日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:世界大恐慌

世界から戦争がなくならない本当の理由

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1941年12月8日真珠湾攻撃・・・それより8年前の1933年2月24日。
スイス・ジュネーブでの国際連盟臨時総会で・・・日本が戦争への分岐点となる演説がありました。
日本首席全権は松岡洋右。

「極東の平和を保障し、世界平和を維持するために、日本は断じてこの勧告の受け入れを拒否する。」

この演説から一か月後、日本は国際連盟を脱退!!
世界から孤立する道を進んでいきます。

国際連盟は、第一次世界大戦後・・・1920年に作られ・・・設立当時・加盟42か国、常任理事国は、イギリス・フランス・イタリア・日本でした。後にドイツ、ソビエトも加盟しますが、アメリカはいませんでした。
第28代アメリカ大統領W・ウィルソンが提唱したにも関わらず・・・。
アメリカの議会が反対し、参加しないままの出発となったのです。

1914年に第一次世界大戦に参戦した日本・・・イギリスとの同盟を理由にドイツに宣戦布告。
当時ドイツが利権を持っていた山東省に攻め込み、獲得ました。
マリアナ諸島・マーシャル諸島・パラオ諸島・カロリン諸島を委任統治することになりました。

どうして脱退したのでしょうか?

当時日本は、中国にある満州・関東州に派遣された日本陸軍部隊が関東軍。
1931年9月18日に日本が起こしたといわれている柳条湖事件が起きました。
これをきっかけに、満州事変・・・政府の方針を無視して軍事行動を進めていき・・・満州国を作りました。

世界大恐慌のあおりを受けて、深刻な不況だったので、働き口、資源を求めてたくさんの日本の人々が満州に渡っていきました。そしてソビエトの恐怖・・・。

1932年3月・・・作った満州国は、日本の傀儡政権でした。
中国国民党政府は、侵略と・・・国際連盟に提訴します。
これを受けリットン卿を中心とするリットン調査団がやってきます。
「日本による占領は、自己防衛だと正当化されるべきではない。
 日本が作った新政府は、満州が自ら決めたことではない。」
1933年2月24日国際連盟臨時総会が行われ・・・
日本は満州から撤退するべきだ!!ということになります。

”満州国を世界に認めさせるため!”にやってきたのが日本首席全権・松岡洋右でした。

「東洋における問題の根本的原因は、中国の無政府状態である。
 真剣に考えて欲しい。
 日本と中国は友人であり、両国の繁栄のために協力し合うべきなのだ。
 満州撤退の報告書を国際連盟が受け入れれば、日中両国を救うことができない。」

中国政府では、満州を維持することができないと、平和維持のために行っていると46分に渡り演説します。が・・・満州国撤退の対日勧告案は、賛成42に対し反対1・棄権1・・・と、圧倒的に否定されてしまいます。

松岡は・・・「日本は断じてこの勧告の受け入れを拒否する。」

と、会議場を去ります。

この演説は、日本国内の映画ニュースで繰り返し上映され、国民に大歓迎されるのです。
新聞も松岡を英雄視します。
しかし・・・本人は帰国し・・・期待に添えなかったことをお詫びしています。
松岡の使命は、満州国を世界に認めさせたうえでの国際連盟にも残ることだったからです。
どちらもできなかったのです。


1937年盧溝橋事件が起こります。
北京郊外の盧溝橋で、演習中の日本軍に何者かが発砲したとされる事件ですが・・・発端の実情は不明ですが・・・。
これで中国全土に戦争が広まっていきます。
アメリカは、日本に中国からの撤退を強く呼びかけていました。
1940年第二次近衛文麿内閣で外務大臣として就任した松岡洋右。。。
ドイツ・イタリアと三国同盟を結びます。
ヨーロッパに向かうシベリア鉄道・・・モスクワでスターリンに会い、ベルリンでヒトラーに会い、ローマではムッソリーニに会います。
そして・・・日本に帰る前にモスクワに立ち寄り、日ソ中立条約を結びます。
日独伊ソ連が手を組むことを考えていて・・・アメリカとの戦争はしたくない・・・というのが本音でした。

