日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:小谷城

1573年9月・・・戦国最強と謳われた巨大山城が落城しました。
城の名は小谷城・・・城主・浅井長政は、織田信長の妹・お市を妻にして、信長と同盟関係を結んでいました。
小谷城を落としたのは、身内のはずの信長でした。
長政の裏切りをきっかけに、血で血を洗う戦いが始まったのです。
しかし、城の守りは固く、落城までは3年の月日が必要でした。
小谷城を信長はこう評しています。

”高く険しい要害の地、攻め上がること困難なり”

小谷城とはどのような山城だったのでしょうか?
織田信長が、天下統一への第一歩となった小谷城落城・・・この攻防が現代に残す教訓とは・・・??

滋賀県北東部の長浜市・・・琵琶湖を見下ろす山に、巨大な山城・小谷城がありました。
標高495m・・・今は木々に覆われた山は、かつて巨大な山城として近江国にそびえたっていました。
自然の地形を生かしながら、巨大な要塞として構築された小谷城です。

曲輪には兵を配置し、尾根筋を進んでくる敵を鉄砲や弓矢で攻撃する拠点となります。
曲輪の外側には、敵の攻撃を防ぐ工夫があります。
切岸です。
急斜面を作り、下からの敵の侵入を防いでいるのです。

尾根沿いの道は、曲輪に横を過ぎると曲がっています。
これも側面から敵を倒す工夫です。
何の変哲もない山道も、綿密に設計された敵を倒す防御システムだったのです。

尾根沿いの道を避け、斜面から攻めようとすると・・・竪堀があります。
竪堀を掘っておくことで、敵が山の斜面を横移動して城内の中心部に入ることを防ぐ防御施設です。
竪堀の先は、数多くの曲輪があり、敵を皆殺しにするためのワナです。
竪堀に足止めされたところを曲輪から攻撃されます。
斜面からは攻め込めません。

本丸を目指す・・・その先には、今まで以上に強力な曲輪が待ち構えていました。
防御のための土塁を全周回していています。
鉄砲を撃ちかけることもできます。
仮に銃撃をかいくぐることができても、その先に侵入することも難しい・・・
見事な守りの城です。

本丸の出入り口・・・
石段の上には見事な黒鉄門という鉄ばりの城門がありました。
門の中には、小谷城最大の曲輪がありました。
大広間といい、幅35m、奥行き85mあります。
政治の中心地でした。
城主・長政が暮らしたこの空間からは、壺や皿などの日常生活や宴会に使用されたとみられる遺物が3万点以上発見されています。
大広間と本丸の背後には、尾根を断ち切った深さ9mの大堀切が作られています。

大堀切の奥には、城主・浅井長政の大切な人が暮らす曲輪が連なっています。
地元北近江の守護だった京極氏を住まわせる京極丸、長政の父・久正が入る小丸、本丸よりも高いところに置かれています。
しかし、小谷城はまだまだあります。
そこから急な坂道を登る事50分・・・
標高495mの山頂に、巨大な防衛陣地が作られていました。
大嶽城です。

たどり着くことさえ困難な山頂に、三重の土塁が張り巡らされています。
小谷城を背後から攻撃しようとする敵に備えたものだと考えられます。
さらに、大嶽城から南にのびる尾根筋にも、砦がいくつも配置され、西側からの攻撃に備えていました。
小谷城は、あらゆる方向からの敵に備えた難攻不落の要塞でした。
南国屈指の巨大山城・小谷城・・・
木々の下に隠れていたのは、戦国乱世が行きついた究極の城の姿でした。

浅井長政の居城・・・北近江の巨大山城・小谷城・・・。
長政は、小谷城の他にも、領内各地にいくつもの小さな城を配置していました。
こうした城は、どのような役割を持っていたのでしょうか?

