日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:北条氏政

相模湾を望む城下町・・・
神奈川県小田原市・・・この町のランドマークと言えば、今も昔も中心部にそびえたつ小田原城です。
遡ること430年ほど前の戦国時代、この地を5代100年にわたって治めたのが相模国戦国大名・北条氏でした。
小田原城を居城として、周辺諸国に勢力を拡大し、やがて関東の覇者となりました。
ところが・・・その北条氏が、突如歴史の表舞台から姿を消すことになるのです。

5代にわたり小田原の地を治めた北条氏・・・鎌倉時代の北条氏と区別するため、後北条氏ともよばれています。
その歴史は、伊豆国を本拠地としていた後北条氏初代・北条早雲が小田原の地を攻略したことに始まり、徐々に勢力を拡大し、4代氏政と、5代氏直の時代には伊豆・相模・駿河・武蔵・上総・下総・上野・・・まで領地を広げ、まさに関東の覇者として絶頂にありました。
しかし、1582年、戦国の革命児・織田信長が本能寺の変で死去・・・
状況は一変します。
信長の家臣・羽柴秀吉が急速に勢力を伸ばし、天下統一を進めていきました。

本能寺の変の後、秀吉は中国地方、紀州、四国地方を平定し、さらに、朝廷から関白に任命されると、天皇や朝廷の威光を借りて、自らが天下人となることを目指します。
当然、北条氏がしはいする関東を配下に置くことも狙っていましたが・・・北条氏は、断固として秀吉の部下になることを拒否・・・それには北条氏に十分な勝算があったからです。

この時、北条氏は三河・徳川家康と同盟関係にありました。
織田信長の死後、旧武田領を巡って北条と徳川は対立しましたが、和睦し、同盟関係となりました。
その証として、家康の娘・督姫が、北条氏直の正室として迎えられています。
おまけに、家康と氏政の弟・北条氏規は昵懇の仲でした。
家康が幼少の頃今川に捕らえられていた時、氏規もまた人質として・・・同じ境遇でした。
北条氏政、氏直親子は、家康と組めば秀吉に対抗できると考えていました。

しかし、そこはしたたかな秀吉・・・
そんな両家の固い絆を切り崩しにかかります。
徳川を自分の臣下にしたかった秀吉は、妹・旭姫を家康の正室に差し出しただけでなく、母親の大政所を人質として家康の元に送ります。
その代わりとして家康に上洛を求めます。
関白の秀吉にそこまでされ、もはや拒否できなくなった秀吉は、しぶしぶ上洛し、大坂城で多くの諸大名がいる中、秀吉への臣従を誓ったのです。

これを聞き、大きな衝撃を受けたのが、北条氏政・氏直でした。
同盟を結んでいた家康が、秀吉の臣下となった事で、北条氏は徐々に追い詰められていくことになります。
秀吉はその後、薩摩の島津義久を討ち、九州を平定し、天下統一まで関東と東北を残すのみとなりました。
そこで秀吉は、北条氏の説得を北条ど同盟関係にあった家康に任せるのですが・・・北条氏はなかなか首を縦に振りません。
北条氏では、重要な事柄は重臣たちを集め小田原評定という軍議を開いていました。
この時、秀吉に服従するか否かで意見が分かれていました。
氏直は、時局を冷静に分析できる人物で、
「家康殿が秀吉の臣下となった今、秀吉への服従も致し方あるまい・・・
しかし、その氏直に、当主の座を譲った後も実権を握っていた父・氏政や、氏政の弟・氏照らは反対・・・!!
関東の覇者としての誇りが許さなかったのかもしれません。
なかなか意見がまとまらない北条氏・・・
しびれを切らした秀吉は、最後通告をします。

「この月中に、氏政殿の兄弟衆を大坂城に遣わしてほしい
 もし、秀吉殿に臣従できないというのなら、娘をすぐさま返していただきたい」by家康

北条氏と同盟を結んださい、家康は娘の督姫を北条氏直の正室として差し出していました。
その娘を返せというには、北条と徳川の同盟破棄を通告しているようなもの・・・
そうなれば、さらに孤立してしまう・・・!!
北条氏は、氏政の弟で外交担当の氏規を、秀吉のいる京都の聚楽第に派遣しましたが・・・

1588年、当主・北条氏直の名代として、父・氏政の弟である氏規が豊臣秀吉と謁見したことで、遂に北条氏は豊臣政権に臣従する姿勢を見せます。
しかし・・・そのあと、秀吉は宣戦布告することとなります。

秀吉は、はるばるやってきた氏規に対し、”北条氏政が上洛すること”を要求・・・
北条家の実権を握る氏政の口から豊臣家への臣従を誓わせたかったのです。
すると氏規は、大胆にも秀吉に条件を出します。

「兄・氏政の上洛の前に、沼田領の問題を解決していただきたい」by氏規

話は遡ること6年前・・・
信長の死後、徳川氏と北条氏が旧武田領を巡って抗争・・・
その後、和睦・・・甲斐と信濃を徳川が、上野を北条の領地として同盟に合意します。
しかし、問題が・・・
上野の沼田領を支配していた徳川家臣・真田昌幸がその領地を北条に差し出すことを拒んだのです。
昌幸は、主君である家康の再三の説得にも応じず、やがて徳川を離れ、越後の上杉景勝を通して秀吉の家臣となってしまいます。
その為氏規は、昌幸の新たな主君・秀吉に直訴したのです。
そこで秀吉は、ひとまず家康や正幸から事情を聞くことに・・・
真田昌幸は、老獪で知られています。
最後までごねましたが、秀吉は、関東の北条を服従させれば天下統一も間近となると考え、北条氏に有利な裁定を下します。

秀吉が下した裁定は、沼田領のうち、沼田城を含む2/3を北条の領地とし、名胡桃城の1/3を真田領とするというものでした。

北条も真田も、秀吉のこの裁定を渋々受け入れたのですが・・・
北条氏の家臣・猪俣邦憲が沼田城の城代として入ります。
が・・・ほどなくして事件を起こします。
利根川を挟み、目と鼻の先にあった真田領の名胡桃城に奇襲をかけ、城を奪い取ってしまったのです。
一説に猪俣は、
「真田方に残った領地が手に入れば、上野国はすべて北条のものになる・・・
 対岸の小さな城ひとつのっとっても、さして問題になるまい」と、軽い気持ちで事を起こしたというのです。
北条氏の家臣の中には、秀吉への服従に反対する者も多くいました。
秀吉が下した裁定を軽く見て軽率な行動を起こしてしまったのです。

真田昌幸から報告を受けた秀吉は、大激怒~~!!
自ら下した裁定を、北条が反故にしただけではなく、約束していた氏政が上洛する件についても北条側からの連絡が全くありませんでした。
臣従を誓う筈の北条氏が、自分の命令を軽んじたため、怒った秀吉は北条氏に宣戦布告しました!!
秀吉が北条に突き付けた書状にはこう書かれていました。

””明くる年 必ず小田原へ攻め寄せて 氏直の首をはねる””

慌てた北条氏直は、すぐに秀吉へ弁明書を送りますが・・・

”名胡桃城は奪い取ったものではなく、もともと北条のものである”

さらに・・・なかなか氏政が上洛しない理由に関しても、

”家康殿に上洛を求めた際、関白殿下は妹君を家康殿の正妻としただけでなく、母君まで人質として送っている
 しかし、父・氏政に対しては、そうした配慮が全くなされていない”

関東の覇者として君臨してきた北条一族のプライド・・・
この時点で、秀吉と戦う覚悟を決めていました。
この時、領民を総動員し、秀吉との戦いに備え小田原城の大普請に着手していたのです。

