日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:吉田茂

1945年9月29日、日本国民を驚愕させた一枚の写真が新聞に掲載されました。
昭和天皇と連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥のツーショット写真です。
この時、天皇44歳、マッカーサー65歳でした。
写真は、天皇がアメリカ大使館を訪ね、マッカーサーと初めて会見した際に撮影されたものでした。

「古今未曽有」by高見順
「ウヌ!マックアーサーの野郎」by斎藤茂吉

と憤りました。
それもそのはず、現人神として崇められてきた昭和天皇に対し、マッカーサーはノーネクタイに開襟シャツのかゆアルな恰好で、両手を後ろに回し・・・傲慢にさえ見えました。
国民は大きなショックと怒りを抱いたのです。
その世紀の会見の中身とは・・・??



終戦の玉音放送から15日後の8月30日、戦後日本の命運を握る男がやってきました。
ダグラス・マッカーサー・・・GHQの最高司令官です。
GHQとは、連合国軍最高司令官総司令部のことで、敗戦国日本を占領管理するため、米・英・中・ソ・仏などの戦勝国によって設置された機関です。
その最高権力者となったマッカーサーが、神奈川県の厚木飛行場に降り立ちました。

午後2時5分・・・アメリカ軍の輸送機バターン号に乗って、予定より1時間ほど早く到着。
濃いサングラスにノーネクタイ、コーンパイプをくわえたマッカーサーは、ゆっくりと周りをも私て、悠々と降りてきました。
この時の印象的な登場は、マッカーサーが周到に計算した演出でした。
厚木を後にしたマッカーサーが向かったのは、東京入りするまでの狩りの宿舎・横浜のホテルニューグランドでした。
現在も、マッカーサーが利用した部屋が残っています。
しかし、どうしてこのホテルだったのでしょうか?
進駐軍が、最初の滞留地として横浜としたのは、最高司令官の宿舎としてニューグランドが相応しかったからと伝えられています。
ホテルニューグランドが、主に外国人に向けて建てられたホテルだったこと、そしてアメリカの攻撃対象から外されていたため焼けずに残っていたことが大きな理由でした。
マッカーサーは、横浜港に面した部屋をとても気に入っていました。

マッカーサーは、毎日朝食に2個の卵を食べました。
しかし、その卵を用意することができないほどの食糧難だった日本・・・
そこで、進駐軍から日本に大量の食べ物が届けられることになります。
マッカーサーはこのホテルに来たのは初めてではありませんでした。
夫人と泊まった思い出のホテルでした。
1937年、マッカーサーがフィリピン軍事顧問だったころ、当時のケソン・フィリピン大統領の訪米にお供し、その帰りに日本に立ち寄っていたのです。
一緒に来ていたジーン夫人は、二度目の結婚相手でした。
新婚旅行をしていなかったので、ハネムーンとしてこのホテルに1泊しました。

1945年9月2日、マッカーサーが日本にやってきた3日後、日本の降伏調印が、アメリカの戦艦ミズーリ号で行われました。
その調印式の開会を告げるマッカーサーのスピーチが映像に残されています。

「私は連合国最高司令官として、私の代表する諸国の伝統に従って、正義と寛容をもって私の責任を果たし、降伏条件が完全、迅速、かつ誠実に遵守せられるようあらゆる必要な措置を取る決意である」byマッカーサー

日本側からは、外務大臣の重光葵が調印・・・ここに大日本帝国は終焉しました。

9月8日・・・マッカーサーは、東京に入ると、日本での住まいとなるアメリカ大使館・そして、皇居の向かいに立つ第一生命ビルを接収しこれをGHQ本部としました。
最大で40万にもなったという米軍部隊も日本全国に上陸・・・占領体制は着々と整備されていきました。
マッカーサーは、土日も休まず、毎日判を押したように決まった時間に行動したといいます。
毎朝10時にはアメリカ大使館をでて、GHQ本部である第一生命ビルへと向かいました。
仕事をするのは、マッカーサールームと言われる執務室でした。
午後になると大使館に帰ってすぐに昼食を取り、短い昼寝をした後もどり、夜遅くまで仕事をしていたといいます。
唯一の息抜きが、夕食の後の映画・・・西部劇が大好きだったといいます。
30人は入れるという部屋に、スクリーンと椅子を用意して、夫人やスタッフと一緒に見たといいます。

敗戦からおよそ1か月・・・GHQによる本格的な日本統治が始まりました。
実質的にはアメリカの単独占領・・・その為、GHQのTOPにいたマッカーサーの命令は絶対でした。

「私は日本国民に対して事実上、無期限の以遠力を持っていた
 歴史上、いかなる植民地総督も、征服者も、総司令官も、私が日本国民に対して持ったほどの権力を持ったことがなかった
 私の権力は至上のものであった」byマッカーサー

それでもマッカーサーは、ミズーリ号での調印式や、第一生命ビルの接収だけでは、支配者マッカーサーのイメージを日本の指導者と国民の目に焼き付けるには不十分だと考えていました。

「早急に、天皇と会見をする必要があるのだが・・・」

実は、マッカーサーは、GHQの幕僚たちからこう強く勧められていました。

「我々の権力を示すために、天皇を総司令部に来させたらどうか?」
「敗戦のみじめさを思い知らせろ」

という声まであったのです。

しかし、マッカーサーは迷っていました。
そして、考えた末、天皇を呼びつけるのではなく、天皇から会いに来るのを待つことにしたのです。
どうして呼びつけなかったのでしょうか?
それは、マッカーサーの経歴と深く関係しています。

1880年アメリカ合衆国アーカンソー州で生まれたマッカーサーは、陸軍士官学校を首席で卒業、アメリカ軍に入隊しフィリピン赴任を経て、陸軍のTOPである参謀総長に史上最年少・・・50歳で就任。
エリート軍人でした。
太平洋戦争勃発後は、5回目となるフィリピンへ・・・
こうして、長年フィリピンに滞在していたマッカーサーは、アメリカ陸軍きってのアジア通を自負していました。
アジア人の心理をよく理解していたと言われています。

「幕僚たちが、権力を示すために天皇を招きよせたら、と強く勧めたが、そんなことをすれば、日本の国民感情を踏みにじり、天皇を国民の目に殉教者に仕立て上げることになる」byマッカーサー

マッカーサーは、日本は天皇崇拝のおかげで、戦後も無政府状態にならず、粛々と敗戦を受け入れたのだと考えていました。
その為、無理やり天皇を呼びつければ、日本国民の反感を買い、今後の占領がやりにくくなると考えたのです。

「私はまとう 
 そのうち天皇が自発的に私に会いに来るだろう
 西洋のようにせっかちにするよりは、東洋のように辛抱強く待つ方が、我々の目的に一番かながっている」byマッカーサー

後に、副官であったバンカー大佐が言っています。

「ゼネラルは、心理的な側面では天皇を通じて占領を極めて効果的に行った」と。



天皇との会見の必要性を強く感じながらも待つことにしたマッカーサー・・・。
実はこの時、日本も早急にマッカーサーと会見した方が良いと考えていました。
日本がポツダム宣言を受諾した最大の理由は、国体護持(天皇制存続)されると思っていたからです。
しかし、同時にポツダム宣言の中には、戦争責任をつき五窮する軍事裁判を行うことも謳われていました。
天皇が糾弾される可能性もあったのです。
日本政府は、”天皇が軍事裁判で糾弾されるのか”をGHQから探りたかったのです。

実際、アメリカでは天皇を糾弾せよという世論が高まっていました。
そこで、宮内省関係者は、日本統治において最高権力者のマッカーサーの考えを知ろうと情報集めに奔走・・・
しかし、なにもつかめずにいました。
その為、天皇とマッカーサーの会見実現に踏み切れずにいたのです。
そんな中・・・9月20日。
昭和天皇の侍従長・藤田尚徳のもとに、1本の電話がかかってきました。
電話は時の外務大臣・吉田茂・・・マッカーサーとあってきたというのです。

「マッカーサー元帥に、もし天皇陛下が”あなたを訪問したい”と言われたらどうなさるかと質問したところ、”喜んで歓迎申し上げる”との返事だった」by吉田茂

吉田から電話がかかってくる前に、侍従長の藤田もまたマッカーサーと会っていました。

「マッカーサー元帥は、開戦以来方々の戦場で戦われ、日本に進駐されたが、ご健康はどうであろうか
 炎熱の南方諸島で、健康をそこなわれるようなことはなかったろうか
 また、日本の夏は残暑が厳しいので、十分に健康にご注意ありたい」

するとマッカーサーは、

「私のことを色々ご心配くださって感謝にたえない
 どうか天皇に宜しくお伝え願いたい」byマッカーサー

マッカーサーの丁寧な対応に侍従長は安堵しました。
しかしこれだけでは相手が会見を望んでいるのかわかりません。
なので、吉田からの一報は、嬉しかったでしょう。
こうして、GHQの態度がはっきりしたため、宮内省で計画し、天皇がアメリカ大使館にマッカーサーを訪問することが決まりました。

その運命の日は9月27日・・・!!
昭和天皇は、数人のお付きと共に、赤坂にあるアメリカ大使館に到着しました。
迎賓室の入り口で待っていたマッカーサーと遂に対面します。
握手と簡単なあいさつを交わした後、天皇は部屋に入りました。
この時、お付きとして許されたのは通訳ただ一人・・・
マッカーサーは、天皇に、
「こちらへお立ちください」と言って、天皇の右側に立つと・・・突如、マッカーサー付きのカメラマンがフラッシュをたいたのです。
撮影に関して何も知らされていなかった天皇は、驚きを隠せず、姿勢を正すことができませんでした。
3枚目でようやく体勢を取ることができました。
当初、この写真は、宮内省発表記事と共に、翌日28日の新聞に報じられる予定でしたが、国内行政を担っていた内務大臣の山崎巌が、不敬だとして掲載禁止にするのです。
これまで国民が見慣れた天皇の写真は、御真影と呼ばれた陸海軍大元帥の礼僧服か、白馬にまたがった陸軍官幣式などでの勇士でした。
それが・・・平民と変わらないモーニングにネクタイという姿だったからです。
さらに、現人神である天皇が、直立不動の姿勢なのに対し、マッカーサーはノーネクタイに開襟シャツという軽装、こうした理由から不敬だと差し止めたのです。
しかし、新聞に写真が掲載されていないことを知ったGHQは激怒!!
依然として旧体制を取った考えを持った者がいると、言論に対する一切の戒厳令を撤廃したのです。
こうして、会見から2日後の29日、2人の写真が掲載されました。
これを見た国民の多くは、日本が戦争に負けたことを改めて実感させられたといいます。



昭和天皇・マッカーサー 第1回会見

この写真を撮ったのち、天皇とマッカーサーの第1回会見が始まりました。
会見のお真名内容は、天皇が開戦を遺憾としていることや、ポツダム宣言の履行についての確認でした。
マッカーサーは、天皇のことをエンペラーと呼び、天皇に全てを訳し伝えよと強い口調で通訳に伝えると、演説めいた口調で10分にもわたり話し続けました。

後にマッカーサーは、この時のことを振り返り言っています。

「私は天皇が戦争犯罪者として起訴されないよう自分の立場を訴え始めるのではないか、という不安を感じた」

驚くことに、天皇が命乞いをしに来たのでは??と思っていました。
実際に天皇を戦犯として声高に叫んでいる者もいました。
そんなマッカーサーの先入観を、天皇は覆します。
耳をを疑うようなお言葉でした。

マッカーサーの回想記によると・・・

「私がアメリカ製の煙草を差し出すと、天皇は礼を言って受け取られた
 その煙草に火をつけて差し上げたとき、私は天皇の手が震えているのに気が付いた」

マッカーサーからの薦めで、普段は吸わないたばこを手にした天皇・・・
隠せないほどの緊張が和らいだのは、マッカーサーがこんな思い出話をしたからでした。

「私は、日本とは40年来の縁があるのです。
 最初の日本訪問は、日露戦争の時、父が従軍武官としてきた際、その副官としてきたのです。
 戦争後には、私は一度、天皇の父君に拝謁したこともあるのですよ」byマッカーサー

そんな話をするうちに、天皇の警戒心は薄らいでいき、空気も和らいできました。
すると天皇は、

「私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の採決に委ねるためお訪ねした」

なんと、戦争責任のすべてを追うというのです。

「死を伴うほどの責任
 明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとするこの勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした
 私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の死角においても日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである」byマッカーサー

気付けば、会見の時間は予定より大幅にオーバーしていました。
35分に及ぶ会見で、天皇とマッカーサーは、心を通わせたのです。
会見が終わると、マッカーサーは大使館の玄関まで見送りました。
予定外のことでした。

天皇との信頼関係が築けたということは、日本国民の信頼も勝ち得たと判断したのかもしれません。

この会見の成功が、敗戦国日本の歴史を大きく変えることとなったのです。

昭和天皇とマッカーサーの第1回会見のおよそ7か月後・・・
1946年5月3日、東京市ヶ谷の旧陸軍士官学校大講堂を法廷にして、極東国際軍事裁判・・・東京裁判が開かれることになりました。
                                                                
