日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:平清盛

後白河院の側近中の側近がこんな言葉を残しています。
「和漢の間比類少なき暗主」・・・愚かな主とそしりながら「人の制法にこだわらず」と、決心したことは人のルールに縛られず成し遂げたと!!

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世の常として、皇位継承者は帝王学を学びます。
儒学の経典や漢詩、和歌、管弦楽器の演奏などです。
後白河院の兄で後に骨肉の争いを繰り広げる崇徳天皇は、5歳で即位して帝王学を学んでいます。
崇徳天皇の8歳年下の弟が、雅仁・・・後の後白河院です。
雅仁は、母親の待賢門院のそばで育てられます。
しかし、評判になるほど遊芸にふけっていました。
その為父親である鳥羽院からは”即位の器量にあらず”と、見られていたのです。
雅仁が没頭した遊芸とは・・・当時のはやり歌で母親の待賢門院が愛した今様でした。
今様は、遊女の芸能として始まり、七五調を基本とします。
歌の内容は、恋心から仏教思想までと幅広い・・・
雅仁の今様熱は、天皇、上皇になっても冷めることはなく、乙前(元遊女)を師匠にしてその道を極めようとしました。
後白河院が、自らの反省を振り返った梁塵秘抄口伝集・・・
今様への異様なまでの傾倒ぶりが伺えます。

”十余歳の時より 今に至る迄 今様を好みて怠る事なし

 千日の歌も歌ひ通してき 昼は歌はぬ時もありしかど 夜は歌を歌ひ明かさぬ夜はなかりき”

後白河院は、今様の家基のようなものになりたかったのです。
後白河院が生涯を通して愛した今様・・・その音階、節回し・・・どんなものだったのかは明らかになっていません。
しかし、彼の生きざまは、梁塵秘抄の中で最も有名なこの歌と重なります。

”遊びをせんとや 生まれけむ
 戯れせんとや 生まれけん
 遊ぶ子供の声聞けば 
 わが身さへこそ ゆるがるれ”

しかし、後白河院の生涯は、決して平たんなものではありませんでした。

「後鳥羽上皇と承久の乱」



29歳の時、大きな転機が訪れます。
1155年、腹違いの弟である近衛天皇崩御。
次の天皇をめぐり、父の鳥羽院と兄の崇徳院とが対立します。
兄の崇徳院は、自分の息子・重仁の即位を望みました。
それに対して父の鳥羽院は、雅仁の息子・守仁に皇位を継がせたいと考えていました。
しかし、守仁の父である雅仁の存在を無視することはできませんでした。
父親を飛ばして天皇になる前例はない・・・!!
そこで、守仁王が成人するまでの数年間、中継ぎの天皇として雅仁て親王を位につけることになりました。
1155年、後白河天皇即位。
後に、源平合戦の英雄たちと渡り合い、30年君臨することになるとは、当時誰も考える由もありませんでした。
後白河天皇が即位した翌年の1156年7月2日、鳥羽院崩御。
そのわずか9日後、後白河天皇と兄・崇徳上皇との間で戦闘が勃発します。
鳥羽院亡き後の主導権を巡って、双方が武士を集めてぶつかり合うという・・・保元の乱です。
後白河天皇は、平家の棟梁・平清盛とそれに次ぐ有力者・源義朝を味方につけて勝利を治めます。
1158年、後白河法皇が退位、上皇となります。

上皇となった後白河院の運命を大きく開いたのは、ひとりの美女でした。
平清盛の正室・時子の妹・滋子・・・彼女を見初めた後白河院は、滋子を女御として寵愛するようになります。
滋子は後白河院政の政務に携わっていました。
後白河院不在の時には、代行ができる立場にある女性で、その能力のある女性でした。
滋子を通じて後白河院は清盛を大いに取り立て、平家の全盛の時代がもたらされました。

