日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:佐和山城

1573年9月・・・戦国最強と謳われた巨大山城が落城しました。
城の名は小谷城・・・城主・浅井長政は、織田信長の妹・お市を妻にして、信長と同盟関係を結んでいました。
小谷城を落としたのは、身内のはずの信長でした。
長政の裏切りをきっかけに、血で血を洗う戦いが始まったのです。
しかし、城の守りは固く、落城までは3年の月日が必要でした。
小谷城を信長はこう評しています。

”高く険しい要害の地、攻め上がること困難なり”

小谷城とはどのような山城だったのでしょうか?
織田信長が、天下統一への第一歩となった小谷城落城・・・この攻防が現代に残す教訓とは・・・??

滋賀県北東部の長浜市・・・琵琶湖を見下ろす山に、巨大な山城・小谷城がありました。
標高495m・・・今は木々に覆われた山は、かつて巨大な山城として近江国にそびえたっていました。
自然の地形を生かしながら、巨大な要塞として構築された小谷城です。

曲輪には兵を配置し、尾根筋を進んでくる敵を鉄砲や弓矢で攻撃する拠点となります。
曲輪の外側には、敵の攻撃を防ぐ工夫があります。
切岸です。
急斜面を作り、下からの敵の侵入を防いでいるのです。

尾根沿いの道は、曲輪に横を過ぎると曲がっています。
これも側面から敵を倒す工夫です。
何の変哲もない山道も、綿密に設計された敵を倒す防御システムだったのです。

尾根沿いの道を避け、斜面から攻めようとすると・・・竪堀があります。
竪堀を掘っておくことで、敵が山の斜面を横移動して城内の中心部に入ることを防ぐ防御施設です。
竪堀の先は、数多くの曲輪があり、敵を皆殺しにするためのワナです。
竪堀に足止めされたところを曲輪から攻撃されます。
斜面からは攻め込めません。

本丸を目指す・・・その先には、今まで以上に強力な曲輪が待ち構えていました。
防御のための土塁を全周回していています。
鉄砲を撃ちかけることもできます。
仮に銃撃をかいくぐることができても、その先に侵入することも難しい・・・
見事な守りの城です。

本丸の出入り口・・・
石段の上には見事な黒鉄門という鉄ばりの城門がありました。
門の中には、小谷城最大の曲輪がありました。
大広間といい、幅35m、奥行き85mあります。
政治の中心地でした。
城主・長政が暮らしたこの空間からは、壺や皿などの日常生活や宴会に使用されたとみられる遺物が3万点以上発見されています。
大広間と本丸の背後には、尾根を断ち切った深さ9mの大堀切が作られています。

大堀切の奥には、城主・浅井長政の大切な人が暮らす曲輪が連なっています。
地元北近江の守護だった京極氏を住まわせる京極丸、長政の父・久正が入る小丸、本丸よりも高いところに置かれています。
しかし、小谷城はまだまだあります。
そこから急な坂道を登る事50分・・・
標高495mの山頂に、巨大な防衛陣地が作られていました。
大嶽城です。

たどり着くことさえ困難な山頂に、三重の土塁が張り巡らされています。
小谷城を背後から攻撃しようとする敵に備えたものだと考えられます。
さらに、大嶽城から南にのびる尾根筋にも、砦がいくつも配置され、西側からの攻撃に備えていました。
小谷城は、あらゆる方向からの敵に備えた難攻不落の要塞でした。
南国屈指の巨大山城・小谷城・・・
木々の下に隠れていたのは、戦国乱世が行きついた究極の城の姿でした。

浅井長政の居城・・・北近江の巨大山城・小谷城・・・。
長政は、小谷城の他にも、領内各地にいくつもの小さな城を配置していました。
こうした城は、どのような役割を持っていたのでしょうか?

横山城には、重要な意味がありました。
横山城は、小谷城の南にある軍事拠点で、街道が三角形に集まってくる真ん中にある城でした。
主要な街道を監視し、南、東の動きを把握することができ、即座に対応することができました。
浅井氏の支城は、色々な役割を担っていました。
小谷城の西の山本山城・・・琵琶湖の脇を日本海側に抜ける街道は、この山本山城と小谷城の間を通っていました。
二つの城で街道を囲んでいる・・・経済のポイントを山本山城が押さえていました。
私情を築くことで、地域を守るだけでなく、街道・・・流通そのものを把握していくことにつながりました。

小谷城の麓を通る街道・・・浅井氏は、この街道を小谷城の城下町まで引き込んでいました。
小谷城自体が、流通を支配する!!
重要な幹線道路を浅井氏が遮断している・・・きちんと管理していました。
小谷城の城下町は、川で琵琶湖ともつながっていました。
川を下ると姉川に合流し、姉川からすぐに琵琶湖で下。
琵琶湖の湖上交通という大きな物流の大動脈につながったのです。

浅井氏は、城下に川湊を作り、琵琶湖の物流と直接つなげていたのです。
北陸の米などを京都に運ぶ琵琶湖の大規模の水運は、物流の幹線ルートとして重要な意味を持っていました。
このルートを掌握する役割を持たせていたのが佐和山城です。
佐和山城は湖の入り江に接していました。
浅井氏は、湖に接する城を通じて、琵琶湖の水運にもにらみを利かせていました。
北陸から朝井領を通る琵琶湖の物流ルートには、隣国の大名も注目していました。
越前の朝倉氏は、早くから朝井氏と同盟を結んでいます。
天下統一に向かう織田信長も、妹・お市を長政に嫁がせ、緊密な関係を築いていました。

1570年4月、信長は、浅井氏と同盟関係にあった朝倉氏を攻撃!!
これを機に、長政は信長から離反します。
長政の裏切りを知った信長は、朝倉攻めを断念し、命からがら京に逃げ帰るのです。

長政の裏切りから2か月後・・・
1579年6月、信長は浅井領に侵攻します。
兵を向けたのは、小谷城ではなくその南の支城・横山城でした。
横山城を包囲した信長に、長政も出陣!!
姉川の戦いです。
戦は信長の勝利に終わり、長政は横山城を失います。
その頃、浅井長政、朝倉義景、武田信玄、石山本願寺、三好三人衆・・・信長包囲網が築かれようとしていました。
信長は大ピンチだったのです。
それでも信長は、浅井への攻撃を続けます。
狙ったのは、南の橋の佐和山城!!
佐和山城は、全体の戦局を左右する要の場所でした。
佐和山城は8か月にわたる籠城戦の末、信長の手に落ちました。
要となる城を奪われた長政・・・厳しい選択を強いられます。

佐和山城、横山城を落とされ、小谷城に来るのは時間の問題・・・和睦を願い出る・・・??
信長が、裏切ったものを許すはずがない・・・鉄壁の小谷城で戦いに打って出る・・・??

