奈良県明日香村・・・飛鳥時代の遺跡が多く発掘されている古代日本の歴史ロマン香る場所です。
ここで、日本という新しい国づくりに生涯をささげた兄弟がいました。
兄の中大兄皇子と弟の大海人皇子です。
2人はともに即位し、第38代天智天皇、第40代天武天皇となりました。
そして、天皇を中心とした法に基づく律令国家建設を目指したのです。
しかし・・・兄弟の人生は、共に波乱に満ちたものでした。
日本という国の礎は、如何にして作られたのか・・・??
天皇がまだ大王と呼ばれていた時代、天智天皇は626年、第34代舒明天皇の皇子として生まれます。
母は宝皇女・・・後の皇極天皇です。
即位前の名は中大兄の皇子。
大兄は皇位継承の刺客があることを示す称号で、中大兄は、第二皇子を意味していました。
一方、弟・大海人皇子・・・後の天武天皇は、同じ両親のもと630年前後に生れたとされています。
大海人皇子の生まれた年がどうしてはっきりとしないのか・・・??
大海人・・・凡海(おおあま)氏出身の乳母に育てられた・・・凡海氏とが、諸国に住む海人(漁師)を統括した氏族です。
そんな特異な集団に育てられたと思われます。
つまり、大海人皇子は、中大兄皇子のように天皇に即位できる立場ではなかったのです。
その為、大海人皇子は、生まれ年はおろか、その前半生が歴史の陰に隠れています。
対して、常に表舞台にいたのが中大兄皇子でした。
その名が大きく注目されるのは、父・舒明天皇の崩御後、母・皇極天皇の御代となった645年、歴史のターニングポイントとなる大事件を起こすのです。
それが乙巳の変・・・
日本書紀によれば、まだ20歳だった中大兄皇子が中心となり、天皇を蔑ろにし権勢を振るっていた蘇我入鹿らを成敗したとあります。
事件の首謀者は別にいました。
皇極天皇の弟で中大兄皇子の叔父である軽皇子です。
そういわれる由縁は、事の発端が皇極天皇の後継をめぐる皇位継承争いだったからです。
この時軽皇子は次の天皇候補の一人でした。
しかし、ライバルがいました。
中大兄皇子の母違いの兄で崩御した舒明天皇の第一皇子だった古人大兄皇子です。
軽皇子は焦ります。
朝廷の権力者・蘇我入鹿が従兄弟に当たる古人大兄皇子の後ろ盾にいたことで、優勢だったからです。
そこで軽皇子は、後ろ盾の入鹿を亡き者にすれば状況が変わる・・・と暗殺を計画。
中大兄皇子を取り込み、朝廷での儀式の際に、中臣鎌足や、蘇我倉山田石川麻呂らと共に入鹿暗殺を実行させたのです。
事件後、身の危険を感じだ古人大兄皇子は、出家して吉野に退きました。
軽皇子は皇極天皇の後を継いで即位、第36代孝徳天皇となりました。
こうして、一番得をしたのが軽皇子だったことから、事件の首謀者とされています。
しかし、中大兄皇子にとって古人大兄皇子は母違いとはいえ、血を分けた兄・・・どうして実の兄を陥れる計画に加担したのでしょうか??