相模国の戦国大名北条氏政・氏直親子が居城としていた小田原城は、南に相模湾を望み南西に箱根連山が連なる要害堅固な城として知られていました。
そんな北条の本拠地を攻めるべく、1590年3月1日・・・
豊臣秀吉は京都を出発し、小田原へと向かいます。
既に三河の徳川家康や尾張の織田信勝、加賀の前田利家、越後の上杉景勝ら有力大名たちが兵を進め、さらに海からは、安芸の毛利輝元や土佐の長曾我部元親、志摩の九鬼嘉隆らの水軍が小田原を目指していました。
総勢20万を超える戦国オールスターの軍勢を率いた秀吉は、徹底的に北条氏を叩きのめすつもりでした。

3月29日、北条の領内に入った豊臣軍は、箱根山の中腹に立つ山中城へと攻め入ります。
堅牢な山城として知られていた山中城でしたが、豊臣軍7万に対し、北条軍はわずか4000・・・たった半日で落とされてしまいます。
その後、豊臣軍は鷹野素性、足柄城、根府川城など次々に攻略すると・・・
4月3日、遂に小田原に入ります。
20万を超す大軍が、小田原城の周囲に・・・やがて駿河湾にも1万4000もの豊臣水軍が到着し、海と陸の両方から小田原城を完全に包囲したのです。

北条氏は、如何にして豊臣軍と戦うつもりだったのでしょうか??
この状況は、北条氏に散っては想定内のことでした。
豊臣軍には数では勝てないと考え、小田原城に籠城して戦うことを決めていました。
上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めたとき、北条は籠城して軍勢を撤退させた経験があったからです。
この時の北条側は、籠城している間に、同盟関係にあった伊達政宗を期待していたのです。
籠城による徹底抗戦で伊達政宗と、豊臣軍を挟み撃ちにするつもりだったのです。

20万を超す豊臣の大軍勢に対し、居城である小田原城を楯に籠城戦をすることを決めた北条親子・・・
2人は早くから籠城の準備を進め、城を大改修します。
対秀吉に際し惣構え・・・城下町の外側に堀や土塁を作ることで町全体を防備しました。
深く広い堀が、周囲9㎞にわたって造られ、小田原の街は一つの城塞都市になっていました。
さらに、堀の随所に障子堀という仕掛けが施されていました。
山中城にはその遺構が今も残されています。
障子堀を見た軍は入ることを躊躇し、容易に小田原城には近づけなかったといいます。

その鉄壁な様子に、秀吉は小田原城を力攻めで落とすことをあきらめます。
そして、小田原攻めの後、秀吉は大坂城に”惣構”や”障子堀”を取り入れています。
それほど堅固だったのです。
しかし、敵が堀を越えてきた場合、領民もたたかわなければなりませんでした。
秀吉が攻めてくる直前に、北条氏直は、町人、商人、職人たちに対し、弓や槍、鉄砲を準備して命令が下り次第忠節を尽くせというお触れを出しています。
領民も重要な戦闘要員だったのです。
北条軍は、街をあげて秀吉軍と戦う覚悟だったのです。
城内には、北条軍と町人らを含めて6,7万人が籠城していたといわれています。
北条はそれだけの人が1,2年食べられるだけの上臈を備蓄していたのです。

しかし、信玄や謙信と籠城戦をした時と、秀吉と戦った時ではかなり状況が違います。
謙信や信玄の兵は農民でした。
その為、戦いの差有為中でも農繁期で国に帰さなければならず、小田原攻めを中断したのです。
秀吉は、信長の影響を受けて早くから兵農分離策を取っていました。
農繁期などを気にせずに戦いに専念できたのです。
北条氏は、ある程度の期間籠城すれば、豊臣軍も撤退していくと考えていました。

長期戦で不可欠なのは、兵糧の確保です。
その重要な任務を任されたのが、豊臣家家臣・長塚長束正家でした。
算術が得意な長束は、秀吉から年貢の管理や太閤検地の実施を任され、後に豊臣政権の五奉行の一人に抜擢される人物です。
長束は、すぐに20万石の米を集め、数千隻の船を使って駿河・清水港に送ります。
そこから陸路で、北条の国境にある沼津まで運び、小田原へ向け進軍してきた諸大名に配給しました。
さらに、長束は黄金1万枚を使って伊勢、尾張、三河、駿河で戦場での荷物運びや工事を担う人手や馬を調達し、小田原近くに送り込みます。
長束の見事な段取りと、秀吉の莫大な資金力により豊臣軍は万全の準備を整えていました。
また秀吉は、長期戦に備え、小田原城下に豪華な屋敷を建設・・・
そこに側室の淀の方や松の丸殿を呼び寄せたり、茶人の千利休まで同行させ度々茶会などを開いたりしていました。
従軍していた諸大名にも屋敷を建てることを許可・・・
中には兵糧の足しにと畑を作るものまでいたといいます。
こうして余裕をもって小田原攻めに臨んだ秀吉でしたが・・・
その後、焦りを見せ始めることになります。

秀吉は、小田原城を完全に包囲する一方で、さらに北条氏を追い詰めるべく関東に点在する北条氏の支城を攻略するよう別動隊に命じていました。
その主力となったのが、加賀・前田利家を総大将とする北国軍です。
利家は、上杉景勝、真田昌幸らを従え北条領へ向け進軍・・・
4月のはじめ・・・上野国に入ると松井田城を包囲します。
しかし、思いのほかてこずり、落城させるのに半月もかかってしまいます。
その後、上野国の城を次々に落としていきましたが、武蔵国で再び立ち往生・・・
鉢形城を落とすのに、またもや半月以上費やしてしまいました。
それを聞いた秀吉はいら立ちます。

「北条の枝城如きさっさと片づけんか!!」by秀吉

しかし、それを受けその後八王子城攻めに臨んだ利家は、味方に1000人以上の犠牲者を出してしまいます。
秀吉が焦っていると漢字っと史家が、強引な力攻めを仕掛けたからです。
小田原城を奉仕てから秀吉の心の中である変化が生まれていました。

この時小田原城攻めに従軍していた大名は、もともと秀吉の家臣ではありませんでした。
大名たちにとって莫大な費用が掛かる小田原城攻めは迷惑だったのです。
秀吉も、このまま長引けば諸大名の戦意が喪失し、そこを北条に狙われたら豊臣軍は瓦解してしまう・・・!!
さらには、北条と同盟関係にある徳川家康が、秀吉殿に反旗を翻すらしい・・・とうわさが流れます。
秀吉軍に不穏な空気が流れ始めていました。
その為秀吉は、これ以上長引くと更なる憶測が流れ、諸大名の士気が低下し、豊臣軍の結束が崩れると焦ったのです。

北条軍は小田原評定を開き、今後の戦略が話し合われていました。
しかし・・・ここでも全く意見がまとまりませんでした。

1590年6月・・・
豊臣秀吉に対し、徹底抗戦を続ける北条氏・・・
籠城する小田原城内では次なる一手をどうするか??軍議が開かれますが、なかなか意見がまとまりません。
一方の秀吉も、小田原城を包囲し2か月が経とうというのに有効な手立てを見いだせず焦り始めていました。

双方手詰まりの中、ある人物が動き出します。
長年北条氏と同盟関係にあった伊達政宗です。
政宗は、秀吉からも味方につくように再三促されていましたが、態度を決めかねていました。
北条に援軍を出すのか??
それとも豊臣につくのか・・・??
まだ24歳の若き当主は悩みに悩みます。
6月5に、小田原にやってきた政宗が向かった先は・・・
秀吉のもとでした。
白装束をまとい、斬られる覚悟で参上した政宗は、秀吉への臣従を誓ったのです。
この政宗の寝返りにより、伊達軍と協力して挟み撃ちにするという北条も目論見は崩れます。
完全に孤立した北条氏は、いよいよ追い込まれていきます。
そんな中、北条氏の支城の中でも堅牢とされていた八王子城に続き韮山城が陥落・・・
氏政の弟で城主・氏規が投降しました。
すかさず秀吉は、降伏した氏規を小田原城内にいた氏直のもとに送ります。
講和に応じるよう説得させ、北条氏にゆさぶりをかけたのです。
すると・・・紛糾していた軍議の空気が変わり始めました。

