日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:大山巌

栃木県那須塩原市・・・明治時代、外国の要人たちがしばしば訪れた別荘があります。
洋館の奥には、日本ならでわの和室もあります。
ここで、賓客たちをもてなしたのが、鹿鳴館の華とよばれた大山捨松です。
捨松は、日本人初の女子留学生として渡米・・・11年に及んだ留学生活で、完璧な英語と西洋の社交術を身につけました。
明治16年に完成した鹿鳴館では、各国の外交官たちを前に華麗なダンスを披露しました。
しかし、その活躍は社交界にとどまりませんでした。

捨松は、生涯、明治という壁に挑み続けました。

福島県会津若松市・・・江戸時代、徳川一門としてほうほくの要を担った会津藩の城下町として栄えました。
1860年、後の大山捨松・・・山川咲は、藩の家老・山川家の末娘としてこの地に生れました。
会津藩は、当時、最も高い教育水準を誇っていた藩の一つ・・・
「什の掟」は、藩の子供たちが日々唱えていました。
咲は、人としての生き方を唱えたこの掟に従い、家老の娘として人々の模範となるように努めました。

しかし・・・1868年8月・・・咲の運命は一変します。
薩摩・長州を中心とする新政府軍が、最後まで旧幕府に忠誠を誓っていた会津藩に攻め入りました。
近代兵器の猛攻に晒された会津藩士たちは、家族もろとも籠城を余儀なくされました。
炸裂する砲弾・・・立ち込める煙の中、負傷者たちが次々城内に運び込まれました。
当時、8歳だった咲も、家族と共に籠城戦に参加・・・
当時の状況を振り返ってこう述べています。

「毎日のように大砲の弾が私たちの頭の上をかすめ、お城の中に落ちてきました
 私たち、女子供も、精一杯、男たちを助けて働きました
 幼かった私に割り当てられた仕事は、弾薬づくりの準備を手伝うことでした」

1か月に及ぶ籠城戦の末、鶴ヶ城は陥落・・・2000人以上の犠牲者を出し、会津の敗北という形で戦争は終結しました。
戦後、苦境にあった山川家に、大きな転機が訪れます。
明治新政府による留学生の募集です。 
1872年、岩倉使節団の派遣・・・それに伴い、士族の子弟を留学させるという話が持ち上がります。
山川家は、この募集に応じ、10年に及ぶ長期のアメリカ留学に咲を送り出すという決断を下しました。

家名再興を学問にかける・・・!!

この時、咲が母から贈られた名前が”捨松”です。
捨てたつもりで遠い異国にやるが、帰ってくる日をいつまでも待つという思いが込められています。
日本初の女子留学生となった5人の少女たち・・・
この時、捨松は11歳・・・その隣には、幕臣だった父を持つ6歳の津田梅子の姿がありました。

1872年11月・・・捨松、アメリカへ・・・!!
目的地は、東海岸コネチカット州ニューヘイブン・・・イェール大学など高等教育機関のある学術都市です。
捨松のホームステイ先は、牧師のベーコン家・・・レオナルド・ベーコンは、知識人として尊敬される地元の名士でした。
捨松は、夫人から毎日のように英語を習い、勉強に励みました。
捨松は、ベーコン家で実の娘のようにかわいがられます。
そんな捨松に、大きな影響を与えたのがベーコン家の末娘・アリスです。
2歳年上の14歳で、アリスは人種や性別の隔てなく、誰もが平等に教育を受ける社会の実現を目指し、教師になるという目標を持っていました。
その強い志は、捨松に大きな衝撃を与えます。

女子留学生の派遣を決断した明治政府でしたが、求めていたのはあくまでも良妻賢母・・・家庭の模範となることでした。

ところが、アメリカでは、女性たちが学校で学んだことを活かして自立し、社会に貢献しているという道が開かれていたのです。
アリスに触発された捨松は、勉学に励み、名門ヴァッサー大学に入学します。
英語はもちろん、フランス語も完ぺきにマスター・・・政治学や、自然科学を学び、成績は常にトップクラスでした。
22歳の時、大学を優秀な成績で卒業した捨松は、ある明確な目標を持つようになりました。

日本への帰国を目前に控えた1882年8月2日・・・アリスへの手紙にそのことを記しています。

「あなたが日本に来て、共に働いてくれることを心から願っています
 あなたが英語と文学を教え、私は生理学と体育を教えることができると思います」

それは、私たち自身の学校・・・アリスと共に日本で学校を作ることでした。
1882年10月、11年に及ぶ留学を終えた捨松は、学校設立という大きな夢を胸に、帰国の途に就きました。

鹿鳴館の貴婦人大山捨松 日本初の女子留学生 (中公文庫) [ 久野明子 ]
鹿鳴館の貴婦人大山捨松 日本初の女子留学生 (中公文庫) [ 久野明子 ]

1882年11月21日、アメリカを出港して20日後、横浜沖まで来た時の興奮を、捨松はこう振り返っています。

「その前夜は、ほとんど眠ることができませんでした
 陸が見えたという声に飛び起きて、デッキに走りました
 その通りでした
 祖国の山々の稜線が、くっきりと見えているのです
 まるで、夢の中にいるような気持になりました」

しかし、喜びは束の間・・・帰国した捨松には、過酷な運命が待ち構えていました。

政府首脳は、一足先に留学から帰った男子を官僚や大学教授として重用していましたが、女子のための仕事は何一つ用意していなかったのです。
この時の失望を、捨松はアリスに語っています。

「ああアリス、人生とはどうしてこんなにも複雑なのでしょう
 私は今まで、人生の暗い面など想像したこともありませんでした
 自分の未来、自分の強さにとても自信を持っていたのに、その両方をなくしてしまいました」

捨松はすでに22歳・・・十代半ばで結婚するのが当たり前の時代に、家族からもすぐに結婚するように求められていました。
この頃、捨松の人生にとって大きな転機が訪れます。
陸軍卿・大山巌からのプロポーズです。
大山は、フランスやスイスに3年間留学して近代兵器を研究・・・日本陸軍の創設に尽力した人物です。
当時、捨松より18歳年上の40歳・・・前妻に先立たれ、再婚相手を探していました。
ところが、これまで結婚を進めていた山川家当主の兄が、この縁談には断固として反対しました。
大山は、西郷隆盛の従兄弟で、薩摩の出身・・・会津戦争で、同胞や家族を死に至らしめたかつての敵だったからです。
それでもあきらめず、何度も求婚を続ける大山に、兄はついに根負け・・・
判断は、捨松本人に委ねられることになりました。
プロポーズを受け入れるか否か・・・??
アリスに胸の内を語っています。

「もし私が婚約したと言ったら、あなたは何と思うでしょう
 でも、大丈夫、心配しないでください
 あなたが日本に来た時、きっと私は売れ残りの独身のままだと思います」

あくまで結婚はしないという捨松・・・
プロポーズを受けた当初は、教育の夢に胸を膨らませていました。

「就職先が見つかりそうなのです
 個々のお給料と英語の個人授業をすることで、学校を作る資金を貯めることができるかもしれません」

この手紙を出す直前、捨松のもとに文部省から官立の師範学校で教えてくれないかという依頼が届いていました。
しかし、思わぬ問題が浮上しました。
11年以上もの海外生活で、捨松の日本語の読み書きは初等教育レベルで止まっていました。
日本語の教科書で教えることは難しかったのです。
結局、就職を断念・・・

