日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:天武天皇

奈良県明日香村・・・飛鳥時代の遺跡が多く発掘されている古代日本の歴史ロマン香る場所です。
ここで、日本という新しい国づくりに生涯をささげた兄弟がいました。
兄の中大兄皇子と弟の大海人皇子です。
2人はともに即位し、第38代天智天皇、第40代天武天皇となりました。
そして、天皇を中心とした法に基づく律令国家建設を目指したのです。
しかし・・・兄弟の人生は、共に波乱に満ちたものでした。
日本という国の礎は、如何にして作られたのか・・・??




天皇がまだ大王と呼ばれていた時代、天智天皇は626年、第34代舒明天皇の皇子として生まれます。
母は宝皇女・・・後の皇極天皇です。
即位前の名は中大兄の皇子。
大兄は皇位継承の刺客があることを示す称号で、中大兄は、第二皇子を意味していました。
一方、弟・大海人皇子・・・後の天武天皇は、同じ両親のもと630年前後に生れたとされています。

大海人皇子の生まれた年がどうしてはっきりとしないのか・・・??
大海人・・・凡海(おおあま)氏出身の乳母に育てられた・・・凡海氏とが、諸国に住む海人(漁師)を統括した氏族です。
そんな特異な集団に育てられたと思われます。
つまり、大海人皇子は、中大兄皇子のように天皇に即位できる立場ではなかったのです。
その為、大海人皇子は、生まれ年はおろか、その前半生が歴史の陰に隠れています。
対して、常に表舞台にいたのが中大兄皇子でした。
その名が大きく注目されるのは、父・舒明天皇の崩御後、母・皇極天皇の御代となった645年、歴史のターニングポイントとなる大事件を起こすのです。
それが乙巳の変・・・
日本書紀によれば、まだ20歳だった中大兄皇子が中心となり、天皇を蔑ろにし権勢を振るっていた蘇我入鹿らを成敗したとあります。
事件の首謀者は別にいました。
皇極天皇の弟で中大兄皇子の叔父である軽皇子です。
そういわれる由縁は、事の発端が皇極天皇の後継をめぐる皇位継承争いだったからです。
この時軽皇子は次の天皇候補の一人でした。
しかし、ライバルがいました。
中大兄皇子の母違いの兄で崩御した舒明天皇の第一皇子だった古人大兄皇子です。
軽皇子は焦ります。
朝廷の権力者・蘇我入鹿が従兄弟に当たる古人大兄皇子の後ろ盾にいたことで、優勢だったからです。
そこで軽皇子は、後ろ盾の入鹿を亡き者にすれば状況が変わる・・・と暗殺を計画。
中大兄皇子を取り込み、朝廷での儀式の際に、中臣鎌足や、蘇我倉山田石川麻呂らと共に入鹿暗殺を実行させたのです。

事件後、身の危険を感じだ古人大兄皇子は、出家して吉野に退きました。
軽皇子は皇極天皇の後を継いで即位、第36代孝徳天皇となりました。
こうして、一番得をしたのが軽皇子だったことから、事件の首謀者とされています。
しかし、中大兄皇子にとって古人大兄皇子は母違いとはいえ、血を分けた兄・・・どうして実の兄を陥れる計画に加担したのでしょうか??
古人大兄皇子が即位すると、その系統に王位(皇位)が渡り、自分が即位するチャンスが亡くなってしまうのです。
当時は母系社会で、母方の血筋が重視されていました。
その為、古人大兄皇子が天皇になれば、蘇我氏の流れをくむ母方の系統で受け継がれ、中大兄皇子は蚊帳の外。
対して軽皇子は、中大兄皇子の母である皇極天皇の弟で同じ系統でした。
その叔父が天皇になった方が、次が回ってくる可能性が高いと考えたのです。

新たに即位した孝徳天皇は、都を飛鳥から難波宮に移します。
飛鳥には、それまで力を持っていた豪族のしがらみが多く、そこで政治を一新するのは難しかったからです。
そして、新たな都で政治改革を任されたのが皇太子の立場となった中大兄皇子でした。
改革が求められたのは理由がありました.。
当時の倭国・日本は、法律や制度が十分には整っておらず、古代中国である唐などから野蛮な国と見下されていました。
さらに、有力豪族が乱立し、国が一つにまとまっていなかったので、海外から侵略された場合、国を守ることができない可能性がありました。
目指すは、唐を見本にした中央集権国家でした。
そうしてはじめられた政治改革が大化の改新でした。

改革①「公地公民制」
これまでは、皇族や有力豪族が人民と土地を個別に所有していました。
これを廃止、全てを公・・・天皇のものとし、税が天皇のもとに集まるようにしました。

改革②「班田収授法」
6年ごとに人民の戸籍を作成。
戸籍に記載された人民に、一定の土地を貸出、耕作させ、税を治めさせることで税収の安定を図りました。

改革③「税制の整備」
天皇から貸し出された田畑で作られた作物を租・朝廷から命じられた労役を庸・公民が作った布や特産物を調として税制を整備。
これで、税制だけでなく、天皇に対する労役も人民に義務付けられました。
こうして新たな国づくりに邁進する中大兄皇子でしたが、乙巳の変ののち出家して吉野に身をひそめていた古人大兄皇子に謀反の疑いをかけ処刑。
また、乙巳の変の協力者だった蘇我倉山田石川麻呂にも謀反の疑いをかけ自害に追い込むなど、中大兄皇子は政敵になりそうな者たちを次々に排除していきました。

さらに、意に反すれば天皇にも牙をむきます。
政治改革をめぐり孝徳天皇と対立すると、中大兄皇子は母で先の天皇だった宝皇女や弟の大海人皇子など、主だった皇族と進化を引き連れ飛鳥へと戻ってしまいます。
これに孝徳天皇は激怒しますが、心労が祟ったのか・・・654年孝徳天皇が崩御。
それによって、中大兄皇子と大海人皇子の母・宝皇女が再び即位し第37代斉明天皇となります。
その後まもなくして中大兄皇子は、崩御した孝徳天皇の子・有間皇子を謀反の罪で処刑。
自らが天皇になるうえでの邪魔者を、早々に排除したのです。

中大兄皇子には皇子がいましたが、幼くして亡くなったり、存命でもその母親が地方の豪族出身など身分が低かったため後継に相応しい皇子がいませんでした。
そこで、自分の娘を弟の大海人皇子に嫁がせてその間に生まれた皇子を大王(天皇)にしようと考えました。
その思いを叶えるかのように中大兄皇子の娘たちと大海人皇子との間に草壁皇子・大津皇子が生まれました。
待望の孫の誕生に、中大兄皇子は喜んだことでしょう。
しかし・・・朝鮮半島への出征の方は上手くいきませんでした
長旅が堪えたのか、661年斉明天皇が九州で崩御。
中大兄皇子の即位が望まれましたが・・・拒否して称制という形で天皇に即位せずに政務を執り、軍を指揮します。
朝鮮半島に渡った倭国の軍勢は、唐・新羅の連合軍と激突!!
その結果、惨敗してしまいました。
白村江の戦いです。
これにより、中大兄皇子の軍は日本への撤退を余儀なくされます。
中大兄皇子は、飛鳥に戻ったのちも、称制の形で政を行います。
まず取り掛かったのは、唐の侵攻に備えるための国防の強化です。
対馬や壱岐、九州北部に防人を置いて、監視に当たらせます。
西日本各地には砦となる水城を置きます。
さらに、遣唐使を派遣、唐・新羅との関係修復に努めます。
そして、中大兄皇子は、667年に都を近江大津宮に移すと、668年、遂に即位し天智天皇となります。
斉明天皇崩御からおよそ7年・・・43歳になっていました。