ポツダム宣言に基づき日本の戦争責任を追及するというものでした。
注目されたのは、最大の戦争責任ありとされた昭和天皇の処遇でした。
連合国側では、天皇を戦争責任者として裁判にかけ、処刑、追放すべきだという声が高まっていました。
マッカーサーは、終戦後、天皇が日本の国際法違反に関与していないか、戦争責任はあるか、全ての証拠を収拾せよと、アメリカ本国から命じられていました。

1946年1月25日、マッカーサーは、アイゼンハワー陸軍参謀総長にこう回答しています。

「天皇の犯罪行為について調査したが、過去10年間、天皇が日本の政治決定に関与した明白な証拠は見つからなかった
 天皇告発は、日本人にとって大きな衝撃を与え、天皇制の崩壊は日本を崩壊させる」byマッカーサー

マッカーサーは、日本は降伏しても天皇制は存続すると信じたからポツダム宣言を受諾した。
その為、もしこれを裏切り、天皇をさばけばゲリラ戦が各地で勃発するだろう・・・それを制圧するためには、膨大な費用と人材を要することになる。
占領を容易に遂行するためにも、天皇を裁判にかけるべきではないと考えていました。
そこでマッカーサーは、様々な手を打ちます。

第1回会見から3か月後の1946年1月1日。
昭和天皇を発意として新日本建設に関する詔書が出されます。
天皇自ら現人神であることを否定した人間宣言です。
原案は、GHQによって作られました。

①「人間宣言」により新たな天皇像を作り上げ、天皇の独裁者のイメージを払しょくしようとした                      
そして、天皇制を存続させ、天皇が裁判で糾弾されないよう、東京裁判のために来日したアメリカのキーナン首席検事にその意向を伝えました。
これによって、アメリカ政府も天皇に戦争責任を問わないとします。
しかし、問題はまだありました。
東京裁判で審判をする連合国のうち、ソ連とオーストラリアなどはいまだ天皇の戦争責任を追及する構えだったからです。
②そこでアメリカは、天皇を裁かないことを前提に、裁判を進めるよう他国を説得し同意させました。
裁判が始まると、天皇を裁かないことに矛盾を生じてきました。
東京裁判を行う上で、大きな課題となった昭和天皇に対する戦争責任の追及・・・
この時、天皇を糾弾せよという声を制したのは、天皇との会見を済ませたダグラス・マッカーサーでした。
マッカーサーの働きかけによって、裁判は天皇を糾弾しない方向で始まります。
ところが・・・回線当時の総理であった東條英機への検察尋問で、状況が一変します。

「天皇が望んでいないのに、あなたは戦争をすることを選択した
 あなたはそのことについてどう思っているのか??」

「私は忠実な軍人で、陛下に背いたことはない!!」by東條英機

これは即ち、天皇の命令で戦争を行ったということ・・・
これでは天皇の戦争責任を追及しなければならなくなってしまいます。
そこで、アメリカのキーナン首席検事は、検察尋問を打ち切り、法廷が正月休みの間に登場と親しい文人や官僚を使い説得させたのです。
東條は渋りながらも、最後には天皇を訴追させないためこう証言します。

「陛下には責任なし 全責任は自分にある」by東條英機

こうして、なんとか天皇を出廷させずに済んだのです。

マッカーサーは、日本の占領において、民主化にも力を注ぎました。
それは、日本を二度と戦争国家にさせないため・・・
民主化という名のもとに、日本の軍国主義を徹底的に破壊、壊滅することが大命題でした。
武装解除を行い、背後にある財閥やそれを運用する人間の追放を徹底的に行いました。

憲法改正もその一つでした。
マッカーサーは、占領当初から、時代遅れの封建的な明治憲法を改正するべきだと口にしていました。
民主的な憲法を作るべきだと・・・
これを受けて、日本政府は新たな憲法の草案を作りますが、明治憲法を変わらないと却下されます。
そこで、GHQ主導で、新憲法の制定に取り掛かることになります。
別名マッカーサー憲法と呼ばれた日本国憲法の草案の最初に掲げられたのが、天皇の地位に就いてでした。

”天皇は国家元首の地位にあり、皇位は世襲される
 天皇の職務および機能は、憲法に基づき行使され、憲法に示された国民の基本的意思に応えるものとする”

憲法草案の作成に携わったGHQのホイットニー局長は、草案が守られれば天皇は安泰になるだろうと言ったと言われています。
その外にも、戦争の放棄、封建制度の廃止
大原則が掲げられたこの草案に、当時の幣原内閣は驚きました。
自分たちには考えも及ばないような形で、日本や日本国民の権利が書かれていました。
新しい日本の憲法草案は、当時世界の中でも斬新的な民主憲法でした。

新憲法についても天皇とマッカーサーは話し合ったといいます。

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1946年10月16日第三回会見
2時間にわたった会見で、天皇は
「日本国民は、戦争放棄の実現を目指して、その理想に忠実でありたいと思う」
これに対しマッカーサーは、
「戦争放棄を決意する日本国憲法は、歴史的な意味を持つだけではなく、戦争を放棄したがゆえに道徳的な評価を受けていて、その面で国際社会のリーダーになり得る」

日本国憲法は、その年の11月3日に公布され、翌年の5月3日に施行されます。

こうして天皇は、国民の象徴となったのです。
強い信頼関係で結ばれていた天皇とマッカーサー・・・
2人の会見は、回を重ねるごとに深みを帯びていき、打ち解けていきました。
第四回会見以降、マッカーサーは、陛下と敬称で呼ぶようになりました。

1951年4月11日、マッカーサーは、GHQ最高司令官を突如解任。
朝鮮戦争の進め方について、当時のトルーマン大統領と意見が対立したことが原因でした。
この突然の報せに、日本側は驚きます。
1951年4月15日・・・昭和天皇は、マッカーサーに別れの挨拶に向かいます。
11回目・・・これが最後の会見となりました。
そして、その翌日・・・マッカーサーは、あわただしく日本を去っていきました。
羽田空港へと向かう沿道には、新聞発表で二十数万人の人々が星条旗と日の丸を手に、マッカーサー一行を見送ったといいます。

どうしてこれほどまでに人気だったのでしょうか?
マッカーサーの政策が、自分たちのためになっているありがたさを日本国民は身をもって知っていたのです。
こうしてマッカーサーは、日本統治において大成功を収めて帰っていったのです。

「私はいつも占領政策の背後にあるいろいろな理由を注意深く説明したが、天皇は私が話し合ったほとんどどの日本人よりも民主的な考え方をしっかり身につけていた
 天皇は、日本の精神的復活に大きい役割を演じ、占領の成功は、天皇の誠実な協力と影響力に追うところが極めて大きかった」byマッカーサー

「東洋の思想にも通じているあのような人が、日本に来たことは日本の国のためにも良かった
 一度約束したことは必ず守る、信義の厚い人だ 
 元帥との会見は、今なお思い出深い」by昭和天皇

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太平洋戦争に敗れ、焦土と化した日本・・・
誰もが意気消沈する中、「戦争に負けて外交で勝った歴史がある」と言ってはばからなかった型破りな総理大臣がいました。
和製チャーチル、ワンマン宰相と呼ばれた吉田茂です。
昭和天皇が日本の敗戦を国民に告げた2日後・・・1945年8月17日に、皇族の東久邇宮稔彦王が、戦後初の内閣総理大臣に就任しました。
外務大臣に任命された重光葵は、アメリカの戦艦ミズーリ号の艦上で、降伏文書に署名しました。
これによって、日本はアメリカを中心とする連合国軍の占領下におかれることになりました。
アメリカの占領政策の狙いは、日本の弱体化でした。
日本が再び世界の脅威とならないように、復興には手を貸すものの、飢餓や病気が蔓延して社会不安が起こらない程度にとどめるというものでした。
絶えるしかない、辛く苦しい時代・・・そんな中、大任を果たした重光が外務大臣を辞職します。
その後任に抜擢されたのが、長年外交官を務め、イギリスやイタリアの大使を歴任していた吉田茂でした。
この時、67歳・・・遅めの政治家デビューでしたが・・・この8か月後、第45代内閣総理大臣に就任します。

吉田を外務大臣として迎えた東久邇宮内閣は、わずか54日間で総辞職。
次いで誕生した幣原喜重郎内閣でも、吉田は外務大臣に任命されますが、こちらも7か月ほどで総辞職してしまいます。
次の総理大臣には、戦後初の総選挙で第一党となった日本自由党総裁の鳩山一郎がつくはずでした。
ところが・・・組閣の直前で、GHQが発令した公職追放・・・践祚に関わった者を国政から除外するという占領政策に、鳩山が該当してしまったのです。
涙を呑んで、後任選びをすることになった鳩山が、目をつけたのが吉田茂でした。
その理由は・・・GHQを相手にするので、何より英語ができないと首相として失格。
そして何より、公職追放が終わったら、自分に政権を戻してくれる人物・・・本格政権にならなそうな人物だからでした。

「僕は演説が苦手だから、総理大臣は務まらんよ」by吉田茂

そんな吉田の説得役を買って出たのが鳩山派の松野鶴平でした。
松野は、ズル平とあだ名されるほどの策士で、面会すら断り続ける吉田に対し、真夜中に兵をよじ登って吉田邸に潜入。
朝まで懸命に説得します。
その熱意にほだされて・・・1946年5月22日、第1次吉田茂内閣が発足します。
この時、吉田茂は鳩山一郎に3つの条件を出したといいます。
①金はないし金作りもしない
②閣僚の選定には口出し無用
③嫌になったらすぐにやめる
でした。
この、第1次内閣を含め、総理大臣を通算5期務めることになります。
そして、吉田は残りの人生を、戦後日本の独立と復興にかけるのです。

日本を決定した百年 (中公文庫) [ 吉田茂 ]
日本を決定した百年 (中公文庫) [ 吉田茂 ]

1878年9月22日、吉田茂は元土佐藩士・竹内綱の五男・・・9人目の子として東京で生まれました。
父の綱は、幕末に土佐で異国船がやってきた際、小舟に乗って近づき、外国人と酒盛りをしたという豪胆な人物です。
吉田茂の度胸の良さは、父譲りかもしれません。
茂を育てたのは、この綱ではなく、茂は、生まれた時から父・綱の友人だった吉田健三のもとで育ちました。
子供のいなかった健三が、子だくさんの綱に、次に生れる男の子を養子に欲しいと頼んでいたのです。
養父となった健三は、貿易や地域開発によって財をなしていた大富豪でした。
その為、茂は25畳もある洋間が勉強部屋で、着物は高価な絹織物だったといいます。
吉田家の跡取りとして健三に大事に育てられていた茂でしたが、11歳の時、その健三が病に倒れ、40歳で死去。
そして、茂は、莫大な遺産を相続することになりました。
総理大臣の年収が9600円だったのに対し、50万円と多数の不動産があり、現在の貨幣価値で100億円以上だったといいます。
そして、吉田はそのお金を一銭残らず使い切ってしまったといいます。
1964年大勲位菊花大綬章を受章した吉田は、墓前でこういったといいます。

「相続した財産はすべて使い切りましたが、こうして勲章をいただきましたので、ご勘弁ください」

1906年、東京帝国大学を卒業した吉田茂は、超難関と呼ばれた外交官領事館試験に合格します。
外交官の道を選んだ理由は・・・

「大した理由はない たまたまだ」by吉田茂

28歳で外交官デビューした吉田茂、波の外交官ではなく、白馬に乗って通勤し、馬上から上司に声をかけたといいます。偉そうな新人でした。
その為、外務省では、吉田は鍛え直した方がいいとなり、指導が厳しいと評判だった萩原守一のいる中国・清の奉天に赴任させました。
欧米が外交の最前線でした。
しかし、中国・奉天という田舎で、中国の生の姿を知ることで、中国人の民族性を理解することができました。
そして外交官になって3年目、妻を娶ります。
花嫁は、維新三傑の一人大久保利通の孫・牧野雪子。
当初、吉田は、大久保卿の七光りと呼ばれるのが嫌で、お見合いを渋っていました。
しかし、実際雪子に会ってみると、語学が堪能で、かなりの美人だったので、結婚を決めたといいます。
そして、雪子と中国・イギリス・イタリアなどに赴任します。

50歳で、外務次官に就任します。
その胸のうちは穏やかではありませんでした。
日本が軍部の台頭で、戦争に突き進んでいたからです。
親英米派・・・とくにイギリスに傾倒していた吉田茂は、何とか戦争を回避しようと日英関係の改善を図り、日独伊三国同盟にも断固反対していたのですが・・・陸軍の圧力によって、三国同盟は締結。
そして、1941年12月8日、日本の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まりました。
それでも吉田は、終戦工作に奔走し、1945年2月には、盟友の近衛文麿と共に天皇に終戦の決断を求める上層文を作成しています。
しかし、その2か月後・・・4月15日、吉田は自宅に踏み込んできた憲兵によっていきなり逮捕されてしまいます。
吉田邸には、複数のところからスパイが送り込まれていました。
軍部は徹底抗戦・・・その中で、彼が上層文を用意していることが分かり、逮捕されてしまったのです。
拘置所は、ノミやシラミで夜もろくに眠れず、食事は玄米の握り飯と沢庵二切れのみ・・・およそ40日後に仮釈放されたときには、ひどく痩せてフラフラだったといいます。
しかし、この逮捕が運命を変えます。