途方に暮れる中、捨松は、結婚に新たな可能性を見出し始めていました。

「今や教えることは、ほとんど見通しが立たなくなりました
 ですが、たとえ私の夢をあきらめたとしても、何か別の方法でお国のために、役に立つことはできないものでしょうか
 今、一番やらなければいけないのは、社会の現状を変えることなのです
 日本では、それは結婚した女性だけが出来ることなのです」

政府高官である大山との結婚で、社会を変える道が開けるかもしれない・・・
プロポーズから5か月後・・・1883年6月、悩んだ末に、捨松は結婚を決意します。
その時の気持ちをアリスに綴っています。

「大山氏は、とても素晴らしい方で、私は将来を託すことにしました
 未来の夫のために、自分自身を捧げ、よき協力者になりたいと思っています
 今、私は自分がしたことが正しかったと思っています」

大山との結婚は、捨松の人生を大きく変えることになります。

2人は3人の子供にも恵まれ、生涯仲睦まじい生活を送ったといいます。
日本陸軍の発展に尽力した大山巌・・・列強に匹敵する軍隊を作るため、海外から最新鋭の武器を購入するなどの対外交渉にも関わりました。
栃木県那須塩原市・・・
巌の接待外交にも使われた大山家の別荘が、そのまま残されています。
伝統的な日本家屋の隣に、当時珍しかったレンガ造りの洋館が築かれました。
レンガは、巌がこの別荘のために特別に作らせたものだと言います。
応接室や、遊戯室など、8部屋からなる豪勢な洋館・・・
捨松は、国ごとの作法に合わせ、食事の出汁方などを差配し、パーティーを取り仕切ったといいます。
椅子やテーブルなどの調度品は、捨松がアメリカから取り寄せました。
欧米人が多かった賓客たちに、母国にいるようにくつろいでもらう心づくしでした。
捨松は、アメリカでの経験を活かし、巌の公務を積極的に支えたのです。

そんな捨松の手腕は、西洋化を進めていた日本にとって欠かせないものでした。
東京日比谷に鹿鳴館が作られました。
明治政府は、列強との不平等条約解消のため、夜な夜な舞踏会を開いて外交官を接待・・・
日本が文明国であることをアピールしようと努めました。

捨松も、鹿鳴館の夜会に出かける際には、華やかなドレスに身を包みました。
当時の日本人は、西洋のダンスはおろか、テーブルマナーさえ知らない人がほとんどでした。
そんな中、捨松は本場仕込みの華麗なステップと卓越した語学力で外交官たちをもてなしました。
各国の記者たちは、その振る舞いをこぞって称賛。
鹿鳴館の華として、捨松の名声は、遠く海外に届いたといいます。
社交界で確固たる評判を得た捨松は、さらに、鹿鳴館を舞台に社会の現状を変えようと新たな取り組みを始めました。

「私は病院を援助するために、バザーの準備をしています
 日本では、バザーは今回が初めての試みです
 これは病院だけでなく、日本人全員のためになると思います
 今では東京中がこの話題で持ちきりです」
 
捨松は、留学中ヴァッサー大学卒業後に、半年間看護学校に通い、最新の看護教育を受けていました。
帰国後、日本に看護師を養成する学校がないことを知り、自らその設立にのりだしました。
そして、留学時代に目にしたアメリカの婦人たちのチャリティーバザーと同じようなバザーを開き、開業資金を集めようとしたのです。
上流階級の女性が商売をすることなど考えられなかった当時、多くの新聞が驚きをもって捨松のバザーを取り上げました。
捨松の呼びかけに、多くの布陣が賛同・・・
手製の人形やハンカチ、帽子など、多くの商品が瞬く間に集まりました。
鹿鳴館を会場に、日本初のバザーが開かれました。
皇族や、政府高官が馬車や人力車で押しかけ、来場者は3日間で1万2000人を記録。
集まった金額は、現在の価値で1億円に上ったといいます。

この資金を元手に、わずか4か月後に、有志共立東京病院看護婦教育所・・・日本初の看護学校が設立されました。
これまで男性のものとされていた看護に、女性たちも加わり、現代まで続く看護教育の礎となりました。
時代の壁を乗り越え、社会に貢献しようとした捨松の姿は、明治の女性像を大きく変えました。

東京都にある津田塾大学・・・津田梅子が始めた女子英学塾がその前身です。
英学塾の設立には、留学仲間の捨松も尽力しています。
政府に公認を得るために、梅子が文部省に提出した書類・・・
筆頭に、大山捨松の名前、その次に津田梅子の名前がありました。
捨松は、サポート役ではなかったのです。

英学塾の設立にあたって、捨松は顧問に就任、資金集めに困っていた梅子のために奔走し、学校運営を支え続けました。
一人のアメリカ人女性がやってきました。
それは、アメリカ時代の親友・・・アリス・ベーコンでした。
英学塾の教師として働いてもらうため、捨松がアメリカから招いたのでした。
少女たちが18年前に交わした約束が、実現した瞬間でした。

やがて、時代は大きく動きます。
1904年、満州と朝鮮半島の権益をめぐって、日本とロシアが対立・・・日露戦争が勃発しました。
大山巌は、満州軍総司令官に任命され、95万人の兵を率いて、大国ロシアに立ち向かいます。
2倍の兵力を誇る精強なロシア軍を相手に、日本は厳しい戦いを強いられます。
1年半に及ぶ戦いの末、陸軍で8万人を超える犠牲者を出しながら、日本は辛くも勝利を収めました。
戦争中、捨松は、出征兵士たちの家族を支援する活動に力を注ぎました。
働き手を失い困窮する家族には、軍服の裁縫や洗濯などの仕事をあっせんしました。
母親が働きやすいように、子供を預けられる無料の託児所なども作っています。
そして、総司令官の妻として、捨松が何より大切にしていたのが、戦死者の家族を慰問することでした。

「今、私が一番つらいのは、遺族の方たちをたずね、慰めの言葉をかけるときです
 たとえ国中の人が栄誉ある死について褒め称えたとしても、私たち女性は悲しみを殺して愛国主義者となる前に、妻であり母なのですから」

晩年、大山夫妻は、こよなく愛した那須の地に足しげく通い、静かな余生を送りました。
夏休みなどの休暇には、孫たちを連れて別荘に集い、共に大自然の中で過ごしました。
捨松は、晩年の平穏な日々をこう手紙に綴っています。

「親愛なるアリス
 私は自分の生活が、今とても幸せであることに心から感謝しています
 夫もとても元気で、私たちは仲の良い老夫婦となりました
 あなたの親友 捨松より」

58歳で捨松はその波乱の生涯を閉じました。
愛する伴侶・巌と共に、愛する那須の地で眠りについています。

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時は風雲急を告げる幕末!!
西郷隆盛や大久保利通、大改革を担った逸材を生んだ薩摩藩の人材力!!
欧米列強と互角に渡り合った軍事力と外交力!!
あらゆる能力に抜きんでた薩摩藩は、江戸幕府の幕引きという大改革を成し遂げていきます。
どうしてそんなことができたのでしょうか?

