1945年9月29日、日本国民を驚愕させた一枚の写真が新聞に掲載されました。
昭和天皇と連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥のツーショット写真です。
この時、天皇44歳、マッカーサー65歳でした。
写真は、天皇がアメリカ大使館を訪ね、マッカーサーと初めて会見した際に撮影されたものでした。
「古今未曽有」by高見順
「ウヌ!マックアーサーの野郎」by斎藤茂吉
と憤りました。
それもそのはず、現人神として崇められてきた昭和天皇に対し、マッカーサーはノーネクタイに開襟シャツのかゆアルな恰好で、両手を後ろに回し・・・傲慢にさえ見えました。
国民は大きなショックと怒りを抱いたのです。
その世紀の会見の中身とは・・・??
終戦の玉音放送から15日後の8月30日、戦後日本の命運を握る男がやってきました。
ダグラス・マッカーサー・・・GHQの最高司令官です。
GHQとは、連合国軍最高司令官総司令部のことで、敗戦国日本を占領管理するため、米・英・中・ソ・仏などの戦勝国によって設置された機関です。
その最高権力者となったマッカーサーが、神奈川県の厚木飛行場に降り立ちました。
午後2時5分・・・アメリカ軍の輸送機バターン号に乗って、予定より1時間ほど早く到着。
濃いサングラスにノーネクタイ、コーンパイプをくわえたマッカーサーは、ゆっくりと周りをも私て、悠々と降りてきました。
この時の印象的な登場は、マッカーサーが周到に計算した演出でした。
厚木を後にしたマッカーサーが向かったのは、東京入りするまでの狩りの宿舎・横浜のホテルニューグランドでした。
現在も、マッカーサーが利用した部屋が残っています。
しかし、どうしてこのホテルだったのでしょうか?
進駐軍が、最初の滞留地として横浜としたのは、最高司令官の宿舎としてニューグランドが相応しかったからと伝えられています。
ホテルニューグランドが、主に外国人に向けて建てられたホテルだったこと、そしてアメリカの攻撃対象から外されていたため焼けずに残っていたことが大きな理由でした。
マッカーサーは、横浜港に面した部屋をとても気に入っていました。
マッカーサーは、毎日朝食に2個の卵を食べました。
しかし、その卵を用意することができないほどの食糧難だった日本・・・
そこで、進駐軍から日本に大量の食べ物が届けられることになります。
マッカーサーはこのホテルに来たのは初めてではありませんでした。
夫人と泊まった思い出のホテルでした。
1937年、マッカーサーがフィリピン軍事顧問だったころ、当時のケソン・フィリピン大統領の訪米にお供し、その帰りに日本に立ち寄っていたのです。
一緒に来ていたジーン夫人は、二度目の結婚相手でした。
新婚旅行をしていなかったので、ハネムーンとしてこのホテルに1泊しました。
1945年9月2日、マッカーサーが日本にやってきた3日後、日本の降伏調印が、アメリカの戦艦ミズーリ号で行われました。
その調印式の開会を告げるマッカーサーのスピーチが映像に残されています。
「私は連合国最高司令官として、私の代表する諸国の伝統に従って、正義と寛容をもって私の責任を果たし、降伏条件が完全、迅速、かつ誠実に遵守せられるようあらゆる必要な措置を取る決意である」byマッカーサー
日本側からは、外務大臣の重光葵が調印・・・ここに大日本帝国は終焉しました。
9月8日・・・マッカーサーは、東京に入ると、日本での住まいとなるアメリカ大使館・そして、皇居の向かいに立つ第一生命ビルを接収しこれをGHQ本部としました。
最大で40万にもなったという米軍部隊も日本全国に上陸・・・占領体制は着々と整備されていきました。
マッカーサーは、土日も休まず、毎日判を押したように決まった時間に行動したといいます。
毎朝10時にはアメリカ大使館をでて、GHQ本部である第一生命ビルへと向かいました。
仕事をするのは、マッカーサールームと言われる執務室でした。
午後になると大使館に帰ってすぐに昼食を取り、短い昼寝をした後もどり、夜遅くまで仕事をしていたといいます。
唯一の息抜きが、夕食の後の映画・・・西部劇が大好きだったといいます。
30人は入れるという部屋に、スクリーンと椅子を用意して、夫人やスタッフと一緒に見たといいます。
敗戦からおよそ1か月・・・GHQによる本格的な日本統治が始まりました。
実質的にはアメリカの単独占領・・・その為、GHQのTOPにいたマッカーサーの命令は絶対でした。
「私は日本国民に対して事実上、無期限の以遠力を持っていた
歴史上、いかなる植民地総督も、征服者も、総司令官も、私が日本国民に対して持ったほどの権力を持ったことがなかった
私の権力は至上のものであった」byマッカーサー
それでもマッカーサーは、ミズーリ号での調印式や、第一生命ビルの接収だけでは、支配者マッカーサーのイメージを日本の指導者と国民の目に焼き付けるには不十分だと考えていました。
「早急に、天皇と会見をする必要があるのだが・・・」
実は、マッカーサーは、GHQの幕僚たちからこう強く勧められていました。
「我々の権力を示すために、天皇を総司令部に来させたらどうか?」
「敗戦のみじめさを思い知らせろ」
という声まであったのです。
しかし、マッカーサーは迷っていました。
そして、考えた末、天皇を呼びつけるのではなく、天皇から会いに来るのを待つことにしたのです。
どうして呼びつけなかったのでしょうか?