当初、徹底抗戦を強く主張していた氏政と弟・氏照でしたが、氏照が城主を務めていた八王子城が陥落・・・
氏政と氏照の発言力が弱まり、代わって氏直を中心とする穏健派が優勢となっていきました。
そして6月26日の早朝・・・北条氏に大きな衝撃が走ります。

なんと、小田原城を見下ろす笠懸山に豊臣軍の城が現れたのです。
秀吉は、小田原に到着早々密かに城づくりを進めていました。
しかもそれは、関東にほとんどなかった総石垣づくりの本格的な城でした。
数千人を動員して城を作らせています。
莫大な費用を使い、短期間で城を作り上げたことで、秀吉の圧倒的な力を北条氏に見せつけたのです。

一説には、この城は完成直前まで隠され、一晩で作られたような印象を与えたため、後世「一夜城」と呼ばれました。
豊臣家の絶対的な力を見せつけられた北条氏直は、再三の秀吉の降伏要求に次第になびいていきます。
父・氏政は、未だ戦う姿勢を崩しませんでしたが、家臣たちの士気は明らかに下がっていました。
そして、7月5日、北条氏直・・・投降・・・
ついに小田原城を出るのです。
3か月にわたる籠城もむなしく、関東の覇者北条氏は敗北しました。

こののち、奥羽地方を平定した秀吉は、天下統一を果たします。
これは、かつての主君・織田信長もなしえなかったものです。
北条氏は・・・主戦派だった氏政とその弟・氏規は切腹、投降した氏直は、高野山へと追放されます。
誇り高き北条は、歴史の表舞台から消え去ることとなりました。
そして、天下人となった秀吉は、更なる野望を抱き、朝鮮出兵へと突き進んでいくことになるのです。

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天を衝く〈上〉―秀吉に喧嘩を売った男・九戸政実

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日本各地の山々に残された不思議な建造物・・・それは、戦国時代の山城です。
その数およそ5万!!
山城は、戦国武将たちにとって、生き残りをかけた知恵の結晶でした。
戦国最後の戦い・・・奥州・九戸政実の乱!!

1590年7月、関東の覇者・北条氏が滅亡!!
しかし、秀吉は、これで天下統一を成し遂げたわけではありませんでした。
天下の覇権を目指す秀吉の飽くなき野望はとどまることを知りません。
出羽、奥州、東北の果てまで攻略し、仕置きをせよ!!
奥州仕置・・・それは、秀吉の天下統一最後の総仕上げです。
しかし、東北各地では、反乱の火の手が拡大!!
これに対し秀吉は、苛烈な命令を下します。

「百姓以下に至るまでなで切りにせよ!!」by秀吉

戦いの最後の場所となったのは、岩手と青森の県境にある九戸城・・・戦国武将・九戸政実の居城です。
秀吉軍総勢14万VS九戸軍5000!!
圧倒的な兵力差の中、政実はどうやって戦ったのでしょうか?

群雄割拠の戦国時代の東北・・・北奥羽では、九戸氏と南部氏が台頭。
この九戸氏の当主が九戸政実です。
残された資料も少なく、その素性も定かではありません。
ところが・・・室町幕府の有力大名を列挙した記録に織田信長、北条氏政・・・全国の名だたる大名が居並ぶ中、九戸政実の名が・・・!!
政実の実力が、室町幕府に認められていた証です。
北奥羽で勢力拡大を図る政実の運命を大きく変えたのが・・・
小田原の陣の後に行われた、豊臣秀吉による”奥州仕置”です。
仕置きとは・・・大名の領土の確定を行う国分、検地、刀狩りを実施する事です。
国分により多くの大名が領地を没収、転封を余儀なくされました。
奥州の雄・伊達政宗は大きく減封、周りに豊臣政権(蒲生氏郷・最上義光・木村吉清)の支配地が置かれ、東北の勢力図は一夜にして書き換えられました。
秀吉の命令は苛烈を極め、もし命令に背く者があれば、城主であればその城に追い入れて断じ、一人残らずなで斬りにせよ・・・!!
百姓以下に至るまでことごとくなで斬りにせよ!!
後世、”撫で斬り令”とされる欧州仕置きの基本です。
東北各地で反乱が起き始めたのは、仕置きを終えた秀吉軍が帰国してすぐの事です。
出羽国で始まった仙北一揆を皮切りに、庄内・葛西・大崎・和賀・稗貫でも一揆が立て続けに起きます。
どうしてこれだけ拡大したのでしょうか?
秀吉が東北地方に進軍を始める7月・・・北条を攻め落としてから間がありません。
秀吉配下の武将たちは、本州北端まで土足で行って検地・刀狩りをする・・・秀吉体制を強制していっていました。
大きな歴史的変化をたった2か月でやろうとしたのです。
秀吉政権の検地の目的は、全国統一の基準で田畑の広さを図り、土地の耕す権利の明確化にありました。
その結果、年貢の徴収権を持っていた地侍や寺社勢力など、村々の有力者権利は剥奪されていきました。
それが一揆となって爆発しました。
この頃の一揆は、一種の内乱で、葛西・大崎一揆、和賀一揆などは、城に籠って籠城戦を展開していました。
兵対兵の戦いだったのです。
こうした一揆鎮圧のために、あらゆる手段を使う秀吉軍・・・村々から人質を取っていました。
その人質のリストが残っています。
人質の殆どが、老人や子供でした。
東北の一揆の人々が頼りにしたのが、九戸政実でした。
政実の宿敵・南部信直は、北条降伏の翌日・・・1590年7月6日に秀吉に謁見。
その傘下に入りました。
信直に続いて、東北の武将が、つぎつぎと秀吉の軍門に下っていきます。
南部信直の安堵状には、
「南部の七郡はすべて信直に任せる。
 家中の者共の城をことごとく破却し、その妻子はことごとく人質にせよ。
 以上、背けば豊臣政権が成敗する・・・」
一枚の書状によって、九戸政実は、宿敵・南部の配下に入らざるを得なくなります。
政実にとって到底受け入れられるものではありませんでした。

1591年1月、九戸政実蜂起!!
すぐに豊臣政権の知るところとなります。
3月、九戸軍は、南部氏の居城を襲撃!!勝利を得ています。
政実の元には、秀吉に不満を持つ東北各地の武士が集結!!
その数5,000!!
6月20日、秀吉は諸大名に仕置きを命じます。
奥州再仕置です。
この、政実討伐こそ、奥州再仕置の目的でした。

これは、豊臣秀吉よる新しい国家建設の仕上げでした。
目指していたのは古代の律令制にあるような公地公民制・・・
すべての土地は天皇家のものであって、その下の官僚たちが治め、天皇家の代わりに秀吉が関白となって全部差配する・・・という体制です。
これに対して、東北は、非常に古い体質で、厳しい土地柄をみんなで協力して生活していました。
つまり、上下関係や従属関係が厳しくなかったのです。
みんな一緒に暮らし、みんな一緒に生きていくという思想が強かったのです。

九戸政実は、どのようにして秀吉の大軍と戦ったのでしょうか?
九戸城・・・圧倒的な土壁です。
防御の特徴は、その独特の土壌にありました。
火山灰に由来する土壌で、垂直の断面です。
石垣よりもスゴく、守るには理想的でした。
城の総面積は、36ha・・・東京ドーム7個分の広さです。
九戸城は、城の外郭を川で防御した河岸段丘に築かれた強大な城郭でした。
東北の中でも、屈指の大きさのお城でした。
武士だけの城ではなく、いざという時には地域の人たちも一緒に逃げて来て一緒に戦う・・・地域の人の安全保障をする施設・・・それが、東北の城でした。
戦場では、放火、略奪、乱暴狼藉・・・ありとあらゆる暴力が行われていました。
城は、領民にとっての安全な避難場所でした。

