日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:味土野

1582年6月2日・・・天下統一目前で織田信長が家臣・明智光秀の謀反で命を落とします。
本能寺の変です。
戦国の世を大きく変えたこの事件は、信長と光秀を取り巻く女たちの運命も翻弄しました。
光秀の娘・・・細川ガラシャもその一人です。

戦国の革命児・織田信長が、尾張の一大名から天下布武を掲げ走り出したころ・・・
1563年、細川ガラシャは武勇、教養を兼ね備えていた明智光秀の三女・玉として生まれました。
ガラシャとは、キリスト教の洗礼名です。
幼少の頃の玉の記録はありません。
歴史にその名が現れるのは、16歳で名門・細川家の嫡男・忠興と結婚した時です。
当時、二人の父・・・明智光秀(近江国)と細川忠興(山城国)は、織田信長の家臣した。
その婚儀を取り持ち、媒酌人を買って出たのが、主君・信長本人でした。
そこには信長の思惑がありました。
この頃の明智光秀は信長の重臣で、西を攻める・・・細川藤孝も援軍として、この二組を固く結びつけようとしていたのです。
京都府長岡京市・・・細川家の居城・勝龍寺城で婚儀が執り行われました。
誰もがうらやむ美男美女のカップルでした。
夫・忠興は玉の美しさに惚れ込み、手作りのカルタを作るなどして喜ばせ、夫婦仲は良かったといいます。
結婚した翌年には、長女・於長、その翌年には長男・忠隆が生れます。
そんな中、明智家は丹波国を、細川家は丹後国を見事平定・・・拝領し、順風満帆でした。
勝龍寺城での生活が、玉にとって一番幸せな時期でした。

玉は、美しいだけでなく、和歌、儒学、仏教にも精通していました。
才色兼備で、義父・細川藤孝も「一入 最愛の嫁」と絶賛していました。

1582年6月2日、結婚から4年がたった玉20歳の時・・・運命が急転します。
本能寺の変が起きるのです。
父・明智光秀が、主君である織田信長を討ったことで、謀反人の娘となってしまった玉・・・
これが悲劇の始まりでした。

ガラシャの悲劇①謀反人の娘

信長に謀反を起こした光秀は、すぐさま細川家に援軍を要請・・・
上洛し、味方に加わるように書状を送りました。
しかし、細川家が出した答えは非常なものでした。
「光秀は主君の敵」
光秀に味方することを拒んだのです。
当主の藤孝は、髻を切って息子・忠興に家督を譲ります。
主君信長への哀悼の意を示します。
昵懇であった実家と嫁ぎ先の対立・・・その狭間で苦しむ玉に・・・
織田家、細川家家臣たちから謀反人の娘・玉に対する離縁や自害を求める声があがります。

この時夫忠興が取った策とは・・・??

父を助けてほしい・・・愛する夫と一緒にいたい・・・そう願う玉・・・
夫・忠興に一縷の望みを託していました。
しかし、忠興は・・・「最早、共に暮らすことはできない」そう言って、玉を丹後国のはずれ味土野に幽閉してしまうのです。
明智軍記には、味土野に明智家の茶屋があったといいます。
忠興は、玉を実家ゆかりの地へ移すことで、様々な圧力から守ろうとしたのです。
そんな忠興の気持ちなど知る由もない玉は・・・
「(父上が)腹黒なる御心ゆえ
 自らも忠興に捨てられ
 微かなる有り様なり」と、認めています。
本能寺の変から11日後・・・1582年6月13日、山﨑の戦い
父、光秀は信長の家臣だった羽柴秀吉と戦い、惨敗・・・敗走する中、落ち武者狩りにあい落命・・・母や玉の男兄弟たちも命を絶ち、明智家は乱世に散りました。

玉は・・・数人の家老と侍女をつれ、陸の孤島で幼い子たちとも引き離され孤独の日々を送っていました。
この時、身籠っていた玉は、次男・興秋を出産。
そんな玉の支えとなっていたのは、身の回りの世話をしてくれていた清原いとという侍女でした。
このいとは、儒学者の娘で、玉の教養の高さは彼女の影響もあったようです。