鹿児島市にある照国神社・・・この神社は、薩摩藩の活躍を導いたある人物を祀るためにつくられました。
薩摩藩第11代藩主・島津斉彬公です。
その死後、孝明天皇により照国大明神という名をもらい、この地に祀られました。
国を照らすとまで言われた島津斉彬・・・
どんな人物だったのでしょうか?

島津斉彬は、江戸の薩摩藩邸で生まれました。
薩摩藩の未来の藩主として青年時代を送りました。
斉彬の人となりは・・・

”色が黒く、体格はお背が高く、横張りの頑丈なお方で、お正月のはじめなど
 「おめでとう」と、隅々まで通る大きな声で仰せられたものである。
 まことに威風堂々たるものであった”

人柄は穏やかで頭脳明晰、会えば雷に打たれたような印象を与えた斉彬・・・
斉彬が、日本の将来に強い危機感を抱く事件が中国で発生します。
アヘン戦争です。
イギリス軍の圧倒的な軍事力を前に、清が屈服したという知らせに、斉彬は衝撃を受けました。
斉彬自身がまとめた「清国阿片戦争 始末に関する聞書」では・・・
貿易を強引に要求し、相手国を植民地化する脅威を察知したことがわかります。

1851年、43歳で藩主となった斉彬は、すぐさま行動に出ます。
尚古集成館には、斉彬が取り組んだ大砲が再現されています。
それまでの大砲は、青銅で作られていました。
斉彬は、銅よりも安く強度の高い次世代の武器・・・鉄製の武器に取り掛かります。
そして、この鉄製の大砲が、飽くなき探求心の始まりでした。
青銅に比べて、鉄は高い温度で溶かさなければなりません。
青銅の大砲よりも高度な技術が必要でした。
オランダから反射炉を使った鉄の大砲づくりが導入されることとなります。
衝撃や熱に耐える良質の鉄を造ることができます。

佐賀藩の専門書を頼りに見たことのない反射炉の製作に取り掛かります。
失敗の連続の末に・・・5年の歳月をかけて反射炉が完成!!
斉彬は、溶鉱炉や鑚開台を作らせます。
大砲づくりのコンビナートを作ったのです。

斉彬の目標は、大砲だけでなく、西洋式の軍艦の建造。
貴重な情報源は、中浜万次郎・・・ジョン万次郎でした。
小型の様式帆船を建造し、それを発展させ、大砲を備えた日本初の大型軍艦「昇平丸」を作りました。

蒸気の力を動力とする蒸気機関は、当時の最新技術でした。
その開発に成功し、日本初の蒸気船を完成させます。
”薩摩の火だるま船”と、呼ばれ、ペリーの来た直後には完成していました。
斉彬が開発に成功したのは、ペリー来航からわずか2年後だったのです。
薩摩の技術力には驚かされるばかりです。

更に斉彬が取り組んだのが・・・「薩摩切子」・・・カットグラスです。
薩摩独自の産業にも力を入れた斉彬は、貿易による国力増強も考えていました。
軍備の強化だけではなく、人々の生活を豊かにする・・・富国強兵・殖産興業の先駆けだったのです。

未曽有の外圧を前に斉彬は・・・

「幕府も、諸大名も、これまでの一国一群単位の意識では、欧米の脅威から日本を守ることはできない。
 日本一致一体となって一応に高性能の軍備を備えて初めて、本当の防備が出来るというものだ」

西欧列強の脅威にオールジャパンで対対応していくことを提言した斉彬・・・そのキーワードが「日本一致一体」でした。
この後、どのようにこれを実現していくか・・・??薩摩藩の幕末は動き出したのでした。


16世紀後半のアジアの地図・・・
日本が曖昧な形の時代に、Cangoxina(鹿児島)が書かれています。
薩摩藩は、中世以来、交易の門戸を開き続けてきた海洋国家でした。
江戸時代を通じ、琉球王朝(沖縄)を統制下におき、鎖国の時代に、莫大な貿易の利益を得ていました。
鹿児島県日置市美山、薩摩焼の郷。
薩摩焼のルーツは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、島津家が優れた陶工を鹿児島に連れて帰ったことに始まります。
そこに、海洋国家薩摩藩の知られざる姿がありました。
他の藩も陶工を連れて来たものの日本人にしてしまいました。
しかし、薩摩藩は、朝鮮人技術者のみならず、彼らの言語を保護し、一カ所に住まわせ、朝鮮名を名乗らせ、朝鮮語を喋らせる・・・「リトルコリア」・・・保護区を作ったのです。
江戸時代を通じ、薩摩藩は鹿児島の朝鮮人陶工たちに髪型や朝鮮の言葉を使い続けることを許しました。
密貿易で薩摩にやってくる商人たちを、漂流民として扱い、幕府に報告していました。
そこに、海洋国家の薩摩のしたたかさがありました。
薩摩の人が船の修理のお代にもらった高麗人参は、富山の薬売りに高く売れました。
代わりに仕入れるのは、北海道産の昆布でした。
それを選別として朝鮮に渡し・・・彼らも地元に戻ってこの高級品を売りました。
広大な海の交易圏の中心に薩摩があったのです。
幕府に極秘に行われた密貿易・・・
それは、物資だけでなく、大陸からもたらされる最新の国際情勢や、技術、文化をいち早く入手することを可能にしました。
この海洋国家としてのDNAが、代々国際性豊かなリーダーを作り上げていくのです。

中でも・・・蘭癖大名・・・島津重豪。
ローマ字を書く重豪は、学問を重視し、天文館を設置、百科事典や辞書、世界地図を作成させ、文化力向上に努めました。
そんな重豪から将来を託されたのがひ孫の斉彬でした。
斉彬は18歳の時、重豪に連れられてオランダ商館付きの医師・シーボルトと面会・・・世界を見つめる目を茶しなっていきます。
斉彬もローマ字をマスターし、海の向こうの未知の文明を全身で学び取ろうとしました。
はるか中世から続く、海洋国家としてのDNA・・・それが、東アジアの小さな島国・日本の危機を見抜いた名君・島津斉彬をうんだのです。


寺島宗則(松木弘安)
鹿児島の中心・・・鹿児島中央駅前の銅像・・・タイトルは「若き薩摩の群像」
激動の時代に密かにイギリスに渡った薩摩の17人の留学生を顕彰しています。
メンバーの一人は、五代友厚・・・後に、大阪経済界を代表する実業家となります。
明治政府の初代文部大臣・森有礼。
なかでも名君・斉彬ととりわけ深いかかわりを持っていたのが、寺島宗則です。
明治の条約交渉で、日本外交に大きな功績を残した政治家でした。

元の名は、松木弘安。1832年に生まれ、優れた蘭方医の養父に育ちます。
語学力に優れた薩摩きっての秀才でした。
彼の力は藩も認め、医学の修行や最先端の蘭学にかかる費用は、全て藩が負担したといいます。
マルチな才能を持っていた松木弘安・・・蘭学、医学、文学、化学、物理学、天文学・・・語学の天才で、オランダ語が凄くできました。
期待したのは斉彬・・・。
オランダ語の翻訳から、反射炉の実験、蒸気機関の設計に至るまで、集成館に必要な技術の研究と実用化くぉ松木に一任しました。
期待に次々とこたえていく松木は、島津家別邸仙巌園では、庭園の石灯篭に石炭から精製したガスを使用しガス灯をともすことに成功・・・明治にガス灯が作られる15年も前の事です。