1167年、清盛を太政大臣に任命。
1172年には、清盛の娘の徳子が後白河院と滋子の子である高倉天皇の中宮となります。
藤原氏にとって代わって平家が天皇家と結びつき、新たな時代を築こうとしました。
京都・東山・・・後白河院は、この地に自らの権威の象徴となる院の御所を築き上げました。
南北1キロ、東西500メートルに及ぶ法住寺殿です。
その北側には、平家一門が住む六波羅があります。
その立地からも、後白河院と平家の強い結びつきが伺えます。
ここを舞台に、四季折々の儀礼が行われました。
平家の後押しによって、政務の実権を握る”治天の君”となった後白河院・・・ここを拠点に、院政を行っていくことになります。

滋子の発願で極楽浄土の世界をこの世に映し出した最勝光院・・・
完成のわずか3年後、悲劇が訪れます。
1176年、後白河院と清盛の間を取り持っていた滋子が35歳でこの世を去りました。
死の直後から、後白河院と清盛の関係が悪化していきます。
急速に台頭する平家に貴族たちが反発。
1177年、反清盛を掲げる院の近臣たちが、京の鹿ヶ谷に集結しました。
清盛を暗殺して、後白河院中心の政治体制を築こうと企てます。
世にいう鹿ヶ谷の陰謀です。
この陰謀は、密告によって露呈・・・清盛は陰謀に加わった院の近習たちを斬首・流刑にしました。
後白河院も、陰謀への関与が疑われましたが、咎めはうけませんでした。
しかし、近臣を排除されたことで、政治基盤を失い、孤立していきます。
鹿ケ谷の陰謀の翌年、徳子が皇子(のちの安徳天皇)を出産します。
しかし、孫の誕生は、後白河院を一気に窮地に追い込みます。
安徳天皇が生まれると、即位すれば高倉院政が可能になり、後白河院は排除される危険性が出てきました。
安徳天皇の誕生は、孫の誕生とはいえ、穏やかではありませんでした。

1179年7月、平重盛、逝去。
すると、後白河院が反撃に出ました。
重盛の所領を奪い、近臣に与えました。
しかし、これは後白河院の首を自ら締めることになります。
平家との決定的な破局が訪れます。
11月15日、清盛は兵を挙げて後白河院を幽閉し、院政を停止させました。
治承3年の政変です。
1180年、平家を打倒し、幽閉された後白河院を救うという大義を掲げ、8月に源頼朝が伊豆で挙兵。
さらに、翌月には木曽義仲が信濃で挙兵します。
1181年2月14日、源平合戦のさ中、熱病に冒され平清盛死去。
清盛の葬儀の日、後白河院のいる最勝光院から今様を謡う声が聞こえたといいます。
清盛の死後2日後・・・平家の棟梁となった息子の宗盛から政権を後白河院に返したいとの申し入れがありました。
清盛によって院政を停止させられた後白河院は、よみがえったのです。

男たちよ、立て! 北条政子 演説の時



次に後白河院の前に立ちはだかったのは、木曽義仲でした。
1183年5月、倶利伽羅峠の戦いで平家の大軍に勝利。
義仲軍は、京を目指します。
もはや防ぎきれないと見た平重宗盛は、三種の神器・安徳天皇・そして後白河院をつれて京を離れ西国へと向かう決意を固めます。
治天の君として君臨し続けるために、どのように立ち回るべきか・・・??

平家と共に西国へ移る??
平家を見捨てて京に留まる??

頼朝は、平家から後白河院を救済するという旗印のもと挙兵している・・・
京に留まって源氏を迎えれば、軍勢として飼いならすことができるのでは??

平家の都落ちは、極秘裏に進められようとしていました。
後白河院の逃亡を恐れたためです。
しかし、後白河院は、近臣を通してその計画を知っていました。
すると、後白河院は、密かに法住寺殿を脱出、比叡山へ逃亡しました。
後白河院は、都落ちする平家を見捨てて、京に留まる選択をしました。

平家都落ちの3日後、木曽義仲が入京します。
義仲は、後白河院に難題を突き付けます。
安徳天皇に代わる天皇として、義仲は北陸宮を推挙しました。
一介の武士が、皇位継承に口を挟むなど、前代未聞のことでした。
後白河院はこれに猛反対し、義仲と対立します。