8月30日、コーンパイプに黒のサングラスという出で立ちで、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木基地に降り立ちます。
敗戦国となった日本の運命は、まさにこの男が握っていたのです。
そんなマッカーサーから吉田茂は厚い信頼を得ることとなります。

9月20日、東久邇宮内閣の外務大臣として、マッカーサーと初対面します。
挨拶のためにGHQ本部を訪ねた時のことでした。
マッカーサーが葉巻を勧めると、吉田は
「有難いのですが、マニラ産の葉巻は嫌いなので、こちらを試されませんか」by吉田茂
そう言って、自分が持っていたマニラ産より高価なハバナ産の葉巻をマッカーサーにすすめたといいます。
吉田は、敗戦国だからと言って、卑屈になる必要はないと考えていました。

さらに、マッカーサーが歩きながら話すのを見て笑ったといいます。
怒ったマッカーサーに対して、
「閣下がライオンのように歩かれるので、ライオンの檻の中にいるような気がしましてね」by吉田茂
これには、マッカーサーもあっけにとられ、笑いだしたといいます。
こうして、初対面にもかかわらず、マッカーサーの懐に飛び込みました。
吉田がマッカーサーに気に入られた理由は、終戦工作で逮捕されたことも大きく関係していました。
吉田茂が軍部の手先でないことが分かったからです。

しかし、この後、マッカーサー率いるGHQは、敗戦国日本に大きな課題を突き付けてきます。
憲法の改正です。
これにたいし、吉田が外務大臣を務める幣原喜重郎内閣は、大日本帝国憲法に変わる新憲法の草庵を作成します。
ところが、その内容が天皇の統治権を認めるなど、大日本帝国憲法と大差がなかったので、GHQはマッカーサーの指令のもと、極秘裏に独自の憲法草案を作成しました。
アメリカの考えは、日本を二度と戦争を起こせない国にすることでした。
アメリカが主導権のもと、国家ベースを作ろうとしたのです。
そして、そのマッカーサー草案には、天皇は政治的権力の持たない象徴とすること、主権者を国民とすること、戦争を放棄することが記されていました。
これを突然外務大臣官邸で突き付けられた吉田は、驚愕します。
天皇を主権者としてきた当時の日本人には受け入れがたい内容だったからです。
しかし、吉田は日本の未来のために、マッカーサー草案を受け入れました。

”我が国の当面の急務は、講和条約を締結し、独立・主権を回復すること
 その為には一日も早く民主国家・平和国家であることを表明し、信頼を獲得する必要があった
 憲法改正は大事だが、いつまでもこだわるのは得策ではない”

吉田は、日本の現状を冷静に見つめ、再び独立国家となるためには、今は”Good Loser”・・・良き敗者となる方が得策だと考えたのです。

私は吉田茂のスパイだった ある諜報員の手記 (光人社NF文庫) [ 保阪正康 ]
私は吉田茂のスパイだった ある諜報員の手記 (光人社NF文庫) [ 保阪正康 ]

1945年5月22日、日本自由党総裁の鳩山一郎の推挙で、吉田茂が内閣総理大臣に就任。
第1次吉田内閣が発足すると、吉田は選任した大臣たちにこう宣言しました。

「納得いかない話をは、勇気をもって拒否してください
 それでも強要されt場合は、文書で貰ってきてください
 あとは自分がマッカーサーに掛け合って何とかします」by吉田茂

この言葉通り、吉田がマッカーサーと会談したのは公式上だけでも75回です。
日本の代表として交渉の矢面に立っていたのです。
太平洋戦争によって、多くの農家の男たちが戦死してしまったため、農作物の生産量が激減・・・
食糧難となりました。
終戦の翌年には、皇居前で食糧デモが・・・25万人の民衆が集まりました。
すると、吉田茂はどれくらいの食料があれば、全国民にいきわたるのか農林省に試算させました。
マッカーサーにこう迫ります。

「450万トンの食糧がなければ餓死者が出ます」by吉田茂

マッカーサーはこれに応え、6月から食糧輸入を開始します。
しかし、実際に国民に配ってみると、70万トンほどで足りてしまいました。
当然マッカーサーは激怒し、吉田をGHQ本部に呼び出し、日本の統計の杜撰さを痛烈に批判します。
厳しい制裁を受ける可能性もありましたが、吉田は笑顔で答えます。

「日本の統計は正確なら、無謀な戦争はしなかった」と。

マッカーサーは返す言葉もなく、大笑いでした。

しかし、吉田は、食糧支援の正確な目算はあったのです。
正確な目算の50%しか食糧支援がなければ餓死者が出るのです。
敢えて、マッカーサーに正確な目算より多い食料を求めたのです。

吉田は持ち前のユーモアと度胸で、日本を飢えから救ったのです。

1947年4月、新選挙制度による初の総選挙が行われます。
吉田は、実父の故郷である高知県第一区から出馬します。
吉田は見事トップ当選しますが、日本自由党が第2党に沈んだため、吉田内閣は5月24日に総辞職します。
1年余りの短命政権でしたが、。新政権の憲法制定のみならず、農地改革法、教育基本法、内閣法、地方自治体法、独占禁止法など、日本を再建するために基本的な多くの重要法案を実現させます。 

マッカーサー戦後65年目の証言 マッカーサー・吉田茂・山本五十六・鳩山一郎の霊言 (OR books) [ 大川隆法 ]
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1948年10月、民主自由党を結成していた吉田は、二度目の総理大臣就任を果たしましたが、少数与党だったため、わずか2か月で解散。
しかし、改めて臨んだ総選挙では、民主自由党は単独過半数を上回る264議席を獲得。
三度総理大臣となった吉田は、野党の一部も取り込んで、戦後初の長期安定政権を築くことになります。
吉田茂は、自分以外に総理大臣は務まらないという思いに至っていました。

GHQと、丁々発止やるということは外交・・・自分が得意とすることでした。
また、吉田はこの選挙で、25人の官僚出身者を立候補させました。
その中には、後に総理大臣となる佐藤栄作(第61・62・63)、池田勇人(第58・59・60)もいました。
長期政権にしようとなると、側近がいる!!
役人は、極めて優秀で、実務能力を持っています。
そういった人々を政治家にしようというのが意図でした。
吉田に見いだされ、薫陶を受けた政治家たちは、吉田学校の生徒と呼ばれるようになり、吉田の政権運営を支えていくことになります。
そして、盤石の態勢を整えた吉田が、心血を注いで取り組んだのが、戦後日本の悲願である占領からの独立でした。

「一日も早く独立し、一人前の国家として国際社会に復帰しなくてはならない」

それが吉田の口癖でした。
そして・・・その日は近づきつつありました。
この頃、アメリカの占領方針に変化が起こっていたのです。
背景にあったのは、アメリカを中心とする西側諸国とソビエトを中心とする東側諸国の対立・・・冷戦です。
アメリカは、冷戦の激化に伴い日本を復興・独立させて資本主義陣営に取りこみ、モンゴル・中国・北朝鮮とアジアに広がりつつあった共産勢力の防波堤にしようとしていたのです。
当然ソ連はこれに猛反発・・・
その為、日本では日本の独立に賛成する国とのみ講和条約を結んで不完全な形でも独立を果たす単独講和にするか、困難な道でもソ連を含めたすべての国と講和条約を結ぶ全面講和にするかで意見が真っ二つに割れていました。
そんな中、吉田は11月に開かれた参議院本会議において、単独講和でいくと示しました。
吉田茂は、植民地根性にだけはなりたくないと思っていました。
独立を早めなければ、誰かに頼る性質になってしまう!!
GHQの日本弱体化計画が成就されることへの危惧からだったのです。

「もう一度いい国にしなければならない!!」

日本を早期独立に導くため、単独講和を決意した吉田でしたが、問題は山積していました。
GHQの中には、日本の占領を継続すべきだと考え、日本の独立に反対する者たちがいたのです。
そこで、吉田はアメリカにゆさぶりをかけます。

1950年4月、腹心で大蔵大臣の池田勇人をアメリカに派遣し、
「このまま占領状態が続けば、日本で共産革命が起こるかもしれない」と、早期独立の必要性を説明します。
そして、切り札として独立後のアメリカ軍駐留を認めるという極秘案を提案しました。
アメリカはこの提案に乗り、日本の独立を国際的に認めさせる方向で動き出します。
6月21日には、対日講和条約の責任者ジョン・フォスター・ダレスが日本に来日。
吉田と討論をかわす中、ダレスは意外な言葉を口にします。

「日本の再軍備を容認する」

対共産勢力のために、ダラスは敗戦国に軍隊を持たせる寛大な試みに、吉田は大いに喜ぶだろうと考えていました。

「我々は、新しい憲法で軍隊を持てないことになっています」

なんと、あっさり拒否したのです。

どうして??
ひとつは、再軍備にかかる莫大な費用によって、経済復興に回す予算が減ってしまうことを避けたかったため・・・
そして、もうひとつは、今の自分たちよりも若い者たちが国を思って死んでいった・・・
二度と若者たちを殺してはいけない・・・それは、全てに優先することでした。

ところが、事態は急変します。
ダレスの来日の4日後、朝鮮戦争が勃発したのです。
アメリカは、国連軍として韓国に軍事介入し、在日アメリカ軍も戦争に動員されました。
これによって、日本の守りが手薄になったとして、マッカーサーは、日本に問答無用の要求をします。
現在の自衛隊の原型となる警察予備隊の創設です。
日本の治安維持が創設の目的でしたが、アメリカがそれを捻じ曲げて戦争に利用する可能性もあったので、吉田は隊員たちを戦争に送らないという確約を得るまで、警察予備隊令を公布しませんでした。

また、この朝鮮戦争によって、共産勢力への警戒心をより強めたアメリカは、日本の独立に向け加速・・・
1951年、アメリカのサンフランシスコにおいて、日本の主権の回復を認める講和会議が開かれることになりました。
参加国は、日本を除いて51か国。
日本全権団の代表は、もちろん吉田茂でした。

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会議は、9月4日から行われ、吉田の演説は7日・・・しかし、演説の直前になって、外務省の役人が作った原稿が英文だったことに、吉田のブレーンだった白洲次郎が烈火のごとく怒ります。

「この講和会議で、俺たちはようやく戦勝国と同等の立場になれるんだろう
 この晴れの日の演説を、英語でやるバカがどこにいるんだ!!」by白洲次郎

そう言って、急遽日本語に書き直された原稿は、長さ30mにもなり、吉田のトイレットペーパーと揶揄されました。

9月7日、壇上に上がった吉田は原稿を読み始めたのですが、あまりに長かったため、途中を端折って読んだのです。

「どうせ日本語の分かるものなど会場にいないだろうと思い、まじめに読むのがつまらなくなってな」

しかし、ラジオに日本で中継されていたことを知ると、ちゃんと読めばよかったと悔やんだとか・・・
吉田の演説の翌日、講和条約の調印式が行われ、ソ連・ポーランド・チェコスロバキアを除く48か国が署名しました。
最後に吉田が署名し、日本の主権が復活します。
GHQは、撤退することとなりました。
南西諸島や小笠原諸島は引き続きアメリカの管理下に置かれ、北方領土問題も未解決のままでしたが、それでも日本はついに独立を果たしたのです。
そして、5時間後、吉田はもう一つの条約に調印します。
日本がアメリカ軍に基地などを提供することなどを約束した日米安全保障条約です。
アメリカ側が4名署名したのに対し、日本は吉田ただ一人・・・後世に大きな問題を残すであろうこの条約締結の責任を、他のものに負わせないためだったと言われています。

バカヤロー解散の真相
サンフランシスコ講和条約が発効された1952年4月28日、7年に及ぶ日本の占領統治が正式に終わりました。
74歳になっていた吉田は、これを花道に退陣するだろうと言われていましたが・・・

「一生でも政局を担当するかもしれませぬ」

と、続投を宣言します。
吉田茂は、日本の独立を完成したかったのです。
サンフランシスコ講和条約で、独立が完成したわけではありません。
しかし、1953年2月、4度目の総理大臣に就任していた吉田は、衆議院予算委員会の場で大失態を犯してしまうのです。
社会党の西村栄一議員と激しい質疑応答をかわす中、吉田は西村の物言いに腹を立てて・・・

「無礼者!!」と吐き捨てました。
これに、
「質問しているのに何が無礼だ!!」by西村栄一
「バカヤロー」とつぶやいてしまいました。
吉田はすぐに発言を取り消しましたが、野党はこれを問題視し、内閣不信任案を衆議院に提出。
吉田に不満を持っていた与党内の一部が離党して賛成に加わったことでこれが可決されてしまい、吉田は衆議院を解散しました。

解散後の総選挙で当選を果たし、1953年5月21日、第5次吉田内閣が発足。
もはやかつての勢いはなく・・・1954年12月7日、遂に総辞職・・・。
吉田が再び総理大臣につくことはありませんでした。
 
戦後の混乱期に、通算7年にわたって総理大臣を務め、日本を早期独立に導いた吉田茂・・・
総理大臣の座を退いた後も、衆議院議員に3度当選し、政界から身を引いたのは85歳の時でした。
その後吉田は、自ら海千山千楼と名付けた神奈川県の自宅で悠々自適の日々を送ります。
吉田はここから日本一の富士山を眺めるのが何よりも好きだったといいます。
外交官の育成にも情熱を傾け、幹部候補生を自宅に招いては
「外交官は腹が据わっていなければダメだ」
などと、訓示を述べていました。
そんな吉田のもとには、来客が引きも切らなかったといいます。

そして、1967年10月20日、吉田茂は大磯の自宅で波乱の生涯に幕を下ろします。
89歳でした。
そして・・・10月31日、戦後初の国葬が、日本武道館で執り行われました。
3万6000人が集まり、ワンマン宰相・吉田茂との別れを惜しんだといいます。
吉田茂は生前、こう言っていました。

「平和は繁栄を伴うものであります
 しかし、繁栄なくしては平和はありえないのであります」

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東京町田にある大きなかやぶき屋根の民家・武相荘。

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そう名付けたのは、ダンディーな白洲次郎でした。

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戦前は、近衛文麿のブレーンとして、戦後は吉田茂の側近として、辣腕を振るった昭和史のカギを握る人物でした。

身長は180センチ、イギリス仕込みの紳士道と流暢な英語、日本で初めてジーンズをはいたと言われる白洲次郎は、カッコいいだけではありませんでした。
GHQと堂々と渡り合い、従順ならざる唯一の日本人と呼ばれた気骨ある男でした。

激動の昭和を生きた白洲次郎の人生とは・・・??

