栃木県那須塩原市・・・明治時代、外国の要人たちがしばしば訪れた別荘があります。
洋館の奥には、日本ならでわの和室もあります。
ここで、賓客たちをもてなしたのが、鹿鳴館の華とよばれた大山捨松です。
捨松は、日本人初の女子留学生として渡米・・・11年に及んだ留学生活で、完璧な英語と西洋の社交術を身につけました。
明治16年に完成した鹿鳴館では、各国の外交官たちを前に華麗なダンスを披露しました。
しかし、その活躍は社交界にとどまりませんでした。
捨松は、生涯、明治という壁に挑み続けました。
福島県会津若松市・・・江戸時代、徳川一門としてほうほくの要を担った会津藩の城下町として栄えました。
1860年、後の大山捨松・・・山川咲は、藩の家老・山川家の末娘としてこの地に生れました。
会津藩は、当時、最も高い教育水準を誇っていた藩の一つ・・・
「什の掟」は、藩の子供たちが日々唱えていました。
咲は、人としての生き方を唱えたこの掟に従い、家老の娘として人々の模範となるように努めました。
しかし・・・1868年8月・・・咲の運命は一変します。
薩摩・長州を中心とする新政府軍が、最後まで旧幕府に忠誠を誓っていた会津藩に攻め入りました。
近代兵器の猛攻に晒された会津藩士たちは、家族もろとも籠城を余儀なくされました。
炸裂する砲弾・・・立ち込める煙の中、負傷者たちが次々城内に運び込まれました。
当時、8歳だった咲も、家族と共に籠城戦に参加・・・
当時の状況を振り返ってこう述べています。
「毎日のように大砲の弾が私たちの頭の上をかすめ、お城の中に落ちてきました
私たち、女子供も、精一杯、男たちを助けて働きました
幼かった私に割り当てられた仕事は、弾薬づくりの準備を手伝うことでした」
1か月に及ぶ籠城戦の末、鶴ヶ城は陥落・・・2000人以上の犠牲者を出し、会津の敗北という形で戦争は終結しました。
戦後、苦境にあった山川家に、大きな転機が訪れます。
明治新政府による留学生の募集です。
1872年、岩倉使節団の派遣・・・それに伴い、士族の子弟を留学させるという話が持ち上がります。
山川家は、この募集に応じ、10年に及ぶ長期のアメリカ留学に咲を送り出すという決断を下しました。
家名再興を学問にかける・・・!!
この時、咲が母から贈られた名前が”捨松”です。
捨てたつもりで遠い異国にやるが、帰ってくる日をいつまでも待つという思いが込められています。
日本初の女子留学生となった5人の少女たち・・・
この時、捨松は11歳・・・その隣には、幕臣だった父を持つ6歳の津田梅子の姿がありました。
1872年11月・・・捨松、アメリカへ・・・!!
