日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:大隈重信

2019年4月・・・東京港区で歴史的建造物が出土し、注目を集めました。
高輪築堤・・・これは、日本初の鉄道レールの土台です。
鉄道開通は、明治日本が近代化に向け大きな一歩のたーぬんぐポイントとなります。
この一大事業を実現させたのは、当時新政府の少壮官僚だった伊藤博文と大隈重信です。

東京・築地・・・現在は料亭となっている場所に、明治初頭若き政治家、実業家たちがこぞって集まりました。
人呼んで「築地梁山泊」・・・日本資本主義の父とされる渋沢栄一や、政商・五大友厚らが日夜新政府の改革について議論を戦わせていました。
長州出身の伊藤は、藩士時代にイギリスに留学、藩の通訳として海外と折衝を行うなど卓越な交渉術を身につけていました。
一方大隈は、幕末の日本で最も開明的な肥前出身。
アメリカ人宣教師から英学を学び、優れた財政手腕を発揮していました。
共に、西洋の先進的な文明に触れていた二人は、すぐさま意気投合・・・
新政府の少壮官僚として日本の近代化を目指す盟友となっていました。



明治5年、2人は周囲の反対を押し切って、日本初の鉄道を開通させます。
新政府の実質的指導者・大久保利通は、当初鉄道反対派の筆頭でした。
しかし、開通した鉄道に試乗し、日記にこう記しています。

「実に百聞は一見にしかず
 鉄道の発展なくして 国家の発展はありえない」

大久保からの信頼を得た二人は、富岡製糸場設立など、近代化の施策などを次々と実現。
実質的な政府首脳である参議として国を動かすようになります。

明治11年5月14日・・・政界を大きく揺るがす事件が・・・!!
2人の後ろ盾だった大久保利通が暗殺されたのです。
当時、参議6人のうち、強い影響力を持っていたのが討幕の中心となっていた薩摩、長州出身者・・・薩長藩閥でした。
大久保の後継者となったのは、長州出身の伊藤でした。
時あたかも西洋思想の流入と共に、国民の政治参加という機運が高まりを見せていました。
土佐出身の士族・板垣退助らを中心にした自由民権運動です。
彼等は、新政府に対して建白書を提出、憲法を制定し、国会を開設することで、選挙で選ばれた国民による政治を実現しようとしていました。つまり、立憲政治への道です。

各地で暴動が起きていたうえ、明治12年には運動は、士族から地主、商人へと広がり、政府にとって無視できない状況になっていました。
対応を迫られた政府は、参議たちに各自の意見を提出させ、国の在り方を決める議論を政府主導で行おうとしました。
薩摩出身の参議・黒田清隆は、国会開設は時期尚早だと主張、長州出身の井上馨は、すぐに国会を開けば秩序が乱れ、明治政府の安保を保つことができないとしています。
国会開設はまだ早いという意見が多数を占めました。

伊藤の意見は・・・??
他の参議と同様まだ早いとしながらも、ある特筆すべき特徴がありました。
”今日の政府の役目は過激になる民衆を、順を追って適切に教育し、時間をかけて国民の意識を標準に成長させることだ”

当時の自由民権運動は、知識人はもちろん、多くは食を失った士族など・・・学問のない人たちがいたのは事実でした。
なので、深い考えもなく、今、生活に不満があるから政府を攻撃するという人たちが多かったのです。
そんな人たちが政権を取るようなことになったら、国の政策はめちゃくちゃになると危惧していました。

伊藤は、国民の意識を向上させたうえで、日本に適した憲法と国会を作るべきだと考えていたのです。
この意見に、盟友・大隈も賛同。
2人は国民を啓蒙するための政府機関紙の発行を計画するなど準備を進めていました。
ところが、伊藤の意見書提出から3か月後の明治14年3月・・・
大隈が思いもよらない行動に出ます。
自らの意見書を伊藤に相談なく提出、しかも他の大臣・参議らに見せることないように言い添えていました。
つまり、密奏です。
しかし、これが政府高官の間に漏洩・・・意見書を手にした伊藤は、驚愕し、一言一句を詳細に書き写しました。

そこには、次のように記されていました。
”本年を以て憲法を制定れられ、十六年首を以て初めて開立の期と定められん”
年内の憲法制定と、2年後の国会開設を求めるあまりにも性急な意見でした。
さらに、目指す政治形態も、伊藤が予想だにしないものでした。
”立憲政治とは政党政治の事である
 政党は主義によって争うべきである
 その主義が選挙によって国民過半数の支持を得れば、その政党は政権を獲得する”
大隈が目指していたのは、イギリス流の政党政治でした。
出身地ではなく、政策の内容によって政党を作り、国民に選ばれた政党が内閣を運営する・・・これは、藩閥政治の否定につながるものでした。
大隈の意見書を読んだ伊藤は、以外の急進論についていけないと怒りをあらわにしました。
2日後・・・大隈が伊藤のもとを謝罪に訪れました。
「自分一人の意見を天下に施行する考えはない」
と、抜け駆けの意思を否定したのです。 
立憲政治の実現に向け、政府の団結が求められる今、これ以上事を荒立てるわけにはいかない・・・
伊藤は、大隈の謝罪を受け入れました。
この時点で、伊藤と大隈の信頼関係は修復したかに見えました。

明治14年7月26日・・・伊藤と大隈の運命を一変させる出来事が起きます。
政府高官による汚職が新聞に報じられました。
いわゆる開拓使官有物払い下げ事件です。
事件の中心人物は、薩摩閥のリーダーで、当時北海道開拓使長官の黒田清隆でした。
1000万円以上の税金をかけて建設した工場や倉庫をわずか38万円という安値で部下の役人に作らせた商社に払い下げようとしていました。
各新聞は、黒田をはじめとした薩長藩閥の政治の私物化であると激しく非難!!
藩閥政治を打破するために、一刻も早く国会を開設するべきだという意見が噴出しました。
この事件の収拾を巡って、政局は思わぬ方法へと動き出します。



危機に立たされた黒田が、新聞に情報をリークした人物がいることを問題視し、犯人の名を喧伝し始めました。

「今回の事態は、大隈が板垣退助をはじめとした民権不平派と内通し仕組んだことである」

政府の人間が、あろうことか民間の不平分子と結託し、藩閥打倒の陰謀を企てていると大隈を非難したのです。
政府内では、黒田に同調する意見が拡大・・・情勢は一気に大隈排斥へと傾きます。
さらに、ある人物の行動が、事態をより複雑にしました。
行政官僚の井上毅・・・井上は、薩長藩閥の反大隈官僚を利用して、自らが理想とする憲法を彼等に広めていきます。
それは、プロイセン憲法です。
井上は、ヨーロッパの司法制度を調査する中で、君主権の強いこの憲法こそが天皇をいただく日本に最もふさわしいと考えていました。
その上、憲法制定は、1,2年のうちにするべきだと性急な意見を主張。
藩閥内では、これに賛同する者が続出していました。
藩閥と大隈の対立に、憲法論争が重なってしまったのです。
これは、憲法を重視し、時間をかけて日本流のものを作ろうとする伊藤にとって看過できない問題でした。
しかし、当事者である大隈、黒田から直接話を聞くことはできませんでした。
時あたかも事件直後の7月30日から明治天皇が、北海道・東北巡幸に出発。
これに、大隈と黒田の二人が同行していました。