古人大兄皇子が即位すると、その系統に王位(皇位)が渡り、自分が即位するチャンスが亡くなってしまうのです。
当時は母系社会で、母方の血筋が重視されていました。
その為、古人大兄皇子が天皇になれば、蘇我氏の流れをくむ母方の系統で受け継がれ、中大兄皇子は蚊帳の外。
対して軽皇子は、中大兄皇子の母である皇極天皇の弟で同じ系統でした。
その叔父が天皇になった方が、次が回ってくる可能性が高いと考えたのです。
新たに即位した孝徳天皇は、都を飛鳥から難波宮に移します。
飛鳥には、それまで力を持っていた豪族のしがらみが多く、そこで政治を一新するのは難しかったからです。
そして、新たな都で政治改革を任されたのが皇太子の立場となった中大兄皇子でした。
改革が求められたのは理由がありました.。
当時の倭国・日本は、法律や制度が十分には整っておらず、古代中国である唐などから野蛮な国と見下されていました。
さらに、有力豪族が乱立し、国が一つにまとまっていなかったので、海外から侵略された場合、国を守ることができない可能性がありました。
目指すは、唐を見本にした中央集権国家でした。
そうしてはじめられた政治改革が大化の改新でした。
改革①「公地公民制」
これまでは、皇族や有力豪族が人民と土地を個別に所有していました。
これを廃止、全てを公・・・天皇のものとし、税が天皇のもとに集まるようにしました。
改革②「班田収授法」
6年ごとに人民の戸籍を作成。
戸籍に記載された人民に、一定の土地を貸出、耕作させ、税を治めさせることで税収の安定を図りました。
改革③「税制の整備」
天皇から貸し出された田畑で作られた作物を租・朝廷から命じられた労役を庸・公民が作った布や特産物を調として税制を整備。
これで、税制だけでなく、天皇に対する労役も人民に義務付けられました。
こうして新たな国づくりに邁進する中大兄皇子でしたが、乙巳の変ののち出家して吉野に身をひそめていた古人大兄皇子に謀反の疑いをかけ処刑。
また、乙巳の変の協力者だった蘇我倉山田石川麻呂にも謀反の疑いをかけ自害に追い込むなど、中大兄皇子は政敵になりそうな者たちを次々に排除していきました。
さらに、意に反すれば天皇にも牙をむきます。
政治改革をめぐり孝徳天皇と対立すると、中大兄皇子は母で先の天皇だった宝皇女や弟の大海人皇子など、主だった皇族と進化を引き連れ飛鳥へと戻ってしまいます。
これに孝徳天皇は激怒しますが、心労が祟ったのか・・・654年孝徳天皇が崩御。
それによって、中大兄皇子と大海人皇子の母・宝皇女が再び即位し第37代斉明天皇となります。
その後まもなくして中大兄皇子は、崩御した孝徳天皇の子・有間皇子を謀反の罪で処刑。
自らが天皇になるうえでの邪魔者を、早々に排除したのです。
中大兄皇子には皇子がいましたが、幼くして亡くなったり、存命でもその母親が地方の豪族出身など身分が低かったため後継に相応しい皇子がいませんでした。
そこで、自分の娘を弟の大海人皇子に嫁がせてその間に生まれた皇子を大王(天皇)にしようと考えました。
その思いを叶えるかのように中大兄皇子の娘たちと大海人皇子との間に草壁皇子・大津皇子が生まれました。
待望の孫の誕生に、中大兄皇子は喜んだことでしょう。
しかし・・・朝鮮半島への出征の方は上手くいきませんでした
長旅が堪えたのか、661年斉明天皇が九州で崩御。
中大兄皇子の即位が望まれましたが・・・拒否して称制という形で天皇に即位せずに政務を執り、軍を指揮します。
朝鮮半島に渡った倭国の軍勢は、唐・新羅の連合軍と激突!!
その結果、惨敗してしまいました。
白村江の戦いです。
これにより、中大兄皇子の軍は日本への撤退を余儀なくされます。
中大兄皇子は、飛鳥に戻ったのちも、称制の形で政を行います。
まず取り掛かったのは、唐の侵攻に備えるための国防の強化です。
対馬や壱岐、九州北部に防人を置いて、監視に当たらせます。
西日本各地には砦となる水城を置きます。
さらに、遣唐使を派遣、唐・新羅との関係修復に努めます。
そして、中大兄皇子は、667年に都を近江大津宮に移すと、668年、遂に即位し天智天皇となります。
斉明天皇崩御からおよそ7年・・・43歳になっていました。
どうしてなかなか即位しなかったのでしょうか??