目的地は、東海岸コネチカット州ニューヘイブン・・・イェール大学など高等教育機関のある学術都市です。
捨松のホームステイ先は、牧師のベーコン家・・・レオナルド・ベーコンは、知識人として尊敬される地元の名士でした。
捨松は、夫人から毎日のように英語を習い、勉強に励みました。
捨松は、ベーコン家で実の娘のようにかわいがられます。
そんな捨松に、大きな影響を与えたのがベーコン家の末娘・アリスです。
2歳年上の14歳で、アリスは人種や性別の隔てなく、誰もが平等に教育を受ける社会の実現を目指し、教師になるという目標を持っていました。
その強い志は、捨松に大きな衝撃を与えます。
女子留学生の派遣を決断した明治政府でしたが、求めていたのはあくまでも良妻賢母・・・家庭の模範となることでした。
ところが、アメリカでは、女性たちが学校で学んだことを活かして自立し、社会に貢献しているという道が開かれていたのです。
アリスに触発された捨松は、勉学に励み、名門ヴァッサー大学に入学します。
英語はもちろん、フランス語も完ぺきにマスター・・・政治学や、自然科学を学び、成績は常にトップクラスでした。
22歳の時、大学を優秀な成績で卒業した捨松は、ある明確な目標を持つようになりました。
日本への帰国を目前に控えた1882年8月2日・・・アリスへの手紙にそのことを記しています。
「あなたが日本に来て、共に働いてくれることを心から願っています
あなたが英語と文学を教え、私は生理学と体育を教えることができると思います」
それは、私たち自身の学校・・・アリスと共に日本で学校を作ることでした。
1882年10月、11年に及ぶ留学を終えた捨松は、学校設立という大きな夢を胸に、帰国の途に就きました。
鹿鳴館の貴婦人大山捨松 日本初の女子留学生 (中公文庫) [ 久野明子 ]
1882年11月21日、アメリカを出港して20日後、横浜沖まで来た時の興奮を、捨松はこう振り返っています。
「その前夜は、ほとんど眠ることができませんでした
陸が見えたという声に飛び起きて、デッキに走りました
その通りでした
祖国の山々の稜線が、くっきりと見えているのです
まるで、夢の中にいるような気持になりました」
しかし、喜びは束の間・・・帰国した捨松には、過酷な運命が待ち構えていました。
政府首脳は、一足先に留学から帰った男子を官僚や大学教授として重用していましたが、女子のための仕事は何一つ用意していなかったのです。
この時の失望を、捨松はアリスに語っています。
「ああアリス、人生とはどうしてこんなにも複雑なのでしょう
私は今まで、人生の暗い面など想像したこともありませんでした
自分の未来、自分の強さにとても自信を持っていたのに、その両方をなくしてしまいました」
捨松はすでに22歳・・・十代半ばで結婚するのが当たり前の時代に、家族からもすぐに結婚するように求められていました。
この頃、捨松の人生にとって大きな転機が訪れます。
陸軍卿・大山巌からのプロポーズです。
大山は、フランスやスイスに3年間留学して近代兵器を研究・・・日本陸軍の創設に尽力した人物です。
当時、捨松より18歳年上の40歳・・・前妻に先立たれ、再婚相手を探していました。
ところが、これまで結婚を進めていた山川家当主の兄が、この縁談には断固として反対しました。
大山は、西郷隆盛の従兄弟で、薩摩の出身・・・会津戦争で、同胞や家族を死に至らしめたかつての敵だったからです。
それでもあきらめず、何度も求婚を続ける大山に、兄はついに根負け・・・
判断は、捨松本人に委ねられることになりました。
プロポーズを受け入れるか否か・・・??
アリスに胸の内を語っています。
「もし私が婚約したと言ったら、あなたは何と思うでしょう
でも、大丈夫、心配しないでください
あなたが日本に来た時、きっと私は売れ残りの独身のままだと思います」
あくまで結婚はしないという捨松・・・
プロポーズを受けた当初は、教育の夢に胸を膨らませていました。
「就職先が見つかりそうなのです
個々のお給料と英語の個人授業をすることで、学校を作る資金を貯めることができるかもしれません」
この手紙を出す直前、捨松のもとに文部省から官立の師範学校で教えてくれないかという依頼が届いていました。
しかし、思わぬ問題が浮上しました。
11年以上もの海外生活で、捨松の日本語の読み書きは初等教育レベルで止まっていました。