それは、マッカーサーの経歴と深く関係しています。
1880年アメリカ合衆国アーカンソー州で生まれたマッカーサーは、陸軍士官学校を首席で卒業、アメリカ軍に入隊しフィリピン赴任を経て、陸軍のTOPである参謀総長に史上最年少・・・50歳で就任。
エリート軍人でした。
太平洋戦争勃発後は、5回目となるフィリピンへ・・・
こうして、長年フィリピンに滞在していたマッカーサーは、アメリカ陸軍きってのアジア通を自負していました。
アジア人の心理をよく理解していたと言われています。
「幕僚たちが、権力を示すために天皇を招きよせたら、と強く勧めたが、そんなことをすれば、日本の国民感情を踏みにじり、天皇を国民の目に殉教者に仕立て上げることになる」byマッカーサー
マッカーサーは、日本は天皇崇拝のおかげで、戦後も無政府状態にならず、粛々と敗戦を受け入れたのだと考えていました。
その為、無理やり天皇を呼びつければ、日本国民の反感を買い、今後の占領がやりにくくなると考えたのです。
「私はまとう
そのうち天皇が自発的に私に会いに来るだろう
西洋のようにせっかちにするよりは、東洋のように辛抱強く待つ方が、我々の目的に一番かながっている」byマッカーサー
後に、副官であったバンカー大佐が言っています。
「ゼネラルは、心理的な側面では天皇を通じて占領を極めて効果的に行った」と。
天皇との会見の必要性を強く感じながらも待つことにしたマッカーサー・・・。
実はこの時、日本も早急にマッカーサーと会見した方が良いと考えていました。
日本がポツダム宣言を受諾した最大の理由は、国体護持(天皇制存続)されると思っていたからです。
しかし、同時にポツダム宣言の中には、戦争責任をつき五窮する軍事裁判を行うことも謳われていました。
天皇が糾弾される可能性もあったのです。
日本政府は、”天皇が軍事裁判で糾弾されるのか”をGHQから探りたかったのです。
実際、アメリカでは天皇を糾弾せよという世論が高まっていました。
そこで、宮内省関係者は、日本統治において最高権力者のマッカーサーの考えを知ろうと情報集めに奔走・・・
しかし、なにもつかめずにいました。
その為、天皇とマッカーサーの会見実現に踏み切れずにいたのです。
そんな中・・・9月20日。
昭和天皇の侍従長・藤田尚徳のもとに、1本の電話がかかってきました。
電話は時の外務大臣・吉田茂・・・マッカーサーとあってきたというのです。
「マッカーサー元帥に、もし天皇陛下が”あなたを訪問したい”と言われたらどうなさるかと質問したところ、”喜んで歓迎申し上げる”との返事だった」by吉田茂
吉田から電話がかかってくる前に、侍従長の藤田もまたマッカーサーと会っていました。
「マッカーサー元帥は、開戦以来方々の戦場で戦われ、日本に進駐されたが、ご健康はどうであろうか
炎熱の南方諸島で、健康をそこなわれるようなことはなかったろうか
また、日本の夏は残暑が厳しいので、十分に健康にご注意ありたい」
するとマッカーサーは、
「私のことを色々ご心配くださって感謝にたえない
どうか天皇に宜しくお伝え願いたい」byマッカーサー
マッカーサーの丁寧な対応に侍従長は安堵しました。
しかしこれだけでは相手が会見を望んでいるのかわかりません。
なので、吉田からの一報は、嬉しかったでしょう。
こうして、GHQの態度がはっきりしたため、宮内省で計画し、天皇がアメリカ大使館にマッカーサーを訪問することが決まりました。
その運命の日は9月27日・・・!!
昭和天皇は、数人のお付きと共に、赤坂にあるアメリカ大使館に到着しました。
迎賓室の入り口で待っていたマッカーサーと遂に対面します。
握手と簡単なあいさつを交わした後、天皇は部屋に入りました。
この時、お付きとして許されたのは通訳ただ一人・・・
マッカーサーは、天皇に、
「こちらへお立ちください」と言って、天皇の右側に立つと・・・突如、マッカーサー付きのカメラマンがフラッシュをたいたのです。
撮影に関して何も知らされていなかった天皇は、驚きを隠せず、姿勢を正すことができませんでした。
3枚目でようやく体勢を取ることができました。
当初、この写真は、宮内省発表記事と共に、翌日28日の新聞に報じられる予定でしたが、国内行政を担っていた内務大臣の山崎巌が、不敬だとして掲載禁止にするのです。
これまで国民が見慣れた天皇の写真は、御真影と呼ばれた陸海軍大元帥の礼僧服か、白馬にまたがった陸軍官幣式などでの勇士でした。
それが・・・平民と変わらないモーニングにネクタイという姿だったからです。
さらに、現人神である天皇が、直立不動の姿勢なのに対し、マッカーサーはノーネクタイに開襟シャツという軽装、こうした理由から不敬だと差し止めたのです。
しかし、新聞に写真が掲載されていないことを知ったGHQは激怒!!
