天正10年6月2日早朝・京都・・・
戦国の歴史を大きく変えた本能寺の変が起こりました。
天下取りを目前にしていた織田信長が、家臣・明智光秀の謀反にあい自害したのです。
そんな主君の敵を討ったのは、ご存知豊臣秀吉!!
しかし、神業ともいわれる中国大返しには、今なお多くの謎が・・・!!
織田信長の死を一番早く知ったのは、京都に近い大坂で四国攻めの戦の準備中だった織田信孝と丹羽永時ででした。
本能寺の変が起こったその日に信長の死を伝え聞いていました。
にも関わらず、京都に向かわなかったのは何故なのか・・・?
この時、織田信孝、丹羽長秀は、箝口令を敷かなかったので、兵士たちがパニックを起こしました。
信長の死を知った兵士たちがパニックを起こして逃げ出したのです。
2人は、仇討に向かうところではなくて、守りを固めるのが精いっぱいだったのです。
柴田勝家は、京都からおよそ300キロ離れた越後で上杉攻めを行っていました。
勝家が信長の死を知ったのは6月5日から7日の間です。
勝家はすぐに北ノ庄城に戻り、明智光秀討伐の準備を始めますが、出陣できずにいました。
京都の戻る際に、上杉軍に追撃される恐れがあったためです。
明智光秀は、上杉景勝に本能寺の変の計画を事前に伝えていたともいわれています。
信長が死ねば、勝家は戦どころではなくなるとわかっていたのか、上杉軍が追撃の体勢を整えていたため、勝家は動けずにいました。
北条氏が治める関東をほぼ制圧しつつあった滝川一益が、本能寺の変を知ったのは、6月7日から9日の間です。
しかし、時を同じくして北条氏も信長が死んだという情報を入手、反撃してきたのです。
そのため一益は、京都に敵討ちに行くことが出来ませんでした。
中国地方を制圧するため毛利方の備中高松城を攻めていた羽柴秀吉は・・・??
信長の死を知ったのは、本能寺の変の翌日、6月3日の夜でした。
京都から200キロも離れた場所で、どうしてそんなに早く知ることが出来たのでしょうか?
本能寺の変が起こることを知っていたのでは??とも言われていますが、それはないでしょう。
明智光秀はこの時、織田信長を討ったから和平交渉に応じるなという内容の密書を毛利に送っていました。
その密書を持った使いの物が、秀吉の陣営に迷い込み、捕らえられてしまったのです。
つまり、毛利より、秀吉の方に情報が早くっ伝わってしまったのです。
この時秀吉は、毛利方の清水宗治の居城・備中高松城を水攻めにし、落城寸前にまで追い込んでいました。
作戦は、城の周りに全長3キロ、高さ7キロの堤を築きました。
その中に、近くの川の水を引き入れ、城を水没してしまおうというものです。
さらに、城を完全に孤立させるために、周辺の警備も厳重に警備します。
すると、光秀が毛利方に送った密使が祖の警備網に引っかかってしまったのです。
城攻めの秘策のおかげで思いもよらず、信長の死を早く知った秀吉ですが、草履取りから取り立ててくれた信長を父のように慕っていた秀吉は、我も忘れて只々泣くばかり・・・
そんな秀吉の目を覚まさせたのは、軍師官兵衛の一言でした。
「これは天の御加護・・・天下取りの好機でございます」
その言葉で冷静さを取り戻した秀吉は、主君の敵・明智光秀を討ち、天下を取るという野望を滾らせるのです。
そして、すぐさま箝口令を敷きます。
事件を知った一部の家臣たちに口止めをし、信長の死は極秘事項に・・・
当然、毛利方にも情報が漏れないように密使を斬ったうえで、備前から備中への道を封鎖しました。
そして、交渉がまとまりかけていた毛利との和睦を急ぎます。
信長の死を知ったその夜、毛利方の交渉人・安国寺恵瓊を呼び出し、それまでの条件を緩める旨を伝えます。
①備中・美作・伯耆の三国の割譲を求めていましたが、割譲するのは美作、備中・伯耆は領土折半と譲歩
②備中高松城主・清水宗治が切腹すれば、城に籠っている5000人の兵士たちの命は保証
暗礁に乗り上げていた講和、秀吉からの譲歩で毛利側は喜んで応じてきました。
清水宗治の死もやむなし!!
