高輪築堤・・・これは、日本初の鉄道レールの土台です。
鉄道開通は、明治日本が近代化に向け大きな一歩のたーぬんぐポイントとなります。
この一大事業を実現させたのは、当時新政府の少壮官僚だった伊藤博文と大隈重信です。
東京・築地・・・現在は料亭となっている場所に、明治初頭若き政治家、実業家たちがこぞって集まりました。
人呼んで「築地梁山泊」・・・日本資本主義の父とされる渋沢栄一や、政商・五大友厚らが日夜新政府の改革について議論を戦わせていました。
長州出身の伊藤は、藩士時代にイギリスに留学、藩の通訳として海外と折衝を行うなど卓越な交渉術を身につけていました。
一方大隈は、幕末の日本で最も開明的な肥前出身。
アメリカ人宣教師から英学を学び、優れた財政手腕を発揮していました。
共に、西洋の先進的な文明に触れていた二人は、すぐさま意気投合・・・
新政府の少壮官僚として日本の近代化を目指す盟友となっていました。
明治5年、2人は周囲の反対を押し切って、日本初の鉄道を開通させます。
新政府の実質的指導者・大久保利通は、当初鉄道反対派の筆頭でした。
しかし、開通した鉄道に試乗し、日記にこう記しています。
「実に百聞は一見にしかず
鉄道の発展なくして 国家の発展はありえない」
大久保からの信頼を得た二人は、富岡製糸場設立など、近代化の施策などを次々と実現。
実質的な政府首脳である参議として国を動かすようになります。
明治11年5月14日・・・政界を大きく揺るがす事件が・・・!!
2人の後ろ盾だった大久保利通が暗殺されたのです。
当時、参議6人のうち、強い影響力を持っていたのが討幕の中心となっていた薩摩、長州出身者・・・薩長藩閥でした。
大久保の後継者となったのは、長州出身の伊藤でした。
時あたかも西洋思想の流入と共に、国民の政治参加という機運が高まりを見せていました。
土佐出身の士族・板垣退助らを中心にした自由民権運動です。
彼等は、新政府に対して建白書を提出、憲法を制定し、国会を開設することで、選挙で選ばれた国民による政治を実現しようとしていました。つまり、立憲政治への道です。
各地で暴動が起きていたうえ、明治12年には運動は、士族から地主、商人へと広がり、政府にとって無視できない状況になっていました。
対応を迫られた政府は、参議たちに各自の意見を提出させ、国の在り方を決める議論を政府主導で行おうとしました。
薩摩出身の参議・黒田清隆は、国会開設は時期尚早だと主張、長州出身の井上馨は、すぐに国会を開けば秩序が乱れ、明治政府の安保を保つことができないとしています。
国会開設はまだ早いという意見が多数を占めました。
伊藤の意見は・・・??
他の参議と同様まだ早いとしながらも、ある特筆すべき特徴がありました。
”今日の政府の役目は過激になる民衆を、順を追って適切に教育し、時間をかけて国民の意識を標準に成長させることだ”
当時の自由民権運動は、知識人はもちろん、多くは食を失った士族など・・・学問のない人たちがいたのは事実でした。
なので、深い考えもなく、今、生活に不満があるから政府を攻撃するという人たちが多かったのです。
そんな人たちが政権を取るようなことになったら、国の政策はめちゃくちゃになると危惧していました。
伊藤は、国民の意識を向上させたうえで、日本に適した憲法と国会を作るべきだと考えていたのです。
この意見に、盟友・大隈も賛同。
2人は国民を啓蒙するための政府機関紙の発行を計画するなど準備を進めていました。
ところが、伊藤の意見書提出から3か月後の明治14年3月・・・
大隈が思いもよらない行動に出ます。
