日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:保科正之

皇居東御苑・・・かつて江戸城本丸だった場所に、巨大な石積みが残されています。
そのうえには、江戸城のシンボルとして天守が聳え立つはずでした。
五層六階、高さ58m・・・建てられていれば、日本で一番大きい天守となっていたことでしょう。
しかし、どうして石垣だけが残されたのでしょうか??
そこには、江戸を襲った未曽有の災害が関係しています。
4代将軍・家綱の治世・・・明暦3年1月、江戸で大火災が発生しました。
火は江戸の6割を焼き尽くし、10万人以上の犠牲を出しました。
明暦の大火です。

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猛火からなす術なく逃げるしかなかった人々は、江戸という町が火災に対して全くの無防備であることを思い知らされました。
この危機の中、事態の収拾に当たったのが、幕閣・保科正之・・・
幕府への不満が高まる中、保科は武士も町人も驚く策を講じました。
過去を覆すその決断は、政治そのものを根底から変えていくことになります。

1657年1月18日、江戸は幕府が開かれてから54回目となる正月を迎えていました。
「むさしあぶみ」と呼ばれる書物・・・著者は、浅井了意・・・当時の世相や風俗を書き記しています。
1月18日の記録は、江戸の天気から始まります。
”乾のかたより風吹出ししきりに大風となり”
乾・・・北西からの風が次第に強くなってきた

この時、江戸ではほとんど雨が降らず、乾燥した日々が続いていました。
午後2時過ぎ・・・江戸城の北・本郷で異変が起きます。
日蓮宗寺院・本妙寺で火災が発生!!
炎はあっという間に寺を焼き尽くし、さらに周囲に燃え広がっていきました。
明暦の大火の始まりです。
北西の風にあおられた火は、湯島天神はじめ多くの寺社を焼き払って南東へ!!
神田川などで水場にぶつかります。
しかし、日は船を伝って軽々と川を飛び越え対岸へ!!
大名屋敷を焼き、町人が暮らす人口密集地へ迫りました。
当時、江戸の消防を担っていたのは大名火消しでした。
幕府から指名された10の大名が、十日交代で担いました。
しかし、この大名火消し、火災が町人地で発生した場合、出動しないことも多かったのです。
町人たちは、そんな大名火消しを皮肉って、”消さぬ役”と呼んでいました。

この時も、日は消し止められることなく、江戸きっての町人密集地を襲いました。
日本橋には、川向うに避難しようとする町人が殺到。
身動きが取れないようになっていました。
避難が滞った原因の一つが、「むさしあぶみ」に描かれています。
路上に、車輪のついた箱があふれていました。
車長持です。
人々はこの中に貴重品を入れて逃げようとしました。
しかし、その結果、車長持が道に溢れ、避難経路を塞いでしまったのです。

”親は子を失い、子はまた親に遅れて、あるひは人に踏み殺され、あるひは車にしかれ、おめきさけぶものまたその数をしらず”

さらに、江戸の人々は、空に驚きの光景を目にします。

”はげしき風に吹きたてられて、車輪の如くなる猛火、地にほとばしり”

これは、炎が竜巻のように回転する火災旋風だったと考えられています。
命からがら避難した人々は、墨田川に行き当たります。
しかし、江戸城を守るため、墨田川には橋がかけられていませんでした。
焼け死ぬもの、冷たい川で溺れ死ぬもの、大火災への備えのない町の中で、多くの命が失われました。

”親は子を尋ね、夫は妻をうしなうて涕とともに声うちあげ
 死に失せてめぐり合うことなく、力を落して歎くもありてものゝわけも聞えず”

こうして、大火の1日目は終わりました。

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しかし、それはまだ、序章にすぎませんでした。

大火発生件数(1603~1867)
江戸・・・49回
京・・・・10回
大坂・・・3回
金沢・・・3回
その他・・16回

江戸の町が急速に大きくなったことで、自然災害に弱くありました。

明暦の大火2日目の1月19日・・・
本妙寺を火元とした火災は、未明には収まりました。
しかし、別の火災が・・・!!
午前11時過ぎ、小石川に合った大番衆の与力の宿舎から出火。
火災は、水戸藩の下屋敷をはじめ、多くの大名屋敷を焼きながら、ついに江戸城本丸まで迫りました。
江戸城で最初に燃え移ったのは、予想外の江戸城天守!!

天守は、黒く塗られた銅板で壁を覆い、同じく銅の瓦を吹くことで防火対策を施した建物のはずでした。
その隙をついたのは火の粉・・・
開いていた天守の窓から火の粉が飛び込み、室内から炎上させたのです。
火の粉は、火災の熱による上昇気流で舞い上がり、離れた場所に落下・・・新たな火災を発生させます。
火の粉は1㎞以上離れて落ちることもあり、堀も川も飛び越えて広がるのです。
天下一の天守は、小粒な火の粉に襲われ、あえなく落ちました。
その後、火は本丸御殿、二の丸へと燃え広がっていきました。
燃える江戸城の主・・・時の将軍は、4代藩主・徳川家綱(17歳)でした。
若い将軍を補佐する幕府首脳には、歴戦を生き抜いた強者が・・・!!
元老格の井伊直孝(68)、大坂の陣では、井伊家の大将を務めました。
元大老の酒井忠勝(71)、関ケ原の戦いでは、徳川秀忠と共に信州上田で真田氏と戦っています。
そして、島原の乱鎮圧の総大将を務めた知恵伊豆こと老中・松平信綱(62)!!
これら古参の幕閣の中に、ひと世代若いものがいました。
会津23万石の藩主・保科正之です。
保科は、腹違いの兄・三代将軍・家光から、幼い家綱の後見を託されていました。

大火の最中、彼ら幕閣は、江戸城内に詰め、家綱の傍らで策を練っていました。
迫りくる炎から家綱をどう守るのか・・・??
保科と重鎮たちとの間で意見が分かれました。

酒井忠勝や、井伊直孝は、城の外へ避難するように提案。
松平信綱は、上野・寛永寺への避難を提案。
しかし、こうした元老たちの案に、保科や老中・安倍忠明は反対しました。

「幸い、西の丸が残っています
 まずはここに上様をお移しすべきでしょう
 もし、西の丸が焼けてしまうようであれば、焼け跡に陣屋を立てればよい
 城の外へと動くことなど、あってはなりませぬ」by保科正之

保科が将軍の権威にこだわったのは、この機の乗じて幕府をなきものにしようとする勢力を警戒していたからでした。

大火の6年前の1651年。
幕府転覆未遂事件が起こっていました。
由比正雪の乱です。
軍学者の由比正雪は、幕府に不満を持つ浪人たちを扇動。
江戸城火薬庫に放火し、混乱に乗じて城を占拠、それを京や大坂など複数の都市で行う計画でした。
計画は未然に防がれたものの、幕府は大きな衝撃を受けました。
幕府への反発は、全国の大名に対する厳しい統制から生じていました。
家康、秀忠、家光、三代の間に、改易された大名は129!!
結果、主家を失う浪人となった者が町に溢れました。
将軍や幕府に対する恨みがこれ以上募れば、将軍の権威も地に落ちると保科は感じていました。

議論の末、保科の意見は取り入れられ、午後3時過ぎに家綱は西の丸に移動。
江戸城に留まることになりました。

その直後、火事は治まることなく新たに3カ所から出火。
場所は麹町でした。

ドキュメント明暦の大火 幕府を変えた江戸の危機



2日目に小石川と麹町で相次いで発生した火災は、初日に被災を免れた場所を容赦なく焼き尽くしました。

1月20日朝、全ての日がおさまりました。
3日に渡った火災で、大名屋敷160軒、旗本屋敷約810軒、町人地800町以上が消失、実に江戸の町の60%が灰になりました。

むさしあぶみは、死者の数を10万2100余人と伝えています。

”一るいけんぞくのある者は、尋ねもとめて寺にをくりしもあり
 大かたはいかなる人、いづくの者とも確かならず
 かはり果てたるありさま それとさだかにしる事なし”

江戸開府からおよそ50年、将軍のおひざ元は壊滅状態となりました。

3日に渡って燃え続けた大火は、江戸の町の6割を灰にしてようやく鎮火しました。
むさしあぶみは、火がおさまった様子も詳しく書いています。
飢えと寒さにあえぐ人々に、幕府は温かいかゆを与えました。
3週間にわたって行われた粥施行。
用いた1万7000俵の米は、幕府の米蔵から出されたものでした。

むさしあぶみでは、”まことに治世安眠の政道ただしきこと”と、高く評価しています。
焼けた家屋の再建のために、幕府から被災者へ資金が渡される様子もかかれています。

保科は、援助のために家康以来御金蔵にためてきた金銀を使おうとしました。
しかし、幕閣から猛反対の声が上がりました。
当時、民間にそれだけの大金を国家が拠出したケースは全くありませんでした。
お金は軍資金で、軍資金をためておくのが江戸城の御金蔵だという認識の人たちが、軍資金以外に消費してしまうことは考えられませんでした。