依然として旧体制を取った考えを持った者がいると、言論に対する一切の戒厳令を撤廃したのです。
こうして、会見から2日後の29日、2人の写真が掲載されました。
これを見た国民の多くは、日本が戦争に負けたことを改めて実感させられたといいます。
昭和天皇・マッカーサー 第1回会見
この写真を撮ったのち、天皇とマッカーサーの第1回会見が始まりました。
会見のお真名内容は、天皇が開戦を遺憾としていることや、ポツダム宣言の履行についての確認でした。
マッカーサーは、天皇のことをエンペラーと呼び、天皇に全てを訳し伝えよと強い口調で通訳に伝えると、演説めいた口調で10分にもわたり話し続けました。
後にマッカーサーは、この時のことを振り返り言っています。
「私は天皇が戦争犯罪者として起訴されないよう自分の立場を訴え始めるのではないか、という不安を感じた」
驚くことに、天皇が命乞いをしに来たのでは??と思っていました。
実際に天皇を戦犯として声高に叫んでいる者もいました。
そんなマッカーサーの先入観を、天皇は覆します。
耳をを疑うようなお言葉でした。
マッカーサーの回想記によると・・・
「私がアメリカ製の煙草を差し出すと、天皇は礼を言って受け取られた
その煙草に火をつけて差し上げたとき、私は天皇の手が震えているのに気が付いた」
マッカーサーからの薦めで、普段は吸わないたばこを手にした天皇・・・
隠せないほどの緊張が和らいだのは、マッカーサーがこんな思い出話をしたからでした。
「私は、日本とは40年来の縁があるのです。
最初の日本訪問は、日露戦争の時、父が従軍武官としてきた際、その副官としてきたのです。
戦争後には、私は一度、天皇の父君に拝謁したこともあるのですよ」byマッカーサー
そんな話をするうちに、天皇の警戒心は薄らいでいき、空気も和らいできました。
すると天皇は、
「私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の採決に委ねるためお訪ねした」
なんと、戦争責任のすべてを追うというのです。
「死を伴うほどの責任
明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとするこの勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした
私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の死角においても日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである」byマッカーサー
気付けば、会見の時間は予定より大幅にオーバーしていました。
35分に及ぶ会見で、天皇とマッカーサーは、心を通わせたのです。
会見が終わると、マッカーサーは大使館の玄関まで見送りました。
予定外のことでした。
天皇との信頼関係が築けたということは、日本国民の信頼も勝ち得たと判断したのかもしれません。
この会見の成功が、敗戦国日本の歴史を大きく変えることとなったのです。
昭和天皇とマッカーサーの第1回会見のおよそ7か月後・・・
1946年5月3日、東京市ヶ谷の旧陸軍士官学校大講堂を法廷にして、極東国際軍事裁判・・・東京裁判が開かれることになりました。
ポツダム宣言に基づき日本の戦争責任を追及するというものでした。
注目されたのは、最大の戦争責任ありとされた昭和天皇の処遇でした。
連合国側では、天皇を戦争責任者として裁判にかけ、処刑、追放すべきだという声が高まっていました。
マッカーサーは、終戦後、天皇が日本の国際法違反に関与していないか、戦争責任はあるか、全ての証拠を収拾せよと、アメリカ本国から命じられていました。
1946年1月25日、マッカーサーは、アイゼンハワー陸軍参謀総長にこう回答しています。
「天皇の犯罪行為について調査したが、過去10年間、天皇が日本の政治決定に関与した明白な証拠は見つからなかった
天皇告発は、日本人にとって大きな衝撃を与え、天皇制の崩壊は日本を崩壊させる」byマッカーサー
マッカーサーは、日本は降伏しても天皇制は存続すると信じたからポツダム宣言を受諾した。
その為、もしこれを裏切り、天皇をさばけばゲリラ戦が各地で勃発するだろう・・・それを制圧するためには、膨大な費用と人材を要することになる。
占領を容易に遂行するためにも、天皇を裁判にかけるべきではないと考えていました。
そこでマッカーサーは、様々な手を打ちます。
第1回会見から3か月後の1946年1月1日。
昭和天皇を発意として新日本建設に関する詔書が出されます。
天皇自ら現人神であることを否定した人間宣言です。
原案は、GHQによって作られました。
①「人間宣言」により新たな天皇像を作り上げ、天皇の独裁者のイメージを払しょくしようとした
そして、天皇制を存続させ、天皇が裁判で糾弾されないよう、東京裁判のために来日したアメリカのキーナン首席検事にその意向を伝えました。
これによって、アメリカ政府も天皇に戦争責任を問わないとします。
しかし、問題はまだありました。
東京裁判で審判をする連合国のうち、ソ連とオーストラリアなどはいまだ天皇の戦争責任を追及する構えだったからです。
②そこでアメリカは、天皇を裁かないことを前提に、裁判を進めるよう他国を説得し同意させました。
裁判が始まると、天皇を裁かないことに矛盾を生じてきました。
東京裁判を行う上で、大きな課題となった昭和天皇に対する戦争責任の追及・・・