大隈と藩閥の溝が深まる中、伊藤はどちらを支持するべきか・・・??
大隈を支持する・・・??それとも薩長藩閥に与する・・・??
悩む伊藤に選択の時が迫っていました。

伊藤は決断します。
在京の大臣、参事らを集め、会議を開きました。
会議に列席していた太政大臣・三条実美は、その様子をこう記しています。

”伊藤は他の参議と同様、大隈に憤激している”

会議は、天皇と大隈が東京へ戻り、混乱が起きる前に大隈追放で意見を統一すべきとの結論に至りました。
伊藤の結論は、薩長藩閥に与することでした。

大隈の追放が避けられないと判断した伊藤は、むしろ積極的に加担し、政変を収拾しようと動き出します。
まず、払い下げ問題の処理・・・
黒田ら薩摩閥に対しては、民間だけでなく、政府内からの次第に批判の声が上がり始めていました。
伊藤は、天皇の行幸に同行する黒田を急ぎ帰京させ、払い下げを中止するように説得。
1週間かけて同意を取り付けました。
この結果、黒田の政治力は大きく後退します。

10月11日、いよいよ大隈の処分を行う攻防が始まります。
天皇と大久保が帰還したのです。
当日夜・・・大隈を除く参議、大臣が並び、明治天皇出席のもと御前会議が開かれました。
会議の様子が天皇の側近の書いた日記に克明に残されています。
それによれば・・・

大臣、参議一同は、大隈の罷免を天皇に上奏した
大隈が民間と通じた陰謀を企てているというのだ
ところが天皇は、これに応じなかった

「もしや、薩長参議にて結合して大隈を退けるの儀ならんや
 大隈の儀、確証ありや」by明治天皇

薩長による謀略を疑い、大隈陰謀論の証拠を求めたのです。

大臣をはじめ、伊藤ら参議はこう答えます。

「確たる証拠をそろえることは容易ではございません
 ですが、これまでの大隈の行いから、もう十分わかっていることなのです
 薩長の参議だけでなく、皆、大隈に憤激しております
 薩長のことをお疑いあそばされるようでしたら、内閣が破裂してしまうでしょう」

深夜にまで及ぶ議論の末、天皇は大隈が同意するなら辞任を認めると決断を下しました。
会議の直後、使者が大隈邸を訪れました。
それは他ならない伊藤でした。
大隈はこの時の伊藤の言葉をこう回想しています。

”ただ単純な言葉で、容易ならざることだからとだけ言って、堂梶兵衛男出してくれという”

伊藤は、大隈に辞任の理由をつまびらかにしませんでした。
ただ、大隈にとって、盟友・伊藤からの勧告は、もはや政府の意見が覆ることの見込みがないことを意味していました。
翌日・・・明治14年10月12日、大隈は明治天皇に辞表を提出します。

大隈の辞任とまさに同じ日に、政府から国民へ一つの訓示が出されました。
”国会開設の勅諭”です。
明治23年を期し、議員を召し、国会を開く・・・
9年という準備期間を経て、国会を開設するという。
その理由はこう記されています。

”国の成り立ちは、それぞれの国ごとに異なっている
 憲法は、軽々しく制定していいものではない
 時間をかけて、調査にあたらせる”

これは、ほかならぬ伊藤が草案をまとめたものでした。
日本に適した憲法を、時間をかけて制定するという従来からの伊藤の主張が強く反映されていました。
官有物払い下げに端を発した政治の混乱・・・
終わってみれば、あたかも伊藤が全てのあらすじを書いたように見えました。
後に、人はこれを明治十四年の政変と呼びます。



明治22年2月11日・・・東アジアで初めての憲法・大日本帝国憲法が発布されました。
憲法制定にあたって中心的役割を果たしたのは、伊藤でした。
自らヨーロッパ各国に趣き、1年半にわたる調査を実施。
伊藤が日本に適していると考えたのは、君主権の強いプロイセン憲法でした。
しかし、伊藤はこれを単に模倣するのではなく、日本独自の憲法へと作り変えていきます。
憲法55条・・・ここに伊藤はプロイセン憲法にはない文言を盛り込んでいます。
”国務各大臣は、天皇を輔弼する”
輔弼とは、大臣の天皇への助言を意味します。
これにより天皇は、内閣の意見を聞かずに独断で権限を振るうことはできないとされました。

ところが、その内閣を構成する大臣の規定はどこにも明記されていません。
ここには伊藤のある狙いがありました。
内閣に関する規定を明言しない形の憲法になっているので、将来運用によっては、政党内閣が実現することもあり得る憲法になっています。
現状を見ながら、運用によってイギリス的なものに近づけていこうということがあったのです。
伊藤は、最終的には議会を作ってそこで民意を入れていくと、それが国全体を強くするためには必要だろ考えていました。

伊藤が憲法に込めた願い・・・それは、国民が成熟した上で成り立つ政党政治の実現でした。
憲法発布から9年後の明治31年6月30日・・・伊藤の悲願が成就します。
日本初の政党内閣の誕生です。
内閣は、陸海軍を除くすべての大臣が政党員からなり、首相に任命されたのは、大隈でした。
大隈は、政変後、自ら政党を結成。
議会の過半数を占めるまでに成長させていました。
そんなかつての盟友を首相候補に推挙したのは、ほかならぬ伊藤でした。
大隈内閣成立直前に、伊藤の別荘で撮影された一枚の写真が残されています。
共に、政治の第一線に身を置くようになった二人が目指した国家の形は、奇しくも同じものでした。

2人の歩んだ道が再び交差した時、明治日本は政党政治という新たな段階へと一歩踏み出しました。
共に過ごした築地梁山泊の日々から29年後のことでした。

↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村



日本の政治の中枢・国会議事堂・・・現在の建物は、1936年帝国議会議事堂として完成しました。
参議院本会議場・・・戦前は、皇族や華族で形成された貴族院として使用されていました。
現在参議院の定数は245ですが、460席あるのは貴族院の議場だった名残です。
天井は唐草模様を配したステンドグラスがはめ込まれ、当時の面影を残しています。
この参議院議場の最大の特徴とされるのが、議長席の後ろにもうけられた・・・開会式の際の天皇陛下の席です。
日本で初めて議会が開かれたのは1890年の第1回帝国議会です。
それに先立って作られたのが、大日本帝国憲法でした。

明治維新から22年の1889年・・・
近代国家を目指して制定された日本初の憲法が、大日本帝国憲法です。
その憲法制定に16年を費やし、中心的な役割を担ったのが伊藤博文でした。
伊藤は1841年、長州藩の貧しい農家に生れました。
その後、下級藩士の養子となり、吉田松陰が開いた松下村塾で学んだことで、運命が大きく変わることになります。
20代の始めに藩の留学生としてイギリスに渡り、西洋文明と英語を学びます。
そして明治維新後、その英語力を買われ、新政府に仕えることとなったのですが、士族出身者が多い政府の中で、伊藤は立場が弱い農民出身。。。
どうしてそんな伊藤が、後に憲法制定の中心人物となったのでしょうか?