横山城には、重要な意味がありました。
横山城は、小谷城の南にある軍事拠点で、街道が三角形に集まってくる真ん中にある城でした。
主要な街道を監視し、南、東の動きを把握することができ、即座に対応することができました。
浅井氏の支城は、色々な役割を担っていました。
小谷城の西の山本山城・・・琵琶湖の脇を日本海側に抜ける街道は、この山本山城と小谷城の間を通っていました。
二つの城で街道を囲んでいる・・・経済のポイントを山本山城が押さえていました。
私情を築くことで、地域を守るだけでなく、街道・・・流通そのものを把握していくことにつながりました。

小谷城の麓を通る街道・・・浅井氏は、この街道を小谷城の城下町まで引き込んでいました。
小谷城自体が、流通を支配する!!
重要な幹線道路を浅井氏が遮断している・・・きちんと管理していました。
小谷城の城下町は、川で琵琶湖ともつながっていました。
川を下ると姉川に合流し、姉川からすぐに琵琶湖で下。
琵琶湖の湖上交通という大きな物流の大動脈につながったのです。

浅井氏は、城下に川湊を作り、琵琶湖の物流と直接つなげていたのです。
北陸の米などを京都に運ぶ琵琶湖の大規模の水運は、物流の幹線ルートとして重要な意味を持っていました。
このルートを掌握する役割を持たせていたのが佐和山城です。
佐和山城は湖の入り江に接していました。
浅井氏は、湖に接する城を通じて、琵琶湖の水運にもにらみを利かせていました。
北陸から朝井領を通る琵琶湖の物流ルートには、隣国の大名も注目していました。
越前の朝倉氏は、早くから朝井氏と同盟を結んでいます。
天下統一に向かう織田信長も、妹・お市を長政に嫁がせ、緊密な関係を築いていました。

1570年4月、信長は、浅井氏と同盟関係にあった朝倉氏を攻撃!!
これを機に、長政は信長から離反します。
長政の裏切りを知った信長は、朝倉攻めを断念し、命からがら京に逃げ帰るのです。

長政の裏切りから2か月後・・・
1579年6月、信長は浅井領に侵攻します。
兵を向けたのは、小谷城ではなくその南の支城・横山城でした。
横山城を包囲した信長に、長政も出陣!!
姉川の戦いです。
戦は信長の勝利に終わり、長政は横山城を失います。
その頃、浅井長政、朝倉義景、武田信玄、石山本願寺、三好三人衆・・・信長包囲網が築かれようとしていました。
信長は大ピンチだったのです。
それでも信長は、浅井への攻撃を続けます。
狙ったのは、南の橋の佐和山城!!
佐和山城は、全体の戦局を左右する要の場所でした。
佐和山城は8か月にわたる籠城戦の末、信長の手に落ちました。
要となる城を奪われた長政・・・厳しい選択を強いられます。

佐和山城、横山城を落とされ、小谷城に来るのは時間の問題・・・和睦を願い出る・・・??
信長が、裏切ったものを許すはずがない・・・鉄壁の小谷城で戦いに打って出る・・・??

1571年5月、長政は、奪われた支城の奪還に打って出ました。
あくまで信長と戦う道を選んだのです。
しかし、強力な信長軍を前に敗戦が続きます。
勢いづく信長は、小谷城に近づき・・・小谷城から500mのところに虎御前山城を築きます。
目の前に大規模な陣を構え、長政を物理的にも精神的にも追いつめていきます。
信長は、新しい戦略をとっていきます。
信長は、幅6mの軍用道を5km作ったとされています。
高い塀で目隠しをし、浅井側に見えない徹底ぶりでした。

じわじわと小谷城を締め上げる織田軍・・・
一方の長政は、味方を次々と失っていきます。
比叡山延暦寺は焼き打ち、武田信玄は病死・・・

1573年8月、小谷城のすぐそばの支城・山本山城が信長に降伏・・・。
羽柴秀吉の巧みな調略によるものでした。
山本山城が陥落することによって、小谷城の裏に回れる・・・!!
山本山城降伏からわずか4日後・・・信長は勝負に出ます。
振りしきる雨をものともせずに、自ら手勢を率いて小谷城背後の要・大嶽城に攻め上ります。