また、絹糸を巻いた電線を鶴丸城から庭園探勝円まで引き、550mの距離で電気通信に成功。
松木は日本の電気通信の父と称えられました。
写真術の研究にも没頭し、松木の飽くなき探求心に応え、斉彬は次々にミッションを与えていきます。
薩摩藩の近代化の夢に邁進していく二人がいました。
ところが・・・1858年7月16日島津斉彬死去。
大砲教練を視察した日に・・・50歳での突然の死でした。
藩主として7年・・・その悲報に、斉彬の薫陶を受けた者たちは涙しました。
松木は勉学を続けます。
開港したばかりの横浜で、外交文書の翻訳に従事しながら、斉彬の志を・・・西洋を研究していきます。
すると、その努力が認められ、幕府のヨーロッパ使節団の一員に選ばれます。
日本の未来を担う有能な存在を幕府がリストアップし、松木は海外諸国を歴訪する初めての薩摩藩士として参加します。
時に1861年、松木弘安30歳でした。
その中で松木を驚かせたのが、産業革命後高度な文明のイギリスでした。

「このヨーロッパ巡視の中で初めて知ったことがあります。
 オランダ国外に出れば、オランダ語を知る人は一人もおらず、
 イギリス、ドイツ、フランスに比べれば、百分の一以下の国でした。
 日本に戻ったのち、もはや蘭学を教える意味はないと思います。」by弘安

松木の視線は、オランダからイギリスに移っていきました。
斉彬の遺志を継ぎ、松木はヨーロッパを巡り、世界の中で日本の進む道を考える・・・
そして・・・それが、薩摩藩の窮地を救うこととなっていきます。


1862年松木がヨーロッパ視察から帰国・・・この年を境に、薩摩藩の藩の存亡の危機に・・・!!
この難局をいかにして乗り切っていくのでしょうか?
ピンチで発揮される薩摩イズムとは・・・??
斉彬の死後、その遺志を継いだのは弟・久光でした。
そこに、薩摩藩最大の危機・・・生麦事件が・・・!!
1862年8月21日生麦事件。
江戸から鹿児島へと帰還する島津久光の大名行列に、不用意にも近づいてしまったイギリス人一行を、薩摩藩の警護役が迷いなく斬りつけました。
一人のイギリス人青年が、死亡・・・するとこれが大事件に・・・。
イギリス側が、幕府と薩摩に賠償を要求。
犯人の処刑も求める強硬姿勢にでます。
その時、誤った情報が薩摩に伝わります。
「イギリスは、久光の首の差出を求めている・・・」
薩摩とイギリスとの激突は必至・・・!!
この時、イギリスとの交渉に薩摩が頼みの綱としたのが、語学力に長け、海外経験のある松木弘安と五代友厚でした。
1863年6月27日・・・イギリス艦隊が鹿児島湾に現れます。
その4日後・・・一向に動かない薩摩にしびれを切らし、薩摩藩の汽船3隻を捕らえようとします。
その1隻に松木と五代が・・・!!
薩摩の船を守るために、抗議する松木!!
しかし、船は拿捕され、二人はイギリス軍に拘留。
それをきっかけに、砲撃を開始する薩摩でしたが、イギリスとの火力の差は歴然!!
砲台や集成館が破壊され、鹿児島城下は火の海となりました。
薩英戦争です。
想定外の戦闘となってしまったイギリスは横浜に帰還。
松木と五代は捕虜として連行されてしまいました。
その後、薩摩とイギリスとの関係は・・・
そこには、もう一人の薩摩藩士の活躍がありました。
横浜で行われた薩英戦争の賠償交渉・・・英国代理公使・ニールと相対したのは、薩摩藩士・重野厚之丞。
重野も、斉彬の薫陶を受けた学者肌の藩士で、後に久光の庭方役をしていた切れ者でした。
イギリスとの難しい交渉に驚くべき提案をしています。
賠償をするので、その代わりにイギリスから軍艦を購入します。
さらには、軍艦操縦法を教わりたいので、若者を留学させたい・・・。と。
なんと、重野は、賠償問題だけにせず、両国の通商交渉へと変換させたのです。
思いもよらない提案に、虚を突かれたイギリスは、もともと望んでいたのでこの提案を受け入れます。
相手の本心をついて事態を打開する・・・これこそ、究極の薩摩イズムでした。

重野の功績で、薩摩とイギリスとの関係は急接近していきます。
この交渉の結果、留学生として再び海を渡ったのが、捕虜となっていた松木でした。
松木は五代友厚らと共に、1865年3月22日・・・イギリスへと向かいます。
この留学で松木はある任務を帯びていました。イギリスと薩摩との間で貿易協定を結ぶこと・・・でした。

最初に面会したのが、英国下院議員・オリファントでした。
来日経験もある知日派で、日本に同情的でした。
オリファントは、はるばる海を渡ってきた松木に言っています。

「我がイギリスが、貿易条約を結ぶ時、両国お互いに利益があるというのは、表向きの挨拶にすぎません。
 その本心は、あなたの国をむさぼり尽すことにあります。
 兵器を使って戦うのではなく、貿易による知略が、弾丸となることを知らなくてはなりません。」

オリファントから教わった、国際貿易の本質・・・松木に日本のあるべき姿が見え始めていました。

「我が国が諸外国と並立していくためには、国家最上の主君の目を覚まし、一人の新生児のようにならなくてはならない。
 天皇の指揮のもと、我国が一体となって他国と友好関係を築かなければ、独立は難しい・・・」

それは、斉彬が唱えた日本一致一体の発展形・・・天皇による中央集権国家への変革構想でした。
そして、松木は英国外相・クラレンドンとの会談に持ち込みます。
日本の条約批准権を幕府から天皇に移す構想を語り、その協力を求めました。
幕府の下に薩摩があるのではないのです。
イギリスから薩摩に戻ると、イギリス公使・パークスの鹿児島訪問に列席。
通訳をしながら、薩摩と日本がとるべき外交の道を探り続けます。
その時、松木は故郷に浮かぶ小島にちなみ、寺島宗則と改名・・・日本の未来のために尽くす外交官としての道を歩み始めます。
斉彬の唱えた日本一致一体を胸に、寺島宗則は、日本外交のパイオニアとなっていくのです。

薩摩の武士の伝統は、野太刀自顕流です。
一撃必殺で相手を倒すのが極意です。
維新の原動力となった多くの英傑も、この剣術のけいこに汗を流しました。
同じ志を持った先輩、後輩たちが同じ道を進んで行く・・・郷中教育です。
「郷中」という地域ごとに成立した集団教育で、西郷隆盛の郷中には、大久保利通、大山巌、東郷平八郎、黒木為楨がいました。
同じ郷中出身の者は、強い結束で結ばれていました。
そして、二才という15~25歳の元、6歳からの稚児たちが文武両道をたたき込まれていきます。
中でも特徴的なのが「詮議」と呼ばれるケーススタディ・ディスカッションです。
例えばお題は・・・
「目の前に、主君の敵と親の敵が同時に現れたら、どちらから成敗するか?」
不測の事態に陥った時、どうやって対処していくのか?
実践的な思考を養う伝統が、薩摩の英傑たちを生み出していきます。