保科は反対する老中たちにこう説きました。

「官庫の貯蓄と云ふは斯様の時に下々へ施し、士民安堵せしむる爲にして、むざと積置きしのみにては一向蓄えなきと同然なり」by保科

議論の末、被災者への資金援助は・・・
大名(10万石未満)・・・銀300貫~100貫 貸与
幕臣・・・・・・・・・・金725両~3両   給付
町人・・・・・・・・・・銀1万貫(総額) 給付

墨田区両国にある回向院・・・
ここは火災の後、保科の働きかけで建立されたお寺・・・境内に供養塔があります。
江戸の町中に遺体が放置されているのを見た保科は、無縁仏としてここで供養させました。
本尊の阿弥陀如来・・・その台座には、供養のために、身分の差別なく人々の名がびっしりと書かれています。

町の復興が進む中、江戸城の再建も始まりました。
江戸城は半分以上が消失しており、工事は大掛かりなものとなりました。
そして、大火の翌年、城のシンボルとなる天守の再建が始まりました。
消失前、高さ60mの日本一大きい天守がそびえていました。
工事は土台の天守作りから始まりました。
普請を命じられたのは、加賀・前田家でした。
皇居・東御苑に残っているのは、その時の石垣です。
この石垣は、前田家の威信をかけたものでした。
真っ白な御影石は、瀬戸内海でないと取れません。
前田家は、瀬戸内海の島から石材を運んできて天守を建てたのです。
今までにない真っ白な意思を使うことで、前田家の力量を見せつけようとしたのです。
前田家はわざと四角形をずらして作っています。
五角形、六角形・・・前田家の石積みの技術の確かさ、高度さを見せつけようとしたのです。

着々と積みあがっていく天守台・・・
しかし、保科には迷いがありました。
天守再建を停止する??
江戸城の天守を作るのに、どれだけの労働力を必要つするのか??
資料によると・・・建築期間はおよそ4カ月、その間にのべ34万人以上の大工が必要でした。
江戸中で家屋敷の再建ラッシュとなる中で、職人の手間賃も高騰しています。
大火前、大工の日当は銀1匁5分+米1升5合でした。
それが大火後、1.7倍の銀2匁5分+米1升5合となっていました。
莫大なコストを集中させてまで、天守の再建は優先すべき事なのか??
その思いが、保科の脳裏に去来します。
それとも天守は必要??
天守は権現様がこの地にお建てになって以来のもの・・・軽々しくなき物にはできない・・・!?
天守は当時の人々にとっては・・・??
西国大名には、天守も建てられないのか!!と、思われる危険性がありました。
豊臣家の大名にとっては、天守は大切なものでした。
島原の一揆や由比正雪の乱らの農民らの謀反は、遠い昔のことではない・・・
この混乱に乗じて、幕府に不満を持つ者たちが再び騒ぎを起こすかもしれない・・・
ましてや上様もまだお若い・・・
今こそ、しかと徳川の権威を見せつけなければ・・・??
治世のためにはやはり聳え立つ天守が必要??

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保科は幕府の重臣たちを前に、自らの意見をこう述べました。

「天守は近代織田右府以来のことにて、さのみ城の要害に利あると申すにも非ず
 ただ遠く観望致す迄の事なり
 武家町家大小の輩家作致す砌に公儀の作事永引たらば、下々の障にも成るべし
 斯様の儀に国財を費やすべき時節に非ざるべし
 当分延引可然」by保科

天守の再建は、保科によって無期限の”待った”がかけられました。
そして、その資力、労力は、江戸の町全体の復興に充てられることになりました。
幕府が目指したのは、単に大火の前に戻すのではなく、火災に強い都市へと改造することでした。

その内容の資料が残されています。
幕府がつくった江戸の復興計画図・・・
この地図には、大火前の地図にはなかったものが書き込まれています。
空き地、広小路・・・幕府は、町中に空き地を作り、火事の延焼を防ぐための防火帯としました。
空き地を作るため、武士も町人もすべて巻き込んで住民の大移動が行われました。
現在の吹上御苑にあった水戸藩・尾張藩・紀州藩の御三家の上屋敷を、外堀の近辺へ移転。
跡地を広大な空き地としました。
江戸城の周囲で被災した大名たちには、まだ野原の広がる麻布などの郊外に新たな屋敷が与えられました。
本郷や湯島にあった寺は、当時まだ発展途上だった浅草などに移転しました。
江戸城防御のため、下流域に橋がかけられていなかった墨田川・・・
橋がなかったため、多くの犠牲者が出たことを重く受け止めた幕府は、建設を決断します。
大火の2年後、1659年に両国橋完成。
そして、この橋を渡った先にある本所地区をニュータウンとして開発しました。
ここには町人だけでなく、武家屋敷や寺社仏閣も移転しました。

幕府は、町の構造を変えるだけでなく、消防制度も整えます。
従来の大名火消しに加え、上火消を創設。
上火消には、10名の旗本が任命され、それぞれが与力6人と同心30人を率いました。
大名火消しとの最も大きな違いは、火の見櫓をもった火消屋敷に常駐したことです。
初めて火消専門の役人が誕生しました。

明暦の大火は幕府にとって、これまでの大名統制の在り方を見直す契機となりました。
大火の直後に作られた江戸の地図・・・
江戸の改造に際して、幕府はまず、大名側に移転先の希望を聞き、それを調整して割り当てを行っています。
これまでのように幕府の計画を一方的に押しつけるのとは違いました。
幕府は武力を背景に、強い権力で大名たちを屈服させる武断政治を見直し、高野制度に基づいて穏やかに統治する文治政治へと舵を切っていきます。
大火後の都市改造により、江戸の町の範囲は拡大・・・
それは後に、100万都市へと成長する布石となりました。

保科が中止させた江戸城天守の再建・・・
その後、江戸幕府が終わるまで行われることはありませんでした。

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およそ260年続いた江戸幕府・・・世界でも類を見ない長期安定政権が実現したのは、その礎を三代将軍・家光と会津藩主・保科正之が築いたからです。
二人は異母兄弟・・・ともに持つ、政治家としてのぶれない意志・・・その支えとなったのが、兄弟の絆でした。

徳川家康が関ケ原の戦いに勝利し、江戸に幕府をひらいた翌年・・・1604年。
二代将軍秀忠と正室お江の間に世継ぎが生れました。
竹千代・・・後の三代将軍家光です。
それから7年後の1611年、江戸神田の牢人の家で、幸松・・・後の保科正之が生れました。
父は、竹千代と同じ二代将軍秀忠でしたが、幸松の母・静は、江戸城に奉公に上がっていた奥女中でした。
美しかった静は、すぐに秀忠の子を身籠ります。
将軍の子・・・本来ならば、喜ばしいことですが・・・秀忠の正室お江は、とても気位が高く、嫉妬深かったのです。
夫が側室を持つことを許しませんでした。
子ができたとなると、何をするかわからない・・・
そこで、実家へ帰された静は、お江から恨みを買わないように子をおろします。
しかし、静は、秀忠によって大奥に戻され、またもや子を身籠ってしまうのです。
そんな静に家族は・・・
「上様の子を二度も堕ろしては天罰を受ける」
とし、静はお江に見つからないように、親類の浪人宅で出産しました。
秀忠は、この事実を伝え聞きますが、お江に気を遣い、幸松を実子とは認めませんでした。

将軍の子であることを隠して生きることとなった幸松は、母・静が慕っていた武田家の侍女・見性院に預け育てられます。
そして、幸松7歳の時、見性院は然るべき武家に幸松を預けようと考え、ある大名に白羽の矢を立てます。
高遠藩藩主・保科正光です。
保科家は、もともと武田信玄の家臣で、さらに、正光の父・正直の後妻は家康の妹で、武田家は徳川家と姻戚関係にあったからだと言われますが・・・この養子縁組の裏には秀忠の存在があったといいます。
幸松の養育を、見性院に依頼したのは秀頼側だったともいわれています。
さらに、保科家に養子に行った時に、高遠藩に5000石の加増をしています。
幸松の養育費であると考えられます。
父・秀忠の計らいで、保科家の養子となった幸松は、大切に育てられます。

二代将軍秀忠には、この時3人の息子がいました。
竹千代・国松は、共に母親が正室のお江・・・そしてお静の子・幸松です。
そして、幸松の存在を知らずに幼少期を過ごす竹千代・・・。
その出会いとは・・・??