8月27日、信長は総攻撃を命じます。
羽柴秀吉率いる軍勢は城下町を突破、谷から急斜面を駆け上がります。
京極丸の辺りに乱入!!
長政の父・久正の籠る小丸を攻めたて自刃に追い込みます。
滅亡を悟った長政は、妻・おとに三人の娘たちを信長の元へ送り出します。
そして自らは、最後まで残った家臣たちと共に本丸で打って出ます。
総攻撃開始から3日後・・・
1573年9月1日、小谷城城主・浅井長政は自決・・・28年の生涯を閉じました。
落城した小谷城は、秀吉に預けられましたが、琵琶湖湖畔にある長浜に新たな城が築かれると廃城が決まります。
この後、再び巨大山城が築かれることはありませんでした。
山城に立て籠れば守り切れるという戦国の常識が崩れた瞬間でした。
中世的な山城から近世の平城に・・・この転換を武将に決断させた大きなきっかけが小谷城の戦いでした。

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桶狭間の戦い・・・この合戦で、織田信長は歴史の表舞台に躍り出ました。
弱小兵力の信長が、起死回生の奇襲作戦で、東海の雄・今川義元を討ち取る大金星を挙げたのです。
それから10年・・・信長は、運命を左右する一戦に・・・姉川の戦いです。

戦いの舞台は、現在の滋賀県東北部、姉川沿い・・・浅井・朝倉との戦いでした。
これまで伝えられてきたたのは、巧みな陽動作戦によって信長が大勝利を収めるというものですが・・・。
ところが、姉川の戦いで信長は窮地に追い詰められ、命を落としかねない状況であったことが解ってきました。
逆桶狭間の危機に陥っていたのです。
信長の首を狙ったのは、北近江の武将・浅井長政。
信長の同盟者であり、義理の弟・・・長政が裏切り、最大の敵として立ちはだかったのです。
戦いの直前、信長は大きな過ちを犯していました。
それが、長政に付け入る隙を与えたのです。

1560年、織田信長の名前を天下に轟かせた桶狭間の戦い・・・。
しかし、大大名・今川を討ったとはいえ、信長はまだ尾張の小大名にすぎませんでした。
同盟を・・・と、隣の徳川家康、北近江の浅井長政と結びます。
隣国でもない長政とどうして同盟を結んだのでしょうか?
この時の敵は、美濃・斎藤家でした。
斎藤氏は、南近江の六角氏と結んでいました。
敵の敵は味方・・・斎藤氏けん制のために、長政と同盟を組んだのです。
浅井氏の居城・小谷城・・・北近江支配の拠点であり、当時有数の巨大な山城でした。
山全体を覆うように作られた曲輪。。。
軍事力に優れた浅井氏の力のほどが伺えます。
城の中でも際立つのが、中腹に作られた大広間です。
大きな空間が山城の中にあり、小谷城は戦国時代屈指の巨大山城であったことを証明しています。
城跡から出土した中国製の白磁や青磁・・・天目茶碗・・・浅井氏の経済的裕福が伺えます。
さらに小谷城を拠点に、横山城、佐和山城・・・独自の防衛ラインを築き、琵琶湖の水上交通を支配していました。
信長にとって浅井長政は軍事的、経済的に頼みとする武将だったのです。
同盟締結に、信長は妹・お市の方を嫁がせています。
この同盟にかける期待の大きさが伺えます。
天下への野心をあからさまにしていく信長・・・
1568年9月、美濃平定した信長は、次期将軍候補・足利義昭を担いで上洛を果たします!!
その翌月、義昭・征夷大将軍に就任。
信長は新将軍から”武勇天下第一”と称えられただけではなく、御父ともよばれました。
信長にとって、最大級の賛辞です。
この将軍の権威を背景に、信長は畿内周辺の諸大名に上洛を命じる書状を出します。

”おのおの上洛ありて
 御礼を申し上げられ
 馳走肝要に候
 御延引あるべからず”

