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戦国乱世を告げた大坂夏の陣・・・
徳川家による天下泰平の時代が到来・・・?
そのわずか22年後・・・江戸幕府の屋台骨を揺るがす大事件が九州で起こります。
領主の過酷な圧政と、キリシタン迫害に人々が立ち上がった島原の乱です。
日本最後の宗教戦争です。
およそ3万7000と言われるその一揆勢を率いたのは、神の子・天草四郎でした。
それを鎮圧する幕府軍12万の総大将は老中・松平信綱・・・”知恵伊豆”と呼ばれた男です。
戦乱の舞台となったのが原城・・・歴史的に稀な大激戦・・・凄惨な戦いとなりました。
江戸時代の初め・・・
幕府によるキリシタン禁止令・・・禁教令によって、全国のキリシタン信者たちは、過酷な迫害を受けていました。
その頃・・・追放された外国人宣教師の予言が、天草に残っていました。
今から25年後・・・天より神の子が現れ、キリスト教をこの地に再興するであろう・・・と。。。
予言通り、その25年後に現れたのが天草四郎でした。
様々な奇跡によって神の子と呼ばれました。
武士の子として生まれた天草四郎、家族はみなキリシタンでした。
17世紀・・・世界規模のな異常気象が起こっていました。
島原、天草地方も、深刻な飢饉に陥りました。
しかし・・・藩主がとった政策は・・・過酷なものでした。
重税を課し、未納のものには拷問が・・・!!
人々は、四郎の登場を待ち望んでいたのです。
1637年10月25日、島原の民が代官を殺害・・・
2日後、有明を挟んで天草に飛び火し。。。
一揆勢は、原城で合流し、3万7000の兵に膨れ上がりました。
四郎たち一揆勢は、幕府に反旗を翻したのです。
その報告は2週間後に江戸に・・・
一揆鎮圧のために、家光の信頼が篤かった板倉重昌が総大将に選ばれ出陣しましたが・・・
幕府はこの時、いくつかのことを読み違えていました。
1638年正月・・・原城総攻め。
ところが・・・幕府軍の死傷者が多数・・・!!板倉重昌も銃弾に斃れます。
初戦は、一揆勢の大勝利となったのです。
幕府の誤算はまず、原城にありました。
断崖の上にある本丸跡・・・原城はその20年以上前に廃城となっていたようですが・・・
巨大なやぐら門・・・迷路のような虎口・・・
高い防御力を誇る堅固な城だったのです。
発掘された住居跡では・・・
個々のかまどなどの後が見つかりません。
つまり、寄せ集め集団ではなく、組織的な軍団だったのです。
その中には、四郎の父や主君を失った牢人たちもいました。
彼等が統率したと思われます。
各地に使者を派遣して、キリシタンたちに決起を呼びかけます。
「四郎法度書」を出します。
・まきとりや水汲みを口実に、城外へ出るものが多いと言う、厳しく取り締まるように。
・互いを大切に思って、意見を交わすべきである。
城内の者は、後世までの友達であるのだから。
外国に援軍を要請する???
当時日本と密接な関係にあったのが、オランダとポルトガルです。
ポルトガルはカトリックで・・・日本での貿易や布教を独占していたものの・・・度重なる禁教令で、その立場を追われていました。
一方、貿易を軸に幕府と関係を持っていたのが、プロテスタントのオランダです。
宗教的な対立と、アジアを巡ってオランダとポルトガル・・・二つの国も対立していたのです。
島原の乱の頃、インドのゴア沖で、オランダ船とポルトガル船が武力衝突していました。
救いを求めるのは、国内のキリシタンたちの援軍か、外国の援軍か??
そんな中、12万の軍勢を率いてきたのが老中・松平信綱。。。決戦のときが迫っていました。
二人の頭脳戦が始まりました。
信綱にとっても計算外に強かった天草軍、どう対応していくのでしょう?
一揆勢の力に侮ることなく、防備に力を入れます。
陸地に柵を作り、原城を厳重に取り囲みました。
作戦①
地下道を掘り、城内への侵入を試みます。
そこに天草軍も穴を掘り、糞尿を投げ込み対抗します。
作戦②
忍者を送り込みます。
が、九州の方言&キリシタン用語で理解できず失敗。
なかなか作戦が成功しません。。。
しかし、キリシタン信仰は許せない・・・
早くしなければ、各地のキリシタンが蜂起するかもしれないし、外国が加勢してくるかもしれない・・・!!
