日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:安国寺恵瓊

天正10年6月2日早朝・京都・・・
戦国の歴史を大きく変えた本能寺の変が起こりました。
天下取りを目前にしていた織田信長が、家臣・明智光秀の謀反にあい自害したのです。
そんな主君の敵を討ったのは、ご存知豊臣秀吉!!
しかし、神業ともいわれる中国大返しには、今なお多くの謎が・・・!!

織田信長の死を一番早く知ったのは、京都に近い大坂で四国攻めの戦の準備中だった織田信孝と丹羽永時ででした。
本能寺の変が起こったその日に信長の死を伝え聞いていました。
にも関わらず、京都に向かわなかったのは何故なのか・・・?
この時、織田信孝、丹羽長秀は、箝口令を敷かなかったので、兵士たちがパニックを起こしました。
信長の死を知った兵士たちがパニックを起こして逃げ出したのです。
2人は、仇討に向かうところではなくて、守りを固めるのが精いっぱいだったのです。

柴田勝家は、京都からおよそ300キロ離れた越後で上杉攻めを行っていました。
勝家が信長の死を知ったのは6月5日から7日の間です。
勝家はすぐに北ノ庄城に戻り、明智光秀討伐の準備を始めますが、出陣できずにいました。
京都の戻る際に、上杉軍に追撃される恐れがあったためです。
明智光秀は、上杉景勝に本能寺の変の計画を事前に伝えていたともいわれています。
信長が死ねば、勝家は戦どころではなくなるとわかっていたのか、上杉軍が追撃の体勢を整えていたため、勝家は動けずにいました。

北条氏が治める関東をほぼ制圧しつつあった滝川一益が、本能寺の変を知ったのは、6月7日から9日の間です。
しかし、時を同じくして北条氏も信長が死んだという情報を入手、反撃してきたのです。
そのため一益は、京都に敵討ちに行くことが出来ませんでした。

中国地方を制圧するため毛利方の備中高松城を攻めていた羽柴秀吉は・・・??
信長の死を知ったのは、本能寺の変の翌日、6月3日の夜でした。
京都から200キロも離れた場所で、どうしてそんなに早く知ることが出来たのでしょうか?
本能寺の変が起こることを知っていたのでは??とも言われていますが、それはないでしょう。
明智光秀はこの時、織田信長を討ったから和平交渉に応じるなという内容の密書を毛利に送っていました。
その密書を持った使いの物が、秀吉の陣営に迷い込み、捕らえられてしまったのです。
つまり、毛利より、秀吉の方に情報が早くっ伝わってしまったのです。
この時秀吉は、毛利方の清水宗治の居城・備中高松城を水攻めにし、落城寸前にまで追い込んでいました。
作戦は、城の周りに全長3キロ、高さ7キロの堤を築きました。
その中に、近くの川の水を引き入れ、城を水没してしまおうというものです。
さらに、城を完全に孤立させるために、周辺の警備も厳重に警備します。
すると、光秀が毛利方に送った密使が祖の警備網に引っかかってしまったのです。
城攻めの秘策のおかげで思いもよらず、信長の死を早く知った秀吉ですが、草履取りから取り立ててくれた信長を父のように慕っていた秀吉は、我も忘れて只々泣くばかり・・・
そんな秀吉の目を覚まさせたのは、軍師官兵衛の一言でした。

「これは天の御加護・・・天下取りの好機でございます」

その言葉で冷静さを取り戻した秀吉は、主君の敵・明智光秀を討ち、天下を取るという野望を滾らせるのです。
そして、すぐさま箝口令を敷きます。
事件を知った一部の家臣たちに口止めをし、信長の死は極秘事項に・・・
当然、毛利方にも情報が漏れないように密使を斬ったうえで、備前から備中への道を封鎖しました。
そして、交渉がまとまりかけていた毛利との和睦を急ぎます。
信長の死を知ったその夜、毛利方の交渉人・安国寺恵瓊を呼び出し、それまでの条件を緩める旨を伝えます。

①備中・美作・伯耆の三国の割譲を求めていましたが、割譲するのは美作、備中・伯耆は領土折半と譲歩
②備中高松城主・清水宗治が切腹すれば、城に籠っている5000人の兵士たちの命は保証

暗礁に乗り上げていた講和、秀吉からの譲歩で毛利側は喜んで応じてきました。
清水宗治の死もやむなし!!
こうして、毛利との講和が実現!!
秀吉が信長の死を知ってから数時間後のことでした。

その日のうちに、水上の船の上で、備中高松城主・清水宗治自刃。
その見事な最期に秀吉は”武士の鑑”と褒め称えたといいます。
しかし、その直後・・・秀吉のウソがばれ、毛利側が信長の死を知ってしまいました。
秀吉が恐れたのは、毛利方の追撃でした。
この時、毛利方の吉川元春・小早川隆景が、1万5000の兵を引き連れて援軍に向かっていました。