その理由は、慎重な性格で、天皇になる盤石な体制を待っていたとか、天皇になると命を狙われると恐れていたとか、白村江の戦いで破れた責任を感じ戦後処理をしていたなど諸説あります。
この頃から、資料には大海人皇子の名前が出てきます。
天智天皇即位後には、偉大なる天皇の弟君を意味する”大皇弟”という尊称で呼ばれていたことから、重要な地位にあったと考えられます。
日本書紀によると、中大兄皇子が天皇となった668年、天皇が弟の大海人皇子や軍臣、女官などを連れて蒲生野に狩りに出かけたとあります。
当時の狩りといえば、男性は強壮剤となる鹿の角を獲る・・・女性は野山で薬草を採取したものでした。
この狩りには、万葉集を代表する額田王もいました。
皇族の生まれで天才歌人、絶世の美女とされた額田王は、この日こんな歌を詠んでいます
あかねさす 紫野行き 標野行き
野守は見ずや 君が袖振る
額田王があなたと呼んで歌を詠んだ恋の相手こそ大海人皇子でした。
こんな歌を返しています。
紫草の にほへる妹を 憎くあらば
人妻故に 我恋ひめやも
額田王は人妻でした。しかも、その夫が問題でした。
大海人皇子が恋焦がれた額田王の夫は兄の天智天皇でした。
天皇の后である額田王との禁断の恋となれば、宮廷の大スキャンダルです。
しかし・・・この三角関係はもっと複雑でした。
日本書紀によると、額田王は、大海人皇子の最初の妻でした。
2人の間には、十市皇女と呼ばれる娘までいました。
しかし、やがて額田王は、天智天皇からの寵愛を受けるようになり、遂には天皇の妻となったのです。
大海人皇子はこの時、多くの妻を娶っていましたが、最初の妻であった額田王は特別な存在でした。
しかし・・・歌は、座興の歌・・・
酒宴の席で、かつて夫婦だった2人が場を盛り上げるために作った歌だったのです。
近江大津宮で天皇を中心とした中央集権国家の建設を目指す天智天皇・・・
それは、大国・唐と対抗でき得る強い国を創るためでした。
その一環として、670年、天皇は日本初の全国的な戸籍といわれる庚午年籍を制定。
人民の所在を把握し、徴兵や徴税などを確実に行えるようにします。
越して新たな国づくりを着々と進めていく一方で、悩んでいました。
次の大王を誰にすべきか??
天智天皇は、いずれ自分の娘と大海人皇子の間に生まれた皇子で孫となる草壁皇子か大津皇子のどちらかと考えていました。
ところが・・・天智天皇が晩年を迎えた段階で、草壁皇子も大津皇子もまだ幼く、すぐに天皇になることは無理だったのです。
そこで、間をつなぐための人が必要でした。
671年、ある決断をしました。
天智天皇の皇子でありながら、母親の身分が低いために後継候補から外れていた大友皇子を太政大臣に任じたのです。
それは、太政大臣として経験を積ませたうえで、中継ぎの天皇とし孫へとつなぐためでした。
ただ、天皇の中継ぎであればこれまで補佐してきた弟・大海人皇子でもよさそうですが・・・
当時は天智天皇の子孫が天皇になることが決まっており、弟の出る幕がなかったのです。
日本書紀によると、671年天智天皇が病に倒れます。
しかし、床に臥した天皇が枕元に呼んだのは大友皇子ではなく弟の大海人皇子でした。
そして驚くべき言葉を伝えるのです。
「我の病は重い・・・
後のことは汝に任せた」
それは、弟である大海人皇子に皇位を譲るという遺言でした。
ところが、大海人皇子は天智天皇の皇后となる倭姫王を次の天皇とし、大友皇子を補佐役にするのがよいだろうと推薦、しかも病気がちな自分は出家するというのです。
その言葉通り、大海人皇子は出家し、吉野へと向かいました。
実はこの時、天智天皇が譲位の意を告げたのは息子である大友皇子の即位を脅かす恐れがある弟の本心を探るためでした。
譲位を受けると謀反ありとして粛清されることを恐れ、身を守るために出家したと推察できます。
壬申の乱勃発・・・
671年、兄・天智天皇からの即位の要請を断った大海人皇子は、その足で出家。
冬の寒さが厳しい中、家族や舎人や女官など70人ほどを連れ吉野に向かいます。
都を後にする大海人皇子を見送った近江朝廷の重臣たちは、こういったといいます。
「虎に翼をつけて放ったようなもの!!」
重臣たちは、大海人皇子を恐れていました。
しかし、当の本人は・・・虎のような勇猛さはありませんでした。
まさに都落ちの気持ちで吉野にいたのです。
672年、兄天智天皇が崩御したのは、その2か月後・・・46歳でした。
ところがその半年後・・・大海人皇子、挙兵!!
これに対し、大友皇子の近江朝廷も挙兵します。
672年、古代最大の内乱・壬申の乱の勃発です。
どうして吉野でひっそりと暮らしていた大海人皇子が・・・??
一説によると、天智天皇崩御後、大友皇子が第39代弘文天皇に即位したとされています。
そして、日本書紀によれば、吉野の大海人皇子のもとに朝廷の舎人・朴井雄君などが訪れこう告げます。
「近江の朝廷が、先の大王(天智天皇)の陵を造るという口実で、人々に武器を持たせております」
それは、朝廷が大海人皇子を討つための戦の準備だと!!
さらに・・・
「吉野の監視が強まり、こちらへの食糧の供給も断たれております」
食糧の供給が絶たれては生きてはいけない・・・
日本書紀は、この時大海人皇子を追い詰めたのは朝廷の権力を握ろうとしていた重臣たちと書かれています。
朝廷をわがものにしようとしていた重臣たちは、その障害となる大海人皇子を亡き者にするため戦の準備をしているのだと・・・!!