①紳士の国へ留学
白洲次郎は、1902年2月17日、兵庫県で貿易商を営む白洲家の次男として生まれました。
父・文平は、ハーバード大学を卒業後、「白洲商店」を設立。
一代で巨万の富を築いた豪放磊落な男でした。
その豪快さは子育てにも及び、自動車が珍しかった時代にまだ旧制中学校に通っていた次郎にアメリカ社のペイジ・オートモビルのグレンブルックを買い与えたといいます。
また、祖父の退蔵が、神戸女学院の創設者のひとりだったため、白洲家には外国人教師が寄宿、ネイティブな英語を学んでいた次郎は、17歳で旧制中学校を卒業、そののちイギリスに留学し、ケンブリッジ大学クレア・カレッジで学びます。

しかし、次郎曰く・・・
「手の付けられない不良だったから、島流しにされたんだ」
けんかっ早く、よく問題を起こしたために、留学という形で日本から追い出されたというのです。
そんな勝気な次郎・・・イギリスでも臆することはなかったようです。
身長180センチほど、流暢な英語を話せたこともあって、次郎はイギリスの学生たちと堂々と渡り合ったといいます。
その中で、生涯の友・・・貴族出身のロビン・セシル・ビングにも出会います。
次郎はロビンからイギリスの紳士道を学びました。
レディーファースト、身分に関係なく互いに敬意を払う文化やマナー、信念を貫くブレない言動・・・
こうした紳士道が、後に従順ならざる日本人と言われる白洲次郎という男を作り出すことになるのです。

1925年ケンブリッジ大学を卒業、大学院に進学しますが、26歳の時、父の経営する白洲商店が昭和金融恐慌のあおりを受けて倒産・・・
その為、留学を途中で断念し、日本への帰国を余儀なくされたのです。
帰国後は、英字新聞社「ジャパン・アドバタイザー」に就職。
イギリス仕込みの英語を生かして、記者となります。
そしてこの年、運命の人と出会います。

②カントリー・ジェントルマン
1928年・・・次郎は、あるパーティーで樺山愛輔伯爵の娘・樺山正子と知り合います。
後に文筆家として活躍する正子です。
正子は、アメリカのハートリッジ・スクールを卒業して帰国したばかりでした。
2人はお互い一目惚れだったといいます。

「次郎さんの物おじしないところが魅力に映った」

次郎も正子に贈ったポートレートにこんな英文を添えています。

「君こそ僕の発想の源であり、究極の理想である」

こうして2人は出会った翌年に結婚。
家庭を持った次郎は、ケンブリッジ大学時代の友人が経営する商社の取締役に就任しました。
機関車や兵器の輸入と銀行業務を行っていた会社・・・セール・フレーザー商会の取締役です。
次郎の月給は500円・・・当時のサラリーマンの平均月収が80円だったので破格でした。
1937年、35歳になった次郎は、日本食料工業の取締役に就任。
商談などで1年の半分以上を海外で過ごすことが多かった次郎は、イギリスに行くと必ずある人物をたずねました。
当時、駐イギリス特命全権大使だった吉田茂です。
妻・正子の父を通じて知り合った吉田と、イギリス出張のたびに親交を深め、大使館で寝泊まりすることもあったといいます。
同じ頃、次郎は知人の依頼で、近衛文麿の政策ブレーンとしてもその才能を発揮していました。

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そんな中、時代が大きく動きます。
1939年、第2次世界大戦勃発!!
次郎は、外務省を辞めていた吉田茂のヨハンセングループに参加。
イギリス留学中、日本と西洋諸国との国力差を痛感した次郎は、戦争反対の立場をとっていたのです。
そして、1943年、41歳の若さで政治や実業の一線を退き、農業を営みます。
どうして農業だったのでしょうか??
次郎は、東京郊外・鶴川村に、妻・正子と3人の子供と共に移住・・・古い茅葺屋根の家で暮らしながら農業を始めました。
しかし、郊外の田畑付きの家を探し始めたのは、この3年も前のことでした。
次郎は、まだほとんどの日本人がアメリカとの戦争を予測していなかったころから、こう考えていたのです。

「日米戦争は不可避だろう・・・
 そして必ず日本が敗北し、敗北の経験のない日本人はあくまで交戦して東京は焼け野原になるだろう」

そして戦争になれば、食糧不足になると予見し、農業を始めて食糧難に備えたのです。
次郎の予見通り、日本は戦争中、食糧難に陥ります。
しかし、自分さえよければいいということはありませんでした。
困っている人がいれば助ける・・・それがポリシーでした。
次郎は、収穫した作物を、友人や知人に配って回りました。
決まって声もかけずに玄関先に野菜などをおいて行ったといいます。
こうして鶴川で農業を始めた次郎ですが、このことについて妻・正子はこう言っています。

「鶴川に引っ込んだのも、実は英国式の教養の致すところで、彼等はそういう種類の人間をカントリー・ジェントルマンと呼ぶんです
 よく田舎紳士と訳されていますが、そうではなく地方に住んでいて中央の政治に目を光らせている
 遠くから眺めているために、渦中にある政治家には見えないことがよくわかる
 そして、いざ鎌倉という時は、中央へ出て行って彼らの姿勢を正すのです」

③ミスターWhy
1945年12月、東京郊外の鶴川で農業にいそしんでいた次郎は43歳で中央政界に呼び戻されます。
外務大臣に就任した吉田茂の強い要望で、終戦連絡中央事務局の参与に就任します。
終戦連絡中央事務局とは、GHQと日本政府の連絡調整を行うために設置された役所でした。
次郎はこの時、吉田からこういわれました。

「君の語学力とその鼻っ柱の強さで、からっきし意気地の無くなった役人たちを鼓舞し、占領軍と戦ってくれ!!」by吉田茂

吉田の言葉にこたえるように、GHQと真っ向渡り合っていきます。
GHQの過剰な要求や、検閲など、納得いかないことには「どうして??」としつこく食い下がったため、「Mr.Why」というあだ名がつけられました。
白洲次郎はビジネスマンでした。
ビジネスマンは、口頭ではなく紙にします。
行った言わないの議論を防ぎ、明確な伝達をするために、証拠として残る文章にさせました。
GHQの指示を全て文書にさせ、証拠を残すことで話が食い違った時でも臆さずに反論できました。
さらに、強気な交渉をするうえで欠かせなかったのが、GHQの情報でした。

「ミルクマンです。御用はありませんか?」

ミルクマンとは、イギリスの習慣で午後3時のティータイムにクッキーなどをもってオフィスを回る御用聞きの事です。
次郎は、そのミルクマンになってGHQの民生局に潜り込み、情報を手に入れようと考えました。
イギリス英語と英国流の習慣を取り入れることで、なめてはいけない相手だと印象付けたのです。
そして、オフィスの掲示板や机の上の書類から情報を得ました。
次郎は、巧みに情報を入手し、相手の動きを知ることでGHQと堂々と渡り合ったのです。

④VS GHQとマッカーサー
臆することなくGHQと向き合う次郎には、こんなエピソードが残っています。
1945年12月、敗戦後初めてのクリスマス・・・
GHQの最高司令官ダグラス・マッカーサーに昭和天皇から託されたクリスマスの贈り物を届けた時の事・・・
すでに机の上が贈り物でいっぱいになっていたマッカーサーは、次郎にこう言います。

「その辺に置いといてくれ」

これに対して次郎は、

「仮にもかつての統治者から託された贈り物だ
 それを、その辺に・・・床に置けとは何事か!!」

そう言って、プレゼントを持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたといいます。

「戦争には負けたが、奴隷になったわけではない!!」by次郎

常にそう言っていた次郎は、マッカーサーの態度がどうしても許せなかったのです。
さらに・・・これは2か月前に起こった事件とも関係がありました。
事の始まりは、マッカーサーが国務大臣だった近衛文麿に告げたこの言葉です。

「日本の憲法は改正すべきだ」

これを受け、近衛は憲法学者たちと憲法改正案を作るのです。
しかし、GHQは・・・

「そんなことは頼んでいない・・・!!」

マッカーサーにとって、大事なのは日本の占領政策ではなく、次期アメリカ大統領のポストでした。
大事なのは、アメリカの世論でした。
近衛に任せた際に、アメリカ国内から反対されたのです。
マッカーサーは、この絵を外すことで、自分の身を守ったのです。
白洲次郎は、この話を聞いて血が沸騰する思いでした。
その後、近衛はA級戦犯として極東国際軍事裁判所で裁かれることになります。
しかし・・・出頭する最終期限の日・・・1945年12月16日の未明・・・戦争犯罪人として裁判を受けることは耐え難いとして服毒自殺するのです。
次郎は、近衛の自殺を予期しながらも、助けることができず悔し涙を流したといいます。
クリスマスプレゼントの事でマッカーサーに激怒したのは、その直後のことでした。
近衛を保身のために切ったうえ、自殺へと追い込んだことへの怒りもあったのかもしれません。
この時、憲法改正案は、幣原内閣の松本丞治国務大臣率いる憲法問題調査委員会でも並行して作られていました。
しかし、松本案と呼ばれたその憲法改正案は、天皇の統治権を示すなど、大日本帝国憲法とほぼ変わらないものでした。
次郎は、すぐに松本大臣のもとへ走り、こう言いました。

「占領国側が考えている内容は、先生がお考えになっているほど生易しいものではありません
 少なくとも天皇陛下の大権については、大幅に制限を設けませんと・・・」by次郎

「そんなことは、私にはできない
 そんなことをすれば、私は殺される・・・!!」by松本大臣

「そんなバカなことはありません
 それではダメです」by次郎

しかし、何度言っても次郎の忠告は聞き入れられませんでした。

1946年2月・・・松本案の内容を知ったGHQ民政局長のコートニー・ホイットニーが、麻布にあった外務大臣官邸にやってきました。
対応に当たったのは、改正案を作った国務大臣の松本丞治と外務大臣の吉田茂・・・そして、日本国憲法制定作業に参加することになった白洲次郎でした。
松本案についての話し合いが行われるだろうとそう考えていた3人は、予想外の展開に驚きます。
ホイットニーは、松本案を完全に却下しただけでなく、マッカーサー案(GHQ草案)を提示してきました。
マッカーサー案では、大日本帝国憲法で主権者だった天皇を、象徴と位置づけ、さらに国民主権、戦争の放棄が明記されていました。

そもそも、GHQが憲法を改正するのは国際法違反です。
ハーグ条約で、占領下の現行法を尊重しなければならないと決められていました。
にもかかわらず、マッカーサーは、国連の他国が来る前に、日本の在り方を決めて、それを手土産にアメリカ大統領になりたかったのです。

日本側は、当然、天皇を象徴と位置づけるマッカーサー案を受け入れることはできませんでした。
そこで、松本案の再説明を試み、マッカーサー案修正の可能性を探ろうとしました。
その交渉の矢面に立たされたのが、次郎でした。
次郎は、交渉の余地などないだろうと思いながらも、勝ち目のない戦に何度も挑みます。
その中に、マッカーサー案に対して検討する時間が必要と文書で説明しました。
”ジープウェイ・レター”と呼ばれています。
日本には長い歴史とその背景があるため、目的に向かってコツコツとジープで進む必要があると示しました。
歴史の重みを感じろ!!この若い国が!!と言いたかったのです。
日本人としての誇りを胸に、決してあきらめない次郎を、GHQはこう呼びました。
”従順ならざる唯一の日本人”と。