1941年7月にはアメリカと直接交渉できずに外務大臣を退任。。。病気療養に入り・・・日米開戦を病床で知るのでした。

「三国同盟の締結は、僕一生の不覚だった。」

1941年6月22日ドイツがソビエトに侵攻!!
4か国でアメリカに対抗しようと思っていた松岡の思惑は挫折してしまったのです。
1941年12月8日、ハワイ・真珠湾攻撃!!
開戦当時は、日本が優勢でした。
しかし、戦況は急速に悪化し、日本は後退を余儀なくされます。
そして・・・1943年11月21日明治神宮外苑競技場にて”出陣学徒壮行会”が行われました。
敗戦の色が濃くなる中で、大学生が戦争に送られていきます。
集まったのは2万5000人。。。総理大臣・東条英機が演説します。

「私は、衷心より諸君の門出をお祝い申し上げる次第です。
 敵・米英におきましても諸君と同じく、若い学徒が戦場に立っているのであります。」

東大生の答辞は・・・
「生等もとより生還を期せず、在学学徒諸兄、また遠からずして生等に続き出陣の上は、屍を乗り越え乗り越え、邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂・・・」

その後、13万人の学生たちが戦場へと送られていきました。 
1945年8月日本は無条件降伏しますが、この時までの日本人犠牲者は、310万人にも及びました。
敗戦後松岡洋右は、A級戦犯として逮捕されます。
しかし、裁判では英語で無罪を主張し、1946年66歳の生涯を閉じるのでした。


ドイツでは・・・アドルフ・ヒトラー。
ヒトラーは、当時のドイツ国民に指示されて独裁者に上り詰めました。
「大衆の多くは無知で愚かである
 嘘を大声で、十分に時間を費やして語れば人はそれを信じる」
ヒトラーが行動を起こしたのは、ドイツのミュンヘンでした。
類まれなる演説で、人々を魅了していきます。

ヒトラーが25歳の時、運命の出来事が・・・第一次世界大戦勃発!!
オーストリア出身のヒトラーでしたが、ドイツに志願兵として参加します。
前線で戦うも敗戦し、ドイツは巨額の賠償金を支払わなければならなくなりました。
国内は極度のインフレ、大不況となって失業者であふれます。
国が崩壊していきます・・・ドイツ民族の栄光を取り戻す!!

ホフブライハウス・・・1589年に宮廷の醸造所として設立されたこの場所、ビアホールで、1920年反ユダヤ主義の国家社会主義ドイツ労働者党。。。ナチスが結成されます。

「我々が再び立ち上がるためには天才的な独裁者が必要である!!」
「ユダヤ人は嘘つきで寄生虫だ!!」

結成当初、党員は7人でした。

1923年ナチスが政権奪取を試みるミュンヘン一揆が起こります。
ビアホールのビュルガー・ブロイケラーで、武力蜂起したのです。
政府高官を人質にしたものの、警官隊によって鎮圧。。。逮捕・・・クーデターは失敗に終わりました。

8か月間のランツベルク刑務所で、「我が闘争」を口述筆記、ここで、自分の考え方、政策の基本をまとめます。
我が闘争には、アーリア人至上主義、共産主義の打倒、ユダヤ人排斥などが書かれて・・・後にナチスのバイブルとなり・・・ドイツの家庭には、必ず1冊ありました。
1929年世界大恐慌が起こります。
失業者が600万人となったドイツ・・・これが追い風となります。
新しいドイツが、民衆の心をとらえていきます。

ヒトラーは暴力ではなく、選挙で政権を握ろうとします。
そこには革新的な戦略が・・・
大量のビラをまき、街中に自分の顔や鍵十字のポスターを張り、巧みなプロパガンダで民衆を掌握していきます。
大衆の心を掴み・・・1933年1月、ついに首相に任命されます。

ヒトラーの野望・・・それは、ドイツ帝国の復活、反ユダヤ主義、共産主義打倒でした。

しかし、経済政策も魅力的でした。
大規模な公共事業・・・アウトバーンの建設によって、失業者は600万人から50万人に減少、フォルクスワーゲン
(国民車)の設計によって車に乗れる人が増えていきます。
大統領と首相を兼ね総統に就任します。

当時ドイツには、世界一民主的な憲法・・・ワイマール憲法がありました。
そこで権力をとり、1933年全権委任法をヒトラー内閣は制定し、国会が立法権を政府に譲位します。

ヒトラー専属のカメラマンが様々なヒトラーを撮ります。
大袈裟なアクションは、オペラ歌手からの指導・・・街がナチスに染まっていきます。
1934年の第6回ナチス党大会は「意志の大会」とも呼ばれ、100万人が参加したとも言われています。
その映像は「意志の勝利」としてレニ・リーフェンシュタールによって映画化されます。