1632年秀忠死去・・・。
家康が、長子相続を説き、竹千代が家光として20歳で三代将軍となります。
家康が、理想とした幕府を実現していきます。
大名たちを江戸城に呼びつけます。
居並ぶのは伊達政宗ら、歴戦のつわものたち・・・
彼らを前に、家光は、こう宣言します。

「余は生まれながらの将軍である
 貴殿らに対し、遠慮するものはない
 今後みな、家臣同様として扱う・・・そのように心得よ
 もし不承知ものがいるならば、戦の準備を致せ」と。

家光が、挑発的な態度に出たのは理由がありました。
戦争を知らない家光・・・下剋上の思想を断ち切るために、強気に出たのです。
家光は徳川政権を盤石にするために、様々な政策を打ち出していきます。

①幕府の組織づくり
大名たちの謀反を防ぐために、監察官として柳生宗矩ら4人を「そう目付」に任命します。
そして、将軍を補佐する大老、老中の設置。
将軍を頂点とする幕府のシステムを確立、政治の安定化を図ります。


②諸制度の確立
1635年、武家諸法度を改定
参勤交代を制度化します。
江戸での滞在期間、交代の時期を明確に定めました。
これによって大名たちは、旅費などの莫大な出費を余儀なくされ、財力が低下。
その結果、戦を構えることもできなくなり、幕府は優位に立つことになりました。

③大名の改易
家光は、反旗を翻しそうな危険分子を取り除くなど、政権の安定を図ろうと、改易にも取り掛かります。
その数は、歴代の将軍が行った改易の中で最も多い数でした。
武断政治(武力や厳しい刑罰で統治する政治手法)です。

その頃の幸松・・・後の保科正之は、養父である保科正光が選んだ優秀な家臣から英才教育を受け、幕府に奉公するための心得を徹底させられていました。
保科正光は、もしかすると幸松が将軍となる可能性があると考えていました。
もしそうなった場合、保科家も発展していくだろう・・・と、教育したのです。
幸松もまた、自分が将軍の子だと知るようになっていきます。
そして養子となって14年目・・・養父・正光がこの世を去ります。
家督をついだ幸松は、正之となり、高遠藩を継ぐのでした。
この時、21歳!!

家光が保科正之の存在を知ったのは、目黒に鷹狩りに行った時のこと・・・
鷹狩りの中、家光は、身分を隠し、ある寺で休息することに・・・。
そのお寺は、正之の母・静が、正之の無事な成長を祈願していた寺でした。
そこの住職がこんな話をしてきました。

「高遠藩の保科殿を知っていますかね?
 保科殿は、将軍様の弟君であるのに、それに相応しい扱いを受けていないんですよ
 それが、不憫でしてねエ・・・」

家光は、自分に会ったことのない弟がいて、高遠藩主になっていることを知ったのです。

「余に・・・顔も知らぬ弟・・・それは一体どんな男なのだ・・・??」

異母兄弟・・・弟の存在を知った家光は、ある儀式のために江戸城にやってきた正之を一目見ようと大広間のふすまの陰に潜みました。
すると・・・部屋に入ってきた正之は、末席に座ったのです。
保科正之は、3万石の小大名のため、末席だったのです。
礼儀をわきまえる正之・・・

「自分は将軍の弟だという横柄な態度を見せず、謙虚に末席に控えるとは・・・なんと殊勝な男よ」

この一件以来、家光は正之を取り立てるようになります。
正幸は、高遠藩3万石から山形藩20万石の大名に抜擢されます。
片腕として重用するようになった正之に・・・「忌諱を憚ること勿れ」と言いました。
更に家光は、苗字を松平に改め、葵の紋を使うことを勧めましたが、正之は・・・

「今の自分があるのは、養父・保科正光のおかげです。」

保科家への恩義から辞退したと言われています。
その控えめな態度に感心した家光は、その信頼を厚くするのです。

しかし、家光が、正之を取り立てたのにはもう一つ理由がありました。
それは、もう一人の弟・忠長の存在です。
同じ母・お江から生まれた忠長は、兄弟というより同じ将軍の座を争うライバルでした。
家光は生まれつき体が弱く、言葉に不自由なところがあったため、両親の愛情はいつからか弟・忠長に注がれるようになります。
すると家臣たちも、
「次期将軍は兄気味ではなく弟君がふさわしい」と・・・。
両親ノア異名を受けずに将軍の器でないとささやかれた家光は、12歳の時悲しみのあまり自殺しようとしたともいわれています。
父・秀忠の愛情を受けずに育った正之に、共感を抱いたのです。
家光の弟・忠長は・・・駿府藩55万石の大名となり・・・しかし、それでも満足せずに加増しろとか、大坂城の城主になりたいとか・・・。
甘やかされて育てられていた忠長は、将軍への夢が忘れられず、兄・家光に憎悪を抱いていました。
その後、忠長は精神的に追い詰められ、奇行が目立つようになり、理不尽に家臣を手打ちにしたりしています。
怒った家光は、忠長を幽閉し、最後は自害に追い込んでいます。
正之は弟として兄を支えるというよりも、それは家臣として将軍を支える・・・自分をわきまえた人でした。

保科正之が山形藩の藩主となった翌年の1637年、九州で大事件が・・・!!
島原の乱です。
キリスト教勢力の拡大を恐れた家光が、キリシタン改めを全国の大名に命じたことに始まる厳しい弾圧が原因でした。
この江戸幕府始まって以来の一揆の鎮圧には、家光の最も信頼する正之が当たるものだと誰もが思っていました。
しかし、その大役に選ばれたのは、老中・松平信綱でした。
正之は家光から領地である山形藩に戻るように命じられたのです。
家臣たちは皆首をかしげましたが、正之には、家光の意図がわかっていました。

「西国に異変ある時は、東国に注意せよということであるな」

家康の遺訓に従って、東国の反乱に備えたのです。

1638年山形藩の隣にある幕府直轄地の白岩郷で・・・
百姓一揆が起こります。
その鎮圧を任された正之は、一揆の首謀者36人全員を処刑します。
控えめで優しい性格の正之の非情な決断でした。
無秩序状態にさせないため、厳しい処罰を下したのです。
しかも、幕府の直轄地での出来事・・・
家光の威光が低下する可能性があったのです。
正之は、兄であり将軍である家光の名を汚さないために、鬼となったのです。

「一揆が起きてからでは遅い
 一揆が起きないような政をすることが大切なんだ」

1643年、保科正之が33歳の時に、山形藩20万石から会津藩23万石への転封を命じられます。
これは、水戸藩25万石と肩を並べるほどの厚遇でした。
ところが、その会津藩は大きな問題を抱えていました。
前の藩主の悪政と飢饉で領民は疲弊・・・よその藩へ逃げ出す者が続出していました。
領民のための改革を行うこととなった正之

①社倉制
藩の資金で米を買い上げて備蓄しておき、凶作になったら領民に米を貸し出し救済する制度のことです。
2割という当時安い利息で米を借りることができました。
しかし、正之は利息で得た資金で、新しく米を買って社倉の備蓄を増やしていきます。
これ以降、会津藩では飢饉での死者は出なかったと言われています。

②人命尊重
正之の母・静は一度は堕胎し、正之も命が危ぶまれていました。
「宿った命は生きることを辞めさせるべきではない」そう命の大切さを説き、間引きを禁止。
さらに、領内で行き倒れになった人は医者に連れて行くという政令を出し、その人がお金を持っていない場合は、藩が支払いました。

③老養扶持
高齢者の保護です。
90歳以上の者、全てに1日5合分の米を毎年支給しました。
ある年は該当者が150人にも及びましたが、分け隔てなく支給され、大いに喜ばれました。

農民を豊かにすることは政治を安定させる
政治の安定は農民の豊かさにつながる・・・正之は、勧農意識・・・主として農業振興奨励し、実行しようとする考えがありました。
それをすることが一揆の撲滅につながると・・・

そのさなか、家光が病に倒れます。
死を悟った家光・・・1651年のこと。
愛用の萌黄色の直垂と烏帽子を与え、こう言い渡します。
「今後、保科家は代々、萌黄色の直垂を使ってよい」
それは、正之が将軍と同格であるという意味でした。
さらに・・・家光の嫡男・家綱はまだ11歳でした。
正之に、幼い家綱の後見人を任せるつもりだったのです。
幕閣たちから一段上げて、補佐にしよう・・・と!!

それから間もなくして家光の病状は悪化・・・
有力大名が次々と寝所に呼ばれる中、最後に呼ばれたのは家光が最も信頼する保科正之でした。

「跡を継ぐ家綱はまだ幼い・・・
 汝に家綱の補佐を託す」

「身命を投げ打って御奉公いたします故、ご心配あそばされますな」

これが、兄・家光との最後の別れとなりました。
1652年4月20日、徳川家光48歳で死去・・・。

正之は、この後、ほとんど会津に帰ることなく、身命を投げ打って幕府に・・・!!
しかし、この時、幕府は大きな問題を抱えていました。

正之は、武断政治の否定・脱却をはじめました。

①大名証人制度の廃止
大名証人制度とは、大名の妻子などを人質として江戸に住まわせることです。
これは、戦国時代、大名同士が同盟を結んだ場合に裏切らないように行っていたことを踏襲したものです。
しかし、幕藩体制が整ったこの時代においては無用と、廃止。

②殉死の禁止
江戸時代初期、主君の死を受けての殉死は美徳とされていました。
実際、家光が亡くなった際も、家臣が後を追い自害しています。
しかし、これでは有能な人材が失われてしまうと、殉死を禁止したのです。

③末期養子の禁 緩和
大名は生前に跡取りを決め、幕府に届ける必要がありました。
死の間際に養子をもらって跡取りにする末期養子は禁じられていました。
そのため、跡取りのいない藩主が急死すると、その藩は取り潰しになっていたのです。
正之はこの禁を緩和・・・50歳以下の大名の末期養子を認め、藩の取り潰しをへらします。