薩英戦争の翌年、京都で大事件が起こります。
1864年7月、禁門の変です。
過激な攘夷論を掲げる長州と、それを暴挙と見なす薩摩、会津の幕府連合軍が御所の前で激突しました。
長州藩は、薩摩の軍事力の前に惨敗・・・御所に向かって発砲したことで、朝敵の汚名を着せられました。
この時、幕府側の陣頭指揮を執ったのが、西郷隆盛です。
生前の斉彬の遺志を継ぐ、薩摩きっての戦略家でした。

幕府は、西郷に命じ・・・第1次長州征討!!
かくして、西郷は、歴史の表舞台に躍り出ました。
日本に内乱の危機をもたらした長州を許すわけにはいかない・・・!!
無謀に攘夷を叫び、内乱の火種をまき散らす長州・・・そんな長州を断固討ち果たす覚悟でいました。
が!!そんな考えを一変させる情報が・・・!!
「幕府が忌み嫌っているのは、薩摩と長州の勢いです。
 幕府の真の狙いは、ここで薩長両藩を戦わせ、その力を消耗させようというもの。
 先鋒を務めれば、薩摩の災いとなるのは必至、徳川の思うつぼとなるでしょう。」
情報に接した西郷は・・・幕府の本当の狙いは、長州だけでなく、薩摩の力を削ぐことであると判断します。
そう悟ると、強硬路線から、急遽、長州との戦争回避策に方向転換します。

しかし・・・いきり立っている長州をどう説得するのか・・・??
すると西郷が放った探索方から突破口な情報が・・・!!
岩国藩主の吉川経幹が、長州の過激派に反対、幕府に恭順すべきだと内部分裂を起こしているというものでした。
一計を案じる西郷・・・
西郷の交渉術①穏便派を懐柔
吉川を取り込んで長州の過激派に揺さぶりをかければ、幕府との衝突を避けられるのでは・・・??
長州の分裂に乗じた一か八かの賭けでした。

1864年11月、西郷は岩国・吉川経幹と会談
幕府との戦いを避けたければ、禁門の変の首謀者である三家老の切腹など幕府と朝廷への謝罪の意を示すことを要求・・・
その代わり、西郷は捕虜となった藩士の開放や、朝敵となった長州の汚名返上に薩摩が力を尽くすことを誓います。
すると、吉川は過激派の説得に向かいます。
西郷にはもう一つの難問がありました。
幕府が提示した長州を許す条件に、過激派の本拠地・下関に匿われていた三条実美ら攘夷派の公家らの身柄開放がありました。
しかし、それに反対したのが、奇兵隊をはじめとする長州の民兵組織諸隊でした。
彼らにとって攘夷派の公家たちは、自分たちを正当化する存在・・・
むざむざと引き渡すわけにはいきませんでした。

西郷の交渉術②命を懸けた直談判
すると西郷は、自ら下関に赴き、諸隊との直談判に・・・!!
今、無防備に長州に乗り込めば、命の保証はない・・・!!
周囲の反対を押し切って、密談に・・・諸隊の説得に向かいます。
相手の意表をついて、懐に飛び込んで、自分の命を投げ出すことのできる人でした。
西郷以外にはあり得ないやり方でした。
長州藩の説得に成功!!
1864年12月27日、幕府軍撤兵!!
幕府は長州の恭順に兵を引いたのでした。
ここに、第1次長州征討は、未然に収束しました。
この時、西郷は、交渉の窓口となった吉川に驚くべき交渉をしていました。

「天皇を疎んじる幕府の非情の仕打ちは、許しがたい。
 西国の諸藩連合結成の折は、是非とも長州にも参上願いたい。」by西郷

後の薩長同盟の伏線でした。
内乱の危機を防いだ西郷・・・苦虫を噛み潰すように見ていたのは、一橋慶喜でした。

「幕府軍は、薩摩の芋焼酎にひどく酔わされ、してやられた!!
 その焼酎の銘柄は大島(西郷)とかいうらしい・・・」by慶喜

京都・・・幕末の薩摩藩の活躍は、この地を抜きには語れません。
薩摩藩の底力を支えたのは・・・まずは・・・京都南にある伏見。
薩摩藩伏見屋敷は、篤姫が江戸に向かう途中滞在したことでも有名です。
寺田屋から逃げて来た龍馬が助けを求めた場所でもあります。
江戸時代、伏見は人や物資、情報の一大集積地でした。
伏見は、参勤交代の重要地点で、薩摩は琉球使節団を連れてやってきました。
異国情緒漂う行列は、京都の人々の注目を集めたといいます。
上洛のチャンスに存在感を示す・・・したたかな戦略です。

二つ目は、洛中にありました。
薩摩藩にとって幕末の一大拠点となったのは・・・久光が政治的に立ち回りやすいように作った屋敷です。
現在の同志社大学の敷地にあった京都二本松薩摩藩邸。
造営されたのは1862年で、京都における薩摩藩の政治活動を支えました。
当時、この周辺は武家屋敷はなく、公家の屋敷が並んでいました。
そんな場所に、どうやって広大な屋敷を構えることができたのでしょうか?
大名の京都における政治の条件は、京都における公家との関係にあります。
近衛と島津・・・日本中世以来、関係の深い縁戚関係でした。
摂関家のTOPの公家・近衛家・・・この権威を朝廷工作に使ったのです。
近衛家の近くに藩邸があれば、極秘の任務にうってつけです。
これが、薩摩藩の政治活動に多くの利点をもたらします。
そして、周りにいる人にも威圧感を与えることができました。

御所の東には・・・薩摩の英傑のひとり・西郷隆盛の盟友・大久保利通が住んでいました。
大久保は、島津久光の側近で、当時の大久保の任務は朝廷工作でした。
薩摩藩への国政への影響力を強め、反幕府運動を展開する為に、公家との連携を深めていきます。
西郷隆盛も、大久保邸の近くに暮らしていました。
そして、薩摩藩邸の北西1キロほどのところに屋敷を構えたのが小松帯刀です。
諸説ありますが、近衛家の別邸・・・お花畑屋敷と言われていたこの場所に、薩摩の家老・小松が借りて住んでいたのです。
久光の名代として全権を任されていました。
この屋敷の治外法権・・・幕府の力の及ばないところを利用していました。
この小松邸で結ばれたのが、幕末最大の密約・・・1866年薩長同盟でした。
薩摩は長州との関係を急速に深め、反幕府体制を強めていきます。
小松はその誠実な人柄で幕府の人間にも信頼されており、過激な西郷や大久保を御しながら、新体制樹立を模索します。
西郷や大久保、小松・・・薩摩屈指の人材が集結した幕末の京都・・・ここから日本の大変革が始まるのです。

幕末の動乱は、最終局面へ・・・。
徳川慶喜に突き付けられる大政奉還、密かに進められる武力討幕・・・
電光石火の突破力がものをいいます。
幕末も押し迫った1867年5月・・・西郷が島津久光に送った3メートルに及ぶ建白書。
その中で西郷は、徳川も一大名となり、諸大名と共に天皇を補佐する体制をつくるべきだと進言します。
そのための政権返上の建白を行ってもらいたいと久光に訴えます。
島津斉彬が掲げた日本一致一体の理想・・・。
その西郷たちが、どうして徳川を排除した中央集権国家をつくることになっていくのでしょうか?

