日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:天下布武

天下取りへの第一歩、桶狭間の戦い・・・織田信長が、今川義元の大軍を打ち破った奇跡の逆転劇です。
しかし、実は信長には用意周到な作戦があったのでは・・・??
どうして桶狭間の戦いに勝てたのでしょうか??

レジェンド&バタフライ



1560年、27歳の時、桶狭間の戦い!!
この頃、織田家が支配する周りは、敵だらけ・・・!!
危機的状況を打開するために織田家の長男として育てられた信長。
しかし、期待外れの変わり者とみられていました。
信長公記には、従来の信長の姿が描写されています。

”いつも着物の袖を外し、短い袴をはいただらしない格好で、特に見苦しいには街中で栗や柿、うりをかじりつき、人に寄り掛かり、ぶらぶら歩いている”

大うつけ・・・大バカ者と噂されたといいます。
その後、父の病死で当主となった信長・・・
うつけ者が、どうやって強大な今川軍と戦ったのでしょうか??
従来、桶狭間の戦いのきっかけは、今川義元が京の都にのぼろうとしたためだといわれていました。
江戸時代初期に記された信長公記には・・・

”今川義元は上洛し、国家の政治を正すため兵を挙げた”

その為、今川義元が尾張に進軍してきたというものです。
さらに、桶狭間で信長が勝った理由は、これまでは奇襲攻撃だといわれてきました。

”敵の後ろ側へ迂回して移動しろ
 旗を巻いて忍び寄り、義元の本陣を攻めろ”

信長軍は北へ迂回しながら今川軍に見つからないように丘陵地帯を進み、桶狭間に展開する義元本陣を急襲したというものです。
しかし、近年、研究者が記録を総合的に見直すと、全く異なる戦いの姿が浮かんできました。

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事の発端は、桶狭間の戦いの7年前・・・信長が、19歳で家督を継いだことでした。
それを知った義元は、

「信長はうつけと聞く
 今が大高城を手に入れる好機!!」by義元

大高城は尾張でも大きく重要な城でした。
そこを義元は奪い取ります。
大高城を手に入れたことで、義元は織田家の領地を南北に両断!!
しかも、この大高城は伊勢湾の目の前にあり、海上交易の利益を得られます。
大高城を奪ったことで、織田の経済力に打撃を与えたのです。
また、大高城と同じ年、義元は同じく伊勢湾に面した鳴海城も手に入れ、経済的支配を確固たるものにしました。
信長は絶体絶命の危機・・・!!
しかし、義元の策を読んで、戦略を練っていたのです。

桶狭間の年の前年、1559年26歳の時、信長は大高城のそばに2つの付城・・・丸根砦と鷲津砦を作ります。
さらに、北に3つの砦を作りました。
大高城と鳴海城を砦で囲み、今川軍の兵糧の運び込みを妨害、義元が大高城を助け出陣すせざるを得ない状況を作ったといわれています。
義元が出てくることを見越していたからこそ、付城を作って包囲して、攻め立てたことがきっかけで義元が出てきたのです。
今までのイメージとは違い、信長の方が自ら仕掛けていって義元を誘い込んでいたのです。

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1560年5月12日、今川義元出陣!!
大高城救援に向かう義元・・・道中にあったのが桶狭間でした。
この時、清州城で戦況をにらんでいた信長は、5月19日早朝、出陣!!
向かったのは、鳴海城東に位置する善照寺砦でした。
この砦は、これまで鳴海城を監視する砦と考えられていました。
ところが、砦の構造を丁寧に検証すると・・・
鳴海城の反対側の山の端っこに作った城だったことが分かります。
つまり、善照寺砦からは鳴海城が監視できないのです。
その代わり、南東の方角が一望出来ました。
善照寺砦の南東方面・・・それは桶狭間でした。
信長は最初から、今川軍の行動を読んで、桶狭間方面を監視するためにこの砦を設置してたのです。
今川の軍勢が尾張に向かってやって来れば、いち早くそこでキャッチできる監視塔のような役割を果たしていたのが善照寺砦でした。

記録によると、信長はここで2時間ほど動いていません。
信長が善照寺砦に到着したころ、すでに鷲津砦・丸根砦が今川先陣によって落とされていました。
この状況で信長が桶狭間に向かえば、大高城にいる今川軍に背後をつかれる恐れがありました。
また、最も重要だったのは、義元が今どこにいるのか??という情報でした。
戦全体を一望できる善照寺砦から、大高城の今川軍が動かない・・・義元は桶狭間にいるという二つの条件を見極めていたのです。

さらに、信長は運も味方につけていました。
二つの砦を落した今川軍は、人馬を休め、休憩。
この時、急に天候が激変し、豪雨が降りだしました。
今川軍は雨の中、動きが鈍くなり、火縄銃なども火薬が湿って使えない状況でした。
織田軍は砦に待機し、雨が上がるのを待っていました。
しばらくすると一転、晴れ渡る空~~!!
その時、信長は、

”空が晴れるのをご覧になって、信長は槍をとって大声で「さあ、かかれ、かかれ」とおっしゃった”

織田軍は、砦から2000の兵で正面攻撃!!
今川軍は総崩れ・・・義元は討ち死に!!

桶狭間の戦い・・・それは、奇跡の逆転劇ではなく、用意周到な戦術家・信長が起こした必然の勝利かもしれません。

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1568年、35歳の時、桶狭間の戦いの8年後、信長は室町幕府の将軍候補・足利義昭と共に上洛。
従来、天下統一のため将軍を利用したとされてきました。
明治期の歴史書には・・・

”信長の上洛は、義昭のためではなく足利氏の代わり天下を平らげんとする意味”

その後、義昭を京から追放し、それに代わって自ら権力を握った事実から、信長のイメージは伝統的秩序の破壊者に・・・!!

ところが、近年の研究では信長の違った一面が見えてきています。
どうして将軍・足利義昭と共に上洛したのでしょうか??

1568年、35歳の時、信長は足利義昭と共に上洛。

”将軍上洛のともとして織田信長が参陣する”

しかし、この発見された書状の年を見てみると、永禄9年となっています。
信長は、実際の上洛の2年も前から義昭と共に京を目指す計画を立てていました。
しかし、永禄9年の時点では、桶狭間の戦いで今川義元に勝利したとはいえ信長の周囲は強敵ばかり・・・
いつ攻められてもおかしくないため、上洛など考える余裕はありませんでした。
しかし、信長はそんな状況の中でも、義昭と共に上洛することを考えていました。
信長にとって、義昭と上洛することはどんな意味があったのでしょうか??

