日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:山川健次郎

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総集編・・・最終章です。

明治に入ってのいろいろを・・・。
当時は、新島八重の明治維新後をする必要性って何なのかな??なんて思ってみたり、そう書いている感想も沢山見かけました。
でも、今年の大河「西郷どん」を見ていると、やっぱりあれはあれで良かったんじゃないかと思って・・・。
あたらめて観ると、総集編なのに政治のあれやこれや、心の機微が感じられて、とっても良かったです。

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女性ながら第一線で大活躍する八重さんです。
皇室以外で初めて受勲しました。
それだけ身を粉にして一生懸命働きました。
何のために・・・??

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そこにはやっぱりこれ・・・
松平容保が山川健次郎に公開を託した「孝明天皇の御宸翰」・・・があるんだと思います。

会津という国が無くなっても、そこに殿がいる限り・・・松平容保がいる限り、会津の人たちは前を向いて一生懸命生きたんだと思います。

そして・・・最期まで世の中を見続けるという西郷頼母の姿も・・・

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武士が切腹によって名誉を守ることができた時代に、あえて汚名を浴びながら時代を生き抜いた・・・そんな芯の強い人たちです。
ほんとね、お互いに尊敬し、信頼しているのが分かります。


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着物の着こなしも、所作も、とってもいい感じに・・・丁寧に小奇麗に仕上がっていました。
その着物のように折り目正しいという言葉がぴったりの作品だったと思います。

大河ドラマ・・・ドラマなので歴史に忠実にとは思いませんが、やっぱりドラマにするならかっこよく!!
あ・・・今年の大河を批判しちゃったわ・・・この「八重の桜」ではするつもりなかったのに・・・
登場人物をリスペクトして、歴史をリスペクトして、同じフィクションならかっこよくしてほしいものです。

ほんと、八重の桜は綾瀬はるかさんはもちろん、お話も綺麗だったわ・・・。
涙涙の作品でした

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ついに最終回です。
いろいろ忙しくって、なかなかアップできませんでした。

明治27年11月。。。

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八重は広島の陸軍予備病院に赴任し、従軍看護婦として陣頭指揮を執っていました。
日清戦争の開戦から3か月。
大山は、遼東半島の旅順に!!!
一気に攻め落とそうとしていました。

病院には日本軍だけではなく、清国の兵も数多く運び込まれ。。。
そうか・・・清の兵まで日本に運ばれてきてたなんて。。。

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言葉が通じずに、暴れる敵国の兵を”日本語で”鎮める八重
そこには・・・敵であっても傷ついた者を助ける八重がそこにはいました。

怪我人も、伝染病患者も・・・

”味方の兵の上のみか 言も通わぬ敵(あだ)までも
    いとねんごろに看護する 心の色は赤十字”

戦では衛生兵が看護する・・・
今でもある女性に対する偏見は、この時代はもっと強く・・・
そんな時代に女性が兵士の看護をすることは、並大抵の苦労ではなかったようです。

11月21日
日本軍は、旅順総攻撃を行いました。
難攻不落と言われた旅順も・・・日本軍の猛攻撃の前に清軍は総崩れ・・・
要塞は1日で陥落したのでした。

一方広島では・・・
たくさんに犠牲が・・・多くの兵が亡くなっていっていました。
そこにやってきたのは、徳富蘇峰。
さすがにジャーナリスト、戦争に対してイケイケ!!ドンドン!!です。
多くの犠牲者が出ていることを記事にしてほしいと願う八重・・・。
でも、いつの時代も読者の求めているところはそんな部分ではない。。。
そう・・・一気に北京を攻め落とすために!!!

明治28年2月。。。
日本は勝利を確実とし、3月伊藤博文と李鴻章との間で講和条約が交わされる・・・会議が始まりました。
日本赤十字では668名の看護婦が活躍し。。。
戦争の終わりと同時に八重たち篤志看護婦もその任務を終えたのでした。

ひとり家に帰った八重。。。
しかし、立ち止まっている暇はありませんでした。

日清講和条約で遼東半島が返還されることになりました。
そこには、ロシア、ドイツ、フランスの思惑が働いていたのです。
日本外交の弱腰を非難する蘇峰。
新聞として世論に訴えます。
この時の屈辱は、次なる戦争へと繋がっていくのです。

八重は、茶の湯に傾倒していきます。。。

そんな静かな時が流れる明治29年・・・
八重の母・佐久が亡くなりました。
前後して、義母・登美、久栄も病で亡くなり。。。

自宅の茶室でお茶の稽古中。。。
京都府の役人がやってきました。

「新島八重を勲七等に叙し、宝冠章を授ける」

”女子が勲章を???”