正之は、家光の行った武断政治を次々と否定するかのように、それまでの制度を廃止していきました。
家光時代の幕府は、敵対しそうな大名を改易していたので、巷では浪人が溢れ、幕府に不満を抱くものが急増していました。
正之は、彼らの暴発を危惧し、これ以上浪人を増やさない政治・・・文治政治へと変換していったのです。
戦の絶えた時代を生き抜くための政治だったのです。
大名を上手に取り込むことは、国家統合につながる・・・徳川の平和につながる・・・徳川ファーストを関bが得ていました。

1657年1月18日、江戸を未曽有の火災が襲います。
明暦の大火です。
江戸の町の6割が焼き尽くされ、死者は10万人を超えたともいわれています。
火の手は風にあおられて、江戸城へも・・・!!
天守をはじめ、本丸、二の丸、三の丸まで焼け落ち・・・この時正之は、家綱を守り西ノ丸へ避難するも、火の手はそこまで迫っていました。
すると幕閣たちは・・・
「上様を場外に避難させましょう!!」
「上様が逃げるなど言語道断!!
 西ノ丸が焼けたら、本丸の焼け跡に陣屋を立てればよい!!」by正之
幕府の長たる将軍が、火事ごときで城を逃げ出すなど・・・!!
非常時だからこそ、将軍が中心となって強い態度で対処すべきだと説いたのです。
火事発生から2日後やっと鎮火・・・
正之は民のために動き出しました。
被災者のためのおかゆの炊き出し。
二種類の炊き出しを用意させ、老人や体の弱ったものには塩分の少ないものを・・・それ以外の人には濃いものを配るという配所を怠りません。
幕府の16万両と言われる幕府の貯蔵金を町の復興に宛てようとします。
「そのようなことをすれば、金蔵が空になってしまいます!!」
「なにより、このような時のために、金を蓄えておるのに、今使わずしていつ使うのだ・・・!!」
この正之の判断と采配によって、焦土と化した江戸の町は復興していくのです。

現場の最前線で陣頭指揮を執った正之でしたが、この時、嫡男・政頼が、避難先で病に侵され亡くなっていました。
しかし、正之は深い悲しみの中にあって、私情を廃し、我が子を弔うことより街の復興を優先させたのです。
その後、江戸城の本丸、二の丸、三の丸は再建されましたが、天守は再建されませんでした。
保科正之が天守の再建に反対したからです。

「天守は戦乱の世が終わった今、ただ遠くを見るだけのもの。
 無用の長物をこのような時にお金をかけてまで再建すべきではない・・・!!」

兄・家光に誓った将軍への忠誠を守り続ける保科正之・・・その正之が最期に徳川家のために下した決断とは・・・??
正之が、常に大事にしていたのは「仁」
慈しみ思いやることです。
そんな正之が自らの政治理念を後世に伝えるべく定めたのが「会津家訓十五か条」です。
人としての心得を説く中で、最初に伝えたかったのは・・・

大君の儀一心大切に忠勤に存ずべし
若し二心を懐かば 即ち我が子孫に非ず
面々決して従うべからず

「将軍に対しては一心に忠義に励むべきである
 もし、将軍に反く藩主が会津に現れたなら、私の子孫ではないから、決して従ってはならない」

兄に誓った将軍への忠誠を、子々孫々に守らせようとしたのです。
そんな正之も、晩年は病に倒れ、病状が悪化すると幕府に隠居を申し入れます。
そして息子の正経に家督を譲ると、驚きの行動に出ます。

なんと、屋敷の裏庭で書類を焼き始めたのです。
それは、幕政への意見書、様々な政策の記録などの重要書類でした。
正之の政策が残ってしまえば、自分がしたことがわかってしまう・・・。
政を将軍・家綱の功績にするために、書類を燃やしたのではないか?と言われています。
正之は、最期まで幕府と将軍のことを想い動いた私利私欲のない男でした。
1659年12月18日、保科正之は三田に会った会津藩邸で息を引き取ります。
62歳の生涯でした。
磐梯山を望む福島県猪苗代町・・・将軍の子として産まれながら、一家臣の子として生きることを選んだ信念の男は、ここで眠っています。

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およそ260年続いた江戸幕府・・・徳川の世。
世界でも類を見ない長期安定政権が誕生したのはこの二人・・・
三代将軍・徳川家光と将軍を支えた会津藩主・保科正之が礎を築いたからでした。
実は、二人は異母兄弟でした。
そしてそこには兄弟の強い絆がりました。

徳川家康が関ケ原に勝利し、江戸に幕府を開いた翌年・・・
1604年二代将軍秀忠とお江の間に世継ぎ・・・竹千代・・・後の家光が生まれました。
それから7年後の1611年、江戸神田の浪人の家で幸松・・・後の保科正之が生まれました。
父は竹千代と同じ秀忠でしたが・・・どうして浪人の家で・・・??
幸松母・静は、江戸城に奉公にあがっていた奥女中でした。
美しかった静は、すぐに秀忠に見初められ、子供を身籠ります。
本来ならばめでたい事でしたが、喜べない理由が・・・
正室・お江です。
お江はとても気位が高く嫉妬深い女性で、秀忠が側室を持つことを許しませんでした。
そのため、子ができたとなると何をするかわからない・・・
実家に戻された静は、お江から恨まれないように子を堕ろします。
しかし、再び秀忠によって戻された静は、またもや身籠ってしまいました。
そんな静を家族は・・・
「上様の子を二度も堕ろしては天罰を受ける」
こうして静は、親類の浪人宅で幸松を産んだのです。
しかし、お江に気を遣って、秀忠は幸松を子として認めませんでした。
将軍の子であることを隠して育った幸松は、母・静の慕っていた武田信玄の次女・見性院に育てられることとなります。
そして、幸松7歳の時、しかるべき武家に幸松を預けようと・・・見性院はある大名に白羽の矢を立てました。
信州高遠藩藩主・保科正光です。
保科家は、もともと武田信玄の家臣で旧知の間柄。
さらに、正光の父・正直の後妻は徳川の妹で保科家は、徳川と姻戚関係にあったからと言われています。
が・・・この養子縁組の裏には秀忠が関係しているかと言われています。
つまり、幸松の教育を見性院に依頼したのは、秀忠側だったのでは・・・??
また、幸松が高遠藩に行った折には、高遠藩に5000石の加増が行われています。
おそらく幸松の養育費では・・・??と言われています。
ということで、父・秀忠の計らいで保科家の養子となり大切に育てられることとなりました。
秀忠にはこの時3人の子供がありました。
兄・竹千代、弟・国松は、母が同じお江でした。
そして静を母に持ったために将軍の子と名乗れなかった幸松・・・保科正之でした。
徳川家光と保科正之・・・この時お互いの存在を知りませんでした。

家光は、家康が長子相続を説き、20歳で3代将軍となりました。
家康が理想とした幕府を実現していく家光。
1632年秀忠が死去・・・将軍となった家光は、大名たちを江戸城に呼びつけました。
居並ぶのは、歴戦の強者たち・・・彼らを前に宣言します。
「余は、生まれながらの将軍である。
 貴殿らに対して、遠慮するものはない。
 今後皆、家臣同然として扱う。そのように心得よ。
 もし、不承知者がいるならば、国元へ帰って戦の準備をいたせ!!」by家光
家光が挑発的な態度を取ったのは・・・??
家康、秀忠は、関ケ原、大坂の陣を戦っています。
戦争を知らない世代の家光・・・下剋上の思想を断ち切るために、強気に出たのです。
そして、家光は、徳川政権を盤石なものにするために、いろいろな政策を立てていきます。
大名達の謀反を防ぐために監察官として柳生宗矩ら4人を「総目付」に任命。
大老、老中の設置・・・将軍をトップとする幕府のシステムを確立し、政治の安定を図ります。
諸制度の確立・・・
1635年武家諸法度改定・・・参勤交代を制度化。
江戸での滞在期間や交代の時期を明確に定めました。
これによって大名たちは、旅費などの費用が莫大にかかり、財力を削がれて戦を構えることができなくなり、幕府が優位に立つことになりました。
家光は、危険分子を改易、政治の安定を図ろうとします。
その改易の数は、歴代将軍最高の49家でした。
武力や厳しい刑罰で統治する武断政治を推し進めていきます。
その頃の幸松は・・・養父である保科正光の選んだ優秀な家臣たちから手厚い教育を受け、幕府に仕える心構えを徹底的に教え込まれていました。
保科正光は、将来幸松が将軍になる可能性があるかも??と考えていました。
なので、彼を育ててきた保科家の発展も期待して、幸松を教育しました。
幸松もまた、いつしか自分が将軍の子であると理解するようになりました。
1631年・・・幸松が養子となって14年・・・養父・正光が亡くなります。
家督をついだ幸松は、正之は21歳で、高遠藩2代藩主となるのです。

家光が弟・保科正之の存在を知ったのは・・・
家光が目黒に鷹狩りに行った際、家光が身分を隠して休んだ寺が・・・成就院・・・。
この成就院は、正之の母・静が参っていた寺でした。
住職が話を始めました。
「高遠藩の保科殿を知っていますかね?
 保科殿は将軍様の弟君であるのに・・・。
 それに相応しい扱いを受けていないんですよ。
 それが、不憫でしてね・・・」by住職
家光は、自分に会ったことのない弟がいて、高遠藩藩主になっていることを知ったのです。