秀吉の臣下となり武功をあげて行った細川忠興は、妻・玉の幽閉を解いてもらえるように秀吉に願い出ます。
秀吉は、あっさりと主君・信長の敵を許します。
この頃、秀吉自身は地位を不動のものとしていました。
徳川家康、織田信雄など周りに敵もいたので、忠興が自分の手足となって働いてくれるようにと思ってのことでした。
かつて大阪での大坂での屋敷のあった地に玉は戻ってきました。
しかし、その暮らしは幽閉生活よりも苦しいものでした。

ガラシャの悲劇②戦国一の美女
玉の幽閉中に側室を持ち、子まで成していた夫・忠興・・・たまに厳しく接します。
それは、かつての優しい夫ではありませんでした。
短気な忠興に、頑なになっていく玉の心・・・。
どうして忠興は玉に厳しかったのでしょうか?

”彼女に対して行った極端な監禁は、信じられぬほど厳しいものであった”byルイス・フロイス

そして出入りを逐一報告させました。
窮屈な生活を強いられていた玉・・・どうしてそんな必要があったのでしょうか?

理由❶謀反人の娘ということへの世間体を気にした
理由❷戦国一の美女だったので、忠興の過度の嫉妬がそうさせました。
     美しい妻が、他の男の目に触れることを嫌ったのです。

次第にふさぎ込んでいく玉・・・。
常に監視されている窮屈な暮らし・・・

玉を他の男の目に触れさせたくない・・・その心を最も駆り立てたのは、主君である秀吉でした。
忠興が秀吉の命で朝鮮出兵した時の事・・・
秀吉が九州の名護屋城に大名たちの妻子を招き、茶会を行うという噂を聞くと、忠興はいてもたってもいられず、玉に何度も手紙を送っています。
その中には歌も・・・

なびくなよ
  わが姫垣の
       女郎花
男山より
  風は吹くとも

女郎花とは玉の事、男山は秀吉の事・・・どんなことがあってもなびくなということです。
秀吉は女好きで有名で、留守見舞いとして家臣たちの妻を呼び寄せていました。
それであわよくば自分のものにしようと・・・そこを気にしていました。
そんな忠興に対して、こんな歌を返しています。

なびくまじ
   わがませ垣の
         女郎花
男山より
  風は吹くとも

そして茶会当日・・・玉はある覚悟をもって秀吉と謁見します。
秀吉の前に進み出て挨拶をした玉は、その懐からわざと短刀を落としたのです。
私に触れれば自害するという意思表示でした。
流石の秀吉もその覚悟を知り、そのまま帰したといいます。
とはいえ、自分の幽閉中に側室を持ったうえ、嫉妬・監禁というゆがんだ愛情表現・・・
玉の夫への不信感は強まっていきます。
そんな中でも、忠興のある話には熱心に耳を傾けました。
キリスト教の話です。
忠興は、親交の深かった大名・高山右近から聞いたキリスト教の教えを玉によく聞かせました。
何より自分の話を聞き、こちらだけを見てくれる・・・
玉の心を唯一引き止められる幸せな時間でした。

1549年、イエズス会の宣教師ザビエルによってキリスト教は伝えられました。
30年余りで全国に広まり、信者は15万人に達したといいます。
夫・忠興からキリスト教の話を聞かされた玉は、その教えに大きく心を動かされました。

「神の前では何人も平等であり、愛をもって接しなければならない」

玉は、教会に行き、もっと教えを聞きたいと思うようになっていきます。

ガラシャの悲劇❸キリシタン
厳しい監視の中、外に出ることのできない玉に、チャンスが巡ってきたのは1587年3月のことでした。
夫・忠興が秀吉の命を受け、九州討伐へ・・・!!
大坂の屋敷を離れたのです。
玉は、病気と偽り部屋に籠ると監視の目を欺き、侍女たちと屋敷を抜け出します。
向かったのは、天満の教会です。
玉は、日が暮れるまで宣教師にキリスト教の教えについて質問を繰り返しました。
玉に会った宣教師は・・・イエズス会日本通信にこう書いています。

