幕末、・・・日本は未曽有の国難に直面していました。
攘夷か、開国か!!
国論は、真っ二つに別れ、遂には武力による討伐・・・明治維新へと突き進みます。
そんな幕末動乱の時代に、危機に立ち向かった先陣の英知とは・・・??

①老中首座・阿部正弘
200年以上守ってきた鎖国の危機に、阿部は人々の納得を取り付けながらシステムを変えるという最も困難な仕事に取り組みました。
1853年、ペリー浦賀に来航!!
その中には、最新鋭の蒸気軍艦二隻の姿もありました。
逆風をものともせず進む巨大な黒船・・・
これまで目にしたこともない黒船の異形に人々はパニックに陥りました。
当時の瓦版に書かれたペリーの姿は、同じ人間とも思えない風貌・・・黒船打ち払うべしという攘夷の声は、日本全土へと広がっていきます。
しかし、備えはまったくと言っていいほどなされていませんでした。
阿部が老中になる前年・・・1842年イギリスがアヘン戦争に勝利・・・清に領土を割譲させたという知らせは日本にも届いていました。
ところが、当時の幕府財政は火の車・・・海岸を守るための軍艦や砲台に回す資金はありませんでした。
ペリーはさらに、江戸湾内に船を進めます。
そこには驚くべき意図が・・・!!
ペリーが本国に提出した江戸湾の測量図があります。
ペリーは、江戸湾を測量し、どこまで陸地に近づけるかを調べていました。
国土への直接攻撃をにおわせる示威行動でした。
その上でアメリカは、船舶の補給基地として港を開くことと、交易の開始を要求します。
余りにも強引な開国要求でした。
ペリーの圧力に屈して鎖国を捨てれば幕府の威信は地に落ちる・・・
高まる攘夷の中、阿部は前代未聞の方法に踏み切ります。
それまで幕府政治への参加を許されなかった御三家や外様大名・旗本に、国書を開示し、意見を聴収します。
それは、挙国一致で当たるという幕府始まって以来の方針転換でした。

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挙国一致の課題は、大きな大名との協調政策です。
国の一番重要な政策について意見を聞きます。
有力大名の半数が、鎖国を守るためには戦争も仕方ないと主張!!
その代表が、水戸藩の徳川斉昭!!
御三家として大きな影響力を持っていました。

「刀や槍の戦いでは我が国に分がある
 電光石火のごとく戦えば、かの夷族を鏖にすることは掌のうちにある」by斉昭

圧倒的な攘夷派を前に、選択を迫られた阿部・・・!!

黒船に積まれていた最新式のペキサンス砲・・・その特徴は、爆弾を的に対して水平に発射できること!!
命中率が高く、破壊力も大きい!!
ペリー艦隊の攻撃によって、海岸沿いの下町は完全に火の海になる恐れがありました。
御城下が灰になるほどの事態になれば、幕府の威信は地に落ちてしまう・・・??

「外寇への備えは、交易の利潤をもって当てる」by勝海舟
勝は、通商を行って、利益を得ることが、国防の強化につながると説いていました。
しかし、通商を認めることは鎖国を捨て去ること・・・
国法を曲げては、幕府は弱腰であると、大名からの声が沸き起こるであろう!!

ハッキリとは回答しない・・・??
回答延引策は、薩摩藩主・島津斉彬たちが唱えていました。

「交渉は出来る限り引き延ばす・・・3年ほど待てば、軍備も整うのでその後に打ち払う」by斉彬

攘夷か?開国か?それとも回答延引策?
いずれを選んでも困難な道でした。
先の来航から半年経った1854年1月・・・ペリーは再び江戸湾に現れました。
果たして、阿部の選択は・・・??
それは、”ぶらかす”・・・回答延引策でした。
1853年6月、将軍・家慶死去・・・
阿部はそのことを口実に、交渉延期を申し入れます。
しかし、ペリーはこれを黙殺!!