1871年、岩倉具視を全権大使とする岩倉使節団でした。
30歳になっていた伊藤は、明治維新の英傑・大久保利通や木戸孝允たちと共に海を渡ります。
この時の使節団の目的は、幕末、日本が西洋列強に言われるがまま結んでしまった不平等条約改正の予備交渉と、西洋文明の視察でした。
一行は、アメリカに到着後、サンフランシスコ、ワシントン等に滞在、その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、パリ、ベルリンなどの都市を視察、そこで西洋列強の工業力や軍事力のすごさをまざまざと見せつけられ、強い衝撃を受けます。
そして、その中で、その国力の背後にある「あるもの」が日本の近代化には必要だと気付きます。

「あるもの」とは・・・??
国力を高めないと西洋諸国から認められない・・・
そのうちの一つとして憲法に注目します。
ヨーロッパの多くの国は憲法を持っており、指導者と国民が一つに繋がっている・・・そのような国の形を支えている憲法というものが重要だと・・・!!
この時の日本は、廃藩置県で「藩」が廃止、日本という国を一つにまとめるための憲法はありませんでした。
そうした中で、使節団一行は、欧米諸国と肩を並べるには憲法成立が不可欠だと知ったのです。
中でもそれを強く感じたのが、大久保利通と木戸孝允で、しかし、自分たちの生きている間には実現しないだろうと考えていました。
そこで、2人はイギリス留学を経験し、西洋列強のことをよく知る若き伊藤にこの大事業を託すことにしました。
こうして伊藤は、明治政府の重鎮・木戸孝允と大久保利通の後押しがあったから憲法制定の大事業を担うことになったのです。
しかし、そんな伊藤の前に、いくつもの壁が立ちふさがることに・・・!!

憲法制定の壁①板垣退助の自由民権運動
帰国した伊藤は、1873年11月、政府から憲法制定に向けての調査を正式に命じられます。
しかし、日本の国内事情はそれどころではありませんでした。
政府内では、朝鮮への派兵をめぐる征韓論争が起き、その結果、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らが辞職・・・
さらに、士族の反乱が勃発、緊迫した情勢にありました。
そうした中、下野した板垣退助が1874年、日本初の政党・愛国公党を設立。
自由民権運動の口火となる建白書を政府に提出しました。

「今の政府は一部の藩閥政治家が支配している
 これを改めるには、選挙で選ばれた民撰議員を設置すべきである」by板垣

これにより、不平士族を中心に、自由民権運動が盛り上がりを見せます。
藩閥政治を批判し、早期国会開設とそれに伴う憲法制定を政府に要求、五日市憲法草案(自由民権運動家・千葉卓三郎によって起草された私擬憲法)など、自分達で憲法草案を起草する者も出てきました。
憲法制定を急ぐ急進派を前に、伊藤は困惑します。

「憲法は時間をかけなくてはいいものは出来ない」

選挙による議会開設は時期尚早・・・ましてやそれに伴う憲法制定については時間をかけるべきだと考えていました。

しかし、自由民権運動は、農民層にまで広がりを見せ、過激さを増していきます。
これに対して明治政府が動きます。
次々と条例を出すなどの徹底的な言論弾圧を行っていきます。
憲法改正、議会開設を急ぐ動きは、一時収束・・・
伊藤はようやく腰を落ち着けて憲法を制定していくことができる・・・
そう思っていたのです。

1873年、伊藤博文が32歳で明治政府の住職である参議・工部卿に就任。
しかし、その4年後・・・1877年、後ろ盾だった木戸孝允病死・・・
翌年には、大久保利通が暗殺されます。
伊藤は、木戸と大久保から託された憲法制定への想いを強くします。
2人の遺志を受け継ぎ、自ら政府をを先導していくと決意を新たにするのです。
ところが・・・

憲法制定の壁②大隈重信の裏切り
1881年3月、憲法制定に関する一通の意見書が、明治天皇に近い有栖川宮熾仁親王に秘密裏に提出されます。
意見書を出したのは、伊藤と同じ参議の大隈重信です。
そこにはこうありました。

「議会で多数派となった政党が、行政の重責を担うイギリス型の議院内閣制度を採用すべし
 できるだけ早急に憲法を発布し、二年後の明治十六年初めには議会を開くこと」

大隈は、時間をかけて憲法を制定するという政府の方針に真っ向から反対する意見書を出したのです。
それは、政府がいち早く憲法を制定することで、根強い自由民権派の政府批判を打ち消そうと考えてのことでした。
しかし、伊藤にとっては寝耳に水の話・・・
盟友・大隈の裏切りとも取れる行動に、腹を立てた伊藤は、政府の重鎮だった岩倉具視に宛ててこんな手紙を書きます。

「大隈さんの意見書を読んだところ、実に意外な急進論であり到底従うことはできません
 このような方針が取られるのであれば、自分は辞職させていただきたい」

その怒りの裏には、大隈の意見書が具体的な内容だったことへの恐れもありました。

”このままでは大隈重信に憲法制定の主導権を握られる・・・!!”

先を越された焦り・・・大隈という新たな壁を前に、伊藤はただ悶々としていました。
すると、ある事件が起こります。
北海道の開発を担う開拓使の廃止に伴い、鉱山や工場などの官有物を旧薩摩藩関係の民間企業などに格安で払い下げることが検討されていたのですが・・・
その払い下げ計画が、新聞にすっぱ抜かれ、政府と薩摩閥の癒着だと叩かれたのです。
さらに、新聞社に情報をもらした人物が、払い下げに反対していた大隈では??と疑われたため、大騒動に・・・!!