「レニ・リーフェンシュタール」はこちら
人生にYESと言いなさい~レ二・絶賛と非難の101年~はこちら

カリスマに演出されていくヒトラー、平和のための独裁!!
平和という言葉を何度も使います。

党大会は夜に頻繁に行われましたが・・・
夜の幻想的な演出も、民衆を熱狂させていきます。

最初に作られたナチス・ドイツの強制収容所は「ダッハウ強制収容所」で、親衛隊の残虐行為の訓練所とまで言われました。
たくさんのユダヤ人が・・・多くの人が命を絶たれます。

ナチスに立ち向かった学生たちがいました。
またもやミュンヘンで・・・1943年ハンス、ゾフィー兄妹らがペンで反ナチスを訴えます。
白バラ抵抗運動です。
ビラを配ったり、党大会への不参加を呼びかけます。
しかし逮捕されると・・・わずか4日で斬首刑となりました。

第2次世界大戦が勃発した翌年に、チャップリンは「独裁者」を作ります。
ヒトラーを痛烈に批判したラストシーン・・・

「申し訳ないが  私は皇帝になどなりたくない
 それは私には関わりのないことだ
 だれも支配も征服もしたくない 
 できることなら皆を助けたい・・・
 ユダヤ人も、ユダヤ人以外も、黒人も、白人も

 私の声が聞こえる人たちに言う
 絶望してはいけない
 憎しみは消え去り、独裁者たちは死に絶え、人々から奪い取られた権力は、人々のもとに返されるだろう
 兵士よ 奴隷を作るために闘うな 自由のために闘え
 君たち人々は、機会を作り上げる力、幸福を作り上げる力があるんだ
 君たち人々は、人生を自由に美しいものに、この人生を素晴らしい冒険にする力を持っているんだ
 
 だから、民主国家の名のもとに、その力を使おうではないか
 みんなでひとつになろう
 新しい世界のために」

ヒトラーが首相に就任してかあら12年・・・ドイツの敗北が決定的になります。
1945年になると、連合国による攻撃が激しさをまし・・・ベルリンは廃墟と化します。
その4月・・・総統官邸の地下壕で、愛人のエバ・ブラウンと共に自ら命を絶つのでした。

ヒトラーの影法師と言われた男はこちら
「ヒトラー 独裁者という名の怪物」はこちら
チャップリンの「独裁者」観ました。はこちら
苦しいからこそ笑う~チャップリン天国と地獄を見た喜劇王~はこちら

そして戦後・・・
敗戦国の日本とドイツは、戦争をしていません。
アメリカが沢山の戦いに関わってることは周知の事実です。

史上最年少の43歳でアメリカ大統領となったケネディ大統領・・・
東西冷戦が始まり、アメリカなどの自由主義陣営と、ソビエトなどの社会主義陣営が対立していきます。
ベトナム戦争・・・
第二次世界大戦後、フランスとの戦いに勝利し独立したベトナムは、北(ベトナム民主共和国)と南(ベトナム共和国)に分断されます。
社会主義陣営は北ベトナムを支持し、自由主義陣営は南ベトナムを支持します。
南北の対立が激しくなり・・・アイゼンハワー大統領は、軍事顧問団を南ベトナムに派遣。
ケネディ大統領はそれを増強していきます。代理戦争となっていくベトナム。。。

1961年8月13日には・・・東ドイツによってベルリンの壁が築かれます。
193年11月テキサス州ダラスにて、大勢の目の前でケネディ大統領が凶弾に斃れました。
後を継いだジョンソンの時代、ベトナムの北爆を開始します。
50万人を超える兵士を導入しますが、戦争は泥沼化・・・。

世論によって反戦運動が起こってきます。
1975年サイゴンが陥落し、15年続いたベトナム戦争終結しました。

日本にとっては・・・
1950年朝鮮戦争が勃発したので、アメリカ兵が朝鮮に引っ張られ・・・警察予備隊が作られました。
憲法9条で軍隊を持つことができなかった日本だったので・・・「警察予備隊」なのです。
これが今の自衛隊へとなっていくのです。

もちろん戦争には参加していませんが、後方支援はやっています。
1991年湾岸戦争、ペルシャ湾での機雷の除去、2001年アフガニスタン戦争で・・・インド洋での燃料補給、2008年イラク戦争でイラクで給水などの復興支援・・・。
戦闘に於いては一人も亡くなることはなく戦後70年を過ごしてきました。