こうして、毛利との講和が実現!!
秀吉が信長の死を知ってから数時間後のことでした。
その日のうちに、水上の船の上で、備中高松城主・清水宗治自刃。
その見事な最期に秀吉は”武士の鑑”と褒め称えたといいます。
しかし、その直後・・・秀吉のウソがばれ、毛利側が信長の死を知ってしまいました。
秀吉が恐れたのは、毛利方の追撃でした。
この時、毛利方の吉川元春・小早川隆景が、1万5000の兵を引き連れて援軍に向かっていました。
「信長が死んだ以上、講和など破棄して秀吉を討つべきだ」by吉川元春
しかし・・・
「誓いの書の墨が乾かぬうちに、講和を破棄するわけにはいかぬ」by小早川隆景
結局、小早川の主張が通り、軍勢は秀吉を追撃することはありませんでした。
さらに、毛利軍が追撃しなかった理由には・・・
和睦の1か月ほど前の事、毛利輝元が家臣に宛てた書状には・・・
「こちらは鉄砲は言うに及ばず、弾薬も底をついている」
武器弾薬を使い果たしていたのでは、追撃などできません。
ところが、これも秀吉の策によるものでした。
秀吉は、瀬戸内海を支配する村上水軍を調略していました。
つまり、毛利の補給路を断っていたのです。
もともと村上水軍は毛利方の水軍で、因島、来島、能島の三家に分かれていました。
そのうちの来島村上家は、既に毛利を裏切り信長側についていましたが、秀吉はこの時、能島村上家を調略・・・手中に収めていたのです。
6月5日、吉川元春と小早川隆景の軍勢は撤退を開始、それを見届けた秀吉は、翌6日、2万の軍勢を率い京都へ・・・8日間、200キロの怒涛の行軍が始まりました。
秀吉の神業ともいわれる中国大返しが始まりました。
1日目・6月6日午後2時・・・
備中高松城を後にした秀吉軍は西国街道を通り、22キロ離れた沼城へ。
西国街道は、援軍として来るはずだった信長のために、秀吉が事前に整備していたため行軍は比較的楽でした。
向かう備前・沼城は、秀吉の家臣・宇喜多直家の居城・・・待ち受けていた宇喜多もまた抜かりなく。
秀吉たちが夜でも移動しやすいように、街道沿いに松明をたき、城についたときにすぐに食事ができる用に整えておきました。
こうして順調なスタートを切った秀吉軍でしたが、この先が大変でした。
2日目・6月7日早朝
沼城で仮眠をとった一行は、翌朝早くに出発します。
向かうは、およそ70キロ先にある姫路城です。
その途中には、西国街道最大の難所・船坂峠が待ち受けていました。
谷が深く、道幅が4メートルに満たないところもあり、2万もの軍勢が重装備でしかも、多くの武器弾薬、食料を運びながら超えるのは、かなりの困難を極めました。
さらに、姫路城の行軍では、暴風雨に見舞われてしまいます。
道筋の川も増水し、農民を雇って人間の鎖を作らせ、その肩にすがって川を渡らせたといいます。
姫路城に着いたのは、翌日8日の早朝・・・24時間で70キロの行軍でした。
鎧などの装備の重さは30~50kg・・・本当にそんなことが出来たのでしょうか?
秀吉は、兵士の負担を少しでも軽くするため、ある策を講じていました。
海路を利用したのでは??という説があります。
秀吉は、村上水軍を味方につけていました。
騎馬隊・足軽隊は、陸路を駆け抜けたと思われますが、物資を運ぶ輜重部隊(小荷駄隊)は海路を使ったといわれています。
言い伝えによると、牛窓からから佐古志、あるいは片上津から赤穂御崎まで海路で行ったという資料が残っています。
重い武具や物資を船で運ぶことで、兵士たちを身軽にし、大軍勢のスピードを上げた秀吉・・・。
さらに、近年中国大返し成功の謎を解く新しい説が浮上しています。
注目されたのは、秀吉が書いた一通の手紙でした。
本能寺の変を知った織田家家臣・中川清秀への返書です。
問題は日付と内容・・・
秀吉は、6月5日に野殿まで来ていると書いています。
野殿とは、備中高松城から7キロの場所・・・
これが正しければ、出発日の定説が覆されることに・・・!!