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叙勲は、広島で看護婦たちを指揮したことによるもので。。。
皇室以外の女性では、はじめての叙勲でした。

時が過ぎ・・・大蔵は御宸翰を世に出すころではないかと・・・
そのことは、健次郎に託されます。

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会津が名誉を回復する日は必ず来る。。。
若き家老として会津藩を指揮し支え、全てを背負った男もまた・・・
この世を去っていきました。

慶喜にも復権の時が・・・

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”恐ろしかった・・・会津の愚直さが・・・!!
いや・・・まことは羨んでいたのかもしれぬ
信義で結ばれた主従の絆はわしには手に入らぬものであったゆえ・・・”

あ~、まだわからないのね・・・慶喜。
切れ者の筈では???
慶喜には勝さんがいるでしょう???
幕臣たちの身の振り方を考えたのも勝。。。
そう、早くに亡くなった息子の代わりに慶喜の息子を養子にしていますよ。。。

健次郎が御宸翰についての書物を刊行するという噂が政府内でささやかれていました。
大山にとっては義兄。。。
真偽を問う大山・・・書物の刊行を延ばせと???
慶喜は陛下にお目見えし許され名誉を回復したというのに・・・
亡き主君・容保の汚名を雪がなければ!!!と、反論する健次郎。

そうなれば、薩長の大義名分が!!
国家の安寧の為に、刊行を止めようとする大山!!

「いわお~!!」by捨松
腑抜けた声で言うな~~~

「永遠に封印は出来ん!!」

と、山川兄弟が書き継いだ書物「京都守護職始末」が日の目を見るのは、さらに10年後のことです。。。

会津を訪れた八重。
そこにはあの大きな桜が・・・!!

登ろうとする八重を引き留めた老人・・・西郷頼母でした。
頼母は、神職を辞し・・・ただの桜守となっていました。

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「八重。。。
 わしはな・・・新政府がなじょな国つくんのか見届けんべと生き抜いてきた。
 んだけんじょ、戊辰以来、わしの眼に焼きついたのは、何ぼ苦しい時でも懸命に生きようとする人の姿。
 笑おうとする人の健気さ。
 そればっかりが俺の心を・・・胸を揺さぶんだ。。。


 八重。。。
 にしゃ桜だ。。。
 花は散っても時が来っと、また花を咲かせる。
 何度でも、何度でも、花、咲かせろ。」

 
京都で・・・茶室で蘇峰に茶を勧める八重。。。
軍備増強を煽っている蘇峰の刊行物・国民新聞を非難します。

言論が人を動かす・・・
蘇峰はその力を何処に使おうというのか・・・!!!

「力は未来を切り開くために使わねばなんねえよ。。。」

銃を持って戦った八重・・・
最後の一発を撃ち尽くすまで・・・
ひとりでも多くの敵を倒すために・・・!!!

しかし、今なら・・・
最後の一発はどうする???

そう・・・最後の一発は・・・

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そして・・・その空には・・・
綺麗な花が・・・!!!

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あ~、OPに繋がる良い感じ

ほんと、びっくらこいた、昭和7年6月14日。
新島八重は自宅にて死去。。。86歳でした。
戦いを憎んでいった八重は、戊辰戦争の後も日清・日露、第1次世界大戦をみることになりましたね。。。
亡くなった昭和7年には、満州国が建国されます。
大陸できな臭い匂いがプンプンしていたことでしょう。
繰り返される愚かな戦争を、どんな目で見ていたのでしょうか???


遂に、1年間が終わってしまいました。
なかなか良かったんじゃないかと思います。

当時の女性としては、本当にすごい人で。。。
生涯学習・・・なんて言葉は最近できたようにも思えますが、すでに実践してますしね。


「新しいことを始めるときは、いろいろ言う人がいる!!」
それでも頑張る前向きな精神が、1年間を通して観ることができたかな???