1571年5月、長政は、奪われた支城の奪還に打って出ました。
あくまで信長と戦う道を選んだのです。
しかし、強力な信長軍を前に敗戦が続きます。
勢いづく信長は、小谷城に近づき・・・小谷城から500mのところに虎御前山城を築きます。
目の前に大規模な陣を構え、長政を物理的にも精神的にも追いつめていきます。
信長は、新しい戦略をとっていきます。
信長は、幅6mの軍用道を5km作ったとされています。
高い塀で目隠しをし、浅井側に見えない徹底ぶりでした。

じわじわと小谷城を締め上げる織田軍・・・
一方の長政は、味方を次々と失っていきます。
比叡山延暦寺は焼き打ち、武田信玄は病死・・・

1573年8月、小谷城のすぐそばの支城・山本山城が信長に降伏・・・。
羽柴秀吉の巧みな調略によるものでした。
山本山城が陥落することによって、小谷城の裏に回れる・・・!!
山本山城降伏からわずか4日後・・・信長は勝負に出ます。
振りしきる雨をものともせずに、自ら手勢を率いて小谷城背後の要・大嶽城に攻め上ります。

8月27日、信長は総攻撃を命じます。
羽柴秀吉率いる軍勢は城下町を突破、谷から急斜面を駆け上がります。
京極丸の辺りに乱入!!
長政の父・久正の籠る小丸を攻めたて自刃に追い込みます。
滅亡を悟った長政は、妻・おとに三人の娘たちを信長の元へ送り出します。
そして自らは、最後まで残った家臣たちと共に本丸で打って出ます。
総攻撃開始から3日後・・・
1573年9月1日、小谷城城主・浅井長政は自決・・・28年の生涯を閉じました。
落城した小谷城は、秀吉に預けられましたが、琵琶湖湖畔にある長浜に新たな城が築かれると廃城が決まります。
この後、再び巨大山城が築かれることはありませんでした。
山城に立て籠れば守り切れるという戦国の常識が崩れた瞬間でした。
中世的な山城から近世の平城に・・・この転換を武将に決断させた大きなきっかけが小谷城の戦いでした。

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今からおよそ420年前の9月15日、日本中を巻き込んだ天下分け目の大決戦がありました。
関ケ原の戦いです。
その裏には、武将たちの数々の駆け引き、裏切り、決断がありました。
両軍合わせて10万という大スケールの戦い・・・
3人の人物を通してその実像に迫ります。

岐阜県の関ケ原・・・
東軍を率いる徳川家康、西軍を率いる石田三成・・・全国の大名が東西に分かれ、日本を二分する戦いでした。
勝った家康は、その後260年続く江戸幕府を開いて歴史を変えました。
しかし、その勝利は紙一重でした。

①もしも石田三成が大垣城で戦っていたら・・・??

関ケ原から東へ12キロの大垣市・・・西軍を率いた石田三成は、合戦の前日までここにいました。
水運に恵まれ。古くから栄えていた大垣・・・松尾芭蕉が「奥の細道」の旅を終えた地です。
川に囲まれた地形で、それが三成が大垣に拠点を置いた大きな理由です。

1560年、石田三成は現在の滋賀県長浜市で下級武士の子として生まれました。
三成は次男で家督を継がないため、幼いころから寺に預けられました。
勉強熱心だった三成は、15歳で豊臣秀吉と運命的な出会いをします。
鷹狩の途中で寺により、茶を所望した秀吉・・・
三成は、わざとぬるい茶を出しました。
喉の乾いていた秀吉が、一気に飲めるように考えたのです。
しかし、二杯目、三杯目になると、温度は熱く、量は少なめにしました。
この心遣いに感心した秀吉は、寺から家来として取り立てるのです。

算術も得意だった光秀は、領国経営にも力を発揮します。
秀吉が天下統一を果たすころには、全幅の信頼を得ました。
太閤検地、刀狩りの事業、朝鮮出兵では総奉行を務め、物資の補給に力を発揮しました。
ある大名は、三成のその仕事ぶりを・・・
「三成は豊臣政権の中心人物である」by毛利輝元
しかし、順調だった三成の人生に逆風が吹き荒れます。
1598年、主君・豊臣秀吉が死去
秀吉の意志を継ぎ、豊臣政権を発展させようと思っていた三成・・・しかし、ある武将が天下取りへの野心を露にしました。
徳川家康です。
「天地の格は定まりたることなきものなり」
天下は強い者の持ち回りというのが持論の家康・・・
有力大名と政略結婚を画策し、勢力拡大を図ります。
しかし、これは秀吉が生前禁じていた行為・・・
三成は、秀吉の禁止を破る家康に、強い警戒心を持つようになっていきます。
しかし、1599年3月、三成は思わぬ事件で足を救われます。
朝鮮出兵の温床に不満を持っていた武将たちが、三成を襲撃します。
恩賞を決めたのは秀吉でしたが、伝えたのが三成だったので、不満が三成への反発となったのです。
双方の仲介役となった家康は、この機に乗じて三成を政権中枢から外そうとします。

「秀頼公のため、世情を安定させる」by家康

三成は、混乱を招いた責任をとって、自らの居城である近江の佐和山城へ蟄居します。
佐和山城からほど近くの龍潭寺は、三成ゆかりの寺です。
ここに、三成の人柄を表す貴重なものが残されています。
三成の居城・佐和山城で使われていた板戸です。

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表は桜舞で非常に華やかですが、内側は質素に作られています。
表はお客が通るのでそれなりの絵ですが、自分たちの部屋側は、質素だったのです。

三成は蟄居している間も、大坂城の家康の動向を探っていました。
三成を追い出し、実権を握った家康は、独断で大名に領地を与えるなど、政権を意のままに操ろうとしました。
しかし、蟄居のみでは、三成はどうする事もできません。

ところが、1600年6月・・・三成に千載一遇のチャンスが・・・!!
会津の有力大名・上杉景勝に謀反の疑いありと、会津討伐のため家康は大坂城を離れます。
この時三成は、同志と共に全国の大名に書状「内府ちがひの条々」を送ります。
13か条にわたって、家康の罪を糾弾したのです。
三成はさらに、中国地方の大大名・毛利輝元を総大将にして家康討伐の軍を組織・・・9万を超える兵数を揃え西軍となります。

三成は、関東から引き返してくる家康を迎え撃つために、大坂から岐阜方面に進軍していきます。
一方、三成挙兵の知らせを聞いた家康は、会津討伐を中止し、急遽軍議を開いて諸将に自分につくように約束を取り付けます。
その数9万・・・家康率いる東軍が誕生しました。
三成は、岐阜城と大垣城を結ぶラインを防衛線としました。
そして、関ケ原の戦いの1か月前の8月11日・・・西軍は、大垣城に入城します。

三成はどうして大垣城を拠点としたのでしょうか?
家康が陣を置いたのが大垣城のおよそ4キロ先・・・岡山という小高い丘でした。
三成が西軍の拠点を大垣城としたのは、水の都ならではの守りの堅さがありました。
揖斐川、杭瀬川、水門川に挟まれている地形を利用して、城下町に川から水を引き込んで、何十にも堀を作ることができましいた。
守りに特化した城でした。
大垣城を拠点に、決戦の準備をする石田三成・・・
しかし、9月14日思わぬ知らせが・・・
東軍の陣地・岡山に、徳川家康が着陣したのです。
これは、西軍の予想よりもはるかに速い到着でした。
動揺が走ります。
そこで三成の重臣・島左近が、奇襲作戦を進言します。
「今、東軍をたたけば、味方の動揺を抑え、士気を高めることができる・・・!!」と。
島左近は、隊を囮部隊と伏兵部隊に分ける作戦をとりました。
囮部隊が、両軍の境にある杭瀬川を越えて、東軍陣地に入り敵を挑発・・・わざと敗走します。
追い打ちをかけようと川を渡ってきた東軍を、伏兵部隊が狙い、一網打尽にしました。
この手痛い敗走で、家康は大垣で戦えば不利だということを悟りました。
逆に三成は、この戦いで大きく士気を高めます。
勢いに乗る三成は、ここで一気に東軍をたたく秘策を用意していました。
三成が用意した必勝の策とは・・・??