”これほどの理解力を持つ聡明な日本女性を見たことがない
 明晰かつ果敢な判断ができる女性であった”

玉は、すぐに洗礼を受けることを望みましたが、かないませんでした。
細川家の素性を明かさない玉を、宣教師が怪しんだからです。
諦めて屋敷に戻った玉でしたが、その後、外出の機会がもどってくることはありませんでした。
そこで、どうしてもキリシタンになりたかった玉は、まず侍女・清原いとに洗礼を受けさせます。
そしてそのいとから洗礼を受け、ようやくキリシタンとなったのです。
洗礼名はガラシャ・・・ラテン語で神の恩恵という意味です。
玉という名から連想された”賜る”からつけられたといわれています。
この時、25歳でした。

どうしてガラシャはそこまでしてキリシタンになりたかったのでしょうか?
儒教の”三従の教え”から解き放たれたかったのでは・・・??
三従の教え・・・子供の時は父に、結婚してからは夫に、年老いたら長男に従うというものです。
女性は生涯男性にしたがうという三従の教えから解き放たれたかったのです。
そして三男の忠利が病弱だったため、その回復を願ったのだともいわれています。

キリシタンとなって充実な日々を送っていたガラシャですが、生きる希望となっていたキリスト教が、またもや悲劇を起こします。
1587年6月・・・九州を平定した秀吉が、キリスト教への入信および日本人奴隷の売買への禁止、宣教師の国外退去を命じる伴天連追放令を発布しました。

秀吉は、実際に九州に足を踏み入れて、キリスト教が強くなってきていることに気付いたのです。
長崎の出島をイエズス会が占拠している・・・!!
憤りを感じているところへ、日本人の男女が奴隷として東南アジアへと売られていったことを知ります。
そしてキリスト教徒の結束力の強さ・・・そこに信長が苦しめられてきた一向一揆と同じものを・・・結束力の恐ろしさを感じたのです。
秀吉のキリシタンに対する迫害は、次第に強くなっていきます。
大名たちにもキリスト教を禁止・・・破ったものは領地没収など厳しく接します。

秀吉がキリスト教への締め付けを強める中、ガラシャは娘や侍女たち、家臣たちにも洗礼を受けさせていました。
これに激高したのは九州から帰ってきた細川忠興でした。
忠興は、ガラシャの喉元に短刀を突き付け改宗することを迫りましたが、ガラシャは決して首を縦に振りませんでした。
そこで、忠興は、洗礼を受けた周りの者たちを攻撃し始めます。
キリシタンとなった侍女たちの髪を切ったり、鼻や両耳を削ぎ落され屋敷の外に追い出されるものまでいました。
忠興自身もキリシタンに共感している部分もありましたが、秀吉も伴天連追放令を出したことに従うほか、家を守れませんでした。
妻がキリスト教にのめり込んでいく・・・立場上許せませんでした。
ガラシャは、忠興との離縁を望むようになります。
侍女を通じて宣教師に相談するも・・・・キリスト教では離婚は禁じられているといわれます。
ガラシャは覚悟を決めて宣教師に手紙を書きました。

「どのような迫害を受けようとも、私の信仰はかわりません」

厚い信仰心で自らの人生に立ち向かう決意をしたガラシャでしたが、時代の大きな波にのまれようとしていました。
1598年8月18日、天下人・豊臣秀吉死去・・・
秀吉亡き後、天下を狙って暗躍する徳川家康と豊臣政権を守ろうとする石田三成が対立・・・
再び戦乱に・・・
徳川家康の東軍7万8000VS石田三成の西軍・8万4000!!
天下分け目の関ケ原の戦いが始まりました。
しかし、この大戦は、わずか半日で決着・・・!!家康の東軍の圧勝で終わりました。
この勝敗に大きく関係していたのが、細川ガラシャだといわれています。
関ケ原の戦いとガラシャの関係とは。。。??
関ケ原の戦いの3か月前・・・細川忠興を始め多くの大名たちが家康に反抗していた上杉討伐の為に会津へと向かいます。
大坂城下に残されたのは、夫を待つ妻たち・・・。
三成は、敵対する大名の妻子を大坂城内に人質にとる作戦に出ます。
人質として三成がどうしても欲しかったのがガラシャでした。
ガラシャを人質にすれば、妻を溺愛する忠興は必ず寝返りする・・・!!
そうなれば、他の大名たちの次々と味方に付くだろうと考えたのです。