「余に、顔も知らぬ弟・・・それは一体、どんな男なのだ・・・。」by家光

2代将軍秀忠を同じ父に持ちながら、母が違うというだけで、互いの存在を知らずにいた二人・・・
家光は、ある儀式のために江戸城にやっている正之を一目見ようとふすまの陰に潜みます。
すると・・・部屋に入ってきた正之は、末席に座ったのです。
保科正之は、3万石の小大名のために、末席だったのです。

「自分は将軍の弟だ!!という横柄な態度を見せず、謙虚に末席に控えるとは、なんと殊勝な男よ」by家光

家光は、正之を取り立てるようになります。
しかし、そこには、家光の思惑がありました。
家光は、異母兄弟と知った保科正之を高遠藩3万石から山形藩20万石の大名に。
片腕と重用するようになった正之に・・・
「忌諱を憚ること勿れ」と言ったと言います。
先輩の幕閣たちに遠慮しなくていい・・・ということでした。

更に家光は、苗字を松平に改め、葵の紋を使うことを勧めましたが、正之は
「今の自分があるのは、養父・保科正光のおかげです。」
保科家への恩義から辞退したと言われています。
感心した家光は、その信頼を厚くしていきます。
しかし、家光が正之を取り上げたもう一つの理由は・・・??
もう一人の弟・忠長の存在です。
家光にとって、同じ母・お江から生まれた弟・忠長は、兄弟というより将軍の座を争うライバルでした。
家光は生まれつき体が弱く、言葉も不自由なところがあったので、両親の愛情は聡明な忠長へ・・・。
すると家臣たちも、「次期将軍は兄君ではなく弟君が相応しい」となっていきます。
両親の愛情を受けず、将軍の器でなしと噂された家光は、12歳の時、悲しみのあまり自殺しようとしたともいわれています。
父・秀忠の愛情を受けてこなかった家光にとって、同じ思いをしてきた正之に共感を覚えていたのです。
一方、弟の忠長は・・・将軍の弟として駿府藩55万石の大大名となりました。
それでも相応しくないと思っていたようで・・・加増や大坂城城主を望んだりしていました。
謙虚で信頼できる身内・正之と思っていたようです。 
そして、忠長をけん制するという意味もありました。
将軍への夢を忘れられず、家光に対し憎悪の念を抱いていた忠長なのです。

家光にけん制された忠長は・・・精神的に追い詰められ、家臣たちを手打ちにするなど危行が目立つようになります。
この行動に怒った家光は、領地を取り上げて幽閉し、最終的には自害に追い込んでいます。
二人の溝は、最後まで埋まらなかったのです。

正之は兄・家光をどう思っていたのでしょうか?
支えなければ!!と思っていましたが、それは弟としてではなく、自らをわきまえ、家臣としてという思いが強かったようです。

保科正之が山形藩主となった翌年・・・1637年に九州で大事件が!!
島原の乱です!!
キリスト教勢力の拡大を畏れた家光が、キリシタン改めを全国の大名に命じたことに始まる厳しい弾圧が原因でした。
この江戸幕府始まって以来の事件の鎮圧には、家光が最も信頼する正之が当たるものだと誰もが思っていました。
しかし、その大役を任されたのは松平信綱でした。
正之は、家光から領地である山形に帰るように命じられます。
家臣たちは首をかしげましたが、正之には家光の意図が分かっていました。
「西国に異変ある時は、東国に注意せよということであるな」by正之
家康の遺訓に従った事でした。
東国の反乱に備え、保科正之を監視役としたのです。
1638年・・・島原の乱の終結直後、山形の隣にあった幕府直轄地・白岩郷で百姓一揆が起こりました。
その鎮圧を任された正之は、一揆の首謀者36人をすべて処刑します。
控えめで優しい性格の正之が下した判断にしては、非常に厳しいものでした。

各地で飢饉、一揆がおきていた時代でした。
なので、無秩序状態にさせないために、厳しい処分を下したのです。
しかも、幕府の直轄地であったので、家光の遺構が低下する可能性もはらんでいました。
正之は、兄であり将軍である家光の名を汚さぬように鬼となったのです。
兄・家光は弟・正之を心から信用し、大事な役目を与え、正之はその期待に応えたのです。
島原の乱、白岩郷の一揆の鎮圧後、大きな乱や一揆は無くなり、徳川の世に繋がっていきます。
しかし、首謀者を処刑したことは、正之にとって、生涯の心の傷となりました。

「一揆が起きてからでは遅い。
 一揆が起きないような政をすることが大切なんだ。」by正之

1643年、保科正之33歳の時に、将軍家光から会津藩23万石への転封が命じられます。
これは、徳川御三家の一つ水戸藩(23万石)と肩を並べるほどの厚遇でした。
その会津藩は、大きな問題を抱えていました。
前の藩主の悪政と飢饉で、領民は疲弊・・・
余所の藩へ逃げ出す者も出ていました。
正之はすぐさま領民のための改革を行っていきます。

藩政改革①社倉制
社倉制とは、藩のお金でコメを買い上げ備蓄しておき、凶作の際には領民に貸し出すという救済制度です。
領民は2割という当時としては低い利息で借りることができました。
しかし、正之は、この利息の利益を藩の蓄えにはせずに新しく米を買って、社倉の備蓄としました。
そのため、これ以降、会津藩では飢饉で一人の餓死者も出なかったといいます。

藩政改革②人命尊重
正之の母・静は、将軍秀忠の子を、一人目は堕胎させられ、二人目も堕胎させられるところでした。
そんな経緯で生まれてきた正之は・・・
「宿った命は、生きることをやめさせるべきではない」
とし、間引きを禁止しました。
さらに、領内で行き倒れになった人がいれば、医者に連れて行くように命令を出し、その人がお金を持っていない場合は、藩が支払いました。

藩政改革③老養扶持
正之は、高齢者保護を行っています。
90歳以上全員に、一日5合分の米を毎年支給しました。
該当者が150人以上になりましたが、分け隔てなく与え、大いに喜ばれたといいます。
正之は、今の老齢年金のようなこともしていたのです。
領民の安定は政治の安定、政治の安定は領民の安定とし、勧農意識・・・主として農業を侵攻奨励し、実行しようとする考えを持っていました。
一揆の予防策として、実行したのです。
兄・家光に与えられた会津を豊かにするために邁進していく正之・・・家光が病に倒れてしまいます。
死を悟った家光は・・・??

1651年、3代将軍家光は、病に倒れます。
見まいに来た弟・保科正之に対し、愛用の萌黄色直垂と烏帽子を与え・・・
「今後、保科家は代々萌黄色の直垂を使ってよい。」
それは、正之が将軍と同格であるという意味でした。
さらに・・・この時、家光の子・家綱はまだ11歳でした。
正之に、家綱が将軍となった場合の後見人を任せるつもりだったのです。
老中などの幕閣から一段上げて・・・正之の格上げを図ったのです。
その後、家光の病状が悪化・・・
見舞いの最後は最も信頼の置く弟・保科正之でした。

起きることもままならない家光は・・・

「跡を継ぐ家綱はまだ幼い・・・汝に家綱の補佐を託す。」by家光
「身命を投げ打って御奉公いたします故、ご心配あそばされますな」by正之

これが、兄・家光との最後の別れとなりました。
保科正之は、兄との約束を守り、ほとんど会津に帰ることなく身命を投げ打って幕府の政治に専心します。
しかし・・・この時、幕府は大きな問題を抱えていました。

4代将軍家綱の後見人となった正之・・・
しかし、正之は兄が推し進めてきた武断政治を否定するかのような政策を次々と打ち立てていきます。

武断政治からの脱却①大名証人制度の廃止
大名証人制度とは、大名の妻子などを人質として江戸に住まわせることです。
これは、戦国時代からの裏切りに対する人質ということを踏襲したものでした。
しかし、幕藩体制が整った徳川政権においては無用と廃止します。

武断政治からの脱却②殉死の禁止
江戸時代初期、主君の死を受けての殉死は美徳とされていました。
実際、家光が亡くなった際にも、家臣が後を追い自害しています。
しかし、これでは有能な人材が失われてしまう!!と、殉死を禁止しました。

武断政治からの脱却③末期養子の禁 緩和
大名は、生前に跡取りを決めて幕府に届ける必要性がありました。
そして、死の間際に養子をもらって跡取りにすること・・・末期養子は禁止されていました。
つまり、跡取りのいない藩主が急死するとその藩はおとり潰しとなっていました。
正之はこの禁を緩和し、50歳以下の大名の末期養子を認めます。
藩の取り潰しを減らしたのです。
正之は、家光の行った武断政治を否定するかのように次々と廃止していきます。
しかし、そこには理由がありました。
家光時代の幕府は、徳川と対立しそうな大名を次々と改易していました。
巷には浪人が溢れ、幕府に不満を抱く者たちが急増していました。
正之は、彼らの暴発を危惧し、これ以上浪人が増えないように政策を・・・文治政治へと変換していったのです。
家光の政治を否定したわけではなく、展開していく・・・戦の途絶えた時代を生き抜くための政治でした。
大名を上手に取り込むことは、国家統合に繋がり、徳川の平和につながる。。。
徳川ファーストを考えていたのです。
1657年1月18日江戸を、未曽有の火災が襲います。
明暦の大火です。江戸の町の6割が焼き尽くされ、死者は10万人ともいわれています。
火の手は風にあおられて、将軍のいる江戸城まで・・・!!
天守をはじめ、本丸、二の丸、三の丸まで焼け落ちていきます。
この時、正之は、将軍を守るために西の丸に逃げるも、火の手はそこまで迫っていました。
すると幕閣たちは、「上様を城の外へと避難させましょう!!」と言い出しました。