自らの意見書を伊藤に相談なく提出、しかも他の大臣・参議らに見せることないように言い添えていました。
つまり、密奏です。
しかし、これが政府高官の間に漏洩・・・意見書を手にした伊藤は、驚愕し、一言一句を詳細に書き写しました。
そこには、次のように記されていました。
”本年を以て憲法を制定れられ、十六年首を以て初めて開立の期と定められん”
年内の憲法制定と、2年後の国会開設を求めるあまりにも性急な意見でした。
さらに、目指す政治形態も、伊藤が予想だにしないものでした。
”立憲政治とは政党政治の事である
政党は主義によって争うべきである
その主義が選挙によって国民過半数の支持を得れば、その政党は政権を獲得する”
大隈が目指していたのは、イギリス流の政党政治でした。
出身地ではなく、政策の内容によって政党を作り、国民に選ばれた政党が内閣を運営する・・・これは、藩閥政治の否定につながるものでした。
大隈の意見書を読んだ伊藤は、以外の急進論についていけないと怒りをあらわにしました。
2日後・・・大隈が伊藤のもとを謝罪に訪れました。
「自分一人の意見を天下に施行する考えはない」
と、抜け駆けの意思を否定したのです。
立憲政治の実現に向け、政府の団結が求められる今、これ以上事を荒立てるわけにはいかない・・・
伊藤は、大隈の謝罪を受け入れました。
この時点で、伊藤と大隈の信頼関係は修復したかに見えました。
明治14年7月26日・・・伊藤と大隈の運命を一変させる出来事が起きます。
政府高官による汚職が新聞に報じられました。
いわゆる開拓使官有物払い下げ事件です。
事件の中心人物は、薩摩閥のリーダーで、当時北海道開拓使長官の黒田清隆でした。
1000万円以上の税金をかけて建設した工場や倉庫をわずか38万円という安値で部下の役人に作らせた商社に払い下げようとしていました。
各新聞は、黒田をはじめとした薩長藩閥の政治の私物化であると激しく非難!!
藩閥政治を打破するために、一刻も早く国会を開設するべきだという意見が噴出しました。
この事件の収拾を巡って、政局は思わぬ方法へと動き出します。
危機に立たされた黒田が、新聞に情報をリークした人物がいることを問題視し、犯人の名を喧伝し始めました。
「今回の事態は、大隈が板垣退助をはじめとした民権不平派と内通し仕組んだことである」
政府の人間が、あろうことか民間の不平分子と結託し、藩閥打倒の陰謀を企てていると大隈を非難したのです。
政府内では、黒田に同調する意見が拡大・・・情勢は一気に大隈排斥へと傾きます。
さらに、ある人物の行動が、事態をより複雑にしました。
行政官僚の井上毅・・・井上は、薩長藩閥の反大隈官僚を利用して、自らが理想とする憲法を彼等に広めていきます。
それは、プロイセン憲法です。
井上は、ヨーロッパの司法制度を調査する中で、君主権の強いこの憲法こそが天皇をいただく日本に最もふさわしいと考えていました。
その上、憲法制定は、1,2年のうちにするべきだと性急な意見を主張。
藩閥内では、これに賛同する者が続出していました。
藩閥と大隈の対立に、憲法論争が重なってしまったのです。
これは、憲法を重視し、時間をかけて日本流のものを作ろうとする伊藤にとって看過できない問題でした。
しかし、当事者である大隈、黒田から直接話を聞くことはできませんでした。
時あたかも事件直後の7月30日から明治天皇が、北海道・東北巡幸に出発。
これに、大隈と黒田の二人が同行していました。
大隈と藩閥の溝が深まる中、伊藤はどちらを支持するべきか・・・??
大隈を支持する・・・??それとも薩長藩閥に与する・・・??