そこで、大海人皇子は、そのたくらみを阻止し、自らのみを守るために挙兵したというのです。
しかし・・・これは歴史の改ざんです。
壬申の乱は、大友皇子から天皇の座を奪うために挙兵したと思われます。
6月24日、吉野を出た大海人皇子らは、3日後には不破に到着。
不破の道と呼ばれる東国と西国をつなぐ道を封鎖すると、ここで兵を集めます。
大海人皇子はどのようにして兵を集めたのでしょうか??
内乱が起きる2年前に、庚午年籍という戸籍が出来ています。
大友皇子は「庚午年籍」を使い兵を集めていました。
大海人皇子はこれを逆に利用したのです。
「庚午年籍」を使って兵を集める国司に働きかけ、大友皇子が集めた兵を横取りしたのです。
国司たちが大海人皇子の味方に付いたのは、母親の身分が低い大友皇子よりも大海人皇子の方が血統的に優れていると考えたことが大きかったのです。
こうして、2万とも3万ともいわれる兵を集めることに成功した大海人皇子。
対する大友皇子の朝廷軍も同様の数に及びました。
その大軍勢が激突した壬申の乱は、激しい攻防が繰り広げられ・・・7月22日、近江瀬田川の唐橋で決戦!!
橋の東側に大海人皇子軍、西側に大友皇子軍の朝廷軍が布陣!!
大友皇子は、橋の中央に穴をあけて長板を置き、敵が橋を渡ってきたら括りつけた縄をほどき、板を外して敵を川に落としたのちに矢を射かける作戦に出ます。
大海人皇子軍は苦戦を強いられますが、勇気ある兵士が突撃し、縄を斬ったことで敵はそれ以上板を外すことができなくなり、形勢は逆転!!
大海人皇子軍が勝利しました。
逃げきれないと悟った大友皇子は自害・・・まだ25歳でした。
2カ月以上続いた内乱は集結。
その翌年・・・673年、大海人皇子は飛鳥浄御原宮へ遷都・・・天武天皇として即位・・・43歳でした。
壬申の乱に勝利したのち、飛鳥浄御原宮で即位した天武天皇は、律令国家の建設を目指しこう宣言します。
「新たに天下を平し!!」
天武天皇は、新しい身分制度「八色の姓」を制定。
真人・・・天皇の身内
朝臣・・・天皇の血筋につながる人
宿禰・・・天津神・国津神の子孫
忌寸・・・渡来系豪族
道師・・・詳細不明
臣・・・・詳細不明
連・・・・詳細不明
稲置・・・詳細不明
身分によって8つの姓に分け、天皇とそのほかの氏族たちの身分の差をより明確化することで、天皇の権力強化を図ります。
そして、681年、唐のような律令国家にするため、律令の編纂を開始します。
それが飛鳥浄御原令です。
しかし、原本が見つかっていないため内容がわかっていません。
同じ年には、正当な天皇の血筋を伝える日本初の正史とされる「日本書紀」「古事記」の編纂を命じています。
倭国という名を改め日本という国号を定め、大王を初めて天皇と名乗ったのも天武天皇とされています。
全ては唐に負けない国に強い国にするためでした。
その中で、天武天皇が何より大切にしたのは、新しい都の建設でした。
日本書紀によると、676年には飛鳥浄御原宮から北西に3キロほど離れた土地に後に藤原京と呼ばれる都を造成しようとしていたといいます。
発掘調査でも証拠が残っています。
新たな都づくりは、土地の造成や資材の調達、道路整備に排水路網の整備・・・すべてがこれまでにない大規模なものでした。
条坊制を初めて日本で採用した唐風都城となるはずでした。
しかし、天武天皇がその目で都を見ることはかないませんでした。
686年、天武天皇崩御・・・藤原京造営も中断されてしまうのです。
しかしこの後、天武天皇の后・第41代持統天皇が夫の遺志を継ぎます。
天皇崩御から4年・・・藤原京の造営を再開。
694年、藤原京遷都。
この都で政を行ったのは、天智天皇と天武天皇の地を継ぐ者たち・・・
日本で初めて行政法、民法、刑法の3つが揃った本格的な法律・・・
飛鳥浄御原令をもとにした大宝律令を制定します。
それは、新たな国づくりに命を燃やした兄弟・・・天智天皇と天武天皇が夢見た律令国家の姿・・・日本の新たな国の形でした。
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ここで、日本という新しい国づくりに生涯をささげた兄弟がいました。
兄の中大兄皇子と弟の大海人皇子です。
2人はともに即位し、第38代天智天皇、第40代天武天皇となりました。
そして、天皇を中心とした法に基づく律令国家建設を目指したのです。
しかし・・・兄弟の人生は、共に波乱に満ちたものでした。
日本という国の礎は、如何にして作られたのか・・・??