どうしてなかなか即位しなかったのでしょうか??
その理由は、慎重な性格で、天皇になる盤石な体制を待っていたとか、天皇になると命を狙われると恐れていたとか、白村江の戦いで破れた責任を感じ戦後処理をしていたなど諸説あります。

この頃から、資料には大海人皇子の名前が出てきます。
天智天皇即位後には、偉大なる天皇の弟君を意味する”大皇弟”という尊称で呼ばれていたことから、重要な地位にあったと考えられます。

日本書紀によると、中大兄皇子が天皇となった668年、天皇が弟の大海人皇子や軍臣、女官などを連れて蒲生野に狩りに出かけたとあります。
当時の狩りといえば、男性は強壮剤となる鹿の角を獲る・・・女性は野山で薬草を採取したものでした。
この狩りには、万葉集を代表する額田王もいました。
皇族の生まれで天才歌人、絶世の美女とされた額田王は、この日こんな歌を詠んでいます

あかねさす 紫野行き 標野行き
            野守は見ずや 君が袖振る

額田王があなたと呼んで歌を詠んだ恋の相手こそ大海人皇子でした。
こんな歌を返しています。

紫草の にほへる妹を 憎くあらば
         人妻故に 我恋ひめやも

額田王は人妻でした。しかも、その夫が問題でした。
大海人皇子が恋焦がれた額田王の夫は兄の天智天皇でした。
天皇の后である額田王との禁断の恋となれば、宮廷の大スキャンダルです。
しかし・・・この三角関係はもっと複雑でした。
日本書紀によると、額田王は、大海人皇子の最初の妻でした。
2人の間には、十市皇女と呼ばれる娘までいました。
しかし、やがて額田王は、天智天皇からの寵愛を受けるようになり、遂には天皇の妻となったのです。
大海人皇子はこの時、多くの妻を娶っていましたが、最初の妻であった額田王は特別な存在でした。
しかし・・・歌は、座興の歌・・・
酒宴の席で、かつて夫婦だった2人が場を盛り上げるために作った歌だったのです。

近江大津宮で天皇を中心とした中央集権国家の建設を目指す天智天皇・・・
それは、大国・唐と対抗でき得る強い国を創るためでした。
その一環として、670年、天皇は日本初の全国的な戸籍といわれる庚午年籍を制定。
人民の所在を把握し、徴兵や徴税などを確実に行えるようにします。
越して新たな国づくりを着々と進めていく一方で、悩んでいました。



次の大王を誰にすべきか??

天智天皇は、いずれ自分の娘と大海人皇子の間に生まれた皇子で孫となる草壁皇子か大津皇子のどちらかと考えていました。
ところが・・・天智天皇が晩年を迎えた段階で、草壁皇子も大津皇子もまだ幼く、すぐに天皇になることは無理だったのです。
そこで、間をつなぐための人が必要でした。
671年、ある決断をしました。
天智天皇の皇子でありながら、母親の身分が低いために後継候補から外れていた大友皇子を太政大臣に任じたのです。
それは、太政大臣として経験を積ませたうえで、中継ぎの天皇とし孫へとつなぐためでした。
ただ、天皇の中継ぎであればこれまで補佐してきた弟・大海人皇子でもよさそうですが・・・
当時は天智天皇の子孫が天皇になることが決まっており、弟の出る幕がなかったのです。
日本書紀によると、671年天智天皇が病に倒れます。
しかし、床に臥した天皇が枕元に呼んだのは大友皇子ではなく弟の大海人皇子でした。
そして驚くべき言葉を伝えるのです。

「我の病は重い・・・
 後のことは汝に任せた」

それは、弟である大海人皇子に皇位を譲るという遺言でした。
ところが、大海人皇子は天智天皇の皇后となる倭姫王を次の天皇とし、大友皇子を補佐役にするのがよいだろうと推薦、しかも病気がちな自分は出家するというのです。
その言葉通り、大海人皇子は出家し、吉野へと向かいました。
実はこの時、天智天皇が譲位の意を告げたのは息子である大友皇子の即位を脅かす恐れがある弟の本心を探るためでした。
譲位を受けると謀反ありとして粛清されることを恐れ、身を守るために出家したと推察できます。

壬申の乱勃発・・・
671年、兄・天智天皇からの即位の要請を断った大海人皇子は、その足で出家。
冬の寒さが厳しい中、家族や舎人や女官など70人ほどを連れ吉野に向かいます。
都を後にする大海人皇子を見送った近江朝廷の重臣たちは、こういったといいます。

「虎に翼をつけて放ったようなもの!!」

重臣たちは、大海人皇子を恐れていました。
しかし、当の本人は・・・虎のような勇猛さはありませんでした。
まさに都落ちの気持ちで吉野にいたのです。
672年、兄天智天皇が崩御したのは、その2か月後・・・46歳でした。
ところがその半年後・・・大海人皇子、挙兵!!
これに対し、大友皇子の近江朝廷も挙兵します。
672年、古代最大の内乱・壬申の乱の勃発です。
どうして吉野でひっそりと暮らしていた大海人皇子が・・・??
一説によると、天智天皇崩御後、大友皇子が第39代弘文天皇に即位したとされています。
そして、日本書紀によれば、吉野の大海人皇子のもとに朝廷の舎人・朴井雄君などが訪れこう告げます。

「近江の朝廷が、先の大王(天智天皇)の陵を造るという口実で、人々に武器を持たせております」

それは、朝廷が大海人皇子を討つための戦の準備だと!!
さらに・・・

「吉野の監視が強まり、こちらへの食糧の供給も断たれております」

食糧の供給が絶たれては生きてはいけない・・・
日本書紀は、この時大海人皇子を追い詰めたのは朝廷の権力を握ろうとしていた重臣たちと書かれています。
朝廷をわがものにしようとしていた重臣たちは、その障害となる大海人皇子を亡き者にするため戦の準備をしているのだと・・・!!
そこで、大海人皇子は、そのたくらみを阻止し、自らのみを守るために挙兵したというのです。
しかし・・・これは歴史の改ざんです。
壬申の乱は、大友皇子から天皇の座を奪うために挙兵したと思われます。

6月24日、吉野を出た大海人皇子らは、3日後には不破に到着。
不破の道と呼ばれる東国と西国をつなぐ道を封鎖すると、ここで兵を集めます。
大海人皇子はどのようにして兵を集めたのでしょうか??
内乱が起きる2年前に、庚午年籍という戸籍が出来ています。
大友皇子は「庚午年籍」を使い兵を集めていました。
大海人皇子はこれを逆に利用したのです。
「庚午年籍」を使って兵を集める国司に働きかけ、大友皇子が集めた兵を横取りしたのです。
国司たちが大海人皇子の味方に付いたのは、母親の身分が低い大友皇子よりも大海人皇子の方が血統的に優れていると考えたことが大きかったのです。
こうして、2万とも3万ともいわれる兵を集めることに成功した大海人皇子。
対する大友皇子の朝廷軍も同様の数に及びました。
その大軍勢が激突した壬申の乱は、激しい攻防が繰り広げられ・・・7月22日、近江瀬田川の唐橋で決戦!!