この時、天皇を糾弾せよという声を制したのは、天皇との会見を済ませたダグラス・マッカーサーでした。
マッカーサーの働きかけによって、裁判は天皇を糾弾しない方向で始まります。
ところが・・・回線当時の総理であった東條英機への検察尋問で、状況が一変します。
「天皇が望んでいないのに、あなたは戦争をすることを選択した
あなたはそのことについてどう思っているのか??」
「私は忠実な軍人で、陛下に背いたことはない!!」by東條英機
これは即ち、天皇の命令で戦争を行ったということ・・・
これでは天皇の戦争責任を追及しなければならなくなってしまいます。
そこで、アメリカのキーナン首席検事は、検察尋問を打ち切り、法廷が正月休みの間に登場と親しい文人や官僚を使い説得させたのです。
東條は渋りながらも、最後には天皇を訴追させないためこう証言します。
「陛下には責任なし 全責任は自分にある」by東條英機
こうして、なんとか天皇を出廷させずに済んだのです。
マッカーサーは、日本の占領において、民主化にも力を注ぎました。
それは、日本を二度と戦争国家にさせないため・・・
民主化という名のもとに、日本の軍国主義を徹底的に破壊、壊滅することが大命題でした。
武装解除を行い、背後にある財閥やそれを運用する人間の追放を徹底的に行いました。
憲法改正もその一つでした。
マッカーサーは、占領当初から、時代遅れの封建的な明治憲法を改正するべきだと口にしていました。
民主的な憲法を作るべきだと・・・
これを受けて、日本政府は新たな憲法の草案を作りますが、明治憲法を変わらないと却下されます。
そこで、GHQ主導で、新憲法の制定に取り掛かることになります。
別名マッカーサー憲法と呼ばれた日本国憲法の草案の最初に掲げられたのが、天皇の地位に就いてでした。
”天皇は国家元首の地位にあり、皇位は世襲される
天皇の職務および機能は、憲法に基づき行使され、憲法に示された国民の基本的意思に応えるものとする”
憲法草案の作成に携わったGHQのホイットニー局長は、草案が守られれば天皇は安泰になるだろうと言ったと言われています。
その外にも、戦争の放棄、封建制度の廃止
大原則が掲げられたこの草案に、当時の幣原内閣は驚きました。
自分たちには考えも及ばないような形で、日本や日本国民の権利が書かれていました。
新しい日本の憲法草案は、当時世界の中でも斬新的な民主憲法でした。
新憲法についても天皇とマッカーサーは話し合ったといいます。
1946年10月16日第三回会見
2時間にわたった会見で、天皇は
「日本国民は、戦争放棄の実現を目指して、その理想に忠実でありたいと思う」
これに対しマッカーサーは、
「戦争放棄を決意する日本国憲法は、歴史的な意味を持つだけではなく、戦争を放棄したがゆえに道徳的な評価を受けていて、その面で国際社会のリーダーになり得る」
日本国憲法は、その年の11月3日に公布され、翌年の5月3日に施行されます。
こうして天皇は、国民の象徴となったのです。
強い信頼関係で結ばれていた天皇とマッカーサー・・・
2人の会見は、回を重ねるごとに深みを帯びていき、打ち解けていきました。
第四回会見以降、マッカーサーは、陛下と敬称で呼ぶようになりました。
1951年4月11日、マッカーサーは、GHQ最高司令官を突如解任。
朝鮮戦争の進め方について、当時のトルーマン大統領と意見が対立したことが原因でした。
この突然の報せに、日本側は驚きます。
1951年4月15日・・・昭和天皇は、マッカーサーに別れの挨拶に向かいます。
11回目・・・これが最後の会見となりました。
そして、その翌日・・・マッカーサーは、あわただしく日本を去っていきました。
羽田空港へと向かう沿道には、新聞発表で二十数万人の人々が星条旗と日の丸を手に、マッカーサー一行を見送ったといいます。
どうしてこれほどまでに人気だったのでしょうか?
マッカーサーの政策が、自分たちのためになっているありがたさを日本国民は身をもって知っていたのです。
こうしてマッカーサーは、日本統治において大成功を収めて帰っていったのです。
「私はいつも占領政策の背後にあるいろいろな理由を注意深く説明したが、天皇は私が話し合ったほとんどどの日本人よりも民主的な考え方をしっかり身につけていた
天皇は、日本の精神的復活に大きい役割を演じ、占領の成功は、天皇の誠実な協力と影響力に追うところが極めて大きかった」byマッカーサー
「東洋の思想にも通じているあのような人が、日本に来たことは日本の国のためにも良かった
一度約束したことは必ず守る、信義の厚い人だ
元帥との会見は、今なお思い出深い」by昭和天皇
↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村
昭和天皇と連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥のツーショット写真です。
この時、天皇44歳、マッカーサー65歳でした。
写真は、天皇がアメリカ大使館を訪ね、マッカーサーと初めて会見した際に撮影されたものでした。
「古今未曽有」by高見順
「ウヌ!マックアーサーの野郎」by斎藤茂吉
と憤りました。
それもそのはず、現人神として崇められてきた昭和天皇に対し、マッカーサーはノーネクタイに開襟シャツのかゆアルな恰好で、両手を後ろに回し・・・傲慢にさえ見えました。
国民は大きなショックと怒りを抱いたのです。
その世紀の会見の中身とは・・・??