1467年、応仁の乱・・・京で始まった権力争いは、全国を巻き込む戦乱へと発展します。
室町幕府は衰退の一途をたどっていきます。
そんな中でも信長は幕府の権威を重んじていたことを示す記録が残っています。
上洛の5年前に書かれた室町幕府の家臣の名簿・・・
その中に、”織田尾張守信長”の名が・・・!!
信長も、将軍を支える大名のひとりだったのです。
権威を重んじる信長が、上洛を目指した目的・・・それは、室町幕府の再興を図ったからです。

信長は、特に中央が維持された中で、「自分の領国があるんだ」という考え方の人物でした。
中央も鎮まるべきだという考えから、積極的に動いて行きました。
伝統的秩序に対する信長の思い・・・
新たに見直されている言葉「天下布武」!!
信長が用いたスローガンで、”天下に武を布く”と読めます。
自分の書状に、この正印を押した信長・・・
これまでは、「天下を武力で我がものとする」という意味で捉えられてきました。
しかし、この天下布武・・・当時の使われ方は・・・??
天下・・・今では日本全国という意味ですが、戦国時代、日本に滞在した宣教師ルイス・フロイスは、「五畿内の領主は、天下の領主と呼ばれる」
つまり、天下とは、全国ではなく、京都周辺の地域(京・山城・摂津・和泉・河内・大和)を示しているのです。
もう一つの手がかりが、”天下静謐”という表現です。
上洛後の信長が、足利義昭への手紙で使った言葉です。
「天下」すなわち「五畿内」に将軍を置き穏やかに治めることを理想としているのです。
これらの事実から、天下布武の意味を読み解くと・・・

”武力という手段を使ってでも五畿内の平和的秩序を目指す”

というスローガンとも取れるのです。
実際に信長のやったことを見ていくと、乱れていた中央を鎮めるという意味合いが一番強い・・・
安泰を維持していく、そういう世の中を求めていたのです。

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1568年9月、35歳の時に4万の軍勢を率いて京へ!!
立ちはだかる敵を蹴散らします。
遂に、義昭と共に念願だった上洛を果たしました。
10月には、信長の軍事力を背景に、義昭が征夷大将軍に就任。
その後、信長が政権内で担当したのは、義昭が行う行政の監査、京の町の治安維持・・・
あくまで財政や守護の任命などの内政面は、義昭が担当しました。
二人は補い合う関係でした。

しかし、蜜月の時は長くは続きませんでした。
上洛からわずか2年・・・信長の怖れていたことが起こります。
越前の大名・朝倉氏の反逆をきっかけに、畿内周辺の有力大名や寺社勢力が信長に反旗を翻したのです。
これに対し、信長は戦を重ね、支配地域を拡大!!
勢いを増す信長に、義昭は不安を抱き始めます。
やがて二人の関係に亀裂が生じていきます。
将軍義昭は、信長と組んで気付いたら周りが敵対者に囲まれてしまっている!!
自分も共倒れになってしまうんではないか??
そんな中、徐々に信長とのすれ違いが生まれてきます。
これに対しの信長は、義昭のふるまいを非難した意見書を送ります。
十七箇条の意見書です。
義昭の怠慢や悪政を、十七条にまとめ、厳しい言葉で忠告しています。

・忠勤の部下を大切にせよ
・えこひいきがあってはならない
・世間から悪しき御所と陰口をたたかれている

信長としては、中央を治める将軍なんだから、しっかりしなさいということを求めていました。
義昭からすれば、不信感の上に、説教まで・・・!!と、怒りが増大してきていました。

上洛から5年後の1573年、信長40歳の時、義昭は信長に対し挙兵。
しかし、信長の圧倒的軍勢の前になすすべなく和睦するほかありませんでした。
信長は、義昭を都から追放。

「命を助けて後世の人々の評価に委ねようと、恨みを恩で返すつもりで送り届けた」

伝統的秩序の破壊者という信長のイメージ・・・
しかし、その実像は、室町幕府再興を願う武将だったのかもしれません。

将軍を京から追放し、戦を重ねて領地を広げた信長・・・
その強さを支えたのは卓越した経済力でした。
信長は、これまでにない経済政策を次々と打ち出していったパイオニアだといわれてきました。
しかし、そのほとんどは、他の武将のマネだったことがわかっています。
信長は、どうやって経済を発展させたのでしょうか??
楽市楽座とは、これまで商人たちが商売を行う際に、土地の所有者に払っていた税を廃止し、組合に入らなければ商売ができなかったものを緩和、自由な商売を認め、経済を活性化させたものです。
歴史の教科書でも信長の経済政策として取り上げられるので、革新的なイメージと相まって、信長発案の印象がありました。
しかし、近年、戦国時代の都市や政策の計画の研究が見直され・・・
楽市楽座は、信長が実施する以前からありました。
現在残る文献では、近江の戦国大名・六角義賢が1549年に楽市令を出していることが確認されています。
信長が岐阜で初めて楽市政策を始める18年も前のことです。

さらに、今川氏の楽市令・・・信長が楽市楽座を行う前年の1566年に出されています。
治安の悪化で活気が減った富士大宮の市に対して税をとらない楽市にすると書かれています。
こうした先人たちの試みである楽市楽座を信長が取り入れたのは、当時解決しなければならない課題があったからです。
流通経済の乱れ・・・特に、拠点となるところを通らずに、流通が展開してしまう・・・!!
信長としては、戦争が終わった状況でそれを再興していく必要がありました。
足利義昭を追放したのち、世の中の安泰を望む信長にとって、戦によって乱れた町と、流通経済の復興が必要だったのです。
信長は、以前からの楽市政策に、ある改良を加えて城下町の復興を活かします。

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1567年、信長が34歳の時に岐阜城下に楽市楽座令を出します。
最初の条文にこう書かれています。

”この市場に移住するものについては、国内の流通を保証し、税を免除する”