7月16日、三成の使者が大坂城下の細川家の屋敷を訪れて・・・
「御上様(ガラシャ)を人質として差し出すように・・・さもなければ屋敷に押しかける」
この時、大坂に残った細川家の重臣たちが出した結論を、侍女が書き残しています。
”一人も人質なし”と・・・!!
絶対に人質になってはいけないというのです。
この判断の元、ガラシャは人質になることを拒絶!!
すると翌日・・・石田軍によって細川家は取り囲まれてしまいます。
危機が迫る中、ガラシャの脳裏によぎったのは夫の言葉でした。

「いざという時には、そなたも細川忠興の妻として自害するように。」

ガラシャは悩みます。
キリスト教では自殺は禁止されていました。
しかし、このままでは人質として捕らえられてしまう・・・
そうなれば、妻としての面目が立たない・・・!!
神への祈りをささげたガラシャは侍女たちを集め、自らの覚悟を話します。

「私はひとりで死にます。
 皆は逃げよ・・・!!」

そして、夫に宛てた遺言を託すのです。

「側室を正室代わりにされることはないように」

妻の意地を見せたガラシャに、最早迷いはありませんでした。
そして家老である小笠原秀清に言います。

「私の胸をその長刀で突きなさい」

自害せず、家臣に殺させることでキリストの教えを守り、死によって大名の妻として細川家を守ったのです。
残った家臣たちもガラシャに続いて自刃・・・屋敷に火が放たれ、遺体は炎に包まれました。
細川ガラシャ・・・この時38歳・・・妻の死が、上杉討伐に行っていた夫・忠興の元に伝えられたのは数日後のことだったといいます。
この一連の出来事について細川家の記録にこう書かれています。

「自害せしむるの間 三成怖れて 人質を取り入ることならず」

ガラシャを死なせてしまったことで、三成は怖気づいてしまったのだ・・・と。
この事件が、三成が正室を人質にとる作戦を諦めさせる原因となりました。
結果、関ケ原の戦いで家康が不利にならずに済んだのです。

男たちの争いに翻弄されたガラシャの辞世のうた・・・

散りぬべき
   時知りてこそ
       世の中の
花も花なれ
      人も人あれ

散り際を知っている花は美しく、私もそうなりたい・・・
その潔い死は、歴史を大きく変えたのでした。

キリスト教が禁じられている中、忠興は妻の葬儀を教会で行いました。
その際、涙を流し泣き続けたといいます。
そして忠興は亡くなる83歳まで正室を迎えることはありませんでした。
ガラシャの遺言通り・・・
本能寺の変、関ケ原の戦いと、戦国の覇権争いに巻き込まれ、波乱の人生を送ったガラシャ・・・
自らが招いたわけではない悲劇に、何度も身を引き裂かれるような思いをし、キリスト教という救いに出会い、慈悲深い心で戦乱の世を必死に生き抜きました。
ガラシャはまさに戦国の世を象徴する女性でした。

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1582年6月2日・・・天下統一を目前に、織田信長が家臣の明智光秀の謀反で命を落とす・・・本能寺の変です。
戦国の世を大きく変えたこの本能寺の変・・・信長と光秀を取り巻く女たちの運命をも翻弄します。
光秀の娘・・・細川ガラシャもその一人でした。
父・光秀の暴挙によって謀反人の娘となってしまったガラシャ・・・戦国の美女と謳われたガラシャの人生は壮絶なものでした。