「信長が死んだ以上、講和など破棄して秀吉を討つべきだ」by吉川元春

しかし・・・
「誓いの書の墨が乾かぬうちに、講和を破棄するわけにはいかぬ」by小早川隆景

結局、小早川の主張が通り、軍勢は秀吉を追撃することはありませんでした。
さらに、毛利軍が追撃しなかった理由には・・・
和睦の1か月ほど前の事、毛利輝元が家臣に宛てた書状には・・・
「こちらは鉄砲は言うに及ばず、弾薬も底をついている」
武器弾薬を使い果たしていたのでは、追撃などできません。
ところが、これも秀吉の策によるものでした。

秀吉は、瀬戸内海を支配する村上水軍を調略していました。
つまり、毛利の補給路を断っていたのです。
もともと村上水軍は毛利方の水軍で、因島、来島、能島の三家に分かれていました。
そのうちの来島村上家は、既に毛利を裏切り信長側についていましたが、秀吉はこの時、能島村上家を調略・・・手中に収めていたのです。

6月5日、吉川元春と小早川隆景の軍勢は撤退を開始、それを見届けた秀吉は、翌6日、2万の軍勢を率い京都へ・・・8日間、200キロの怒涛の行軍が始まりました。
秀吉の神業ともいわれる中国大返しが始まりました。

1日目・6月6日午後2時・・・
備中高松城を後にした秀吉軍は西国街道を通り、22キロ離れた沼城へ。
西国街道は、援軍として来るはずだった信長のために、秀吉が事前に整備していたため行軍は比較的楽でした。
向かう備前・沼城は、秀吉の家臣・宇喜多直家の居城・・・待ち受けていた宇喜多もまた抜かりなく。
秀吉たちが夜でも移動しやすいように、街道沿いに松明をたき、城についたときにすぐに食事ができる用に整えておきました。
こうして順調なスタートを切った秀吉軍でしたが、この先が大変でした。

2日目・6月7日早朝
沼城で仮眠をとった一行は、翌朝早くに出発します。
向かうは、およそ70キロ先にある姫路城です。
その途中には、西国街道最大の難所・船坂峠が待ち受けていました。
谷が深く、道幅が4メートルに満たないところもあり、2万もの軍勢が重装備でしかも、多くの武器弾薬、食料を運びながら超えるのは、かなりの困難を極めました。
さらに、姫路城の行軍では、暴風雨に見舞われてしまいます。
道筋の川も増水し、農民を雇って人間の鎖を作らせ、その肩にすがって川を渡らせたといいます。
姫路城に着いたのは、翌日8日の早朝・・・24時間で70キロの行軍でした。
鎧などの装備の重さは30~50kg・・・本当にそんなことが出来たのでしょうか?

秀吉は、兵士の負担を少しでも軽くするため、ある策を講じていました。
海路を利用したのでは??という説があります。
秀吉は、村上水軍を味方につけていました。
騎馬隊・足軽隊は、陸路を駆け抜けたと思われますが、物資を運ぶ輜重部隊(小荷駄隊)は海路を使ったといわれています。
言い伝えによると、牛窓からから佐古志、あるいは片上津から赤穂御崎まで海路で行ったという資料が残っています。
重い武具や物資を船で運ぶことで、兵士たちを身軽にし、大軍勢のスピードを上げた秀吉・・・。
さらに、近年中国大返し成功の謎を解く新しい説が浮上しています。
注目されたのは、秀吉が書いた一通の手紙でした。
本能寺の変を知った織田家家臣・中川清秀への返書です。
問題は日付と内容・・・
秀吉は、6月5日に野殿まで来ていると書いています。
野殿とは、備中高松城から7キロの場所・・・
これが正しければ、出発日の定説が覆されることに・・・!!
6日出発という通説は、小瀬甫庵が書いた「太閤記」という豊臣秀吉の生涯を綴った伝記によるものです。
しかし、太閤記の内容は誇張表現では・・・??と考える人もいました。
近年、中川清秀宛ての書状が注目され、5日に野殿まで退却し、沼城へ向かったのでは・・・??という新説が出てきています。
毛利の追撃の可能性はゼロではない・・・天晴な秀吉です。
この6月5日出発説は、本隊は備中高松城に残り、秀吉と何人かは野殿へ向かったのでは・・・??という可能性もあります。

中国大返し・・・この成功の裏には、秀吉のこんな知略が・・・!!
①人心掌握術
備中高松城を出発し姫路城まで・・・2日で92キロを走破した兵士たちでしたが、まだ道半ば・・・京都までは100キロ以上残っていました。
秀吉に、ある懸念がよぎります。