南宮山・・・南宮山は、西軍・毛利秀元の陣がありました。
ここから大垣方面が一望できます。
毛利のいた南宮山は、三成が大垣城に、徳川が岡山にいれば家康の陣を狙える要の位置となります。
さらに城跡には、大垣城決戦を裏付けるものが・・・!!
南宮山には切岸が作られています。
切岸とは、敵が登れないように人工的に作った急斜面のことで、敵が攻めてこれないようになっていました。
もう一つ・・・竪堀も作られています。
竪堀は、山の斜面を横切れないように造られた堀のことです。
関ケ原方面には何もなく・・・
三成は、どんな戦術を考えていたのでしょうか?

後詰戦法です。
東軍が大垣城を囲んで攻撃しようと展開したタイミングで、毛利が南宮山をおりて背後から攻撃し、挟み撃ちにすること・・・三成の秘策は、南宮山からの後詰戦法だったと考えられます。
こうした山城を作り、1か月にわたって準備してきた西軍・・・しかし、大垣決戦は幻となってしまいます。

9月14日夜・・・
石田三成の元に思わぬ知らせが・・・家康が大垣城を攻めずに、西へ向かい佐和山城を、大坂城を攻めるというものでした。
これを聞いた三成は、急遽陣を移すことに・・・陣を敷くのは関ケ原!!
史実では、西軍は守備隊だけを大垣城に残し、関ケ原に異動。
決戦は関ケ原で行われました。

①もしも石田三成が大垣城で戦っていたら・・・??

西軍は大垣城、東軍は岡山・・・
そして南宮山には後詰の為に毛利勢が控えています。
徳川家康にとっては攻めるのは簡単ではない・・・!!
川と堀がはりめぐらされ、攻略の難しい大垣城・・・家康ならその豊富な水を浸かって、水攻めに・・・!!
大垣は、川の堤防より低い土地・・・
度々水害に見舞われています。
明治29年には、7月と9月に集中豪雨で各河川で堤防が決壊、大洪水に見舞われています。
岐阜市から大垣市まで船で往来できるほど浸水したといいます。
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水害当時も水に浮かぶ大垣城の写真も・・・
豊富な水は、大垣城の強さでもあり、弱点でもありました。
西軍は後詰!!
毛利が一気に南宮山をおりてきます。
大垣城に近づいてきて・・・西軍も大垣城から出てきて・・・!!
東軍に属している人たちは、豊臣恩顧の大名が多く、家康に対して忠誠心はなく・・・寝返るものも出るかも・・・??
しかし、人望がなく・・・西軍の勝利・・・??


②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

関ケ原の戦いで、その名を後世に残した小早川秀秋・・・
武将とは思えないほどの優しげな表情です。
この時、19歳!!
東軍7万4000、西軍8万4000が激突した関ケ原の戦い、ここに参加した小早川秀秋は、最年少の武将でした。
しかし、その手には、巨大な兵力を握っており、勝敗を左右する絶好の位置に陣取っていました。
そのため秀秋は、両陣営の裏工作のターゲットとされたのです。

家康に味方し、地位と領地を得るチャンスを掴むのか??
三成に味方し、豊臣家での出世を狙いのか・・・??
人生最大の決断を19歳で迎えてしまいました。
小早川秀秋に付きまとう裏切り者のイメージ・・・
それは、関ケ原でのどんな行動からだったのでしょうか?

9月15日午前6時・・・霧が立ち込める中、大垣から移動した両軍は、布陣を終え、戦いの時を待っていました。
霧のはれた午前8時、井伊直正の鉄砲隊が、突然発砲し、戦いの火ぶたが切られました。
西軍の小早川秀秋は、関ケ原すべての武将の中でも最大の兵力1万1000を持っていました。
そして、東西両軍を見下ろす松尾山に陣取っていました。
西軍の指揮を執る三成は、のろしを上げて、秀秋に攻撃を合図します。
しかし、秀秋は全く反応せず・・・
正午過ぎ・・・秀秋は満を持して動き出します。
攻め込んだ相手は、大谷吉継・・・なんと、西軍の有力武将でした。
小早川秀秋の裏切りです。
この情報は、たちまち戦場を駆け巡り、東軍に寝返るものが続々と現れます。
こうして、勝敗の行方を決定づけてしまいました。

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

三成は、秀頼の出陣に当たって、関ケ原の人々に陣取りの案内、陣地作成の協力を依頼した書状を残っています。
普通は、家を燃やしたり、青田刈りをしたりしますが、事前に手紙を出しているところに、三成の思いやりが出ています。
関ケ原の戦いは、地元の農民にも一大事でした。
大切なコメを作る水田が戦場となるのです。
おまけに米の収穫時期と重なっていました。
三成からのお達しを受けた農民たちは、例年より米を早く収穫。
そして、本体が移動してくると陣地設営に協力します。
戦いが始まってからは、山中に逃げ込んで、戦いを見物していたといいます。
農民たちが見た戦いとは・・・??

三成が陣を敷いた笹尾山からは、関ケ原が一望できます。
味方はもちろん、敵の動きも手に取るようにわかります。
しかし、笹尾山から家康の桃配山は見えません。
家康は、最前線から遠いここで戦況を見守っていたのです。
しかし、戦いが始まって3時間後・・・一進一退の戦いにしびれを切らした家康は、遂に本陣を前線に移していきます。
桃配山から前進してきた家康・・・三成の笹尾山まで800mのところに陣取りました。
家康が見える・・・!!
家康を攻める絶好のチャンスが到来しました。
三成は、松尾山の秀秋に狼煙の合図を送るものの、一向に動きません。
大鵬も用意していた三成・・・優位だったのは西軍でした。
カギを握っているのは、松尾山に陣取っている小早川秀秋・・・!!

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

小早川秀秋は、1582年、近江に生れます。
父親の名は、木下定家、叔母はおねでした。
そのため、幼いころに、子供の頃に子供のいない秀吉夫妻の養子となりました。
秀秋は、秀吉の世継ぎとして育てられ、おねからも、深い愛情をもって育てられます。
恵まれた環境の中、心優しく懸命な子に育った秀秋・・・

「貧しい武士や家がなくて困っている人を救いたい」と思っていました。

しかし、1593年、状況は一変します。
秀吉と淀殿の間に、実子・秀頼が生れたのです。
このため、秀秋が豊臣家の世継ぎとなることはなくなりました。
それどころか、秀頼の対抗馬とならないように、小早川家の養子に出されてしまいました。
その翌年、衝撃的な事件が起こります。
秀秋と同じく秀吉家の養子だった秀次が、謀反の罪をかけられ・・・死に追いやられてしまいました。
明日は我が身か・・・??酒におぼれ、手が付けられないようになります。
1598年に秀吉が亡くなり、秀秋の不安は消えました。
しかし、次は家康と光秀の戦いに巻き込まれてしまうのです。
有力武将でありながら、まだ十代の秀秋は、格好のターゲットでした。

石田三成の誘い
「秀頼殿が、15歳になるまで関白職をお願いしたい」
家康の調略
「我が方につくならば、上方の二国を約束する」
黒田長政からは秀秋の弱みを突く脅し文句が・・・
「西軍で戦えば、義母として愛育してくれた北政所様に累(災い)が及ぶことは必至」
東西両陣営から誘いの言葉をかけられた秀秋・・・
どのような思いでこの戦いに参加していたのでしょうか?