戦国の革命児・織田信長が尾張の一大名から天下布武に走り出したころ・・・1563年、細川ガラシャは、明智光秀の三女・玉として生まれました。
幼少の頃の記録はなく、歴史に名を刻んだのは、16歳・・・1578年8月に細川忠興に嫁いだ時でした。
当時、ふたりの父親・光秀と藤孝は信長の家臣で、光秀は近江国、藤孝は山城国を治めていました。
そんな婚儀を取り持ったのが、主君・信長でした。

信長の思惑は・・・
この頃の明智光秀は信長の重臣・・・西を攻めるために、両家を固く結びつけようというものでした。
婚礼は、細川家の居城・勝龍寺城で行われ、誰もがうらやむ美男美女のカップルでした。
夫婦仲は良く、翌年には長女・於長、次の年には長男・忠隆が生まれ、子宝にも恵まれました。
そんな中、明智家と細川家は信長に命じられた丹波・丹後を見事に平定!!
父・光秀は丹波国を、舅・藤孝は丹後国を・・・順風満帆でした。
勝龍寺城での生活が、玉の一番幸せな時だったのかもしれません。


若くて綺麗で、和歌に儒学、仏教にも造詣の深い、才色兼備な女性だったようで、藤孝も絶賛な嫁でしたが、気位が高く、怒りっぽかったかも・・・??
ガラシャは洗礼名ですが、どうしてキリシタンとなったのでしょうか?

最初の悲劇は1582年6月2日、結婚から4年・・・玉が20歳の時、運命が急変!!
本能寺の変!!父・明智光秀が主君・信長を討ったことで謀反人となり、その娘となってしまった玉・・・これが、悲劇の始まりでした。

悲劇①謀反人の娘
信長に謀反を起こした光秀は、玉の嫁ぎ先の細川家に援軍を要請!!
上洛し、味方に付くように書状を送りました。
しかし、細川家の答えは。。。「光秀は主君の敵」・・・光秀に協力することを拒みます。
細川藤孝は髻を切り、息子・忠興に家督を譲ることで、主君・信長への哀悼の意を表します。
昵懇の中の両家の対立に板挟みの玉に試練が・・・
織田家・細川家家臣から、離縁、自害などの声が上がります。
忠興は・・・「もはやともに暮らすことはできない・・・」と、玉を丹後国の外れ味土野に幽閉してしまいました。

味土野には、明智家の茶屋があったようで・・・
実家ゆかりの地へ幽閉することで、送り返したと見せかけ様々な圧力から守ろうとしたと考えられます。
しかし知らない玉は・・・
「(父上が)腹黒なる御心ゆえ、自らも忠興に捨てられ、幽かなる有り様なり」と恨み言を述べています。

11日後の6月13日、山崎の合戦にて光秀は羽柴秀吉と戦い惨敗。
落ち延びる際、落武者狩りにあい絶命します。
母や、玉の男兄弟たちも命を絶ち、明智家滅亡・・・乱世に散りました。
玉は・・・味土野で、子供とも話され孤独な日々を送っていました。
幽閉生活で次男・興秋出産。
玉の支えは、清原いとという侍女でした。

1584年豊臣秀吉が天下を統一!!
そんな秀吉の臣下となった細川忠興は、妻・玉の幽閉を解いてもらえるように秀吉に願い出ます。
幽閉生活から2年・・・大阪市中央区玉造に戻ってきました。
しかし、その暮らしは幽閉生活以上に苦しかったのです。


悲劇②戦国一の美女
玉の幽閉中に側室を持ち、子まで作っていた忠興は、玉に厳しく接します。
それはかつての優しい夫ではありませんでした。
短気な忠興に玉の心は頑なになっていきます。
どうして忠興は玉に厳しく接したのでしょうか??