6日出発という通説は、小瀬甫庵が書いた「太閤記」という豊臣秀吉の生涯を綴った伝記によるものです。
しかし、太閤記の内容は誇張表現では・・・??と考える人もいました。
近年、中川清秀宛ての書状が注目され、5日に野殿まで退却し、沼城へ向かったのでは・・・??という新説が出てきています。
毛利の追撃の可能性はゼロではない・・・天晴な秀吉です。
この6月5日出発説は、本隊は備中高松城に残り、秀吉と何人かは野殿へ向かったのでは・・・??という可能性もあります。
中国大返し・・・この成功の裏には、秀吉のこんな知略が・・・!!
①人心掌握術
備中高松城を出発し姫路城まで・・・2日で92キロを走破した兵士たちでしたが、まだ道半ば・・・京都までは100キロ以上残っていました。
秀吉に、ある懸念がよぎります。
「こやつらも、随分疲弊している・・・
そろそろ逃げ出す者も現れるのではないか・・・??」
そこで秀吉は、姫路城に着くと皆に信長の死を知らせ、この行軍は、信長の仇である明智光秀を討ち取るためであると兵士たちの士気をあげたのです。
さらに、城にあった兵糧米8万5000石と金800枚、銀750貫文・・・現在の価値にしておよそ66億円相当をすべて兵士たちに分け与えたのです。
また、現存する秀吉の書状によると、”163人いる中間や小者らに一人五斗あたえよ””とあります。
中間、小者は、武器や荷物を運ぶ者です。
そうした者たちにまで、一人五斗・・・つまり、半年分の米に当たる高い報酬を与えたのです。
そして、翌日からの行軍に備えて、ここで1日ゆっくりと休ませることに・・・。
すると、そこへ一人の僧侶がやってきてこう言うのです。
「明日は二度と帰ることが出来ない悪日にあたります
それゆえに、出陣は延期された方がよろしいかと・・・」
それを聞いた秀吉は・・・
「そうか、二度と帰ることが出来ないのはむしろ吉日じゃ」
そういって取り合わなかったといいます。
その意味は・・・??
秀吉は、光秀を見事討つことが出来れば、天下人の道がある・・・そうなれば、姫路城に帰ってくる必要はない・・・城などどこにでも作れる!!だから、帰って来られないのはむしろ吉日!!
自分が勝って、天下を取るということだというのです。
みなぎる自信と天下取りの野望・・・
秀吉は富田に向かいます。その際、摂津国を通ることとなります。
そこにいるのは、茨城城主・中川清秀、高槻城主・高山右近でした。
かつて織田信長に対して、謀反を興した武将・荒木村重の重臣でした。
「やつらが信長様の死を知ったら、反旗を翻すかもしれない・・・」
そこで秀吉は、彼らにこんな書状を送ります。
”上様は難を逃れ、無事である”
信長が生きているという嘘を伝えることで、中川清秀らが光秀に加勢するのを防ごうとしました。
この時光秀は、信長の遺体を見つけることが出来ずにいました。
もし、信長の首を晒すことが出来ていれば、嘘がすぐにばれていました。
情報を操作することで、裏切りの芽を摘んだ秀吉は、安心して進軍することが出来たのです。
②家臣の働き
秀吉は、家臣にも家ぐまれていました。
事務管理能力に優れていた石田三成は、この時後方支援を担当。
食糧や武器などの物資を調達、人の手配を迅速に的確に行いました。
これによってスムーズな移動が可能に・・・。
また、黒田官兵衛は、軍師として優れた才能を発揮。
それが・・・毛利家の旗。
兵庫を過ぎたあたりから、隊列の先頭にこの旗を持たせ、毛利方が秀吉軍に加わったと思わせたのです。
官兵衛は、備中高松城での和議が成立し撤退する際に、小早川隆景の素をたずね、毛利軍の旗を20本ほど借りたいと申し出ていました。
隆景は、ある程度の察しはついており、秀吉に協力しておいた方が毛利家のためになると考えました。
幡を見て、毛利が味方に着いたと勘違いした武将たちが、次々と秀吉方に加わったといいます。
こうした家臣たちの働きもあり、6月11日、秀吉軍は尼崎に到着。
秀吉は、大坂城にいた信長の三男・信孝と丹羽長秀に、尼崎まで来たと伝えますが、信孝を光秀討伐の総大将には立てませんでした。
本来なら、息子の信孝が総大将となって仇を討つのですが、信孝を総大将にすれば自分はその下の駒でしかない・・・
こでまでと何ら変わりないと考えました。
当時、信孝には兵が4000ほどしかいませんでした。
おまけに光秀は、本能寺の変で信長の嫡男・信忠も討っていました。
どうしたらいいのかわからない信孝は、光秀を討つ気迫が無かったので秀吉の上には立てなかったのです。
6月12日、富田に到着した秀吉は、池田恒興、中川清秀、高山右近らと軍議を開きます。
明智光秀を討ち、天下人となるために・・・!!