松尾山の陣は関ケ原の陣の中でもかなりの高所です。
そこからは、関ケ原が・・・三成の陣(松尾山)、家康の陣も見渡すことができます。

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郭が東西にのびていて、立派なお城です。
松尾山の巨大な山城に陣取った小早川秀秋・・・両軍が促すも、動かず・・・!!
しびれを切らした家康が、小早川の陣地に向かって発砲!!
東軍として、戦いに参加するように促したともいわれています。
秀秋はどんな思いで戦いを見つめていたのでしょうか・・・??

戦いが始まって4時間・・・それまで傍観を続けていた小早川秀秋がついに動き出しました。
この時、松尾山を駆け下りたルートは、西軍の大谷吉継の後方を突くものでした。
大谷吉継は、病を押して戦う西軍の精神的支柱ともいえる武将!!
兵力600の精鋭部隊でした。
しかし、秀秋率いる1万1000の大軍勢、さらにその攻撃を目の当たりにした付近の4武将たちが、東軍に寝返ります。
さすがの大谷軍も、抑えきれなくなり壊滅・・・!!
大谷吉継はその場で自害しました。
大谷軍の敗北により、戦況は一転、東軍は勢いづき宇喜田秀家を追いこんでいきます。
側面を突かれた西軍は一気に総崩れとなり、三成は山中に逃亡・・・
まさに、小早川秀秋の行動が勝敗を決した決断だったのです。
午後2時・・・わずか半日で天下分け目の関ケ原は決着したのです。
これが史実・・・

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??
西軍は山を背後に有利な状況・・・東軍を囲い込む陣形でした。
東軍が攻めて対峙する西軍・・・三成から狼煙があがった時、小早川秀秋が側面から東軍を突きます。
ここで一気に西軍に・・・
大垣城の後詰にいた西軍・・・南宮山の毛利勢が・・・中山道から、伊勢街道から家康軍を挟み、囲まれ・・・西軍の圧勝でしょう。

関ケ原合戦図屏風・・・
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有名人が117名描かれています。
しかし、その中で姿が絵が賀れていない人物が3人います。
その一人は、この戦いに勝利し江戸幕府を開いた徳川家康、二人目は、最も家康に叛逆した石田三成、そしてあと一人は・・・小早川秀秋です。
小早川秀秋のおかげで東軍は勝てたはずなのに、その秀秋の姿がないのです。
裏切り者として、評価が低すぎたので描かれなかった可能性が高いと思われます。
戦いに敗れ、山中に逃げた石田三成は、やがて捕らえられます。
そして京都市中引き回しの上・・・斬首!!
居城・佐和山城も火を放たれ、焼け落ちました。
この時、佐和山攻めの先陣を切ったのが、小早川秀秋でした。
合戦の二日後、家康に命じられてのことでした。
それから1週間後、秀秋は家康から手紙を受け取ります。

”今回の関ケ原でのご忠節にとても感悦しています
 以前からの約束は、間違いなく実現させます”
   
その言葉通り、秀秋は二国を与えられ、備前岡山城主となりました。
しかし、秀秋は関ケ原の戦いの後、以前にもまして酒浸りとなり・・・家臣を訳もなく切りつけるなど、肉体的にも精神的にも尋常な状況ではなかったといいます。
1602年、小早川秀秋死去・・・享年21歳・・・関ケ原の戦いからわずか2年後のことでした。


③もしも、黒田官兵衛が戦い続けていたら・・・??
天下分け目の戦い関ケ原・・・日本中を巻き込んだこの戦に、黒田官兵衛の姿はありませんでした。
この時官兵衛は、関ケ原から遠く離れた九州にいました。
九州の関ケ原という大合戦に身を投じていたのです。
関ケ原と同時に、九州で戦い始めた官兵衛は、その胸中に野心を秘めていたのでしょうか?

大分県中津市・・・黒田官兵衛は、関ケ原の戦いの13年前からこの土地に来て、城を築き始めていました。
九州の関ケ原では、中津を中心に活動した官兵衛・・・

1546年、黒田官兵衛は播磨国、姫路で生を受けました。
当時の播磨は小大名がひしめき鎬を削る時代でした。
1575年、29歳の官兵衛は、破竹の勢いで領土を拡大する織田信長に目通りしました。
その情報収集力、知略で、官兵衛は信長の部下・秀吉のもとで働き始めました。
この頃、秀吉から官兵衛に送られた手紙には・・・

”我が弟 同然に 信頼している”

と書かれています。
官兵衛は、秀吉から厚く信頼され、軍師として活躍していきます。
1582年、官兵衛に転機が訪れます。
それは、中国地方の難敵・毛利との戦いでした。
明智光秀の謀反により信長が落命・・・
それを聞いて、秀吉は呆然自失、泣き崩れます。
しかし、官兵衛は

”秀吉様、これはあなたが天下を取る好機となります”

官兵衛は、すぐに毛利との和睦をまとめ、秀吉は明智美津冷え討伐のため、200キロの道程を引き返します。
世に言う中国大返しです。
これにより秀吉は、光秀の討伐に成功・・・信長の後継者として全国を平定していきます。
1590年、秀吉は天下統一を成し遂げます。
そのそばには、いつも軍師官兵衛の活躍がありました。
しかし、官兵衛は、優秀されるがあまり秀吉に警戒されます。

ある時、秀吉は、自分の次に天下を取るのは誰かと、家臣たちに聞きました。
家臣たちは口々に徳川家康や前田利家など有力大名の名を口にします。
しかし、秀吉は・・・
”次は官兵衛が天下を取るだろう
 わしがはかりごとを迷っていると、官兵衛は的確な判断を下してくれる
 今の世に恐ろしいのは徳川と官兵衛だ
 しかし、徳川は温和な人である
 官兵衛はどうも心を許しがたい人間だ”
と言ったといいます。

官兵衛は、42歳の時に九州豊前に移り住みます。
秀吉に警戒心を抱かせないために、息子・長政に家督を譲り、自らは隠居しました。
そして秀吉がこの世を去り・・・次期政権は・・・関ケ原の戦いが始まります。
時を同じくして官兵衛も九州で挙兵!!
東軍の武将として西軍の領地を攻めたてます。
この時官兵衛は・・・
”関ケ原が長引けば、中国地方にも攻め入っていた”
と残しています。
官兵衛が居城としたのは、中津城・・・ここで、官兵衛の野心を垣間見えることができるのでしょうか?