天皇がまだ大王と呼ばれていた時代、天智天皇は626年、第34代舒明天皇の皇子として生まれます。
母は宝皇女・・・後の皇極天皇です。
即位前の名は中大兄の皇子。
大兄は皇位継承の刺客があることを示す称号で、中大兄は、第二皇子を意味していました。
一方、弟・大海人皇子・・・後の天武天皇は、同じ両親のもと630年前後に生れたとされています。
大海人皇子の生まれた年がどうしてはっきりとしないのか・・・??
大海人・・・凡海(おおあま)氏出身の乳母に育てられた・・・凡海氏とが、諸国に住む海人(漁師)を統括した氏族です。
そんな特異な集団に育てられたと思われます。
つまり、大海人皇子は、中大兄皇子のように天皇に即位できる立場ではなかったのです。
その為、大海人皇子は、生まれ年はおろか、その前半生が歴史の陰に隠れています。
対して、常に表舞台にいたのが中大兄皇子でした。
その名が大きく注目されるのは、父・舒明天皇の崩御後、母・皇極天皇の御代となった645年、歴史のターニングポイントとなる大事件を起こすのです。
それが乙巳の変・・・
日本書紀によれば、まだ20歳だった中大兄皇子が中心となり、天皇を蔑ろにし権勢を振るっていた蘇我入鹿らを成敗したとあります。
事件の首謀者は別にいました。
皇極天皇の弟で中大兄皇子の叔父である軽皇子です。
そういわれる由縁は、事の発端が皇極天皇の後継をめぐる皇位継承争いだったからです。
この時軽皇子は次の天皇候補の一人でした。
しかし、ライバルがいました。
中大兄皇子の母違いの兄で崩御した舒明天皇の第一皇子だった古人大兄皇子です。
軽皇子は焦ります。
朝廷の権力者・蘇我入鹿が従兄弟に当たる古人大兄皇子の後ろ盾にいたことで、優勢だったからです。
そこで軽皇子は、後ろ盾の入鹿を亡き者にすれば状況が変わる・・・と暗殺を計画。
中大兄皇子を取り込み、朝廷での儀式の際に、中臣鎌足や、蘇我倉山田石川麻呂らと共に入鹿暗殺を実行させたのです。
事件後、身の危険を感じだ古人大兄皇子は、出家して吉野に退きました。
軽皇子は皇極天皇の後を継いで即位、第36代孝徳天皇となりました。
こうして、一番得をしたのが軽皇子だったことから、事件の首謀者とされています。
しかし、中大兄皇子にとって古人大兄皇子は母違いとはいえ、血を分けた兄・・・どうして実の兄を陥れる計画に加担したのでしょうか??