1866年6月、日本を再び内乱の危機が・・・
幕府に謝罪したはずの長州が、再び軍備を増強!!
この事をかぎつけた幕府が再び征討へ・・・しかし、一度謝罪した長州に出兵するなど不当な戦いだと薩摩藩は出兵を拒否。
薩摩の軍事力を失った幕府軍は惨敗し、権威を失墜します。
第2次長州征討失敗!!
その背景にあったのは、小松帯刀の采配でした。
幕府には極秘に薩摩名義でイギリスから大量の洋式銃を購入。
それを長州に流していたのです。
ところが、その半年後、西郷たちの前に巨大な壁が・・・!!
その政治手腕の高さから、家康の再来と言われた慶喜が、第15代将軍に・・・!!
慶喜は、失墜した幕府の権威回復に、次々と手を打ちます。
フランスからの支援の下、幕府の軍備の近代化を図ります。
薩摩と繋がるイギリスとの関係強化も画策します。
さらに、外交問題にも類まれな能力を発揮!!
当時、欧米列強との間での問題となっていた兵庫の開港。
慶喜は、外国との貿易利権に繋がる決断を、幕府の力のみで実現しようとします。
そして、1867年5月24日、誰もが不可能だと見ていた兵庫開港の勅許をえるのです。
将軍慶喜の名は、日本の新しい君主・大君として知れ渡り、指導者としての力量が高く認められることとなります。
時代の風向きが徳川に向き始める・・・??
焦燥感を抱き始める西郷たち・・・兵庫開港勅許の5日後の5月29日、薩摩藩邸で重臣会議を招集した小松帯刀。
形勢逆転に打って出ます。
徳川に政権返上を迫るために硬軟織り交ぜた計画でした。
この強硬策の大一手が、大政奉還。
黒船来航以来、幕府の政治力の衰退は明らか・・・
将軍慶喜に、朝廷に政権を返上するように求め、天皇のもと、諸大名が挙国一致で国政に当たる新体制の樹立を・・・!!というものでした。
その裏で、西郷と大久保は違う策を練っていました。
8月・・・長州との密談で明かした秘策・・・京都・大坂・江戸の三都同時挙兵計画でした。
京都藩邸の1000人を三手に分け、一手は天皇を確保、一手は会津邸、一手は幕府駐屯所を襲撃、国元からは3000人が出兵し、大坂城、大阪湾の軍艦を焼き払う!!
江戸にいる1000人は幕府軍の上京を阻止する!!
この時、西郷と大久保は、慶喜は大政奉還を拒否すると踏んでいました。
その時は、武力をもって政権返上を要求する!!
もし、失敗したら、薩摩藩の存在が危ぶまれる危険な策でした。

そんなこんなが水面下でうごめいていた頃、薩摩藩のリアリズムを象徴する暗殺事件が・・・
暗殺されたのは、イギリス兵学の専門家であった信州上田藩士・赤松小三郎でした。
京で私塾を開き、その評判から薩摩藩が兵学の師として登用していました。
西郷たちの武力蜂起計画を知るや否や、反対する赤松!!
しかし、西郷たちは止まることはなく・・・失意の赤松は上田に帰ることに・・・。
薩摩の出兵計画は、会津と二条城を襲うこと・・・赤松が薩摩から離れたときに、情報が漏れる可能性がある・・・。
回避するためには命を奪うほかない!!
薩摩藩だけではなく、会津、幕府とも通じていた赤松・・・いかに信頼できる人物であったとしても、内情を知るものを放ってはおけない・・・赤松が殺害されたのは、薩摩主催の送別会の帰りの事でした。
そこには、薩摩の冷徹なまでのリアリズムがそこにはありました。

ところが・・・驚天動地の事態が・・・!!
1867年10月14日、景気が大政奉還を表明!!
将軍自ら260年の幕藩体制に終止符を打って・・・政権返上をしたのです。
武力討伐の大義名分が無くなってしまいました。
しかし、慶喜の狙いはその先にありました。
幕府に代わる新体制がつくられたのち、自分もそこに加わり、日本の近代化政策に自らの政治手腕を発揮したい!!
西郷と大久保は、慶喜に対する警戒を強めます。
新政府が誕生しても、そこに慶喜が参加した場合、政治の主導権は、能力の高い慶喜に再びわたる可能性がありました。
一方、突然の政権返上に、公家たちは動揺するばかり・・・
諸大名からも慶喜の手腕に期待する声が・・・
その状況に西郷たちは、新体制から徳川を排除しなければ、本当に日本が生まれ変わることにはならない・・・

1867年12月9日、京都の薩摩藩邸から西郷率いる1,000人の兵士が、近衛邸を通って御所に侵入し、慶喜を排除した新政権の樹立が強引に宣言されました。王政復古のクーデターです。
その前日、西郷はこんな言葉を残しています。

「二百有余年の太平の旧習に、汚染仕り候人心・・・
 一度干戈を動かし候て 反て天下の耳目を一新・・・
 戦いを決し候て 死中活を得るの御着眼」

その後、時代は怒涛の中を突き進みます。
鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争・・・激しい衝突を経て明治の日本は産声をあげます。
幕末の大変革・・・それは、時代のうねりに挑み続けた西郷たちの執念の結晶でもあったのです。

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 前回から、最終回に向かって走って来ていますね。
この回は???

戦争が迫っていました。
日本は一丸となって、富国強兵へと邁進!!
その波紋は同志社にも・・・。
入学者が五分の一に減ってしまったのです。
学者の中には、キリスト教は教育勅語に反すると批判する者もいました。

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そう、明治23年、「教育勅語」が発布され・・・学校にも配布されました。
そこには、親への孝行、兄弟への友愛など日本古来の道徳心を重んじるとともに、
「国家の危機には忠義を以て天皇に尽くすべし」
との一条がありました。

「教育の名のもとに、人を縛ることはあってはなんねえ・・・」

覚馬はそう思っていたのです。

時代は日清戦争に突き進んでいましたが・・・八重は、学校で看護を教えていました。
自分が実践で学んだことを昔話のように語りながら・・・。

覚馬は咳きこむようになっていました。
そこへやってきたのは山川健次郎。
山川家でも、大蔵の調子が良くないようですが・・・大蔵は、尚之助の未完の仕事を引き継いで・・・
あの時、会津に何があったのか?
「京都守護職始末」を書き残そうとしていました。

yae












京で一体何があったのか???
当時小さかった健次郎は、覚馬に聞くのでした。

そうですね・・・。
昔は総集編があったものでしたが、これが総集編って感じなんでしょうか?