一方の光秀は・・・??
本能寺の変を起こした6月2日から4日までの間に居城の坂本城に入って近江を平定。
6月5日には信長の居城・安土城と秀吉の居城・長浜城を占拠。
さらに、丹羽長秀の佐和山城も押さえています。
光秀も、味方の結束を強めていました。
娘のガラシャを嫁がせていた丹後宮津城の細川忠興や、大和郡山城・筒井順慶に参戦を呼び掛けています。
一方、朝廷を味方に付けようと調停工作も行います。
朝廷から京都の経営を任せるといわれ、信長の後継者は自分に認められたと思っていたようですが・・・
8日、秀吉の大返しの知らせを受けるのです。
しかし、光秀は、調停工作に励みます。
調停工作を第一に考えていたのか?
秀吉はまだ帰ってこないと思っていたのか・・・??
秀吉の軍勢は、4万に膨らんでいました。
一方、明智光秀は織田信長の謀反に成功するも、細川忠興や筒井順慶らが参戦しないという誤算に見舞われます。
細川忠興は、光秀のために動かなかっただけでなく、娘の細川ガラシャを謀反人の娘として丹後の山中に幽閉、筒井順慶は一度は参戦に応じるも、秀吉側に寝返り、居城に籠ってしまいました。
結果、光秀の軍勢は1万5千!!
秀吉の軍勢の半分にも及びませんでした。
決戦の地は、京都に近い天王山の麓・山崎!!
6月13日
劣勢で迎え撃つこととなった光秀には策がりました。
それは、天王山の地の利を生かす作戦です。
川が迫る天王山の麓には、当時、馬がやっとすれ違えるほどの細い道しかなく、光秀はそこに秀吉の大軍をおびき寄せて、天王山に配置した兵に急襲させて撃破しようと考えていました。
しかし、この作戦は、逆に秀吉に天王山を取られるようなことがあれば成功しません。
「先に天王山を押さえねば!!」
しかし、秀吉もまた天王山が勝負の分かれ目になるとわかっていました。
そこで、このあたりの地理に詳しい中川清秀に天王山の奪取を命じます。
中川は敵に気付かれぬように松明をつけづに前日の夜に山に分け入り、光秀軍より先に天王山を押さえたのです。
これで、光秀軍は勝機を失いました。
そして遂に、両軍が激突!!
山崎の合戦です。
わずか数時間で秀吉軍の圧勝に終わりました。
光秀は、命からがら逃げだすも、落ち武者狩りの竹やりで重傷を負い、その後・・・自刃。
3日天下と揶揄されることとなった明智光秀。
その一方、主君・信長の敵討ちを見事遂げた秀吉は、天下取りにぐっと近づきました。
全ては、中国大返しという神業をやってのけたことにありました。
その成功の秘訣は、情報操作など、優れた知略、巧みな人心掌握術、有能な家臣の存在、そして大胆な行動力と決断力、何をするにもスピードに驚かされました。
秀吉、天下取りとなるべき人物だったというのがよくわかります。
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天下取りを目前にしていた織田信長が、家臣・明智光秀の謀反にあい自害したのです。
そんな主君の敵を討ったのは、ご存知豊臣秀吉!!