古人大兄皇子が即位すると、その系統に王位(皇位)が渡り、自分が即位するチャンスが亡くなってしまうのです。
当時は母系社会で、母方の血筋が重視されていました。
その為、古人大兄皇子が天皇になれば、蘇我氏の流れをくむ母方の系統で受け継がれ、中大兄皇子は蚊帳の外。
対して軽皇子は、中大兄皇子の母である皇極天皇の弟で同じ系統でした。
その叔父が天皇になった方が、次が回ってくる可能性が高いと考えたのです。
新たに即位した孝徳天皇は、都を飛鳥から難波宮に移します。
飛鳥には、それまで力を持っていた豪族のしがらみが多く、そこで政治を一新するのは難しかったからです。
そして、新たな都で政治改革を任されたのが皇太子の立場となった中大兄皇子でした。
改革が求められたのは理由がありました.。
当時の倭国・日本は、法律や制度が十分には整っておらず、古代中国である唐などから野蛮な国と見下されていました。
さらに、有力豪族が乱立し、国が一つにまとまっていなかったので、海外から侵略された場合、国を守ることができない可能性がありました。
目指すは、唐を見本にした中央集権国家でした。
そうしてはじめられた政治改革が大化の改新でした。
改革①「公地公民制」
これまでは、皇族や有力豪族が人民と土地を個別に所有していました。
これを廃止、全てを公・・・天皇のものとし、税が天皇のもとに集まるようにしました。
改革②「班田収授法」
6年ごとに人民の戸籍を作成。
戸籍に記載された人民に、一定の土地を貸出、耕作させ、税を治めさせることで税収の安定を図りました。
改革③「税制の整備」
天皇から貸し出された田畑で作られた作物を租・朝廷から命じられた労役を庸・公民が作った布や特産物を調として税制を整備。
これで、税制だけでなく、天皇に対する労役も人民に義務付けられました。
こうして新たな国づくりに邁進する中大兄皇子でしたが、乙巳の変ののち出家して吉野に身をひそめていた古人大兄皇子に謀反の疑いをかけ処刑。
また、乙巳の変の協力者だった蘇我倉山田石川麻呂にも謀反の疑いをかけ自害に追い込むなど、中大兄皇子は政敵になりそうな者たちを次々に排除していきました。
さらに、意に反すれば天皇にも牙をむきます。
政治改革をめぐり孝徳天皇と対立すると、中大兄皇子は母で先の天皇だった宝皇女や弟の大海人皇子など、主だった皇族と進化を引き連れ飛鳥へと戻ってしまいます。
これに孝徳天皇は激怒しますが、心労が祟ったのか・・・654年孝徳天皇が崩御。
それによって、中大兄皇子と大海人皇子の母・宝皇女が再び即位し第37代斉明天皇となります。
その後まもなくして中大兄皇子は、崩御した孝徳天皇の子・有間皇子を謀反の罪で処刑。
自らが天皇になるうえでの邪魔者を、早々に排除したのです。
中大兄皇子には皇子がいましたが、幼くして亡くなったり、存命でもその母親が地方の豪族出身など身分が低かったため後継に相応しい皇子がいませんでした。
そこで、自分の娘を弟の大海人皇子に嫁がせてその間に生まれた皇子を大王(天皇)にしようと考えました。
その思いを叶えるかのように中大兄皇子の娘たちと大海人皇子との間に草壁皇子・大津皇子が生まれました。
待望の孫の誕生に、中大兄皇子は喜んだことでしょう。
しかし・・・朝鮮半島への出征の方は上手くいきませんでした
長旅が堪えたのか、661年斉明天皇が九州で崩御。
中大兄皇子の即位が望まれましたが・・・拒否して称制という形で天皇に即位せずに政務を執り、軍を指揮します。
朝鮮半島に渡った倭国の軍勢は、唐・新羅の連合軍と激突!!
その結果、惨敗してしまいました。
白村江の戦いです。
これにより、中大兄皇子の軍は日本への撤退を余儀なくされます。
中大兄皇子は、飛鳥に戻ったのちも、称制の形で政を行います。
まず取り掛かったのは、唐の侵攻に備えるための国防の強化です。
対馬や壱岐、九州北部に防人を置いて、監視に当たらせます。
西日本各地には砦となる水城を置きます。
さらに、遣唐使を派遣、唐・新羅との関係修復に努めます。
そして、中大兄皇子は、667年に都を近江大津宮に移すと、668年、遂に即位し天智天皇となります。
斉明天皇崩御からおよそ7年・・・43歳になっていました。
どうしてなかなか即位しなかったのでしょうか??
その理由は、慎重な性格で、天皇になる盤石な体制を待っていたとか、天皇になると命を狙われると恐れていたとか、白村江の戦いで破れた責任を感じ戦後処理をしていたなど諸説あります。
この頃から、資料には大海人皇子の名前が出てきます。
天智天皇即位後には、偉大なる天皇の弟君を意味する”大皇弟”という尊称で呼ばれていたことから、重要な地位にあったと考えられます。
日本書紀によると、中大兄皇子が天皇となった668年、天皇が弟の大海人皇子や軍臣、女官などを連れて蒲生野に狩りに出かけたとあります。
当時の狩りといえば、男性は強壮剤となる鹿の角を獲る・・・女性は野山で薬草を採取したものでした。
この狩りには、万葉集を代表する額田王もいました。
皇族の生まれで天才歌人、絶世の美女とされた額田王は、この日こんな歌を詠んでいます
あかねさす 紫野行き 標野行き
野守は見ずや 君が袖振る
額田王があなたと呼んで歌を詠んだ恋の相手こそ大海人皇子でした。
こんな歌を返しています。
紫草の にほへる妹を 憎くあらば
人妻故に 我恋ひめやも
額田王は人妻でした。しかも、その夫が問題でした。
大海人皇子が恋焦がれた額田王の夫は兄の天智天皇でした。
天皇の后である額田王との禁断の恋となれば、宮廷の大スキャンダルです。
しかし・・・この三角関係はもっと複雑でした。
日本書紀によると、額田王は、大海人皇子の最初の妻でした。
2人の間には、十市皇女と呼ばれる娘までいました。
しかし、やがて額田王は、天智天皇からの寵愛を受けるようになり、遂には天皇の妻となったのです。
大海人皇子はこの時、多くの妻を娶っていましたが、最初の妻であった額田王は特別な存在でした。
しかし・・・歌は、座興の歌・・・
酒宴の席で、かつて夫婦だった2人が場を盛り上げるために作った歌だったのです。
近江大津宮で天皇を中心とした中央集権国家の建設を目指す天智天皇・・・
それは、大国・唐と対抗でき得る強い国を創るためでした。
その一環として、670年、天皇は日本初の全国的な戸籍といわれる庚午年籍を制定。
人民の所在を把握し、徴兵や徴税などを確実に行えるようにします。
越して新たな国づくりを着々と進めていく一方で、悩んでいました。
次の大王を誰にすべきか??