終戦の玉音放送から15日後の8月30日、戦後日本の命運を握る男がやってきました。
ダグラス・マッカーサー・・・GHQの最高司令官です。
GHQとは、連合国軍最高司令官総司令部のことで、敗戦国日本を占領管理するため、米・英・中・ソ・仏などの戦勝国によって設置された機関です。
その最高権力者となったマッカーサーが、神奈川県の厚木飛行場に降り立ちました。
午後2時5分・・・アメリカ軍の輸送機バターン号に乗って、予定より1時間ほど早く到着。
濃いサングラスにノーネクタイ、コーンパイプをくわえたマッカーサーは、ゆっくりと周りをも私て、悠々と降りてきました。
この時の印象的な登場は、マッカーサーが周到に計算した演出でした。
厚木を後にしたマッカーサーが向かったのは、東京入りするまでの狩りの宿舎・横浜のホテルニューグランドでした。
現在も、マッカーサーが利用した部屋が残っています。
しかし、どうしてこのホテルだったのでしょうか?
進駐軍が、最初の滞留地として横浜としたのは、最高司令官の宿舎としてニューグランドが相応しかったからと伝えられています。
ホテルニューグランドが、主に外国人に向けて建てられたホテルだったこと、そしてアメリカの攻撃対象から外されていたため焼けずに残っていたことが大きな理由でした。
マッカーサーは、横浜港に面した部屋をとても気に入っていました。
マッカーサーは、毎日朝食に2個の卵を食べました。
しかし、その卵を用意することができないほどの食糧難だった日本・・・
そこで、進駐軍から日本に大量の食べ物が届けられることになります。
マッカーサーはこのホテルに来たのは初めてではありませんでした。
夫人と泊まった思い出のホテルでした。
1937年、マッカーサーがフィリピン軍事顧問だったころ、当時のケソン・フィリピン大統領の訪米にお供し、その帰りに日本に立ち寄っていたのです。
一緒に来ていたジーン夫人は、二度目の結婚相手でした。
新婚旅行をしていなかったので、ハネムーンとしてこのホテルに1泊しました。
1945年9月2日、マッカーサーが日本にやってきた3日後、日本の降伏調印が、アメリカの戦艦ミズーリ号で行われました。
その調印式の開会を告げるマッカーサーのスピーチが映像に残されています。
「私は連合国最高司令官として、私の代表する諸国の伝統に従って、正義と寛容をもって私の責任を果たし、降伏条件が完全、迅速、かつ誠実に遵守せられるようあらゆる必要な措置を取る決意である」byマッカーサー
日本側からは、外務大臣の重光葵が調印・・・ここに大日本帝国は終焉しました。
9月8日・・・マッカーサーは、東京に入ると、日本での住まいとなるアメリカ大使館・そして、皇居の向かいに立つ第一生命ビルを接収しこれをGHQ本部としました。
最大で40万にもなったという米軍部隊も日本全国に上陸・・・占領体制は着々と整備されていきました。
マッカーサーは、土日も休まず、毎日判を押したように決まった時間に行動したといいます。
毎朝10時にはアメリカ大使館をでて、GHQ本部である第一生命ビルへと向かいました。
仕事をするのは、マッカーサールームと言われる執務室でした。
午後になると大使館に帰ってすぐに昼食を取り、短い昼寝をした後もどり、夜遅くまで仕事をしていたといいます。
唯一の息抜きが、夕食の後の映画・・・西部劇が大好きだったといいます。
30人は入れるという部屋に、スクリーンと椅子を用意して、夫人やスタッフと一緒に見たといいます。
敗戦からおよそ1か月・・・GHQによる本格的な日本統治が始まりました。
実質的にはアメリカの単独占領・・・その為、GHQのTOPにいたマッカーサーの命令は絶対でした。
「私は日本国民に対して事実上、無期限の以遠力を持っていた
歴史上、いかなる植民地総督も、征服者も、総司令官も、私が日本国民に対して持ったほどの権力を持ったことがなかった
私の権力は至上のものであった」byマッカーサー
それでもマッカーサーは、ミズーリ号での調印式や、第一生命ビルの接収だけでは、支配者マッカーサーのイメージを日本の指導者と国民の目に焼き付けるには不十分だと考えていました。
「早急に、天皇と会見をする必要があるのだが・・・」
実は、マッカーサーは、GHQの幕僚たちからこう強く勧められていました。
「我々の権力を示すために、天皇を総司令部に来させたらどうか?」
「敗戦のみじめさを思い知らせろ」
という声まであったのです。
しかし、マッカーサーは迷っていました。
そして、考えた末、天皇を呼びつけるのではなく、天皇から会いに来るのを待つことにしたのです。
どうして呼びつけなかったのでしょうか?