城下に移住する商人たちに限って税を免除!!
定住する人を増やして、城下が栄えることが目的としたのです。

自分の支配地域だけで、戦に必要な物資が全て集まることは、各地で戦っていた信長にとって大きなメリットでした。
そして信長は、経済力を高めるため、当時の日本随一の港・堺に目をつけます。
堺は当時、海外貿易で巨万の富を得ていました。
中国・明との貿易では、1回の航海につき2万貫(20億円)の利益が出ていたともいわれています。
当時の戦国大名の多くは、土地を獲得して年貢による収益を得るのが一般的でした。
しかし、信長は、領地拡大だけでなく、港に目をつけ、貿易での商人たちから税をとることで、収入を増やしました。
さらに貿易港・堺を押さえたことは、戦にも有利に働きます。
その効果が分かる戦いが・・・
1575年、信長42歳の時、武田勝頼の軍と対峙した長篠の戦いです。
織田軍が鉄砲を駆使し、武田軍に勝利したことで知られています。
2019年、合戦場の発掘調査で、織田軍の武器から驚くべき特徴が浮かんできました。
織田軍の鉄砲の玉・・・成分調査をすると、東南アジアの鉛の成分が出ました。
鉛は加工が簡単で、銃弾を大量生産できるため、鉄砲の玉に適した材料です。
しかし、日本ではあまり取れず、十分な量をとるのが難しい素材です。
信長は、堺の貿易ルートを使って、東南アジアから銃弾の原料となる鉛を大量輸入していました。
さらに、このルートで、国内では手に入らない硝石・・・火薬の原料も同時に手に入れていました。
硝石は、国内では取れません。
それを押さえているのは堺の港・・・信長は当然硝石の独占権を握ることとなります。
鉛の弾を輸入していた港は堺・・・堺を押さえていた信長が、圧倒的に鉛も手に入れていました。
武田は鉄砲はありましたが、火薬は作れないし鉛の玉もない・・・
鉄砲はほとんど使えませんでした。

たとえ改革の先頭を走らなくても、先人の成功を取り入れ、プラスアルファ―を加えることで、ライバルを上回る・・・それが織田信長でした。

元は尾張の大名にすぎなかった信長・・・
46歳の頃に安土に居城を移し、所領を大きく広げていました。
その躍進の原動力となったのが、身分にとらわれず重用した家臣たちです。
羽柴秀吉は低い身分から家臣となり、明智光秀は足利将軍の側近の出身、滝川一益に至っては忍者だったという逸話もあります。
一方で、結果が出なければ追放もある厳しい実力主義は、家臣たちとのゆがみを生んでいきます。

1579年、46歳の時に安土城が完成。
信長は安土城に身を置き、各方面の統治を自らの有力家臣たちに任せるようになります。
広い領国を、ひとりでは見切れないためです。
この時信長は、家臣たちに厳しい統治のルールを課します。
柴田勝家らが越前を治める際に、信長が勝頼に送った書状が信長公記に残っています。

”不法な税は取るな
 ただし事情がある場合は我々に尋ねよ
 そして裁判は公正に
 双方が納得しないようなら、我々に伺いを出して判決せよ”

そして、各地を治める家臣たちのもとに与力と呼ばれる信長直属の配下たちを監視役、目付として付けました。
信長は、部下を監視し、支配に揺るぎがない体勢を築いていこうとします。
しかし・・・お互いを離反させるような、仲良くさせないような仕掛けが多すぎて、織田か診断の中がぎすぎすしていました。
そこが、信長流人事の欠点でした。
そして、仕事ぶりがよくない家臣を罵倒!!
信長の父の時代から織田家に仕えていた尾張出身の重臣・・・佐久間信盛。
佐久間は、本願寺と戦う前線の指揮官でしが、目立った功績はあげていませんでした。
そこで信長が、佐久間信盛に送りつけた手紙には・・・

”丹波は明智が平定し、目覚ましい活躍をしている
 秀吉も数カ国で”功績をあげている
 それに引き換えお前は、5年間、感心する功績を一度もあげていない
 剃髪して高野山へ行け”

信長は、他の武将の名を上げて、佐久間を激しく批判します。
そしてこの手紙ののち、佐久間信盛は追放・・・2年後に、失意のうちに亡くなります。

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さらに、この状況に不安を抱いた人物がいました。
明智光秀です。
光秀は、佐久間が指揮していた本願寺攻めに参加。
祖の指揮官であった佐久間が追放処分になっていることが、穏やかではありませんでした。
手柄なき者は去れという露骨な人事・・・
武将達の神経を逆なでするようなことも、平気でやるのがこの頃の信長でした。

実力主義の信長軍団・・・しかし、一方でこの頃から信長は、長男・織田信忠に家督を譲り、次男・織田信雄には伊勢を与えるなど、息子たちを重用し始めます。
こうした信長の対応は、家臣たちの間にほころびを生んでいきます。
荒木村重、松永久秀といった家臣たちは、織田家の中での立場を不安視・・・
信長に対して反旗を翻しました。
そして、家臣の恐怖や不満が、形に立って現れたかのような事件が起きます。

本能寺の変です。

京の本能寺に滞在していた信長を、家臣・明智光秀が襲いました。
本能寺は炎の包まれ、信長はこの世を去りました。
1582年・・・織田信長死去、享年49歳。

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室町時代後期・・・11年もの長きにわたって続いた内乱・応仁の乱によって、室町幕府の権威も、朝廷の権威も失墜・・・
そんな荒廃した京の都に天下布武を掲げた男がやってきました。
戦国の革命児・織田信長です。
そして、この信長に、朝廷の復権を託したのが、第106代正親町天皇でした。

正親町天皇が、践祚・・・天皇の地位を受け継いだのは、1557年・・・41歳でした。
しかし、即位の礼が行われたのは、それから3年後の1560年でした。
どうして即位の礼はすぐに執り行われなかったのでしょうか?
即位の礼には、莫大な費用が必要でした。


室町時代、朝廷はそうした行事の資金調達を幕府に頼っていたのですが、応仁の乱が1467年から1477年も続いたことで、幕府の権威が失墜。
財政も逼迫し、その力を頼ることもできなくなっていたのです。
しかも、幕府の力が弱まったことで、御料地(皇室所有の土地)からの収入である年貢が朝廷に入って来なくなりました。
力をつけた諸国の大名たちが後領地を支配し、横領していたからです。
こうして朝廷自体の財政も困窮していたため、正親町天皇の祖父に当たる後柏原天皇は、践祚から即位の礼まで21年、父である後奈良天皇は即位の礼まで9年執り行えませんでした。
後奈良天皇に至っては、直筆の書を売って、生活の足しにしていたと伝えられています。
そして、応仁の乱の終結からおよそ80年・・・正親町天皇の世となっても御所の崩れた塀が直せずに、二条の橋の上から御所の中のあかりがみえたといわれるほど経済的に困っていました。
応仁の乱によって、朝廷及びスポンサーである幕府が税制難に陥っていたため、正親町天皇の即位の礼を執り行うことができなかったのです。
践祚から3年後の1560年・・・安芸国の戦国大名・毛利元就から、銭2千貫(約3億円)の献金を受け、即位の礼を執り行います。