日本語の教科書で教えることは難しかったのです。
結局、就職を断念・・・
途方に暮れる中、捨松は、結婚に新たな可能性を見出し始めていました。
「今や教えることは、ほとんど見通しが立たなくなりました
ですが、たとえ私の夢をあきらめたとしても、何か別の方法でお国のために、役に立つことはできないものでしょうか
今、一番やらなければいけないのは、社会の現状を変えることなのです
日本では、それは結婚した女性だけが出来ることなのです」
政府高官である大山との結婚で、社会を変える道が開けるかもしれない・・・
プロポーズから5か月後・・・1883年6月、悩んだ末に、捨松は結婚を決意します。
その時の気持ちをアリスに綴っています。
「大山氏は、とても素晴らしい方で、私は将来を託すことにしました
未来の夫のために、自分自身を捧げ、よき協力者になりたいと思っています
今、私は自分がしたことが正しかったと思っています」
大山との結婚は、捨松の人生を大きく変えることになります。
2人は3人の子供にも恵まれ、生涯仲睦まじい生活を送ったといいます。
日本陸軍の発展に尽力した大山巌・・・列強に匹敵する軍隊を作るため、海外から最新鋭の武器を購入するなどの対外交渉にも関わりました。
栃木県那須塩原市・・・
巌の接待外交にも使われた大山家の別荘が、そのまま残されています。
伝統的な日本家屋の隣に、当時珍しかったレンガ造りの洋館が築かれました。
レンガは、巌がこの別荘のために特別に作らせたものだと言います。
応接室や、遊戯室など、8部屋からなる豪勢な洋館・・・
捨松は、国ごとの作法に合わせ、食事の出汁方などを差配し、パーティーを取り仕切ったといいます。
椅子やテーブルなどの調度品は、捨松がアメリカから取り寄せました。
欧米人が多かった賓客たちに、母国にいるようにくつろいでもらう心づくしでした。
捨松は、アメリカでの経験を活かし、巌の公務を積極的に支えたのです。
そんな捨松の手腕は、西洋化を進めていた日本にとって欠かせないものでした。
東京日比谷に鹿鳴館が作られました。
明治政府は、列強との不平等条約解消のため、夜な夜な舞踏会を開いて外交官を接待・・・
日本が文明国であることをアピールしようと努めました。
捨松も、鹿鳴館の夜会に出かける際には、華やかなドレスに身を包みました。
当時の日本人は、西洋のダンスはおろか、テーブルマナーさえ知らない人がほとんどでした。
そんな中、捨松は本場仕込みの華麗なステップと卓越した語学力で外交官たちをもてなしました。
各国の記者たちは、その振る舞いをこぞって称賛。
鹿鳴館の華として、捨松の名声は、遠く海外に届いたといいます。
社交界で確固たる評判を得た捨松は、さらに、鹿鳴館を舞台に社会の現状を変えようと新たな取り組みを始めました。
「私は病院を援助するために、バザーの準備をしています
日本では、バザーは今回が初めての試みです
これは病院だけでなく、日本人全員のためになると思います
今では東京中がこの話題で持ちきりです」
捨松は、留学中ヴァッサー大学卒業後に、半年間看護学校に通い、最新の看護教育を受けていました。
帰国後、日本に看護師を養成する学校がないことを知り、自らその設立にのりだしました。
そして、留学時代に目にしたアメリカの婦人たちのチャリティーバザーと同じようなバザーを開き、開業資金を集めようとしたのです。
上流階級の女性が商売をすることなど考えられなかった当時、多くの新聞が驚きをもって捨松のバザーを取り上げました。
捨松の呼びかけに、多くの布陣が賛同・・・
手製の人形やハンカチ、帽子など、多くの商品が瞬く間に集まりました。
鹿鳴館を会場に、日本初のバザーが開かれました。
皇族や、政府高官が馬車や人力車で押しかけ、来場者は3日間で1万2000人を記録。
集まった金額は、現在の価値で1億円に上ったといいます。
この資金を元手に、わずか4か月後に、有志共立東京病院看護婦教育所・・・日本初の看護学校が設立されました。
これまで男性のものとされていた看護に、女性たちも加わり、現代まで続く看護教育の礎となりました。
時代の壁を乗り越え、社会に貢献しようとした捨松の姿は、明治の女性像を大きく変えました。
東京都にある津田塾大学・・・津田梅子が始めた女子英学塾がその前身です。
英学塾の設立には、留学仲間の捨松も尽力しています。