個人的には、”大河の主役=男性”みたいな偏見もあるので、う~ん!!と思ったところもありましたし、明治に入ってからは今一つ何をしたのか解らなかったのですが、銃をもっていた手を聖書に持ち替えて・・・
慈悲の心を持って生きた・・・というか、そこに救いを見出してたんじゃないかと思います。

だって、あまりにもたくさんの人が戊辰で死んでしまったから。。。

大河の皆様、1年間本当にお疲れさまでした。

っていろいろ書いてますが、心は来年の大河に飛んでいます。

やっぱり男性&戦国時代おまけに今回は、「黒田官兵衛」です。
そう、秀吉が最も恐れた男ですよ!!

いつもは、あんまりカッコよく書いてくれないんですけどね。。。
ほら、二兵衛の片方・竹中半兵衛が美男子でしょう???
黒田官兵衛は野心丸出しだしね。。。

そんな腹黒く書かれることの多い黒田官兵衛を、オットコマエの岡田准一君がどう演じてくれるのか???
本当に楽しみなのです。

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 前回から、最終回に向かって走って来ていますね。
この回は???

戦争が迫っていました。
日本は一丸となって、富国強兵へと邁進!!
その波紋は同志社にも・・・。
入学者が五分の一に減ってしまったのです。
学者の中には、キリスト教は教育勅語に反すると批判する者もいました。

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そう、明治23年、「教育勅語」が発布され・・・学校にも配布されました。
そこには、親への孝行、兄弟への友愛など日本古来の道徳心を重んじるとともに、
「国家の危機には忠義を以て天皇に尽くすべし」
との一条がありました。

「教育の名のもとに、人を縛ることはあってはなんねえ・・・」

覚馬はそう思っていたのです。

時代は日清戦争に突き進んでいましたが・・・八重は、学校で看護を教えていました。
自分が実践で学んだことを昔話のように語りながら・・・。

覚馬は咳きこむようになっていました。
そこへやってきたのは山川健次郎。
山川家でも、大蔵の調子が良くないようですが・・・大蔵は、尚之助の未完の仕事を引き継いで・・・
あの時、会津に何があったのか?
「京都守護職始末」を書き残そうとしていました。

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京で一体何があったのか???
当時小さかった健次郎は、覚馬に聞くのでした。

そうですね・・・。
昔は総集編があったものでしたが、これが総集編って感じなんでしょうか?

しかし・・・「勤皇の志は、薩長も持っていた」という覚馬の言葉に、激昂する八重と健次郎。。。

あ~、この覚馬の説明、全く解りません。。。
抽象的すぎます。。。
会津と新政府軍を平等に話しているのでしょうが・・・いくら教育者になったとはいえ、個人的にもここまで平等になれたのか?なれなかったと思うんですけどね。。。

会津が敗れた痛み・・・国を失う痛み・・・人間の知恵や知識で戦争を回避することは出来ないのか???
学問は武器とならないのか???
日清戦争に突き進もうとしている日本を憂いでいる覚馬。。。

同志社の卒業式で・・・挨拶をする覚馬。

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「諸君は、学業を終え、これからそれぞれの仕事に就かれる。
 どうか、弱いものを守る盾となってください。

 かつて・・・私は会津藩士として戦い、京の街を焼き、故郷の会津を失いました。
 その償いの道は、半ばです。

 今、世界が力を競い合い、日本は戦に向けて動き出した。。。
 どうか、聖書の一節を心に深く刻んでください。
 ”その剣を打ちかえて鍬となし、その槍を打ちかえて鎌となし、国は国に向かいて剣をあげず
 二度とふたたび戦うことを学ばない・・・!!”

 諸君は、一国の・・・いや、世界の良心であってください。
 いかなる力にも、その知恵であらがい、道を切り開いてください。
 それが、身を以て戦を知る私の願いです。」

覚馬は、その翌年、小崎弘道に総長の職を譲り、学校運営から身を引いたのです。

明治25年12月28日。。。
64年の苛烈な生涯を閉じたのでした。

って、山本家、すっごく血濃い!!
娘の久栄の立場はどうよ!!って感じが、違和感として残るのは、私だけでしょうか???
そう、嫁×2はともかく、久栄は娘なのに~!!
仲間に入れてあげてよ・・・!!!