しかし、神業ともいわれる中国大返しには、今なお多くの謎が・・・!!
織田信長の死を一番早く知ったのは、京都に近い大坂で四国攻めの戦の準備中だった織田信孝と丹羽永時ででした。
本能寺の変が起こったその日に信長の死を伝え聞いていました。
にも関わらず、京都に向かわなかったのは何故なのか・・・?
この時、織田信孝、丹羽長秀は、箝口令を敷かなかったので、兵士たちがパニックを起こしました。
信長の死を知った兵士たちがパニックを起こして逃げ出したのです。
2人は、仇討に向かうところではなくて、守りを固めるのが精いっぱいだったのです。
柴田勝家は、京都からおよそ300キロ離れた越後で上杉攻めを行っていました。
勝家が信長の死を知ったのは6月5日から7日の間です。
勝家はすぐに北ノ庄城に戻り、明智光秀討伐の準備を始めますが、出陣できずにいました。
京都の戻る際に、上杉軍に追撃される恐れがあったためです。
明智光秀は、上杉景勝に本能寺の変の計画を事前に伝えていたともいわれています。
信長が死ねば、勝家は戦どころではなくなるとわかっていたのか、上杉軍が追撃の体勢を整えていたため、勝家は動けずにいました。
北条氏が治める関東をほぼ制圧しつつあった滝川一益が、本能寺の変を知ったのは、6月7日から9日の間です。
しかし、時を同じくして北条氏も信長が死んだという情報を入手、反撃してきたのです。
そのため一益は、京都に敵討ちに行くことが出来ませんでした。
中国地方を制圧するため毛利方の備中高松城を攻めていた羽柴秀吉は・・・??
信長の死を知ったのは、本能寺の変の翌日、6月3日の夜でした。
京都から200キロも離れた場所で、どうしてそんなに早く知ることが出来たのでしょうか?
本能寺の変が起こることを知っていたのでは??とも言われていますが、それはないでしょう。
明智光秀はこの時、織田信長を討ったから和平交渉に応じるなという内容の密書を毛利に送っていました。
その密書を持った使いの物が、秀吉の陣営に迷い込み、捕らえられてしまったのです。
つまり、毛利より、秀吉の方に情報が早くっ伝わってしまったのです。
この時秀吉は、毛利方の清水宗治の居城・備中高松城を水攻めにし、落城寸前にまで追い込んでいました。
作戦は、城の周りに全長3キロ、高さ7キロの堤を築きました。
その中に、近くの川の水を引き入れ、城を水没してしまおうというものです。
さらに、城を完全に孤立させるために、周辺の警備も厳重に警備します。
すると、光秀が毛利方に送った密使が祖の警備網に引っかかってしまったのです。
城攻めの秘策のおかげで思いもよらず、信長の死を早く知った秀吉ですが、草履取りから取り立ててくれた信長を父のように慕っていた秀吉は、我も忘れて只々泣くばかり・・・
そんな秀吉の目を覚まさせたのは、軍師官兵衛の一言でした。
「これは天の御加護・・・天下取りの好機でございます」
その言葉で冷静さを取り戻した秀吉は、主君の敵・明智光秀を討ち、天下を取るという野望を滾らせるのです。
そして、すぐさま箝口令を敷きます。
事件を知った一部の家臣たちに口止めをし、信長の死は極秘事項に・・・
当然、毛利方にも情報が漏れないように密使を斬ったうえで、備前から備中への道を封鎖しました。
そして、交渉がまとまりかけていた毛利との和睦を急ぎます。
信長の死を知ったその夜、毛利方の交渉人・安国寺恵瓊を呼び出し、それまでの条件を緩める旨を伝えます。
①備中・美作・伯耆の三国の割譲を求めていましたが、割譲するのは美作、備中・伯耆は領土折半と譲歩
②備中高松城主・清水宗治が切腹すれば、城に籠っている5000人の兵士たちの命は保証
暗礁に乗り上げていた講和、秀吉からの譲歩で毛利側は喜んで応じてきました。
清水宗治の死もやむなし!!