政府に公認を得るために、梅子が文部省に提出した書類・・・
筆頭に、大山捨松の名前、その次に津田梅子の名前がありました。
捨松は、サポート役ではなかったのです。
英学塾の設立にあたって、捨松は顧問に就任、資金集めに困っていた梅子のために奔走し、学校運営を支え続けました。
一人のアメリカ人女性がやってきました。
それは、アメリカ時代の親友・・・アリス・ベーコンでした。
英学塾の教師として働いてもらうため、捨松がアメリカから招いたのでした。
少女たちが18年前に交わした約束が、実現した瞬間でした。
やがて、時代は大きく動きます。
1904年、満州と朝鮮半島の権益をめぐって、日本とロシアが対立・・・日露戦争が勃発しました。
大山巌は、満州軍総司令官に任命され、95万人の兵を率いて、大国ロシアに立ち向かいます。
2倍の兵力を誇る精強なロシア軍を相手に、日本は厳しい戦いを強いられます。
1年半に及ぶ戦いの末、陸軍で8万人を超える犠牲者を出しながら、日本は辛くも勝利を収めました。
戦争中、捨松は、出征兵士たちの家族を支援する活動に力を注ぎました。
働き手を失い困窮する家族には、軍服の裁縫や洗濯などの仕事をあっせんしました。
母親が働きやすいように、子供を預けられる無料の託児所なども作っています。
そして、総司令官の妻として、捨松が何より大切にしていたのが、戦死者の家族を慰問することでした。
「今、私が一番つらいのは、遺族の方たちをたずね、慰めの言葉をかけるときです
たとえ国中の人が栄誉ある死について褒め称えたとしても、私たち女性は悲しみを殺して愛国主義者となる前に、妻であり母なのですから」
晩年、大山夫妻は、こよなく愛した那須の地に足しげく通い、静かな余生を送りました。
夏休みなどの休暇には、孫たちを連れて別荘に集い、共に大自然の中で過ごしました。
捨松は、晩年の平穏な日々をこう手紙に綴っています。
「親愛なるアリス
私は自分の生活が、今とても幸せであることに心から感謝しています
夫もとても元気で、私たちは仲の良い老夫婦となりました
あなたの親友 捨松より」
58歳で捨松はその波乱の生涯を閉じました。
愛する伴侶・巌と共に、愛する那須の地で眠りについています。
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ここで、賓客たちをもてなしたのが、鹿鳴館の華とよばれた大山捨松です。
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しかし、その活躍は社交界にとどまりませんでした。
捨松は、生涯、明治という壁に挑み続けました。
福島県会津若松市・・・江戸時代、徳川一門としてほうほくの要を担った会津藩の城下町として栄えました。
1860年、後の大山捨松・・・山川咲は、藩の家老・山川家の末娘としてこの地に生れました。
会津藩は、当時、最も高い教育水準を誇っていた藩の一つ・・・
「什の掟」は、藩の子供たちが日々唱えていました。
咲は、人としての生き方を唱えたこの掟に従い、家老の娘として人々の模範となるように努めました。
しかし・・・1868年8月・・・咲の運命は一変します。
薩摩・長州を中心とする新政府軍が、最後まで旧幕府に忠誠を誓っていた会津藩に攻め入りました。
近代兵器の猛攻に晒された会津藩士たちは、家族もろとも籠城を余儀なくされました。
炸裂する砲弾・・・立ち込める煙の中、負傷者たちが次々城内に運び込まれました。
当時、8歳だった咲も、家族と共に籠城戦に参加・・・
当時の状況を振り返ってこう述べています。
「毎日のように大砲の弾が私たちの頭の上をかすめ、お城の中に落ちてきました
私たち、女子供も、精一杯、男たちを助けて働きました
幼かった私に割り当てられた仕事は、弾薬づくりの準備を手伝うことでした」
1か月に及ぶ籠城戦の末、鶴ヶ城は陥落・・・2000人以上の犠牲者を出し、会津の敗北という形で戦争は終結しました。
戦後、苦境にあった山川家に、大きな転機が訪れます。
明治新政府による留学生の募集です。
1872年、岩倉使節団の派遣・・・それに伴い、士族の子弟を留学させるという話が持ち上がります。
山川家は、この募集に応じ、10年に及ぶ長期のアメリカ留学に咲を送り出すという決断を下しました。
家名再興を学問にかける・・・!!