大蔵と健次郎は容保公を見舞っていました。
容保が二人に見せたのは”御宸翰”。。。

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会津が逆賊でないことの証です。
2人に託したいとのことです。

どうしてこの御宸翰を見せなかったのか???
それは、自分が逆賊の汚名を雪ぐよりも、この国に戦いの火を撒かないという・・・容保の強い意志でもありました。

「いつか・・・御宸翰を世に出してくれ。
 会津がいかに誇り高く戦ったかを・・・死んでいった者たちの心を・・・!!

 ただし、再び同じ道を辿らぬよう、戒めとしてこれをそなたらに託した。
 わしの最後の願いじゃ。。。」

そう言って・・・
明治26年12月5日、松平容保病没。。。

そうなんですよね。
容保公は、ず~っと、死ぬまで御宸翰を手放さず、見せなかったといいます。
やっぱり、たくさんの被害、たくさんの死者を出してしまったことに悔いていたからなのでしょう。。。

「みんな・・・いなぐなってしまった。。。」
そこには、独り泣く八重がいました。。。

明治27年3月。。。
朝鮮半島南部で農民の反乱「東学党の乱」が勃発。

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朝鮮政府は清国に派兵を要請します。これに対し、伊藤内閣は8000人という大兵力を派遣する閣議決定を下しました。
ホント、清に頼ったことに腹を立てた日本は、お願いもされていないのに派兵しちゃうのです。

ロシアも南下政策の下、朝鮮半島&府凍港を狙っています。
だからこそ、日本にも猶予はありませんでした。

8月1日ついに日清宣戦布告!!

八重は大山巌を訪ねていました。
赤十字の京都支部が広島の陸軍予備病院へ従軍することについての相談でした。
敵味方の区別なく、傷ついた人々を救護するために!!
しかし、清は赤十字に参加していません。
敵を助けるのか???という声もあります。
その声を鎮めてもらうためだったのです。

「いたわり救うは人の常なり
 仁愛の心をもって対すべし」

大山は約束してくれ。。。

八重は、再び戦へと赴くことになるのでした。

私がうがっているからでしょうか?
今回は、ブラコン大爆発の回でしたね。
八重が覚馬を尊敬していたのは確かでしょうが・・・八重はほんと、覚馬の事が好きだったのでしょうね。。。
そんな感情が、ひしひしと伝わってきました。

前回も書きましたが、尚之助や襄の立場も台無しです。

個人的には、覚馬は会津にいたころの方が好きでした。
ま、身体も今一つだったでしょうから、もちろんそれ以上の・・・十分すぎる生き方をしたのでしょうが。。。
個人的に思うのは・・・辛酸を舐めつくす生活をしていた会津の人たちの中では、覚馬たちは”いい生活”をしていたということです。
武家のお嬢様な八重さんは、金勘定ができずに・・・
襄の死後は、同志社におんぶにだっこ・・・学校のお金を使いこんでいたとも言われています。
でも、当時のお嬢様は、金勘定なんかしないので、八重が悪いってわけじゃないのよ・・・。
ただ、もっと貧乏で、苦労している人たちがたくさんいたということです。
きっと、快く思っていない人もたくさんいたんじゃないかしら???
良い服着て、洋食食べてるしね・・・。

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1882年(明治15年)。
伊藤博文と対立して政府を追われた大隈重信は、・・・早稲田大学の前身となる東京専門学校を開校しました。

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その頃・・・襄もまた、大学設立に向け準備を始めていました。
会津へ行った後、襄は体調を崩し。。。
しかし、心配する八重をよそに襄は精力的に働いていました。

デービス先生がアメリカから帰ってきました。
途中・・・船の中でに会津の女性に会ったという。。。
名前は・・・山川捨松。

文部省で・・・
帰国した山川捨松は同じく帰国子女の津田梅子と共に、女子大学の設立を求めて政府に掛け合っていました。
でも・・・日本語もあまり話せない。。。なかなか相手にされません。

