大分県・杵築(きつき)・・・九州・豊後に栄えた坂道の城下町です。
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大分県杵築市・・・人口3万1384人、面積280.03㎢、特産はみかんときつき茶、ちりめん。
別府湾を望むこの地は、豊後国と呼ばれていました。
杵築城が築城されたのは、室町時代初期の1394年。
九州探題として大友一族の大付氏によって築城されました。



その後、江戸時代初期には、杵築藩初代藩主・松平英親によっておさめられました。3万2000石の城下町を整備・・・
以来、明治になるまで10代、松平氏が治め、繁栄を築きました。

別名勝山城。
それは、敵に討ち勝った山・・・その敵は、島津でした。
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島津でさえ落とせなかったお城なのです。
三方を海と川に挟まれ、断崖絶壁の上・・・それは、自然を利用した鉄壁の城でした。
天正15年、九州を統一しようとした島津家17代当主・島津義弘。。。
その猛攻を受けても落ちることのない、堅固な城でした。
しかし、戦国時代に落雷によって天守閣が焼失・・・
江戸時代には、天守閣がなかったと言われています。
城下町には22の坂が・・・そんな坂道の城下町です。

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武士の住む高台をはさんで谷間には町人が住んでいたので、サンドイッチ型城下町と言われています。
松平英親は、どうしてこのような城下町にしたのでしょうか?
高台に武士を住まわせたのは、防御のためだったと言われています。


武士は、有事の際には、高台から敵を威嚇したのです。
城下町の入り口には寺町を配置、戦の時には武士の集合場所となりました。

英親がこれまでして守りたかったものは・・・
平地に住んでいた町人たちでした。
商売が繁盛すると・・・藩の収入が増える・・・藩の経済を考えての事でした。
商業を奨励し、発展させようよ考えていました。
事実、七島藺草を奨励し、全国に販売経路を築きました。
この交易で栄え、実質5万石以上あったのではないか?と言われています。

全国で行われている”景観条例”・・・
杵築では、この景観条例が江戸時代から存在していました。
・できるだけ瓦にしよう⇒火事を怖れての防火対策・景観を良くするために
・鏝絵と呼ばれる絵も推奨。鏝絵は、左官職人が漆喰を使って鏝で書いたものです。
 家の魔除けや、美観を目的としています。
では・・・どうして景観に重視していたのでしょうか?
それは、観光名所にしたかったと言われています。
江戸時代、五街道が整備され、庶民の間にも観光・・・神社仏閣巡りが流行っていたようです。
当時の一番の人気スポットは伊勢神宮。
九州では・・・全国に4万以上存在する八幡宮の総本山・宇佐神宮。
当時のお殿様は、この参拝客に着目し、町を整備したと言われています。

家老屋敷「大原邸」では・・・
武家屋敷なのに・・・茅葺です。
低い商人の家は瓦屋根なのに???
武士は質素倹約を重んじてほとんどが藁葺だったと言われています。

杵築では、古くから演劇が盛んで・・・杵築歌舞伎は、平家の落人が伝え・・・朝鮮半島まで公演に行っていたと言われています。
江戸時代には、農業しながら五穀豊穣を願いながら舞っていたものが、全国で公演するようになりました。
そこには、殿さまの・・・隠密歌舞伎としての働きもありました。
九州は・・・福岡藩・肥前藩・肥後藩・薩摩藩・・・と、強豪大名・・・日本の火薬庫と言っても過言ではありません。
そんな中にあって、譜代大名の杵築藩の役目は、外様大名を監視することにありました。
殿さまは、杵築歌舞伎を奨励する代わりに、隠密行動をさせていたと言われています。
当時の舞台衣装は・・・大変豪華なもので、藩が奨励していなくてはなかなか使えない高価な物が多いのです。
そして、巡業という名の隠密活動をさせていたようです。
松平にとって、最も警戒すべき藩は・・・隣の日出藩でした。
秀吉の正室・ねねの甥・きのした延俊が藩祖でしたが・・・
この豊臣縁故のこの藩を最も警戒していたと言われています。

江戸の昔から守られてきた景観。
武士が何よりも大事にした商人たち。
その商人たちを包み込むようにして城下町が出来ていました。
お殿様が創った庶民に優しい城下町でした。


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