「西の丸も焼けたら、本丸の焼け跡に陣屋を建てればよい!!」by正之
幕府の長たる将軍が、火事ぐらいで城を捨てては面目が立たない!!
非常時だからこそ、将軍が中心となって強い態度で対処すべきだと、といたのです。
火事発生から2日後・・・ようやく鎮火。
正之は民のために動き出しました。
まず、被災者のためのおかゆの炊き出し。2種類のおかゆを用意し、老人や弱ったものには塩分の控えたものを、それ以外の人たちには濃いおかゆを配りました。
さらに、16万両という幕府の貯蔵金を町の復興に充てようとします。
これに対し、幕閣たちは金蔵が空になると反対します。

「このような時のために、金を蓄えておるのに・・・!!
 今使わずしていつ使うのだ!!」by正之

この判断と采配によって、焦土と化した江戸の町は、復興をして行ったのです。
現場の最前線で、見事な陣頭指揮を執った正之でしたが、この時、嫡男の正頼が避難先で病に侵されなくなっていました。
しかし、正之は深い悲しみの中にあっての私情を排し、町の復興を優先させたのです。
江戸城の本丸、二の丸、三の丸は再建されましたが、天守は再建されませんでした。
保科正之が反対したからです。
戦乱の終わった今、ただ遠くを見るだけのもの。。。無用の長物をこのような時に、お金をかけてまで再建するべきではない。
保科正之は、民を思って町の再建を最優先にしました。

兄・家光に誓った徳川への忠誠を守り続ける保科正之・・・
その正之が、徳川のために最後に下した決断は・・・
保科正之が、常に大事にしていたのが、仁の心・・・すべてのものを、慈しみ思いやる心です。
そんな正之が、自らの政治理念を後世に伝えるために残したのが・・・
「会津家訓十五ヵ条」です。
兄を敬い弟を愛すべし・・・面々依怙贔屓すべからず・・・人としての心得をを解く中で、正之が最初に伝えたかったのが・・・
”大君の儀一心大切に忠勤に存ずべし
 若し二心を懐かば、即ち我が子孫に非ず
 面々決して従うべからず”
兄・家光に誓った将軍への忠誠を、子々孫々に守らせようとしたのです。
そんな正之でしたが、晩年病に伏し病状が悪化すると、幕府に隠居を申し出ます。
そして、4男正経に家督を譲ると・・・屋敷の裏で、おびただしい量の書類を焼きだしました。
それは、幕府の重要書類でした。
正之の功績が後世までに残ってしまうと、家綱時代の政策は保科正之がやったとわかってしまいます。
あくまでも政を将軍・家綱の功績にするために、書類を燃やしたのです。
正之は、最後まで、幕府と将軍のために動いた私利私欲のない男でした。

もし、二人が居なければ・・・武断政治が続いていたならば・・・江戸幕府はもっと早く終わったかもしれません。
1672年12月18日、保科正之は会津藩邸で息を引き取ります。
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1657年1月18日、江戸の町で起きた火災は3日間燃え続け、町を、人を、江戸城天守をも炎に包んでいきました。
江戸の2/3を焼き、10万人を死に追いやった・・・明暦の大火。
後の関東大震災や東京大空襲などと並ぶ、日本史上最大級の災害となりました。


明暦3年1月18日、午後1時ごろ・・・
江戸城の北、本郷にあった本妙寺から出火。
現在の文京区本郷5丁目にある本妙寺坂付近です。
火は、北よりの風にあおられて南東へ・・・。
湯島、駿河台の大名屋敷を次々と焼いていきます。
信仰の場であった湯島天神や神田明神にも延焼。
日本橋にあった吉原や劇場のあった地域までも壊滅状態!!

午後5時ごろになっても日はおさまりません。
西からの風に代わり・・・火は東方向へ・・・
八丁堀の通りは、鍋や布団など家財道具を手に逃げまどう人たちでごった返しました。
車長持ちに荷物を乗せて逃げる人も・・・それが道を塞いでしまったので、さらなる混乱をきたしました。
火の勢いはとどまることを知らず、停泊中の船にまで飛び火!!
隅田川を飛び越して、霊岸島へと広がっていきました。島に祀られていた寺は炎上・・・
さらにその先にあった佃島、石川島も焼き尽くしたのです。

どうして被害が広まったのでしょうか??
火事が起こった1月18日は・・・現在の3月初旬・・・。
この時の江戸では80日以上雨が降っておらず、井戸は枯れ、空気はひどく乾燥していました。
小型台風並みの季節風が吹いて砂煙を巻き上げていました。

過密都市・・・
江戸開府から50年余り・・・その間に町は急激に拡大し、人口は50万人。
どうして人口が急増したのでしょうか??
1635年、幕府の政策として参勤交代制度化。
大名達は、上屋敷、中屋敷、下屋敷を構え、家臣を常駐させます。
大大名ではこれに加えて抱屋敷もありました。
これによって武家地は密集化が進み、さらに新しい町に全国から一旗揚げようと商人たちも町人地に集まってきました。
密集していたので、延焼が激しくなったのです。


さらに情報の錯綜。
火の手が迫った伝馬町の牢獄では・・・
牢屋奉行の石出帯刀は独断で、牢に戻ると約束させ、囚人たちを解き放ちました。
囚人たちは石出の措置に感激!!
全員戻ってきたと言います。
しかし、この人道的措置が2万3000人もの死者を出した浅草橋門での悲劇を生んでしまいました。
浅草橋門にはこの時火災から逃れようと多くの人々が押し寄せていました。
しかし、門が閉じられていたのです。
浅草橋門の門番たちが、小伝馬町の囚人たちが脱獄したと誤報を信じ、囚人たちを外に出すまいと門を閉ざしてしまったのです。
背後から迫ってくる火に人々は焼かれ、門をよじ登った者は堀に落ちて溺れてしまいました。

防火体制の甘さ・・・。
人口が急増し、火事が多発しても、町にはまだ火の見櫓も、半鐘もほとんどありませんでした。
消火活動は、破壊消防でした。
当時は大名火消しのみで、町火消はこの63年後に設けられます。当時は町人たちの自助努力でした。

甚大な被害をもたらした明暦の大火・・・
その日がおさまったのは、1月19日午前2時ごろでした。
半日燃え続け・・・四十八町、5.3平方キロメートルを焼き尽くしていました。
大勢の人が行方不明者を探して彷徨っていたと言います。

それでは本妙寺の出火原因とは??
振袖火事??新都市計画のための幕府放火説??
出火原因がわからなかったので、様々なうわさが飛び交います。

江戸時代に火事を出してしまうと江戸追放などの処分がなされますが、本妙寺は火元であるにもかかわらず処分なし。
出火元である本妙寺になんの処分もなかったので、もう一つの説が出てきます。
本妙寺に隣接した老中・阿部忠秋邸が出火元という説です。
おまけに本妙寺は大火後、寺の格が上がる厚遇を受けています。
また阿部家から供養料が、関東大震災まで納められています。

実際には確証がなく、断定はできませんが・・・。

48もの町を焼き、半日ほどで自然鎮火した火災。
ところが再び火の手が上がります。
9時間後・・・19日の午前11時ごろ。
火元となったのは、小石川にあった大番衆与力の宿所。
出火原因は不明。
北西の風にあおられて、火は南下。
水戸藩屋敷を焼き外堀を越えていきます。
麹町・・・大名屋敷を次々と焼いていきました。
大名屋敷から逃げた馬が、通りを人々を蹴散らして走ったので、多くの犠牲者が出ました。

そして火の手はついに江戸城へ!!
北の丸が炎上!!
火は天守へ・・・!!
江戸城天守は、壁に合板を用いて耐火建築だったことから燃えることはないと誰もが安心していましたが・・・
正午過ぎ、高さ60メートルを誇る日本一の天守は火柱となってしまいました。
猛烈な火災旋風が発生。これによって、天守の窓が開き、そこから炎が入って内側から燃え広がったのです。
弾薬庫が爆発!!
火は、本丸御殿へと迫ります。
幕閣たちは時の第4代将軍・家綱をどこへ避難させるかで議論!!
しかし、先代の将軍の異母兄弟であり幕閣であった保科正之は・・・