「将軍の死は公務を遅らせる理由にはならない」byペリー

引き延ばしはもはや通用しない!!
阿部は、諸大名と共に撮るべき方策を協議しました。
実際の交渉にあたる役人は、通商まで譲歩しなければまとまらないと主張!!
しかし、阿部はあくまで慎重でした。
打ち出したのは、「開港容認・通商拒絶」でした。
1854年2月10日・・・
圧倒的な武力を持つアメリカに対する綱渡りのような交渉が始まります。
阿部の意を受けた役人は、頑なに通商を拒みます。
日本海国という名誉を祖国アメリカにもたらすことを重視していたペリーは、次第に焦り始めました。

「このまま通商に固執することは得策なのか・・・??」byペリー

交渉開始から1か月・・・日米和親条約締結。
開港を許したのは、大都会から離れた下田と箱館。
そこでは、航海に必要な物資の補給だけを認めました。
通商に関する要求は、完全に退けたのです。
阿部はいかにしてこの結果を手にしたのでしょうか?
近年、広島県福山でその資料が発見されました。
阿部の腹心である軍学者・江木鰐水の手記によると・・・
交渉のさ中、黒船に乗り込んだ江木は、事細かく書いています。
ペリーが話すときの声は温和・・・
交渉相手のことを事細かく調べたうえでの交渉に臨むことで、阿部は薄氷の勝利を得ました。
しかし、阿部は、自らが用意した日本の未来を見ることはできませんでした。
未曽有の国内に対処してきた重荷が、その肉体を確実にむしばんでいました。
1857年、阿部正弘死去・・・享年39歳でした。

②長州藩・高杉晋作
1864年・・・それは、長州藩が国内外の危機に直面し、がけっぷちに立たされた運命の年でした。
国政の主導権を握ろうとする長州に対し、薩摩藩と会津藩が反撃!!
世に言う禁門の変が勃発します。
7月19日、薩摩・会津の連合軍と衝突した長州軍は、僅か1日で惨敗・・・
御所に向かって発砲した長州藩は、時の帝・孝明天皇によって朝敵の烙印を押されてしまいました。
状況はさらに深刻化・・・
それは、武力によって外国船を打ち払おうとする祖国・長州藩の暴走でした。
8月5日、下関戦争・・・
長州は、関門海峡を航行する外国商船を砲撃!!
激怒した欧米列強によって報復攻撃を受けます。
関門海峡の殆どの砲台が列強連合軍により占領!!
植民地化という最悪の危機が予想されました。
追いつめられた長州は、停戦交渉を要請・・・
そしてその難しい立場での交渉に登場した男こそ、高杉晋作でした。
8月8日・・・交渉の席上、列強側は300万ドルという巨額の賠償金を要求。
晋作は啖呵を切ります。

「もし、戦争を続けるというのなら、長州は最後の一人になるまで戦うつもりだ」by高杉晋作

晋作たちの強硬な姿勢に、列強側は態度を一変・・・
関門海峡の砲台撤去、水・食糧・燃料補給のため下関上陸を求めてきました。
晋作たちは、本来は幕府の権限であるはずの下関の開港を独断で受け入れます。
下関を開港し、貿易を行えば、富国強兵を推し進めることが出来る・・・
晋作たちは、交渉の土壇場で、未来の実利につながる決断をしました。

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1864年7月・・・第一次長州征伐・・・幕府は朝敵の長州を攻め滅ぼすべく13万の大軍を大坂に・・・!! 
その一報を受け、長州藩の上層部が真っ二つに分かれます。
抗戦派・・・大義名分のため幕府に抵抗
恭順派・・・藩存続のため幕府に謝罪
この対立です。
11月12日、恭順派によって長州藩の三家老が切腹・・・幕府への徹底恭順の証とされました。
抗戦派に組していた晋作は、身の危険を感じ、九州・筑前藩に亡命!!
再起の時を伺っていました。
この時、晋作にはどのような選択があったのでしょうか?

内乱挙兵の決起策か??
藩士以外の武士や、庶民で編成された奇兵隊を!!
最新式の銃を装備し、西洋式の戦術を学んだ長州の軍です。
それとも冷静に交渉の道を選び、藩の大義名分を取り戻す・・・??
朝敵の汚名をどうしたらいいのか・・・??