「自分が必要以上にやっているんだ
 占領軍の言いなりになったのではないということを、国民に見せるために、あえて極端に行動しているんだ
 為政者があれだけ抵抗したということが残らないと、あとで国民から疑問が出て必ず批判を受かることになる」by次郎

言いなりにはならないという覚悟をもって交渉を重ねていった次郎ですが、終戦連絡中央事務局のNo,2に就任した3日後、GHQからこういわれます。

「至急日本案を提出せよ
 英訳が間に合わなければ日本文のままでよいから、翻訳官をつけて至急来るように」
 
そこで次郎たちは、すぐさま日本側の憲法草案をもってGHQに向かいました。
GHQ側は、それがマッカーサー案にそって作られているかすり合わせたいからすぐに翻訳するようにと命じます。
夜を徹して翻訳、すり合わせ作業が行われ、次郎たちは憲法改正草案要綱を完成させました。
次郎は、この時のことを自らの手記にこう書き残しています。

「興奮絶頂に達し、正午ごろより総司令部もやっと静まり、助かること甚だし
 かくのごとくして、この敗戦再露出の憲法案は生まる
 ”今に見ていろ”という気持ち抑えきれず、密かに涙す」

敗戦国という立場の弱さを露呈した憲法草案の作成・・・
そのGHQ主導による憲法草案を日本政府案として公表しなければならない悔しさで、次郎は泣きました。
この時、44歳。
こうして日本国憲法は、1946年11月3日に公布され、その翌年、1947年5月3日に施行されます。
これを見届けた次郎は、1947年6月18日、終戦連絡中央事務局次長を退任します。
どこまでも潔く、GHQに従順ならざる唯一の日本人と言われた次郎が、常日頃からよく言っていた言葉があります。
それが・・・「プリンシプル」・・・原理・原則という意味です。
次郎は、状況や相手に関わらず、常に原則をもって筋を通すということを心に決めていました。
しかし、決して曲げない・・・となると、煙たがられ、敵も増えることとなります。

「大きな仕事をなすには、理解者を求めるよりも積極的に敵を作れ!!」

それこそが、白洲次郎の仕事の流儀でした。

⑤改革の断行
戦争により東京をはじめとする主要都市が焦土と化した日本は、国内需要が停滞・・・
経済どころではありませんでした。
そんな中、1948年12月、第2次吉田茂内閣で、商工省の外局「貿易庁」の長官に白洲次郎は就任します。
この時、46歳でした。
日本の経済を復興させたいと考えていた次郎は、そこで驚きの改革を断行します。
相手は旧態依然としたお役所の巨大組織・・・抵抗は否めません。
そこで、次郎は商工省の大臣に内密で事を勧めます。
まず、自らが長官についた貿易庁を商工省に吸収させ、次にその商工省を改変・・・外務省から英語のできる外交官を移動させて、通商産業省を作ってしまいました。
国内向けの商工省を失くして、通産省を作ったのです。
次郎が大胆な組織改革を行ったのは、資源の乏しい日本で、戦後の経済を復興させるには海外との取引・・・貿易を盛んにするしかないと考えたからです。
こうして次郎は、貿易庁を商工省に吸収させて通産省に変えることで、円滑に貿易を促進できるようにしました。

これが功を奏し、貿易が活性化・・・獲得した外貨で購入した資源で生まれたメイド・イン・ジャパンが世界を席巻・・・日本は奇跡の復興を遂げていきます。
次郎は、その原動力を生み出したのです。

⑥吉田のトイレットペーパー
白洲次郎は、地位や名誉に興味のない男でした。
通産省を設立させるも、何の役職にも就かずに政治の世界から去っていきました。
しかし、時代がそれを許しませんでした。
総理大臣と外務大臣を兼任していた吉田茂が再び次郎を政治の世界に引き戻すのです。
1951年8月31日・・・
日本と連合国側との戦争状態を解消するためのサンフランシスコ講和会議に出席するため、吉田茂を首席全権とする全権団が日本を出発。
次郎は、首席全権である吉田に請われ特別顧問として随行します。
問題が起きたのは、サンフランシスコ講和会議3日目のこと・・・
事の発端は、吉田総理からの1本の電話でした。

「私の演説原稿に目を通してくれたかい??」
「いえ・・・見ていませんが・・・」
「一度見てくれたまえ・・・!!」
「わかりました」

次郎はすぐにその原稿を取り寄せました。
それを見ると・・・その原稿は、日本の首席全権のものだというのに、英語で書かれていたのです。
さらに、6年間にわたる占領について、感謝感激と大袈裟な賛辞までのべられていたばかりか、戦後アメリカの施政権下にあった沖縄をはじめとする琉球諸島、小笠原諸島などの返還という国民の悲願について一言も触れられていなかったのです。
次郎は、外務省の役人にこう言いました。
「これではダメだ!!
 全面的に書き直せ!!」
これに対し役人は・・・
「いえ・・・これは、GHQ側と相談して了解を得たもの・・・
 簡単に書き直すわけにはいきません」
次郎は、役人に染み付いた植民地今生にただただ呆れ、怒りに震えました。

「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず
 その晴れの日の演説原稿を、相手方と相談した上に相手方の言葉で書くバカがどこにいる・・・!!」by次郎

次郎は、急遽手分けして原稿を日本語で書き直します。
和紙に毛筆で書いたものをつなぎ合わせたその原稿の長さは30mにまで及び、巻くと直径10センチにもなりました。
これが、吉田のトイレットペーパーです。
そこには、沖縄をはじめとする琉球諸島と小笠原諸島などの主権が日本にあり、その施政権の返還を求めることが盛り込まれていました。
そして9月7日・・・サンフランシスコ講和会議で演説する吉田茂・・・!!
吉田茂は、次郎たちが書いた原稿を手に、威厳をもって日本語で演説!!
平和条約が調印されたことで、日本は占領から解き放たれ、ついに独立を果たしたのです。
大役を果たしたその帰りの飛行機で、次郎は吉田にこう進言したといいます。

「政治的なあなたの役目は、これで終わったんです
 あとは、後進に譲って、後はゆっくりなさってください」

すると吉田は・・・

「そうだなあ・・・今引退すれば、神様のようにもてはやされるだろうなあ」

しかし、吉田が実際に政界から引退するのは、それから12年後のことでした。
その間、次郎は外務省顧問を務めましたが、吉田の退陣と共に身を引きました。
政界入りを望む声もあったようですが、きっぱりと政治と縁を切ります。

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こうして経済界に戻った次郎は、数々の企業などの役員(東北電力・荒川水力発電・大沢商会・大洋漁業・日本テレビ・ウォーバーグ証券・軽井沢ゴルフクラブ)や顧問を歴任・・・
自分たちが戦争を起こしてダメにしてしまった日本を少しでも良くしようとして次の世代に残そうと努力しました。

そして、57歳、再びカントリー・ジェントルマンに戻るのです。

⑦男の生き様
白洲次郎は、80歳を過ぎても大好きなハンチング帽をかぶり、1968年型のポルシェを乗り回すやんちゃな紳士でした。
そんな次郎が、神妙な顔をして古いカバンの中にあった書類を次々と燃やし始めました。
それは、次郎が関わった政治にまつわる重要書類だったともいわれています。

「なぜ燃やすのか」と聞かれると・・・

「こういうものは、墓場に持っていくもんなのさ・・・自慢も自己弁護もせずにさ・・・」

それが白洲次郎という男の生き様でした。
1985年11月・・・次郎は、妻の正子と伊賀を旅行しました。
伊賀がから京都を巡って帰ってきた次郎は、体調を崩し入院・・・その2日後亡くなるのです。
妻の正子と子供たちに残した遺言書には、”葬式無用・戒名不要”の二行だけ・・・
最後まで潔い男でした。

「今の若い人に一番足らんのは勇気だ
 そう言ったら損をするということばかり考えている
 自分の思うことをそ勅に言う勇気が欠けている」by白洲次郎

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1945年9月29日、日本国民を驚愕させた一枚の写真が新聞に掲載されました。

tennnou昭和天皇と、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーとのツーショット写真です。
この時、天皇44歳、マッカーサー65歳でした。
写真は、天皇がアメリカ大使館をたずね、マッカーサーと初めて会見した際に撮られたものでした。

この写真を見た作家・高見順は「古今未曽有」と、敗戦日記に記し、歌人・斎藤茂吉は「ウヌ!マックアーサーの野郎」と、憤りました。
現人神として崇められてきた天皇に対し、マッカーサーはノーネクタイに開襟シャツのカジュアルな服装で、両手を後ろに回し傲慢にさえ見える・・・
国民は、大きなショックと怒りを抱いたのです。
ところが、この後行われた二人の会談が、敗戦国となり、連合国の占領下に置かれた日本の行く末を握っていました。

その世紀の会見の中身とは・・・??

1945年8月30日、戦後日本の命運を握る男がやってきました。
ダグラス・マッカーサー、GHQ最高司令官です。
GHQとは、連合国最高司令官総司令部のことで、敗戦国日本を占領管理するため、米・英・中・ソ・仏などの戦勝国によって設置された機関です。
その最高権力者となったマッカーサーが、神奈川県厚木飛行場に降り立ちました。
午後2時5分・・・アメリカ軍の輸送機・バターン号で予定より1時間ほど早く到着。
濃いサングラスにノーネクタイ、コーンパイプをくわえたマッカーサーは、ゆっくりと辺りを見回しながら、タラップを悠々と降りてきました。
この時の印象的な登場は、マッカーサーが周到に計算した演出だったといいます。
戦争に勝利をおさめて、最高指揮官として一歩踏み出す・・・
サングラスにコーンパイプを片手に降りてきたのは、如何に自分を印象付けるかを考えた結果でした。
厚木飛行場を後にしたマッカーサーが向かったのは、東京入りするまでの狩りの宿舎となるホテルニューグランドでした。
現在も、マッカーサーが宿泊した部屋が残っています。
どうしてこのホテルだったのでしょうか?
進駐軍が、最初の滞留地を横浜としたのは、最高司令官の宿舎としてニューグランドが相応しかったからです。
ホテルニューグランドが、外国人向けに作られたホテルであった事、アメリカの攻撃対象から外されていたので、焼けずに残っていたのが大きな理由です。
マッカーサーは、横浜港に面したこの部屋を、とても気に入っていました。
しかし、その対応には苦労もあったようで・・・
マッカーサーは、朝食に卵を二つ注文しましたが、当時の日本は食糧難・・・その卵を一日中探し回って手に入れたのが1個だけでした。
それをきっかけに、マッカーサーは日本の食糧難を知り、進駐軍から日本に大量の食糧が届けられました。

1937年、マッカーサーがフィリピン軍事顧問だったころ、当時のケソン大統領の訪米にお供し、日本に立ち寄っていました。
一緒に来ていたジーン夫人は、二度目の結婚でした。
新婚旅行をしていなかったので、このニューグランドに泊まったことがありました。

1945年9月2日、日本の降伏調印が、東京湾上ミズーリ号で行われました。
その調印式の開会を述べるマッカーサー・・・

「私は連合国最高司令官として、
 私の代表する諸国の伝統に従って、
 正義と寛容を持って私の責任を果たし、
 降伏条件が、完全、迅速かつ誠実に遵守せられるよう、
 ありとあらゆる必要な措置をとる決意である」

日本側からは、外務大臣・重光葵が代表として調印・・・
ここに大日本国帝国は終焉します。

9月8日・・・
マッカーサーは東京に入ると、日本での住まいとなるアメリカ大使館へ・・・。
そして、皇居の迎えに立つ第一生命ビルを接収しGHQ本部としました。
最大で40万人となった米軍部隊も日本各地に上陸。
占領体制は着々と整備されていきました。

マッカーサーは土日も休まず、判で押したような生活をしました。
毎朝10時にアメリカ大使館を出て、GHQ本部に向かいます。
仕事をするのは、マッカーサールームと呼ばれた執務室。

敗戦からおよそ1月・・・GHQによる本格的な日本統治が始まりました。
実質的にはアメリカの単独占領・・・おのずとGHQのトップにいたマッカーサーの命令は、絶対でした。

「私は日本国民に対して、事実上無期限の権力を持っていた
 歴史上、いかなる植民地総督も、征服者も、総司令官も、私が日本国民に対して持ったほどの権力を持ったことがなかった
 私の権力は至上のものであった」

それでもマッカーサーは、調印式、第一生命ビルの接収では、支配者マッカーサーとして日本人に焼き付けるには不十分だと思っていました。

「早急に天皇と会見をする必要があるのだが・・・」

マッカーサーはGHQの幕僚たちから強く勧められていました。
「私たちの権力を示すために、天皇を総司令部に来させたらどうだ??」
敗戦の惨めさを思い知らせろとの声もあったのです。
しかし、マッカーサーは迷っていました。
そして考えた末・・・天皇を呼びつけるのではなく、天皇から会いに来るのを待つことにしました。
どうして天皇を呼びつけなかったのでしょうか?
それは、マッカーサーの経歴と深く関係していました。