世界のどこかで今も戦争は続いています。
日本にもその危機が訪れるかもしれません。
過去から学ぶ・・・そのことが必要なのです。

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1936年2月26日・・・東京に鳴り響いた銃声・・・
それは、二・二六事件でした。
政府の要人たちが陸軍青年将校によって殺害された事件です。
それは、前代未聞の反政府クーデターでした。
korekiyo東京には戒厳令が施行され、緊張と不安が世を覆いました。
そして。。。その凶弾に斃れたのが高橋是清。
戦前の日本経済に命を懸けた稀代の財政家でした。

昭和初期の好景気は・・・生涯で7度の大蔵大臣を歴任し、国民の生産性向上に尽くした是清の財政手腕でした。
国民から支持を得ていた是清・・・。
しかし、大きな壁が・・・それは、軍部との対立でした。
軍部は多額の軍事予算を要求し・・・しかし、是清は膨大な軍事予算は国家予算の破たんを招くと大蔵大臣として戦いに挑むのです。
是清は何を目指し、何を守ろうとしていたのでしょうか??


民力重視の積極財政で日本に未曽有の経済発展をもたらした高橋是清・・・。
その理念は波乱万丈な生涯によるものでした。
人一倍勉学に励んだ是清は、13歳でアメリカに留学。
ところが・・・何も考えずに契約書にサインをしてしまったことから奴隷のように働かされる羽目になります。
それが・・・外国と対等になるために・・・独自の力を養うことになるのです。
英語力に磨きをかけた是清は・・・明治政府の目に止まり、殖産興業を支える財政家の道を歩むことになるのです。

銀行の世界で類まれな能力を発揮していきます。
その理念は・・・富国裕民です。
資金投入の目的は、民間活力を活性化させるため!!と、考えていたようです。
国民の力を引き出す=富国に繋がるのです。

国民の生産力の向上を目指します。
国民の期待と信頼を受けて”ダルマの宰相”と呼ばれました。
71歳の時には政界を引退するも・・・経済危機が日本を襲います。
第一次大戦後の長引く不況で・・・第27代浜口雄幸内閣が発足します。
この時の大蔵大臣は井上準之助。。。改革に打って出ますが・・・それは、大緊縮財政でした。
その背景には・・・金本位制への参加という目的がありました。
通貨の価値と信用を”金”で保証するもので、西欧と対等に渡り合うためのスタンダードでした。

この時・・・日本は日露戦争に要した戦費の返済が迫っていたもののお金もなく・・・経済の信用回復・・・金本位制への参加が不可欠だと考えていました。
経済の健全化・・・節約と倹約が第一の世となっていきます。
日本の信用回復のために・・・!!

そこに未曾有の危機が・・・!!
1929年10月ニューヨーク市場で株価が大暴落・・・。
世界大恐慌が起こると、日本を直撃!!
そんな真っ只中で、金本位制への参加が決断されました。
緊縮財政によって企業は次々と倒産・・・生糸の輸出も激減し、地方も大打撃を受けます。
町は失業者であふれ・・・貧困から娘を売るひとも後を絶ちませんでした。
経済の大混乱を受け、浜口雄幸内閣は総辞職・・・。

そして、1931年民政党のライバル・政友会の犬養毅が総理大臣となり・・・
日本を救ってほしいと大蔵大臣を依頼される高橋是清でした。
この時、是清77歳、5度目の大蔵大臣就任でした。

「日本が沈没するのを黙って見ている訳にはいかない・・・!!」

そして、是清は日本経済の復活のために積極財政へ・・・!!
金本位制からの離脱。。。
経済のグローバルスタンダードから離れた円の価値は急落しますが・・・それが狙いでした。
円の急落は、日本の輸出品の価格を下げ・・・輸出増加が経済に復活をもたらします。
また、低金利政策・・・金融緩和を打ち出します。
前向きとなった人々・・・それは、国民の力を最大限に引き出した富国裕民でした。

「確かに世界情勢も大事だ。
 しかし、産業の力を衰退させることは好ましいことではない。
 産業が衰退すれば、仕事が減り雇用も無くなり、国民生活は疲弊の一途を辿る。
 国の経済と、個人の経済とは分けて考えなくてはならない。
 大切なことは、日本人が自主的に考えることである。」

崩壊寸前だった日本経済を救いだした是清・・・一大政策を打ち出していきます。
”日銀の国債引き受け”です。
公共事業などの費用を捻出するために国が発行する国債・・・。
国債は市場で取引されるものでしたが・・・是清は日銀に直接買わせて、公共事業へ投資します。