「彼女に対して行った極端な監禁は、信じられぬほど厳しいものであった。
 家臣に昼夜普段に、自邸での妻の監視を義務付けた。
 自分が外出する時には、いかなる使者が入り、またいかなる女たちが家から外出したか報告するように命じた。
 ごく親しい親戚か、身内の者でない限り、彼女に対してはいかなる伝言も許さぬようにし、彼女に伝えられることは家臣の検閲を受けるように命ぜられた。。。」byルイス・フロイス

どうしてそのようにしなければならなかったのでしょうか??
謀反人の娘という事への世間体から。。。
戦国一の美女・・・美し過ぎる妻を持った男の嫉妬・・・美しい妻が、他の男の目に触れることを嫌ったのです。
次第にふさぎ込んでいく玉・・・

1592年秀吉の命により朝鮮に出兵。
その際、九州・名護屋城に大名たちの妻子を招いて茶会を催すという噂を聞いて・・・

「なびくなよ わが姫垣の 女郎花
         男山より 風は吹くとも」・・・秀吉のことも警戒していたようです。

そんな忠興に対し・・・

「なびくまじ わがませ垣の 女郎花
          男山より 風は吹くとも」・・・と、返しています。


そして茶会当日・・・玉は覚悟を以て秀吉と謁見します。
挨拶をした玉は、その懐からわざと短刀を落とします。
私に触れれば自害するという意思表示でした。
さすがの秀吉もその覚悟に、何もせずに帰したと言われています。

しかし、自分の幽閉中に側室を持ち、帰ってからは監禁・・・その歪んだ愛に・・・夫への不信感が強くなっていきます。
しかし、忠興のキリスト教の話には興味がありました。
高山右近から聞いてきた話です。
忠興にとっては唯一幸せな時でした。

1549年キリスト教伝来
イエズス会の宣教師・フランシスコ・ザビエルによって伝えられ、30年あまりで全国に広まり、信者は15万人に達したと言われています。
玉は、その教えに大きく心を動かされます。
「神の前では、何人も平等であり、愛を持って接しなければならない。」
玉は、教会に行き、もっと教えを・・・と思うようになっていきます。

悲劇③キリシタン
厳しい監視の中、外に出られない玉にチャンスが回ってきたのは、1587年3月。
夫・忠興が秀吉の命を受け、九州討伐へ・・・!!
大坂の屋敷を離れたのです。
玉は病気と偽って部屋にこもると、お付きの者と屋敷を抜け出します。
向ったのは天満の教会。
日が暮れるまで宣教師に質問します。
「これほどの理解力を持つ聡明な日本女性を見たことがない。
 明晰かつ果敢な判断ができる女性であった。」by宣教師
玉は、すぐに洗礼を受けることを望みましたが、それは叶いませんでした。

細川家の素性を明かさない玉を宣教師が怪しんだのです。
その後、外出の機会が巡ってくることはありませんでした。
どうしてもキリシタンになりたかった玉は、侍女・清原いとに洗礼を受けさせます。
そしてそのいとから洗礼を受け、キリシタンとなったのです。
洗礼名はガラシャ・・・ラテン語で”神の恩恵”という意味です。
玉=賜るからついたと言われています。

この時、ガラシャ25歳。。。
どうしてそこまでキリシタンになりたかったのでしょうか?
儒教の三従の教えから逃れたかったのではなかったか??
三従の教えとは、女性は幼い頃は父、嫁いでからは夫、年老いたら長男に従うというものです。

そして病弱な三男の回復も願います。
多くの不安の心のよりどころとなったのがキリスト教でした。

キリシタンとなり充実な日々を送っていたガラシャ・・・
1587年6月九州を平定した秀吉は、キリスト教への入信および、日本人奴隷の売買などの禁止、宣教師の国外退去を求める伴天連追放令を出します。

九州に行き、キリスト教の圧を感じたようです。
信長の一向一揆のようになるかも・・・??
その結束力の恐ろしさ・・・
秀吉のキリシタン迫害は、日に日に強くなっていきます。
大名たちにも侵攻を禁じ、破った物は領地没収!!