橋の東側に大海人皇子軍、西側に大友皇子軍の朝廷軍が布陣!!
大友皇子は、橋の中央に穴をあけて長板を置き、敵が橋を渡ってきたら括りつけた縄をほどき、板を外して敵を川に落としたのちに矢を射かける作戦に出ます。
大海人皇子軍は苦戦を強いられますが、勇気ある兵士が突撃し、縄を斬ったことで敵はそれ以上板を外すことができなくなり、形勢は逆転!!
大海人皇子軍が勝利しました。
逃げきれないと悟った大友皇子は自害・・・まだ25歳でした。



2カ月以上続いた内乱は集結。
その翌年・・・673年、大海人皇子は飛鳥浄御原宮へ遷都・・・天武天皇として即位・・・43歳でした。

壬申の乱に勝利したのち、飛鳥浄御原宮で即位した天武天皇は、律令国家の建設を目指しこう宣言します。

「新たに天下を平し!!」

天武天皇は、新しい身分制度「八色の姓」を制定。
真人・・・天皇の身内
朝臣・・・天皇の血筋につながる人
宿禰・・・天津神・国津神の子孫
忌寸・・・渡来系豪族
道師・・・詳細不明
臣・・・・詳細不明
連・・・・詳細不明
稲置・・・詳細不明
身分によって8つの姓に分け、天皇とそのほかの氏族たちの身分の差をより明確化することで、天皇の権力強化を図ります。
そして、681年、唐のような律令国家にするため、律令の編纂を開始します。
それが飛鳥浄御原令です。
しかし、原本が見つかっていないため内容がわかっていません。
同じ年には、正当な天皇の血筋を伝える日本初の正史とされる「日本書紀」「古事記」の編纂を命じています。
倭国という名を改め日本という国号を定め、大王を初めて天皇と名乗ったのも天武天皇とされています。
全ては唐に負けない国に強い国にするためでした。

その中で、天武天皇が何より大切にしたのは、新しい都の建設でした。
日本書紀によると、676年には飛鳥浄御原宮から北西に3キロほど離れた土地に後に藤原京と呼ばれる都を造成しようとしていたといいます。
発掘調査でも証拠が残っています。
新たな都づくりは、土地の造成や資材の調達、道路整備に排水路網の整備・・・すべてがこれまでにない大規模なものでした。
条坊制を初めて日本で採用した唐風都城となるはずでした。
しかし、天武天皇がその目で都を見ることはかないませんでした。

686年、天武天皇崩御・・・藤原京造営も中断されてしまうのです。

しかしこの後、天武天皇の后・第41代持統天皇が夫の遺志を継ぎます。
天皇崩御から4年・・・藤原京の造営を再開。
694年、藤原京遷都。
この都で政を行ったのは、天智天皇と天武天皇の地を継ぐ者たち・・・
日本で初めて行政法、民法、刑法の3つが揃った本格的な法律・・・
飛鳥浄御原令をもとにした大宝律令を制定します。
それは、新たな国づくりに命を燃やした兄弟・・・天智天皇と天武天皇が夢見た律令国家の姿・・・日本の新たな国の形でした。

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令和元年10月22日、天皇皇后両陛下は、高御座と御帳台にのぼり、皇位を継承したことを国の内外に宣言しました。

古より続く、古式ゆかしい即位儀礼・・・
その起源は、一人の女帝に遡ります。
飛鳥時代の女帝・持統天皇です。
持統天皇は高天原の神から行為を受け継ぐという前代未聞の方法で即位し、それまでの大王から天皇へと統治者の概念を一変させました。

始まりは、古代日本最大の内乱・壬申の乱でした。
皇位継承をめぐっておきたこの戦いで、持統天皇は夫・大海人皇子と共に謀をめぐらし、この戦いに大きく貢献しました。
その後、大海人皇子は天武天皇として即位、2人は共に、新たな国づくりへと歩み始めました。
しかし、天武天皇が崩御・・・後継者と目されていた息子・草壁皇子までもが相次いで病死・・・
持統天皇は選択に直面します。
次なる天皇を誰にするのか・・・??

奈良県明日香村・・・飛鳥時代に都がおかれた地です。
645年、後の持統天皇・・・鸕野讚良皇女は、中大兄皇子の娘として生まれました。
この年、ある大事件が勃発しています。
乙巳の変・・・中大兄皇子が、宮中で豪族・蘇我氏を謀殺・・・!!
皇太子となった中大兄皇子は、次々と政敵を排除していきます。
こうして手に入れた権力を固めるべく、更なる策を講じます。

657年、13歳を迎えた娘・鸕野讚良皇女を弟・大海人皇子のもとに嫁がせます。
大海人皇子は、中大兄皇子にとって母親の同じ兄弟です。
中大兄はこの結婚によって、自らの血筋へ権力の集中させることを図りました。
背景には、緊迫する海外情勢がありました。
7世紀後半、大帝国・唐と結んだ新羅が、ライバルの高句麗、百済を次々と攻め滅亡させていました。

663年白村江の戦い
倭国は半島の権益を守るため派兵に踏み切りますが、白村江で大敗します。
勢いに乗った唐の侵攻を防ぐためには、中央集権国家への変革が急務・・・
それには、強力なリーダーシップが必要とされていました。
668年、中大兄皇子が天智天皇として即位!!
大海人は、天皇中心の国づくりへ進みだした兄の側近として支えました。
次期天皇として最有力候補でした。

671年10月、鸕野と大海人に転機が訪れます。
天智天皇が大海人に告げます。

「余の病は重い・・・
 後のことはお前に託したい」

皇位を託すという天智天皇に対し、大海人は

「私自身も病気がちで、とてもお受けすることはできません
 大友王に全ての政務を執り行っていただくのがよろしいでしょう」

大友皇子は、天智天皇の実の息子でしたが、母親の身分が低く、皇位継承者としては大海人皇子の方が上でした。
しかし、天智天皇の真意は、大友への譲位にある・・・
それを悟った大海人皇子は、その日のうちに出家し、政界からの引退を宣言しました。
そして、さらに2日後、降りしきる雪の中、鵜野と共に大津を脱出、当時離宮の置かれていた吉乃に身を隠しました。

そこには、大海人皇子の周到な計算がありました。
当時の王位継承は、天皇が決められるものではありませんでした。
群臣が決めるか、納得して承認するということが必要でした。
大友の継承が実現すれば、それは大海人が辞退することでしかありえません。
当然、場合によっては十分挙兵があり得ました。
この年の21月、天智天皇崩御