幕府の権威が回復すれば、おのずと朝廷が持ち直す・・・
それを好機とみたのが大名達でした。
大義名分を得て、京の都に自らの力を示すことで、乱世を優位に勝ち抜こうと考えました。
その一人が、天下を狙う織田信長でした。
桶狭間の戦いで、今川義元を討ち、その名を天下にとどろかせた尾張の戦国大名・織田信長は、虎視眈々と上洛の機会を伺っていたのです。

1565年5月19日、前代未聞の事件が起こります。
畿内を支配していた三好長慶の養子・義継ら三好勢が、将軍御所を襲撃・・・!!
室町幕府13代将軍・足利義輝を殺害してしまったのです。
これによって、次期将軍候補となったのが、当時、興福寺・一条院門主で義輝の弟・覚慶(足利義昭)でした。
しかし、暗殺事件から3年後、14代将軍についたのは、三好勢が擁立した義昭の従兄弟・義栄でした。
そんな中、義昭に味方する者が現れます。
織田信長です。
天下取りの為、上洛したい信長は、義昭に付き従っていくという大義名分を得て、京の都に登ろうとします。
この時、信長は、朝廷の権威回復を命じる綸旨を正親町天皇から直接賜わることで、大義名分を得ていたのです。
その綸旨は特別なものでした。
臨時のあて先は、幕府の管領か、大名縁故の公家に限られていました。
当事者の大名に、直接充てられることは、異例のことだったのです。
この信長に宛てた綸旨が、個別大名あての綸旨の最初の事例となったのです。
信長は、帝に頼りにされていたのです。

足利義昭につき従い、朝廷の権威を回復するためという大義名分を掲げた信長は、6万の兵を率いて京の都へ・・・!!
義昭と信長が、都に近い摂津国の芥川城に陣を構えたことを知った正親町天皇は、”めでたき”として、勅使を派遣、義昭には太刀を、信長には酒などを贈りました。
こうして、1568年9月、信長はついに上洛を果たします。
すると、間もなくして、将軍・義栄が病死・・・
これによって、義昭が15代将軍に就任するのです。
将軍宣下を下したのは、正親町天皇でした。
その後、信長は御所を修繕、さらに、正親町天皇の皇子・誠人親王の元服費用も差し出します。
その金額・銀1万疋(1200万円)・・・これは、信長が天皇から賜った綸旨の中で命じられていたことでした。

正親町天皇は、美濃を平定した信長を、”古今無双の名将”と褒め称えたうえで、宮廷費用の献上を求めています。
具体的には、禁裏御料(美濃・尾張)の回復と、嫡男の元服費用の献上でした。
大義名分を得、上洛を果たした信長は、正親町天皇の望みを叶えることで、礼をつくしたのです。
この時、正親町天皇52歳、信長35歳、自らの目的のために、互いを必要としている二人でした。

信長は、正親町天皇の望み通り、各地の大名に支配されていた御料地や公家の領地を取り戻しました。
さらに、公家が借金を返さなくていい徳政令を発布するなど、朝廷の財政回復に貢献していきます。
1570年には、21カ国に及ぶ大名に、禁裏御修理・武家御用を理由に、上洛して朝廷と幕府に三礼すべきという旨の書状を送ります。
この要請に、多くの大名が応じるも、中には拒む者もいました。
越前国の戦国大名・朝倉義景です。
そこで、信長は、朝倉攻めの為、京の都を出発・・・
すると、この信長の出陣に当たり、正親町天皇は
”内侍所に祈祷を命じる”
など、信長の為の戦勝祈願を行います。
具体的には、御所の内侍所だけではなく、石清水八幡宮でも大規模に戦勝祈願を行っています。
戦国時代、朝廷は中立を保っていたので、天皇が戦勝祈願をすることは久しくありませんでした。
このことから、正親町天皇が信長を信頼し、天下を取る人物と見込んでいたことがわかります。



ところが、朝倉攻めの途中、信長は同盟関係にあった北近江の戦国大名・浅井長政の裏切りに遭い、いったん京の都に逃げ帰ります。
そして、軍勢を立て直し、今度は裏切った浅井攻めに向かいます。
その信長に、正親町天皇は使者遣わしこう述べます。

”今日 出陣の由 聞こし召され やがて本位に属し 上洛待ち思し召しの由”

この天皇の言葉に対し、信長は

「たとえ近江に滞在しようと、また、美濃に帰ったとしても、今進めている禁裏修造については、奉公たちに堅く申し付けるのでご安心ください
 やがて上洛いたしましょう」

そう天皇に伝えるよう頼んだといいます。

信長が危機に瀕した際に、正親町天皇は見限らなかったのです。
このやり取りから、2人の関係は揺るがないものだったと思われます。
信長はこののち、正親町天皇に何度も救われることになります。

1573年8月・・・信長が浅井攻めを行ったその年の8月・・・
勢力回復を目指す三好勢が摂津国で挙兵。
信長は、将軍・足利義昭と共に出陣!!
6万の軍勢で三好勢を圧倒するも、浄土真宗の大坂本願寺が突如挙兵したことで形勢が逆転!!
本願寺に呼応して、浅井・朝倉が出陣!!
さらに、甲斐の虎・武田信玄も信長打倒に乗り出しました。
これによって、義昭・信長連合軍は、三好・本願寺・浅井・朝倉・武田などに包囲されてしまいました。
窮地に立たされた信長・・・
そんな信長の様子を知った正親町天皇は、勅書を出します。

”天下静謐のために 公方(将軍)の義昭が出陣している
 また 信長も同然である
 それなのに、一揆をおこし 敵対しているとのこと まことに不相応のことである
 早々に戦いをやめるように”