悩む伊藤に選択の時が迫っていました。
伊藤は決断します。
在京の大臣、参事らを集め、会議を開きました。
会議に列席していた太政大臣・三条実美は、その様子をこう記しています。
”伊藤は他の参議と同様、大隈に憤激している”
会議は、天皇と大隈が東京へ戻り、混乱が起きる前に大隈追放で意見を統一すべきとの結論に至りました。
伊藤の結論は、薩長藩閥に与することでした。
大隈の追放が避けられないと判断した伊藤は、むしろ積極的に加担し、政変を収拾しようと動き出します。
まず、払い下げ問題の処理・・・
黒田ら薩摩閥に対しては、民間だけでなく、政府内からの次第に批判の声が上がり始めていました。
伊藤は、天皇の行幸に同行する黒田を急ぎ帰京させ、払い下げを中止するように説得。
1週間かけて同意を取り付けました。
この結果、黒田の政治力は大きく後退します。
10月11日、いよいよ大隈の処分を行う攻防が始まります。
天皇と大久保が帰還したのです。
当日夜・・・大隈を除く参議、大臣が並び、明治天皇出席のもと御前会議が開かれました。
会議の様子が天皇の側近の書いた日記に克明に残されています。
それによれば・・・
大臣、参議一同は、大隈の罷免を天皇に上奏した
大隈が民間と通じた陰謀を企てているというのだ
ところが天皇は、これに応じなかった
「もしや、薩長参議にて結合して大隈を退けるの儀ならんや
大隈の儀、確証ありや」by明治天皇
薩長による謀略を疑い、大隈陰謀論の証拠を求めたのです。
大臣をはじめ、伊藤ら参議はこう答えます。
「確たる証拠をそろえることは容易ではございません
ですが、これまでの大隈の行いから、もう十分わかっていることなのです
薩長の参議だけでなく、皆、大隈に憤激しております
薩長のことをお疑いあそばされるようでしたら、内閣が破裂してしまうでしょう」
深夜にまで及ぶ議論の末、天皇は大隈が同意するなら辞任を認めると決断を下しました。
会議の直後、使者が大隈邸を訪れました。
それは他ならない伊藤でした。
大隈はこの時の伊藤の言葉をこう回想しています。
”ただ単純な言葉で、容易ならざることだからとだけ言って、堂梶兵衛男出してくれという”
伊藤は、大隈に辞任の理由をつまびらかにしませんでした。
ただ、大隈にとって、盟友・伊藤からの勧告は、もはや政府の意見が覆ることの見込みがないことを意味していました。
翌日・・・明治14年10月12日、大隈は明治天皇に辞表を提出します。
大隈の辞任とまさに同じ日に、政府から国民へ一つの訓示が出されました。
”国会開設の勅諭”です。
明治23年を期し、議員を召し、国会を開く・・・
9年という準備期間を経て、国会を開設するという。
その理由はこう記されています。
”国の成り立ちは、それぞれの国ごとに異なっている
憲法は、軽々しく制定していいものではない
時間をかけて、調査にあたらせる”
これは、ほかならぬ伊藤が草案をまとめたものでした。
日本に適した憲法を、時間をかけて制定するという従来からの伊藤の主張が強く反映されていました。
官有物払い下げに端を発した政治の混乱・・・
終わってみれば、あたかも伊藤が全てのあらすじを書いたように見えました。
後に、人はこれを明治十四年の政変と呼びます。
明治22年2月11日・・・東アジアで初めての憲法・大日本帝国憲法が発布されました。
憲法制定にあたって中心的役割を果たしたのは、伊藤でした。
自らヨーロッパ各国に趣き、1年半にわたる調査を実施。
伊藤が日本に適していると考えたのは、君主権の強いプロイセン憲法でした。
しかし、伊藤はこれを単に模倣するのではなく、日本独自の憲法へと作り変えていきます。
憲法55条・・・ここに伊藤はプロイセン憲法にはない文言を盛り込んでいます。
”国務各大臣は、天皇を輔弼する”
輔弼とは、大臣の天皇への助言を意味します。
これにより天皇は、内閣の意見を聞かずに独断で権限を振るうことはできないとされました。
ところが、その内閣を構成する大臣の規定はどこにも明記されていません。
ここには伊藤のある狙いがありました。
内閣に関する規定を明言しない形の憲法になっているので、将来運用によっては、政党内閣が実現することもあり得る憲法になっています。
現状を見ながら、運用によってイギリス的なものに近づけていこうということがあったのです。
伊藤は、最終的には議会を作ってそこで民意を入れていくと、それが国全体を強くするためには必要だろ考えていました。
伊藤が憲法に込めた願い・・・それは、国民が成熟した上で成り立つ政党政治の実現でした。
憲法発布から9年後の明治31年6月30日・・・伊藤の悲願が成就します。
日本初の政党内閣の誕生です。
内閣は、陸海軍を除くすべての大臣が政党員からなり、首相に任命されたのは、大隈でした。
大隈は、政変後、自ら政党を結成。
議会の過半数を占めるまでに成長させていました。
そんなかつての盟友を首相候補に推挙したのは、ほかならぬ伊藤でした。
大隈内閣成立直前に、伊藤の別荘で撮影された一枚の写真が残されています。
共に、政治の第一線に身を置くようになった二人が目指した国家の形は、奇しくも同じものでした。
2人の歩んだ道が再び交差した時、明治日本は政党政治という新たな段階へと一歩踏み出しました。
共に過ごした築地梁山泊の日々から29年後のことでした。
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