1880年アメリカ合衆国アーカンソー州で生まれます。
陸軍士官学校を首席で卒業。
アメリカ軍に入隊し、フィリピン赴任を経て、陸軍参謀総長に史上最年少の50歳で就任。
エリート軍人でした。
太平洋戦争勃発後は、5回目となるフィリピンへ・・・
こうして長年でフィリピンで過ごしていたマッカーサーは、アジア通を自負していました。
アジア人の心理をよくわかっていたと言われています。

「幕僚たちが、権力を示すために天皇を招き寄せたらと、強く勧めたが、そんなことをすれば、日本の国民感情を踏みにじり、天皇を国民の目に殉教者に仕立て上げることになる」

マッカーサーは、日本は天皇崇拝のおかげで戦後も無政府状態にならず、粛々と敗戦を受け入れたのだと考えていました。
無理やり天皇を呼びつければ、日本国民の反感を買い、今後の占領がやりにくくなると考えたのです。

「私は待とう 
 そのうち天皇が自発的に私に会いに来るだろう
 西洋のようにせっかちにするより、東洋のように辛抱強く待つ方が、我々の目的に一番かなっている」

後に、副官であるバンカー大佐は・・・
「ゼネラルは、心理的な側面では天皇を通じて占領を極めて効果的に行った」と言っています。

GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサー・・・
この時、日本側もマッカーサーと早急に会いたいと思っていました。
日本がポツダム宣言を受諾した最大の理由は、国体が護持(=天皇制存続)されると思っていました。
しかし、同時にぽつ談宣言の中では、戦争責任を追及する軍事裁判を行うことも謳われていました。
天皇が糾弾される可能性もあったのです。
日本政府は、”天皇が軍事裁判で糾弾されるのか”をGHQから探りたかったのです。

実際、アメリカでは天皇を糾弾せよという機運が高まっていました。
そこで、宮内省関係者は日本統治の最高権力を有するマッカーサーの考えを探ろうと情報集めに奔走・・・。
しかし、何もつかめずにいました。
そのために、天皇とマッカーサーとの会見に踏み切れずにいたのです。

そんな中・・・9月20日。
昭和天皇の侍従長・藤田尚徳のもとへ電話が・・・時の外務大臣吉田茂でした。
マッカーサーとあってきた吉田・・・

「マッカーサー元帥に、もし天皇陛下が”あなたを訪問したい”と言われたらどうなさるかと質問したところ”喜んで歓迎申し上げる”との返事だった。」

吉田から電話がかかってくる直前に、藤田もマッカーサーと会っていました。
藤田が伝えた内容は・・・

「マッカーサー元帥は、開戦以来方々の戦場で戦われ、日本に進駐されたが、ご健康はどうであろうか
 炎熱の南方諸島で健康をそこなわれるようなことはなかったろうか
 また、日本の夏は、残暑が厳しいので、十分に健康にご注意ありたい」

すると、マッカーサーは・・・

「私のことをいろいろご心配下さって感謝に堪えない
 どうか天皇によろしくお伝え願いたい」

マッカーサーの丁寧な対応に、藤田侍従長は安堵したといいます。
吉田茂大臣からの連絡は、大変うれしいものでした。
マッカーサーの意向がわかったので、宮内省で計画し、天皇がアメリカ大使館にマッカーサーをの訪問することが決まります。

その運命の日は、9月27日でした。
昭和天皇は、数人のお付きのものと共に、赤坂にあるアメリカ大使館へ。
迎賓室の入り口で待っていたマッカーサーと、遂に対面します。
握手と簡単な挨拶を交わした後、天皇はなかに入ります。
この時、お付きとして許されたのは、通訳只一人・・・。
マッカーサーは天皇に、こちらにお立ち下さい・・・そう言って、天皇の右側に立つと・・・突如、マッカーサー付きのカメラマンがシャッターを切ったのです。
撮影に関して何も知らされていなかった天皇は、驚きを隠せず・・・姿勢を正すことができませんでした。
三枚目でようやく体制を整えることができました。
宮内省発表の記事と共に翌日28日の新聞に報じられる予定でしたが、内務大臣山崎巌がこれを不敬だとして掲載禁止とするのです。
これまで国民が見慣れた天皇の写真は、御真影と言われた陸海軍大元帥の礼装服か、白馬にまたがった陸軍改定式などの勇姿でした。
それが、平民と変わらないモーニングにネクタイという姿だったからです。
さらに、現人神である天皇が直立不動の体勢をとっているのに対し、マッカーサーはノーネクタイに開襟シャツという軽装・・・こうした理由から不敬とし、差し止めたのです。

しかし、新聞に写真が載っていないことを知ったGHQは激怒!!
依然として獣体制の考え方を持っている者がいると、言論に対する一切の制限令を撤廃したのです。

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こうして会見から2日後の29日、二人の写真が新聞に掲載されました。
これを見た国民の多くは、改めて日本が敗戦したことを思い知らされたといいます。

昭和天皇・マッカーサー 第1回会見
この写真を撮ったのち、第1回会見が始まりました。
会見の主な内容は、天皇が開戦を遺憾している事、ポツダム宣言の履行に対する確認でした。
マッカーサーは天皇のことをエンペラーと呼び、天皇に全てを訳し伝えよと強い口調で通訳に伝えると、10分にわたり話し続けたといいます。

後に、マッカーサーはこのことを振り返りこう言っています。

「私は天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴え始めるのではないかという不安を感じた」

天皇は命乞いをしに来たのでは??と考えていました。

「私がアメリカ製のタバコを差し出すと、天皇は礼を言って受け取られた
 そのタバコに火をつけて差し上げたとき、私は天皇の手が震えているのに気が付いた」

普段は吸わないタバコを手にした天皇・・・
その緊張がほぐれたのは、マッカーサーの思い出話でした。

「私は日本とは40年来の縁があるのです
 最初の日本訪問は、日露戦争の時
 父が従軍武官としてきた際に、その副官としてきたのです
 戦争後には、私は一度天皇の父君に拝謁したこともあるのですよ」

そんな話をするうちに、天皇の警戒心は薄らぎ、その場の空気も和らいできました。
すると天皇は・・・

「私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身、あなたの代表する諸国の採決に委ねるためお訪ねした」

戦争責任のすべてを追うというのです。

「死を伴うほどの責任・・・
 明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとするこの勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした
 私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても、日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである」

気付けば会見の予定より大幅にオーバーしていました。
昭和天皇とマッカーサーは、35分の会見で心を通わせたのです。
会見が終わると、天皇を大使館の玄関まで見送りました。
予定外のことでした。

天皇との信頼関係が築けたことは、日本国民の信頼も勝ち得たと判断したのでしょう。
この会見の成功が、敗戦国日本の歴史を大きく変えることとなります。

1946年5月3日、東京市ヶ谷の旧陸軍士官学校大講堂で極東国際軍事裁判・・・東京裁判が行われました。
ポツダム宣言に基づく戦争責任を追及するというものです。
注目されたのは、最大の責任アリとされた昭和天皇の処遇でした。
連合国側では、裁判にかけ、処刑追放するべきだという声が高まっていました。
マッカーサーは、天皇が日本の国際法違反に関与していないか、戦争責任はあるか、全ての証拠を収集せよと、アメリカ本国から命じられていました。

1946年1月25日、これに対しマッカーサーは、アイゼンハワー陸軍参謀総長に回答しています。
「天皇の犯罪行為について調査したが、過去10年間、天皇が日本の政治決定に関与した明白な証拠は見つからなかった
 天皇告発は、日本人に大きな衝撃を与え、天皇制の崩壊は日本を崩壊させる」
マッカーサーはこう考えていました。
日本は降伏しても、天皇制は存続すると信じたからポツダム宣言を受諾した。
そのため、これを裏切り天皇を裁けば、ゲリラ戦が各地で勃発するだろう。
それを制圧するためには、膨大な費用と人材を要する・・・
占領を容易に遂行するためにも天皇を裁判にかけるべきではない・・・!!

マッカーサーは様々なてを打ちます。
1946年1月1日、昭和天皇の発意として「新日本建設ニ関スル詔書」を出します。
天皇自ら現人神であることを否定した人間宣言です。
原案は、GHQによって作られました。
①「人間宣言により新たな天皇像を作り上げ、天皇の独裁者のイメージを払拭しようとしました。
そして、天皇制を存続させ、天皇が裁判で糾弾されないよう、東京裁判の為に来日したキーナン首席検事にその意向を伝えます。
これによってアメリカ政府も天皇に”戦争責任を問わない”となりました。
しかし、他にも問題が・・・
東京裁判で審判をする連合国の内ソ連とオーストラリア・・・未だ天皇の戦争責任を追及する構えでした。
②天皇を裁かないことを前提に、裁判を進めるよう他国を説得し、同意させます。
裁判が始まると、天皇を裁かないことに矛盾が生じてきます。

東京裁判を行う上で大きな課題となった昭和天皇の戦争責任・・・
この時、天皇を糾弾せよという声を制したのは、天皇との会見をしたGHQ最高司令官マッカーサーでした。
マッカーサーの働きかけによって、天皇を糾弾しないという方向で進んでいきます。
ところが・・・
開戦当時の総理だった第40代内閣総理大臣東条英機への検察尋問で状況が一変します。

「天皇が望んでいないのに、あなたは戦争を選択した。
 このことについてどう思うか?」と聞かれ・・・
「私は忠実な軍人で、陛下に背いたことはない!」

これは即ち天皇の命令で戦争を行ったということ・・・
これでは天皇の戦争責任を追及しなければならなくなる・・・!!
そこで、アメリカのキーナン主席検事は、検察尋問を打ち切り、法廷が正月休みの間に東条が親しい軍人や官僚を使い説得させたのです。
東条は渋りながらも、天皇を訴追させないためにこう証言します。

「陛下には責任なし
 全責任は自分にある」と。

こうしてなんとか天皇を出廷させずに済みました。

マッカーサーは日本の占領において、民主化にも力を入れます。
それは、日本を二度と戦争国家にしないためです。
民主化の名のもとに、日本の軍事主義を徹底的には甲斐、壊滅することが大命題でした。
武装解除を行い、背後にある財閥やそれを運用する人間の追放を徹底的に行いました。

憲法改正・・・
マッカーサーは、占領当初から時代遅れの古い憲法を改正すべきだと口にしていました。
民主的な憲法を作るべきだ・・・!!
これを受けて日本政府は新たな憲法草案を作りますが・・・明治憲法に変わらないと却下されます。
そこで、GHQ主導の下で新憲法の製作に・・・!!
別名「マッカーサー憲法」と呼ばれた日本国憲法の草案・・・
その最初に掲げられたのが、天皇の地位についてでした。

天皇は国家元首の地位にある
皇位は世襲される
天皇の職務および機能は憲法に基づく

憲法草案に関わったホイットニー局長は、「草案が守られれば天皇は安泰になるだろう」といったといいます。
マッカーサー・ノートに基づく三原則
①天皇の地位は国民主権に基づくものとする
②戦争の放棄
③封建制度の廃止
でした。
この草案に、当時の幣原内閣は驚きます。
自分達には考えも及ばない形で、日本や日本国民の権利か書かれていました。
新しい日本の憲法草案は、当時世界の中でも斬新的な民主憲法だったのです。

新憲法についても、マッカーサーと天皇は話し合いました。
1946年10月16日、第3回会見
2時間にわたった会見で天皇は・・・
「日本国民は、戦争放棄の実現を目指してその理想に忠実でありたいと思う」by昭和天皇
「戦争放棄を決意する日本国憲法は歴史的な意味を持つだけでなく、戦争を放棄したがゆえに道徳的な評価を受けていて、その面で国際社会のリーダーになりうる」byマッカーサー
日本国憲法は、その年の11月3日に公布され、翌5月3日に施行されました。

こうして天皇は、国民の象徴となったのです。
強い信頼関係で結ばれていた天皇とマッカーサー・・・その内容は、回を追うごとに深みを帯びていきます。
第4回会見以降、マッカーサーは天皇を陛下と呼んだのです。
二人の関係は信頼そのものとなり、マッカーサーは、天皇を当惑させたり、屈辱したりしないよう気を遣ったといいます。

マッカーサーはGHQ最高司令官を突如解任されます。
それは、朝鮮戦争の進め方について当時のトルーマン大統領と意見が対立したからです。
この突然の報せに、日本は驚きます。
1951年4月15日、昭和天皇はなっかーさーに別れのあいさつに向かいます。
11回目・・・これが最後の会見でした。
そして・・・翌日、マッカーサーはあわただしく日本を去っていきました。
羽田空港へと向かう沿道には、新聞発表で二十数万もの人々が星条旗と日の丸を手に一行を見送ったといいます。
しかし、どうして日本を占領しに来た司令官がこんなに人気があったのでしょうか?