1591年8月6日、九戸征討軍の総大将・豊臣秀次、徳川家康が日二本松に到着。
蒲生氏郷をはじめ、名だたる武将が参陣しました。
その数14万!!
対する政実軍・・・5,000!!
1591年8月、秀吉軍14万は、二本松で軍を分け、蒲生氏郷軍を主力(浅井長政・井伊直政)に北上を開始。
時を同じくして出羽方面から秋田実季が、青森や北海道の武将たち・・・津軽為信・松前慶広・・・総勢6万5000の大軍勢!!
戦いの激戦地となったのは、九戸政実の宿敵南部信直が布陣した城の北東部でした。
城内の一見平たんに見える台地上には、大きな堀を巡らせることで、それぞれ独立した曲輪が築かれていました。
敵が場内に進入した場合、四方にある曲輪の上から堀の中の敵を狙い撃ちにすることができました。

9月2日、九戸城に対し、秀吉軍の一斉攻撃が始まりました。
しかし・・・大軍勢で九戸勢を侮り、城の堀に力づくで登ろうとし、城内の手練れに弓矢鉄砲で倒され手数を負うこととなります。
戦線は膠着状態に・・・!!
圧倒的な兵数で勝る秀吉軍なのに、九戸城を前になすすべなし!!
そこで・・・政実の菩提寺・長興寺の住職を城内に向かわせて、降伏を勧告します。

「早く降伏し、天下に対し逆心無きことを都に上り申し開きすべし。
 そうすれば、一族郎党の命は助かり、また、九戸の武勇が関白のお耳に入れば功名となり、領地が与えられるはずである。」

しかし、政実の家臣たちは、降伏勧告に対して強硬に反対します。
果たして降伏を受け入れるのか?否か??

秀吉軍にとっての大問題は兵糧でした。
豊臣家の重臣・浅野長政の書状にも・・・
「九戸城へ上方軍の大軍が殺到すれば、兵糧の手配は各々で準備させなければならない。」とあります。
戦国時代、武士の兵糧至急は、1日5合。
現地に派遣された豊臣兵・・・6万5000となると、1日325石が必要・・・米俵にして812俵、運搬するのに400頭以上の馬が必要でした。

あとひと月すれば雪が降る・・・上方の兵は、とてもこの寒さには耐えられない・・・。
日本国中を敵に回して戦い・・・後詰もない中、どう終わらせるのか・・・??

1591年9月4日、政実は降伏を決断します。
頭を丸め、秀吉軍の前に出頭します。
しかし、秀吉軍の大将・蒲生氏郷はこう命じます。
「城から落ちるものがあれば、女子供と言えども、一人残らず切り捨てよ!!」by氏郷
約束を反故にされ、捕らえられた政実は後に斬首・・・享年56と伝わっています。
城内になだれ込んだ秀吉軍は、乱暴狼藉の限りを尽くし、籠城した九戸勢は城の二の丸に押し込められます。
四方より火が離され、そこから逃れようとした者はすべて斬殺されたと伝わっています。

九戸城落城の後、豊臣政権は城の名を「福岡城」と改めさせますが・・・
昔から地元の人は、愛着を込めて「九戸城」と呼んでいます。
お城があって、武士がいて・・・一緒に地域のことを考えて、みんなで決めていく。
しかし、強力な豊臣政権による地域での個々の争いを無くすことの平和。
秀吉の天下統一は、「九戸の乱」「北条氏の戦い」の犠牲の上に成り立っていることを忘れてはいけません。

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その数は、全国で5万にも及ぶと言われています。
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秀吉が関東の巨大国家に攻め込んだ小田原の陣とは・・・??
激戦の地となったのは、関東の雄・北条氏政が築いた山中城です。
戦国最強の山城と言われました。
城を守る北条軍、およそ4000。攻める豊臣軍6万8000!!
圧倒的な大兵力が山中城に攻め入りました。
しかし、戦いの記録には・・・
5、60も鉄砲手負負傷の者有之候・・・屍の山を築いたのは、なんと豊臣軍でした。
広い関東地方を戦国時代に治めるのは、相当な技術が必要でした。
後世語られるよりも、北条は秀吉にとって脅威だったのです。

山城を語らずして戦国、日本を語ることはできません。
日本にある城の数は5万!!2、300人に一つでした。
至る所に城があり、その8割が山城でした。
山城をめぐる競争の中で、日本社会の形が決まっていったのです。

神奈川県西部にある小田原城・・・五代、100年にわたって関東一円を治めた北条氏の本拠地です。
小田原城の本丸は、今の小田原城より北の山の上にありました。
戦国時代は、小田原城の本体は山城だったのです。
当時の小田原城は・・・??
山の傾斜を利用した巨大な堀・・・当時は、現代の見た目よりも高い20m級でした。
さらに、堀の傾斜は45度以上で、関東ローム層の粘土質の土でした。
関東ローム層は、10度の勾配でも、つるつるで登ることはできません。
石垣にも勝る土の城・・・土の城侮ることなかれ!!です。
当時は堀も水堀で、小田原城に入ることは出来そうにありません。
総構・・・城を待ち事囲んだ堀と土塁・・・全長およそ9㎞で、当時最大級の規模でした。
総構の中には、武士だけでなく、町人や農民の生活する場所が設けられていました。
城内では、農民が城の防衛に当たることがありました。
小田原城では、侍と民衆がともに国を守る・・・助け合うシステムが作られていたのです。
総構が完成したのは、4代当主北条氏政の頃で、息子に家督を譲り、後見人として政務を取り仕切っていました。
戦国時代の小田原の様子は・・・
小田原は、守護政道に私欲がなく、民を大切にしたので、津々浦々の町人や職人たちはその恩恵を感じ、西国や北国からも移住してくるほどであった。
民の生活も豊かで、生業は繁盛していました。
更に北条は、領国支配を確かなものにするため、領内に多くの山城を配置。
小田原城を中心とする城郭ネットワークを構築していました。
そのうちの一つが津久井城でした。
かつて、いろいろな仕掛けが施された山城でした。
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古い絵図には、本丸などの曲輪や斜面の堀の様子が描かれています。
曲輪通しが橋で繫がれている部分・・・
堀切に引橋という部分が残っており、味方が渡り終えたら橋を引いてしまう・・・。そんな形になっていました。
巨大な山城、小田原城との城郭ネットワーク・・・その数は、最盛期で90以上に上りました。
しかし、同じころ、さらなる巨大勢力が誕生していました。
信長の次に天下人となった、関白・豊臣秀吉です。

秀吉は、四国、九州を立て続けに平定・・・そして、次なる強敵・北条氏に豊臣家に対する従属を要求してきました。
しかし、氏政は、この要求に応えようとはしませんでした。
秀吉による天下統一というものを、北条は疑問視していました。
「自分たちの国が立派に機能しているのに・・・??
 領民たちも不満なく暮らしているのに・・・??
 どうして秀吉の天下に納まらなければいけないのか・・・??」
業を煮やした秀吉は、ついに北条討伐を決定!!
北条に宣戦布告城をたたきつけ、関東の狼藉者を討つと宣言します。

1590年3月、豊臣秀吉、関東へ出兵!!
兵数およそ22万!!小田原へ!!史上空前の大軍勢でした。

北条では、城のメンテナンスをする場所を、村ごとに割り当てていました。
直すことで、いざ、敵が攻め込んできたときに、その城に逃げ込む権利を有しているのです。
村人の安全保障をしてくれる城・・・他とは全然違う城郭ネットワークだったのです。

秀吉の襲来に備え、北条氏は各地の山城の整備を急ぎます。
鍬や簀子をもって、城の普請に努めよ・・・工事の主体となったのは、地元の民衆でした。
中でも力を入れたのは山中城・・・小田原城を防衛する最前線の城でした。
箱根の西に当時の東海道を遮る形で作られていました。
山中城は本丸を中心に作られた防御陣地や、曲輪によって豊臣軍の侵入を物理的に封鎖しています。
海道を通ってくる敵には岱先出丸で、山からの敵には西の丸で迎撃できるようになっていました。
敵がどこから来ようと守り切る形が出来上がっていたのです。