この捨松の留学は、10年前に北海道開拓使が勝手に募ったもので。。。
当時としては、大事な娘を留学さ汗対なんて思うものなどおらず。。。
逆賊の東北諸藩や幕臣の子弟にお鉢が回っただけだという。。。
女は嫁に行って、男子を生むことが、国家への最上のご奉公であると、却下されます。

ま、健次郎でさえ留学できたのは同じような理由だと言えますから、
当時は男尊女卑の時代・・・
女性に学は要らない。。。嫁に行って男子を生むこと。。。
今でもそんな風に言う人いますからねえ。。。

なかなか仕事が見つからない捨松。。。嘆くものの。。。
健次郎の勤めている東京大学でさえ女性教員はいないという。。。
おまけに、山川家の人々は書生たちの面倒を見、会津にも送金していました。
形見の狭い捨松。。。

女が身をたてるのは難しい。。。
自分のアメリカでの10年は無駄だったの???


陸軍大阪鎮台となっていた山川浩は、山本家を訪問していました。
・・・会えなかった15年という長い年月。。。

「覚馬さん・・・
 俺も戦で敗れて・・・あわせる顔がなかったんです。
 そんじも・・・こうしてまた無事に会えた。。。」

浩と覚馬にはお互いに負い目がありました。

浩は・・・捨松の就職を頼みに襄に会いにきたのです。
二つ返事で捨松のことを受け入れる襄。。。

突然、浩は東京に呼び戻されました。
陸軍省人事局への栄転です。
日陰の身である会津モンに・・・なぜ、栄転??

突然山川家を訪れたのは、陸軍中将・大山巌。

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理由は・・・
”山川殿の妹御・捨松さんを・・・おいの嫁に戴きたく・・・”
とやってきたのです。

「此度の栄転は・・・妹を釣るためのエサ???
 言い訳は要らん・・・
 妹を人質に出すぐらいなら、陸軍など辞職いたしやす!!」

怒って席を立った浩。
なぜ、捨松なのです?と健次郎。

「不平等条約の改正は、日本政府の悲願。
 そいには日本が文明国じゃち列強に認めさす必要がある。
 捨松さは、西洋ん流儀を身に着けられ、才媛としてアメリカでも名高い。
 ゆえに我妻に最適・・・」

「妹を道具のように言うな!!」by浩。

それを聞いて捨松は・・・

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「日本の為に働けるなら、大山のアクセサリーになります。よろこんで。」

やけになる捨松。。。
一度会って、自分の目で見極めろ。。。と、健次郎が諭しました。

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パーティーで会った大山は。。。
何度かパーティーで捨松の事を見かけ・・・一目ぼれしていたという。。。
「おはんは外国人などではありもはん。
 誇り高か会津んおなごでごわす。
 おいが薩摩ん人間じゃっとが気に障っとでごわんそ。
 じゃっどん・・・
 海外に出れば同じ日本人です。」

実際、とっても紳士的だったと言います。
なんだか良い人。。。

会ってきたことに反対する山川家の人たち。。。
代々会津家老の家柄の娘が・・・会津には嫁げない。。。
会津の汚名を雪ぎ、国の礎となるための留学だったのに。。。
と、母に責められるのでした。

助けることの出来なかった尚之助の「会津戦記」を読んで忍びなく兄の背中を見て・・・
未だ残る・・・癒すことのできない心の傷を知るのでした。
やはり・・・この結婚は無理だと悟る捨松でした。

大学設立の為に東京にやって来た襄。ついてきた八重の本当の仕事は・・・
山川家に乗り込むことでした。
宿に訪ねてきたお客様は・・・捨松。。。
このまま京都に連れて行ってくれと頼みます。

「薩摩との縁談など、会津の者には迷惑です。
 兄は断っています。
 それでも大山さまは毎日うちに来ます。」

山川家に乗り込んだ八重。。。
そこには大山がいました。
大山は言う。。。
「捨松さあとの結婚・・・薩摩と会津が恨みを乗り越えたと・・・民に示すためにも意味のあること。。。
 お許し願いたか。。。
 海の外に出たら、同じ日本人でごわそ。。。」
「ここは日本です。」
「そげなせまか見識じゃ・・・日本は立ち行かん。。。」
「狭い??
 日本の政治は、薩長の狭い見識で決められてるではねえですか・・・」
バチバチな大山VS山川。