1183年11月19日、木曽義仲が法住寺殿を襲撃、火をかけます。
院の権力の拠点・法住寺殿が炎上しました。
後白河院は、再び幽閉されることとなります。
そこに現れた救いの神が源義経でした。
翌年の正月20日、宇治川の戦いで義仲軍を破り入京、義仲を追い詰め、近江国粟津で討ち果たしました。

1185年、義経は、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼします。
義経の名声は高まりましたが、悲運に・・・
兄・頼朝と激しく対立し、刺客を送られ命を狙われたのです。
身に危険が迫った義経は、後白河院に頼朝追討の宣旨を出すよう迫ります。
ここで後白河院は、義経に応じ、頼朝追討の宣旨を出しました。
これがのちに、後白河院と頼朝の大きなわだかまりを生むことになったのです。
結局、義経のもとに集まる兵はなく、義経は西国へ逃亡しました。
一方、頼朝は、朝敵である義仲や、平家を討伐した自分をなぜ後白河院が裏切るのかと、激怒します。
後白河院こそ”日本第一の大天狗”だと罵倒しました。

これを聞いた後白河院の動揺は激しく・・・
頼朝が何をするかわからない・・・
自分が正当な帝王として世の中を治めたいのに戦乱が続いている・・・!!
今回も、頼朝追討を言い出して世の中を乱した。
自分の失政かもしれない!!

追討の宣旨を出された頼朝が、どんな反撃を見せるのか・・・??
後白河院の周囲は不安に包まれました。
頼朝は交渉を行うため、北条時政を上洛させます。
しかし、後白河院を幽閉することはありませんでした。
その代わり、後白河院の独断を防ぐため、公卿が合議で政治を行う体制を構築します。
その一方で、義経追討の名目で、守護・地頭を設置する権利を獲得します。
頼朝の狙いはどこにあったのでしょうか??

頼朝は、後白河院を助けることが自分の権威の源泉であると考えていました。
一時的に後白河院と対立しても、保護し、朝廷を守る・・・一方で、地頭を各地に設置して武士の所領拡大の願望もかなえようとしていました。
両者のバランスをとったのが、頼朝が創った鎌倉幕府でした。

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1190年、頼朝が京に向かいます。
およそ30年ぶりに後白河院に謁見するためです。
1189年、頼朝は奥州藤原氏を滅ぼしていました。
朝廷を守る唯一の武家の大将としての地位を確立。
後白河院を支える武士は、もはや頼朝以外になかったのです。
上洛中、後白河院と頼朝の会談は8度に及びました。
上洛後、頼朝は法住寺殿を再建修復します。

頼朝が鎌倉に戻った2年後・・・1192年3月13日、後白河院崩御。
享年66。
死の1か月前、病床に伏してもなお、天皇の笛の音のもと今様を謡い続けていたといいます。
源平の戦い、そして新たな武士の世の始まり・・・
権力の座に30年余り座り続けた波乱の生涯でした。

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「承久の乱 “武士の時代”の確立」



















山口県下関市関門海峡・・・かつて長門国赤間関壇ノ浦と呼ばれていた場所で、今から830年以上前の1185年3月24日、武家の二大勢力平家と源氏が激突しました。
源平合戦における最後の戦い・・・壇ノ浦の戦いです。

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一ノ谷の戦い、屋島の戦いと連勝し、平家を追い詰めた源氏軍!!
対して壇ノ浦での戦いを最後の砦とし、なんとか挽回しようと息巻く平家軍!!
戦いの結果は源氏が勝利し、兵士は滅亡していきました。

平氏にあらずんば人にあらず

とまで言わしめた平家の滅亡・・・いったい何があったのでしょうか?