晋作の決断は・・・決起策でした。
反乱の兵をあげ、武力によって藩の方針を覆す道を選びました。

11月25日、高杉晋作、長州に帰還!!
奇兵隊をはじめとする諸隊に反乱の決起参加を要求します。
しかし、諸隊幹部は無謀な戦いだと消極的な態度に・・・!!
その姿勢に晋作は叫びます。

「僕は、毛利家300年来の家臣だ
 たとえこの身が討ち倒れようと長州に殉じる!!」by晋作

ここに、反乱軍は挙兵します。
晋作たちは長州藩の経済の要・下関の会所を制圧!!
さらに、藩の軍艦を強奪することに成功!!
最初は消極的だった奇兵隊たちが動き出しました。
反乱軍は、800人の大軍勢に膨れ上がります。

1865年1月7日、大田絵堂の戦い・・・
恭順派率いる軍の正規軍と激突します。
野戦戦術と、最新式のミニエー銃を使うことを学んだ奇兵隊は、藩の正規軍を圧倒!!
そして、晋作決起からおよそ40日後・・・
藩主・毛利敬親によって、徹底恭順は撤回!!
もし攻撃を受ければ、最期の一兵まで戦い抜くこと・・・武備恭順を藩の方針とさだめました。
晋作の決起が導いた奇跡の勝利・・・次なる幕府との戦争が始まる中、晋作はまったく独自の構想を抱いていました。
長州の将来について晋作が記した意見書・・・回復私儀・・・
そこには、晋作が最も力を入れている方策があります。
それが、「大割拠」でした。
徳川一強の時代は終わった・・・

「今こそ、我が長州藩の下関を世界に向けて開こう
 そして、欧米列強の力にも十分に対抗できる国力を身につけるのだ
 世界五大陸にこの長州藩を押し出して、長州の大割拠、独立を成し遂げるのだ」by晋作

しかし、その夢が実現することはありませんでした。
1867年4月14日、高杉晋作病没・・・享年29歳でした。
あまりにも早すぎる突然の死でした。

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③薩摩藩家老・小松帯刀

小松帯刀・・・薩摩で島津家に次ぐ名門の家に生まれ、28歳の若さで家老に就任。
当時、権力の座にあった国父・島津久光の抜擢によるものでした。
帯刀は久光のもと、富国強兵を推し進めました。
綿・・・当時、綿花はアメリカで始まった南北戦争の影響で世界的に品薄となっていました。
帯刀は、西国諸藩から綿花を調達し、ヨーロッパへ輸出・・・
その利益で5隻もの蒸気船を購入、海軍の創設に力を注ぎました。

1863年、帯刀は、久光から京都での政治工作を任されます。
目的は、雄藩連合です。
これまで幕府では、一部の譜代大名が政治や外交を独占・・・
外様藩である薩摩や長州は蚊帳の外に置かれていました。
薩摩は有力大名が手を組んで政治に参加する雄藩連合を構想し、実現に向けて動き出しました。
このことが、幕府側との対立を引き起こすこととなりました。
御所を警護する一橋慶喜、京都守護職・会津藩松平容保、京都所司代・桑名藩松平定敬ら一会桑勢力です。
1964年7月、慶喜は朝敵・長州を討つべく、15万の大軍を大坂に集結させました。
第一次長州征伐の発動です。
ところが、これに対し薩摩は思いもよらない行動に出ます。
10月、小松帯刀、慶喜に征伐中止を進言!!
その要因は、京都政局のパワーバランスでした。
一会桑は、有力な藩を国政運営に加えたくありませんでした。
薩摩としては、長州を敵に回さない方が得・・・恩を売るという考えがありました。
薩摩の行動は素早く・・・長州に対して禁門の変を主導した三家老を処刑し、幕府に謝罪するように打診します。
長州がこの条件を受諾したことで、第一次長州征伐中止・・・!!