世に言う”開拓使官有物払い下げ事件”です。

明治政府は、騒動の責任を取らせ大隈を政府から追放。
これにより、伊藤が懸念していた大隈による早急な憲法制定と、議会開設は阻止されたのです。
ただし、一件落着とはいきませんでした。
こうした問題が起きるのは、薩摩・長州藩出身の政治家たちがいまだ権力を握っているからだと、自由民権派が「藩閥政治」を批判。
選挙で選ばれた人たちで健全な政治が行えるよう議会の早急な開設を求める声が、再び起こったのです。
政府は止む無く”国会開設の勅諭”を出し、9年後の1890年に国会開設をすることを表明。
これに先立つ憲法制定も急ぐこととなってしまったのです。

1881年10月12日、勅諭が下されたことで、9年後の国会開設が約束されました。
そして、これに伴い急ぐこととなった憲法の起草作業・・・
40歳になっていた伊藤博文は、その中心で奔走していました。
ところが、またもその立場を脅かす人物が現れます。
岩倉具視のブレーン・・・井上毅です。
伊藤は一体、井上の何を恐れたのでしょうか?
司法省の官僚として海外視察を経験していた井上毅は、西洋諸国の法律に精通した政府随一の法制度の専門家でした。
岩倉のために、すでに憲法意見書を作成していました。

・天皇が制定する憲法であること
・急激ではなく段階的に行うこと

「ヨーロッパの憲法を参考にする際は、君主の権限が強いドイツの憲法が適している」by井上毅

当時ドイツでは、ドイツ皇帝・ヴィルヘルム1世が強い権限を持つ憲法が用いられていました。
かねてから井上は、議会を重んじるイギリス型の議院内閣制度では安定した政府運営ができないと反対していました。
ドイツ型の憲法こそ、天皇を尊ぶ日本の国情に合う憲法だと考えていたのです。
井上の意見書を目にした伊藤は、自分には明確な憲法のビジョンがなかったことに気付き、大きな危機感を覚えます。

”井上毅に憲法制定の主導権を握られる・・・!!”

法制度に精通する井上毅に憲法制定の主導権を奪われることを恐れたのです。
木戸や大久保から託されたという伊藤のプライドが、傷つけられたのでした。

伊藤の親友で外務卿だった井上馨は、この頃の伊藤についてこう語っています。

「近頃、伊藤も大いに心痛の極みにて、神経症が起こり毎夜眠れず
 酒一升を飲んで ようやく寝ることができるという状態である」

完全に自信を喪失し、苦悩する伊藤・・・すると政府内から声が・・・

「よかったら、静養もかねて欧州へ憲法調査に行かれたら如何でしょうか」

渡りに船とばかりに、伊藤はこの提案を受け入れ、1882年3月、伊藤博文ヨーロッパへ旅立ちます。
その伊藤に、井上毅はこんな手紙を送りました。

「立憲作業はもう最終段階、海の向こうで静養でもしながら私が研究した成果を参考にして、草案を仕上げてきてください」

それは、伊藤は無用、立憲作業のお飾りに過ぎないとでもいわんばかりの屈辱的な内容でした。
しかし、伊藤はこれを、巻き返すチャンスだと信じて疑いませんでした。

1882年5月、ドイツ・ベルリンに到着。
議会開設まであと8年・・・ドイツのような立憲君主国の憲法とは??
議会と内閣の関係とは?選挙は・・・??
具体的な仕組みの調査を目的としていた伊藤・・・
しかし、かの地で漢方調査は思うようにうまくいきませんでした。

ドイツに到着した伊藤がまず頼ったのが、ベルリン大学の憲法学者のルドルフ・フォン・グナイストでした。
ところが、こう言われてしまいます。

「遠方からドイツを目標においで下さったのは感謝の至りだが、憲法は法文でない
 精神である
 日本の事情に無知な自分がお役に立てるかは自信がない」

グナイストは、憲法や法律は国家が勝手に決めるものではなくて、その国の歴史に根ざして作られて行く物という考え方を持っていました。
=「日本の歴史を知らないから助言する立場にない」となるのです。
伊藤の憲法調査は、頓挫してしまいました。
さらに、議会の開設についても、謁見したドイツ皇帝ヴィルヘルム1世から日本では到底無理だろうといわれてしまうのです。

行き詰まり、苦悶する伊藤でしたが、救いの手を差し伸べる人物が現れます。
オーストリア・ウィーン大学教授のローレンツ・フォン・シュタインです。
以前から日本に関心を持っていたシュタインは、懇切丁寧に国家の全体像についての講義をしてくれました。

国家というものは、独立したひとつの人格に例えられる
そして、それぞれ自立した3つの要素を備えている
国家の自己意識を具現化する機関としての君主
国家の意思を形成する議会(立法)
国家の好意を司る内閣(行政)
そして、最も重要なのは、憲法そのものではなく、それを支える制度や組織です

伊藤は、国家の全体像について理解するようになっていきます。
そのことが、自分こそが憲法を作るのだという自信を回復することに繋がっていきます。
そして、「立憲カリスマ」として日本に帰ってくることになるのです。

伊藤は、岩倉に宛てた手紙にこう書いています。

「私はドイツにて国家組織の大体を理解した」

およそ1年半に及ぶヨーロッパでの憲法調査で、自身を回復した伊藤は、立憲政治において誰からも一目置かれるカリスマへと生まれ変わったのです。
そして、1883年8月・・・井上毅と対等に議論できる知識を得、帰国した伊藤は、憲法制定へのリーダーシップをとっていきます。
まず着手したのが憲法を制定し、議会を開くための受け皿となる国家組織の改革です。
自立した行政を行うため、近代的な内閣制度を作りました。
そして、44歳になった伊藤は・・・1885年12月、初代内閣総理大臣に就任。

1887年、伊藤博文は、横浜・東屋旅館で参事院議官の井上毅、伊藤の秘書官の伊藤巳代治、同じく秘書官の金子堅太郎と共に、憲法の起草作業を始めました。
順調に事は運んでいました。
ところが・・・東屋旅館に宿泊していた伊藤巳代治と金子堅太郎が、ことのほか起草作業が進んでいることに木を良くし、ある晩宴会を開き、酔いつぶれてしまいました。
すると運悪くそこに怪しい侵入者が・・・目覚めた二人は青ざめます。
憲法草案の入った大事なカバンを盗まれてしまいました。
もしかして、妨害しようとした自由民権派の仕業では・・・??
しかし、幸いカバンは近所の畑に捨てられていて、草案は無事でした。
金品目当ての泥棒だったのです。

草案は無事だったものの、慎重を期し、伊藤は横須賀・夏島にあった自身の別荘に作業場を移します。
そして、密かに作業を続ける中で、三人に言いました。

「私の言うことが間違っていたら、それは間違いだと徹底的に追及してくれ
 君らの言うことが分からなければ、私も君らを徹底的に攻撃する互いに攻撃し、議論するのは憲法を完全なものにするためである
 長官だの秘書官だのという意識は一切かなぐり捨てて、討論議論を極めて、完全なる憲法を作ろうではないか」

こうして、数か月にわたる激しい議論を交わしながら作り上げていったのが、大日本帝国憲法の原案となる”夏島草案”です。

第一条には・・・
大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
この天皇の権限こそ、草案作成の中で最も論争となった点でした。
伊藤たちは、天皇は国を一つにまとめる重要な存在と認めながらも、独裁になってはならないと考えます。
そこで盛り込んだのが

第四条
天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ 此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ

実際には、天皇の主権は憲法の規定に従って行うということも明記されています。
完全な意味での独裁ではなく、君主(天皇)の権限は制限されていました。
草案はその後も検討され、徐々に完成へと近づいていきました。
そんな中、最後の壁となったのが明治天皇でした。

憲法制定の壁③明治天皇の反発
明治天皇は、政治的実権はすべて自分にあると考えていました。
そのため、伊藤は憲法で主権を制限されることに天皇が難色を示すのではないかと危惧したのです。

「何としても陛下を説得しなければ・・・!!」

伊藤はいかにして明治天皇を説得したのでしょうか??