この時、咲が母から贈られた名前が”捨松”です。
捨てたつもりで遠い異国にやるが、帰ってくる日をいつまでも待つという思いが込められています。
日本初の女子留学生となった5人の少女たち・・・
この時、捨松は11歳・・・その隣には、幕臣だった父を持つ6歳の津田梅子の姿がありました。
1872年11月・・・捨松、アメリカへ・・・!!
目的地は、東海岸コネチカット州ニューヘイブン・・・イェール大学など高等教育機関のある学術都市です。
捨松のホームステイ先は、牧師のベーコン家・・・レオナルド・ベーコンは、知識人として尊敬される地元の名士でした。
捨松は、夫人から毎日のように英語を習い、勉強に励みました。
捨松は、ベーコン家で実の娘のようにかわいがられます。
そんな捨松に、大きな影響を与えたのがベーコン家の末娘・アリスです。
2歳年上の14歳で、アリスは人種や性別の隔てなく、誰もが平等に教育を受ける社会の実現を目指し、教師になるという目標を持っていました。
その強い志は、捨松に大きな衝撃を与えます。
女子留学生の派遣を決断した明治政府でしたが、求めていたのはあくまでも良妻賢母・・・家庭の模範となることでした。
ところが、アメリカでは、女性たちが学校で学んだことを活かして自立し、社会に貢献しているという道が開かれていたのです。
アリスに触発された捨松は、勉学に励み、名門ヴァッサー大学に入学します。
英語はもちろん、フランス語も完ぺきにマスター・・・政治学や、自然科学を学び、成績は常にトップクラスでした。
22歳の時、大学を優秀な成績で卒業した捨松は、ある明確な目標を持つようになりました。
日本への帰国を目前に控えた1882年8月2日・・・アリスへの手紙にそのことを記しています。
「あなたが日本に来て、共に働いてくれることを心から願っています
あなたが英語と文学を教え、私は生理学と体育を教えることができると思います」
それは、私たち自身の学校・・・アリスと共に日本で学校を作ることでした。
1882年10月、11年に及ぶ留学を終えた捨松は、学校設立という大きな夢を胸に、帰国の途に就きました。
鹿鳴館の貴婦人大山捨松 日本初の女子留学生 (中公文庫) [ 久野明子 ]
1882年11月21日、アメリカを出港して20日後、横浜沖まで来た時の興奮を、捨松はこう振り返っています。
「その前夜は、ほとんど眠ることができませんでした
陸が見えたという声に飛び起きて、デッキに走りました
その通りでした
祖国の山々の稜線が、くっきりと見えているのです
まるで、夢の中にいるような気持になりました」
しかし、喜びは束の間・・・帰国した捨松には、過酷な運命が待ち構えていました。
政府首脳は、一足先に留学から帰った男子を官僚や大学教授として重用していましたが、女子のための仕事は何一つ用意していなかったのです。
この時の失望を、捨松はアリスに語っています。
「ああアリス、人生とはどうしてこんなにも複雑なのでしょう
私は今まで、人生の暗い面など想像したこともありませんでした
自分の未来、自分の強さにとても自信を持っていたのに、その両方をなくしてしまいました」
捨松はすでに22歳・・・十代半ばで結婚するのが当たり前の時代に、家族からもすぐに結婚するように求められていました。
この頃、捨松の人生にとって大きな転機が訪れます。
陸軍卿・大山巌からのプロポーズです。
大山は、フランスやスイスに3年間留学して近代兵器を研究・・・日本陸軍の創設に尽力した人物です。
当時、捨松より18歳年上の40歳・・・前妻に先立たれ、再婚相手を探していました。
ところが、これまで結婚を進めていた山川家当主の兄が、この縁談には断固として反対しました。
大山は、西郷隆盛の従兄弟で、薩摩の出身・・・会津戦争で、同胞や家族を死に至らしめたかつての敵だったからです。
それでもあきらめず、何度も求婚を続ける大山に、兄はついに根負け・・・
判断は、捨松本人に委ねられることになりました。
プロポーズを受け入れるか否か・・・??
