1333年、100年以上続いた武家政権鎌倉幕府が滅亡しました。
幕府を倒したのは、北関東を拠点にしていた武士・新田義貞でした。
義貞の倒幕で、時代は大きく転換します。
倒幕後、政治の実権を握った後醍醐天皇は、建武の新政という天皇親政を実現します。
これが、南北朝時代といわれる日本史上まれにみる動乱の時代を呼び込むこととなるのです。

太平記・・・太平記の中で、新田義貞は後に室町幕府を開く足利尊氏のライバルとして熾烈な戦いを繰り広げています。
しかし・・・当時の義貞の立場に疑問が・・・??
実力の時代を切り開いた新田義貞の真の姿とは・・・??

新田氏が治めたのは、現在の群馬県太田市。
かつて新田荘と呼ばれたこの地には、井の文字が多く使われ、たくさんの水源があったことが分かります。
今も市内で湧き出す地下水・・・多くの水源は、新田荘を潤し、豊かな実りをもたらしました。
これにより新田氏は、北関東で大いに力を蓄えていきました。

新田義貞が生れたのは、今からおよそ700年前の1300年頃といわれています。
当時、鎌倉幕府の実権を握っていた北条氏の権力はゆるぎないものに見えました。
ところが・・・近畿地方で異変が起こります。
1331年、後醍醐天皇が政の実権を幕府から取り戻そうと河内の土豪・楠木正成らを動かし倒幕の狼煙をあげたのです。
義貞は、幕府軍の一員として制圧に向かいました。
しかし、ゲリラ戦を展開する楠木達後醍醐方に苦戦を強いられ、戦いは長期を呈しました。
戦のさ中、義貞は新田荘に帰郷します。
一説には、この時後醍醐方から倒幕の指令を受けていたともいわれています。

一方、畿内で苦戦する幕府は、戦費調達のため裕福な新田荘に臨時の税を課し、2人の使者を取り立てに向かわせます。
この時、事件が起こりました。
義貞は、なんと幕府の使者の一人を斬首・・・もう一人を拘束してしまいました。

鎌倉幕府は、盤石で最盛期を迎えていました。
強い鎌倉幕府に対して、新田義貞は戦争をしかけていくのです。
これは、非常に大きな選択でした。
戦が続く畿内でも、大きな衝撃でした。
幕府方の有力者・足利高氏が後醍醐方に寝返り、鎌倉幕府の京都監視機関・六波羅探題を攻め落としたのです。
新田荘の義貞も、これに呼応するかのように反幕府で挙兵!!
挙兵の地とされるのが、旧新田荘・生品神社・・・
古くから地元の信仰を集めてきたこの神社には、義貞が挙兵の際に幟を立てたといわれる巨木が保存されています。
この時、神社に集まった義貞軍は、わずか150騎・・・義貞はこの少数で鎌倉幕府に戦いを挑もうというのか・・・??

義貞は幕府本拠地・鎌倉への進軍を開始しました。
途中、鎌倉を脱出した足利高氏の息子・千壽王も合流。
大軍勢となった義貞率いる反幕府軍は、鎌倉で北条方と激突します。
義貞は、一族に犠牲を出しながらも奮戦し、北条氏の多くを自刃に追い込みます。
1333年5月・・・鎌倉幕府は、義貞の攻撃によって滅亡しました。
これまで無名の存在だった新田義貞は、この勝利で足利高氏とならぶ、倒幕の功労者として都でその名を知られることとなります。

義貞や高氏の働きで鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、幕府も院政も否定し、天皇自身への権限集中を実行しました。
1334年、年号が建武に変更されたことからこの政治体制は建武の新政といわれています。
義貞は、倒幕の恩賞として播磨の国司に就任し、新田一族の多くが都の警察に相当する武者所の要職につきました。
さらに新田氏は、北陸地方、越前・越後の国司などにも任命され、後醍醐政権の中枢を担うこととなります。

もう一人の倒幕の功労者・足利高氏は、更なる地位を築いていました。
武蔵・常陸・下総など東国の国司に任じられただけでなく、天皇の諱・尊治から”尊”の字をもらい尊氏へと名を改めます。
全国の武士への指揮権も与えられた尊氏は、後醍醐政権の侍大将ともいうべき地位に登りました。

鎌倉幕府滅亡の2年後、東国で北条氏残党による反乱がおこり、尊氏は鎮圧に向かいます。
ところが、乱の終息後も、尊氏は鎌倉を動こうとしない・・・
天皇の上洛命令にも従わないという不可解な行動に出ます。
その背景にはったのは、倒幕の恩賞への不満とも、征夷大将軍や幕府をめぐる考えの相違ともいわれています。
後醍醐天皇は尊氏の行動を反抗と受け取り、討伐を決意します。
その大将に指名されたのは義貞でした。
義貞の負けられない戦いが始まります。

太平記では、義貞も尊氏も、源氏の嫡流とされ、2人で武家の棟梁を争ったと書かれています。
しかし、近年の研究では、同格のライバル関係ではなかったという説が提唱されています。
足利家は格が高く、幕府でも重要視されていました。
新田は無位無官・・・同じ一族の上下縦の関係でした。
新田にとって足利を打倒する・・・それは下克上的な状況でした。
後醍醐につくのか、足利につくのか・・・大きな分かれ目でした。