陛下には、シュタイン博士の憲法の根幹を学んでいただき、君主の役割を理解していただく必要がある・・・
伊藤は、まずは天皇が厚い信頼を寄せる人物に憲法を学ばせ、その人物に天皇に講義をしてもらおうと考えます。
伊藤がその大役に選んだのが、侍従の藤波言忠です。
藤波は、シュタインの教えを学ぶため、ウィーンへと旅立ちます。
そして、シュタインから憲法だけでなく、教育、宗教、産業など立憲国家の君主が心得るべきことの全てを学びます。

こうして1887年11月・・・
帰国した藤波は、明治天皇に講義を行いました。
その時間は、合計33時間に及んだといいます。
これにより、新しい憲法における自らの立場を理解した天皇は、その制定を見守ることに・・・
天皇が全幅の信頼を寄せる侍従に、憲法を学ばせて、天皇に講義を行うことで説得しました。

そして、その翌年の4月・・・46歳の伊藤は、天皇に意見を求める機関として新設された枢密院の議長に就任。
そこで、天皇列席のもと、2か月に及ぶ憲法の審議を行うのです。
これを受けて伊藤たちは、さらに議論を重ね、およそ半年後、全ての条文を作り上げるのです。
言論の自由、臣民の権利が、法律の範囲で保証されることが約束され、帝国議会については貴族院は皇族・華族からなり、衆議院は当選された議員から定められることとなりました。

1889年2月11日、ついに伊藤にとって念願の日を向かえます。
憲法発布の日です。
式典が、この年新しくなった皇居・明治宮殿で行われました。
伊藤が起草を手掛けた大日本帝国憲法は、天皇が黒田清隆首相に手渡しする形で、無事に発布されました。
これにより、日本は東アジアで初めて近代憲法を持つ立憲君主国となったのです。
各地でちょうちん行列が催され、民衆は憲法発布に沸き立ち、万歳三唱を繰り返しました。
その様子を、当時お雇い外国人として日本に来ていた医師のエルヴィン・フォン・ベルツは、こう記しています。

「東京全市は十一日の憲法発布に対し 言語に絶した騒ぎを演じている
 だが滑稽なことに だれも憲法の内容をご存知ないのだ」

ベルツが言うように、民衆の殆どが大日本帝国憲法の中身を知りませんでした。
憲法発布によって、日本が文明国の仲間入りをしたことにただただ喜んだのです。
そんな状況もあってか、憲法発布後、伊藤は各地で公演を行い、憲法の理解を求めて生きました。

この後、三度にわたり内閣総理大臣を務める伊藤は、大日本帝国憲法の精神と立憲政治の定着に邁進・・・
それこそが、自らの使命と信じて。。。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング 

伊藤博文と明治国家形成 「宮中」の制度化と立憲制の導入【電子書籍】[ 坂本一登 ]

価格:1,265円
(2020/5/5 05:59時点)
感想(0件)

【中古】 大日本帝国をつくった男 初代内閣総理大臣・伊藤博文の功罪 /武田知弘(著者) 【中古】afb

価格:350円
(2020/5/5 06:01時点)
感想(0件)

西郷どん(さいごうどん) 貴匠蔵25度720ml 【本坊酒造 津貫貴匠蔵】(化粧箱 芋焼酎 いも焼酎 あす楽 NHK 大河ドラマ お祝い)

価格:1,728円
(2018/12/4 14:47時点)
感想(0件)



薩摩に帰ってきた西郷どんです。

「明治6年11月、東京から鹿児島に戻った隆盛は、畑仕事をしたり、時には犬と狩りに行ったりと、静かな毎日を過ごしていました。」

だそうだ・・・。

そこへやってきたのは、後に西南戦争に参加する男たち!!
役目を捨てて、薩摩に戻ってきました。
西郷どんを慕って続々と帰ってきていると言い出しました。

「そんなに若さのことを慕って・・・」by熊吉

ですが、阿呆でしょうか??
それこそ、会津の人たちは、政治参加も全くできず、食べることも難しく・・・
だからこそ、学力でなんとか生きようと頑張るわけです。
それは、「坂の上の雲」の主人公のひとり、秋山好古もそうです。
ま、紆余曲折あって軍人の道を歩みますが、元々は佐幕藩だった松山藩だったので、出世ができない=教師の道・・・師範学校に入ります。
彼もまた佐幕藩だったからこそ出世が出来ないことをわかっていたからの教師の道だったのに・・・。
何を好き好んでこの西郷どんのために辞めて帰ってくるねん・・・。

「官もいらず、名もいらず、こいが薩摩隼人の心意気でごわす!!」なんて、半次郎が言うんですが、そこは西郷どんが言ってこその言葉だと思うわ・・・
政府の要職を蹴ってまで!!ってとこがいいのよね~~!!

ちなみに帰ってきた人たちは300人!!+300人!!
ほんま、アホやなあ・・・。

その頃、鹿児島県令は、幼馴染の大山綱良になっていました。

不穏な空気が立ち込める薩摩・・・。
毎日のように西郷どんに会いに来る若者たち・・・。
それを叱り飛ばすお糸。

内務省の頂点に君臨する大久保利通。

洋行帰りの川路利良と村田新八に仕事を・・・って、なんで洋行してん??
村田新八は、西郷どんが帰ってしまったことが心に引っかかっているよう・・・。
突然、岩倉具視が襲われたとの連絡が・・・!!
「マロが襲われた~~!!」by岩倉具視
というほんとお粗末で御下品で・・・もう、なんて言っていいのか・・・。

呑気にお風呂に入っている西郷どんです。
いい体をしている鈴木さんが、役のために太っているのはほんと、可哀想です・・・。
そういえば・・・私の大好きな里見浩太朗さんも、「田原坂」で太ったなあ・・・

薩摩の大久保家では、投石されたりして家族が辛くて怖い目に遭っていました。
ま・・・ここはいい表現だったと思う・・・。
でも・・・満寿が東京へ行ってもいいか??みたいなことを相談するのも、政治をしてくれていればアリなんだけどなあ・・・。

明治7年2月15日、江藤新平率いる佐賀軍6と政府軍が衝突=佐賀の乱です。
なんで乱を起こしたのか??やってくれないと皆さん無駄死にです。
そしてまだまだくすぶっている薩摩隼人たち・・・!!

don2















江藤新平が、西郷どんを頼ってやってきました。
挙兵してほしいと・・・!!
そして江藤新平の処刑がナレ!!
斬首・さらし首だったんですが・・・ま、見せしめ的な感じもあったんでしょうね・・・。

と、政治になってきた??と思っていたら、東京に移った満寿の家に、おゆうがやってきていました。
もうな、どうでもええわ・・・。ビデオとばそう・・・。
と思っていたけど、
これから一のつく日と六のつく日は家に来ることが決まった・・・って大久保に言うボケたおゆうを書かずにはいられませんでした。
妾だろ??
毎日、来るか来ないかわからない主人を、薄化粧で待ってるんじゃないんか??
家も身も、綺麗にしてつつましやかに待っているんやないんか??
それが昔の女やないんか~~!!