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長引く不況で疲弊しきっていた地方の農家の救済が待ったなしだったからです。
日本経済史上まれにみるカンフル剤が打たれることとなりました。

新しく発行された国際は、総額6億7000万円。。。
当時の国家予算歳入の1/3に当たりました。
巨額の資金は、公共事業や重工業に投資、雇用の創生と地方の活性化に役立ちます。
そして・・・国債も全て・・・銀行へと買い取られていったのです。

日本の国力は一気に目覚め、世界の中で日本だけが復活し、昭和初期の大衆消費社会が誕生したのです。
しかし・・・国債引き受けには、未来への危険を含んでいました。
それは・・・悪性のインフレーションでした。
深刻なダメージを避けるには・・・??
その判断が是清に託されたのです。


このまま国債を発行することはできない・・・。
時期を見て発行を控えていこうとする是清。
ところが、大きな壁が・・・発言力を強めて来ていた軍部でした。
1931年満州事変。
世界的な軍縮の中・・・大陸での権益確保とソビエトに対抗しようと強力な軍拡を進めていました。
陸軍大臣・荒木貞夫が軍事費の大幅増額を直談判する異例の事態が起こります。

1934年・・・日銀副総裁・深井英五から重要な情報が・・・
民間の国債購買力が低下してきたというものでした。

「既に日本は、国債に頼らないほど回復している。
 にもかかわらず、このまま国債を発行し続ければ間違いなく悪性のインフレーションが起こる」by英五

国債を減らし、財政健全化へと舵を取るときがきたのです。
しかし、軍部は今まで以上に国債を発行させようとします。
政界には軍部の横行が目立ってきていました。
暗殺されていく要人・・・総理大臣でさえ軍部にはたてつけない・・・??

国債削減のみで財政健全化を図る??
増税による財政健全化を図る??

1935年6月・・・予算編成方針大網を発表。
増税計画が政府に組み込まれました。
ところが・・・この増税案は、数日の間に撤回されます。
是清の考えで、国債の削減のみで行うことになったのです。
財政健全化と軍事予算の問題を解決するために、国民経済を犠牲にすることはできない・・・!!是清の決断でした。
軍事力の過大な拡大は富国を妨げる・・・国民の豊かさを追求していくというのが是清の考えだったのです。

そして1936年緊縮予算が発表され・・・軍部との交渉の矢面に立つことになってしまった是清。
「今の日本は民間の力を充実させることが先決だ。
 日本は世界に於いて天然資源も少なく、国力の豊かならざる国であるから、予算も国力に応じたものを作らねばならぬ。」

予算を巡る軍部の攻防・・・そこには孤軍奮闘する是清がいました。
11月29日・・・最後の予算折衝が行われました。

是清は・・・「国際派増発はしない。軍部は要求額を引き下げるべき」としました。
軍部は・・・「軍事戦略上、これ以上の妥協はできない。」

予算折衝の結果・・・是清に折れた軍部なのでした。
予算は総額22億7200万円で、軍事費は10億600万円。
悪性インフレを回避する最大の課題はクリアしました。
そして・・・誰もが是清を称えたのですが・・・そんな是清に憎悪したのが軍部の青年将校たちでした。

1936年2月26日早朝・・・。
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政府要人たちの命が失われる二・ニ六事件が起きました。
青年将校たちの多くは・・・都市との格差が広がりつつあった地方の貧しい農村の出身でした。
憤懣が・・・!
青年将校たちは是清の自宅を襲撃・・・!!
暗殺されたのでした。


それは・・・日本の財政とその後の歩みを大きく変えてしまった瞬間でした。



陸軍青年将校の凶弾に斃れた高橋是清・・・。
護衛をつけるようにと言われていたのに断って・・・普段の生活をしていました。
激務の中、家族との時を楽しんだと言います。

「武備を柱とした平和は一時的なものであって、永久の平和は各国民が互いに信頼するということにおいてのみ求め得られる。
 例えば、一家和合ということは、一家族が互いに信頼することから起こる。
 経済界に於いても、同様の信頼があってこそ、繁栄を見ることができるのである。」

是清を失った日本は・・・
翌年、盧溝橋事件・・・日中戦争が始まり・・・太平洋戦争へ・・・アメリカとの泥沼の戦争へと突き進んでいきます。
この戦費を賄ったのが、大量の国債でした。
戦争へと突き進む日本・・・。

日本の健全な経済発展を望んでいた高橋是清。

「経済界のことというものは、何人たりといえども永き将来に渡って、確実に的確に予想することができるものではない。」

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