アメリカの援助物資はじめ、マッカーサーの政策が、自分たちの為になっている有難さを、日本国民は身をもって知っていたからです。
こうしてマッカーサーは、日本の統治を大成功におさめたのでした。

「私はいつも、占領政策の背後にある色々な理由を、注意深く説明したが、天皇は倭代謝話し合ったほとんど、どの日本人よりも、民主的な考え方をしっかり身に着けていた
 天皇は日本の精神的復活に、大きい役割を演じ、占領の成功は、天皇の誠実な協力と影響力に負うところが極めて大きかった」

天皇は・・・
「東洋の思想にも通じているあのような人が日本に来たことは、日本の国のためにも良かった
 一度約束したことは必ず守る信義の厚い人だ
 元帥との会見はいまなお思い出深い」

昭和天皇とダグラス・マッカーサー・・・この会見がなければ、日本はいまとは違った形になっていたかもしれません。
まさに、日本の運命を決めた世紀の会見でした。


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終戦翌年から、各地に巡幸を始めた昭和天皇・・・人間宣言を行い、新しい憲法で国民統合の象徴とされました。
巡幸する昭和天皇の後ろに常に付き従うものがいました。
初代宮内庁長官・田島道治です。
占領の時代、象徴となった天皇を支え続けました。
その田島道治が残した記録が見つかりました。
”拝謁記”・・・5年近く、600回を超えた昭和天皇への拝謁の記録です。
そこに書かれていたのは、敗戦の道義上の責任を感じていた昭和天皇の告白でした。

「私は反省といふのは私にも沢山あるといへばある」

手帳6冊、ノーと12冊に及ぶ拝謁記。。。
憲法ができて、大変な変わり目・・・
敗戦の責任を感じていた昭和天皇は、戦争について国民の前で話したいと強く希望していました。
日本の独立回復を祝う式典でのお言葉では・・・戦争責任について・・・。

「私の責任のことだが、従来のようにカモフラージュでゆくか、ちゃんと実状を話すかの問題があると思う」by昭和天皇
田島に問いかけます。
「その点今日から多く研究致します。」by田島
多くの犠牲者を出した太平洋戦争・・・天皇は反省にこだわり続けました。
「私はどうしても反省という字を、どうしても入れねばと思う」by昭和天皇
ところが、総理大臣の吉田茂は、戦争に言及した文言の削除を要求してきました。
「総理の考えといたしましては、戦争とか、敗戦とか言うことは、生々しいことは避けたいという意味であります。」by田島
「しかし・・・戦争のことは言わないで、反省のことがどうして繋ぐか」by昭和天皇


戦後象徴となった天皇のその出発点とは・・・??
田島道治の遺族のもとで、極秘に保管されてきた”拝謁記”
奇跡的に残されたいきさつは・・・??
田島道治が晩年、入院を繰り返していたおt機に、身辺整理という形で拝謁記を焼こうとしました。
しかし、決して悪いようには取り扱わないから、焼かないで取り残してほしいという家族の要望で残されました。
時代が昭和・・・平成・・・令和と移り、この資料を公開しようと思ったのだとか・・・。

田島道治が宮内庁の前身・・・宮内府の長官になったのは、1948年6月5日・・・終戦から3年・・・占領下で宮中の改革が求められていました。
時の総理大臣・芦田均が白羽の矢を立てたのが田島でした。
初めての民間からの登用でした。
田島は当初62歳・・・戦前の金融恐慌後の銀行の立て直しに尽力、その手腕を買われてのことでした。
当初、外部からの長官登用に難色を示したと言われる昭和天皇・・・
しかし、拝謁記には皇室と国民の関係を良くしようと理解を示していることが書かれています。

「皇室と国民の関係というものを、時勢に合うようにしてもっとよくしていかなければと思う
 私も微力ながらやるつもりだ
 長官も私のことで気付いたら、いってくれ」by昭和天皇

「勿体ない仰せで恐れ入ります」by田島

田島は新憲法の理念に沿うように、側近らの意識改革を図り、宮中の合理化を推し進めていきます。
当時、田島が直面したのが、昭和天皇の戦争責任の問題でした。
大日本帝国憲法では、天皇は軍を統帥し、統治権のすべてを握っていました。
日本政府は天皇は無答責・・・国内法上は法的責任はなかったとしました。
しかし、敗戦の道義的責任を問い、退位を求める声がありました。
東大総長・南原繁は次のように述べました。
「陛下に道義的責任あり」。。。法律的な責任はないが、道徳的な責任はある・・・と。

日本の戦争指導者を裁く東京裁判・・・
判決が近づくと、退位を主張する論説がメディアの中で広まっていきます。
昭和天皇の退位を押しとどめたのが、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーです。
占領統治に天皇の存在が欠かせないとし、天皇に伝えます。
これを受けた昭和天皇の返答は・・・??
1948年11月12日、田島道治が天皇に代わってマッカーサーに送った書簡によると・・・

「いまやわたくしは、日本の国家再建のため、国民と力を合わせ最善を尽くす所存です。」

事実上、退位しないとの意思を示したこの書簡・・・これで昭和天皇の退位問題には決着がついたと考えられてきました。
しかし、今回発見された拝謁記によると・・・翌年の退位の可能性も語っていました。

「講和が締結されたときに、また退位などの論が出て、いろいろの情勢が許せば退位とか譲位とか言うこともかんがえられる
 そのためには、東宮ちゃんが、早く洋行するのがよいのではないか」by昭和天皇

東宮・・・皇太子は、この時まだ15歳でした。
早めに外国訪問させたいと、自らの退位を見据えて、昭和天皇は考えていました。
1949年の時点での、この退位発言をどうとらえたらいいのか・・・??
君主としての責任感があって・・・一つは国民に対する君主としての責任、そしてもう一つは皇祖皇宗・・・歴代の天皇と天皇家の祖先に対する責任・・・今まで営々と続いてきた国体を危機に陥れてしまったと、敗戦という事態を迎えた・・・そのことに対する道義的な責任・・・。
皇祖皇宗と国民に対する責任のあることがわかりました。

昭和天皇の意向を受けて、田島が相談したのは総理大臣の吉田茂でした。
吉田の意見は・・・??
「余の利口ぶるものが、そんな事をいうのもあるが、人心の安定上、そんな事は考えられぬ」

1951年11月、昭和天皇は、地方巡幸に向かいました。
特別列車の中で、天皇と田島は退位問題について話し合います。

「私の退位云々の問題についてだが、帝王の暗いというものは不自由な犠牲的の地位である
 その位を去るのは、むしろ個人としてはありがたい事ともいえる
 現にマッカーサー元帥が、生物学がやりたいのかといった事もある
 地位に止まるのは易きに就くのでなく、難きにつき困難に直面する意味である」by昭和天皇

「恐れ多くございますが、陛下は法律的には御責任なきも、道義的責任がありと思召され、此責任を御果しになるのに二つあり
 一つは位を退かれるという消極的のやり方であり、今一つは進んで日本再建のために困難な道に敢て当らうと遊ばす事と存じます
 そして陛下は、困難なる第二の責任をとる事の御気持ちであることを拝しまするし、田島の如きはいろいろ考えまして、その方が日本国の為であり、結構な結論と存じます」by田島

昭和天皇と田島は、退位せず、日本の再建にあたる道を選択しました。
退位をめぐるこの判断にどのような背景があったのでしょうか?

昭和天皇は、個人的には止めた方が気が楽になるというのが偽らざる本心だと思われます。
退位した方がいい・・・しかし、それを留意する・・・
皇室が国民に認められていくことにプラスになるか、すごく気になっていました。
国民の意思が、決定的に重要だという認識があるからこそ、気にしていた結果なのです。
国民に自らの立場をどのように伝えていくのか・・・昭和天皇にとって、大きな課題が敗戦の道義的責任でした。

1951年9月・・・サンフランシスコ平和条約調印・・・
翌年の発行で、7年近くに及んだ占領が終わり、日本が独立を回復することとなります。
独立に当たり、国民にどのようなお言葉を表明するのか・・・??

「講和となれば、私が演説というか、放送というか、何かしなければならぬかと思う
 ここで私の責任のことだが、従来のようにカモフラージュでゆくか、ちゃんと実状を話すかの問題があると思う」by昭和天皇

「その点、今日からよく研究いたします」by田島

お言葉の検討は、田島に託されました。
これ以降、一年近く、試行錯誤されます。
田島が起草した「おことば」案が八つ残されています。
一番古いものは、1952年1月15日案・・・5月3日のおことば表明に向けて、何度も書き直しが続きます。
昭和天皇がおことば案に強く求めた文言が・・・

「私はどうしても反省という字を、どうしても入れねばと思う」by昭和天皇

昭和天皇は、田島に戦争への反省を語り、その回想は、日中戦争から始まりました。

「私は反省というのは、私にも沢山あるといへばある
 志那事変で、南京で、ひどいことが行われているという事を、ひくいその筋でないものから、うすうす聞いてはいたが、別に表立って誰も言わず、従って私は此事を注意もしなかったが、市ヶ谷裁判で公になった事を見れば実にひどい」by昭和天皇

日中戦争のさ中に起きた南京事件・・・日本軍が南京を陥落、略奪・暴行を行い、一般住民や捕虜を殺害しました。
事件は戦後、東京裁判で問題となりました。

「私の届かぬ事であるが、軍も政府も国民もすべて、下剋上とか軍部の専横を見逃すとか、皆反省すれば悪いことがあるから、それらを皆反省して、繰返したくないものだという意味も、今度のいう事の内にうまく書いて欲しいと思う」by昭和天皇

「その点は、目下一生懸命作文を練っております。」by田島

天皇の求めに応じて、田島は反省の文言を付け加えました。

”過去の推移を三省し、誓って過ちを再びせざるよう、戒心せねばならない”

反省した過去の推移とは・・・??
拝謁記の中で、昭和天皇は太平洋戦争に至る道を、何度も田島に語っていました。
それは、張作霖爆殺事件にさかのぼります。
1928年、旧満州の軍閥・張作霖を関東軍が列車ごと爆殺した・・・
事件をあいまいに処理しようとした総理大臣・田中義一を、昭和天皇は叱責したが、停職になっただけで真相は明らかにされませんでした。
その3年後の1931年、関東軍は独断で満州事変を引き起こし、政府もそれを追認します。
昭和天皇は、軍の下克上ともいえる状態を憂いていました。

「考えれば、下剋上を早く根絶しなかったからだ
 田中内閣の時に、張作霖爆死を厳罰にすればよかったのだ」by昭和天皇

陸軍の青年将校たちが起こしたクーデター・二・二六事件・・・
天皇は厳罰を指示し、反乱は鎮圧されましたが、軍部の台頭は強まっていきました。

「青年将校は、私を担ぐけれど、私の真意を少しも尊重しない
 軍部のやることは、あの時分は真に無茶で、迚もあの自分の軍部の勢いは誰でも止め得られなかったと思う」by昭和天皇

その後、日本は泥沼の日中戦争へと突き進んでいきます。
1941年東條英機内閣は、アメリカ・イギリスに宣戦布告!!
太平洋戦争が始まりました。

「東條内閣の時は、既に病が進んで、最早どうする事も出来ぬという事になってた
 終戦で戦争をやめるぐらいなら、宣戦前かあるいはもっと早く止めることができなかったかというような疑を退位論者でなくとも疑問を持つと思うし、また、首相をかえる事は大権で出来ること故、なぜしなかったかと疑う向きもあると思う」by昭和天皇

「それはもちろんあると思います。」by田島

「いや・・・そうだろうと思うが、事の実際としては下剋上でとても出来るものではなかった」by昭和天皇

深い後悔の念を、誰かに話さずにはいられない・・・
残念だった・・・後悔、反省が多く、戦後でも、戦前、戦中に生きているといってもいいような暮らしぶりでした。
憲法上、あるいは世間の常識からみれば、統治権の総攬者 天皇は、主権者だったので、あの大事な場面は天皇が何とかすべきだったと思っている人が多いだろうと昭和天皇は考えていて、どうしてそれができなかったのか?自分で納得できる答えを探していたのです。

昭和天皇の深い後悔の言葉を受け止めた田島は、2月26日、おことばの下書きを天皇に説明します。

「琉球を失ったことは書いてあったか?」by昭和天皇
「残念とは直接ありませぬが、「国土を失い」とあります」by田島
「そうか、それはよろしいが、戦争犠牲者に対する厚生を書いてあるか」by昭和天皇
「「犠牲を重ねて」とはあります
 その厚生のことは、ある時の案にはありましたが、削りました
 と、申しますのは、万一政治に結び付けられるとわるいと思いましたからですが、これは大切の事故、またよく考えます」by田島
「儀税者に対し同情には堪えないという感情を述べることは当然であり、それが政治問題になることはないと思うが」by昭和天皇

日本人だけで300万人が犠牲となった戦争・・・
中でも沖縄では県民の4人に1人が亡くなりました。
日本が独立を回復したのちも、アメリカの統治下におかれることになります。