それは、マッカーサーの経歴と深く関係しています。
1880年アメリカ合衆国アーカンソー州で生まれたマッカーサーは、陸軍士官学校を首席で卒業、アメリカ軍に入隊しフィリピン赴任を経て、陸軍のTOPである参謀総長に史上最年少・・・50歳で就任。
エリート軍人でした。
太平洋戦争勃発後は、5回目となるフィリピンへ・・・
こうして、長年フィリピンに滞在していたマッカーサーは、アメリカ陸軍きってのアジア通を自負していました。
アジア人の心理をよく理解していたと言われています。
「幕僚たちが、権力を示すために天皇を招きよせたら、と強く勧めたが、そんなことをすれば、日本の国民感情を踏みにじり、天皇を国民の目に殉教者に仕立て上げることになる」byマッカーサー
マッカーサーは、日本は天皇崇拝のおかげで、戦後も無政府状態にならず、粛々と敗戦を受け入れたのだと考えていました。
その為、無理やり天皇を呼びつければ、日本国民の反感を買い、今後の占領がやりにくくなると考えたのです。
「私はまとう
そのうち天皇が自発的に私に会いに来るだろう
西洋のようにせっかちにするよりは、東洋のように辛抱強く待つ方が、我々の目的に一番かながっている」byマッカーサー
後に、副官であったバンカー大佐が言っています。
「ゼネラルは、心理的な側面では天皇を通じて占領を極めて効果的に行った」と。
天皇との会見の必要性を強く感じながらも待つことにしたマッカーサー・・・。
実はこの時、日本も早急にマッカーサーと会見した方が良いと考えていました。
日本がポツダム宣言を受諾した最大の理由は、国体護持(天皇制存続)されると思っていたからです。
しかし、同時にポツダム宣言の中には、戦争責任をつき五窮する軍事裁判を行うことも謳われていました。
天皇が糾弾される可能性もあったのです。
日本政府は、”天皇が軍事裁判で糾弾されるのか”をGHQから探りたかったのです。
実際、アメリカでは天皇を糾弾せよという世論が高まっていました。
そこで、宮内省関係者は、日本統治において最高権力者のマッカーサーの考えを知ろうと情報集めに奔走・・・
しかし、なにもつかめずにいました。
その為、天皇とマッカーサーの会見実現に踏み切れずにいたのです。
そんな中・・・9月20日。
昭和天皇の侍従長・藤田尚徳のもとに、1本の電話がかかってきました。
電話は時の外務大臣・吉田茂・・・マッカーサーとあってきたというのです。
「マッカーサー元帥に、もし天皇陛下が”あなたを訪問したい”と言われたらどうなさるかと質問したところ、”喜んで歓迎申し上げる”との返事だった」by吉田茂
吉田から電話がかかってくる前に、侍従長の藤田もまたマッカーサーと会っていました。
「マッカーサー元帥は、開戦以来方々の戦場で戦われ、日本に進駐されたが、ご健康はどうであろうか
炎熱の南方諸島で、健康をそこなわれるようなことはなかったろうか
また、日本の夏は残暑が厳しいので、十分に健康にご注意ありたい」
するとマッカーサーは、
「私のことを色々ご心配くださって感謝にたえない
どうか天皇に宜しくお伝え願いたい」byマッカーサー
マッカーサーの丁寧な対応に侍従長は安堵しました。
しかしこれだけでは相手が会見を望んでいるのかわかりません。
なので、吉田からの一報は、嬉しかったでしょう。
こうして、GHQの態度がはっきりしたため、宮内省で計画し、天皇がアメリカ大使館にマッカーサーを訪問することが決まりました。
その運命の日は9月27日・・・!!
昭和天皇は、数人のお付きと共に、赤坂にあるアメリカ大使館に到着しました。
迎賓室の入り口で待っていたマッカーサーと遂に対面します。
握手と簡単なあいさつを交わした後、天皇は部屋に入りました。
この時、お付きとして許されたのは通訳ただ一人・・・
マッカーサーは、天皇に、
「こちらへお立ちください」と言って、天皇の右側に立つと・・・突如、マッカーサー付きのカメラマンがフラッシュをたいたのです。
撮影に関して何も知らされていなかった天皇は、驚きを隠せず、姿勢を正すことができませんでした。
3枚目でようやく体勢を取ることができました。
当初、この写真は、宮内省発表記事と共に、翌日28日の新聞に報じられる予定でしたが、国内行政を担っていた内務大臣の山崎巌が、不敬だとして掲載禁止にするのです。
これまで国民が見慣れた天皇の写真は、御真影と呼ばれた陸海軍大元帥の礼僧服か、白馬にまたがった陸軍官幣式などでの勇士でした。
それが・・・平民と変わらないモーニングにネクタイという姿だったからです。
さらに、現人神である天皇が、直立不動の姿勢なのに対し、マッカーサーはノーネクタイに開襟シャツという軽装、こうした理由から不敬だと差し止めたのです。
しかし、新聞に写真が掲載されていないことを知ったGHQは激怒!!