「本丸に火が回ったら西の丸に移ればよい。
 西の丸が焼けたら本丸の焼け跡に陣を建てればよい。
 将軍を動かすなどもってのほかだ!!」

一同、返す言葉もありませんでした。
保科は、リーダーである将軍が軽々しく動けば、人々が動揺すると考えたのです。
将軍は保科の提案通り、西の丸に避難しました。

ところがその時大奥では女性たちがパニックに・・・。
その女性たちを救ったのが、老中・松平信綱でした。
女中たちは大奥以外の部屋に入ったことがないので、どうやって西の丸に行けばいいのかわかりませんでした。
そこで、畳を裏返し、それを道しるべとしたのです。
午後4時ごろ・・・風は西風に・・・火は西の丸をそれて東へ向かいました。
京橋付近では次々と橋が焼け落ち、2万6000人が亡くなりました。


1月19日午後4時ごろ・・・麹町5丁目の町屋から第三の出火が・・・。
西風にあおられて、火は西の丸、桜田門、日比谷、増上寺・・・
1月20日午前8時ごろ自然鎮火。。。
海岸べりで止まりました。

この3つの火元から出た火事の3日間で、江戸の6割を焼き尽くしました。
明暦の大火による被害は・・・
大名屋敷・・・・・・・・160軒
旗本屋敷・・・・・・・・770軒
   町家・・・・・・・・800町
   寺社・・・・・・・・350か所
     橋・・・・・・・・60基
   倉庫・・・・・・・9000か所

焼失面積は、およそ25平方キロメートル、千代田区と中央区のほぼ全域、文京区の60%が焼けてしまいました。
死者の数はおよそ10万人、その夜から大雪が降ったので、焼け出された人が凍死したことも原因の一つです。

町を襲った明暦の大火・・・その救済措置とは・・・??
余りにも甚大な被害に・・・すぐさま救済措置をとったのが、保科正之をはじめとする幕閣でした。

①情報統制
鎮火した1月20日、保科は老中・松平信綱の名で関東一円に将軍の無事を伝えるお触書を出しました。
人々を安心させるためです。

②食糧配給
翌日には江戸市中に6カ所の仮小屋を設置し、かゆの配給を始めました。
その量、一日1000俵。
配給は、2月12日までのおよそ20日間行われました。
さらに、焼けてしまった幕府の米蔵の米も放出。
焦げているとはいえ、貴重な食料となりました。

③金銭援助
保科は大名から下級武士まで、階級に関わらずに援助をしました。
さらに、町人たちにも16万両の資金援助をしようとしたところ・・・幕閣たちは反対!!
しかし、
「幕府の金蔵に蓄えがあるのは、このような時に使って民を安堵させるため、救済しないのであれば、たくわえなどしない方がましである!!」
と、庶民への援助を断行!!

保科はこれらの救済措置を矢継ぎ早に行いますが・・・
しかし、自身もこの時、大火で大きな痛手を負っていました。
跡継ぎである正頼が火災により死去したのです。
数日間喪に服しただけで政務に戻る保科正之。

焼き尽くされた江戸の復興プロジェクトを始める保科。
しかし、幕閣の人々は・・・焼け落ちた天守を建てようとします。
保科は、この天守建設のお金を、町の復興に使おうとします。
軍備の象徴だった天守など、もはや無用の長物!!
太平の世にこの判断は正しい事でした。
以後、江戸城天守が再建されることはありませんでした。

保科は復興のための木材は買わない、と、うわさを流すことで、材木商たちが材木の値段をつり上げようとするのを阻止します。
在庫を一挙に放出する材木商たち・・・価格は安定し、材木を手に入れやすくなりました。
さらに参勤交代の停止や、期間短縮を決行!!
深刻な食糧不足のために、国元に人々を帰すことで口減らしをしたのです。

そんな江戸復興プロジェクトとは??

①過密化の改善
被害拡大の原因であった過密化の改善を試みます。
大名屋敷を移転します。
例えば江戸城内にあった尾張、水戸、紀州の上屋敷をそれぞれ外堀の外へ・・・
その跡地は、建物を造らず、馬場や菜園にし、火除け地としました。
今の皇居・吹上御苑のところです。
これによって大名屋敷は玉つきに郊外に押しやられます。
青山、赤坂、麻布はこの時に整地されました。
また、移転によって次からは、びっしりと建物を建てないようにしました。
日本橋にあった吉原遊郭も、浅草の北に移転、新吉原として200年賑わうこととなります。

②道の拡張
火事の際、逃げ惑う人々でごった返した道も拡張します。
日本橋通りなどのメインストリートは、およそ2倍に広げられ、万が一に備えて真っすぐに道を通します。
通りに面した商家には、それまで柱がついた2メートル近いひさしがありましたが、これを三尺に規制。
居住用の町屋はひさしを一間つけることが義務付けられ、三階建ては禁止。
火災が起きたときにひさしから屋根に上り、破壊消防をしやすいようにしました。

③耐火建築の奨励
新しく建物を建てるときは、藁葺や茅葺でなく牡蠣殻葺に・・・
外壁は土や漆喰で塗って、木造部分を見えないようにしました。

迅速に推し進められた江戸の復興、その最後の一手は・・・橋の増設。
明暦の大火が大きな被害となったのは、人々が隅田川を渡れなかったことでした。
というのも、幕府は隅田川を天然の堀としていたので防犯上、千住大橋より下流に橋をかけることを禁じていたのです。
両国橋・・・後に、見世物小屋の営業が許され、江戸一番の賑わいを見せることとなります。
さらに新大橋、永代橋がかけられ、隅田川の東側は大きな発展を遂げていきます。
この復興事業によって、一気に拡大した江戸。
およそ1.5倍にまで広がります。
もはや戦国にあらず・・・軍事的要素を捨て去った江戸は、この時、平和都市へと生まれ変わります。

上方文化を受け入れるだけだった人々は、新しくなった江戸で結束し、独自の文化をはぐくんでいきます。
明暦の大火後に建てられた寺・・・墨田区両国にある回向院。
道端に放置されていた犠牲者の人々を見て心を痛めた保科正之が、創建させました。
彼らを供養するために・・・。



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会津VS長州 ~ニッポンを創った二つの魂~・・・
そうなると、薩摩が怒ってくるでしょう??

福島県にある若松城・・・今から150年ほど前、ここで日本の未来のかかった戦いが繰り広げられました。
守るのは東の雄藩・会津藩・・・攻めるのは西の雄藩・長州藩。
幕末の悲劇として描かれる会津戦争。。。
どうして両藩は戦わなくてはならなかったのでしょうか?
そこには互いに譲れない精神がありました。
両者の信念は、一朝一夕に作られたのではなく・・・250年という江戸時代の選択の継承によって作られたものでした。

あ・・・この回は、”花燃ゆ”のテコ入れみたいですね。
朗読では”八重の桜”と”花燃ゆ”のお父さん対決にもなりそうです。
が・・・何をどうしたのか??選択してもらいましょう。

・会津藩(親藩)・・・23万石
・藩祖・・・保科正之
・最後の藩主・・・松平容保


・長州藩(外様)・・・37万石
・藩祖・・・毛利輝元
・最後の藩主・・・毛利元徳

親藩と外様・・・忠と志・・・二つの違ったスピリットがありました。

福島県会津若松市の小学校では、毎朝「あいづっこ宣言」を暗唱しています。

aiduこの言葉を考案したのは宗像精さんです。
11年前に策定しました。
会津藩の什の掟を参考にしています。

jyuuこの実直な考え方は、藩祖・保科正之によるものです。
徳川二代将軍・秀忠と側室の間に生まれました。


しかし、家光がいたので、保科家の養子となったのでした。
表舞台に出ることのなかった正之に目をかけたのは兄・家光でした。
家光と四代将軍・家綱を補佐する人間として徳川の安泰に務めまます。
それで戴いたのが会津23万石でした。
正之は・・・この時重大な選択をしました。
子孫に掟を・・・15条にわたる家訓を残したのです。

その第1条こそが・・・
”大君の儀 一審大切に忠勤を存ずべく・・・
 もし二心を懐かば 即ち我が子孫にあらず
 面々決して従うべからず”
幕府への忠誠心・・・それが会津の精神でした。


長州と徳川の因縁は、関ヶ原の戦いに遡ります。
東軍の総大将は徳川家康、西軍の総大将は毛利輝元でした。
西軍は敗れ・・・降伏した輝元に厳しい措置がとられます。
120万石の領土を2/3以上を没収し、周防・長門の37万石に封じ込め・・・それが長州藩となりました。
山口県萩市に輝元は城を築きます。
敢えて交通の不便な場所を選んだのは、家康を恐れたためとも言われています。
萩城には輝元の志しが・・・三方を海に囲まれ、急な山の上に作られたであろうお城。。。
それはまさに山城・・・要塞でした。
貯水池も残っています。
平和な時代の城に、危機意識の高い城となっていたのです。
幕府は長州にたくさんの普請をさせ、体力を削いでいきます。
膨大な借金・・・家臣たちをどのようにすればいいのか??
大リストラを敢行。。。3万人の侍を1万人に減らします。
これが長州藩の精神を作ったと言われています。
大部分は帰農しますが、一定の学力がそのわっていました。
明治の調査によると・・・私塾は106校、寺子屋は1204校あったと言われています。
帰農によって身分を超える教育がなされ、それが人材発掘になっていくのです。
外様の危機感とリストラが、徳川時代を生き抜く外様のしたたかさだったのです。