1590年3月29日、豊臣軍山中城に到着
その数およそ6万8000!!秀吉の直轄部隊を含む、主力部隊です。
対する北条方は僅か4000。兵力には圧倒的な差がありました。
当時の戦況を記した資料(豊臣方に従軍した侍)には・・・
城内から鉄砲がつるべ撃ちにされ、鬨の声がどっと上がりました。
岱崎出丸から北条の鉄砲隊が構えていたのです。
山中城は、空堀や土塁、やぐら台で接近を防ぎました。
城跡からはたくさんの鉄砲玉が発掘されています。
北条軍は、善戦した戦いで・・・強行突破をしようとする秀吉軍!!
秀吉の指揮所からほら貝が・・・!!
全軍に総攻撃の命令が!!
しかし、それを待っていたのは、北条の一斉射撃でした。
豊臣方先鋒・・・一柳隊の大将・一柳直末は、この戦いで討ち死にしています。
城攻めで大将格が討たれることは、戦国の世でも稀でした。
射撃から身を隠した隊は、2時間も足止めを喰らいます。
そして目にしたのは・・・突入した豊臣兵たちの屍でした。

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豊臣勢を恐怖させたのは・・・障子堀という独特の作りです。


空堀を障子のように区切る畝が、敵の動きを封じると言います。
城内の殆どの曲輪にこの堀がありました。
その効果は絶大!!


本来は、滑りやすい赤土で、狭い畝・・・
その上を通ることは不可能でした。
普通、空堀に降りた兵あっちは、堀底を通路のように歩き、守備の弱い場所から突破していきます。が・・・この障子堀ではそうはいきません。
袋のネズミです。
堀底からの移動は困難でした。
とにかく、北条の銃撃を耐えに耐えて隙を見て登っていく・・・その方法しかありませんでした。
多くの犠牲を払った山城攻め!!
北条軍は、豊臣軍を多大いに苦しめました。
甚大な被害を被った豊臣軍は、しかし、兵を投入し続けます。
豊臣方の侍は、三の丸に侵入・・・見方が銃弾に倒されていく中、どん欲に本丸を目指していました。
時間が経つうちに、鉄砲の煙も薄くなってきました。
あとからあとから出てくる豊臣軍に、鉄砲の弾が尽きたのか、北条の動きに衰えが・・・!!
この僅かの隙に付け入って・・・怯む北条方を追いかける体で、二の丸へ強行突入!!
そして、日も暮れようとする頃・・・
敵味方の兵たちが。重なり合いもみ合い、堀に落ち・・・ついに本丸陥落!!
序盤で善戦した山中城は、結果的には僅か半日で落城してしまいました。
この戦いで、北条4000人のうち死者1000人。
豊臣方は、その数倍の犠牲者を出したと言われています。
撃っても撃っても屍を堀越える形でやってくる豊臣軍・・・
そんな戦いの中で山中城は落城しました。
中性的世界と近世的世界・・・非人道的、非人格的な世界、近代に繋がる戦いでした。
山中城を突破した3日後、4月3日に秀吉はついに小田原に到着。
豊臣方の軍勢には、各地からそうそうたるメンバーが!!
小田原城を陸と海から完全に包囲!!
さらに秀吉は、自らの陣に城を築き始めました。
石垣山一夜城・・・北条に先端技術を見せつけるような、総石垣づくりの城でした。
秀吉はそこで、茶会や能を催す余裕でした。
一方では、北条領内の山城群にも攻撃をかけます。
絶体絶命の北条・・・応戦か降伏か・・・決断をするのは、四代当主氏政!!

小田原城は、これまで上杉謙信も、武田信玄も跳ね返して来た・・・
籠城戦を貫いて応戦する??
1561年には上杉謙信が11万3000の兵で小田原城を包囲、1569年には武田信玄が小田原攻めを企てていました。
北条はこれらの侵攻に籠城で応戦し、敵を兵糧不足にしたと言われています。
豊臣軍に囲まれた今回も、それを狙っていました。
籠城戦ならば、あとは後詰さえいれば勝てる!!
我が方には奥州の雄・伊達政宗がいるではないか!!
小田原城に秀吉軍を引き付けて、その隙に背後をつかせれば、勝敗の行方はまだわからない・・・。
伊達政宗は、北条とは良好な関係にありました。
石田三成の書状には・・・
「北条を討伐の後、直ちに黒川に乱入し、政宗の首を刎ねる!!」とあります。
秀吉が滅ぼそうとしていた政宗が北条と結託していても、なんら不思議はありません。
援軍の可能性も・・・!!
しかし、一筋縄ではいかない伊達・・・信じられるのか・・・??

それとも降伏・・・??
九州の島津や、四国の長宗我部は降伏しても、本領安堵されている・・・
我等にも交渉の余地があるのでは・・・??
戦になれば、秀吉は総力戦を仕掛けてくるかもしれない!!
北条にとって想定外だったのは、山中城の戦いで秀吉が見せた犠牲をいとわない人海戦術です。
戦いになれば、小田原城内の民衆たちにも甚大な被害が及ぶかも・・・??

籠城か、降伏か・・・??
北条の存亡をかけた決断が・・・!!

小田原城包囲から2か月・・・
ついに戦況が動きます。
6月9日、奥州の雄・伊達政宗が秀吉の軍門に下ります。
北条に援軍の可能性は無くなりました。
小田原城中では重臣たちによる大評定が行われていましたが、明確な答えの出ないまま・・・
そのうちに、重要拠点だった鉢形城、八王子城などが落城し、忍城を除く全ての拠点が攻略されました。
そして、7月5日、ついに小田原城はついに門を開き降伏・・・北条氏は降伏するのです。
主戦派と見なされた四代当主氏政は、数人の家臣と共に切腹。
息子・氏直は高野山に追放され領土はすべて没収となりました。
関東を新しく統治したのは、後の天下人徳川家康でした。
領国の中心は、小田原から江戸へ移され、山城は次々と廃城。
名残は消えていきました。

2015年小田原市内の発掘調査で興味深い遺構が発見されました。
総構の内側から障子堀跡が見つかったのです。
そこは古くから百姓曲輪と珍しい名前で呼ばれていた一角で、研究者の間では、北条の時代民衆のための避難場所だと推測されていました。
総構の中で大切にされていた百姓曲輪・・・秀吉とは違う民との向き合い方が見て取れます。
民を慈しんだ北条氏・・・もし、小田原城が落とされなければ、日本の歴史は北条氏が目指していた身分の・・・
身分を厳しく分けてゆく社会ではなく、みんなで共同して世の中を作っていったのでは・・・??
五代100年もの間、山城によって守られてきた北条王国・・・その滅亡は、日本の歩む道を大きく変えたのかもしれません。

一人の命令で何千、何万人が死んでしまうような戦い方・・・を平気でする秀吉のような戦い方は、近世にならないとできないものでした。
その近世への決定的な転換点が、小田原の陣だったのです。

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ああ・・・ついに「滅亡」です・・・。

小田原城を、豊臣の大軍が取り囲んだ。
北条軍は、なおも徹底抗戦の構えを見せる。
北条氏説得のため、信繁は小田原城に潜入した。

そうそう、説得したのは黒田官兵衛かもしれませんが、色々あって、信繁も裏でやっていたのかもしれません。
ま、名胡桃城を巡っての当事者ですしね・・・。

「真田源次郎信繁、お久しゅうござる!!」と言ったのは、義兄・小山田茂誠。

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信繁を助けてくれたのは義兄・小山田茂誠でした。


義兄・小山田茂誠は、松が行方不明になった後、所縁のある北条に仕官していました。

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いろいろと話したいことはあるんだけれども、もっと早急のやっつけ仕事が信繁にはありました。

江雪斎がやってきました。
信繁は、氏政の説得に・・・!!