江藤新平のさらし首に蹶起だつ薩摩隼人・・・!!
最早、無秩序の乱暴以外の何物でもない・・・浅はかだけど、そこは本当かもしれない。。。

don3















そんな彼らのために、公費を使って学校を作ろうとお願いに来た西郷さんです。
この頃、新島襄は、私学校を作るために・・・国に認めてもらうために自力で奔走していました。
それも、国費を頼ったりなんかしてないわ!!
おまけに、西郷どんの兵学校と違って、ホントに勉強するキリスト教の学校だしな!!

村田新八も帰ってきました。

don4















なんだか呑気に歌を歌っています。

東京に行かずに私学校を始めるという西郷どんに幻滅する半次郎。

don
















一生懸命訴えるけど、西郷どんの気持ちは変わりません。
ほんま、国費を使って何やっとんねん・・・。
そこへ、菊次郎が帰ってきました。
お・・・菊次郎・・・”はだしのゲン”の子ではないか??
あの泣きの演技、忘れられへんわ~~!!

と感激していたら、私学校にいきなり賊がやってきました!!
覆面して・・・まるでマンガのキャラクターのようです。
鉄砲も敵わず、斬鉄剣のように鉄砲をぶった切る!!
それは、半次郎でした。

って・・・シラケるわ~~!!

銃や大砲には弾がいる、弾が無くなったら使いものにならんから、剣が一番強い!!

みたいなことを言うくせに、西郷どんにお世話になるそうです。
何じゃ・・・この三文芝居は・・・。
剣が一番強いと思っているのは歳さん以外の新選組隊士でいいんだよ!!

お・・・西郷の下へ密偵を放っている大久保の下へ、いろんな情報が入ってくるのでした。

ということで、今回はお開き・・・。

ほんま、シラケちゃいましたよ・・・。

鉄を斬れるのは、斬鉄剣だけでいいんだよ!!

zanntetukenn















ともかく、旧幕府軍は、新しい兵器に負けたと言うのに、剣が一番だそう・・・逆行している・・・。
それにな!!
廃刀令後も剣を差していて怒られる緋村剣心は、そんなに容易く剣を抜かないわよ!!

kennsinn

















悔いてるんだから!!
背負ってるもんが違う・・・いやいや、半次郎も人斬りでした。

「人斬り働きで栄職につく気は毛頭ないんですよ・・・。」by緋村剣心

と、山縣有朋に言った緋村剣心のなんとカッコいいことか・・・!!
マンガでさえ・・・直接ギャーギャー言わなくったって・・・この一言で、剣心がどれだけ悔いているのかがわかる・・・!!

当時の人たちは、なんやかんやと心の傷を抱えて生きていました。
その傷が癒えないまでも、一生懸命時代を切り開く・・・
切り開かなければ、失った命があまりにも多すぎる・・・!!
その命を背負って生きていく覚悟が、この「西郷どん」のキャラには全くなくって・・・

みんなどうして苦悩しないんだろう・・・??
人間としての深みを、全く感じられません


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

【ふるさと納税】西郷どん大河ドラマ放映記念!焼酎飲み比べ特別セット 720ml×3本【吉村酒店】

価格:12,000円
(2018/12/4 14:48時点)
感想(0件)

【送料無料】さつま揚げ 「串木野セットD」 練り物 練製品 天ぷら 棒天 平天 いわし えそ イカ 鹿児島 串木野 ひなまつり 卒業式 入学式 謝恩会 入社式 ホワイトディ 母の日 こどもの日 節句 父の日 西郷どん 大河ドラマ お中元 お歳暮 ギフト 進物 手土産

価格:3,240円
(2018/12/4 14:49時点)
感想(6件)

【在庫あり/即出荷可】【新品】新装版 翔ぶが如く(全10冊) 全巻セット

価格:7,172円
(2018/12/2 23:42時点)
感想(0件)



副題が、「さらば、東京」ということで、遂に下野する西郷どんです。

「明治6年10月14日。
 帰国した岩倉を交えた最初の閣議が開かれました。」

またまた征韓論の議論がぶり返しました。
大久保と岩倉は、すでにズブズブの関係・・・
「西郷に勝ち、今の政府をぶっ潰したいのです。」by大久保
って・・・アホなヤンキーじゃあるまいし、ぶっ潰すなんて・・・もっと政治的にダメダメなことを理由にぶっ潰せよなあ・・・これじゃあ、まるでいじめられた大久保の私怨じゃん!!
それとも、恐れ多い内務卿・大久保利通がアホなのか・・・??

あくまでも西郷どんは遣韓論を通すみたいで・・・
その助けに行くのに余った士族を利用するんだそうだ。

「これも強兵を作る方法だ!!」by西郷どん

って言いますけど、外に目を向けることは・・・これって、よくある政治の常套手段で、最終的には明治政府も植民地化計画になるはずなんだけど、心優しい西郷どんは、あくまでも2000人の居留民のために派兵するんだそうだ。
その派兵のせいで、もっと死ぬことを考えていないんだろうか??と思うけど・・・。

「わかった!!西郷、望み通り朝鮮国へ行ってこい!!」by岩倉具視

って、結局行かすんかい!!と、突っ込んでしまいました。
だって、もともとイケイケの西郷さんなんだから、”韓国に行きたい”という史実はあるわけだから、行かさないといけないわけで・・・そうなると、平和、平和言っている西郷さんに無理が出てくるのは当たり前なのよ・・・。
で、売り言葉に買い言葉で言ってしまったことを大久保に怒られる岩倉具視は、子供のように切れちゃいました。

戦になっても知らん!!と政治を投げ出す大久保に、逃げる岩倉って・・・最悪だろ??
お札になった人だよ??岩倉具視って・・・!!
で・・・倒れてしまった三条実美なのでした。

ちなみに・・・どうして征韓論、征韓論、ってことになっているのかというと・・・??

