明治天皇は在位中、北は北海道から南は鹿児島まで全国巡幸を繰り返しました。
学校や工場など訪れたところで多くの人々と接した天皇・・・そのわけは、新政府を率いた大久保利通たちの戦略でした。
幕末動乱のさ中、14歳で即位となった明治天皇・・・その存在は、まだ全国に知られていませんでした。
無名の青年君主を、新しい日本を導く天皇としてあまねく知らしめる・・・
巡幸は、人々の心にどのように印象付けたのでしょうか?
そしてどのように受け入れられていったのでしょうか?

幕末の動乱・・・明治維新・・・天皇は大きな時代の流れに飲み込まれていきます。
1868年鳥羽伏見の戦いで旧幕府勢力に勝利した新政府は、新しい国づくりに着手します。
この時、大久保、西郷、木戸らが構想したのは、天皇を中心とした国家でした。
しかし、そこには乗り越えなければならない壁がありました。
当時、多くの国民にとって、天皇は遠い存在だったからです。

京都では、行事もあり、御所もあるので天皇の存在は当然でしたが・・・
普通の人々に天皇の存在は知られていません。
かなり茫漠としたもの・・・江戸では天皇は神様のような存在だったのです。

江戸時代、天皇は御所の外にはほとんど出ませんでした。
民衆の抱く天皇には、多くのばらつきがありました。
そこで、天皇の存在を知ってもらう必要がると感じた大久保は・・・

”天皇が玉廉の中にいて、公卿にしか会えないのでは、民の父母であるという天から授かった職掌を達成できない
 外国においても、帝王は国中を歩き、万民を慈しむものである”

新しい時代の天皇は、人々に姿を見せる西洋の君主になるようにと、大久保は考えました。
1868年、大久保たちは、天皇を御所の外に出すことから始めました。
3月大坂行幸、7月東京行幸を計画します。
天皇はその求めに応じ、9月20日、京都から東京へ出発。
道中、民衆とのふれあいを楽しみます。
そして20日後の10月13日、江戸城へ到着。
東京では大勢の人々が天皇を祝福。山車が繰り出され、2日間にわたるお祭り騒ぎ・・・
ひとまず新政府は、京都以外の人々に天皇をアピールすることに成功しました。
そして、東京は西洋諸国に倣って文明開化!!
そして、天皇自身が新時代にふさわしい天皇になることを求め始めます。

天皇のイメージチェンジ・・・
明治神宮には、明治天皇が明治5年に着用した燕尾服と帽子がが残されています。
帽子には鳳凰の刺繍、ボタン掛けの上着は、菊唐草紋の刺繍で覆いつくされています。
金の糸をふんだんに使った豪勢な作り・・・

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天皇の軍服は、主に儀式などで使われたと思われます。
黒羅紗の地に金モール・・・天皇は20歳の時、この軍服を身にまとい、カメラの前に・・・

明治天皇の代表的な肖像写真です。

白粉やお歯黒を落とし、ひげを蓄え、威風動堂な姿・・・
江戸時代の天皇とは全く違う天皇が誕生したのでした。



明治天皇は、全国巡幸で訪れた先々で、花瓶や茶碗などを下賜しました。
それらは、大切に保管され、人々は後々まで天皇のことを語り継いでいきます。

権威や徳の大きさを印象付けるだけが巡幸の目的ではありませんでした。
群馬県では新町の中心にあった工場を視察しています。
巡幸の前年に作られた工場に、明治天皇は1時間滞在しています。
この工場、明治10年にできたときは屑糸紡績所でした。
この紡績所で屑糸をリサイクルし、生糸を作っていたのです。
ここは、大久保や岩倉らが新たな外貨獲得を目的として建設した政府肝いりの工場でした。
もともと群馬には、フランスの技術を導入し、輸出用の生糸を生産していた富岡製紙工場がありました。
この製糸場に近く、屑糸が手に入りやすいため、屑糸紡績所を作ったのです。

明治天皇は全国巡幸で、工場をはじめ近代化の象徴とされる施設を多数訪問しました。
学校、地方行政を担う庁舎、天皇ができたばかりの施設を視察することで、文明開化や殖産興業を図ったのです。



巡幸は、人々が明治天皇を広く知ることだけではなく、天皇自身が為政者としての自覚を促すきっかけになったといいます。
天皇に日本の隅々までご覧いただきたい・・・日本はこれだけ広くて、これだけいろんな地方がある・・・
豊かなところもあれば、そうでないところもある・・・それも含めて日本だ・・・ということを、新しい時代の天皇として知っていただきたい・・・。
巡幸を通じて、君主としての自覚が生れてきたのです。
巡幸なくして、意識の変革はなかったのです。

1878年・・・明治11年5月、事件が発生!!
大久保利通暗殺!!
赤坂上御所に向かう途中、紀尾井坂でのことでした。
実行犯たちは斬奸状を起草して、明治政府を糾弾!!