こうして、毛利との講和が実現!!
秀吉が信長の死を知ってから数時間後のことでした。
その日のうちに、水上の船の上で、備中高松城主・清水宗治自刃。
その見事な最期に秀吉は”武士の鑑”と褒め称えたといいます。
しかし、その直後・・・秀吉のウソがばれ、毛利側が信長の死を知ってしまいました。
秀吉が恐れたのは、毛利方の追撃でした。
この時、毛利方の吉川元春・小早川隆景が、1万5000の兵を引き連れて援軍に向かっていました。
「信長が死んだ以上、講和など破棄して秀吉を討つべきだ」by吉川元春
しかし・・・
「誓いの書の墨が乾かぬうちに、講和を破棄するわけにはいかぬ」by小早川隆景
結局、小早川の主張が通り、軍勢は秀吉を追撃することはありませんでした。
さらに、毛利軍が追撃しなかった理由には・・・
和睦の1か月ほど前の事、毛利輝元が家臣に宛てた書状には・・・
「こちらは鉄砲は言うに及ばず、弾薬も底をついている」
武器弾薬を使い果たしていたのでは、追撃などできません。
ところが、これも秀吉の策によるものでした。
秀吉は、瀬戸内海を支配する村上水軍を調略していました。
つまり、毛利の補給路を断っていたのです。
もともと村上水軍は毛利方の水軍で、因島、来島、能島の三家に分かれていました。
そのうちの来島村上家は、既に毛利を裏切り信長側についていましたが、秀吉はこの時、能島村上家を調略・・・手中に収めていたのです。
6月5日、吉川元春と小早川隆景の軍勢は撤退を開始、それを見届けた秀吉は、翌6日、2万の軍勢を率い京都へ・・・8日間、200キロの怒涛の行軍が始まりました。
秀吉の神業ともいわれる中国大返しが始まりました。
1日目・6月6日午後2時・・・
備中高松城を後にした秀吉軍は西国街道を通り、22キロ離れた沼城へ。
西国街道は、援軍として来るはずだった信長のために、秀吉が事前に整備していたため行軍は比較的楽でした。
向かう備前・沼城は、秀吉の家臣・宇喜多直家の居城・・・待ち受けていた宇喜多もまた抜かりなく。
秀吉たちが夜でも移動しやすいように、街道沿いに松明をたき、城についたときにすぐに食事ができる用に整えておきました。
こうして順調なスタートを切った秀吉軍でしたが、この先が大変でした。
2日目・6月7日早朝
沼城で仮眠をとった一行は、翌朝早くに出発します。
向かうは、およそ70キロ先にある姫路城です。
その途中には、西国街道最大の難所・船坂峠が待ち受けていました。
谷が深く、道幅が4メートルに満たないところもあり、2万もの軍勢が重装備でしかも、多くの武器弾薬、食料を運びながら超えるのは、かなりの困難を極めました。
さらに、姫路城の行軍では、暴風雨に見舞われてしまいます。
道筋の川も増水し、農民を雇って人間の鎖を作らせ、その肩にすがって川を渡らせたといいます。
姫路城に着いたのは、翌日8日の早朝・・・24時間で70キロの行軍でした。
鎧などの装備の重さは30~50kg・・・本当にそんなことが出来たのでしょうか?
秀吉は、兵士の負担を少しでも軽くするため、ある策を講じていました。
海路を利用したのでは??という説があります。
秀吉は、村上水軍を味方につけていました。
騎馬隊・足軽隊は、陸路を駆け抜けたと思われますが、物資を運ぶ輜重部隊(小荷駄隊)は海路を使ったといわれています。
言い伝えによると、牛窓からから佐古志、あるいは片上津から赤穂御崎まで海路で行ったという資料が残っています。
重い武具や物資を船で運ぶことで、兵士たちを身軽にし、大軍勢のスピードを上げた秀吉・・・。
さらに、近年中国大返し成功の謎を解く新しい説が浮上しています。
注目されたのは、秀吉が書いた一通の手紙でした。
本能寺の変を知った織田家家臣・中川清秀への返書です。
問題は日付と内容・・・
秀吉は、6月5日に野殿まで来ていると書いています。
野殿とは、備中高松城から7キロの場所・・・
これが正しければ、出発日の定説が覆されることに・・・!!