明治になり、政府が李氏朝鮮に「将軍」が居なくなって王政復古した事を告げると、朝鮮は「今までと外交文書の形式が違う」と、国書の受理を拒否されてしまいます。
これを何とかし(武力で)朝鮮にいる居留民を救おう・・・という話が、板垣退助らが考えた「征韓論」なんです。

この居留民を救おう!!という、西郷さんが一生懸命言っている事・・・これが、征韓論の”大義名分”になっていることは間違いないんです。
もしかすると、2000人の居留民を助けるため・・・ではなく、それを理由に征韓したかったのかもしれません。
ま、西郷さんは遣韓論だったと言われてますけどね??
でも、どうしようもなければ攻め入る覚悟だったみたいよ。

で・・・またもや緊張感もなく薩摩の家族が出てきます。
三条実美は過労で倒れ・・・

don2















なんでか西郷さんに謝ります。
扇の要がなんだかんだと言ってますが、全く何を言いたいのかわからず・・・

「大久保が・・・大久保が・・・おとろしいことをたくらんどる・・・!!」by三条実美

ああ・・・こんなのやめてくれよなあ・・・。
おとろしいことって何やねん・・・。
こんなん、告げ口やんけ・・・。

don















で・・・やってきたのは岩倉具視。
太政大臣代理になったみたい。
ほくそ笑む岩倉具視・・・それも、大久保の策略のようです。
天子様に「西郷が命を落とすかも??」と言って、征韓論を阻止しようとします。
そして、朝鮮国派兵は、おじゃんとなるのでした。

ああ・・・おとろしいこととか、西郷が命を落とすかも??ってことが策略か??
もっと、策を弄じろよ・・・と思っていたら、
「三条はんに頼まれたわけやない!!
 天子様に任命されたんや!!」by岩倉具視
なんて、小学生が先生を楯にケンカしているみたいでわやくちゃで情けなかった・・・
「これがマロのやり方や!!」by岩倉具視
足を踏み鳴らして・・・ほんまに子供のケンカやわ・・・。

で・・・やっぱり居留民のことだけは心配する西郷どんですが・・・
それにあきれたのか・・・参議を辞める西郷どんたちでした。

怒る桐野達ですが・・・

「おはんらは、今や一人一人が政府の大切な人間じゃ。
 それぞれになすべきこどがあっどが。
 おいがどげんしようと関係なか。
 辞めるこつも、騒ぎ立てるこつも許さん。
 国づくりはの・・・一握りの政府のお偉方だけじゃできんとじゃ。
 おいからも、おはんらの力や民の力がいるようじゃっで。」by西郷どん

う~ん・・・自分に言えよ・・・!!

熊吉のラブラブも要らんわ・・・。

そして・・・政府に辞表を届けたと、ナレ!!

「こんままでは終わらんぞ!!」by江藤新平

大久保に捨て台詞を吐いて、江藤新平、後藤象二郎、板垣退助が辞職。
誰が誰だかわかんないんよ・・・新政府の人間なのにさ・・・。
八重の桜では、西郷どん(吉川晃司)や木戸孝允(及川光博)はともかく、板垣退助(加藤雅也)、大山巌(反町隆史)って・・・敵なのに今から思えば、恐ろしいほど豪華だわ・・・。

その頃、大久保利通は、新しい政治体制を作り、自ら内務卿となるのでした。

で・・・また遊郭か・・・。
嫌やわ~~!!
腐敗していることを表現したいのか??それとも、遊郭で政治をするのが普通だったのか??
それはわからないけど、「マロの頼みを聞いてくれ・・・」と、木戸孝允を説得しようとする岩倉具視ですが・・・
反対に怒らせてしまうのでした。

西郷どんの長屋にやってきた木戸孝允・・・。
そんなあんなこんなももうええわ・・・。
東京を去るって聞いた子供たちが悲しむ・・・子供達もほら、こんなに西郷どんにいて欲しいんだよ~~って言う表現なのか・・・??
それは別に西郷どんでなくてもええ!!
西郷どんは政治に必要だ!!と、説いてくれ!!
木戸さん・・・なんか言ってるけど、頭に入らん・・・
東京を去る西郷どんの代わりに木戸孝允が子供たちの面倒を見ようと言い出します。
そんな言葉は頭に入りました

家に帰ってきた大久保利通を待っていたのは、西郷どんでした。
怒ってい大久保なので、家にあげたことをおゆうに怒るのですが・・・おゆうは、子供の友達だと屁理屈をこねます。
この時代の女性はこんなんではない!!と思うし、大久保も、「詭弁を使うな!!」と怒っています。
おゆうは・・・フキと同様、助けてもらった身・・・ま、おゆうは売れっ子だったかもしれないけど・・・でも、旦那様の言うことは絶対だろ・・・??

テーブルについた二人・・・
一蔵どんに聞きたいことがあったと、西郷どんが言い出します。

「一蔵どんは、おいを政府から追い出したかったとな??
 じゃったら、ないごてそげんはっきり言うてくれんかった??
 おいと、一蔵どんの喧嘩なら、周りを巻き込むこつはなかった!!
 腹を割って、話せば済むこっじゃ!! ずっと、そげんしてきたどが・・・!!

 おいは、こげなまわりくどかやり方は好かんど!!
 おはんもしっちょっどが!!」by西郷どん

「卑怯者とでも何とでも言え!!
 憎め!!
 すべて覚悟の上だ・・・!!」by大久保

なんですが・・・

二人の喧嘩で済むのか??
政治の話だろ??
政治も二人でするつもりか??
と、言いたくなってしまった・・・。

この言葉では、ただの二人の痴話げんかで下野するみたいだ・・・
熊吉に彼女がいるから残ってもええよ??なんていいながら(そんなこんなもいらん!!)、結局下野・・・!!

私は、政治家は、清濁併せ飲んでOKだと思っています。
そりゃあ、汚職はダメだろうけど、汚職をするほど面の皮の厚い人間の方が、肝っ玉座っていていい政治をしたりして・・・。
明治政府の人たちが、ただの肝の小さい男に見えてきたわ・・・。
志はどこにいったんやろ・・・??
やっぱり、無かったんかなあ・・・??