ごちゃごちゃいう男たちに・・・腕相撲で決めようという八重。
なんと、大山VS八重になっちゃいました。

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いや~八重に託されちゃいました。
この感じじゃ、八重は本気だったように思えるんだけども、もっと女性らしく、捨松の気持ちも想っての腕相撲にしてほしかったなあ。。。って思います。

「大山様」by捨松

「よい勝負でした。
 かつて・・・命がけで銃を撃ちあった手で・・・
 腕相撲ができた。
 15年・・・
 誰にも等しく時は流れたんです。
 この手は形を変えると・・・」
なんて優しい襄。
 
「戦は終わったの・・・山川・・・」

「この屋根の下では、兄上と呼んでもらおうか。。。」

う~ん、良い男ばっかりです。
これをみる限り、八重が一番ガサツです

1883年8月伊藤博文が帰国しました。
強力な官僚組織を作ろうとしていました。

東京大学を有能な官僚の育成機関とするように命じられる健次郎。。。

「学問は、国家によって左右されるものであっては断じてなりません。
 大学は、政治から独立した教育と研究の場です。」

「会津モンか・・・」

ここでも未だ偏見が残っていました。

12月には・・・鹿鳴館で大山巌と捨松の結婚披露宴が行われたのでした。

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「兄上・・・山川家の出世頭は、捨松かも知れませんね。。。」
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「時が乗り越えさせてくれるものもある。。。
 だけんじょ、俺が忘れぬうちは相手も同じ。。。
 逆賊と呼ばれ続けんだろう。。。
 それでも100年後、会津が日本の誉んなる日がくっかも知んねえ。。。
 それは、若いもん次第だ。。。」

一方、官僚が帝国大学に集まる中・・・私立大学生は徴兵に行かなければならなくなります。
そう、同志社は今後、徴兵による生徒不足に頭を悩ませることになるのでした。
 
山川捨松さんは、本当にカッコいい女性だったようです。
八重と比較しちゃいますが、親子ほども歳の離れた大山家に・・・もう世話をする必要はないとはいえ、前妻の子3人の親となり、世界で活躍します。

そう思うと、「八重の桜」は八重桜をもじったものなんでしょうが・・・
いつも思うのは、福島=大河ドラマ=捨松でも良かったんじゃないの?って思っていました。
捨松だったら題は何になったんだろう???松・・・う~ん、松。

良妻賢母・おまけに当時の働く女性のNo,1だったんじゃないかしら?

山川捨松さんです。はこちら

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会津藩 斗南へ―誇り高き魂の軌跡

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あ~お盆と夏祭りでバタバタしてなかなかじっくり見れません・・・

鶴ヶ城開城ののち、会津はお家再興の許しを得ましたが・・・領地は北辺・陸奥の国・・・23万石は3万石と減らされました。
大蔵たちはこの地を斗南とし、交易を中心とした国を作ることを決意します。

米沢の八重たちは、行商などでどうにか暮らしていました。。。

そんな八重に、お手紙が・・・
そのお手紙は、尚之助からのものでした。

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良い知らせ???と思ったその手紙は・・・離縁状でした。。。
当時は男性に三行半を言い渡されれば別れるしかなかった時代。
八重にはどうすることもできません。。。
何も言わないまま。。。
何でも一人で決める尚之助を勝手とする八重。。。甘んじて受け入れるようです。。。

その頃斗南では、寒さと飢えで多くの死者が出ていました。。。
大蔵は名を浩と改名し、藩の舵取りに当たっていましたが。。。3万石と言われても・・・実のところは7000石・・・。
まさに、藩ごと島流しにあったようなものでした。

辛抱してたら死んじまう・・・

生きてなお苦しみを味わうことになった会津藩士たち・・・
一縷の望みは北海道で奔走していた尚之助の米の買い付けでした。
しかし、尚之助は詐欺事件に巻き込まれていたのです。。。

行き倒れていたのはユキ。。。
斉藤一が家に連れて帰ると時尾がいました。
連れて来てくれた人が斉藤一だと知ったユキは・・・
新選組が人斬り集団であること、やり過ぎたために長州が会津を憎むのだ・・・と、