依然として旧体制を取った考えを持った者がいると、言論に対する一切の戒厳令を撤廃したのです。
こうして、会見から2日後の29日、2人の写真が掲載されました。
これを見た国民の多くは、日本が戦争に負けたことを改めて実感させられたといいます。
昭和天皇・マッカーサー 第1回会見
この写真を撮ったのち、天皇とマッカーサーの第1回会見が始まりました。
会見のお真名内容は、天皇が開戦を遺憾としていることや、ポツダム宣言の履行についての確認でした。
マッカーサーは、天皇のことをエンペラーと呼び、天皇に全てを訳し伝えよと強い口調で通訳に伝えると、演説めいた口調で10分にもわたり話し続けました。
後にマッカーサーは、この時のことを振り返り言っています。
「私は天皇が戦争犯罪者として起訴されないよう自分の立場を訴え始めるのではないか、という不安を感じた」
驚くことに、天皇が命乞いをしに来たのでは??と思っていました。
実際に天皇を戦犯として声高に叫んでいる者もいました。
そんなマッカーサーの先入観を、天皇は覆します。
耳をを疑うようなお言葉でした。
マッカーサーの回想記によると・・・
「私がアメリカ製の煙草を差し出すと、天皇は礼を言って受け取られた
その煙草に火をつけて差し上げたとき、私は天皇の手が震えているのに気が付いた」
マッカーサーからの薦めで、普段は吸わないたばこを手にした天皇・・・
隠せないほどの緊張が和らいだのは、マッカーサーがこんな思い出話をしたからでした。
「私は、日本とは40年来の縁があるのです。
最初の日本訪問は、日露戦争の時、父が従軍武官としてきた際、その副官としてきたのです。
戦争後には、私は一度、天皇の父君に拝謁したこともあるのですよ」byマッカーサー
そんな話をするうちに、天皇の警戒心は薄らいでいき、空気も和らいできました。
すると天皇は、
「私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の採決に委ねるためお訪ねした」
なんと、戦争責任のすべてを追うというのです。
「死を伴うほどの責任
明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとするこの勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした
私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の死角においても日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである」byマッカーサー
気付けば、会見の時間は予定より大幅にオーバーしていました。
35分に及ぶ会見で、天皇とマッカーサーは、心を通わせたのです。
会見が終わると、マッカーサーは大使館の玄関まで見送りました。
予定外のことでした。
天皇との信頼関係が築けたということは、日本国民の信頼も勝ち得たと判断したのかもしれません。
この会見の成功が、敗戦国日本の歴史を大きく変えることとなったのです。
昭和天皇とマッカーサーの第1回会見のおよそ7か月後・・・
1946年5月3日、東京市ヶ谷の旧陸軍士官学校大講堂を法廷にして、極東国際軍事裁判・・・東京裁判が開かれることになりました。
ポツダム宣言に基づき日本の戦争責任を追及するというものでした。
注目されたのは、最大の戦争責任ありとされた昭和天皇の処遇でした。
連合国側では、天皇を戦争責任者として裁判にかけ、処刑、追放すべきだという声が高まっていました。
マッカーサーは、終戦後、天皇が日本の国際法違反に関与していないか、戦争責任はあるか、全ての証拠を収拾せよと、アメリカ本国から命じられていました。
1946年1月25日、マッカーサーは、アイゼンハワー陸軍参謀総長にこう回答しています。
「天皇の犯罪行為について調査したが、過去10年間、天皇が日本の政治決定に関与した明白な証拠は見つからなかった
天皇告発は、日本人にとって大きな衝撃を与え、天皇制の崩壊は日本を崩壊させる」byマッカーサー
マッカーサーは、日本は降伏しても天皇制は存続すると信じたからポツダム宣言を受諾した。
その為、もしこれを裏切り、天皇をさばけばゲリラ戦が各地で勃発するだろう・・・それを制圧するためには、膨大な費用と人材を要することになる。
占領を容易に遂行するためにも、天皇を裁判にかけるべきではないと考えていました。
そこでマッカーサーは、様々な手を打ちます。
第1回会見から3か月後の1946年1月1日。
昭和天皇を発意として新日本建設に関する詔書が出されます。
天皇自ら現人神であることを否定した人間宣言です。
原案は、GHQによって作られました。
①「人間宣言」により新たな天皇像を作り上げ、天皇の独裁者のイメージを払しょくしようとした
そして、天皇制を存続させ、天皇が裁判で糾弾されないよう、東京裁判のために来日したアメリカのキーナン首席検事にその意向を伝えました。
これによって、アメリカ政府も天皇に戦争責任を問わないとします。
しかし、問題はまだありました。