天皇から本願寺に停戦命令がでたのです。
しかし、この勅書が本願寺に届くことはありませんでした。
というのも、信長が大坂本願寺を相手にしていたことで、近江の守りが手薄に・・・
そのすきを突き、浅井軍が南近江を攻め、山城国に入り、山科・醍醐の集落に放火・・・
勅使が大坂に向かうことができなかったのです。

その後、戦は長期化・・・京の都を守るために、正親町天皇は再び勅書を出します。
これによって、信長は、浅井・朝倉と和議を結ぶことに成功するのです。
信長が天皇に頼ることで、天皇を和平の調停役にしました。
以降、信長は、危機に陥るたびに正親町天皇の力を借りて立ち直るのです。
これに対して天皇は、信長から何を得ようとしていたのでしょうか??
それは、”天下静謐”でした。

1573年、将軍・義昭が信長を見限ります。
反対勢力についたことで、またもや信長は窮地に立たされます。
和議を申し出るも、義昭は二度も拒否。
結局、この時も正親町天皇の勅命で和議が成立します。

窮地を脱した信長は、最大の脅威だった武田信玄が病で死去すると反撃に出ます。
京の都から義昭を追放、室町幕府を滅亡へと追い込みます。
さらに信長は、長く続いていた大坂本願寺の戦いでも正親町天皇の勅命を利用し、和議が成立。
こうして正親町天皇は、信長を信任し、後ろ盾となることで戦国時代を終わらせようとしたのです。
正親町天皇は、まさに信長の保護者だったのです。

正親町天皇、信長と対立!!
権威を失墜し、財政も逼迫していた朝廷を、なんとか立て直したいと考えていた正親町天皇・・・
朝廷の威光を利用して、天下をその手に治めたい信長・・・
互いの望みを叶えるため、蜜月の関係を築いていました。
しかし、そんな2人の関係に水を差す行動を信長がとります。
1569年、正親町天皇は、日本に伝来したキリスト教を排除する綸旨を出していました。
それにもかかわらず、信長はポルトガルの宣教師ルイス・フロイスと面会。

「帝や公方の意向を心配する必要なし
 すべてはこの信長の権限の中にある」

信長は、キリスト教布教の自由を保障しました。



さらに、信長は、東大寺・正倉院に収蔵されている天下第一の名香・蘭奢待を切り取ってしまいます。
蘭奢待は、奈良時代に唐から聖武天皇の手に渡ったと伝わっています。
その文字の中に、東・大・寺の名を隠した雅な呼び名がつけられた蘭奢待は、権威の象徴とされ、時に権力者が求めてきました。
しかし、正倉院は、勅封・・・天皇の命により封印されていると天皇の許可なく開けることはできないとしていました。
信長が、正倉院の蘭奢待を切り取ったことに関し、天皇は前関白への手紙で
”今度 不慮に勅封を開かれ候て・・・”
そう記したことから、蘭奢待切り取りは天皇の本意ではなく、信長が強引に正倉院を開けさせ行ったことと言われてきました。

しかし、手紙には続きがありました。

”聖代の余薫をおこされ候 この一炷にて、老懐をのへられ候はゝ祝着たるべく候”

切り取った蘭奢待を楽しんでほしいと書かれてあったのです。
もし天皇が、信長による蘭奢待切り取りを忌々しく思っていたならば・・・こんなふうには思っていないでしょう。
信長は、事前に正親町天皇の許可を受け取っており、朝廷が勅使を派遣し、勅封を開けています。
そして、東大寺の大仏師によって、一辺3センチ四方に2個切り取られたものを、信長は待っていた多門山城で受け取っています。

武力で強引に開けておらず、威圧することなく、謙虚に振る舞い、慣例に従って勅封を開けたのです。
この時、信長は切り取った蘭奢待の一つを正親町天皇に献上しています。
そして、天皇はこれを受け取っているのです。

正親町天皇、信長に譲位を迫られる!!
1573年、織田信長は、正親町天皇に進言をします。

「譲位されてはいかがでしょうか?
 勘定はこの信長が献上いたしますゆえ」

これについても、正親町天皇が邪魔になった信長が強く譲位を迫り、天皇と激しく対立したと言われてきました。
ところが、近年、天皇から信長への宸筆の返書が発見され、事実と異なることがわかってきました。
正親町天皇宸筆による信長への返書には、こう書かれていました。

”譲位は後土御門天皇以来の望み”

正親町天皇も譲位を望んでいたというのです。
”譲位は、後土御門天皇以来の望みであり 久しく叶わずにいたところ この度の申し入れは奇特であり 「朝家再興」の時である”

実は、1464年、後花園天皇が後土御門天皇に譲位して以来、正親町天皇の世になるまで100年以上もの間譲位は行われていませんでした。
応仁の乱以降、財政がひっ迫し、即位の礼や大喪の礼でさえ行えずにいた朝廷において、譲位などもってのほかだったからです。
まず、譲位の儀式に多額のお金がかかります。
そして、譲位して上皇が成立すると。上皇の住まいとなる仙洞御所を整えなければならなくなります。
そして、上皇と天皇、二重の行政組織を敷く必要があったのです。
戦国時代はそんな余裕はありませんでした。
莫大な費用が掛かるため、長年できなかった譲位が再び行えるならば、朝廷の権威が回復すると考えたのです。

しかし、この後、伊勢国に一向一揆、武田氏との長篠の戦いが起きるなど、信長が各地に出陣しなければならなくなったため、攘夷は実現しませんでした。
譲位の話が再び持ち上がったのは、9年後のことです。
1581年、安土城下で厄除けのお祭りである左義長(信長の当時は爆竹をならし馬を走らせた)を行った信長は、これを京の都でも実施しようとします。
すると、朝廷から観覧したいという陽性が来たため、京都御馬揃え・・・軍事パレードを行うことにします。
この馬揃えの準備を任されたのが、明智光秀でした。
織田一門総勢6万の面々が行列を作って本能寺から正親町天皇が待つ内裏まで、6時間もかけてパレードを行いました。
観客はおよそ20万・・・天下統一目前の信長の力、その勢いに京の民衆や武将たちも改めて驚かされました。
この時、正親町天皇は、信長を左大臣に任じようとします。
朝廷は高い位を信長に与え、朝廷の権威回復にもっと尽力してもらおうと考えていました。
ところが、信長はこれを断わります。