「こやつらも、随分疲弊している・・・
 そろそろ逃げ出す者も現れるのではないか・・・??」

そこで秀吉は、姫路城に着くと皆に信長の死を知らせ、この行軍は、信長の仇である明智光秀を討ち取るためであると兵士たちの士気をあげたのです。
さらに、城にあった兵糧米8万5000石と金800枚、銀750貫文・・・現在の価値にしておよそ66億円相当をすべて兵士たちに分け与えたのです。
また、現存する秀吉の書状によると、”163人いる中間や小者らに一人五斗あたえよ””とあります。
中間、小者は、武器や荷物を運ぶ者です。
そうした者たちにまで、一人五斗・・・つまり、半年分の米に当たる高い報酬を与えたのです。
そして、翌日からの行軍に備えて、ここで1日ゆっくりと休ませることに・・・。
すると、そこへ一人の僧侶がやってきてこう言うのです。

「明日は二度と帰ることが出来ない悪日にあたります
 それゆえに、出陣は延期された方がよろしいかと・・・」

それを聞いた秀吉は・・・

「そうか、二度と帰ることが出来ないのはむしろ吉日じゃ」

そういって取り合わなかったといいます。

その意味は・・・??
秀吉は、光秀を見事討つことが出来れば、天下人の道がある・・・そうなれば、姫路城に帰ってくる必要はない・・・城などどこにでも作れる!!だから、帰って来られないのはむしろ吉日!!
自分が勝って、天下を取るということだというのです。

みなぎる自信と天下取りの野望・・・

秀吉は富田に向かいます。その際、摂津国を通ることとなります。
そこにいるのは、茨城城主・中川清秀、高槻城主・高山右近でした。
かつて織田信長に対して、謀反を興した武将・荒木村重の重臣でした。

「やつらが信長様の死を知ったら、反旗を翻すかもしれない・・・」

そこで秀吉は、彼らにこんな書状を送ります。

”上様は難を逃れ、無事である” 

信長が生きているという嘘を伝えることで、中川清秀らが光秀に加勢するのを防ごうとしました。
この時光秀は、信長の遺体を見つけることが出来ずにいました。
もし、信長の首を晒すことが出来ていれば、嘘がすぐにばれていました。
情報を操作することで、裏切りの芽を摘んだ秀吉は、安心して進軍することが出来たのです。

②家臣の働き
秀吉は、家臣にも家ぐまれていました。
事務管理能力に優れていた石田三成は、この時後方支援を担当。
食糧や武器などの物資を調達、人の手配を迅速に的確に行いました。
これによってスムーズな移動が可能に・・・。
また、黒田官兵衛は、軍師として優れた才能を発揮。
それが・・・毛利家の旗。
兵庫を過ぎたあたりから、隊列の先頭にこの旗を持たせ、毛利方が秀吉軍に加わったと思わせたのです。
官兵衛は、備中高松城での和議が成立し撤退する際に、小早川隆景の素をたずね、毛利軍の旗を20本ほど借りたいと申し出ていました。
隆景は、ある程度の察しはついており、秀吉に協力しておいた方が毛利家のためになると考えました。
幡を見て、毛利が味方に着いたと勘違いした武将たちが、次々と秀吉方に加わったといいます。

こうした家臣たちの働きもあり、6月11日、秀吉軍は尼崎に到着。
秀吉は、大坂城にいた信長の三男・信孝と丹羽長秀に、尼崎まで来たと伝えますが、信孝を光秀討伐の総大将には立てませんでした。
本来なら、息子の信孝が総大将となって仇を討つのですが、信孝を総大将にすれば自分はその下の駒でしかない・・・
こでまでと何ら変わりないと考えました。
当時、信孝には兵が4000ほどしかいませんでした。
おまけに光秀は、本能寺の変で信長の嫡男・信忠も討っていました。
どうしたらいいのかわからない信孝は、光秀を討つ気迫が無かったので秀吉の上には立てなかったのです。

6月12日、富田に到着した秀吉は、池田恒興、中川清秀、高山右近らと軍議を開きます。
明智光秀を討ち、天下人となるために・・・!!

一方の光秀は・・・??
本能寺の変を起こした6月2日から4日までの間に居城の坂本城に入って近江を平定。
6月5日には信長の居城・安土城と秀吉の居城・長浜城を占拠。
さらに、丹羽長秀の佐和山城も押さえています。
光秀も、味方の結束を強めていました。
娘のガラシャを嫁がせていた丹後宮津城の細川忠興や、大和郡山城・筒井順慶に参戦を呼び掛けています。
一方、朝廷を味方に付けようと調停工作も行います。
朝廷から京都の経営を任せるといわれ、信長の後継者は自分に認められたと思っていたようですが・・・
8日、秀吉の大返しの知らせを受けるのです。
しかし、光秀は、調停工作に励みます。
調停工作を第一に考えていたのか?
秀吉はまだ帰ってこないと思っていたのか・・・??