これをはねつけたのが、朝倉義景でした。
かつて足利義昭の後ろ盾となっていた越前の雄です。
信長の上洛勧告に、朝倉はこう答えます。

「これは上意に非ず
 信長の謀略である」と。

京を中心に畿内の覇権を図る信長にとって、朝倉はまさに目の上のコブでした。
1570年4月、朝倉討伐!!3万の軍勢を引き連れて、京を出陣します。
目指したのは、今の敦賀市・・・陸上交通と北国海運の要です。
朝倉氏にとっては畿内への玄関口でもありました。

1570年4月26日、金ヶ崎の戦い
ところが・・・落城させた直後に、信長に驚愕の知らせが・・・!!
浅井長政が裏切ったのです。
長政裏切りに際し、信長は・・・「虚説たるべき」・・・裏切りを嘘だとして報告を信じませんでした。

「浅井はれっきとした縁者であり、その上、北近江一体の支配を信長が許しているのだから不足などない・・・」と。
「浅井は近年、信長の家来となり、心の隔たりなく付き合ってきた。」と。
長政には、十分な所領、北近江半分を与えている・・・お市の方を嫁にしているではないか・・・!!
別格の待遇なのに・・・??

ところが長政としては、信長の家臣ではない・・・
家臣扱いされることに対する自尊心が・・・!!
朝倉攻めを優勢にしている信長・・・しかし、長政の裏切りが本当ならば、形勢は一気に逆転してしまう・・・!!
四方を囲まれて袋のネズミとなった信長・・・。
金ヶ崎城の麓にある神社・金崎宮には一風変わったお守りがあります。
袋の両端を結ぶことで、信長の窮地を暗示した小豆袋・・・浅井裏切りの一報を伝えたのはお市の方だという逸話も残されています。
小谷城から敦賀までおよそ35キロ・・・本当に長政が兵を動かしたとするならば、一刻の猶予も許されない・・・。
この時信長は即断即決し、家臣に後事を託すと、一目散に駆け出しました。
京までおよそ200キロの道程・・・金ヶ崎の退き口です。
信長を京まで逃がすために、困難な殿を務めたのは、木下藤吉郎・・・豊臣秀吉や、明智光秀、徳川家康です。
信長は長政の支配下の琵琶湖周辺をさけ、山越えを選択。
若狭街道を南下し、京へ着いたのは長政の裏切り発覚から3日後の事でした。
この時信長に付き従ったものは、僅か十数人と言われています。

当時の宣教師によると・・・
「信長は、自らに加えられた侮辱に対しては、懲罰せずにはおかなかった。」

その言葉通り、岐阜城に戻るや否や・・・
6月19日、岐阜城を出陣!!

3万の大軍勢で、小谷城に進軍!!
いよいよ、姉川の戦いの火ぶたが切って落とされようとしていました。

信長は、浅井長政討伐のため北近江に侵攻しました。
姉川の戦いの始まりです。
この時、戦いの舞台となったのが、浅井方の城・横山城です。南北8キロに連なる横山丘陵に築かれた山城です。
1570年6月24日、信長・横山城を3万の大軍勢で包囲!!
横山城は小谷城と佐和山城の中間にあり、落とせば城の連携が遮断され、浅井の防衛ラインを崩すことができる!!
しかし、横山城は南北8キロに及ぶ長ぼそい丘陵・・・。
包囲することは非常に難しい!!
織田軍は、長い丘陵地帯の横山城を包囲する為に、軍を分散配置せざるを得ない・・・!!
この法線を担ったのは、秀吉や柴田勝家ら精鋭部隊だったと考えられます。
同じころ、朝倉の援軍8000が到着!!小谷城近くの大依山に陣を構えました。
一方、信長本陣は横山城北端の龍ヶ鼻、徳川家康は岡山に陣を構えました。
姉川を挟んで睨み合う形となったのです。

6月27日、大依山の浅井・朝倉勢が動きます。
大依山の軍勢が動いたので、信長の目の前から浅井・朝倉勢が見えなくなったのです。
この時信長は、敵の動きをこう読んでいました。
小谷城への撤退行動だと・・・!!
浅井・朝倉勢が撤退したとすれば、横山城攻略に専念することができる!!