3月4日、田島は天皇の意向を受けてまとめたおことば案を朗読します。

「ちょっと読んでみますから、訂正を要するところを仰せいただきたいと存じます
 
 事志と違い 時流の激するとこと 兵を列強を交えて 遂に悲惨なる敗戦を招き 国土を失い 犠牲を重ね 曽て無き不安と困苦の道を 歩むに至ったことは 遺憾の極みであり 日夜之を思って 悲痛限りなく 寝食安からぬものがある
無数の戦争犠牲者に対し 深厚なる哀悼と 同情の意を表すると同時に 過去の推移を三省し 誓って過ちを再びせざるよう 戒慎せねばならない  」by田島

「内外に対する感謝、戦争犠牲者に対する同情、及反省の点はよろしい
 内閣へ相談してあまり変えられたくないね」by昭和天皇

田島は部下の宮内庁幹部に意見を求めました。
その結果、修正を求める声が上がりました。

3月10日、これを受けて、田島は天皇に説明します。

「主な二三の反対を強く致しましたが、その第一は「事志と違い」というのを削除するという事でありました
 何か、感じが良くないとのことであります」by田島

「どうして感じがよくないだろう
 私は「豈朕が志ならんや」ということを、特に入れてもらったのだし、それをいってどこが悪いのだろう」by昭和天皇

この「事志違い」という文言・・・
太平洋戦争は天皇の志と違って始まったという事を意味していました。
昭和天皇は、開戦の詔書で表明しています。
”今や不幸にして米英両国と釁端を開くに至る
 豈朕が志ならんや”

「私はあの時、東條にハッキリ米英両国と袂を分かつということは、実に忍びないといったのだから」by昭和天皇

「陛下が「豈朕が志ならんや」と仰せになりましても、結局陛下の御名御璽の詔書で仰せ出しになりましたこと故、表面的には陛下によって戦が仰せられたのでありますから、志でなければ戦を宣されなければ、よいではないかという理屈になります」by田島

田島はたとえ平和を念じていても、実際には天皇の名で開戦を裁可したのだから、こと志と違うとういうのは弁解に聞こえると論じました。

田島は、大学時代、国際親善と平和を唱えた新渡戸稲造に学びました。
戦争中から軍部に批判的だったといいます。
田島は民間人で、民間の組織の責任のあり方をわかっていました。
しかし、昭和天皇の偽らざる・・・信頼できる人だけに言える本音でした。

3月17日案・・・結局田島は、「事志と違い」を削除し、「勢いの赴くところ」としました。
 
戦争への反省を巡って対話を進める中、昭和天皇が何度も口にしたのは・・・

軍閥の弊 
軍閥の政府に終始御不満 
軍閥が悪いのだ

陸軍を中心に政治を左右した軍閥への不満・批判です。

「私は再軍備によって旧軍閥式の再台頭は絶対に嫌だ」by昭和天皇

1950年、朝鮮戦争が勃発、これをきっかけに再軍備に向けた動きが始まりました。
警察予備隊が発足、旧軍と同じ捧げ銃をしているのを見た天皇は・・・

「ともすると、昔の軍にかえるような気持ちを持つとも思えるから、私は例の声明メッセージには、反省するという文句は入れたたほうが良いと思う」by昭和天皇

当時アメリカは、日本に再軍備を強く求めていました。
しかし、吉田茂はアメリカの特使・ダレスに消極的な姿勢を示しました。経済的な発展を優先したからです。
ダレスの要求に応じない吉田・・・
これに対し、公職追放を解除された保守政治家たちは再軍備を主張していきます。
こうした情勢の中、昭和天皇は田島にどう伝えていたのでしょうか?

昭和天皇は、旧軍閥の復活に反対しながらも、朝鮮戦争のさ中、共産勢力の進出によるご心配をされていました。

「軍備といっても国として独立する以上必要である
 軍備の点だけ、公明正大に堂々と改正してやった方がいいように思う」by昭和天皇

昭和天皇は、再軍備について何度も田島に相談しています。

「吉田には再軍備のことは、憲法を改正すべきだという事を、質問するようにでも言わんほうがいいだろうね」

再軍備を巡って異なる意見を持つ天皇と吉田茂・・・。

日本の安全保障に対する昭和天皇のこだわり・・・
憲法第9条を改正して再軍備をするというのは、主権国家として当然ではないのか?しかし、旧軍閥の復活は駄目だ!!
吉田は独自の再軍備の構想を持っていて、日本の経済力が足らないうちは、それまで待ってもらいたいという意味を込めて再軍備反対でした。

質問という形で、度々吉田茂に意見を伝えようとする天皇・・・

「そういうことは政治向きの事故 陛下がご意見をお出しになりませぬ方がよろしいと存じます
 たとえ吉田首相にでもお触れにならぬ方がよろしいと存じます」by田島

明治憲法では、天皇は「神聖にして侵すべからず」として大権を持った君主でした。
新憲法で象徴となり、昭和天皇は総理大臣に内奏を求め、政治や外交についての意見を伝えようとしていました。
明治憲法の時代の意見が、必ずしも払拭されていないところがあり、元首としての自意識があり、いろんな問題について自分の意思を表示しようとしました。
しかし、田島は日本国憲法のもとで象徴天皇制を位置付けていく・・・という問題意識を持っていました。
政治に関わるような問題を、天皇が言うのは絶対ダメという意思は、ハッキリしていました。
象徴天皇制の枠の中に、天皇を押しとどめようとし、厳しいことも、諫めることも繰り返し言っています。
日本国憲法のもとでの天皇制・・・天皇なんだということがあり、それは田島の一貫した責任感でした。

田島は総理大臣・吉田のもとを訪ね、おことば案を説明します。
吉田は・・・
「だいたい結構であるが、今少し積極的に新日本の理想というものを力強く表して頂きたい」by吉田茂
吉田の求めに応じ、言葉が追加されます。

”新憲法の精神を発揮し、新日本建設の使命を達成することは、期して待つべきであります”

憲法尊重の文言が加わります。

3月30日、おことばの最終案が出来上がりました。
田島は大磯にいる吉田のもとを訪ね、おことば案を吟味する吉田・・・。
4月18日、田島のもとへ、吉田から思わぬ手紙が届きました。

「一昨日夕方、手紙を送ってまいりました。
 ところが一節全体を削除願いたいという申し出でありました
 それは此節であります

 「勢いの赴くところ 兵を列国と交えて敗れ 人命を失い 国土を縮め 遂にかつて無き 不安と困苦とを招くに至ったことは 遺憾の極みであり 国史の成跡に顧みて 悔恨悲痛 寝食為めに安からぬものがあります」」by田島

そこは、天皇が戦争への悔恨を現した重要な一節でした。
吉田が削除をしようと考えた背景には、当時再燃し始めていた天皇退位論がありました。
国会で中曽根康弘議員が質問します。
「もし天皇が、御みずからの御意思で御退位あそばされるなら、平和条約発効の日が最も適当であると思われるのであります」by中曽根康弘
「これを希望するがごとき者は、私は非国民と思うのであります」by吉田茂

田島はこの吉田の懸念を天皇に伝えます。
「要するに、せっかく今、声をひそめている御退位説を、また呼び覚ますのではないかとの不安があるということでありまして、今日は最早戦争とか敗戦とか言うことは、言っていただきたくない気がする
 領土の問題、困苦になったということは、今日もうしては天皇責任論に引っかかりが出来る気がするとの話でありました
 その次の、勢いの赴くところ以下は、とにかく戦争をお始めになった責任があるといわれる危険があると申すのでございます。
 田島と申しましては、昨年来陛下が国民に真情を告げたいという思召しの出発点が消えてしまっては困りますというようなことで、一応分かれてまいりましたが、御思召御感じの程は、如何でございましょうか」by田島

「私はそこで、反省を皆がしなければならないとならぬと思う
 やはり戦争が石に判して行われ、その結果がこんなになったという事を、前に書いてあるからわかるが、それなしではいかぬ」by昭和天皇

吉田の一節削除は何を反省するのかがあいまいになる変更です。
3日後・・・天皇は、戦争への反省にこだわりました。

「あれからずっと考えたのだが、総理が困るといえば不満だけれども仕方ないとしても、私の沿岸という事からつづけて遺憾な結果になったという事にして、反省のところへ続けるという事は出来ぬものか」by昭和天皇

田島は、普段と異なる天皇の様子を記しています。
”今日ははっきり不満を仰せになる”

「総理の考えといたしましては、終戦までのことは、終戦の時の御詔勅で一先づすみといたしまして、むしろ今後の明るい方面の方のことを主として言っていただきたいという方の考えであります。
 この際、戦争とか敗戦とかいうことは、生々しいことは避けたいという意味であります」by田島

「しかし、戦争のことを言わないで、反省の事がどうしてつなぐか」by昭和天皇

「戦争のことに関して明示ない以上、ぼんやり致しますが、反省すべきことが何だという事はわかると思います」by田島

”別に何とも仰せなく 曇った御表情に拝す”

吉田の削除に不満を隠さない昭和天皇・・・この時、式典は12日後に迫っていました。
詳細なメモを用意して備える田島・・・。
天皇の最後の説得に臨みます。

・国政の重大事 政府の意思尊重の要
・祝典の祝辞に 余り過去の暗い面は避けたし
・遺憾の意表明 即ち退位論に直結するの恐れ

「おことばにつきまして、田島が職責上一人の責任を持ちまして、やはり総理申し出の通り、あの一節を削除願った方がよろしいという結論に達しました。
 国政の責任者である首相の意見は重んぜられなければならぬと思います」by田島

「長官がいろいろそうやって考えた末だから、それでよろしい」by昭和天皇

「思し召しを一年近く承りながら、今頃こんな不手際に御心配おかけし、御不満かもしれませぬものを、お許し願い、誠に申し訳ございませぬ」by田島

「いや・・・大局から見て、私はこの方がよいと思う」by昭和天皇

田島は新しい憲法のもとで象徴となった天皇は、内閣総理大臣の意見を尊重するべきだと伝えました。
象徴天皇制の枠の中で、天皇がどこまで政治的な発言ができるのか?
初めての具体的な事案でした。
結局、なるべく具体的なことは言わない方がいいだろうと落ち着いていった過程がこの資料で見ることができます。

1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効され、日本は独立を回復しました。
5月3日・・・皇居前広場に、4万人が詰めかけます。
昭和天皇は国民の前でおことばを述べました。

「さきに万世のために 太平を開かんと決意し 四国競争宣言を受諾して以来 年をけみすること七歳 米国をはじめ連合国の好意と国民不屈の努力とによって ついにこの喜びの日を迎うることを得ました
 ここに内外の協力と誠意とに対し 衷心感謝するとともに 戦争による無数の犠牲者に対しては あらためて深甚なる哀悼と同情の意を表します
 また 特にこの際 既往の推移を深く省み 相共に戒慎し 過ちをふたたびせざることを 堅く心に銘すべきであると信じます
 新憲法の精神を発揮し、新日本建設の使命を達成し得ること 期して待つべきであります
 この時に当たり 身寡薄なれども 過去を顧み 世論に察し 沈思熟慮 あえて自らを励まして 負荷の重きにたえんことを期し 日夜ただおよばざることを恐れるのみであります」by昭和天皇

新聞は退位説に終止符を打ち、決意を新たに祝うと報じました。
このおことばは、その後の日本にどのような影響を与えたのでしょうか?

道義的な責任を認めて詫びる・・・
このニュアンスは消えてしまい、重い責任をあえて背負う形で、引き続き天皇としての責任を果たすという議論になってしまっています。
天皇の責任の所在を天皇自身が明らかにする「おことば」があれば、戦争に協力した国民の責任も含めて議論が始まります。
もし出されていれば、全ての責任を昭和天皇だけに押し付けるわけにはいかない・・・
戦前戦後生きてきた政治家や戦争に協力した国民の責任をどう考えるのか??
そういう問題にも発展していく可能性のある問題でした。

あいまいな形で処理されてしまったのは悔やまれる・・・
うやむやになってしまったのは、昭和天皇にとって心苦しいことで・・・
お詫びの言葉を入れたかった昭和天皇・・・入れたくなかった吉田茂・・・
朝鮮戦争の特需で景気が回復し、経済成長路線に踏み出していく未来が見えてきていました。
国民の大多数がどん底から脱出し、経済成長路線に・・・みんな前の方に希望を託す・・・!!

1953年12月田島道退官し、その後ソニーの会長に。。。
1960年御成婚直後の皇太子夫妻がソニーの工場に・・・。
迎える田島道治・・・初めての民間出身の皇太子妃誕生の選定にも貢献がありました。
戦後、象徴として国民と歩みを共にしてきた天皇・・・
1989年・・・87歳で生涯を閉じました。

昭和・・・平成・・・令和・・・と、受け継がれてきた象徴天皇。
その出発点を記録した拝謁記・・・

田島は記しています。

「新しい皇室と国民の関係を、理想的にざ漸次致したいと存じます」

昭和天皇と田島道治の5年間の対話・・・
それは、象徴天皇とは何か?改めて私たちに問いかけています。

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