官兵衛の石垣は、野面積みでも少し変わっています。
当時の石は自然石を使っていますが・・・官兵衛の石垣は、四角い石です。
川の上流5キロほどのところに7世紀の山城の跡があります。
そこの山城の石を川で運んで再利用したものです。

どうして官兵衛は、中津に城を築いたのでしょうか?
官兵衛が豊前に来た当初は、支配の中心となる城は西に在りました。
しかし、そこでは統治がしにくい・・・と、川と川の交わる交通の要衝・中津を拠点に置いたのです。
船が寄り付きやすいこと、そして海を使って情報を素早く得ていました。
当時は上方が中心なので、瀬戸内海に二カ所拠点を置いて、早舟でリレー形式で情報を掴んでいました。
その速さは、3日だったといいます。
九州での関ケ原に備えたのだといわれています。

中津には、京町、博多町と、現在でも官兵衛が作った町の名前が残っています。
中には官兵衛の故郷・・・姫路町もあります。
この姫路町は、中津城を作るときに姫路から連れてきた大工や石工を住まわせた場所でした。
様々な工夫を凝らして町を発展させ、莫大な富を築き、戦いの軍資金とします。
九州の関ケ原の際にも、その備蓄した金銀を出して、兵を集める・・・その資金で暴れるのです。

関ケ原の戦いが近づくと、息子・長政に大半の軍勢をつけて、家康の東軍に送ります。
自らは城の金庫を開け払い、身分の卑賤を問わず兵を集め、挙兵!!
9月13日、九州の関ケ原の火ぶたが切られました。
官兵衛は、かつて秀吉を天下人に押し上げた策略を駆使し、果敢に戦を展開し、西軍を破っていきます。
そんな中、家康にこんなことを願い出ています。

”清正と自分で切り取った九州の領土を拝領したい”

制圧した九州の領土を自分のものにしたいというのです。
隠居と言っても官兵衛はまだまだ野心に燃えていました。
官兵衛の野心は九州にはとどまらず・・・
山口県岩国市の吉川資料館には官兵衛の手紙が残っています。
10月4日に官兵衛が吉川広家に送ったその手紙の中には・・・
関ケ原の戦いが長引いていれば、中国地方に進軍して一花咲かせようと思っていたけれど、家康が早く戦いを終えてしまったので、戦いに姿を見せられなかったのが残念だと書かれています。

しかし、肝心の関ケ原の戦いは、官兵衛の予想に反してわずか半日で終わってしまいました。
それでも、官兵衛は戦をやめることなく、九州を制圧し続けます。
11月12日、九州の最大勢力・島津を攻める目前の官兵衛に、家康から停戦命令が出されます。
関ケ原合戦から2か月・・・官兵衛の戦いはついに終わりを告げるのでした。

③もしも、黒田官兵衛が戦い続けていたら・・・??
関ケ原の戦い当時、ほとんどの武将が戦いに参加していて留守でした。
九州の諸国は手薄・・・!!
関ケ原が長引いていれば、九州の武将たちは領国が危なくなると戻ってきます。
もともと加藤清正は東軍なので、戦うのは小早川秀秋、鍋島直茂、立花宗茂、小西行長・・・。
島津義弘は1500の兵しか連れて行っておらず、ほとんどの軍勢は島津義久のもと本国に温存されていました。
島津と戦うことは避けたい・・・??
周りを東軍に引き込んで、島津をけん制・・・戦わずして勝てるか・・・??
そして、吉川広家への手紙通りに中国地方に攻め入ります。
吉川を調略し、毛利へ・・・
西軍の総大将だった毛利輝元が東軍に寝返る・・・??
官兵衛は進軍を続け、大坂城に入って戦は終了
黒田官兵衛は、天下人ではなく、秀頼を擁立しナンバー2となったのでは・・・??
結果、家康の行動を止めることができたのでは・・・??

人生最後の戦いを終えた官兵衛・・・その後、息子・長政と共に福岡に移り余生を送ります。
ここでも官兵衛は、福岡城の築城に携わり、現在にも続く100万都市福岡の礎を築いていきました。

官兵衛は、晩年をどのようにして過ごしていたのでしょうか?
太宰府天満宮には官兵衛が奉納した歌が残っています。
「夢想之連歌」は、連歌の最初の句を官兵衛が夢の中で授かり詠んだものです。
そこには、
”松梅や 末長かれと 緑たつ
               山より続く 里は福岡”
と書かれています。
福岡が栄えるようにとの歌です。

この連歌には、黒田家の面々が出てきます。
家族で連歌を詠んでいるのは珍しく、」官兵衛は晩年は家族水入らずで送ったといいます。
戦乱の世の最後に、黒田家の安泰を想い、野心も満たされ、最期を迎えたのです。
福岡で穏やかな余生を過ごした官兵衛は、1604年、59歳でこの世を去りました。
官兵衛の跡を継いだ黒田長政は、こんな言葉を残しています。

「官兵衛が大坂方と通じれば、清正は喜んで味方になるはずだ
 九州の大名が結束して、官兵衛と清正が上れば、中国地方の軍勢も加わって十万騎になる
 これだけの大軍が、家康一人と戦うことは、卵に大きな石を投げ入れるようなものだ」

長政も同じように、関ケ原の戦いのシミュレーションを考えていたのです。

少しの違いで日本は変わったのかもしれない・・・

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1600年9月15日、関ケ原の戦い・・・!!
勇名をとどろかせたのは島左近!!
石田三成の軍師として知られた天下の猛将です。
その有志は、戦場で対峙した敵からも称賛されました。
しかし、左近の実情は謎多き人物です。

江戸時代に囁かれた言葉・・・
 
三成に過ぎたるものが二つあり
         島の左近と佐和山の城

と、天下の猛将として後世に知られた知られた島左近。
どうして左近は三成に仕えることとなったのでしょうか?
ある時、秀吉は4万石の大名となった三成に、「さぞ、多くの家臣を召し抱えたであろう。」と聞いたところ・・・。

「島左近ひとり召し抱えました。」by三成
「左近は、世に聞こえたる者・・・
 そちの元に少禄でどうして奉公することができようか。」by秀吉
「4万石の半分を分かち、2万石を与えました。」by三成
これには秀吉も驚いたといいます。
三成の軍師として知られた島左近。
左近の実情は資料が少なく、これまで知られていませんでした。

しかし、2016年大きな発見あがりました。
左近の直筆の書状が大阪で発見されたのです。
名前が嶋左近清興と、実茗が分かっただけでも大発見でした。
1590年7月・・・北条氏滅亡直後に書かれた島左近の書状です。
佐竹義久に宛てた手紙には・・・
検地の実施、兵糧米の長州などの統治方法が記されていました。
緻密な政治的折衝までやっていた・・・左近の姿が、初めて明らかになりました。

豊臣秀吉によって北条氏が滅亡・・・
代わりに関東に転付したのが徳川家康です。
豊臣政権最大の領地を有する家康・・・その抑えを期待されたのが常陸の大名・佐竹氏でした。
早い段階から家康対策として、佐竹氏を味方にしておく・・・。
家康を抑え込むことが大問題で、早くからその問題を意識していました。

関ケ原の戦いの2年前・・・
1598年8月18日、左近と三成の運命を大きく動かしたのが、豊臣秀吉の死去でした。
この時、秀吉の後継者・秀頼は僅か6歳・・・
豊臣政権の実力者・徳川家康と石田三成は日に日に対立していきます。
初めて左近は、家康攻略を三成に進言します。

左近の家康戦略①
石田の家を悪む人々が、徳川に心を寄せている・・・
敵の勢力が大きくなる前に討つべし!!と。
左近の作戦は・・・
家康の領国は関東で、兵を動かすのは難しい。
一方、三成に味方する人々は畿内に多く、兵を動かしやすい。
上杉や佐竹と組み、家康のいない関東を攻撃すれば・・・家康打倒など容易い!!と。

しかし、三成は次期尚早と、左近の策を採用しませんでした。

左近は、「どんなに卑怯な手を使ってでも勝ちたい!!」場合によっては暗殺も辞さなかったのです。
しかし三成は、豊臣政権の重鎮であり、卑怯な手段で敵を倒すのは如何なものか??と、思っていたようです。

三成と家康・・・二人の対立の発火点となったのが、1599年閏3月の七将襲撃事件です。
豊臣政権の重鎮、前田利家の死んだ夜、不満を募らせていた加藤清正をはじめとする7人の武将が大坂の石田邸を襲撃!!
三成は大坂から伏見に逃れ、九死に一生を得ます。
しかし、この事件の責任をとり、三成は居城・佐和山城に逼塞を命じられたのです。
三成失脚!!
しかし、左近は、家康攻略の好機と見ていました。

左近の家康攻略②
左近の作戦は・・・
三成の失脚で家康は油断している・・・
この機に乗じて、佐和山城の兵8000を率いて、家康のいる伏見城に攻め上ります。
家康邸を包囲し、一気呵成に攻めれば、攻略など容易い・・・

しかし、またもや三成は左近の策を却下!!