長政の考えは・・・??
合戦を短期に決めてしまうには、信長の首をとるのが一番早い・・・。
一か八かで狙ったのが姉川の戦いでした。
長政は、小谷城に撤退したと見せかけて、密かに信長の本陣を突こうとしたのです。
この時、信長の周囲にいたのは、家康と馬廻衆などで大きな軍勢ではない。。。

6月28日午前5時ごろ・・・浅井勢、姉川に到達。
信長の本陣に近づいていました。
そして・・・1579年6月28日、姉川の戦い開戦!!
信長の虚をつく、乾坤一擲の奇襲攻撃でした。
浅井軍の猛攻に推される織田軍!!
敵は姉川を越え、信長の御手前へ差し掛かり、推しつ返しつさんざんに入り乱れました。

この時、信長の本陣は、陣杭の柳にありました。
そこには、浅井家家臣・遠藤直経の墓がありました。
信長にせまり、あと一歩のところで討ち取られた武士と記録されています。
本陣から墓まで300m・・・長政の奇襲攻撃で、信長本陣が大混乱を起こします。
信長は、今川義元になりかねなかったのです。

長政の奇襲攻撃によって、劣勢になった信長・・・
撤退する??踏みとどまる??

1570年6月28日、姉川の戦い開戦。
この時信長は、長政の奇襲攻撃で、大苦戦を強いられていました。
しかし、信長は戦場を離脱することなく戦場に留まりました。
味方の援軍を待ったのです。

乾坤一擲の奇襲攻撃にかけた長政・・・しかし、信長の首がとれないとわかると、小谷城に撤退したと思われます。
横山城を包囲していた織田の武将たちは、信長本陣に・・・追撃を開始しました。
浅井・朝倉勢が退却したことで、孤立した横山城は、退却を余儀なくされました。
信長は、横山城を奪取することに成功したのです。

織田軍は、横山城を浅井攻めの足掛かりとして小谷城攻略を進めていきます。
結果的に、姉川の戦いの勝者は信長であることが有力となります。
ところが・・・戦いの僅か3か月後、浅井・朝倉勢が挙兵!!
比叡山を抑え、信長の京への上洛路を遮断したのです。
3か月にわって信長を苦しめたこの戦いを志賀の陣といいます。
それだけの余力があれば、姉川の戦いで余力があったのでは??と考えられます。

信長の危機を招いた姉川の戦いによって、信長は長政に対して更なる復讐の炎を燃え上がらせていくのです。

信長と長政・・・戦いは膠着したまま事態は悪化の一途をたどります。
畿内一円で反信長の火の手が拡大したのです。
姉川の戦いの後、石山本願寺や長島一向一揆など、宗教勢力の挙兵。
足利義昭の寝返り・・・戦国最強の武田信玄が反旗を翻す・・・。
信長包囲網が出来上がります。
こうした四面楚歌に追い込まれた信長は、強引な方法で難局に対していきます。

1571年9月、比叡山延暦寺焼き討ち。
これによって、信長の上洛路を脅かすものは無くなります。
畿内周辺の敵を各個撃破、長政の小谷城を孤立させていきます。

1573年8月、朝倉滅亡。返す刀で小谷城を包囲!!
信長軍の猛攻に、遂に長政切腹・・・享年29の若さでした。
小谷城落城の際、信長の妹・お市の方や、娘たちは救出されます。
しかし、長政の長男・万福丸は許されず、極刑に処せられます。

さらに翌年、信長に刃向かった長島一向一揆を殲滅。
降伏した者たちを皆殺しにしたばかりではなく2万もの農民が焼き殺されました。
信長の残虐極まる行いが記されています。
金泥を施した浅井長政、朝倉義弘のしゃれこうべを肴に、酒宴が催されたのです。
信長は、何もかもが思いのままになってまことにめでたく上機嫌でした。

浅井・朝倉滅亡の後、畿内周辺から信長に敵対する大勢力が途絶えました。
これを機に、天下布武の元、信長は領土を急激に拡大させていくのです。

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