秀吉の軍勢は、4万に膨らんでいました。
一方、明智光秀は織田信長の謀反に成功するも、細川忠興や筒井順慶らが参戦しないという誤算に見舞われます。
細川忠興は、光秀のために動かなかっただけでなく、娘の細川ガラシャを謀反人の娘として丹後の山中に幽閉、筒井順慶は一度は参戦に応じるも、秀吉側に寝返り、居城に籠ってしまいました。
結果、光秀の軍勢は1万5千!!
秀吉の軍勢の半分にも及びませんでした。
決戦の地は、京都に近い天王山の麓・山崎!!

6月13日

劣勢で迎え撃つこととなった光秀には策がりました。
それは、天王山の地の利を生かす作戦です。
川が迫る天王山の麓には、当時、馬がやっとすれ違えるほどの細い道しかなく、光秀はそこに秀吉の大軍をおびき寄せて、天王山に配置した兵に急襲させて撃破しようと考えていました。
しかし、この作戦は、逆に秀吉に天王山を取られるようなことがあれば成功しません。

「先に天王山を押さえねば!!」

しかし、秀吉もまた天王山が勝負の分かれ目になるとわかっていました。
そこで、このあたりの地理に詳しい中川清秀に天王山の奪取を命じます。
中川は敵に気付かれぬように松明をつけづに前日の夜に山に分け入り、光秀軍より先に天王山を押さえたのです。
これで、光秀軍は勝機を失いました。
そして遂に、両軍が激突!!
山崎の合戦です。
わずか数時間で秀吉軍の圧勝に終わりました。
光秀は、命からがら逃げだすも、落ち武者狩りの竹やりで重傷を負い、その後・・・自刃。

3日天下と揶揄されることとなった明智光秀。
その一方、主君・信長の敵討ちを見事遂げた秀吉は、天下取りにぐっと近づきました。
全ては、中国大返しという神業をやってのけたことにありました。
その成功の秘訣は、情報操作など、優れた知略、巧みな人心掌握術、有能な家臣の存在、そして大胆な行動力と決断力、何をするにもスピードに驚かされました。
秀吉、天下取りとなるべき人物だったというのがよくわかります。


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前回、まんまと宇都宮鎮房の策に引っかかってしまった長政でしたが・・・危うい・・・!!

城井谷で待ち伏せしていることを見破った官兵衛たち・・・
これ以上兵を失うことはできないと、太兵衛出陣!!

宇都宮が谷の守りを解いた・・・
との偽情報に踊らされた若殿・長政・・・待ち伏せていた宇都宮の軍に射かけられ窮地に陥ってしまいました。
若を助けるべく皆が向かいます。

あ・・・桶狭間のようです。。。
お父さんに貢献しようと頑張る長政ですが、いかんせん肉体派のようで。。。
この大河の長政は、お父さんのように知謀は無いようです。

しかし、宇都宮側もまだ長政を見つけられない模様。。。

なんとかかんとか逃げ帰った長政・・・
自分の失策を詫びるのですが・・・
官兵衛は失策&心配で、怒っております。

もう一度攻めたいと乞う長政に・・・

「同じことを・・・同じことを繰り返す気か・・・!!
 長政・・・なぜ負けたのか・・・頭を冷やしよく考えろ・・・!!
 そして、城井谷を攻めるにはどうすべきか???
 お前が策を立てよ・・・!!」


kan1












と、今回はお父さん、教えています。
どうしてこんな考えないのか???
もしかすると、官兵衛が太兵衛をつけたからじゃないの・・・??

なんて思いながら。。。


宇都宮陣営では先勝祝い~~~

今までの官兵衛・長政親子とはちょっと違うかしら?
今回は跡継ぎとして育てているように見えますよ。

小早川隆景と安国寺恵瓊に長政の案を披露させます。

「城井谷は山深き天然の要害。
 道も一本しかありませぬゆえ、力攻めでは落とせませぬ。
 しかし、その一本道が城井谷にとって諸刃の剣。。。
 その入り口に付城を築き、兵糧攻めにします。
 その間に、他の地侍どもを潰し、宇都宮を孤立させればいずれ音をあげましょう。。。」

「良き策じゃな、官兵衛・・・」by隆景

しかし、九州を未だ平定できていないことに対して天下人はお怒りの模様。。。
黒田・毛利の軍は、一揆を次々と平定していきます。

&安国寺恵瓊が宇都宮鎮房と交渉に臨みます。
この地に残るためには、黒田の軍門に下るようにとの命が書かれていました。
黒田の家臣になるか?伊予に行くか???