事態は大きく動き出しました。
672年5月・・・吉野の大海人のもとに、大友が兵を集めているという知らせが届きます。
これを聞いた大海人は、すぐさま挙兵に踏み切り吉野を脱出します。
最初は20人ほどの少人数でしたが、道中息子の高市皇子や豪族を合わせ、軍勢は次第に膨れ上がります。
両軍はついに激突!!壬申の乱です。
数に勝る大海人軍は、大友軍を圧倒!!
ひと月に渡る激戦の末、大海人勝利に終わりました。

この間、鵜野は何処にいたのでしょうか?
桑名市・・・北桑名神社・・・
壬申の乱の間、鵜野は50キロ離れたこの地に居を定めていました。
自らの産んだ草壁皇子の他、大津皇子、忍壁皇子ら3人の幼子を養育し、前線で戦う大海人を支えたのです。

日本書紀は、鵜野がこれらの戦略の立案に積極的に立ち会っていたと記しています。
鵜野は大海人に従って、東国に危難を避け、軍勢を集結させ、共に謀を定めました。
673年、大海人は天武天皇として即位、鵜野は皇后となります。
2人は新たな国づくりへと手を携えて歩んでいきます。

飛鳥の浄御原宮からほど近く、天武天皇と鵜野の国づくりを象徴する遺跡が発見されています。
飛鳥池工房遺跡です。
7世紀後半から8世紀にかけて稼働していました。
炉跡群があり、炭を炊いて火を起こしてるつぼの中に銅や鉄やガラスを溶かしていた痕跡が残っています。
天武天皇は、この地に300以上の炉を持つ国営の工房を立て、金、銀の金属やガラスを加工し、日常で使う道具や装身具を作らせていたと考えられます。

ここから出土したのが、日本最古の貨幣として知られる富本銭です。
この発見によって、日本の貨幣経済が天武の時代に始まる可能性が高まったのです。
日本書紀には、天武天皇の命令が記されています。

「今より以後、必ず銅銭を用いよ
 銀銭を用いることなかれ」

当時使われていた銀銭は、銀そのものの価値で流通している銀の塊でした。
ところが、富本銭は、銅そのものの価値ではなく、貨幣として流通させるために作られたものだち考えられています。
中央集権国家をいかに樹立していくか?
そのことが伺えるのがこの遺跡であり、富本銭に象徴されています。

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皇后である鵜野が、積極的に進めた事業があります。
681年、鵜野は天皇と共に大極殿に出御し、律令の編纂を命じます。
飛鳥浄御原令です。
後の大宝律令に繋がる、わが国初の体系的な法廷の編纂が始まったのです。
こうして国家体制を着々と整備する一方、壬申の乱のような争いが二度と起きないように、天武天皇と二人で模索します。

679年、2人は、皇位継承権を持つ6人の皇子と共に吉野を訪れます。
同行したのは、最年長で壬申の乱を父と共に戦った高市皇子、鵜野の実の子である草壁皇子、鵜野の姉・大田皇女の子・大津皇子、さらに彼等と同世代の天智天皇の皇子たちも呼ばれていました。
天武天皇は、6人全員を懐に抱き、こう告げます。

「我が子ども、おのおの異腹にして生まれたり
 しかれども今、一母同産の如く 慈まん」

6人すべてを皇后・鵜野の子として扱うと宣言しました。
いわゆる吉野の盟約です。

それまでは、后の宮と大王の宮は別にあって、それぞれにその子供たちがいました。
母の違う子供たちは、成育の場所の違い、背後にいる氏族たちの勢力も違いました。
これは、画期的なことでした。
后の中である1人の人間(鵜野皇后)を特別な位置につける・・・
新しい一歩でした。
この結果、鵜野の実子である草壁皇子が筆頭に位置付けられ、他の皇子たちは皇位を巡って争わぬように諭されたのです。
しかし、それから7年・・・
686年、天武天皇崩御
事態は大きく動き出します。
皇子たちは即位にはまだ若すぎる・・・
鵜野はすぐさま天皇をおかず、自らその代理として政務をとりました。
称制です。

それから1か月後、事件は起こりました。
姉の子である大津皇子謀叛との密告です。
大津はこの時24歳、文武に秀でた才能を見せ、人望を見せ始めていました。
鵜野は即座に大津を捕らえ、死を命じました。
大津を吉野の盟約に反した咎を厳しく処罰することで内乱を未然に防いだのです。
ところが・・・更なる試練が鵜野を襲います。
天武の死から3年・・・689年、草壁皇子死去・・・実の子の病死でした。
継承権1位の草壁の死によって、皇位の行方は再び混沌となりました。
皇后である鵜野は、次期天皇をどうするかの選択を迫られます。

草壁の子・珂瑠皇子に継がせるのがいいか??
しかし、問題は豪族たちの反応・・・即位に相応しいと言われる年齢は、若くても30代・・・皇子はわずか7歳に過ぎない・・・
年長の皇子が数多いる中、即位を強引に進めれば、豪族たちの反発を生み、争いを起こしかねない・・・!!

他の皇子を即位させる??
慣例に従って、年長の皇子の中から即位させれば、彼等も納得するのではないか??
残された皇子のうち、最有力と言われていたのが高市皇子でした。
母親の身分が低く、血統で一段劣るものの、壬申の乱で活躍したことで、実績、人望の面では申し分ありませんでした。
他の皇子が即位した暁には、称制の立場から降りなければならない・・・
一旦権力を手放せば、天武天皇との間ですすめてきた国づくりをこの手で続けることが出来なくなってしまう・・・!!
斉明天皇をはじめ、女性天皇が皇位についたことが無いわけではない・・・!!
ここは、自ら即位するべきではないのか・・・??
しかし、鵜野が天皇でおさまるのだろうか・・・??
天皇亡き今、女性の即位に対し、牙をむいてこないとも言い切れない・・・!!
珂瑠皇子の擁立か、年長の高市皇子か、自ら即位するべきか・・・??

690年1月・・・鵜野は持統天皇となり即位しました。
有力候補だった高市皇子は、太政大臣に任命され、実務で天皇を支える体制が整えられました。
しかし、持統天皇に壬申の乱を勝ち抜いた天武天皇のようなカリスマはない・・・!!
そのことを自覚していた持統天皇が、即位に当たって行ったのが、前代未聞の即位儀礼でした。
日本書紀にはその様子が詳細に書かれています。

”物部麻呂が大盾を立て、神祇伯中臣大嶋が天の神々の祝福の言葉を読み上げ、さらに後の三種の神器にもつながる行為の象徴・剣と鏡が鵜野皇后に捧げられます
 そして、天皇位に就いた持統天皇を群臣は列をなし、廻って拝み、柏手を打ちました”

群臣が主体で王を推挙するというのが旧来の在り方でした。
持統天皇の即位義というのは、王権主導で神として即位・・・
天の神から統治を委託された私が皇位に就く・・・
そういう儀式を作り上げました。
持統天皇の諡は、高天原広野姫天皇・・・皇位継承の源を、高天原の神々に求めたのです。