アリスに胸の内を語っています。
「もし私が婚約したと言ったら、あなたは何と思うでしょう
でも、大丈夫、心配しないでください
あなたが日本に来た時、きっと私は売れ残りの独身のままだと思います」
あくまで結婚はしないという捨松・・・
プロポーズを受けた当初は、教育の夢に胸を膨らませていました。
「就職先が見つかりそうなのです
個々のお給料と英語の個人授業をすることで、学校を作る資金を貯めることができるかもしれません」
この手紙を出す直前、捨松のもとに文部省から官立の師範学校で教えてくれないかという依頼が届いていました。
しかし、思わぬ問題が浮上しました。
11年以上もの海外生活で、捨松の日本語の読み書きは初等教育レベルで止まっていました。
日本語の教科書で教えることは難しかったのです。
結局、就職を断念・・・
途方に暮れる中、捨松は、結婚に新たな可能性を見出し始めていました。
「今や教えることは、ほとんど見通しが立たなくなりました
ですが、たとえ私の夢をあきらめたとしても、何か別の方法でお国のために、役に立つことはできないものでしょうか
今、一番やらなければいけないのは、社会の現状を変えることなのです
日本では、それは結婚した女性だけが出来ることなのです」
政府高官である大山との結婚で、社会を変える道が開けるかもしれない・・・
プロポーズから5か月後・・・1883年6月、悩んだ末に、捨松は結婚を決意します。
その時の気持ちをアリスに綴っています。
「大山氏は、とても素晴らしい方で、私は将来を託すことにしました
未来の夫のために、自分自身を捧げ、よき協力者になりたいと思っています
今、私は自分がしたことが正しかったと思っています」
大山との結婚は、捨松の人生を大きく変えることになります。
2人は3人の子供にも恵まれ、生涯仲睦まじい生活を送ったといいます。
日本陸軍の発展に尽力した大山巌・・・列強に匹敵する軍隊を作るため、海外から最新鋭の武器を購入するなどの対外交渉にも関わりました。
栃木県那須塩原市・・・
巌の接待外交にも使われた大山家の別荘が、そのまま残されています。
伝統的な日本家屋の隣に、当時珍しかったレンガ造りの洋館が築かれました。
レンガは、巌がこの別荘のために特別に作らせたものだと言います。
応接室や、遊戯室など、8部屋からなる豪勢な洋館・・・
捨松は、国ごとの作法に合わせ、食事の出汁方などを差配し、パーティーを取り仕切ったといいます。
椅子やテーブルなどの調度品は、捨松がアメリカから取り寄せました。
欧米人が多かった賓客たちに、母国にいるようにくつろいでもらう心づくしでした。
捨松は、アメリカでの経験を活かし、巌の公務を積極的に支えたのです。
そんな捨松の手腕は、西洋化を進めていた日本にとって欠かせないものでした。
東京日比谷に鹿鳴館が作られました。
明治政府は、列強との不平等条約解消のため、夜な夜な舞踏会を開いて外交官を接待・・・
日本が文明国であることをアピールしようと努めました。
捨松も、鹿鳴館の夜会に出かける際には、華やかなドレスに身を包みました。
当時の日本人は、西洋のダンスはおろか、テーブルマナーさえ知らない人がほとんどでした。
そんな中、捨松は本場仕込みの華麗なステップと卓越した語学力で外交官たちをもてなしました。
各国の記者たちは、その振る舞いをこぞって称賛。
鹿鳴館の華として、捨松の名声は、遠く海外に届いたといいます。
社交界で確固たる評判を得た捨松は、さらに、鹿鳴館を舞台に社会の現状を変えようと新たな取り組みを始めました。
「私は病院を援助するために、バザーの準備をしています
日本では、バザーは今回が初めての試みです
これは病院だけでなく、日本人全員のためになると思います
今では東京中がこの話題で持ちきりです」