しかし・・・「勤皇の志は、薩長も持っていた」という覚馬の言葉に、激昂する八重と健次郎。。。

あ~、この覚馬の説明、全く解りません。。。
抽象的すぎます。。。
会津と新政府軍を平等に話しているのでしょうが・・・いくら教育者になったとはいえ、個人的にもここまで平等になれたのか?なれなかったと思うんですけどね。。。

会津が敗れた痛み・・・国を失う痛み・・・人間の知恵や知識で戦争を回避することは出来ないのか???
学問は武器とならないのか???
日清戦争に突き進もうとしている日本を憂いでいる覚馬。。。

同志社の卒業式で・・・挨拶をする覚馬。

yae3












「諸君は、学業を終え、これからそれぞれの仕事に就かれる。
 どうか、弱いものを守る盾となってください。

 かつて・・・私は会津藩士として戦い、京の街を焼き、故郷の会津を失いました。
 その償いの道は、半ばです。

 今、世界が力を競い合い、日本は戦に向けて動き出した。。。
 どうか、聖書の一節を心に深く刻んでください。
 ”その剣を打ちかえて鍬となし、その槍を打ちかえて鎌となし、国は国に向かいて剣をあげず
 二度とふたたび戦うことを学ばない・・・!!”

 諸君は、一国の・・・いや、世界の良心であってください。
 いかなる力にも、その知恵であらがい、道を切り開いてください。
 それが、身を以て戦を知る私の願いです。」

覚馬は、その翌年、小崎弘道に総長の職を譲り、学校運営から身を引いたのです。

明治25年12月28日。。。
64年の苛烈な生涯を閉じたのでした。

って、山本家、すっごく血濃い!!
娘の久栄の立場はどうよ!!って感じが、違和感として残るのは、私だけでしょうか???
そう、嫁×2はともかく、久栄は娘なのに~!!
仲間に入れてあげてよ・・・!!!

大蔵と健次郎は容保公を見舞っていました。
容保が二人に見せたのは”御宸翰”。。。

yae4












会津が逆賊でないことの証です。
2人に託したいとのことです。

どうしてこの御宸翰を見せなかったのか???
それは、自分が逆賊の汚名を雪ぐよりも、この国に戦いの火を撒かないという・・・容保の強い意志でもありました。

「いつか・・・御宸翰を世に出してくれ。
 会津がいかに誇り高く戦ったかを・・・死んでいった者たちの心を・・・!!

 ただし、再び同じ道を辿らぬよう、戒めとしてこれをそなたらに託した。
 わしの最後の願いじゃ。。。」

そう言って・・・
明治26年12月5日、松平容保病没。。。

そうなんですよね。
容保公は、ず~っと、死ぬまで御宸翰を手放さず、見せなかったといいます。
やっぱり、たくさんの被害、たくさんの死者を出してしまったことに悔いていたからなのでしょう。。。

「みんな・・・いなぐなってしまった。。。」
そこには、独り泣く八重がいました。。。

明治27年3月。。。
朝鮮半島南部で農民の反乱「東学党の乱」が勃発。

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朝鮮政府は清国に派兵を要請します。これに対し、伊藤内閣は8000人という大兵力を派遣する閣議決定を下しました。
ホント、清に頼ったことに腹を立てた日本は、お願いもされていないのに派兵しちゃうのです。

ロシアも南下政策の下、朝鮮半島&府凍港を狙っています。
だからこそ、日本にも猶予はありませんでした。

8月1日ついに日清宣戦布告!!

八重は大山巌を訪ねていました。
赤十字の京都支部が広島の陸軍予備病院へ従軍することについての相談でした。
敵味方の区別なく、傷ついた人々を救護するために!!
しかし、清は赤十字に参加していません。
敵を助けるのか???という声もあります。
その声を鎮めてもらうためだったのです。

「いたわり救うは人の常なり
 仁愛の心をもって対すべし」

大山は約束してくれ。。。

八重は、再び戦へと赴くことになるのでした。

私がうがっているからでしょうか?
今回は、ブラコン大爆発の回でしたね。
八重が覚馬を尊敬していたのは確かでしょうが・・・八重はほんと、覚馬の事が好きだったのでしょうね。。。
そんな感情が、ひしひしと伝わってきました。

前回も書きましたが、尚之助や襄の立場も台無しです。

個人的には、覚馬は会津にいたころの方が好きでした。
ま、身体も今一つだったでしょうから、もちろんそれ以上の・・・十分すぎる生き方をしたのでしょうが。。。
個人的に思うのは・・・辛酸を舐めつくす生活をしていた会津の人たちの中では、覚馬たちは”いい生活”をしていたということです。
武家のお嬢様な八重さんは、金勘定ができずに・・・
襄の死後は、同志社におんぶにだっこ・・・学校のお金を使いこんでいたとも言われています。
でも、当時のお嬢様は、金勘定なんかしないので、八重が悪いってわけじゃないのよ・・・。
ただ、もっと貧乏で、苦労している人たちがたくさんいたということです。
きっと、快く思っていない人もたくさんいたんじゃないかしら???
良い服着て、洋食食べてるしね・・・。

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1882年(明治15年)。
伊藤博文と対立して政府を追われた大隈重信は、・・・早稲田大学の前身となる東京専門学校を開校しました。

yae1













その頃・・・襄もまた、大学設立に向け準備を始めていました。
会津へ行った後、襄は体調を崩し。。。
しかし、心配する八重をよそに襄は精力的に働いていました。

デービス先生がアメリカから帰ってきました。
途中・・・船の中でに会津の女性に会ったという。。。
名前は・・・山川捨松。

文部省で・・・
帰国した山川捨松は同じく帰国子女の津田梅子と共に、女子大学の設立を求めて政府に掛け合っていました。
でも・・・日本語もあまり話せない。。。なかなか相手にされません。

この捨松の留学は、10年前に北海道開拓使が勝手に募ったもので。。。
当時としては、大事な娘を留学さ汗対なんて思うものなどおらず。。。
逆賊の東北諸藩や幕臣の子弟にお鉢が回っただけだという。。。
女は嫁に行って、男子を生むことが、国家への最上のご奉公であると、却下されます。

ま、健次郎でさえ留学できたのは同じような理由だと言えますから、
当時は男尊女卑の時代・・・
女性に学は要らない。。。嫁に行って男子を生むこと。。。
今でもそんな風に言う人いますからねえ。。。

なかなか仕事が見つからない捨松。。。嘆くものの。。。
健次郎の勤めている東京大学でさえ女性教員はいないという。。。
おまけに、山川家の人々は書生たちの面倒を見、会津にも送金していました。
形見の狭い捨松。。。

女が身をたてるのは難しい。。。
自分のアメリカでの10年は無駄だったの???


陸軍大阪鎮台となっていた山川浩は、山本家を訪問していました。
・・・会えなかった15年という長い年月。。。

「覚馬さん・・・
 俺も戦で敗れて・・・あわせる顔がなかったんです。
 そんじも・・・こうしてまた無事に会えた。。。」

浩と覚馬にはお互いに負い目がありました。

浩は・・・捨松の就職を頼みに襄に会いにきたのです。
二つ返事で捨松のことを受け入れる襄。。。

突然、浩は東京に呼び戻されました。
陸軍省人事局への栄転です。
日陰の身である会津モンに・・・なぜ、栄転??