自らの統治の正当性を求めた持統天皇が、繰返し行った行事があります。
壬申の乱の記憶を色濃く残す吉野への行幸でした。
天武天皇を祀る浄見原神社には、天皇と吉野の深いつながりを表す行事が今に伝わっています。
毎年旧正月に奉納される国栖奏と呼ばれる舞です。
壬申の直前、この地に逃げた大海人皇子に、里人が舞って慰めたといいます。
戦いの後も、天皇と人々との関係は続きました。
大海人皇子が、第40代天武天皇として飛鳥浄御原宮に即位され、その時に、国栖人を呼びになって、国栖舞を奏しなさいとお定めになられ・・・それ以来、宮中に約500年間参内奉仕しています。

持統天皇の吉野への行幸は、9年間で31回にも及びました。
宮中で、そして吉野で、天武天皇と自分は一体であることを折に触れて群臣にアピールしたのです。
即位から4年後、藤原京に遷都・・・これこそ、持統天皇が、天武天皇から引き継いだ大事業でした。
飛鳥の北西4キロの地に建設された藤原京・・・
大和三山に抱かれた5.3キロ四方の土地は、後の平城京、平安京を凌ぎます。
中国の都に習い、碁盤の目状に区画された敷地には、官庁や貴族の邸宅が建設されています。
その目的は、豪族たちに飛鳥から藤原京への移住を促し、官位に応じて仕事を与え、天皇に奉仕させることにありました。
都の中心に建設されたのが、天皇が政務や儀式を行う大極殿です。
正面の幅は40m、高さ25mという巨大な建造物です。
それまで寺院にしか使われていなかった瓦が初めて宮殿に使われ、新たな時代の到来を人々に強く印象付けました。
現在も発掘が続けられている藤原京で、近年興味深いものが発見されました。
旗竿を絶てたであろう柱の穴です。
続日本紀の大砲元年の条、元日朝賀の記事には、7本の幢幡と呼ばれる旗竿を立てたという記事があります。
ここで発見された7本の穴は、その幢幡を示していると思われます。
発掘現場は、大極殿南門のすぐ南に位置します。
大宝元年に行われた儀式では、天皇を象徴する三本足のカラスを象った幡を中心に、太陽と月、東西南北を守る4つの神を描いた旗が翻り、万物の調和があらわされました。
57歳を迎えた持統天皇は、文武百官、外国の使節が参列する中、華やかに正月朝賀の儀を執り行いました。
続日本紀は、その様子をこう記しています。

”文物の儀、これに備われれり”

持統天皇は、ここに天武天皇から引き継いだ国づくりの完成を高らかに宣言しました。
持統天皇が組み上げたこのシステムのおかげで、日本の天皇の精度が長く続いたのです。

696年、それまで太政大臣として持統天皇を支えてきた高市皇子が病死しました。
高市の死は、50を超えた持統天皇に後継者を固めなければならないという思いを新たにさせました。
この時、持統天皇は、草壁の子・珂瑠皇子の立太子を決断します。
しかし、珂瑠はまだ15歳・・・他にも年長の皇子は大勢います。
即位には依然として大きな壁が・・・!!

この時、持統天皇がとった手段について日本書紀は書いています。

”謀を禁中に定めた”

持統天皇は、群臣や継承権を持つ皇子たちを宮中に呼び寄せて話し合いをさせました。
天皇の御前で行われたこの会議には、その後の皇位継承の方針を定める周到な秘策が準備されていました。
群臣がそれぞれ推す皇子を主張し紛糾する中、一人の人物が口を開きました。
壬申の乱の敗者・・・大友皇子の息子・葛野王です。

「神代以来、子孫が皇位を継ぐのが我が国の法である
 兄弟継承では乱となる」by葛野王

皇子の一人が立ち上がり、何かを言いかけましたが、葛野王が一喝!!
持統天皇にとって、子孫は珂瑠皇子しかいません。
一部始終を見ていた持統天皇は、葛野王の一言が国を定めたとして大いに褒めたといいます。

697年8月、珂瑠皇子は文武天皇として即位。
群臣の推挙による兄弟間相続から天皇の遺子による直径相続へ・・・
持統天皇は、皇位継承のルールを大きく変えたのです。

一番大きなことは、王権主導で群臣はそれを承認するという立場がはっきりしたことです。
15歳であっても即位できるという先例ができました。
譲位をして次を決める・・・それは、明治になるまで続きました。
皇位を譲った地頭は、太上天皇として文武天皇を後見・・・

その最晩年に行ったのが、遣唐使の再開(702年)です。
持統天皇は、唐に代わって建国された周の女帝・則天武后に使者を送ります。
それまでの話に代わる国号・日本を認めさせました。
白村江の敗戦からおよそ40年、新興独立国家・日本は、東アジアの国際社会の中に船出したのでした。

702年12月、持統天皇崩御・・・58年の生涯を閉じました。
亡骸は、飛鳥の地に夫・天武天皇と共に合葬されました。
文献によれば、天武天皇の棺と持統天皇の骨蔵器は葬られています。
持統天皇は天皇として初めて亡骸を火葬、遺骨を骨蔵器に納めて葬られました。

古代最大の内乱に勝利し、中央集権国家建設に邁進した天武天皇・・・
持統天皇は、夫の遺志を引き継ぎ、現在に続く日本の国の形を完成させたのです。
2人の天皇は、今、共に飛鳥の地で永遠の眠りについています。

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現在教科書に日本初の鋳造貨幣として書かれているのは、和同開珎ではなく、富本銭です。
富本銭は、既に江戸時代の古銭図鑑に載っていてかなり古くから知られていましたが、近年まで数枚しか発見されていなかったので、貨幣ではなく祭事用に作られた特別なまじない銭だとされてきました。
さらに、いつ造られたものかもわかっていませんでした。
ところが、19999年1月、奈良県明日香池工房遺跡で富本銭が大量に出土・・・大発見でした。
ここは、飛鳥時代の漆やガラス、金銀細工の工房跡で、銅の鋳造も行っていました。
発掘された富本銭は、鋳ばりが残っていたり、型や不良品が発見されたのです。
これは、天武・持統朝の時代だとされています。
日本書紀には、天武天皇12年(683年)に「今より以後銅銭を用いよ」という記述があります。
この銅銭が、和同開珎なのか、富本銭なのか、どの銅銭なのか、ずっと議論されてきました。
富本銭の年代がそこに遡るということで、富本銭が作られたのは683年頃と判明しました。
708年の和同開珎より20年近くも古い683年頃の富本銭・・・歴史が大きく変わった瞬間でした。
天武天皇は、中国式の新しい国づくりを行っていました。
都・飛鳥浄御原宮、藤原京、律令制度、氏姓制度、貨幣制度・・・そこで作られたのが富本銭でした。
当時の東アジアで、貨幣を鋳造していたのは中国と日本だけでした。
中国を手本にしながら、それに引けを取らない国づくりをしようとした天武天皇の心意気が、意気込みが感じられます。
富本銭の大きさは、唐の改元通宝とほとんど一緒です。
改元通宝を手本にして作られたと思われます。
実際に富本銭は使われていたのでしょうか??
出土が少ないことから、貨幣として鋳造されたものの、本格的な流通はしなかったと思われます。