で・・・もう、和議を結んじゃいました。

大平城の城代となった宇都宮鎮房。
和睦の証として、嫡男・朝房は官兵衛に、娘・鶴は光に仕えることになるのでした。


あ・・・あんなに嫌がっていたのに、もう家臣か・・・。
死人が出ないようになんでしょうが。。。
あんなに決心したのに、戦いもなく、もっと抗うこともなく・・・
恵瓊の力量発揮!!のような、結末でした。
長政の見せ場だったのにね。。。

恵瓊と利休は、どちらかというと官兵衛よりの考えの様で・・・
和睦し、宇都宮が黒田家の家臣となったことを報告すると、秀吉は・・・??
自分に逆らった男を召し抱えると言う官兵衛にちょっとご不満のよう。。。

豊前・中津城に入った官兵衛。
善助・太兵衛・九郎右衛門は家老に昇進しました。
宇都宮朝房にも目をかけているようで・・・お声をかけます。

なんだかんだと怒っていた鶴姫も、いつの間にか黒田家になじんでいて・・・
黒田の家臣になって良かったモードに入っております。
これってどうよ・・・??

「今となっては黒田家のおかげかもしれん・・・」by宇都宮鎮房。

なんだか助かりそうな勢いだよ・・・宇都宮。。。


秀吉は既におかしい・・・。
自分が中村の貧しい百姓だったことも忘れてしまって高貴な出だと吹聴する始末。。。
しかし・・・誰もそれに異を唱えることは出来なくなっていたのでした。

肥後の一揆のことで謹慎をさせられていた佐々成政、官兵衛を訪ねて中津城にやって来ました。
大坂に向かう途中に立ち寄った。。。
石田三成が、あることないことおしゃべりするので、殿下に申し開きする為に向かうのだと言う。

返って殿下の怒りを買うと引き留める官兵衛に・・・
一揆鎮圧の礼を言って大坂へと向ったのです。

kan4

















しかし・・・石田三成に阻まれ殿下に会うこともできず・・・

官兵衛はその頃、未だ治まらない一揆の鎮圧に肥後に出陣・・・!!
そこに殿下からのラブレターが・・・??
内容は、宇都宮の人質を殺せというものでした。

殿下に背いたものは許さん!!
でも、一旦降伏した者を処罰するのは・・・??
どうする、官兵衛???

今、九州は離れられない・・・!!
申し開きをする為に離れれば、佐々の二の舞の謹慎になってしまう!!
ということで、善助が大坂へ・・・!!

「わしは以前から官兵衛がうらやましかった。
 官兵衛はよい家臣たちを持っておる。
 善助、太兵衛、九郎右衛門・・・
 黒田の宝はその家臣たちじゃ。。。

 官兵衛がいつまでも意地を張っておると、その家臣たちが路頭に迷うことになる。。。
 官兵衛にそう伝えよ・・・!!」by秀吉!!

と、聞く耳を持ってくれず、残酷な結果となったのでした。

久しぶりに清正・正則と会った長政。
二人から秀吉が宇都宮を討てと言われ、困っている官兵衛の実情を話してしまいました。
そして、佐々成政は、所領を取り上げられるであろうことまで聞いてしまったのです。

黒田が生き残る道はただ一つ・・・!!
なんだか決心した長政です。

長政にひとり呼び出された鎮房。

これまで参上できなかったことを詫びていますが。。。
そうなのよね・・・この”挨拶に来ない”って意固地なところも、宇都宮を窮地に追い込んだともいえるのです。

kan2












あ~、ドキドキ・・・!!
毒が入っているかもしれない酒・・・飲むの?

「遠慮はいらぬ」by長政

「頂戴いたします」by鎮房

おお~~~、長政の目が怖いわ・・・

「毒など入っておらぬ・・・」by長政

そう、毒など入っていない盃。。。
しかし・・・!!

「魚を召し上がられよ・・・!!」
この言葉を合図に暗殺が・・・!!

そう、やはり、関白殿下の命には背けないのよ~~~
宇都宮の郎党をすべて斬り捨てよ!!と、命じる若殿なのでした。

kan3












突っ走ったの?若!!
いえいえ、これは、官兵衛と練りに練った策かと思われますが、どうでしょう??
息子なのになかなか腹黒く書かれています。

主役は官兵衛なので、長政は若造に書かれていますが、実は実父は軍師・官兵衛、育ての親は軍師・半兵衛なので、サラブレットもサラブレットの筈なんですけどね。。。

主役を持ち上げるあまりに、失策や謀略は周りに・・・みたいなことろもあるのかもしれません。

とりあえず、天下統一の見えてきたこの頃の領地は・・・宇都宮のように本領安堵しちゃうと勢力をそぐことは出来ないので・・・
みんな領地替えをさせられています。
有名なのは、明智光秀の”勝ったら毛利をやる”by信長なんですが・・・。