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ああ・・・まさに異形・・・
私の中での異形と言えば・・・

「平清盛」の鳥羽上皇か

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崇徳天皇か・・・

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一応、人間の崇徳にしてみました。
その中に、割って入るほどの形相です。

「殺せ・・・!!」by氏政

真田の息子として殺したいようですが・・・今回は、豊臣の使者として着たことを告げるのでした。
徳川の書状を持ってきたというと・・・殺すのはちょっと待ってくれたようです。

徳川家康が、氏政の命を助けるために奔走していることを告げる信繁。
しかし、絶対に降伏はしないという・・・。

「関東の大名や国衆で、北条に従うものは誰もおりませぬ。
 頼みの伊達政宗も、豊臣に下りました。」by信繁。

伊達政宗に・・・ガーン!!ショック!!な、氏政!!

味方のほとんどの城が落ちたと聞かされた氏政・・・呆然・・・あの因縁の沼田も・・・!!

「引き際をどうか、お考えください。」by信繁

「ついに東国の覇者にはなれなんだ・・・
 返す返すも心残りは・・・

 どうせ秀吉と一戦交えるなら、伊達や徳川と組んで、日の本を分ける大戦をやってみたかったわ・・・!!
 華々しく・・・戦国の世に幕を引きたかった・・・。
 
 秀吉が恨めしいぞ・・・」by氏政

そうね・・・日本人特有の滅びの美学ってとこかしら・・・??
そんな風に思っている男がもう一人・・・真田昌幸って男もいるんだけどね。。。
 
秀吉に頭を下げれば、氏政と氏直の命は助けてくれるという信繁に・・・

「命など、おしゅうない。。。」

と、あくまでも戦いたかった・・・未練な・・・しかし、潔い氏政なのです。


再び義兄・小山田茂誠の元へ・・・
松が生きていたことを知らせます。
上田城にいるとの事・・・大喜びの義兄です。

その蔵で信繁の見たものは・・・

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鉛・・・そこには魚の印が・・・!!


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忍城を任された石田三成!!
殿下のご期待に副ういい仕事ができるんでしょうか・・・??
昌幸・信幸たちは、鉢形城を落とし、八王子城へ・・・!!

しかし、八王子は上杉に任せ、忍城に戻れと殿下のお達しが・・・。
忍城はまだ落ちていなかったのです。

小田原城が落ちていないと聞くと、昌幸は・・・

「氏政も粘るのう・・・
 アヤツは己のための戦をしておる・・・。」by昌幸

と、ちょっと羨ましそうなのです。
そう、こちらもまた戦国時代の古い男なのです。


1590年7月5日・・・ついに氏直が城を出て、秀吉に降伏しました。

が・・・
「氏政は死んでもらおうか。」by秀吉
と、簡単に約束を違える秀吉!!
諫める家康・吉継の話に耳も傾けない秀吉です。

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「五月蠅い!!
 城の明け渡しが済んだら、氏政は切腹!!
 それを見届けて、われらも京へ帰る!!」by秀吉

7月10日髷を落とした氏政は、秀吉の軍門に下りました。

「お命・・・必ずお救い致す・・・」by家康
「生き恥は晒しとうない。」by氏政
「恥は一時でござる・・・生き延びることこそが肝心・・・」by家康
「これ以上関わると・・・貴殿に災難が降りかかる。。。」by氏政
 
ここに・・・戦国最後にして滅びるものと、生き残るもの・・・その考え方の違いがはっきりと見て取れます。

家康以外にも、説得に、景勝、昌幸もやってきました。
説得するにあたり、氏政同様、髻を切り落とすという景勝!!その決意が伺えますが・・・
説得するも、反対に問いかけられてしまいました。

「上杉殿・・・
 むしろあなたに伺いたい。
 秀吉のために生きるのでござるか?
 それでよろしいのか・・・??」by氏政

そう。。。自分のために戦い、自分のために死にたい・・・それこそが自分の人生・・・。

同じことを考えている男がこう言いました。

「死にたければ死になされ。
 されど、生きておれば、まだまだ楽しいものが見られますぞ。
 このまま秀吉の天下が来るとは到底思えぬ。
 ここにいる誰もがそう思っておるはず。
 
 そうではござらんか!!
 もうひと暴れ・・・したいとは思いませんか??」by昌幸

そこにはこの後訪れる関ケ原の戦い・・・そして自分は参加できない大坂の陣・・・それもまた切ない。。。

「お主らの働きぶり・・・あの世でしかと見物させていただこう・・・」by氏政

「ここまで・・・でござるか・・・??」by家康

「ここまで・・・でござる。」by氏政

おお!!一昔前の少年漫画のようです。
まさに、”とも”!!強敵と書いて”とも”!!信頼しているお互いの尊敬を込めた強敵(とも)です。

ちょっと羨ましいと思う昌幸がそこにはいました。

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待っている間の家臣たちはいろいろやきもきです。
が・・・やはり頑固な男・・・氏政でした。

走り去った江雪斎・・・その行方は・・・??
もちろん、生き延びますよ!!

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翌日・・・北条氏政は切腹。
首は京に送られ、聚楽第の橋に晒されたという。。。

最後の汁かけ飯は、一気にいきましたね。
氏政の覚悟が伺えます。

息子の氏直は、出家ののち・・・
この頃の御多分に漏れず高野山へ・・・。

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これによって関東に一代王国を築いた北条は滅びたのでした。
が・・・最後の最後までお家の再興を望んでいた氏直。。。
お家再興を許してもらった時には死がそこまでやってきていました。
氏直が命を救ってもらえたのは、正室が家康の娘であったことが大きい要因となっています。
そういえば、関ケ原の戦いで真田が二つに分かれたとき、昌幸と信幸の助命嘆願をしてくれたのも家康でしたね。
正信の言う通り、結構情に厚い男なのかもしれません。
でなければ、天下人にはなれないというか・・・家臣がついてこないかっ・・・!!


で・・・小田原城で見つけた例のものを吉継に!!

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しかし・・・蔵はもぬけの殻となっていました。
「あぶないところやった・・・」by利休

逃げ出したのは千利休でした。
そう・・・利休はどちらにも武器を・・・まさに、死の商人だったのです。


未だ忍城を落とせない三成!!
夜な夜な堤を崩すので、水攻めにならない・・・
そこに戻ってきたのは昌幸。
全面攻撃をしようという昌幸&三成に・・・
「速やかに開城させて御覧に入れましょう。」by昌幸
使うのは・・・三成の嫌いな卑怯な手・・・
「戦に勝つとは、人の心を制することでござる。
 忠義が邪魔ならそこに付け入るがよろしい。。。
 小田原から土産を持ち帰り申した。」by昌幸

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それは、氏政の兜でした。

城内に持ち込んで・・・血の一滴もついていない兜は、家臣たちを見捨てた証拠・・・と、噂を流します。
卑怯な・・・!!