薩摩への警戒を強める慶喜・・・
再起へ虎視眈々の長州・・・
幕末の風雲はいよいよ急を告げます。
1865年、幕府側の巻き返しが始まりました。
15万の大軍が、大坂へ・・・第二次長州征伐です。
幕府は諸外国に対し、長州に武器を売らないように要請!!
長州は、絶体絶命の窮地に陥りました。
この時、帯刀は驚くべき決断をします。
薩摩名義で7300丁もの銃を購入、長州へあっせんしたのです。
長州の使者に対し帯刀はこう答えています。

「幕府の嫌疑等意に介してはいない・・・ 如何なることでも尽力する」by帯刀

薩長両藩は、1866年1月・・・長州から木戸孝允が上京します。
帯刀のもとで交渉を担当したのは西郷隆盛!!
幕府側に対する武力行使も辞さない強硬派です。
ところが、西郷が発したのは思いもよらない一言でした。

「ここはまず、幕府の処分をあまんじて受け入れよ」by隆盛

この時点で、幕府は長州に藩主親子の引退、領地10万石削減などを通告する見通しとなっていました。
過酷な処分を受け入れよという西郷・・・実は背景には国父・島津久光の意向がありました。
注目すべき資料は、島津久光に宛てた伊達宗城の書簡です。

「近頃西郷はしきりに暴論を主張している 久光公は依然として持重」

久光にとっては幕府に対する武装蜂起など思いもよらない・・・
急遽京都藩邸に使者を送り、藩士全員に厳しく自重を命じました。
西郷と帯刀は、朝敵の汚名を晴らす政治工作は動けても、幕府への武力行使には協力できない状況に追い込まれていました。
しかし、長州は既に臨戦態勢にありました。
更なる処分を受け入れるはずもありませんでした。
交渉は平行線をたどり、木戸はついに帰国を口にしました。
このままでは薩長提携に向けて動いたことは、すべて水泡に帰す・・・
帯刀は交渉を続けるか否かの決断に迫られました。

交渉は打ち切るしかないのか??
このままいけば、幕朝開戦の可能性が極めて高い・・・久光公の本意は、幕府と事を構えることにないのは明らか・・・家老として、その御意志を越えてまで、長州との提携を進めることが許されるのだろうか??
しかし、久光の方針に従えば、薩長提携の道は閉ざされてしまう・・・!!
それは目指す雄藩連合からの後退を意味していました。

ここで長州を孤立させていいのだろうか・・・??
雄藩連合が頓挫してしまう・・・
久光公を説得して、同盟締結に持っていけないだろうか・・・??

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小松帯刀の選択は、薩長同盟締結でした。
幕府との対決にひた走る長州との同盟を、帯刀は独断で締結したのです。
薩長同盟には、両藩の公式文書は存在しません。
唯一その内容を伝える木戸孝允の書簡・・・そこからは、政治家・小松帯刀の周到な計算が読み取れます。
そこには巧妙なロジックが隠されていました。
戦うとしたら一会桑・・・と書かれています。
つまり、幕府とは言っていないのです。
一会桑との対立は、そう遠くはない・・・久光サイドも理解できていました。
薩摩が生き残るためには、長州を絶対に滅ぼしてはならない・・・帯刀は久光の許容範囲すれすれで同盟を結び、事後承諾を勝ち取ったのです。
新たな時代・・・明治を切り開いた薩長同盟・・・その意義とは・・・??

久光主導から、小松、西郷、大久保による主導に転換していきつつあるきっかけになりました。
両藩の間での正式の合意文書がない・・・第5条の決戦条項を久光には見せられなかったのでしょう。
それは、久光の初期の方針を逸脱したものだったからです。

全て自分が責任を負う・・・それが、歴史の方向を決定づけました。
阿部正弘、高杉晋作、小松帯刀・・・身分は違えど、三人に共通するのは、新たな時代は自分が作るという責任感でした。

老中・阿部正弘は、死の1年前、幕府の路線を大きく変更しました。

「交易互市の利益をもって富国強兵の基本とする」by阿部正弘

開国通商に舵を切ると宣言したのです。

その志は確かに受け継がれます。
鹿児島のとある釜元・・・薩摩焼は帯刀の進言で輸出用に作られたものです。
ヨーロッパで上流階級に珍重され、注文が殺到しました。
小松帯刀は病のため36歳で亡くなりました。
しかし、彼は最後まで来るべき時代の輝かしい日本の未来を夢見ていたのです。


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