捨松は、留学中ヴァッサー大学卒業後に、半年間看護学校に通い、最新の看護教育を受けていました。
帰国後、日本に看護師を養成する学校がないことを知り、自らその設立にのりだしました。
そして、留学時代に目にしたアメリカの婦人たちのチャリティーバザーと同じようなバザーを開き、開業資金を集めようとしたのです。
上流階級の女性が商売をすることなど考えられなかった当時、多くの新聞が驚きをもって捨松のバザーを取り上げました。
捨松の呼びかけに、多くの布陣が賛同・・・
手製の人形やハンカチ、帽子など、多くの商品が瞬く間に集まりました。
鹿鳴館を会場に、日本初のバザーが開かれました。
皇族や、政府高官が馬車や人力車で押しかけ、来場者は3日間で1万2000人を記録。
集まった金額は、現在の価値で1億円に上ったといいます。
この資金を元手に、わずか4か月後に、有志共立東京病院看護婦教育所・・・日本初の看護学校が設立されました。
これまで男性のものとされていた看護に、女性たちも加わり、現代まで続く看護教育の礎となりました。
時代の壁を乗り越え、社会に貢献しようとした捨松の姿は、明治の女性像を大きく変えました。
東京都にある津田塾大学・・・津田梅子が始めた女子英学塾がその前身です。
英学塾の設立には、留学仲間の捨松も尽力しています。
政府に公認を得るために、梅子が文部省に提出した書類・・・
筆頭に、大山捨松の名前、その次に津田梅子の名前がありました。
捨松は、サポート役ではなかったのです。
英学塾の設立にあたって、捨松は顧問に就任、資金集めに困っていた梅子のために奔走し、学校運営を支え続けました。
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それは、アメリカ時代の親友・・・アリス・ベーコンでした。
英学塾の教師として働いてもらうため、捨松がアメリカから招いたのでした。
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やがて、時代は大きく動きます。
1904年、満州と朝鮮半島の権益をめぐって、日本とロシアが対立・・・日露戦争が勃発しました。
大山巌は、満州軍総司令官に任命され、95万人の兵を率いて、大国ロシアに立ち向かいます。
2倍の兵力を誇る精強なロシア軍を相手に、日本は厳しい戦いを強いられます。
1年半に及ぶ戦いの末、陸軍で8万人を超える犠牲者を出しながら、日本は辛くも勝利を収めました。
戦争中、捨松は、出征兵士たちの家族を支援する活動に力を注ぎました。
働き手を失い困窮する家族には、軍服の裁縫や洗濯などの仕事をあっせんしました。
母親が働きやすいように、子供を預けられる無料の託児所なども作っています。
そして、総司令官の妻として、捨松が何より大切にしていたのが、戦死者の家族を慰問することでした。
「今、私が一番つらいのは、遺族の方たちをたずね、慰めの言葉をかけるときです
たとえ国中の人が栄誉ある死について褒め称えたとしても、私たち女性は悲しみを殺して愛国主義者となる前に、妻であり母なのですから」
晩年、大山夫妻は、こよなく愛した那須の地に足しげく通い、静かな余生を送りました。
夏休みなどの休暇には、孫たちを連れて別荘に集い、共に大自然の中で過ごしました。
捨松は、晩年の平穏な日々をこう手紙に綴っています。
「親愛なるアリス
私は自分の生活が、今とても幸せであることに心から感謝しています
夫もとても元気で、私たちは仲の良い老夫婦となりました
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58歳で捨松はその波乱の生涯を閉じました。
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