キリシタンの結束を恐れた秀吉が、キリスト教への締め付けを強める中、ガラシャは、娘たち、侍女たち、家臣たちも洗礼を受けさせていきます。
これに激高したのが、九州から帰った忠興でした。
忠興は改宗を迫りますが、ガラシャは聞きません。
そこで、洗礼を受けたガラシャの周りの者たちに攻撃します。
キリシタンとなった侍女たちの髪を切ったり、鼻や両耳を切り落とされ屋敷の外に放り出されるものまで・・・。
忠興も、高山右近の影響を受け、キリスト教には寛大だったのですが・・・
秀吉が伴天連追放令を出したので・・・家を守るためには仕方なかったのです。

ガラシャは離縁を望むようになり、侍女を通じて宣教師に相談・・・
しかし、キリスト教は離婚が禁止されていました。
そこで、宣教師に手紙を書きます。
「どのような迫害を受けようとも、私の侵攻は変わりません。」
篤い信仰心。。。しかし、時代の渦に巻き込まれていきます。

1598年8月18日豊臣秀吉死去
秀吉亡き後、天下を巡って暗躍する徳川家康と守ろうとする石田三成。。。
再び戦乱の世へ・・・!!
天下分け目の戦いが始まるのです。

悲劇④戦国武将の妻

1600年9月15日美濃国関ケ原・・・
徳川家康率いる東軍7万4千。。。石田三成率いる西軍8万4千・・・激突。
天下分け目の関ケ原の戦いが始まりますが・・・わずか半日余りで・・・東軍の圧勝に終わりました。
この勝敗に大きく関係していたのが、細川ガラシャだった・・・。
その関係とは・・・??

3か月前の6月15日、ガラシャの夫忠興をはじめ多くの大名たちが上杉討伐のために会津へ向かいます。
大坂城下には女性だけ・・・。
そこで三成は、敵対する妻子を大阪城内に人質にとる作戦に出ます。
この時点での三成の想いは・・・人質にとることで、自分の味方になる・・・という思いがあったのです。
人質としてどうしても欲しかったのがガラシャ・・・。
ガラシャを愛している忠興なら、絶対に寝返るはず・・・!!

そうなれば、他の大名たちも次々と味方に付くだろうと考えたのです。
7月16日、三成の使者が、大阪城下の細川屋敷に・・・
「御上様(ガラシャ)を人質として差し出すように」
家臣たちの判断は・・・人質は出さない・・・
翌日、石田軍によって取り囲まれてしまいました。
危機が迫る中・・・かつて夫から言われた言葉を思い出しました。
「いざとなったら細川忠興の妻として自害するように。」by忠興
しかし、キリスト教では自殺は禁止されている!!
このままでは人質になってしまう・・・大名の妻としての面目は・・・??

屋敷の者を逃がすことに・・・夫への遺言を渡します。
「側室を正室代わりにされることのないように。」byガラシャ
そして・・・家老・小笠原秀清に・・・
「私の胸を、その長刀で突きなさい。」
「御免!!」
自害せず、家臣に殺させることでキリスト教の教えを守り、死によって大名の妻として、細川家を守ったのです。
残った家臣たちもガラシャに続いて自刃・・・屋敷に火を放ちます。
遺体は炎に包まれました。

細川ガラシャ・・・38歳でした。
妻の死が夫・忠興のもとに伝えられたのは、数日後のことでした。

ガラシャを死なせてしまったことで怖気づいた三成・・・
諸大名たちの正室を人質にとることを諦めてしまうこととなります。
結果、大名たちは徳川側に残ることとなり、関ケ原の戦いで家康が不利にならずに済んだのです。
男たちに翻弄されたガラシャ・・・

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の
           花も花なれ 人も人あれ」byガラシャ

散り際を知っている花は美しく・・・私もそうなりたい・・・

その潔い死は、歴史を大きく変えたのでした。

キリスト教禁令の中、忠興は愛する妻のために教会で葬儀を行いました。
涙を流し泣き続けたと言います。
そして、亡くなる83歳まで正室を持ちませんでした。
本能寺の変、関ケ原の戦い・・・悲劇に何度も遭いながら、キリスト教という救いに出会い、慈悲の心で戦乱の世を一生懸命生きました。
戦国時代を象徴するような女性でした。



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