「譲位と即位の礼が済んだのちにお受けいたします」

こうして再び、譲位の実行が検討されることとなります。
譲位について朝廷が陰陽師に占わせたところ、

”御譲位のこと 当年は金神によりご延引きの由”

陰陽道で金神は、包囲の神とされ、金神のいる方角への移動や移転は凶でたたられると言われていました。
譲位をすれば、誠仁親王の二条御所から禁裏御所への移動は金神のいる方角に当たっていました。
朝廷は今回の譲位を断念・・・また、先送りとなりました。



1582年、織田信長は正親町天皇が望む譲位をいまだ実現できずにいました。
しかし、朝廷の権威回復の為尽力し続けていました。
応仁の乱以降、久しく途絶えていた伊勢神宮の神事・式年遷宮(新しい社殿を作りご神体を遷す神事)復興もその一つです。
銭3千貫という大金を寄進します。
その後も、必要に応じて寄進すると正親町天皇に申し出ます。
この時、伊勢神宮の内宮の遷宮が120年ぶりに復興されました。
信長が寄付をするときには気前が良く、多めに寄付しています。
石清水八幡宮、熱田神宮にも多額の金銭を寄進して保護しています。
そんな信長に、正親町天皇と朝廷も応えます。

1582年武田氏滅亡・・・
すると、凱旋した信長に、朝廷が官職を与える三職推任の話が持ち上がります。
三職とは・・・関白、太政大臣、征夷大将軍のこと・・・。
それらのいずれかに信長を任じようというのです。
朝廷側の公暁・勧修寺晴豊、京都所司代・村井貞勝との間で非公式の会談が行われました。
結果は・・・晴豊の日記には・・・

”関東を討ち果たされて珍重なので将軍に任じたいと申し入れるための使者である”

このことから、朝廷は信長を将軍に推認することを決定しました。
武田氏を滅ぼし、北条氏も信長に従属していたため、関東を平定したことになり、将軍宣下の条件が整ったのです。
信長が、征夷大将軍に任じられれば織田幕府が誕生することになったのですが・・・
実現しませんでした。

この年・・・1582年6月2日、信長の家臣である明智光秀が、謀反を起こしたからです。
本能寺の変です。
これによって、信長は命を落とします。
49歳でした。

この時、信長が無くなってしまったため、官職の推任に対する信長の考えや、政権構想についてもわかっていません。
ただ、正親町天皇と信長の関係は、最後まで極めて良好だったのです。
信長は破壊者の側面が強調されてきましたが、実は勤王家で、伝統と格式を重んじる保守主義者でした。
天皇の後ろ盾による武家政権を打ち立てることを目指していたのではないか??と思われます。



10月・・・正親町天皇は、信長に太政大臣従一位を送っています。
朝廷の財政・権威回復に力を尽くしてくれた信長への最大のねぎらいと敬意の証だったのかもしれません。
そして、正親町天皇は、信長の仇である光秀を討った羽柴秀吉に太刀を贈っています。
秀吉は、信長の後継者としての地位を確立・・・
天下統一に邁進します。
そして、信長が実現できなかった正親町天皇の譲位の準備もまた引き継ぐのです。

織田信長が実現できなかった正親町天皇譲位の準備は、羽柴秀吉に引き継がれ、着々と進められていきます。
1584年、秀吉は「仙洞御所」の造営を開始、その建築費用や即位費用など(銭1万貫・15億円)の拠出を約束します。
こうして、朝廷は、政治的にも経済的にも安定。。。
譲位の準備も進み、悲願だったその日を正親町天皇は心待ちにしていました。
しかし・・・度重なる不幸が襲います。
1585年11月29日深夜・・・M8ともいわれる大地震が発生・・・近畿・東海・北陸を襲います。
正親町天皇のいた京の都は御所を含め大きな被害はありませんでしたが、被災地の被害は甚大で、多くの犠牲者が出たことを知ると、天皇は大井にうれいたといいます。
さらに・・・1586年7月24日、正親町天皇のあと即位するはずだった誠仁親王が35歳の若さで薨御。
誠仁親王が亡くなった理由は、”わらわやみ”と言われる間欠熱の一種でした。
あまりに突然亡くなったので、はしか説、自殺説が飛び交いました。

我が子を無くした正親町天皇は、食事が喉を通らなくなるほど深い悲しみに触れました。
譲位はそんな中、行われました。
正親町天皇は、誠仁親王の皇子で孫にあたる和仁親王に譲位・・・こうして・・・
1586年、第107代後陽成天皇が践祚。
11月25日、即位の礼が執り行われました。
正親町上皇この時69歳・・・後陽成天皇は15歳。
実に120年ぶりの譲位でした。

正親町天皇は、30年という在位期間の中で、逼迫していた朝廷の財政と権威を見事に回復させます。
そこに、織田信長という存在は欠かせませんでした。
互いの距離をうまく保ちながら、それぞれの主張を曲げることなく心砕く・・・二人だからこそできたのかもしれません。
江戸時代に入り、朝廷は江戸幕府の統制下におかれます。
しかし、その権威が脅かされることはありませんでした。
それは、朝廷の立て直しに力を注いだ戦国のミカド・正親町天皇の功績だったのでしょう。
1593年、正親町上皇崩御・・・77歳でした。

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戦国の天才・破壊者・第六天魔王・革命児・・・一般に、広く流布された信長のイメージ・・・それは、信長の真の姿だったのでしょうか?
群雄割拠ひしめく戦国にあって、天下統一のもと、武力で日本を統一しようとしました。
しかし・・・従来の姿を見直さなければならない・・・??
”天下布武”の本当の意味とは・・・??

熊本県熊本市2014年に新発見の資料が公開されました。
発見された上洛に関する書状によると・・・
「将軍上洛の共として織田信長が参陣する・・・」
永禄11年に足利義昭を奉じて信長は上洛します。
信長は、自らの野望のために、傀儡としての将軍を担いで京に上ったとされてきていました。
発見されたのはその時の書状ですが・・・史実の上洛の2年前となっていました。

日本各地で群雄割拠した戦国時代・・・京で始まった戦いは、日本全土に広がっていました。
有力大名が力をつける一方で、室町幕府は弱体化して行っていました。

将軍は戦果を逃れるために都を離れることが多かったのですが・・・
当時、将軍が暗殺されたことによって、将軍職は空位となっていました。
そんな中、将軍候補に名乗りを上げたのが足利義昭。
しかし、反対勢力のために、各地を転々としていました。
流浪先から各地の大名に上洛を要請して・・・機会をうかがっていたのです。
義昭の上洛要請は・・・越後の上杉・甲斐の武田・・・有力大名はもとより、遠く薩摩の島津にまで上洛要請をしていました。
果たして大名側にメリットはあったのでしょうか?