左近の家康戦略③
1600年6月、家康は上杉討伐のために大坂城を出陣!!
この時、家康は東海道で江戸に向います。
左近は、家康は近江の要衝・水口に宿泊・・・夜討ちをかけようと進言します。
これに応じた三成は、すでに長束正家と申し合わせ討つ手はずである・・・と。
長束正家は、三成と同じ五奉行のひとり・・・
この機を逃してはならない!!
左近は3000の兵を率いて出陣!!
しかし、攻略を事前に察知していた家康たち一行は、水口に泊まらず通過していました。

畿内脱出を果たした家康が江戸に到着したのは7月2日。
同じ日、近江・佐和山で大谷吉継らと共に挙兵!!
そしてここから左近の新しい家康攻略が始まろうとしていました。

上杉討伐に出陣した家康の好きを狙って挙兵した石田三成。
この時、三成の戦略とは・・・??
家康は背後に上杉、佐竹という敵を抱えている。
僅か3.4万の兵で上方へ20日かかる道を上洛するのは難しい・・・
例え上洛しても、尾張と三河の国境で討ち取れる・・・
これは、天が与えた好機である!!と。

三成は、西軍を尾張と三河の国境付近に配し、ここで上洛する東軍との決戦を構想していました。
8月8日、佐和山城を出陣した三成は、大垣城、岐阜城を攻略、美濃の大名集を味方につけることに成功!!
後は、清須城の開城が急務でした。
清須城の城主は、三成を襲撃していた福島正則でした。
正則は、上杉討伐のために留守で、留守を預かる老臣は、会場要請に応じず説得工作は難航!!
そのため、三成は清須城に近い大垣城に本陣を構えました。

この時・・・左近には秘策がありました。
”今度の合戦 尾張の熱田を本陣にして、某が先手となり 一戦仕るべく候”
左近は三成に本陣を熱田に置くべきだと進言したのです。
熱田神宮の門前町として栄えた熱田・・・
江戸時代、東海道最大の宿場町でした。
東海道のルートは、熱田から桑名までが唯一の海の道・・・七里の渡しでした。
当時、熱田の辺りは干潟でした。
当日の潮の流れは・・・干潟を徒歩で渡る100㎝を下るのは、午前7時から10時までに限られています。
もし、熱田に布陣すれば、干潟が自然の防御となり、西へ向かう敵の大軍勢を食い止めることができるのではないか??
しかし、左近の進言は、またしても三成に採用されませんでした。

三成が大垣城に本陣を構えた8月11日、東軍は岡崎に到着。。。
難所とみられた熱田を過ぎ、清須城に入城します。
東軍が清須城に入ったことで、三成の東軍迎撃策は崩れてしまいました。
東軍の進軍を迎撃する西軍・・・しかし、各地で撃破され・・・岐阜城も陥落・・・
東軍には、島津や宇喜多が集結・・・!!
杭瀬川を挟んで布陣します。
9月14日、西軍に衝撃が走ります。
東軍本陣の赤坂に、金色の扇を模した馬印が・・・家康が到着したのです。
東軍総大将・家康の突然の登場に、揺れる西軍・・・
左近は最期の戦いに・・・!!

関ケ原の戦いの前日・・・9月14日正午・・・
西軍本拠地・大垣城の4キロ先の赤坂に家康が着陣!!
動揺が広がる中、軍議が開かれました。
そんな中、左近は・・・。
「このような時には、戦を致し、兵に勇気をつけなければ、味方は敗軍に及ぶべし」と。
これこそ、左近の究極の家康攻略でした。
そして、三成は、左近の進言を受け入れます。
左近は500の手勢を率いて大垣城を出陣!!
目指すは家康本陣の赤坂!!
その間には、杭瀬川が流れていました。
この川を境に両軍が布陣・・・杭瀬川の戦いです。

埼玉県行田市にある忍城・・・
城内には、不思議な関ケ原合戦図屏風があります。

sekigahara
全国でも極めて珍しく、こちらは「杭瀬川の戦い」です。

どうして、関ケ原の戦いと同じ大きさで書かれているのか??
この戦いこそが、その後を決める大切な合戦だったのでは??



 sekigahara2






「杭瀬川の戦い」では、右上に家康本陣の赤坂、左下には西軍陣地が書かれています。
左近は、杭瀬川を渡ったところで、東軍を挑発!!
東軍が突撃開始!!
いったん退却する左近!!
西軍陣地へ攻め込む東軍!!
これこそが、左近の狙いでした。
河を渡ってきた東軍を待っていたのは、西軍の一斉射撃でした。
左近が猛攻をかけます。
この時、東軍の名のある武将、30人余りを討ち取ったとされます。
慌てた家康は、家臣の井伊直政、本多忠勝に撤退を命じます。
戦線の拡大を恐れたためともいわれています。

天下分け目の前日に行われた「杭瀬川の戦い」・・・。
既にこの時、関ケ原の戦いは始まっていたのかもしれません。
ひとまず勝った左近・・・次の一手は・・・??

この機を逃さず夜襲をかける??
しかし、百戦錬磨の家康も夜襲を警戒しているであろう・・・。
関ケ原へ転進する・・・??

1600年9月14日夜・・・
西軍最後の軍議で、左近は主張しました。
「今夜、夜襲をかけるほかない!! 
 敵に勢いをつけさせぬうちに、敵をたたくことこそ肝要である!!」
しかし・・・三成は関ケ原への転進を決断!!
そこには、小早川秀秋の動向が大きかったと思われます。

三成が大垣を出て関ケ原へ向かったのは、秀秋の謀反が露呈したため、その動きを封じるため・・・と!!
秀秋が裏切れば、大垣城が危ない・・・左近は、三成の意見に従い、関ケ原への転進が決定します。
9月15日未明・・・西軍は、無事に関ケ原へ転進。
それを追い、東軍も移動!!
東西両軍15万!!
いよいよ天下分け目の合戦の幕開けです。
左近は三成の先鋒大将として最前線で奮戦!!
左近の戦いを目の当たりにした者たちはいう・・・

左近が率いた兵士たちは、皆えりすぐりの物ばかりで、槍を合わせるとさっとのき、追撃するものを陣近くまで引き寄せ一気に殲滅するという手立てであった。
今思い出しても身の毛がたち、冷や汗の出る思いである・・・と!!