6日出発という通説は、小瀬甫庵が書いた「太閤記」という豊臣秀吉の生涯を綴った伝記によるものです。
しかし、太閤記の内容は誇張表現では・・・??と考える人もいました。
近年、中川清秀宛ての書状が注目され、5日に野殿まで退却し、沼城へ向かったのでは・・・??という新説が出てきています。
毛利の追撃の可能性はゼロではない・・・天晴な秀吉です。
この6月5日出発説は、本隊は備中高松城に残り、秀吉と何人かは野殿へ向かったのでは・・・??という可能性もあります。
中国大返し・・・この成功の裏には、秀吉のこんな知略が・・・!!
①人心掌握術
備中高松城を出発し姫路城まで・・・2日で92キロを走破した兵士たちでしたが、まだ道半ば・・・京都までは100キロ以上残っていました。
秀吉に、ある懸念がよぎります。
「こやつらも、随分疲弊している・・・
そろそろ逃げ出す者も現れるのではないか・・・??」
そこで秀吉は、姫路城に着くと皆に信長の死を知らせ、この行軍は、信長の仇である明智光秀を討ち取るためであると兵士たちの士気をあげたのです。
さらに、城にあった兵糧米8万5000石と金800枚、銀750貫文・・・現在の価値にしておよそ66億円相当をすべて兵士たちに分け与えたのです。
また、現存する秀吉の書状によると、”163人いる中間や小者らに一人五斗あたえよ””とあります。
中間、小者は、武器や荷物を運ぶ者です。
そうした者たちにまで、一人五斗・・・つまり、半年分の米に当たる高い報酬を与えたのです。
そして、翌日からの行軍に備えて、ここで1日ゆっくりと休ませることに・・・。
すると、そこへ一人の僧侶がやってきてこう言うのです。
「明日は二度と帰ることが出来ない悪日にあたります
それゆえに、出陣は延期された方がよろしいかと・・・」
それを聞いた秀吉は・・・
「そうか、二度と帰ることが出来ないのはむしろ吉日じゃ」
そういって取り合わなかったといいます。
その意味は・・・??
秀吉は、光秀を見事討つことが出来れば、天下人の道がある・・・そうなれば、姫路城に帰ってくる必要はない・・・城などどこにでも作れる!!だから、帰って来られないのはむしろ吉日!!
自分が勝って、天下を取るということだというのです。
みなぎる自信と天下取りの野望・・・
秀吉は富田に向かいます。その際、摂津国を通ることとなります。
そこにいるのは、茨城城主・中川清秀、高槻城主・高山右近でした。
かつて織田信長に対して、謀反を興した武将・荒木村重の重臣でした。
「やつらが信長様の死を知ったら、反旗を翻すかもしれない・・・」
そこで秀吉は、彼らにこんな書状を送ります。
”上様は難を逃れ、無事である”
信長が生きているという嘘を伝えることで、中川清秀らが光秀に加勢するのを防ごうとしました。
この時光秀は、信長の遺体を見つけることが出来ずにいました。
もし、信長の首を晒すことが出来ていれば、嘘がすぐにばれていました。
情報を操作することで、裏切りの芽を摘んだ秀吉は、安心して進軍することが出来たのです。
②家臣の働き
秀吉は、家臣にも家ぐまれていました。
事務管理能力に優れていた石田三成は、この時後方支援を担当。
食糧や武器などの物資を調達、人の手配を迅速に的確に行いました。
これによってスムーズな移動が可能に・・・。
また、黒田官兵衛は、軍師として優れた才能を発揮。
それが・・・毛利家の旗。
兵庫を過ぎたあたりから、隊列の先頭にこの旗を持たせ、毛利方が秀吉軍に加わったと思わせたのです。
官兵衛は、備中高松城での和議が成立し撤退する際に、小早川隆景の素をたずね、毛利軍の旗を20本ほど借りたいと申し出ていました。
隆景は、ある程度の察しはついており、秀吉に協力しておいた方が毛利家のためになると考えました。
幡を見て、毛利が味方に着いたと勘違いした武将たちが、次々と秀吉方に加わったといいます。
こうした家臣たちの働きもあり、6月11日、秀吉軍は尼崎に到着。
秀吉は、大坂城にいた信長の三男・信孝と丹羽長秀に、尼崎まで来たと伝えますが、信孝を光秀討伐の総大将には立てませんでした。
本来なら、息子の信孝が総大将となって仇を討つのですが、信孝を総大将にすれば自分はその下の駒でしかない・・・
こでまでと何ら変わりないと考えました。
当時、信孝には兵が4000ほどしかいませんでした。
おまけに光秀は、本能寺の変で信長の嫡男・信忠も討っていました。
どうしたらいいのかわからない信孝は、光秀を討つ気迫が無かったので秀吉の上には立てなかったのです。
6月12日、富田に到着した秀吉は、池田恒興、中川清秀、高山右近らと軍議を開きます。
明智光秀を討ち、天下人となるために・・・!!