義貞は、鎌倉に向かって出陣しました。
しかし、尊氏の反撃に撤退を余儀なくされ、逆に京都を奪われてしまいます。
後醍醐天皇は京都を逃れ、比叡山山麓の東坂本・・・現在の滋賀県大津市の日吉大社に籠りました。
義貞らは、東北からの援軍を受け反撃!!
尊氏を九州に追い落とすことに成功します。
しかし、わずか3か月後・・・
1336年5月、西国の武士たちを引き連れて大軍勢で攻め上ってきた尊氏に、義貞は惨敗・・・。
再び尊氏に京都を奪われ、またもや後醍醐天皇と共に比叡山に撤退することとなりました。

琵琶湖を望む比叡山東山麓・・・京都を尊氏に追われた後醍醐天皇は、ここ近江国・東坂本の日吉大社に籠ったと伝わっています。
古来、天皇家の崇拝を受けてきた日吉大社は、比叡山延暦寺と共通の境内を所有していました。
織田信長、明智光秀に延暦寺が焼き払われたとき、日吉大社も灰塵に帰しました。
義貞、尊氏は、共に散発的な戦いを繰り返しますが、双方戦局を打開できずにいました。
季節は秋から冬に向かおうとしていました。
膠着状態を打開しようと尊氏は一計を案じます。
密かに後醍醐天皇に使者を送り、和睦を持ちかけたのです。

後醍醐天皇は、尊氏からの申し出を誰に諮ることもなく、受け入れることに決めました。
後醍醐方の指揮官でありながら、義貞はこの謀を知らされることはありませんでした。
新田一族の武将・堀口貞満は、鎌倉討伐戦以来、義貞と戦い続けてきていました。
不穏なうわさを聞きつけて、天皇のもとに向かいました。
そこで目にしたのは、今まさに京都に向かおうとしている後醍醐天皇でした。
堀口は、涙ながらに義貞始め新田一族の忠誠を訴えます。
そこに、3千余りの兵を率いて義貞も駆け付けます。
尊氏との和睦を決めた後醍醐天皇・・・
一族の想いを語る堀口・・・
両者の間で義貞は、厳しい選択を強いられます。

堀口の言い分は至極最も・・・帝が尊氏と和睦するのは命がけで忠誠を尽くして来た我らに対する裏切りに他ならない・・・このままでは、一族の結束が保たれない・・・
あくまでも、武家の棟梁を勝ち取るために、尊氏と戦い続けなくてはいけない・・・鎌倉倒幕以来の決戦で、新田は多くの命を失ってきたが、ここは残った者たちを戦い続ける・・・??

しかし、このまま帝が尊氏方に行けば、我らは朝敵・・・賊軍となってしまう・・・。
帝と一緒に山を下り、尊氏に服従を誓う・・・??

義貞が鎌倉討伐のために、ふるさと新田荘を出てから3年が経とうとしていました。
後醍醐天皇は、独断で尊氏との和睦を決めていました。
多くの兵を従えた義貞に気おされたのか、口を開いたのは後醍醐天皇でした。

「義貞よ・・・尊氏と和睦するのは一時の謀にすぎず、巻き返す時が来るのを待つつもりなのだ
 事前に知らせなかったのは、事情が漏れることを恐れたに過ぎない・・・
 だが、堀口の恨みを聞いて、自分が誤っていたことに気が付いた
 義貞を朝敵にするつもりはない・・・
 こうなったからには、皇太子に位を譲るので、共に北陸へ向かい、体制を整えて再び朝廷のために働いて欲しい」

義貞は、これを聞き、覚悟を決めました。
後醍醐とはなれ、北陸に・・・尊氏と戦い続けることを選んだのです。
義貞は、北を目指しました。
冬がすぐそこまで来ていました。

一旦、尊氏方に下った後醍醐も、その年の暮れには、京都から吉野に脱出!!
京都と吉野、それぞれに朝廷が立ちました。
南北朝の始まりです。
皇太子を立てて北陸へ向かった義貞は、尊氏方の激しい追撃を受け苦戦していました。

1337年3月・・・越前国・敦賀の戦で、皇太子を尊氏側に奪い取られ苦境に陥った義貞・・・
しかし、義貞は戦いをやめませんでした。
尊氏方の追撃をかわしながらも、各地の兵を糾合し、地盤を固めようとしていました。
どうして義貞は、南朝の後醍醐と合流しなかったのでしょうか?
それは、北陸を拠点にして北関東・北陸で地盤を固め、後醍醐の吉野方、あるいは足利軍団に対抗する勢力を形成しようとしたのではないか・・・??
実力があれば交渉ができる・・・!!
北陸を固めることが、新田にとっては一番重要だったのです。

1338年7月2日・・・義貞が北陸に下って2年近く・・・尊氏からの執拗な攻撃は続いていました。
義貞は、尊氏方が立てこもる城の視察に50騎の兵を連れて向かいました。
しかし、その途中、敵方300騎と遭遇・・・攻めたてられた義貞は、泥田に落とされ、あえなく命を落としました。
義貞が最期を迎えたといわれる地は、現在では公園として整備され、その一角にはささやかな祠が建てられています。
新田義貞は、新田荘を出て以来、清らかな水に満たされたふるさとの地を一度も踏むことなく、その生涯を終えました。

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