平安時代末期・・・1181年、平清盛死去。
知行国30カ国と全国の半分ほどをその市中に治めていた平家の力が、衰えを見せ始めます。
清盛の三男・宗盛が父の後を継ぎますが・・・平家は源氏によって京都から追放されてしまいました。
源氏を束ねる源頼朝が、更なる平家追撃を命じたのが、弟の範頼と義経でした。
中でも義経は、兄の期待に応えるべく破竹の勢いで進撃!!
摂津国・一の谷の戦いで、鵯越の逆落としとして有名な奇襲により、平家に大打撃を与えます。
それにより、平家はさらに西国へ敗走。
しかし、あきらめたわけではありませんでした。
一緒に連れてきた清盛の孫でもある安徳天皇と天皇の象徴である三種の神器を持っていたからです。
それが平家の切り札でした。
当時は、天皇と三種の神器を押さえておけば、新たな天皇を即位させることはでいないことになっていました。
平家は天皇の権威を後ろ盾にして復活を考えていました。
宗盛は、九州で勢力を盛り返し、京都奪還を狙っていました。
逆転を狙う平家でしたが、一の谷の戦いの翌年・・・1185年2月。
逃れていた讃岐国・屋島で源氏軍を迎え撃つも、またもや義経の奇襲によって平家軍は大敗を喫してしまいました。
ただただ逃げるしかなくなった平家軍は、ついに最終決戦の場・壇ノ浦に追い詰められてしまいました。

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1185年2月1日・・・平家滅亡まであと53日。
屋島の戦いに敗れた平家軍は、瀬戸内海を転々とした後、長門国・赤間関壇ノ浦にある彦島に本陣を置きます。
前もって、平知盛が城を築いて傘下の水軍を集め、総司令官として源氏に備えていた場所だったからです。
そこは、平家にとって背水の陣でした。
平家は屋島から彦島に渡り、九州で体勢を立て直すのが理想でしたが、源氏の範頼に先回りされ、先に九州を押さえられてしまったのです。

そんな平家軍の起死回生の策は、多くの水軍を有し、得意だった海上戦!!船戦でした。
源氏の大将・源義経は、その平家軍の作戦を見抜いていたにもかかわらず、不安に駆られていました。
一ノ谷・屋島と目覚ましい戦果をあげてきた義経でしたが、そのどちらも陸上戦!!
騎馬軍団による奇襲作戦でした。
海上戦は一度も経験したことがありませんでした。
義経はすぐさま訓練を開始!!
1カ月をかけ、準備をしました。
この時の問題は、源氏に十分な船が揃っていないことでした。
そこで義経は、平家方についていた西国の海賊衆に交渉を持ち掛けます。

「この度の戦、もし加勢いたすならば、勝利の暁には高禄をもって取り立てよう!!」

すると、屋島の戦いの戦況を伝え聞いていた海賊衆の棟梁たちは、源氏に分があるとその誘いにのり、次々と水軍を率いて合流しました。
しかし、中には平家を裏切ることに躊躇している者も・・・!!
熊野別当・湛増です。
平家は瀬戸内海に勢力があり、熊野水軍とも仲が良かったのです。
鎌倉方は、湛増にとってはよくわからない集団でした。
悩む湛増が頼ったのは、熊野権現でした。
祈ったところ、白旗につけというお告げ・・・つまり、源氏に着けということです。
それでも湛増は、平家の恩を考えて態度を決められずにいました。
そこで今度は、赤い鶏と白い鶏それぞれ7羽を1羽ずつ出し合って神前で勝負をさせました。
結果は・・・赤い鶏は1羽も勝てず白い鶏が勝利しました。
意を決した湛増は、200艘の水軍を率いて源氏に合流しました。
こうして義経率いる源氏軍は、熊野水軍、渡辺水軍、伊予水軍などを味方につけ、およそ800艘の船団を編制。
白旗をなびかせ、彦島を目指して出発すると、周防国で範頼の軍勢と合流するのです。

「義経」愚将論 源平合戦に見る失敗の本質

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1185年3月23日・・・平家滅亡まであと1日。
源氏軍は、壇ノ浦の奥津・・・今の下関市長府沖にある干珠島・満珠島付近まで兵を進めると、兄・範頼軍は壇ノ浦近くの陸地に布陣!!
源氏軍の動きを知った平知盛率いる平家軍は、彦島を出発し関門海峡の東の出口に当たる田ノ浦付近に集結。
赤旗を掲げた500艘ほどの船団で、源氏を迎え討つべく待ち構えます。
相対する距離は、わずか300m!!