城は二日で落ちるという・・・。
7月14日、城を明け渡すと連絡があり、最後の城・忍城も開城されました。

目から鱗の三成・・・
昌幸の策を「好かぬ」というも、
「貴殿のおかげで無駄な犠牲を払わずに済んだ。
 それがしに戦の何たるかをもっと教えていただけるか。。。」by三成

そこはさすが、合理主義者なのね、三成。。。
そうそう、きれいごとばっかりじゃ、戦いに勝ってはいけないのよ。
それは、三成を引き上げてくれた殿下を見てもわかるでしょう??
ほんと、殿下は人好きされるかもしれないけど、怖いお人なんだから。


奥州の覇者・伊達政宗は、すべての所領を差し出しました。
で・・・そこでも昌幸、なんだか一つ考えているようです。
やっぱり伊達、徳川と一緒になって大坂城を攻めたいみたい。
だって・・・あの徳川でさえ、先祖伝来の地を召し上げられ、江戸へと飛ばされたんだから・・・。

「わしは伊達に賭ける・・・!!」by昌幸


が・・・とうの政宗は・・・

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ずんだ餅を作っておりました。
あ・・・ずんだ餅を考案したのは政宗って説もあるんですよ・・・??
料理を作るのが大好きで、家臣たちにも料理を振る舞っていた伊達らしいお話と・・・
「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 すわりしままに食うは徳川」をかけているのかしら・・・??
この場面ではついて食べてましたけどね。

そんな秀吉を持ち上げるホスト政宗に、「だめだこりゃ・・・」と、思う昌幸。。。

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で・・・みんなに振る舞うのは片倉小十郎・・・。
昌幸、伊達を取り込むのを諦めたみたいですよ。。。
って、秀吉に頭を下げて上洛するように進言したのは何を隠そうこの片倉景綱!!
なので、取り込もうとしても無駄でしたけどね。。。
ま、伊達も生き残るわけですから、それなりに秀吉に好かれる男でないとダメでしょう。。。

ちなみに私の小十郎はもちろんこちら。
西郷輝彦さんです。

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まさに、伊達家のNo,2・・・直江兼次ポジションね・・・でした。


江戸へと移された家康・・・
しかし、昌幸は、小県は安堵、沼田ももらえるらしいわ。。。
それは・・・それだけ家康が恐ろしかったってことなのよね。。。
小物はガタガタ騒ぐ前に安心させておこうというところでしょうかね・・・??
そして、徳川の与力を離れ・・・徳川を見張れという秀吉なのでした。


ホストな政宗と信繁・・・若い二人の話。。。

「お主の親父、わしが餅をついているのを見てぽかんと口を開けておったわ。。。」
と、ちょっと自虐的・・・
もし・・・北条が先に降参していたら・・・自分の命はなかったかも・・・。
わしの人生綱渡り・・・。
しかし・・・生き残るため!!

「わしだって、どうせ戦国の世に生まれたからには天下を賭けた大戦に望み、何万という大軍を率いて敵を蹴散らしたい・・・お主だってそう思うだろ。。。」と、話し始めました。
「もしわしが、もう20年早く生まれておれば、もうしわしが、もう少し今日の近くで生まれておれば、大広間の首座に座っているのは秀吉ではなくわしであった・・・
 真田の子倅・・・またどこかで会おう・・・!!」by政宗

そうね・・・武田信玄がもう少し後で生まれていたら・・・
伊達政宗がもう少し早く生まれていれば・・・
そうして、二人とももう少し京に近かったなら・・・
それは、歴史において誰もがいう事ですね。

まさに無念!!以外の何物でもないでしょう。


北条の滅亡によって名実ともに戦国の覇者となった秀吉・・・。
時代は、破壊から建設の時代となりました。
関ケ原の戦いまであと10年!!


領民想いの北条が、遂に敗れてしまいました。
この「滅亡」・・・本当に、深いですね。
みんな滅亡しないように、命を懸けて・・・生き残りを懸けて戦っている戦国時代・・・
「滅亡」なんてとんでもない選択のようですが、それも一つの戦国武将の生き方だと思います。
実際、「真田丸」でも北条のことをちょっと羨ましいと思っている昌幸がいるわけですし・・・

ただ、なんとかして生き残るホスト政宗・・・同じような生き残り方を前田もするわけです。
前田の場合は、利長や利常が頑張るわけで、そのおかげで伊達の場合は伊達男とか前田は加賀友禅やお菓子・・・いろいろ文化が発達するのは・・・徳川のホストとして頑張っていたからです。

しかし、時代の流れに乗れなかった・・・そんな北条の滅びの美学は、後の幕末の滅びの美学「新選組」を考えると・・・人気があってもいいのになあ・・・って思うんですけど・・・??


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秀吉はついに、北条征伐を決意する。
全国から総勢二十一万の兵が集められた。
史上空前の対戦が、始まろうとしていた。


さあ!!天下統一に向けての最後の大戦!!
一体どうなることやら・・・??

1589年12月・・・聚楽第にて・・・

maru2













陣立てを任されたのは、石田三成・・・
20万を超える軍勢を、どのように動かすのか・・・??

秀吉としては、実戦経験の少ない三成に、ハクをつけようという親心なんでしょうね。
期待にこたえなければ・・・!!


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総大将は、近江中納言秀次。
彼もまた、実戦経験が少ないので、頑張らせなければならないですね。

家康は、秀次の後見らしいのですが・・・タヌキオヤジかしら・・・??

maru3












今回は、軍勢を二手に分けるという三成。
秀次は東海道から・・・上杉は前田利家と一緒に東山道から・・・。
真田は、今回は、上杉の東山道側に加わるんだって!!
なんとも微妙な立場にある真田ですね・・・。

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この紙(陣立て)には、地図ではなく、どの大名が・・・誰がどれだけの兵を出すか??ということが書かれています。
なので・・・ここに書かれている人数を全部足したら21万になるわけですね。
この戦・・・すべきではないと思っている三成・・・無駄が大嫌いだって、三成。
でもね・・・一番無駄にするのは三成、あなたですよ。

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小田原城・・・秀吉嬢が包囲したのは4月のはじめ・・・18万の兵でした。
秀吉と秀次の率いる本軍は城の西と北を、徳川軍が東を、さらに南側の海は長宗我部・九鬼などの水軍が固めます。
まさに、鉄壁!!
殿下の名に恥じない戦いをしなければ!!と、意気込む三成。。。

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おお!!信繁、本来の馬廻衆の仕事してますよ。
殿下の命令で主将を集めるそうです。
戦いの場であるというのに・・・

「あの辺りは全て桜の木だ・・・
 ひと月早く来れば、満開だったはず。
 さぞ美しかったであろうな。。。」by秀次

秀次は、お公家さんたちとも仲が良くって、和歌をたしなむ風流な勉強家でした。
こんなところにも秀次のにおいを出していますね。
が・・・このドラマではナヨナヨ優しいだけですが、政治もちゃんとできたんですよ??


そして徳川の元にも・・・

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「殿下はまだ・・・このわしをお信じにならぬようだのう・・・。
わしを総大将にはなさらなんだ。」
さすが家康!!殿下というか・・・三成から信用されていないということを見抜いていました。

こんなちょっとしたこと・・・愚痴なんかを聞くのも、馬廻衆だからです。
馬廻衆でもなければ・・・本来の信繁ならば、愚痴ってもくれない関係です。

主将を集め・・・そして殿下は何を話す・・・??

「この度の戦、わしらの相手は北条だけではない。
 伊達政宗、未だ臣従を誓おうとしない陸奥出羽の大名共、奴らもこの強大な軍勢を知れば、いずれ必ず頭を垂れて参る。

 それを待つ!!
 それゆえの長い戦じゃ!!
 あっさり勝負がついてしまっては意味がない!!

 まあ、うちらが負けるわけ、にゃあでね、ゆっくりやるでよ。
 みんな、戦と思いやすな。
 骨休めじゃ。

 という訳で、わしは茶々を呼ぼうと思っておる。
 お前たちもあれだったら、身内を呼び寄せても構わんぞ。
 以上じゃ!!」by秀吉。

ということで、なんだかんだとちゃんと考えている秀吉です。
そう・・・伊達がどうするのか・・・??
それ次第では、家康も寝返るかも・・・??


