、信長の家臣になることも認められます。
筒井氏はもともと興福寺の有力な衆徒のひとりでした。
以前から、大和国内に勢力を持っていたのです。
義昭は、将軍になる前、興福寺の一条院門跡でした。
なので、興福寺の勢力は何たるかを知っていたのです。
大和をおさえる一つの手立てだったのです。
怒った久秀は、筒井順慶と組んだ義昭の家臣を攻撃!!
それは、信長に対する反逆でもありました。
その後、織田軍と各地で衝突を起こします。
そんな久秀に吉報が・・・
甲斐の武田信玄が、打倒信長に動き出したのです。
信玄の軍は、三方ヶ原の戦いで、信長・家康連合軍と大激突!!大勝利を治めます。
久秀はこのことを珍重と喜びます。
時を同じくして、将軍・義昭も信長に反旗を翻します。
窮地に陥った信長・・・あとは、信玄の上洛を待つだけでした。
しかし、信玄が都に現れることはありませんでした。
三方ヶ原の戦いの後、病で亡くなっていたのです。
勢いを取り戻した信長は、将軍義昭を追放。
久秀の多門城を取り囲みます。
信長が突き付けた降伏の条件は厳しいものでした。

・多門城の引き渡し
・支配地の没収
・孫を人質に差し出す

1573年12月26日多門城開城。
久秀の14年に及ぶ大和支配は終わったのでした。
その後、信長から大和の支配を任されたのは、宿敵・筒井順慶でした。
順慶は、多門城の破却を久秀の息子に命令!!
大和の支配者・久秀のシンボルは、跡形もなく消されたのです。
多門城を明け渡してから4年・・・久秀に再びチャンスがやってきます。
大坂本願寺・武田・宇喜多・毛利・・・各地の大名が打倒信長に立ち上がったのです。
足利義昭の呼びかけによるものでした。
この時久秀は、織田の一武将として本願寺攻めの最前線にいました。
義昭たちと手を結んで信長に背くか、信長を支え続けるのか・・・??
どうする??

信長に背く??
このまま信長に従っていても、大和が手に入ることはないだろう・・・
筒井順慶に大和を与え、多門城も壊されてしまった。
断じて許すことができない・・・!!
大和を再び我がものとするためには、義昭さまの呼びかけに応じて信長を討つしかない!!
毛利をはじめ、多くの武将が立ち上がっている今、信長に勝ち目はない??
今、手柄を立てておくべきでは・・・??

信長を支える??
自分の力を認めてもらう???
上杉、武田、毛利・・・義昭さまの呼びかけに応じたはいいが・・・いつ裏切るかわからない・・・。
武田信玄は病で亡くなったではないか・・・??
何が起こるかわからない!!

大和を再び支配するためには・・・??
どうする??

安土日記には・・・
大坂本願寺を攻める天王寺の砦に、松永久秀と息子・久通を入れておいたが、
8月17日、松永親子は謀反を企て、砦から退去して大和の信貴の城に立て籠った。
とあります。

信貴山城は、河内と大和の国境にそびえる信貴山にある城・・・。
信長に背いた久秀は、信貴山城に籠りました。
城からは、大阪平野・奈良盆地を見渡すことができました。
平野部で戦いを挑むと、兵力の差から久秀は負けて、殺されてしまうので、兵力差を補うために信貴山城に立て籠り、援軍を待つ方が、戦略的に生き延びられると判断したのです。
しかし、事態は久秀の思惑通りにはいきませんでした。
越後の上杉軍は、一度は織田軍を撃破するもまもなく撤退・・・
武田勢も、徳川家康と国境の城を取り合いを続けて進むことができません。
久秀は孤立・・・信長は使者を派遣し、久秀に謀反の真意を問います。
久秀は使者に会おうともしませんでした。
信長は、大軍で信貴山を包囲して攻撃!!
挙兵から1か月半後の10月10日・・・追いつめられた久秀は、城に火をつけ切腹しました。
こだわり続けた大和を見下ろす地で70年の生涯を閉じたのです。

久秀が亡くなった後、人々の間で噂が・・・
久秀は、死ぬ間際に大切にしていた茶釜平蜘蛛をたたき割ります。
平蜘蛛を欲しがっていた信長に渡るのを嫌ってのことだという。
戦国史に数々の逸話を残した久秀・・・その死にざまも、悪人らしい死にざまでした。


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