突然山川家を訪れたのは、陸軍中将・大山巌。

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理由は・・・
”山川殿の妹御・捨松さんを・・・おいの嫁に戴きたく・・・”
とやってきたのです。

「此度の栄転は・・・妹を釣るためのエサ???
 言い訳は要らん・・・
 妹を人質に出すぐらいなら、陸軍など辞職いたしやす!!」

怒って席を立った浩。
なぜ、捨松なのです?と健次郎。

「不平等条約の改正は、日本政府の悲願。
 そいには日本が文明国じゃち列強に認めさす必要がある。
 捨松さは、西洋ん流儀を身に着けられ、才媛としてアメリカでも名高い。
 ゆえに我妻に最適・・・」

「妹を道具のように言うな!!」by浩。

それを聞いて捨松は・・・

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「日本の為に働けるなら、大山のアクセサリーになります。よろこんで。」

やけになる捨松。。。
一度会って、自分の目で見極めろ。。。と、健次郎が諭しました。

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パーティーで会った大山は。。。
何度かパーティーで捨松の事を見かけ・・・一目ぼれしていたという。。。
「おはんは外国人などではありもはん。
 誇り高か会津んおなごでごわす。
 おいが薩摩ん人間じゃっとが気に障っとでごわんそ。
 じゃっどん・・・
 海外に出れば同じ日本人です。」

実際、とっても紳士的だったと言います。
なんだか良い人。。。

会ってきたことに反対する山川家の人たち。。。
代々会津家老の家柄の娘が・・・会津には嫁げない。。。
会津の汚名を雪ぎ、国の礎となるための留学だったのに。。。
と、母に責められるのでした。

助けることの出来なかった尚之助の「会津戦記」を読んで忍びなく兄の背中を見て・・・
未だ残る・・・癒すことのできない心の傷を知るのでした。
やはり・・・この結婚は無理だと悟る捨松でした。

大学設立の為に東京にやって来た襄。ついてきた八重の本当の仕事は・・・
山川家に乗り込むことでした。
宿に訪ねてきたお客様は・・・捨松。。。
このまま京都に連れて行ってくれと頼みます。

「薩摩との縁談など、会津の者には迷惑です。
 兄は断っています。
 それでも大山さまは毎日うちに来ます。」

山川家に乗り込んだ八重。。。
そこには大山がいました。
大山は言う。。。
「捨松さあとの結婚・・・薩摩と会津が恨みを乗り越えたと・・・民に示すためにも意味のあること。。。
 お許し願いたか。。。
 海の外に出たら、同じ日本人でごわそ。。。」
「ここは日本です。」
「そげなせまか見識じゃ・・・日本は立ち行かん。。。」
「狭い??
 日本の政治は、薩長の狭い見識で決められてるではねえですか・・・」
バチバチな大山VS山川。

ごちゃごちゃいう男たちに・・・腕相撲で決めようという八重。
なんと、大山VS八重になっちゃいました。

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いや~八重に託されちゃいました。
この感じじゃ、八重は本気だったように思えるんだけども、もっと女性らしく、捨松の気持ちも想っての腕相撲にしてほしかったなあ。。。って思います。

「大山様」by捨松

「よい勝負でした。
 かつて・・・命がけで銃を撃ちあった手で・・・
 腕相撲ができた。
 15年・・・
 誰にも等しく時は流れたんです。
 この手は形を変えると・・・」
なんて優しい襄。
 
「戦は終わったの・・・山川・・・」

「この屋根の下では、兄上と呼んでもらおうか。。。」

う~ん、良い男ばっかりです。
これをみる限り、八重が一番ガサツです

1883年8月伊藤博文が帰国しました。
強力な官僚組織を作ろうとしていました。

東京大学を有能な官僚の育成機関とするように命じられる健次郎。。。

「学問は、国家によって左右されるものであっては断じてなりません。
 大学は、政治から独立した教育と研究の場です。」

「会津モンか・・・」

ここでも未だ偏見が残っていました。

12月には・・・鹿鳴館で大山巌と捨松の結婚披露宴が行われたのでした。

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「兄上・・・山川家の出世頭は、捨松かも知れませんね。。。」
sutematu













「時が乗り越えさせてくれるものもある。。。
 だけんじょ、俺が忘れぬうちは相手も同じ。。。
 逆賊と呼ばれ続けんだろう。。。
 それでも100年後、会津が日本の誉んなる日がくっかも知んねえ。。。
 それは、若いもん次第だ。。。」

一方、官僚が帝国大学に集まる中・・・私立大学生は徴兵に行かなければならなくなります。
そう、同志社は今後、徴兵による生徒不足に頭を悩ませることになるのでした。
 
山川捨松さんは、本当にカッコいい女性だったようです。
八重と比較しちゃいますが、親子ほども歳の離れた大山家に・・・もう世話をする必要はないとはいえ、前妻の子3人の親となり、世界で活躍します。

そう思うと、「八重の桜」は八重桜をもじったものなんでしょうが・・・
いつも思うのは、福島=大河ドラマ=捨松でも良かったんじゃないの?って思っていました。
捨松だったら題は何になったんだろう???松・・・う~ん、松。

良妻賢母・おまけに当時の働く女性のNo,1だったんじゃないかしら?

山川捨松さんです。はこちら

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感想(1件)

大山巌は・・・「弥介砲」を考案した薩摩軍閥の巨頭さんです。

iwao


八重の桜では・・・この人。

反町隆史さんです。










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特攻隊イケイケなのに、おばあちゃんっ子の三浦草太です。

いえいえ、大山巌でした。

巌は、鹿児島藩士・大山綱昌の次男として城下下鍛治屋町方限に生まれた西郷隆盛とは従兄弟です。
ちなみにここでは、歩いたら薩摩軍閥に当たるでしょう。。。って程、いっぱい人を輩出しています。

寺田屋事件に関係していた巌は、その後鹿児島に送還、謹慎の身となりました。
撮影戦争の時に、弁天波戸砲台の守備に当たったことから、イギリス艦隊の砲力に覚醒し、藩命を受けて黒田清隆達7人で西洋砲術操練の為に江戸塾に入塾。
1864年8月には、砲術免許皆伝をもらいました。

禁門の変は、京都御所を守衛。
第1次長州征伐は、広島・小倉・芦屋へと転陣。
1865年に大砲隊談合役・軍賦役見習となり、洋式銃器の購入に当たりました。

戊辰戦争では、二番大砲隊長として鳥羽伏見・宇都宮・白河・三春・二本松・・・と、転戦します。
会津若松城攻撃中に負傷し、約1か月後に復帰するのでした。

城下に砲隊塾を開き、戊辰戦争の実践大砲となる仏式四斤半砲を工夫し、砲身を長くして”青銅長四斤砲”を、蘭式二十拇臼砲から”青銅十二斤綫臼砲”を完成させました。これが、世にも有名な「弥介砲」です。

その後も、明治の軍事に関わることとなる大山巌。


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ちなみに巌の妻は、我が国最初の留学生となる山川捨松です。
山川・・・山川・・・
なんとその長兄がこちら。

ookura















山川大蔵です。
まあ、まるでロミオとジュリエット???
どうして二人が結婚するのか???
とっても不思議ですよね。

そんなところもやってくれるのかしら???
楽しみにしています。

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