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

大河ドラマ 翔ぶが如く 完全版 DVD-BOX全巻セット

価格:38,880円
(2018/12/2 23:42時点)
感想(0件)

西郷どん完結編 NHK大河ドラマ・ガイド

価格:1,188円
(2018/12/2 23:43時点)
感想(1件)

NHK大河ドラマ 龍馬伝 完全版【Blu-ray BOX-1 2 3 4セット】[season1 2 3 4]

価格:76,820円
(2018/12/1 10:50時点)
感想(0件)



両雄対決って・・・もちろんあの二人何でしょうね・・・
東京に向かった菊次郎のお話しから始まりました。
長屋での生活のようです。
海外に留学するのがあーだこうだと心配する薩摩の話が盛り込まれて・・・もう・・・どうでもいいです。

やっぱり、みんなが腹いっぱい食べる生活を目指している西郷どんは、菊次郎に海外で農業を学ばせたいようで・・・
子供の菊次郎にまで「海外に行って農業を学ぶのか??」と、ダメだしされています。
そして、いよいよ菊次郎の洋行なのでした。

10か月の予定の大久保たちの使節団も、1年経っても帰ってきません。
気をもんで、10円禿ができたとかなんとかいう大久保からの手紙に微笑む西郷・・・
そんなんどうでもええから、留守の政治のことをあれこれしてください。
そうでないと全くわからないんだから・・・。

政治をやるかと思いきや、またまた長州の汚職の話です。
井上馨と江藤新平のやり取りも、何がどうなって対立しているのか、全く解りません。
それを、ナレで終わらせるって言うのがなあ・・・。
もっと、対立してケンカしているところをやって欲しいわけです。

ちゃんと吟味をせずに
「井上さ~、あんたはここを去らんといかん!!」by西郷
だそうです。

もう、使節団を待っていることはできないと、政府を一新すると言い出す西郷さんでした。

結果、後藤象二郎、江藤新平、大北喬任を参議に加えるのでした。

西郷さんは、またもや子供たちを散発しています。
散発せんでええから、仕事してくれよ・・・。
そして、どうでもいい長屋トーク・・・。
徴兵制の話でしたが、ビデオ飛ばしちゃいましょ。
長屋の人たちに決まった徴兵制の話をするよりも、徴兵制をするに至った政治の過程を話してほしいもんです。

徴兵制、学校教育制度、地租改正、鉄道、製糸場、太陽暦、裁判所・・・と、やったことをナレで羅列してくれていますが・・・汚職なんかやらずに、この一つ一つを丁寧に書いてくれたら・・・どんなに西郷さんが尊敬される男であるかわかったのにね・・・!!
それにしても、一人でやった感、半端ないよ・・・??

と思っていたら・・・
こんな勝手なことばかりやって・・・と、三条さんがやってきました。
岩倉が夢にまで出てきて寝られへん・・・と、三条実美がぼやいております。
そんな小さいことだけはやるんだな・・・あほくさ・・・。

で・・・明治6年の宮殿火災もナレで終了・・・。

疲れている西郷どんが倒れてしまいました。
2日たっても、長屋の家で療養です。
病院行かんの・・・??
心臓が弱っているんだそうだ・・・。

最近、熊吉に優しくしてくれる長屋の女性がいるんだけど、そんなんもどうでもええんだわ・・・。

西郷どんが休んでいても、留守政府は仕事をしていました。
って、当たり前ではないの??
それとも独裁か・・・??

そこへ、予定より8か月遅れて大久保利通が帰ってきました。
さしたる成果も揚げられずに・・・肩身の狭い帰国でした。
って・・・いくら成果がなくっても、その間、どんな成果をあげようとしていたのかもすっぽり抜けて・・・現代の議員の海外旅行のようになっています。

で・・・みんなと対立!!

その話も、まるで大久保さんにいけずをするいじめっ子のようで・・・なんかこんな対立見たくないって感じ。
大久保さんの席はないって・・・ほんと、いじめだわな・・・。
ちゃんと政治で対立しろよな~~!!

大久保が西郷どんを訪ねて長屋にやってきました。
諸外国で見たあれやこれやを話し、みんなにないがしろにされたことを西郷に訴え、みんなをやめさすように言う大久保・・・も、いじめメンバーと同じ・・・同じ穴の狢・・・
どうしてみんなを辞めさすのか??そこを、権力闘争なら、もっと権力闘争らしくしてくれよ~~!!

西郷さんは、当時過労ではなく、すでに病気でした。
同じ病気にするのに、過労なんてどうして嘘をつく必要があるの・・・??

don
















もしかして、これが激突なのか・・・??

いきなり、政府にの要らん!!薩摩に帰れ!!と大久保に言い出す西郷。。。
何で怒ってんの・・・??
そう・・・これが激突だったんか・・・??
げ~~!!

復帰した西郷どんの前に、いきなり朝鮮問題が・・・!!
なんだか朝鮮が日本の悪口やっているし、国交ないから棚上げにしてきたけど朝鮮国へ攻め込もう!!手放しになっていました。
??現代の話??棚上げ、棚あげ、現政権と変わんないじゃん??
と思っていても、「征韓論」に話がいくかと思いきや・・・
朝鮮に渡っている居留民2000人が心配だという話が唐突に出て来ました。
2000人って何??何の話なん??
2か月の話し合いの末、隆盛の朝鮮派遣で内定するのでした。
後は上奏を待つだけ・・・!!

あ・・・いきなりカステラです。
おにぎりでないんかい??誰が食べとんねん??と思っていたら、大久保の息子でした。
家長の許しもなく家にあげてええんかい??と思いつつ・・・。
もうな・・・そんなこんなどうでもよくなってしまったわ・・・。

「相変らず、真っ直ぐなお方ですね。西郷さんは・・・
 それに引き換えうちの人は・・・」byおゆう

もう・・・あげてもらわんでもええよ・・・。
自分の夫を何下げとんねん??

そして、予定より1年も遅れて岩倉使節団が帰ってきました。
仰々しい岩倉具視も、河内弁な岩倉具視ももう結構です。
明治天皇に残念がられ失意の中、なのに遊郭通いです。

そこにいたのは木戸孝允たち長州の面々でした。
政府に自分たちの居場所がないと、愚痴ってます。
そこへやってきたのは大久保利通でした。
ああ・・・大久保さんはこんな遊郭で仕事とは関係ない人でいてほしかった・・・。

西郷どんの朝鮮派遣はどうなっているのか???
詰め寄る西郷にアタフタする三条実美・・・逃げる!!

そして、決定されていた西郷の朝鮮派遣・・・大久保と岩倉の陰謀により、再考することとなりました。

don2















「大久保の目はもはや、これまで見交わした友の目ではありませんでした。
 今宵はここらでよかろかい。」byナレ

って・・・ええんかい・・・??

いや・・・この時代の人々は、もっと、日本の未来を考えていたはず・・・
生みの苦しみを味わっていたはず・・・
そんなこんなを書かずに、ただのいじめっ子が入れ替わってのいじめ合戦のような征韓論にもう、開いた口がふさがらないわ・・・。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

大河ドラマ 軍師官兵衛 総集編 [ 岡田准一 ]

価格:8,208円
(2018/12/1 10:51時点)
感想(0件)

500円クーポン発行中!大河ドラマ 元禄繚乱 完全版 第弐集 DVD-BOX 全6枚セット DVD

価格:19,440円
(2018/12/1 10:51時点)
感想(1件)

このページのトップヘ