それは、徳川家康が江戸時代にもやっているので、ここ辺りから始まったものと思われます。
でも・・・黒田・小早川・佐々・加藤・福島・・・続々と九州にやってきたのは、やはり、朝鮮出兵を目論んでいたからに他ならないのも解ります。

武力で天下統一する為には武に優れた者が必要でしたが・・・
天下統一がなされた後には・・・やはり智に優れた者=石田三成とか、大谷吉継とか・・・
が必要になってくるのでしょう。

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備中高松城主 清水宗治の戦略

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いよいよ高松城攻めです。
これがきっと、官兵衛の長上だと思うのですがどうでしょう???
これから先の官兵衛を思うと、どう演出してくれるのかが気になってきになって・・・


いよいよ毛利攻めがはじまりました。
官兵衛は、備中高松城に対して降伏を解いたものの・・・
清水宗治はこれを拒否・・・。

水攻めのための、昼夜を問わず堤作りが始まりました。

kan4













高松城はもう落ちたも同然・・・
しかし・・・最後の仕上げは殿に・・・!!

ここら辺が、秀吉の人たらしというか・・・
分っていて憎めないところですね。

その頃坂本城では・・・訪ねてきた娘・お倫。
徳川家康の供応役を預かった光秀の苦悩が・・・

安土城にやって来た家康・・・

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え~~~?!この人で良いんですか???
ちょっと歳とり過ぎてるんじゃあ・・・
ま、この後ず~っと出てくるからいいのか・・・???

とっても威厳のある家康です。
私の中では、信長に妻や子を殺されたり、あっちへ行きこっちへ行きしていたので、もっと「はは~~っつ!!」って、信長に仕えているかと思ったんですが、パパ曰く・・・
「同盟関係やからなあ~。。。」ということなんですが、そうなんだろうか??

そして・・・なんと、日本は家康に任せて自分は世界に打って出るという信長。。。
おっ!!家康も官兵衛のことを知っているみたい。

kan7












???光秀、殿に足蹴にされることもなく、むちゃくちゃ怒鳴られることもなく・・・
今までのドラマを覆して・・・どうして本能寺の変???

そして・・・又兵衛が黒田家に帰ってきました。

kan5












あ~、これも問題の種です。
殿が本当に好きだったのは息子・長政じゃなくって後藤又兵衛???
ってことで、ここから二人の喧嘩が始まるのでした。

5月19日・・・わずか12日で出来た堤。。。
川の水をせき止めて・・・水を流し込むことに成功!!

おっ!!いけない、いけない・・・
CGに気を取られてしまいました。

なんと高松城は水浸し!!

恵瓊を通じて和睦を申し込んだ毛利。

しかし、時すでに遅し・・・
殿が出陣すれば毛利は滅ぼされる、備中1国では済まされない・・・

「五か国・・・織田にゆずる・・・
 それでいかがでござる?」by恵瓊

しかし、それと共に清水宗治の首を要求する秀吉。

ひとり敵陣に乗り込んで、小早川とサシで話し合う官兵衛。。。

kan2













五か国と清水宗治の首を!!

「それだけは断じて飲めん!!」by隆景。
毛利の信用を無くし、滅んでしまう!!

清水宗治を説き伏せに行く恵瓊。。。

kan6



「織田に寝返りなさい!!」

それが隆景と官兵衛の描いた・・・宗治を助けるためのシナリオでした。




そう、宗治の意思は固く・・・
「今更命など惜しくはない・・・」by宗治



お???
光秀は、お公家衆と殿の間で板挟み~~~

おまけに国替えを申し付けられてしまいました。

そして・・・光秀の耳元でささやく信長。。。

「なんと!!恐ろしい・・・!!」

世の中を作りかえる・・・

「日ノ本に王は二人もいらん。。。」

そう、つまり、天皇と王(信長)の二人もいらないってことね。

「ときは今 雨が下知る 五月かな」

って、おみくじやっていますが、これって出陣前(鎧兜つけてる時)じゃなかったっけ・・・??


おっ!!
いきなり土田御前御前登場!!
土田御前、いつもいきなりの登場です。
なんでこんなこと挟むんだろう・・・??

そして、茶会を開くために本能寺へ!!
位の高い公家たちが、信長にこぞってひれ伏した瞬間でした。

あ~、この時もう、信長はいちごのパンツ(1582年)穿いてんのね。

で・・・おまけに土田御前との関係も修復するって感じで・・・
これじゃあ、信長が良い人で死んじゃうじゃないの・・・??
おまけに、息子に織田を譲り世界に出ていくという。。。
こんなふうにアットホームだったのかもしれないけれど、こんなになっちゃったら信長が小さい人間に見えちゃうわ~~

”信長も人の子”に!!