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古代史も変わっています。
かつて4世紀中頃は、大和朝廷がその他の豪族を支配下に置き、統一政権として政治を行っていたとされてきました。
しかし、現在の教科書では、”大和朝廷”は”ヤマト政権”と表記されています。
表記が変わった理由は・・・??
大和が漢字ではなくなったのは・・・やまとを”大和”と書いた最古の文献は、8世紀後半の養老律令です。
4世紀中ごろは、大和ではなく、”倭””大倭”という文字が使われていました。
そのため、現在では4世紀中ごろに「大和」という漢字を使っていた確証がないため、カタカナの「ヤマト」と表記するようになりました。
朝廷が政権となったのは・・・??
朝廷は天皇を中心に政治を行う場所です。
しかし、当時の日本では、小国がたくさんありその王が支配し、その上に大王がいた・・・
「ヤマト政権」の時代は、天皇が全国を支配した統一政権ではなく、大王を盟主とした連合政権だったのです。
まだ朝廷という形態はなく、政治権力のみだったため、「政権」と表記するようになったのです。

実際に、朝廷が成立したのはいつ・・・??
朝廷の確立は、天皇が日本全国を支配下に置いたときとされています。
初代天皇といわれた神武天皇・・・古代においても天皇はいましたが、天皇の称号は後からつけられたもので、大王でした。
最初に自らを天皇と名乗ったのは誰でしょう・・・??
それは、第33代推古天皇といわれてきました。
その根拠の一つが法隆寺の薬師如来像で、銘文に大王天皇と書かれています。
そして丁卯年・・・これは推古天皇15年=607年だと考えられました。
なので、この銘文が天皇という表記が最も古い・・・初めて称したのは推古天皇でその頃に朝廷が成立したと考えられてきたのです。
ところが、昭和初期・・・薬師信仰が始まった時期や、銘文の筆跡から、薬師如来像は推古天皇の時代以降に作られたもの・・・もしくは、銘文が後に書かれたものと考えられるようになりました。
その時代についても諸説あり、一つ目は薬師信仰が日本にもたらされた第40代天武天皇の時代という説、もう一つが天智天皇9年・・・670年に、法隆寺が一度消失しています。
その再建にあたり、この薬師如来像が新たに据えられたのではないか??というのです。
つまり、天武天皇の兄である第38代天智天皇の頃という説です。
天智天皇は皇太子時代に大化の改新を断行、その詔で、公地公民制・・・「すべての土地と人民は、天皇が所有し支配する」と政策方針を示し、その後即位しました。
他にも天智天皇は現存しない幻の近江令を出したともいわれています。
なので、朝廷という政治形態が確実に存在した時代は、天智天皇~天武天皇の時代の頃だと思われます。

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日本初の正史・・・公認の歴史書と言われる日本書紀・・・
681年3月、第40代天武天皇の命によって編纂が始まり、40年の長い歳月を費やして720年全30巻が完成しました。
そこには神々による国の創生と天皇家の歴史が書かれ、時代を越えて多くの人に読み継がれてきました。
しかし、日本書紀にはある疑惑が・・・。

1~2巻・・・神代紀・・・神々による日本の創生
3巻以降は、天照大神の子孫である初代神武天皇から天武天皇の妃・第41代持統天皇までの天皇家の歴史

「古事記」も天武天皇の命によって編纂されたもので、この二つを合わせて記紀と言います。
内容も非常に似ていますが違っているのは・・・古事記はすべて漢字で書かれているものの日本語を漢字で記したものです。
日本書紀は、完全な漢文・・・古代中国語で書かれています。
日本の歴史書なのに、どうして漢文で書かれていたのでしょうか?

日本書紀の編纂が始まったのは、681年3月・・・
天武天皇が6人の皇族と6人の役人に編纂を命じたと言われています。
そしておよそ40年後の720年、天武天皇の王子・舎人親王によって完成します。
時を同じくして古事記の編纂も行われていましたが、漢文と日本語・・・二つのモノが必要だった理由・・・それは、編纂が始まる18年前に始まった白村江の戦に関係していました。

660年、日本と友好関係を結んで仏教をもたらした百済が、唐・新羅の連合軍に敗れて滅亡・・・
3年後、日本は百済復興のために3万の水軍を派遣!!
白村江で唐・新羅の連合軍と激突!!
しかし、結果は惨敗!!
日本軍は、全面撤退を余儀なくされます。
この敗戦を機に、朝廷は国防を意識するようになり、時の女帝・斉明天皇の皇子・中大兄皇子は大宰府に水城や山城を建造、対馬と筑紫には防人をおきました。
さらに、中大兄皇子が第38代天智天皇に即位すると・・・国家として唐に劣らない政治体制を築くために近江令を制定、庚午年籍を作成します。
そうした国家の体制づくりを受け継いだ弟・天武天皇は日本書紀によって日本を守ろうとしたのです。

日本は、唐をはじめとするアジア諸国に対して、唐と匹敵する深い歴史や文化があることを、日本書紀によって示したのです。
だから、日本書紀は完全な漢文で書かれているのです。
つまり、日本書紀は国外向け、古事記は国内向けに作られているのです。

「日本」という国名が初めて使われたのはこの日本書紀が初めてです。
それまでは、中国によってつけられた倭と呼ばれていましたが、それを用いず日本を使うことで成熟した独立国家であるとしたのです。

しかし・・・歴史は権力者が作るものです。
権力者に都合のいい歴史が書かれる・・・特定の事件、人物に対して事実とは違うことが書かれています。
日本書紀には虚構の歴史が書かれているというのです。

1~2巻・・・神代紀には、天皇の誕生がこう記されています。
男神の伊邪那岐と女神の伊邪那美が愛し合って日本列島を生み、そこに天照大神の孫である邇邇芸命が降り立ちます。
この邇邇芸命の子孫が、初代神武天皇となったと。
7巻には、日本武尊が登場!!
女装で油断させ、ヤマト王権に抵抗する九州の熊襲を成敗します。
いずれも本当のことかどうか定かではありませんが、天皇家の権威を高まるために書かれたことには違いありません。

ところが・・・16巻に登場する25代武烈天皇は・・・悪行の限りを尽くした稀代の暴君として書かれています。
あろうことか妊婦の腹を裂き胎児を見たり、生爪をはいだものに素手で山芋を掘らせたり、木に登らせたものを射殺したり・・・やりたい放題・・・これほど悪く書かれている天皇は他にありません。
武烈天皇は、自らの悪行が祟ったのか跡継ぎを残せないまま崩御。
天皇家の正当な血統が絶たれてしまったために、10代前の応神天皇の5世孫・継体天皇を越前から呼び寄せて即位させたのです。
天皇を神格化して日本の統治者であることを正当化する為に作られた日本書紀に、どうして天皇家の不名誉な歴史が書かれているのでしょうか?