戦争を知らない保科正之の”平和な時代の精神”と、毛利元就を継承した”戦国時代の何でもアリの精神”・・・
軸にある考え方が違ったのです。
これが幕末の動乱の布石となっていきます。

会津藩の中興の祖と言われるのが、家老・田中玄宰。
1781年に家老となった玄宰ですが、1783年には天明の大飢饉が・・・会津だけでも餓死者は2000人を越えました。
藩存続の危機に・・・藩財政の改革に臨みます。
地場産業の立て直しをします
会津漆器・酒・朝鮮人参・養蚕・・・経済復興の足掛かりとしました。
しかし、経済以上に危惧したのが・・・士風の乱れです。
貧しさの中で、藩士としてあるまじき行為をするようになってきていました。
そこで・・・1803年藩校・日新館の設立!!
10歳になったら文武両道の厳しい教えを受けるようになります。
優秀な学生は、幕府の昌平坂学問所にも遊学させます。
忠義と礼節を重んじる会津藩士たちの名は全国に轟きました。
経済ではなく人の心を・・・!!
緊縮財政を精神で耐え抜いていく会津藩がそこにはありました。


長州藩は・・・??
中興の祖は、第七代藩主・毛利重就です。
重就は・・・新しい税収を得るために、開墾し4万石を得ます。
根本的な財政立て直しのために・・・4万石を特別会計にします。
そしてその4万石を元手に、撫育方を作り資産運用が始まりました。
三田尻の塩田の開発・・・36万石の塩が作られるようになります。
この塩に、蝋・紙を加えて三白と呼ばれる専売を作るのです。

越荷方を作り、港の倉庫業、貸金業・・・莫大な利益を上げていきます。
江戸時代の総合商社となった長州藩は、圧倒的な力を蓄えていくのでした。

この資金をいつ使うべきか・・・??
「撫育の経理を本勘定から分けたのは、藩を安らかにする一助とするためである。
 子孫の者は、このことを考え、重要なことがあった時にこそ、撫育金を使うように。」
幕末の長州の隠し財産は数百万両に膨れ上がっていました。
これが、維新の原動力となっていったのです。


1853年6月3日、黒船来航。
日本に開国を迫ってきました。
列強に対して、開国の道を進んでいく幕府・・・幕府の弱体化の始まりでした。
ときの帝・孝明天皇は、攘夷を強く望みます。
開国か?攘夷か??日本の未来はどうなるのか・・・??
会津と長州は、全く別の道を進んでいきます。
吉田松陰の松下村塾では・・・
「日本の独立を守るためには、幕府や藩に任せていてはいけない
 一人一人が行動するべきなのだ」
若者たちの胸を打ちます。
久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋・・・たくさんの若者が行動に出ます。
「奉勅攘夷」の道へ・・・!!

会津藩九代藩主・松平容保・・・幕府から京都守護職に就任要請が来ました。
公武合体も期待されていました。
京都では攘夷な過激派浪士が治安を悪くしていて、攘夷派の恨みを一身にうける可能性がありました。
「今はこれを引きうける知己ではありませぬ
 それはさながら、薪を負うて火を救うようなもの
 おそらくは労多くしてその功はないでありましょう。」by西郷頼母
しかし、容保の決め手となったのは・・・家訓でした。
家訓が下りることを許さなかったのです。
幕府に忠義を尽くすために・・・!!

1862年会津から1000人の兵を連れて京にのぼります。
長州と対立していく中心には、孝明天皇がいました。
まず、長州藩は信頼を得、幕府に攘夷の約束を取り付けます。
幕府はその攘夷を行わず・・・単独で攘夷を決行した長州藩。
1863年長州藩は、下関で外国商船を次々と砲撃!!
天皇に認められた長州藩は、勢いを強めていきます。

徳川の権威は失墜し・・・苦悩する容保
薩摩藩から情報が入ります。
「近年、孝明天皇の意志として出された攘夷の命令は、周囲の過激派公家たちによって偽造されたもの
 天皇はお嘆きになっている。。。」と。

天皇の真意はどこに・・・??

孝明天皇に攘夷派公家と長州藩の追放を伺います。
返事は・・・
「兵力をもって、国家の害を除くべし。」
天皇の心は、攘夷派公家と長州藩から離れていたのです。

攘夷派の追放を・・・!!
八月十八日の政変で、七卿落ち・・・。
御宸翰を与えられる容保。。。
「朝廷の堂上公家たちが乱暴な意見を連ね、不正の行いも増え、心の痛みに堪えがたい思いだった。
 内々の命を下したところ、速やかにわかってくれ、憂いを払い、私の思いを貫いてくれた。
 全くその方の忠義に深く感悦し、右一箱を遣わすものなり。」

”武士(もののふ)と  心あはして
   巌をも 貫きてまし 世々の思い出”by孝明天皇

忠義を重んじてきた会津にとって最高の喜びでした。


天皇の信任を受けていたのは長州のはず・・・
なのにどうして追放されなければならないのか・・・??
1864年7月19日、久坂ら長州藩士たちは、3000人の兵を引き連れ名誉回復の嘆願ために御所を目指します。
そして・・・会津藩と激突!!
血で血を洗う肉弾戦・・・禁門の変が・・・!!
この戦いで長州藩は敗北し、朝敵となったのでした。

対立軸は攘夷か開国かではなく、正当性や大義となっていったのです。

1866年6月、第二次長州征討に乗り出す幕府。。。諸藩と共に15万人。
対する長州藩はわずか3万人!!
自分達が闘うのは冤罪を晴らすためだ!!と、「長防臣民合議書」を36万部作成し、武士だけでなく、農民たち市民にまで配布!!ここから志願兵が出てきました。
最新兵器をイギリスから購入!!そのお金は、撫育方によってためられた特別会計からでした。
長州軍は、250年かけた用意周到さで戦っていきます。
政局は・・・??
幕府の権威は地に落ち、薩摩・長州を中心とした武力討伐へと傾いていきます。

そんな中・・・1867年10月、将軍・慶喜による大政奉還が行われました。
驚愕、茫然する会津藩士たち・・・。

長州藩の目標であった幕府打倒が・・・すんなりとなされてしまいました。
新政府をどうする・・・??
合議制を導入する??そこに徳川を入れる??
木戸孝允は・・・
「膏薬の治療で、表面の形を整えただけでは、のちのち再び問題が起こることでしょう。
 中途半端に終わらせては、日本の瓦解は明らか
 どんどん打ち滅ぼし、国の大本を締めることが急務だと思います。」
 
徳川家を排除する選択をします。

そして・・・1867年12月9日・・・王政復古の大号令!!
1968年1月3日の鳥羽伏見の戦いでは、旧幕府軍が惨敗!!
形勢逆転によって、朝敵は長州藩から徳川・・・会津へとすり替わっていったのでした。
4月11日江戸城無血開城!!
しかし、その中にあって戦い続けることを選んだ会津藩。
将軍が恭順をしているのにどうして戦いを辞さなかったのでしょうか・・・??
このまま自分達の非を認めるわけにはいけない!!そこには、譲れない信念がありました。

若松城での籠城戦が始まりました。
忠義の精神が・・・教えが籠城戦の原因の一つとなったことに違いはありません。
1日・・・多い時は2000発から2500発の砲弾が撃ち込まれ・・・
1か月の籠城の末、1868年9月22日会津藩降伏。

共に・・・日本の良き未来を目指していた二つの藩・・・
戦いを避けることは出来なかったのでしょうか??
勝者の憎しみが全て会津藩へ向いたことで、結果的に徳川家を守ることになりましたが。。。

戊辰戦争は、内戦としては死者が少なかったと言われています。
長州も会津も、傍観者ではなかった・・・。
幕末の動乱を、日本を背負って立とうとした人たちでした。

会津戦争の確執は、今も消えたとは言えません。
が、会津にある東明寺は、西軍墓地と言われています。会津戦争で亡くなった長州・薩摩・土佐の兵が眠っています。
今も会津の人が守っています。
子供たちも・・・”あいづっこ宣言””松陰先生のお言葉”・・・それぞれを大切にしています。
幕末、日本の未来のために立ち上がった会津と長州・・・その精神を受け継いでいるのです。

最後まで見た感想ですが・・・
このまま大河にしてほしいくらいでした。
会津藩の方には、「八重の桜」の山本むつみさんが出ていて・・・「八重の桜」は”什の掟”をもとに、魂の高潔さをもとに作っていたといっていました。

そうなんですよ・・・で、「花燃ゆ」のコンセプトは何・・・??
信念はどこだ~~~!!
英雄たちの選択では、長州はつねに「志」だ・・・みたいなことを言ってたんです。
どちらが正しくてどちらが間違っていたのか??
どっちも間違っていないと思いますが・・・同じNHKなんだから・・・解っているなら8か月間「志!!志!!」といいながら、どんな志か全く解らない長州藩の志を花燃ゆで演出してほしいものです。

ほんと・・・解りやすく解説してくれていて・・・
もう一度言います。これをそのまま大河にしてほしかった。。。

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