軍事力、武力を持っていなかったであろう足利義昭・・・。
しかし、権威はあったようです。

将軍の権威は、戦国時代もあったと考えられます。

①栄典授与の権限
②大名たちの紛争の調停
③偏諱(将軍の名の一字をもらう)
武田信玄晴信の晴、上杉謙信輝虎の輝は、将軍の名の一字をもらっています。

義昭を奉じて将軍に就かせることができれば、権勢をふるうことができる!!
戦の時代であればあるほど、将軍の利用価値、権威の必要性が高くなってくるのです。

将軍の要請の手紙が届いたのは、永禄8年10月ごろに信長の元へ。。。
尾張の守護代の家臣から成り上がった織田家は、出自が低い・・・
大名としての正当性を得る絶好の機会でした。
信長は将軍に対して敬意をはらっていたようで・・・
衰退した室町幕府の再興を・・・室町幕府の秩序を再構築するための上洛だったのかもしれません。
一有力大名としてそれを支えていこうと考えていました。

しかし・・・上洛するにはかなり難しい・・・

①領国経営の安定が最優先
②都に兵を常駐させる必要がある=経済力も必要

永禄九年の書状の頃は・・・
桶狭間の戦いに勝利したものの、隣国美濃との戦いに手を焼いていました。
上洛など出来る余裕はなかったのです。

信長の居城・小牧山城は、美濃との戦いをにらんだ砦と思われてきました。
が・・・ここに信長が上洛を決意した・・・最新式の巨大な石垣が発見されたのです。
石垣など・・・最新式の技術は畿内にありました。
つまり、信長は、畿内の色んな技術・情報を押さえ・・・
そして・・・最新の技術を築くことのできるノウハウを持っていたのです。

城の南側に城下町が・・・当時、戦国大名の軍団を成していたのは農民たちでしたが・・・
信長は・・・つまり、兵農分離・・・専業の武士団を作って、城下町に住まわせていたのです。
農繁期、農閑期に関わらず、いつでも遠征できる軍団を作り上げたのです。
これは、中世から近世への大きな変革でした。
ここに、京都を目指していた意図があると言えます。

尾張の一大名でありながら、上洛の用意を着々とする信長。。。
しかし、事態は信長の思惑通りには行きませんでした。
直前に・・・近江・六角氏が反旗を翻します。
信長は行く手を阻まれ、上洛を断念しなければなりませんでした。
この上洛計画は幻に終わったのです。
そして・・・上洛を果たすのは、その2年後でした。

小牧山城を足掛かりに宿敵・美濃を攻め・・・永禄10年に美濃を平定します。
小牧山城から岐阜城に居城を移した信長は・・・”天下布武”という印を使いだしました。
日本で武力統一をしようという野望をもったという意味に使われてきたとされていましたが・・・
この天下布武・・・
ルイス・フロイスの書簡によると・・・
日本全国の中心である五畿内の主は「天下」と呼ばれ、「君主」を意味するとあります。
五畿内とは・・・京の周りの山城・大和・河内・摂津・和泉の事・・・。
天下の範囲はこの五つの事だったのです。
つまり、天下布武=全国を征服するという意味ではなく・・・
将軍の権威の及ぶ範囲の事で、”将軍の復権”を目指していたのです。

岐阜城でも足利将軍に憧れているという発見がありました。
大規模な庭園が発見され・・・その造園は、足利将軍の庭園様式を踏襲していると言えます。

革新的なイメージの強い信長は・・・伝統や文化を重んじていたようにも思えます。
幻の上洛計画の後も、義昭の上洛野望は続きます。
が・・・将軍候補として義昭の従兄弟・義栄が擁立されます。
もし・・・先に将軍になってしまわれたら・・・と、信長に上洛要請を働きかけます。

「これからは、織田信長をひたすら頼りにしたい。」

信長は、大きな決断に迫られていました。
2年前に失敗した上洛を成功させることができるのか・・・??

そこには、軍事力・経済力・外交力の3つの条件がありました。
美濃を手に入れて軍事力は大きく飛躍、兵農分離によって都に兵を常駐できる、津島湊・熱田湊の流通を支配、浅井・徳川とも同盟関係を結ぶ・・・
上洛の条件は整いつつありました。
上洛を阻む敵は・・・六角に三好・・・武田・上杉などの潜在的な敵勢力にも・・・

永禄11年9月26日、4万の大軍勢で足利義昭を奉じて信長は上洛を果たします。
成り上がり大名の上洛にアタフタする都・・・
しかし、都の人の心配をよそに、信長軍の規律は厳しく都はすぐに平静を取り戻しました。
将軍の軍隊としての矜持を観てとることができます。
義昭は将軍に就任・・・。

一方その立役者となった信長の名は、畿内一円に広まります。
周辺の武将たちは馳せ参じて忠誠を誓ったと言います。
それでも従わなかったものは、義昭の攘夷を大義名分として信長が平定・・・
遂に、五畿内の天下布武を成し遂げたのです。

義昭は・・・信長を慕い、副将軍や幕府高位を与えようとします。
しかし、上洛から2年・・・越前の朝倉・浅井・延暦寺・六角・三好・松永・武田・一向宗・・・次々に反旗を翻したのです。
信長は、室町幕府の再興・天下静謐を掲げ、戦い・・・支配地を拡張していきます。
義昭も・・・信長の勢いに嫉妬し、恐れ始めます。

二人の亀裂は・・・??
信長が義昭に送った十七条の意見書です。
義昭の怠慢をまとめ、諌めたものです。
忠勤の部下を大切にせよ・・・えこひいきがあってはならない・・・悪しき御所と陰口をたたかれている義昭に、公明正大を求めたのです。

そして・・・遂に元亀4年3月・・・義昭が挙兵・・・しかし、圧倒的な信長の前に義昭になすすべなし・・・。
元亀4年7月・・・義昭追放。
ここに室町幕府は崩壊。。。
義昭の命を奪わなかったのは、奪ったことにより謀反人となることを恐れたためとも言われています。
以降・・・天皇の権威によらない新しい天下を目指していくのです。

義昭は・・・各地の有力大名に、信長に対する挙兵を要請し続けます。
朝倉・浅井・武田を滅ぼした信長は・・・毛利・上杉・・・と、戦いを挑んでいきます。
信長の支配領域は、急激に膨れ上がっていきました。
しかし・・・天正10年6月2日・・・本能寺の変・・・
信長は、非業の最期を遂げることになるのです。
その後、天下統一は、豊臣秀吉によって実現されました。

信長の天下布武・・・真意はどこにあったのでしょうか・・・??