義経の戦略は・・・自らは海上から平家の拠点彦島に攻撃をかけ、退いたところを陸地から範頼軍が矢を射かけて攻撃・・・挟み撃ちにするというものでした。
平家物語によると、この後、双方相談の上、矢合わせの時刻を翌朝の午前6時と決めました。

当時の戦争はルールがありました。
そのルールにのっとって戦うのです。
軍師を交換して日時と場所を決め、決められた日に集まり戦争を始めていました。
氏文を読み、正当性を主張し、相手を糾弾・・・そしてやっと矢合わせ!!
しかし、戦が大規模化したことで、ルールを変更せざるを得なくなっていました。

義経、兄との決裂を生んだ壇ノ浦

1185年3月23日、壇ノ浦の戦い前夜・・・
いよいよ明日、平家との決戦という時に、義経の陣営でひと悶着が起きます。
きっかけとなったのは、軍監であった梶原景時の一言でした。

「此度の先陣は、この梶原にお任せください」by景時

「この義経がいなければのう・・・残念なことに、先陣はこのわしじゃ」by義経

「なんと仰せられる、殿は総大将でございます
 総大将が、先陣を務めるなど、効いたことがありません」by景時

「何を申すか、総大将は兄・頼朝・・・
 この義経は、軍の指揮を承ったまでのこと、よって先陣を務めても差しさわりあるまい」by義経

この言葉に、先陣を務めて手柄を立てたかった景時は、

「全く・・・この殿は、主君にはなれない器じゃ!!」by景時

「なに??そなたこそ、日本一の愚か者よ!!」by義経

売り言葉に買い言葉・・・一触即発のケンカになりかけます。
景時は、官僚として優秀でした。
頼朝の言うことをよく聞いて、頼朝のためにと思っていました。
義経と馬が合わない景時は、屋島の戦いの際も言い争いをしていました。
熱くなった二人を周囲が諌めます。

「明日の決戦を前に、同士討ちなどとはもってのほか
 鎌倉殿のお耳にでも入りましたら、ただではすみませぬぞ
 どうか、気を静めてくださいませ」

義経は、それは最もなことと怒りをといたため、どうにか事なきを得ました。

この後、景時は、義経の行動を頼朝に逐一報告をしています。
官僚としては当たり前なのかもしれませんが、結果として頼朝と義経の兄弟仲を裂き、義経失脚の原因を作ったのです。

(18)「壇ノ浦で舞った男」



運命の壇ノ浦開戦!!

1185年3月24日早朝。
源義経率いる船団およそ800艘と、平知盛率いる平家の船団500艘あまりが、長門国赤間が関壇ノ浦の海上でわずか300m距てて対峙します。
午前6時ごろ・・・戦闘開始の合図・矢合わせが行われました。
鏑矢が射られ・・・鬨の声が上がり、壇ノ浦の戦いが始まりました。
まずは矢戦!!
この時、源氏方で陸地から矢を射る役を担ったのが、和田義盛・・・坂東武者の鏡たる豪勇の士であり、弓矢の名手です。
放った矢に怯んだ平家軍に向かって挑発しました。

「その矢を射返してみよ」by義盛

平家軍には、この距離を射る武士はいないであろうとバカにしたのです。
そのケンカをかったのは、仁井親清。
射返すと、その矢は、和田義盛の後方にいた源氏の武士の腕に命中!!
和田に大恥をかかせることに成功しました。

しかし、これで終わりませんでした。
仁井親清は、大将・義経が乗った船にも矢を射かけると、和田を真似てさらに挑発してきたのです。

「その矢を射返してみよ」

源氏の面目をつぶされた義経は、怒りに震え、浅利与一に矢を射返すように命じます。
浅利与一は、那須与一、佐奈田与一と共に、三与一と呼ばれる弓の名手で、源平合戦でも数々の武功をあげていました。
この時も、仁井親清の胸を射抜き、源氏の面目を保ったのです。
この後、距離を詰め、両軍の戦闘は激しくなっていきます。
兵の数では劣る平家軍でしたが、得意の船戦であり、知盛には策がありました。
そもそも知盛が彦島に本拠を置いたのは、平家の強力な水軍を活かすため・・・
そして、関門海峡独特の早い潮の流れと干満の潮の流れの変化を熟知していました。
相手は、水軍を扱うことに不慣れな源氏・・・その潮の流れに乗って、一気に源氏を追い詰めようとしたのです。
その目論見通り、戦は平家軍有利に進んでいきます。