実際に武烈天皇がそうだったのではなく、中国の歴史書に倣って暴君にされてしまったようです。
中国は有史以来、数多くの王朝交代を繰り返してきていました。
そして王朝が滅び去るときには暴君の存在がありました。
日本書紀によって中国に匹敵する連綿とした歴史があることを主張したい日本でしたが、王朝の滅亡や暴君が登場したことはなく書けない・・・
そこで、跡継ぎを残さないまま亡くなった武烈天皇を暴君に仕立て上げ、血統の交代を中国の王朝交代のようにドラマチックなものにしたのでは・・・??と言われています。

日本書紀にはその編纂を命じた天武天皇に関することも書かれています。
それは、天皇に即位する前・・・大海人皇子の時に起きた大事件です。
672年に多くの皇族や豪族を巻き込んで起こった古代最大の内乱・・・壬申の乱です。
日本書紀28巻にはその経緯が書かれています。
天智天皇は、当初弟の大海人皇子(天武天皇)を次期天皇候補の筆頭にしていました。
ところが・・・第一皇子の大友皇子が成長すると・・・親子の情に流されて、朝廷の官職の最高位である太政大臣に任命。
次期天皇候補の序列を入れ替えてしまったのです。
それでも安心できない天智天皇は、病床に大海人皇子を呼んで揺さぶりをかけます。
「皇位をそちに譲る・・・」
この言葉にまんまと乗ってくるならば、謀反の意ありと討伐!!と考えたのです。
それを察した大海人皇子は出家して吉野の山へ・・・。
こうして天智天皇の子・大友皇子が第39代弘文天皇として即位。
疑心暗鬼の弘文天皇は、吉野の大海人皇子に食料が届かないというような妨害工作を働きかけます。
もともと皇位を奪うつもりなどなかった大海人皇子ですが・・・

「このままだと命を奪われてしまう・・・」

と考え身を守るために兵を集めて挙兵しました。
多くの皇族や豪族を巻き込んで両軍が激突し、これに勝利した大海人皇子が第40代天武天皇となったのです。
つまり、大海人皇子はやむを得ず弘文天皇を討ったというのです・・・が。
真相は全く違っていました。
当時は跡を継ぐのは長男で・・・次男である大海人皇子はそれを補佐する存在にならなければなりませんでした。
つまり、大海人皇子には後継継承権はなかったのです。
それにもかかわらず、地位と権力を奪い取った・・・その通りに書くわけにはいかなかったのです。
後継証券がない大海人皇子が天皇になりたくて起こした一方的な皇位の簒奪だったのです。

大海人皇子が託されたのは、”天智天皇の血を受け継いだ正当な後継者を生み出すこと”でした。
大海人皇子は天智天皇の娘4人を妻にしています。
我が子である大津皇子、草壁皇子などの後見人を期待されていたのです。
しかし、やはり息子たちの後見人では満足できない・・・天皇になりたいという野心がありました」。
おまけに、鵜野讃良皇女は天智天皇の娘でした。
夫である大海人皇子が平の皇族であっては困る・・・後見役で終わってしまっては困る・・・という切迫した思いがこの反乱を起こした一因だったともいわれています。

日本書紀の中で、自分の皇位継承を正当化する為に歴史を作り変えてしまった天武天皇・・・
しかし、編纂が始まってわずか5年後・・・686年10月崩御!!

その後、日本書紀の編纂に大きな影響を与えたのは・・・当時の最高権力者・藤原不比等でした。
朝廷に仕える役人のひとりに過ぎなかった不比等は、701年日本初の本格的な基本法・大宝律令の編纂において中心的な役割を果たしたことで、政治の表舞台に登場します。
さらに、娘・宮子が文武天皇に入内し、後の聖武天皇となる首皇子を出産すると、天皇家との関係を強くしたことで、絶大な権力を掌握!!
後に続く藤原家の隆盛の礎となりました。
そんな不比等もまた、史実の改ざんを行った可能性が高いのです。
父である中臣鎌足が大きく関与した歴史的事件・・・大化の改新の発端の真実とは・・・??

奈良明日香村にあるにある伝飛鳥板蓋宮跡・・・35代皇極天皇の宮殿があった場所です。
ここで645年大化の改新の発端とされる事件が起こりました。
乙巳の変です。
日本書紀24巻には、事の顛末がこう記されています。
ある日、皇極天皇の皇子・中大兄皇子が蹴鞠をしていると靴が脱げてしまい・・・その靴を役人のひとりである中臣鎌足が拾います。
これをきっかけに意気投合した二人は、絶大な権力を握り天皇を蔑ろにしていた蘇我氏をうち滅ぼそうと決意をします。
そして、飛鳥板蓋宮で、朝鮮の使節が天皇に貢物を捧げる儀式が執り行われている時・・・
二人は儀式に出席していた蘇我入鹿を襲撃し、斬殺!!
さらに中大兄皇子が入鹿の父・蝦夷の反撃に備えて兵を集めると、蘇我氏の最期を悟った蝦夷は自らの屋敷に火を放ち、自害した・・・。
つまり、乙巳の変は、天皇を蔑ろにする蘇我氏を二人が成敗する・・・正義の決起!!
本当にそうだったのでしょうか?
日本書紀によって大悪人とされている蘇我蝦夷・入鹿親子・・・の蘇我氏。
表舞台に登場したのは6世紀前半からで、入鹿の曽祖父稲目が朝廷の大臣に就任したことに始まります。
稲目の後は馬子・・・馬子は、日本に伝来したばかりの仏教を推進し、権力を拡大。
日本初の本格的仏教寺院・飛鳥寺を建立します。
33代推古天皇のもとでは、中心となって国政を司りました。
蝦夷・入鹿の時代になると、隆盛は極まり、朝廷の権力を掌握!!
そして、大きな事件を起こします。
乙巳の変の1年半ほど前の643年・・・蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を次期天皇にしたいと考えていた入鹿は、最大のライバルである山背大兄王を襲撃!!
一族もろとも自害に追い込みました。
日本書紀には、入鹿の単独行動による暴挙とされていますが・・・乙巳の変の原因となる事件とされていますが・・・。
入鹿は黒幕に命じられて、山背大兄王を襲撃したのではないのか??
黒幕とは・・・当時の天皇であった皇極天皇??
皇極天皇は、後の天智天皇、天武天皇の実の母親です。
中国の文化や思想に傾倒した天皇で、事件が起こった当初は自らが暮らす飛鳥を、唐の長安のようにしたいと・・・権力の象徴となる都にしたいと思っていました。
しかしこの時、斑鳩に新しい宮殿が築かれており、そこを拠点とする山背大兄王が次期天皇となれば、都が斑鳩に移ってしまう・・・。
そこで、腹心・入鹿に命じて山背大兄王を襲撃させたのでは・・・??
入鹿は皇極天皇の命に従って山背大兄王を襲撃したに過ぎない・・・。
日本書紀の入鹿の単独行動による暴挙はうそ??