天智天皇は、いずれ自分の娘と大海人皇子の間に生まれた皇子で孫となる草壁皇子か大津皇子のどちらかと考えていました。
ところが・・・天智天皇が晩年を迎えた段階で、草壁皇子も大津皇子もまだ幼く、すぐに天皇になることは無理だったのです。
そこで、間をつなぐための人が必要でした。
671年、ある決断をしました。
天智天皇の皇子でありながら、母親の身分が低いために後継候補から外れていた大友皇子を太政大臣に任じたのです。
それは、太政大臣として経験を積ませたうえで、中継ぎの天皇とし孫へとつなぐためでした。
ただ、天皇の中継ぎであればこれまで補佐してきた弟・大海人皇子でもよさそうですが・・・
当時は天智天皇の子孫が天皇になることが決まっており、弟の出る幕がなかったのです。
日本書紀によると、671年天智天皇が病に倒れます。
しかし、床に臥した天皇が枕元に呼んだのは大友皇子ではなく弟の大海人皇子でした。
そして驚くべき言葉を伝えるのです。
「我の病は重い・・・
後のことは汝に任せた」
それは、弟である大海人皇子に皇位を譲るという遺言でした。
ところが、大海人皇子は天智天皇の皇后となる倭姫王を次の天皇とし、大友皇子を補佐役にするのがよいだろうと推薦、しかも病気がちな自分は出家するというのです。
その言葉通り、大海人皇子は出家し、吉野へと向かいました。
実はこの時、天智天皇が譲位の意を告げたのは息子である大友皇子の即位を脅かす恐れがある弟の本心を探るためでした。
譲位を受けると謀反ありとして粛清されることを恐れ、身を守るために出家したと推察できます。
壬申の乱勃発・・・
671年、兄・天智天皇からの即位の要請を断った大海人皇子は、その足で出家。
冬の寒さが厳しい中、家族や舎人や女官など70人ほどを連れ吉野に向かいます。
都を後にする大海人皇子を見送った近江朝廷の重臣たちは、こういったといいます。
「虎に翼をつけて放ったようなもの!!」
重臣たちは、大海人皇子を恐れていました。
しかし、当の本人は・・・虎のような勇猛さはありませんでした。
まさに都落ちの気持ちで吉野にいたのです。
672年、兄天智天皇が崩御したのは、その2か月後・・・46歳でした。
ところがその半年後・・・大海人皇子、挙兵!!
これに対し、大友皇子の近江朝廷も挙兵します。
672年、古代最大の内乱・壬申の乱の勃発です。
どうして吉野でひっそりと暮らしていた大海人皇子が・・・??
一説によると、天智天皇崩御後、大友皇子が第39代弘文天皇に即位したとされています。
そして、日本書紀によれば、吉野の大海人皇子のもとに朝廷の舎人・朴井雄君などが訪れこう告げます。
「近江の朝廷が、先の大王(天智天皇)の陵を造るという口実で、人々に武器を持たせております」
それは、朝廷が大海人皇子を討つための戦の準備だと!!
さらに・・・
「吉野の監視が強まり、こちらへの食糧の供給も断たれております」
食糧の供給が絶たれては生きてはいけない・・・
日本書紀は、この時大海人皇子を追い詰めたのは朝廷の権力を握ろうとしていた重臣たちと書かれています。
朝廷をわがものにしようとしていた重臣たちは、その障害となる大海人皇子を亡き者にするため戦の準備をしているのだと・・・!!