九州の山鹿秀遠や松浦党といった強い味方が付いていた平家軍は、500艘の船団を三手に分け、関門海峡特有の潮の速い流れに乗って攻め込もうとしていました。
そして・・・源氏方が狙うのは、三種の神器と安徳天皇!!
ならば、豪華な御座船目掛け、攻めてくるに違いない!!
そこで知盛は、安徳天皇ら身分の高いモノたちを兵船に乗せ、雑兵たちを豪華な御座船に乗せて囮にしました。
御座船にめがけてやってきた源氏の軍勢を包囲し、三方から矢を射かけて殲滅しようとしました。
戦いを前に知盛は、兵士たちを鼓舞します。

「戦はこの日が最後ぞ!!
 少しも退くな!!
 東国の者どもに弱気を見せるでないぞ!!」

3月24日午前・・・
潮の流れが変わる前に決着をつけたい知盛は、源氏軍側へと流れる潮に乗り攻めます。
まずは、第1陣が義経の船目掛け矢の集中攻撃を仕掛けます。
さすがの義経も、豪雨のように降り注ぐ矢を前に、手も足も出せず、満珠島まで押し戻されてしまいました。
3月24日昼頃・・・
このまま一気に戦を終わらせたい知盛は、味方を激励!!
太鼓をたたき、声を上げ、平家軍は攻め続けました。
と・・・その時!!
劣勢を強いられていた義経の頭上に、どこからともなく、白旗が舞い降りてきました。
白旗は、言うまでもなく源氏の旗!!

「八幡台菩薩が力をお与えになったのだ!!」by義経

義経は、これは吉兆だと喜び、手を合わせて拝みました。
一方、勝利を確信していた平家軍にも不思議なことが・・・
2000頭ものイルカの群れが、海底から湧き出たように接近してきました。
これは神のお告げ・・・と、総大将の宗盛は陰陽師に占わせます。
すると・・・
”イルカが折り返して源氏に向かえば平家の勝ち
 イルカがこのまま平家の船の下を通れば源氏の勝ちとなるでしょう”

それを聞いた知盛は、固唾をのんで見守りました。
しかし、願いもむなしくイルカはそのまま平家の船の下を通り抜けていきました。

「我らが負けると・・・??」

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平家、逆転勝利への誤算

「平家物語」の一節に・・・

”壇ノ浦は潮の流れが激しいところで、源氏の船はその潮に押され、平家の船は潮の流れに乗って攻めていた”

それが一転・・・潮の流れが源氏有利の西向きに変わったことで、それまで優勢だった平家が劣勢に!!
そのまま一気に源氏軍が平家軍を追い詰め滅亡させたと言われてきました。

しかし、この時の海は、ナギの状態でした。
以前は、潮の流れが変わったことで勝敗が決したと言われてきましたが、その説は、現在は重視されていません。

3月24日昼過ぎ・・・
このままでは平家に負ける・・・!!
そう考えた義経は、当時の常識では考えられない策に出ます。

「射るのは平家にあらず、水手を狙うのだ!!」by義経

非戦闘員である船の漕ぎ手を射るように命じました。

この頃の合戦は、戦闘員同士の戦いであり、武士同士の戦いでした。
舵取りを殺すという発想がなかったのです。
源平合戦以降、相手の馬を狙うなど、戦闘方法が変わりました。