6月2日未明・・・
明智の軍がやってきたのは中国ではなく・・・京・・・本能寺なのでした。

「敵は・・・本能寺にあり!!」

う~ん、実際は、本能寺についてから兵隊たちは知ったと言われてるのよね・・・
だって、行く前だったら、みんな気が迷っちゃうじゃないの・・・??
冷静になるというか・・・
それともやはり、兵にとっては自分の殿(明智光秀)の方が大切だからかなあ。。。


次回はいよいよ本能寺の変です。
これまたちょっと違った本能寺の変を・・・アットホームな本能寺の変をみせてくれるんだろうか???

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”軍師官兵衛の恵瓊”

安国寺恵瓊は、安芸の安国寺に住した僧侶です。
安芸の守護家・武田信重の子として生まれました。が、この武田氏は、後に大内氏に滅ぼされてしまいます。

恵瓊は、小さい時に安国寺に逃れ、出家しました。
その後、京都にのぼって東福寺で禅修行をし、東福寺と南禅寺の住職にもなりました。

恵瓊はこの京都で、各国の情勢を把握できる目を養いました。



朝井・朝倉を滅ぼした織田信長については・・・

「信長の時代は、3年や5年は続くだろうが、その後はとんでもない死に方をしてしまうだろう。
 藤吉郎は天下を取れる人物である。」

この予言から10年後に、信長は本能寺で斃れることになるのです。
このように、恵瓊の人物眼と用法分析能力は、優れたものがあり、毛利氏は京都における外交僧と情報収集の任務を恵瓊に課したのでした。

外交交渉には、俗世間から離れた・・・出家した僧侶が中立で相応しい。。。恰好の交渉者だったのです。

毛利との仲が良かった恵瓊・・・1583年頃には秀吉の直臣として働くようになり、その立場を不動のものとします。
1600年の石田三成の挙兵では、三成らとともに輝元を西軍の総大将とし、担ぎ出そうと画策します。
輝元は、恵瓊の言葉を信じて西軍の総大将となります。

私の好きな”秀吉”の安国寺恵瓊

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関ケ原の当日に布陣。しかし、毛利は動かず!!
その理由は???
吉川広家が、徳川家康と密約を結んでいたのです。そして・・・結果、西軍は敗北します。
実は、裕家は、三成挙兵の時に西軍派の恵瓊と激しく対立していました。
敵は毛利にいたのです。恵瓊は戦わずして伊吹山中に逃げ込んだのでした。

京都に逃げ込んだ恵瓊。9月23日、遂に捕えられてしまいます。関ヶ原の合戦から8日目のこと。
この時すでに、小西行長は9月19日、三成は9月21日に伊吹山中でとらえられていました。
この3人は10月1日、大坂・堺・京都の町を引き回され、京都・六条河原で首を斬られ・・・三条橋に晒されたのでした。

恵瓊の読みは完全に外れてしまったのです。
秀吉のもとで・・・僧侶でありながら伊予国や北九州、安芸国安国寺を拝領するようになり・・・
元々僧侶の徳だった”無”の境地で物事を見ることを忘れ、鋭かった観察眼・・・人物眼が私利私欲でくもってしまったのかも知れません。

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「おぬしにすごい秘密を教えてやる・・・」by荒木村重
それは、武田信玄が死んだという最先端の情報でした。

「・・・!!」by官兵衛

あ~、この官兵衛の一物ありそうな厳しい顔、カッコいいわ~!!
それでこそ、一筋縄でいかない官兵衛ですよ。

で・・・信長さんが、猛威を振るっていますが、
その頃・・・毛利では・・・既に毛利隆元死んじゃってて、息子の毛利輝元です。
そう、本当の三本の矢は、「毛利輝元・吉川元春(叔父)・小早川隆景(叔父)」なんです。
毛利は大きいけれど、田舎大名なのですが・・・どうなるのでしょう???

そんな黒田家に、毛利の軍師・安国寺恵瓊がやってきています。
毛利にも、官兵衛の名声が轟いているようですが・・・何を成し遂げたのでしょう・・・官兵衛???
遂に恵瓊と会います。

あ~、恵瓊は中条きよしでないと嫌~!!

「播磨小寺家にその人ありと噂された黒田官兵衛殿と、是非一度語り合いたく参上つかまつりました。」by恵瓊

ホント、何したんだよ~官兵衛。。。

小寺家を・・・官兵衛を探りに来た恵瓊・・・
すでに、信玄が死んだことを知っていました。

お互いにけん制し合って・・・
毛利と織田の戦に・・・小寺家は・・・官兵衛はどちらにつく・・・???