そこで、大海人皇子は、そのたくらみを阻止し、自らのみを守るために挙兵したというのです。
しかし・・・これは歴史の改ざんです。
壬申の乱は、大友皇子から天皇の座を奪うために挙兵したと思われます。
6月24日、吉野を出た大海人皇子らは、3日後には不破に到着。
不破の道と呼ばれる東国と西国をつなぐ道を封鎖すると、ここで兵を集めます。
大海人皇子はどのようにして兵を集めたのでしょうか??
内乱が起きる2年前に、庚午年籍という戸籍が出来ています。
大友皇子は「庚午年籍」を使い兵を集めていました。
大海人皇子はこれを逆に利用したのです。
「庚午年籍」を使って兵を集める国司に働きかけ、大友皇子が集めた兵を横取りしたのです。
国司たちが大海人皇子の味方に付いたのは、母親の身分が低い大友皇子よりも大海人皇子の方が血統的に優れていると考えたことが大きかったのです。
こうして、2万とも3万ともいわれる兵を集めることに成功した大海人皇子。
対する大友皇子の朝廷軍も同様の数に及びました。
その大軍勢が激突した壬申の乱は、激しい攻防が繰り広げられ・・・7月22日、近江瀬田川の唐橋で決戦!!
橋の東側に大海人皇子軍、西側に大友皇子軍の朝廷軍が布陣!!
大友皇子は、橋の中央に穴をあけて長板を置き、敵が橋を渡ってきたら括りつけた縄をほどき、板を外して敵を川に落としたのちに矢を射かける作戦に出ます。
大海人皇子軍は苦戦を強いられますが、勇気ある兵士が突撃し、縄を斬ったことで敵はそれ以上板を外すことができなくなり、形勢は逆転!!
大海人皇子軍が勝利しました。
逃げきれないと悟った大友皇子は自害・・・まだ25歳でした。
2カ月以上続いた内乱は集結。
その翌年・・・673年、大海人皇子は飛鳥浄御原宮へ遷都・・・天武天皇として即位・・・43歳でした。
壬申の乱に勝利したのち、飛鳥浄御原宮で即位した天武天皇は、律令国家の建設を目指しこう宣言します。
「新たに天下を平し!!」
天武天皇は、新しい身分制度「八色の姓」を制定。
真人・・・天皇の身内
朝臣・・・天皇の血筋につながる人
宿禰・・・天津神・国津神の子孫
忌寸・・・渡来系豪族
道師・・・詳細不明
臣・・・・詳細不明
連・・・・詳細不明
稲置・・・詳細不明
身分によって8つの姓に分け、天皇とそのほかの氏族たちの身分の差をより明確化することで、天皇の権力強化を図ります。
そして、681年、唐のような律令国家にするため、律令の編纂を開始します。
それが飛鳥浄御原令です。
しかし、原本が見つかっていないため内容がわかっていません。
同じ年には、正当な天皇の血筋を伝える日本初の正史とされる「日本書紀」「古事記」の編纂を命じています。
倭国という名を改め日本という国号を定め、大王を初めて天皇と名乗ったのも天武天皇とされています。
全ては唐に負けない国に強い国にするためでした。
その中で、天武天皇が何より大切にしたのは、新しい都の建設でした。
日本書紀によると、676年には飛鳥浄御原宮から北西に3キロほど離れた土地に後に藤原京と呼ばれる都を造成しようとしていたといいます。
発掘調査でも証拠が残っています。
新たな都づくりは、土地の造成や資材の調達、道路整備に排水路網の整備・・・すべてがこれまでにない大規模なものでした。
条坊制を初めて日本で採用した唐風都城となるはずでした。
しかし、天武天皇がその目で都を見ることはかないませんでした。
686年、天武天皇崩御・・・藤原京造営も中断されてしまうのです。
しかしこの後、天武天皇の后・第41代持統天皇が夫の遺志を継ぎます。
天皇崩御から4年・・・藤原京の造営を再開。
694年、藤原京遷都。
この都で政を行ったのは、天智天皇と天武天皇の地を継ぐ者たち・・・
日本で初めて行政法、民法、刑法の3つが揃った本格的な法律・・・
飛鳥浄御原令をもとにした大宝律令を制定します。
それは、新たな国づくりに命を燃やした兄弟・・・天智天皇と天武天皇が夢見た律令国家の姿・・・日本の新たな国の形でした。
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