しかし、左近は乱戦のさ中、銃弾を負って重傷。
これによって左近の隊が崩れます。
これを見逃さなかったのが、松尾山の秀秋です。
島左近の陣が崩れると、秀秋は、かかれ!!と命じました。
此の一撃がきっかけとなって西軍は総崩れ・・・。
史上最大の合戦、関ケ原の戦いは僅か半日で終了したのです。
西軍は敗れ去りました。
最前線で戦った島左近は、関ケ原の戦場に散ったのです。
享年61歳でした。
そして、その凄まじい戦いぶりは、後々まで語り草となりました。

左近は本当に関ケ原で戦死したのでしょうか??
京都教法院には、島左近の墓があります。
そこには寛永9年6月26日没と書かれています。
これによると、関ケ原の後生き延びて、32年後に亡くなったことになります。

左近が生き残ったという伝説は、全国各地に残っています。
江戸時代を通じて武士の鑑と称えられた島左近。
左近の対する人々の想いは伝説となり、今もなお生き続けているのです。

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大河ドラマ「真田丸」で、戦国一の頭脳派でした。
関ケ原の戦いで徳川家康に敗北した三成には、悪役のイメージが・・・!!
しかし、近年、人物像が見直されつつあります。
太閤検地、刀狩りは三成の発案だと言われています。

太閤秀吉曰く・・・
「天下にその名をとどろかす 知恵者である」と。

三成が旗印にした”大一大万大吉”は、戦乱の世を終わらせ、誰もが幸せに暮らせる社会を・・・という三成の思いが込められていました。
そんな三成の前に立ちはだかったのが、秀吉と家康です。

天下を統一した秀吉は、三成の思いとは裏腹に、さらなる戦いへ・・・!!
朝鮮出兵!!三成は、従うしかありませんでした。

徳川家康・・・秀吉の死後、天下取りの野望を露にします。
その家康を食い止めようとして敗れた三成・・・!!
理想と現実のはざまで敗れ去った人生とは・・・??

1600年10月21日天下分け目の関ケ原の戦い。
それから16日・・・処刑場に一人の男がいました。
「水をくれ。。。」by三成
「ここに柿がある。これを食え。」by役人
「柿は食わない・・・ 腹を壊すと困る。」by三成
「首を斬られる寸前というのに、あきれたやつめ・・・」by役人

この男が石田三成。
秀吉の右腕として天下にその名を知られた三成・・・。
しかし、秀吉と会った時は、寺の小僧にすぎませんでした。
そんな彼が、秀吉から厚い信頼を得るようになったのでしょうか??


戦国時代真っただ中の1560年。
三成は、近江国で武士の子として生まれました。
長男が家を継ぐ時代・・・次男だった三成は、幼くして寺に預けられました。
三成は、ここで、算術を身に着けます。
当時、近江は、京都と江戸とを結び、京都と北陸を結ぶ交通の要衝で、商業が盛ん。。。寺でも、算術を教えたのです。

1573年14歳の時に、領主・浅井長政が信長に滅ぼされます。
新たな領主となったのが信長の家臣・秀吉でした。
その秀吉と三成の出会いのエピソードは”三杯の茶”。
鷹狩りをしていた秀吉が、たまたま三成のいる寺を訪れました。

お茶を持ってくるようにいう秀吉。
のどか乾いているに違いない・・・と思った三成は、
一杯目・・・大きな茶碗でぬるい茶を。
二杯目・・・中くらいの茶碗で少し熱い茶を。
三杯目・・・小さな茶碗でアツアツの茶。
秀吉の気持ちを考えた三成の心遣いでした。
小姓として召し抱えられることとなった三成。

三成23歳の時・・・本能寺の変!!
信長が討たれ、秀吉が後継者となりました。
ある時秀吉が石高を「500石増やしてやろう。」というと、三成は・・・
「淀川の岸辺に生えている葦をいただきとうございます。
 葦は、付近の住民が刈り取っておりますが、力の強いものが独占して自分のものにしております。
 これを公平に刈り取らせるためには、年貢をかけるのfがよろしいかと存じます。」
当時葦は、すだれやかやぶきなど、生活に欠かせないものでした。
しかし、力の強いものが独り占めしていたのです。
住民が税を払うことで、そこそこ刈り取ることができる=500石を上回る税収が入ってくるということです。

1583年賤ヶ岳の戦い・・・
柴田勝家との戦いで、両軍が睨み合います。
この時秀吉は、柴田軍に追い詰められます。
助けに行かなければ・・・!!
しかし、道のりは50キロ以上!!そのうえ、日が暮れようとしていました。
そこで、軍が向かう村々に先回りし、村人に兵たちの食料を用意させ、夜道を松明を焚かせたのです。
さらに、到着地点に武器を用意します。
兵士たちは、武器をもって移動することなく、サッと行動できました。
三成の活躍によって、秀吉軍は丸二日の道程を5時間で走破したのです。
柴田軍を打ち破ることができました。
美濃の大返しです。
合戦の表舞台で華々しく戦うよりも、こういう仕事に向いているのではないか??と、感じていたようです。
戦いののち、三成は4万石を賜わり、大名となります。

秀吉は晩年、三成を評価し、北近江19万石から筑前筑後33万石へ引き上げ、重要地点の九州へ国替えを・・・破格の待遇・・・大出世を・・・としましたが三成は断ります。

大一大万大吉・・・三成の旗印ですが・・・
「一人が万民のため  万人が一人のために尽くせば この世は大吉になる。」
という意味です。
今のように、ただ戦っているだけでは、農民たちが安心して農業に精を出せない・・・
早く戦のない世の中にしたい・・・そのためには、秀吉さまに早く天下を取ってほしい。。。
そのために、自分は身を粉にして働きたい。と思っていたようです。

理想の実現に向けて一歩踏み出した町・・・堺。。。
1586年27歳で、堺の町奉行に任命されます。
当時この町は、一部の商人たちが牛耳っていました。
町を堀で囲み、傭兵を雇って自営していたのです。
町奉行となった三成は、一部の商人たちの既得権益を奪い、堀を埋め・・・自由な市場を作り上げました。
そして、堺を九州征伐の兵站の拠点としたのです。

1590年秀吉が天下を統一!!
三成は、31歳で北近江の領主に・・・佐和山城の城主となります。
三成が領民に宛てた置手紙が残っています。

・米が多く取れて余った場合は農民のものとする
・不満があれば、三成に直接申し出よ

農民に配慮する一方で・・・

・百姓が村を離れて町人や奉公人になることを禁じる

農民を増やし、生産を挙げようとしたのです。

太閤検地や刀狩りも、三成の考えだったと言います。
農民から武器を取り上げた刀狩り・・・一揆を防止させるとともに、武士や農民と・・・身分を固定させました。
太閤検地では単位を統一し、正確なコメの収穫量を調査します。
米の収穫量を正確に把握することで、税収の安定を図り、大名の不正を防止しようとしたのです。
当時大名は、石高に応じて兵を出していました。
これを嫌って、過少申告するものが後をたたかなったからです。
三成は、自ら全国各地を回り、太閤検地の現場に立ち会ったと言います。

こうした功績が認められ、1598年39歳の時に九州への栄転話がもちあがっていたのです。

「名誉なことですが、お断りさせていただきとうございます。
 私が九州の大名になってしまったら・・・」

家臣宛ての手紙には・・・
九州の大名になってしまったら、これまでのように秀吉さまの下で政務を司る人間が無くなるので断りました。
石田家の人々や、家臣たちの領地が増えないことになるので、後悔もありますが・・、
と書かれています。
 