会津の為に命がけで最後まで戦ってくれた斉藤一たち。。。
みな生きるのがつらくて・・・恨みをぶつける相手を探してしまうのです。。。

「戦の後に、もっとつらい目に遭うなんて・・・」

東京では・・・駆け足で近代化が行われていました。

新政府もお金がないようです。。。
廃藩置県を論じています。。。

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武士が無くなってしまうと、200万の武士が失業してしまう。。。
それは、また戦が起こるかもしれない・・・武家の世に幕を引く。。。
それは、腹を切るかも知れない。。。覚悟が必要でした。


一方、尚之助の米の買い付けは、訴訟と決まってしまいます。
米の代金が工面できなかったのは、仲買人に騙されたためでしたが、3000両が用意できない・・・
斗南藩としては。。。助けようにも金がない。。。

尚之助は取り調べで、

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「藩命ではない・・・これはすべて、これはすべて私の一存で執り行ったことでございます。。。」

斗南の為にやった米の買い付け。。。
しかし無情にも山川は
「あずかり知らぬ」と返答します。

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3000両の借財を背負ったら、斗南は間違いなく野垂れ死にする。。。

自ら鬼となり、斗南を守ろうとする山川浩がそこにはいました。
そう、その借財を背負ったための離縁状と言われています。


遂に廃藩置県が行われます。斗南藩は、わずか2年でした。
藩がなくなる・・・武士は・・・殿はどうなるのでしょう???
そして・・・薩長への恨みも何処へ。。。。。


そんな不安の中、ひとりの若者が山本家へ・・・手紙を持ってやって来ました。
覚馬の使いでやってきたのでした。

消息不明だった覚馬。。。生きていたのです!!!

これから京都府に出仕することになります。
みんなを都に迎えたい・・・と思っているようです。
しかし、覚馬は時枝の間に子を儲けていました。。。

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心境複雑なうら。。。

山川浩は東京へと行くことに・・・東京に行ったみんなの身がたつ様に・・・
散り散りとなる会津藩士たち。。。

その時梶原平馬は・・・二葉と離縁するのでした。
山川家に戻って二葉と寅次郎を東京へと頼む平馬。。。

「別れるのはいやでごぜえます。。。
 私は・・・梶原平馬さまの妻にごぜえます。。。」

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「無理言うな・・・俺はぬけがらだ・・・
 東京でやり直す気力が俺にはねえ・・・」

梶原平馬は会津戦争当時の立場は若いのに家老。
最後に藩の責任を負って切腹した家老の萱野権兵衛に、その命を伝えたのがこの平馬でした。

そして容保が、鳥取藩江戸屋敷に幽閉されたとき随行したのも平馬でした。

おもだった家老たちが戦死していった中、生き残って代表して責任をとったのが萱野権兵衛。
一方、生きて「その後」の責任を負う立場だったのが、梶原平馬です。

亡くなった萱野と、生きて地獄を歩んだ梶原・・・
本当に、もう、燃え尽きてしまったのかもしれません。。。


うらは、京都には行けないという。。。

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身を切る思い出みねを手放すのでした。。。
うらは会津へ、山本一家は京都へと向かうのでした。。。
京都では・・・身なりもきちんとした京女。。。
若い女性・時枝が待っていました。



勝手の違う家で・・・若くてきれいな女性が・・・
生きていた覚馬。。。しかしその眼は・・・・・見えなくなっていたのです。。。

探すことも迎えに行くこともできなかったと覚馬。。。

「すまなかった。。。」

「生きててくれて良かった・・・」

あ~やっぱり肉親か・・・???
って感じのする終わり方でした。


この回は、3組の夫婦の「離縁のわけ」を書いたわけですが。。。
やっぱり覚馬が納得できませんか???

女の身・・・嫁の立場からすると、うらさん可哀想です。。。
やっぱり、嫁は嫁!!
って感じがプンプンしちゃって。。。
尚之助はあげあげ
平馬も苦労したんだね~と、納得の離縁です。。。
実際、二葉は明治10年ごろには東京女子師範で教えていたと言われています。
彼女もエリート山川の血が流れています。
埋もれさすには惜しい賢い人だったのでしょう。。。

それなのに覚馬ですよ。。。

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