東京裁判で審判をする連合国のうち、ソ連とオーストラリアなどはいまだ天皇の戦争責任を追及する構えだったからです。
②そこでアメリカは、天皇を裁かないことを前提に、裁判を進めるよう他国を説得し同意させました。
裁判が始まると、天皇を裁かないことに矛盾を生じてきました。
東京裁判を行う上で、大きな課題となった昭和天皇に対する戦争責任の追及・・・
この時、天皇を糾弾せよという声を制したのは、天皇との会見を済ませたダグラス・マッカーサーでした。
マッカーサーの働きかけによって、裁判は天皇を糾弾しない方向で始まります。
ところが・・・回線当時の総理であった東條英機への検察尋問で、状況が一変します。
「天皇が望んでいないのに、あなたは戦争をすることを選択した
あなたはそのことについてどう思っているのか??」
「私は忠実な軍人で、陛下に背いたことはない!!」by東條英機
これは即ち、天皇の命令で戦争を行ったということ・・・
これでは天皇の戦争責任を追及しなければならなくなってしまいます。
そこで、アメリカのキーナン首席検事は、検察尋問を打ち切り、法廷が正月休みの間に登場と親しい文人や官僚を使い説得させたのです。
東條は渋りながらも、最後には天皇を訴追させないためこう証言します。
「陛下には責任なし 全責任は自分にある」by東條英機
こうして、なんとか天皇を出廷させずに済んだのです。
マッカーサーは、日本の占領において、民主化にも力を注ぎました。
それは、日本を二度と戦争国家にさせないため・・・
民主化という名のもとに、日本の軍国主義を徹底的に破壊、壊滅することが大命題でした。
武装解除を行い、背後にある財閥やそれを運用する人間の追放を徹底的に行いました。
憲法改正もその一つでした。
マッカーサーは、占領当初から、時代遅れの封建的な明治憲法を改正するべきだと口にしていました。
民主的な憲法を作るべきだと・・・
これを受けて、日本政府は新たな憲法の草案を作りますが、明治憲法を変わらないと却下されます。
そこで、GHQ主導で、新憲法の制定に取り掛かることになります。
別名マッカーサー憲法と呼ばれた日本国憲法の草案の最初に掲げられたのが、天皇の地位に就いてでした。
”天皇は国家元首の地位にあり、皇位は世襲される
天皇の職務および機能は、憲法に基づき行使され、憲法に示された国民の基本的意思に応えるものとする”
憲法草案の作成に携わったGHQのホイットニー局長は、草案が守られれば天皇は安泰になるだろうと言ったと言われています。
その外にも、戦争の放棄、封建制度の廃止
大原則が掲げられたこの草案に、当時の幣原内閣は驚きました。
自分たちには考えも及ばないような形で、日本や日本国民の権利が書かれていました。
新しい日本の憲法草案は、当時世界の中でも斬新的な民主憲法でした。
新憲法についても天皇とマッカーサーは話し合ったといいます。
1946年10月16日第三回会見
2時間にわたった会見で、天皇は
「日本国民は、戦争放棄の実現を目指して、その理想に忠実でありたいと思う」
これに対しマッカーサーは、
「戦争放棄を決意する日本国憲法は、歴史的な意味を持つだけではなく、戦争を放棄したがゆえに道徳的な評価を受けていて、その面で国際社会のリーダーになり得る」
日本国憲法は、その年の11月3日に公布され、翌年の5月3日に施行されます。
こうして天皇は、国民の象徴となったのです。
強い信頼関係で結ばれていた天皇とマッカーサー・・・
2人の会見は、回を重ねるごとに深みを帯びていき、打ち解けていきました。
第四回会見以降、マッカーサーは、陛下と敬称で呼ぶようになりました。
1951年4月11日、マッカーサーは、GHQ最高司令官を突如解任。
朝鮮戦争の進め方について、当時のトルーマン大統領と意見が対立したことが原因でした。
この突然の報せに、日本側は驚きます。
1951年4月15日・・・昭和天皇は、マッカーサーに別れの挨拶に向かいます。
11回目・・・これが最後の会見となりました。
そして、その翌日・・・マッカーサーは、あわただしく日本を去っていきました。
羽田空港へと向かう沿道には、新聞発表で二十数万人の人々が星条旗と日の丸を手に、マッカーサー一行を見送ったといいます。
どうしてこれほどまでに人気だったのでしょうか?
マッカーサーの政策が、自分たちのためになっているありがたさを日本国民は身をもって知っていたのです。
こうしてマッカーサーは、日本統治において大成功を収めて帰っていったのです。
「私はいつも占領政策の背後にあるいろいろな理由を注意深く説明したが、天皇は私が話し合ったほとんどどの日本人よりも民主的な考え方をしっかり身につけていた
天皇は、日本の精神的復活に大きい役割を演じ、占領の成功は、天皇の誠実な協力と影響力に追うところが極めて大きかった」byマッカーサー
「東洋の思想にも通じているあのような人が、日本に来たことは日本の国のためにも良かった
一度約束したことは必ず守る、信義の厚い人だ
元帥との会見は、今なお思い出深い」by昭和天皇
↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村