三成は、どうして仲間の武将から嫌われていたのでしょうか??
天下統一によって、平和な日が・・・三成は、秀吉の右腕として、理想の世界の実現に邁進しますが・・・周囲の目は違いました。
杓子定規で融通が利かない三成に不満を抱く人が多かったのです。

そんな中・・・1591年秀吉が朝鮮出兵を計画!!
日本国内に分け与える領地が無くなってしまったので、海外に領地を求めたのです。
三成は反対でしたが、秀吉に反対することはできませんでした。

武功派の大名達が朝鮮へ出兵!!
戦地からは続々と吉報が・・・!!
しかし・・・敵は一向に降伏しません。
いらだつ秀吉は、三成に現地視察を命じます。
三成が目にしたのは・・・報告とは全く逆の現実でした。
この戦いには勝てない・・・撤退するしかない・・・と考えた三成は、ありのままを秀吉に伝えます。
報告を受けた秀吉は激怒!!
加藤清正らを呼び戻し、謹慎処分としました。
こうして、清正ら武功派の面々は、三成に深い恨みを抱くようになっていきます。

「立てた手柄を全く無視し、苦戦を誇大に報告し、いかにも自分(清正)が怠け者であり、作戦下手であったと報告した。」

中間管理職のジレンマ・・・いじめ・・・

1598年秀吉がこの世を去りました。
三成は、朝鮮で戦っていた大名たちをいち早く帰国させます。
深手を負わず、迅速に帰ってこれたのは、三成の迅速な指示によるものです。
三成は、帰国した加藤清正に・・・
「茶会を開いて戦の疲れをねぎらいたいのだが・・・」
しかし清正は・・・
「俺は7年も朝鮮にいて、食い物も飲み物もお返しするものが何もない。
 せめで稗の粥なら炊いてやるわ。」

茶会には誰も来ませんでした。
武功派には恨みのみが残っていたのです。

秀吉が亡くなった時、秀頼はまだ6歳でした。
三成は、秀頼を守りながら、戦のない世界を目指しますが・・・そこに立ちはだかったのが、天下取りを狙っていた徳川家康でした。
家康は、秀吉が禁止していた政略結婚を次々と進めます。
おまけに、豊臣家の領地を独断で分配。
これに対し三成は、他の有力大名たちと手を組んで、家康を抑え込もうとします。
そんな時事件が・・・
加藤清正ら武功派が三成を襲撃!!
三成を亡き者にしようとしたのです。
この時、仲裁に入ったのが家康でした。
清正らを鎮めた家康は三成に・・・
「今回の騒動は三成殿にも非がある。
 自国に戻って、一、二ねん謹慎されよ。」by家康
襲われた三成の方を処罰してしまいました。
天下は家康のものになろうとしている・・・??

三成は1年をかけ、綿密な作戦を立てます。
まずは全国の大名たちに書状を送ります。
「家康は豊臣政権の決まり事を少しも守ろうとしません。
 太閤様のお決めに背き、何を信頼すればよいのでしょうか?」
家康を見過ごすことは、太閤・秀吉・・・大義に反すると訴えます。
毛利輝元を大将に、その威光の元大軍を組織していきます。

三成の動きを知った家康も、全国の武将に書状を・・・!!
三成が大義を訴えたのに対し、家康は領地を約束します。

そして遂に・・・
家康は大坂城を目指します。
自分たちが反乱軍にならないように、秀頼を支配下に置こうとしたのです。
一方の三成もそれを食い止めようとします。
上杉景勝を味方に付けた三成・・・家康は、背後を上杉に攻められないように2万の軍を関東に置かざるを得なくなります。
家康は、東海道・中山道と二手に分かれて西へ・・・
しかし、中山道の3万8000の軍は、上田城の真田昌幸に行く手を阻まれます。
結局家康は、東海道の7万4000の兵で、関ケ原に臨むこととなります。

三成は真田昌幸に送った手紙には・・・
「家康がたとえ十人登ってきても安心願いたい。
 討ち果たすほかない・・・!!」と、書かれていました。

石田三成の勝敗に関しては・・・徳川軍を追い払ったら勝ち、近畿地方に入れたら負けというものでした。
石田三成の元々の布陣から行けば、家康は①大垣城②南宮山③松尾山の三カ所を突破しないとダメだったのですが・・・

前日、味方の軍を押しのけて、小早川秀秋が勝手に松尾山に布陣。
小早川は味方のはずでしたが、裏切りは予想済み!!
大谷吉継らを近くに布陣させます。
自らも、大垣城を出て、関ケ原に布陣!!
西軍は、西と南宮山(毛利)で、東軍を挟み撃ちにする体制が完成!!
家康は完全に囲まれてしまいました。

1600年10月21日、三成率いる西軍8万4000VS家康府¥率いる東軍7万4000が関ケ原に集結!!
午前8時・・・関ケ原の戦いが始まりました。
一進一退の攻防・・・西軍が東軍を追いつめている・・・??
ここで南宮山に布陣していた毛利が一気に攻め込んで東軍の背後を・・・勝利確実!!
しかし、毛利勢は動かない・・・!!

家康は、毛利勢の先鋒を務める者たちと内通していました。
戦いに参加しないという約束をしていたので・・・本体が足止めを食らってしまいました。
三成のシナリオが狂い始めた瞬間でした。
そこへ、松尾山に陣取っていた小早川秀秋が、攻め込んできました。
さらに・・・小早川に呼応するかのように、味方が寝返って攻撃を仕掛けてきたのです。
西軍は総崩れとなりました。
合戦開始からわずか6時間・・・雌雄は決し、三成軍壊滅・・・。
三成は戦場から姿を消したのでした。
山中をさまよった三成・・・ようやく自分の領地に帰ると、洞窟で再起を図ります。
世話をしたのは地元の農民たち・・・掟書の恩返しをしてくれたのです。
しかし、三成を匿えば、一族郎党皆殺しというお触れが・・・
それでも世話をし続ける農民に対し、
「徳川に差し出せ・・・。」
三成は、かたくなに拒む農民を説得し、居場所を伝えさせたのです。

そして・・・処刑場へ向かうとき・・・

「水をくれ」by三成
「ここに柿がある。これを食え。」by役人
「柿は食わない・・・腹を壊すと困る。」by三成
死ぬ間際に、腹の心配をすることを周囲はあざ笑います。

「大志を持つ者は、最後まで体をいたわる」by三成

関ケ原の戦いから16日・・・1600年11月6日、三成は、京都の六条河原で首を刎ねられました。
40年の生涯でした。

誰もが幸せに暮らせる社会を目指しつつ、志半ばで命を落とした石田三成。。。

「人の心は はかりがたし・・・」by三成


三成の死後の佐和山城・・・関ケ原の戦いの後、徳川方の武将たちは財宝目当てに城に踏み込みました。しかし、そこには何もなかった・・・。
財を成すことに興味のなかった三成。。。

地元の寺に佐和山城で使われていた板戸が残っています。
客人を喜ばせるために表は綺麗に華やかな絵が・・・
しかし、裏側は、墨で書かれた簡素な絵が・・・。
秀吉の右腕でありながら、私利私欲に走ることのなかった三成。。。
その生涯は、ひたすらに人々の幸せを願ったものでした。
 


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