思案中の官兵衛、カッコいいですね。
久々にキレイな流し目観ました。

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これは、杉様以来のカッコよさかも???

恵瓊の予想通り・・・
天正元年9月・・・信長は、4年に及ぶ朝井・朝倉との戦いに勝利します。
そして・・・遂に秀吉は朝井領の北近江をもらい・・・城持ち大名・・・小谷城主となるのでした。

古参の丹羽長秀と柴田勝家はいい気がしないようですが・・・
そこは世渡り上手な秀吉。。。
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丹羽長秀・柴田勝家の一字ずつをもらって・・・「羽・柴・秀・吉」と、名乗りとうございます!!
名前を変えるのでした。

出ましたね、「心・配・ご・無・用!!」

あ~、良いですね、秀吉、おねがとってもべっぴんですよ
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前回の沢口康子に続いて、とっても美人な黒木瞳さんです。
全てはかか様のおかげ~!!なのでした。

官兵衛の家にやってきたのは又兵衛。。。
後に「黒田家二十四騎」「黒田家八虎」「大坂城五人衆」「大坂城七将星」とか・・・いろいろ言われる後藤基次です。
あ・・・大坂の陣で家康を討ったという説まであります。
ってことは、この後の家康さんは影武者で・・・そのまま1年間も家康を勤め上げたとか。。。

松寿丸や他の子たちと一緒に育てられます。
当時のお子様事情ですが、今川義元のもとにいた家康も、本当に肩身が狭かったのかというと???
太原雪斎にお勉強を教えてもらっていますし、後に秀吉がとった人質たちも、みんなお客様レベルで教養をつけてもらっています。
っていうか、教養をつけて返さなければいけないみたいなところがありました。
子供もいなく古参もいなかった秀吉が、自分の子供のように加藤清正や福島正則を育てたように・・・結構良い感じの身のたて方だったのかも知れません。

光の姉・力が、光を訪ねてきました。
嫁ぎ先の上月景貞が、毛利につくことを決めたのです。
ま、これが普通だったのだと思います。

宇喜多、上月が毛利につく中・・・官兵衛はどうする???

天正3年5月・・・長篠の戦いが・・・!!
3,000丁の飛び道具を使って・・・織田・徳川連合軍は武田軍を打ち負かしたのでした。

”織田の強さは侮れない・・・!!”

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そう思う小早川隆景・・・恵瓊も官兵衛を読むことが出来ません。。。
ま、読めないどころか、迷っているんですけどね。

光の兄・櫛橋左京進は、亡き父の後をついで、小寺の家老となっていました。
「今のうちに、毛利とよしみを通じるのが賢明かと・・・
 義を重んじる毛利につけば、安堵でございます。」
殿は・・・「あい分った・・・」と言ったのでしたが。。。???

左京進は、官兵衛にも毛利につくように言ってきました。
姉が毛利方の上月に嫁いでいる。。。
「姉妹で戦わせる気か・・・???光を泣かせるな・・・!!」
って、そっちの方が、どちらかが生き残るから良かったんじゃないの???
真田信之・幸村兄弟はそうでしたよ???女は違うの???

そんな迷っている官兵衛でしたが、遂に評定が・・・!!
政職に進言する官兵衛。
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「某は、織田につくのが最善の道と心得ます・・・!!」

と、織田信長を薦めるのでした!!

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「相分った・・・!!」


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え~!!(*_*;

そして・・・官兵衛は、小寺の命運をかけて・・・!!

でも、政職も、官兵衛を信じていいものか???
「これは・・・思案のしどころじゃのう・・・
 いざというときは、あ奴に責めを追わせればよいか・・・」

織田信長に対面する為に、旅立つ官兵衛。。。
しかし、旅路でも襲われ・・・それは、信長と会うことを良しとしないものがいることを示唆していました。


そして・・・いよいよ信長に謁見する官兵衛でした。

やっと、政治の中心へやってきた官兵衛・・・
この時30歳でした。
まあ、田舎でガヤガヤやってたんでしょうが、でも、どうしてこんなに官兵衛が高評価なのかが全く解んないんです。。。
どう贔屓目に見ても、今までそんな活躍してないですよね。。。
っていうか、信長も秀吉もあんまり活躍してなくって・・・
だって、戦のシーンが殆どないんだもんなあ・・・

おまけに、黒田家二十四騎」も集まってきていますが、その活躍どころか情報もなく・・・申し訳ないんだけど、”二人目を・・・!!二人目を・・・!!”という尺があるなら、この人たちを紹介してほしいものです。。。
あんまり紹介もなく・・・いつの間にか、ゾンビのように増えてるんだもん・・・。

今までは地方の戦で・・・資料が残っていないんだったとしたら・・・
これからたっぷりある資料を活用して”戦”を描いてほしいものです。。。

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