一方の光秀は・・・??
本能寺の変を起こした6月2日から4日までの間に居城の坂本城に入って近江を平定。
6月5日には信長の居城・安土城と秀吉の居城・長浜城を占拠。
さらに、丹羽長秀の佐和山城も押さえています。
光秀も、味方の結束を強めていました。
娘のガラシャを嫁がせていた丹後宮津城の細川忠興や、大和郡山城・筒井順慶に参戦を呼び掛けています。
一方、朝廷を味方に付けようと調停工作も行います。
朝廷から京都の経営を任せるといわれ、信長の後継者は自分に認められたと思っていたようですが・・・
8日、秀吉の大返しの知らせを受けるのです。
しかし、光秀は、調停工作に励みます。
調停工作を第一に考えていたのか?
秀吉はまだ帰ってこないと思っていたのか・・・??
秀吉の軍勢は、4万に膨らんでいました。
一方、明智光秀は織田信長の謀反に成功するも、細川忠興や筒井順慶らが参戦しないという誤算に見舞われます。
細川忠興は、光秀のために動かなかっただけでなく、娘の細川ガラシャを謀反人の娘として丹後の山中に幽閉、筒井順慶は一度は参戦に応じるも、秀吉側に寝返り、居城に籠ってしまいました。
結果、光秀の軍勢は1万5千!!
秀吉の軍勢の半分にも及びませんでした。
決戦の地は、京都に近い天王山の麓・山崎!!
6月13日
劣勢で迎え撃つこととなった光秀には策がりました。
それは、天王山の地の利を生かす作戦です。
川が迫る天王山の麓には、当時、馬がやっとすれ違えるほどの細い道しかなく、光秀はそこに秀吉の大軍をおびき寄せて、天王山に配置した兵に急襲させて撃破しようと考えていました。
しかし、この作戦は、逆に秀吉に天王山を取られるようなことがあれば成功しません。
「先に天王山を押さえねば!!」
しかし、秀吉もまた天王山が勝負の分かれ目になるとわかっていました。
そこで、このあたりの地理に詳しい中川清秀に天王山の奪取を命じます。
中川は敵に気付かれぬように松明をつけづに前日の夜に山に分け入り、光秀軍より先に天王山を押さえたのです。
これで、光秀軍は勝機を失いました。
そして遂に、両軍が激突!!
山崎の合戦です。
わずか数時間で秀吉軍の圧勝に終わりました。
光秀は、命からがら逃げだすも、落ち武者狩りの竹やりで重傷を負い、その後・・・自刃。
3日天下と揶揄されることとなった明智光秀。
その一方、主君・信長の敵討ちを見事遂げた秀吉は、天下取りにぐっと近づきました。
全ては、中国大返しという神業をやってのけたことにありました。
その成功の秘訣は、情報操作など、優れた知略、巧みな人心掌握術、有能な家臣の存在、そして大胆な行動力と決断力、何をするにもスピードに驚かされました。
秀吉、天下取りとなるべき人物だったというのがよくわかります。
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