天下人・・・周りの人が認めた瞬間に、出来上がった権力・・・何の官職もない者が上に立てる権力・・・
今の秩序の中に生き残りの道を探し、既存の概念を突き抜けてしまったのが信長なのかもしれません。

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岐阜県岐阜市・・・難攻不落の岐阜城の城下町です。
織田信長が天下統一を掲げた城下町。。。
四方を山に囲まれて・・・長良川の流れる城下町。
天空にそびえる白亜の城です。

gihu



















美濃を代表する戦国武将は斎藤道三、そして織田信長。
岐阜城のある金華山は、戦国時代には稲葉山城と呼ばれ、斎藤道三の居城・稲葉山城がありました。
この道三によって、城下町の基礎がきずかれましたが、1567年・・・斎藤龍興の時代に・・・
難攻不落の稲葉山城は信長の手によって攻略。
この地を平定した信長は・・・井口という地名を・・・中国の故事に習って岐阜と改めました。
斎藤道三・織田信長・・・ふたりの偉大な戦国武将の地です。

標高329mの金華山山頂にそびえる岐阜城・・・
天守閣からは、眼下に濃尾平野の絶景を望むことが出来ます。
信長は、この岐阜から天下布武を掲げ・・・野望実現に向かったのです。

今は昭和31年に再建された岐阜城ですが。。。
信長の建てた岐阜城とはどんなものだったのでしょうか?

信長の屋敷跡は、今も発掘調査が行われています。
今からおよそ440年前に、信長が築いた岐阜城・・・
金華山の麓には、信長の居城があったと言われ。。。
昭和59年から、居館発掘調査が行われています。

2013年に、この居城から発掘された瓦・・・
牡丹と菊花紋は、金箔がはられていました。
従来の定説からは、金箔は安土城が最初・・・と言われていましたが、その始まりは岐阜城からだったのです。

時は戦国時代・・・防衛よりも・・・
守りに徹する武骨な城よりも、敵方にも存在を誇示するような”見せる城”で・・・。
迎賓館としての役割・・・外交の拠点もあったようです。
楽市楽座も発祥の地で・・・信長統治下の岐阜を訪れたルイス・フロイスは・・・
「まるでバビロンの町のよう。。。」
と言い、当時は京に次ぐ繁栄を極めていました。
信長が、天下統一を果たすために築いた新感覚の城下町だったのです。

長良川沿いには・・・古い町家が残っていて・・・道三の時代から水上運送による市場があり、商業が発展していました。
岐阜団扇は室町時代から生産され、その材料は、地元の竹、美濃和紙が長良川によって運ばれてき。。。
提灯や和傘づくりも盛んに行われてきました。

金鳳山正法寺には大仏があります。

daibutu















この大仏は・・・真鍮を通して・・・主に木材や和紙で作られた日本一の乾漆像です。
奈良大仏・・・14.98m
岐阜大仏・・・13.63m
鎌倉大仏・・・11.31m
と、引けを取りません。
竹や和紙で作られた岐阜大仏は、岐阜産業の集大成とも言えます。
岐阜の城下町ならではの大仏様なのです。

1300年前から行われている古の漁法・・・
夏の風物詩は、長良川の鵜飼い・・・古事記にも描かれている伝統の漁法です。
江戸時代は、尾張藩の保護によって娯楽へと発展していきます。
松尾芭蕉は・・・
「おもしろうて
 やがてかなしき
       鵜船かな」
と、詠んでいます。

この句は、当時の鵜飼の姿を伝えています。

戦国の梟雄達が自らの野望を実現する為に争った岐阜・・・
しかし、それは、長い歴史の中の一コマなのです。

人々は、いつまでも変わらない長良川と金華山に誇りを持っている・・・
そんな城下町でした。

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合戦を描いた絵巻、屏風絵には、色とりどりの軍旗、指物、馬印が咲き誇り、殺伐とした戦場に彩りを与えています。

血なまぐさい戦場にあって、武将たちは己を美しく飾り、その武功を目立たせるために、意匠を凝らしました。

はじめは、敵味方を区別し、自軍の勢威を示すものでしたが、やがて平家が白旗に「南無阿弥陀仏」と経文を、源氏が赤旗に「八幡大菩薩」と、信奉する八幡神の神号を記すようになりました。


そしてそこに、新しく意味が加わります。

有名なのが、上杉謙信の「毘」の軍旗。
謙信が、熱心に信仰する毘沙門天の一字をとったものです。
謙信は自分を毘沙門天の生まれ変わりと信じ、「毘」の旗の守護の下、戦場を縦横無尽に疾走しました。
謙信はこのほかに、懸り乱れ龍の旗と言われる「龍」の一字を記した軍旗を作り、総攻撃の際、陣頭に押し立て、士気を鼓舞しました。

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謙信のライバル武田信玄の軍旗は、「孫子」の「風林火山」有名です。
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が、「南無諏訪南宮法性上下大明神」など、戦勝祈願を行った神社の名を記したものもあります。
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信長が、家紋の「織田木瓜」の代えて永楽線銭を旗印にするようになったのは、その頃明から大量に輸入され、広く流布していた天下の貨幣、永楽通宝をモデルにしています。
永楽銭の旗印を使い始めたのは、「天下布武」の印判を用いるようになった1567年の翌年以降です。
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家康の場合は、「厭離穢土欣求浄土」と書かれたものもあります。
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浄土宗に帰依していた家康は、その教えを軍旗としました。

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ちなみに、こちらには、石田三成の「大一大万大吉」と、現世利益を願うめでたい言葉や、真田幸村の六文銭があります。この六文銭は、三途の川を渡るときに必要なお金・・・死ぬ覚悟で戦うことを意味しています。

一つの旗に、それぞれの想いが込められていたことが解りますね。


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