信綱が着陣して一週間後・・・
有明海に外国船がやって来ました。
それは、信綱が依頼したオランダ船だったのです。
オランダ船は、原城に砲撃します。
しかし、被害は驚くほど少なかったのです。
そこには、信綱の驚くべき策がありました。
オランダ船を頼ったのは、一揆勢の幹部が”南蛮から援軍が来る”と籠城している他のものを騙しているから・・・。
だから、異国人に攻撃させれば他の者も”援軍など来ない”としり、キリシタンどものウソに気付くのではないか??
オランダ船による砲撃は、信綱が四郎たちに向けた心理戦だったのです。
城内にはキリシタン以外の農民たちもたくさんいるのに強硬策は必要なのか??
矢文で、好条件による和解案を提示していきます。
「投降した者は家に帰らせ耕作を許す。
米2000石を支給した上、今年の年貢は免除する。」
しかし、城内では強硬策が・・・!!
信仰心の篤い四郎たちは強気です。
が・・・場内からの文に・・・
「城内の大将3名の者は、成敗していただいて結構。
そのかわり、残りの籠城者の命は助けていただきたい。」
それは明らかに四郎とは違う意見でした。
一枚岩ではないのか・・・??
探りを入れ出しました。
四郎に書状を手渡します。
キリシタンは許さないが、無理にキリシタンにされている者は、これを除名する・・・と。
しかし・・・降参はしない・・・!!
信綱と四郎・・・どうする???
かつて島原を治めていた有馬勢が放った矢文で・・・
信綱の命によって山田右衛門作との会談が持たれることになりました。
密約が交わされます。
内容は、幕府軍を城に導き、生け捕りにして四郎を誘拐しようとしたのです。
どうして生け捕り???
宗教的なカリスマ的指導者となると、殉教者になって美化されてしまう・・・!!
それだけは避けたい!!
そして、カリスマ四郎の無様な姿を見せつけることの生け捕りだったのです。
しかし、右衛門作の裏切りはすぐに露見し、捕えられてしまいました。
信綱の交渉も八方ふさがりに・・・
と思っていたら・・・籠城した者の胃の中からは・・・青草状のものや、麦の葉しかなくなっていました。
食料が尽きかけている???
総攻めか、懐柔策か??
決断は総大将の信綱に・・・!!
長期にわたっての戦いになってしまったので、幕府軍の統率も???になってきていました。
苦渋の決断の末、総攻めを決断したのでした。
1638年2月27日、総攻撃が始まりました。
死力を尽くした戦いで、幕府軍は12万のうち死傷者は1万にも上り。。。
四郎は・・・信綱の”生け捕りにしたい”意に反して討ち取られてしまったのでした。
かくして・・・2か月に及んだ一揆は終焉を迎えたのでした。
籠城した者はほとんどが殺害された島原の乱・・・。
今でもたくさんの骨が発見されます。
そこには、上半身と下半身を人為的に切断したものも多く・・・
籠城した一揆勢が死んだ後も・・・幕府はキリシタンを怖れていたようです。
「キリスト教の人は復活する・・・!!」
と思われていたので、意図的に行われたようです。
戦乱ののち、天草では農民が激減・・・
田畑は荒廃したと言います。
天草四郎・・・1638年享年16歳でした。
島原の乱集結の翌日・・・信綱は「もはやこの地は敵地に非ず・・・!!」と宣言します。
戦で荒廃したこの土地の復興を視野に入れていました。
信綱は、一揆勢を処分しただけではなく・・・領主も罰します。
島原藩主・松倉勝家死罪。
乱ののち、天草地方は幕府の直轄地となり、鈴木重成を天草に派遣し石高を半減するなど復興に力を注ぎました。
島原の乱以降、幕府は大々的なキリシタン迫害をやめ、キリシタンもまた武力蜂起を選ばなくなりました。
隠れキリシタンは、幕府の目をかいくぐり・・・信仰されてきました。
1年後・・・ポルトガル船の来航を禁止し・・・
鎖国体制が整っていくのでした。
鎖国の中で200年余り、戦いのない時代が続くのです。
それは、世界史上まれにみる長期間の平和な時代の実現でした。
島原の乱は、見えない平和憲法が領主と百姓の間に横たわっている事件でした。
島原の乱ののち・・・松平信綱は明暦の大火の復興に尽力します。
そして・・・島原の乱から24年後・・・67年の天寿を全うしたのです。
幕府の屋台骨を支え続けた人生でした。
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