入鹿が惨殺された理由は・・・??
日本書紀では中大兄皇子が入鹿を暗殺した際に、皇極天皇にこう訴えています。
「蘇我入鹿は天皇家を滅ぼそうとしていました。
 いるかなどによって、天皇家が滅びるようなことはあってはなりませぬ。」
朝廷をh牛耳っていた蘇我入鹿は天皇家を滅ぼし、その地位を乗っ取ろうとしていた・・・これを防ぐために、入鹿を討ったと言っているのですが・・・??
蘇我氏は当時、蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を天皇にしようとしていました。
決して自分達が取って代わろうとは思っていませんでした。
どうして「乙巳の変」は起こったのでしょうか?
そこで出てくるのが黒幕・皇極天皇です。
皇極天皇は山背大兄王暗殺の褒賞として、蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を次期天皇に内定しました。
が・・・これに不満を抱いたのは、次期天皇の座を虎視眈々と狙っていた皇極天皇の弟・軽皇子でした。
軽皇子は、天皇に次期天皇内定の取り消しを願い出ましたが、良い返事が返ってきません。
そこで・・・
「私を次の帝に指名していただければ、飛鳥京の築造に協力いたします。」
と申し入れ、ようやく納得させたのです。
そうなれば、あとは邪魔者を始末するのみ・・・。
邪魔者とは・・・古人大兄皇子を推す蘇我氏でした。
乙巳の変は、日本書紀に記されている正義の決起ではなく、軽皇子が起こしたライバル勢力の排除であり、そこには皇極天皇の心変わりがあったのです。
それは、天皇家や、それにかかわった中臣鎌足の子・不比等にとって知られたくない事実でした。
そのため、蘇我氏は日本書紀によって稀代の大悪人とされてしまったのです。



軽皇子は、乙巳の変2日後に即位し、孝徳天皇となります。
蘇我氏が持っていた公共事業の権利を天皇家が掌握することとなります。
これによって莫大な利権が自分の物となるのです。

中大兄皇子と藤原不比等は一刺客として乙巳の変に参加しました。
中大兄皇子は叔父が即位した方が、皇位が巡ってくる可能性が・・・
鎌足は、乙巳の変当時は軽皇子の腹心でした。
二人が英雄のように書かれている理由は・・・
編纂された当時の天皇の理想像は、一つは天智天皇の血統を受け継いでいる事、もう一つは藤原氏の血脈である事・・・それはまさに当時の皇太子。。。首皇子(聖武天皇)のことだったのです。
二つが結びついた事件が乙巳の変だったのです。
二人が一刺客ではなく主役であったと改ざんされることとなりました。

日本書紀には、天智天皇が自ら鎌足の病床を見舞う・・・そして、669年藤原姓を賜わるというエピソードがあります。
藤原氏が天皇家にとって特別な存在であるということを、知らしめなければならなかったのです。
不比等以降、藤原氏の黄金時代が続きます。
それは日本書紀によってつくられた藤原氏のイメージが根底にあったのです。

軽皇子が孝徳天皇となって始めた政治改革が大化の改新です。
教科書にも、天皇による中央集権化が進んだ重要な改革だったと書かれています。
日本書紀には、その大化の改新の政策方針として発令された「改新の詔」が次のように記されています。

・土地や人民の私有を禁じる公地公民制の施行
・首都の設置
・戸籍の作成
・新しい租税制度の制定

ところが・・・この改新の詔についても・・・1967年に発見された木簡により改ざんがあったことが明らかとなりました。
日本書紀の改新の詔には、”郡”という行政区画の単位は701年以降から使用されたとあります。
木簡から”郡”が使われだしたのは、701年以降であることが判明・・・つまり、改新の詔は本来のモノではなく、701年以降に不比等の時代に書き換えられたものなのです。
どうして書き替える必要性があったのでしょうか?
乙巳の変の正当化のため・・・大改革を目指して行われたとしなければ・・・
大化の改新をより際立ったものにするために、その発端となった乙巳の変の歴史的価値を高め、それを実行した中大兄皇子と中臣鎌足の名声をあげる・・・そのために、改新の詔を改ざんしたのでは・・・??

古代日本を語るうえで欠かせない聖徳太子・・・
日本書紀における聖徳太子についての記述は・・・厩戸皇子・・・。
聖徳太子は、生前の功績をたたえて後世に呼ばれた名前で、本来の名は厩戸皇子です。
日本書紀によると、第31代用明天皇の皇子として生まれました。
生まれてすぐに言葉を話し、青年後は一度に十人の話を聞くことができたという超人的な能力を持っていました。
叔母の推古天皇が第33代推古天皇として即位すると、皇太子として摂政として政治改革に邁進し、冠位十二階や十七条憲法を制定、遣隋使を派遣し大陸の文明や文化を吸収、法隆寺をはじめ、多くの寺院を建立。
仏教の普及に尽力しました。
まさに古代の英雄です。
のはずですが・・・その厩戸皇子に関する資料はほとんどなく、98年後に作られた「日本書紀」にだけ詳しく書かれています。
聖徳太子こと厩戸皇子は実在の人物ではなく日本書紀によって書かれた虚構の人物・・・??

厩戸皇子は実在するものの聖徳太子として広く知られている人物像は日本書紀によってつくられた可能性が高く、さらにその立場も・・・皇太子に立てられ摂政ということですが・・・
厩戸皇子の時代、皇太子や摂政という地位はありませんでした。
皇太子であり摂政であるというのはねつ造だと思われます。

厩戸皇子は、実際にどんな職務についていたのでしょうか?
605年政治の中心だった飛鳥を離れ、斑鳩に築いた宮殿に移ります。
このことから朝廷での職務は・・・??
斑鳩は、当時の国際玄関口である難波にアクセスしやすいところにありました。
期待された役割は外交・・・外務大臣であったのです。
遣隋使の派遣・・・むしろこれが本来の職務で十七条憲法作成には携わっていないばかりか十七条憲法自体、天武天皇の時代以降につくられた可能性が高いのです。
そうなると、厩戸皇子は天才政治家でもなかったことになります。
どうして日本書紀は厩戸皇子を超人的な皇太子に仕立て上げたのでしょうか?
そこには藤原不比等と首皇子(聖武天皇)の存在がありました。

日本書紀が完成される時期に皇太子となったのが首皇子でした。
日本に皇太子という制度が導入されたのは7世紀末・・・編纂された当時、皇太子ってなに?と、認識されていませんでした。
そこで、皇太子とはかくあるべきという皇太子の理想像としてつくられたのです。
頭脳明晰、人の話をよく聞く、仏教を重んじる・・・理想像を示すことで、それを手本に首皇子に学んでもらい、偉大な天皇となってほしい・・・そうなれば、天皇家と密接に結びついている藤原家も安泰・・・。
不比等はそう考えていたのかもしれません。
そんな野望が、聖徳太子こと厩戸皇子の虚構の人物像を作り上げたのです。
そしてそれを学んだ首皇子は、第45代聖武天皇となり、廬舎那仏・・・奈良の大仏建立に情熱を注ぐのです。
仏教によって国を守り安定させることで、天皇の権威を示そうとしました。
そして、そのそばには藤原氏の姿がありました。

日本初の正史・・・国歌公認の歴史書でありながら、時の権力者によって事実でない虚構が数多く記されている日本書紀・・・まさに、歴史は勝者によってつくられるのです。


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