そんな家康を・・・つれションに呼び出す秀吉。

maru11













「徳川殿・・・
 この戦が終わったら、お主に北条の領地全てを任せようと思っておる。
 ここから見えるところ全てお主のものじゃ!!」by秀吉

「ありがたき事でございます。」by家康

「今後もわしのために働いてくれ。
 江戸はわかるかな・・・??」by秀吉

ということで、関八州をやる代わりに江戸に移ってもらうから・・・!!と言われてしまいました。

「駿河や美川はもう要らんだろ。
 江戸も良い所らしいぞ。」by秀吉

ああ・・・やられてしまいました。

これって、信長の・・・出雲、石見に国替えされそうになった明智光秀みたいですね。。。
結局、みんな同じようなことをやっているのに・・・
例えば光秀の国替えと家康の国替え・・・前田利家の裏切りと小早川隆景の裏切り・・・
他にも、神をも恐れぬ寺の焼きうちなんかは織田信長、松永久秀、伊達政宗・・・いろいろ同じようなことをやっている人が多いんですが、どうしてそれがいろんな風に卑怯者呼ばわりされ後世に残るのか・・・??
そこはやっぱり歴史は商社の歴史ってところが関係しているのかもしれませんね。

その頃小田原城の北条氏政は・・・
maru12













戦が長引けば・・・自分たちについてくる人も出てくるんじゃないか・・・??と、思っていました。
希望の星は伊達政宗!!

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しかし、江雪斎は、ご隠居様が秀吉を甘く見ていると氏直に進言!!
軍議を開くこととなりました。

上杉率いる東山道軍は・・・松井田城・鉢形城・忍城攻略!!突き進んでいました。

あとは忍城・・・!!
忍城攻めを信幸に任す昌幸・・・
ここでも世代交代が起こっていました。

5月に入った小田原城では、毎日のように軍議がなされていました。
籠城か・・・撤退か・・・??
まさにこれがホントの小田原評定です。

そんな中・・・蹴鞠に興じる氏政・・・そんな父が分からなくなってきていた氏直・・・。

「ご隠居様・・・
 板部岡江雪斎を侮られては困り申す。
 戦を忘れ、蹴鞠に興じるは誰より戦のことを気にされておられるから。
 薄化粧は、やつれたお顔を隠すため。
 お部屋に立ち込める香は、体のにおいを隠す役目。
 この季節、ひと月も湯浴みもされぬというのは尋常ではございませぬ。」by江雪斎

ああ・・・ここに、氏政のことを誰よりもわかってくれている人がいるじゃないの・・・??

「もしも、湯につかっている間に敵が攻めてきたらと思うとな・・・
 わしが誰よりもおびえていたら、家臣たちの指揮に障るでな。。。
 上に立つものの辛さよ・・・。

 降伏はせぬ。。。」by氏政

「この戦、負けを先延ばしにできても、もはや勝つことはできませぬ。」by江雪斎

「いずれ伊達が来る
 伊達さえ来てくれれば・・・!!」by氏政

最後まで誇り高き北条!!
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そんなことはお構いなしの秀吉。
茶々がやってきましたよ。
阿国まで・・・戦を楽しんでいる秀吉。

茶々は・・・
退屈だからと千利休の元へやってきました。
流石、豪商!!
ここでもせっせと働いているのかしら??
珍しい唐物がいっぱい!!

「戦はいつ始まるの??」と、信繁に聞く茶々。
「これが戦??浮かれ騒いでいるだけに見えるけど。
 折角来たからには、城が焼け落ちるところまで見ておきたいわね!!」by茶々
 
この”これが戦??”には、どんな意味があるんでしょう??
父が・・・兄が・・・義父が・・・母が・・・命を懸けて戦った戦とは全然違う!!
ふざけているのか・・・??と、怒っているように聞こえたのは私だけでしょうか・・・??

6月に入り・・・
一向に落ちない忍城・・・イラつく三成。。。
「戦は机の上の軍略通りには運ばんものじゃ!!」by吉継
そうね・・・無駄の嫌いな三成には、わかんない事ばかりの戦場です。

6月9日・・・ついに東北の雄、伊達政宗が秀吉の陣を訪れる

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おお!!白装束で伊達政宗劇場の始まりです。

パフォーマンス好きの秀吉のツボに、はまったみたいで、今回は許してもらえそうですよ。

伊達さえも秀吉に膝まづく・・・
茶々は、世の移り変わりを感じずにはいられませんでした。
滅びゆく北条の小田原城・・・それは、かつての小谷城・・・北ノ庄城ではなかったか・・・??

衝撃的な知らせは氏政の元にも・・・!!
ゆっくりとする意味も無くなった秀吉は、遂に小田原城を攻めるか!!

「北条方でほかに残っている城は、忍城、鉢形城などあとわずかでございます。
 そちらを先に落とすのはいかがかと。。。
 さすれば、北条は進退窮まり小田原城も開場と相成りましょう。」

と、吉継が北条を想って進言し・・・家康もこれに賛同!!
しかし、忍城はまだ落ちず・・・三成が戦場で采配を振るったことがないので、忍城を落とさせようと考えます。

「降伏するぐらいなら・・・城に火を放ち、わしは腹を切る。
 愚かであっても誇り高き死をわしは選ぶ。
 今更、秀吉に頭を垂れるつもりはないわ!!」by氏政

「ご隠居様は、かの早雲公以来代々の名家・北条を滅ぼされるおつもりか・・・・・!!」by江雪斎

「従いはしよう・・・ だが、今後北条は、上杉と同等の扱いとされるべし。
 本領は安堵、以後も豊臣家の重臣として丁重に扱うように。
 それならば、頭を下げよう。」by氏政

そうでなければ、城を枕に討ち死にを・・・!!
まさに、孤高の戦国大名な北条です。

この条件をもちろん飲まない秀吉です。
なんとか北条を守ろうとする家康や吉継たち・・・
「お前らは北条びいきか・・・!!」by秀吉
と、茶々と箱根の温泉に行ってしまいました。


真田昌幸、信幸、上杉景勝、直江兼次・・・彼らは未だ忍城近くにいました。
どうして先に進まないのか・・・??という三成。
既に、三成の計算から15日も遅れていました。
一日遅れことがどれだけの無駄になるのか・・・??
20万の兵の兵糧を取り上げて説教しますが・・・

小ばかにしたような昌幸、無表情の信幸、絶対だめだこりゃと思った兼次!!
「もうわかった!!」と、怒り出した景勝。。。

鉢形に向かうように言われます。
そして忍城は自分に任せろという。
忍城を、殿下の望み通りに水攻めにしようという三成。
どれだけの時間がかかるか・・・??本能的に感じている昌幸。
意見も聞かず、4日で落ちるという三成に・・・お手上げ状態の4人です。

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小田原の大谷吉継の陣にやってきた信繁。

家康の使者が、小田原城に入ったようです。
氏直は降伏に乗り気ですが、ご隠居は頑な・・・。
吉継に、小田原城に入り、氏政を説き伏せてくるように言われる信繁・・・。

??この人も、行ってましたけど・・・??

gunsi













ま、どちらにせよ、この秀吉を語るうえで、北条攻めがキーポイントであることに違いない事を語ってくれています。

氏政の心を動かさねばっ!!
吉継&家康の想いの手紙を胸に、小田原城へ!!

江雪斎と共にまずは氏直に・・・
降参したい氏直。。。
城と最期を共にしたい氏政。。。
信繁に頭を下げる氏直と江雪斎・・・最後の説得に向かう信繁。
しかし、反対派に襲われてしまいましたっ!!
信繁、大ピンチ!!

そこへ佐助登場!!
逃げる信繁!!

そんなドタバタで出会ったのは・・・??

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義兄上でした。

この回の新キャラは・・・伊達政宗でしたね。
政宗・・・三日月の前立て、黒づくめでカッコいい!!奇天烈なパフォーマーな政宗ですが(それは、渡辺謙政宗・・・??)、本当は、とっても細やかな気遣いのできる男でした。

おまけに秀吉とは親子ほども年齢も違うので、あんな感じ・・・つまり、ちょっとひよっこ感があっても当然だと思います。
若さあふれる暴れん坊だった政宗も、この白装束で、生き延びる道を選びました。

それと対照的なのが、氏政ですね。
年齢的なものがそうさせるのか・・・今まで生きてきた歴史がそうさせるのか・・・
頑なな氏政。。。誰もが秀吉にひれ伏する中、孤高を貫くのでした。

そんな氏政、もっとかっこよく描いてくれている文献があってもいいのになあ・・・。




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