現在の法律は天皇の御威光でもなく、人民の意見を取り入れて作られたものでもない。
要職にいる一部の官吏の独断によるものである。

この事件を契機に、宮中で天皇の在り方を変えようとしていた勢力が動き出しました。
中心となったのが、熊本藩出身の儒学者・元田永孚や土佐藩出身で新政府の参議も務めた佐佐木高行・・・侍補と呼ばれる側近たちでした。
侍補は明治10年に天皇の補佐・指導を目的として宮内省に置かれた役職で、天皇の傍に仕えながら、政治や道徳を教え、相談を受ける役割を担っていました。
天皇が主に学んだのは、元田の意向を反映した書経や詩経・・・儒学の古典でした。
侍補たちは、天皇を「徳」を備えた聖人君子にしようとしたのです。
大久保が暗殺された直後、侍補たちは、かねてからの構想を実行に移しました。
大臣・参議による専制を批判し、天皇が政治の実権を握る天皇親政を進めるべきだと言ったのです。

薩摩・長州の一部の人間が牛耳り、陛下の意向を無視して進められている・・・
このままだと天下の人心に不平が起こり、政府要人を狙った暗殺事件が再び起きるかもしれない・・・
今こそ、古代中国の聖人君子のように徳を備えた聖人君子となり、天皇親政を実現しなければっ!!

明治天皇は涙を浮かべて奏上を聞き、侍補たちに同調しました。
自ら政治に介入する動きに出ます。
当時空席となっていた工部卿に佐佐木高行を推薦。
しかし、それは天皇親政を恐れた太政大臣・三条実美らに認められず、実現できませんでした。
天皇親政運動の結果としては「天皇の政治的意思は内閣が担う。もう侍補は要らない」となったのです。

政府の外でも動きが・・・地方の士族や豪農を中心とする自由民権運動です。
国民の自由や権利の拡大を目指した政治運動で、国会開設と憲法制定を要求しました。
国民主体の政治を目指しました。
運動の過激化を防ごうとした政府は、明治14年、9年後の国会開設と憲法制定を表明します。
憲法の制定作業に本格的に取り組むことなります。
この動きの中心となったのが、大久保亡き後政権の中枢にいた伊藤博文でした。
当時、政府よりも早く民間では様々な憲法案が発表されていました。
議会優越、天皇大権・・・天皇の廃位を求めるモノまで・・・天皇を憲法の中でどこに位置付けるのか??
憲法制定の中核を担った伊藤は頭を悩ませていました。

そんな中、明治15年3月、伊藤は憲法調査のためにヨーロッパへ。
そしてウィーンで重要な人物と出会います。
ウィーン大学の法学者ローレンツ・フォン・シュタイン教授です。
伊藤はこの講義を受け、感銘を受けます。
シュタインの教えは、君主に一定の統治権を認めつつ、行政を中心に据えることで君主や議会の横暴を止めるというもの。
当時ヨーロッパの新興国だったドイツ・プロイセンの考え方・・・立憲君主制でした。

明治16年8月、構想を固めて伊藤博文帰国。
政治に復帰した伊藤は宮中改革を進めますが・・・
そこに直面したのは、自らの意思を反映できずに政治への意欲を失った天皇の姿でした。
たまりかねた伊藤は、明治18年8月、三条実美に書簡を認めます。
政務に熱心でない明治天皇への嘆きが率直に書かれています。

天皇の知らないところで、大臣たちが全てを決めているという現状・・・。
明治天皇に立憲君主としての在り方をどう理解してもらうのか??
伊藤の苦悩は深かったのです。

明治天皇にどのようにして憲法を学んでもらうか・・・伊藤には秘策がありました。
「澳国スタイン博士講和録」・・・伊藤と同じくシュタイン博士の講義を受けた人の記録です。
侍従の藤波言忠は幼いころから宮中に出入りし、天皇の信頼も厚い学友でした。
伊藤は当時ヨーロッパで滞在していた藤波に目をつけ、ヨーロッパでシュタインのもとで憲法を学び、帰国後明治天皇に進講することを要請します。
藤波はおよそ1年にわたりシュタインの憲法を徹底的にたたき込まれ、天皇の立憲君主としての心構えまで学んで帰国しました。
明治20年に始まった進講は30回以上、4か月に及んだといいます。
憲法を熱心に学ぶ明治天皇・・・。

藤波は、立憲君主の仕組みを工夫を凝らして説明し、天皇を助けます。
何から何まで自分が統治するのではない・・・法律の中にあるのが天皇である!!
明治21年春まで続いた進講によって、明治天皇は憲法の中に規定されている自らの役割を理解し、理解を深めていきました。
伊藤の目論見通り、天皇は新しい立件国家に相応しい君主へと成長したのです。

明治21年6月、憲法草案について最後の審議が行われました。
天皇の諮問機関として設けられた枢密院・・・1か月にわたり伊藤を議長とし、皇族や大臣が参列する中、激しい議論が行われます。
憲法の制定に深い関心を示す天皇の姿・・・明治天皇は一度も欠かすことなくご臨席されます。
夏の暑い時に、長時間の難しい議論もじっと聞いていられる・・・根気のいることでした。
明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布。
新築された宮殿で、天皇御隣席のもと、盛大な式典が催されました。
憲法で天皇はどう位置付けられたのか??
第1条・・・萬世一系の天皇これを統治す・・・天皇家が日本の統治権を担うことを宣言。
その一方、第4条で天皇の統治権は憲法の条規により・・・憲法の従うことが明記されました。
立憲君主として憲法の制約を受ける天皇の役割を明確に規定した憲法となりました。

皇居前広場・・・憲法発布の前に式典公開のために整地された敷地です。
宮殿での発布式を終えた明治天皇と皇后は、馬車に乗ってパレードを行いました。
皇居前広場は、多くの民衆で溢れ、憲法発布を祝いました。
喜びの声は、東京から各地へと広がります。
幕末維新の動乱のさ中に即位した明治天皇・・・
それから22年・・・近代日本の立憲君主として国民の前にその姿をようやく定着したのでした。


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