兄・頼朝と誓った平家打倒のため、策を選ばなかった頼朝!!
しかし、平家にとっては、予想だにしない展開でした。
誤算でした。
漕ぎ手を次々に失っていった平家軍の船は、動くことができなくなり大混乱!!
そんな中、またもや誤算が生じます。
味方である民部重能の裏切りです。
重能は、平家軍の主力であった阿波水軍300艘を率いる武将でした。
形勢が逆転したとみると、源氏に寝返ったのです。
そして、御座船は囮で、安徳天皇は乗っていないと源氏方に伝えてしまいました。

「狙うは御座船にあらず!!」by義経

源氏軍が、一斉に安徳天皇の乗る兵船目掛けて押し寄せてきました。
すると、これに呼応するように四国・九州の兵たちが次々と平家方から離反!!
源氏軍の猛攻に、平家軍は海へと沈んでいきました。
船の漕ぎ手を狙うという掟破りの反撃と、味方の突如の裏切りによって、平家軍は追い込まれ壊滅状態となりました。
民部重能の裏切りは、義経が仕向けたことでした。
息子・教能が、人質として源氏方に捕まっていました。
平知盛は、裏切る可能性がある民部重能の殺害を、総大将の宗盛に進言していましたが、認められませんでした。
「やはりあの時、斬っていれば・・・」
そう思っても後の祭り・・・
敗北を悟った知盛は、船の上を掃き清め、覚悟を決めるように全軍に呼びかけます。
そして、安徳天皇やその母・建礼門院徳子、そして祖母の二位尼・時子の乗る船に移るとこう告げます。

「これから女官たちは、源氏の兵たちに襲われるであろう」

これを聞いた二位尼は、平家の敗北を察し、源氏に捕まるぐらいなら・・・と、死を決意!!
孫のまだ8歳の安徳天皇を抱き寄せ祈りを捧げるように伝えます。
言われるままに東は伊勢大神宮に、西は阿弥陀如来に向けて祈りをささげた安徳天皇は、こう聞きます。

「どこへつれて行くのか?」

「この波の下に、極楽浄土というめでたい都がございます
 お連れいたしましょう」by二位尼

そう言って、海に身を投げました。
幼い天皇は、祖母に抱かれ、海の中へと沈んでいきました。
この時、二位尼は、三種の神器のうち剣を腰にさし、勾玉を抱えていたと言われています。

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3月24日午後3時ごろ・・・
安徳天皇の母・建礼門院徳子も懐に石や硯を入れて錘とし、後を追うように飛び込みます。
しかし、すぐに源氏軍によって引き上げられ、囚われてしまいました。
その様子を見ていた女官たちや平家の武士たちも覚悟を決めます。
女官や武士たちは、錨や鎧をお守りとして次々と海に飛び込みました。
そんな中、ひとり気を吐く男がいました。
平家一の猛将・・・知盛の従兄弟・平教経です。

「お前の相手ができる源氏はおらん
 これ以上罪作りなことはするな」

そう、知盛に言われると、教経は、

「ならばせめて、義経を道連れにしよう!!」

そう言って、教経はなんと片手に大太刀、もう一方には薙刀を手に、源氏の船に乗り移ると、義経との一騎打ちに出ます。
あと少しのところまで追い詰めますが・・・

「かなわじ!!」

そう言って、義経は6mも離れた8艘先の味方の船へ!!
教経の猛攻をかわし逃げるのでした。
世にいう、義経の八艘飛びです。

義経に逃げられ、源氏軍に囲まれた教経は、もはやこれまでと覚悟を決めると、

「さあ、お前たち!!
 わしの死での旅の供をせい!!」

そう言って、源氏の大男2人を両脇に抱えて海に飛び込み、道連れにしました。
平家一の猛将・平教経・・・見事な散り際でした。

しかし、その一方で、生き恥を晒す武将もいました。
平家の棟梁で総大将の平宗盛です。
平家の頂点に立つ身でありながら、覚悟が決まらず、船の上を右往左往・・・逃げ回っていました。
その姿にあきれ果てた家臣たちは、後ろを通るふりをして、宗盛を海に突き落としてしまいます。
しかし、錘も着けておらず、海面でバタバタ・・・なかなか沈みませんでした。
すると宗盛は、あろうことか源氏によって引き上げられてしまいました。
その有様に、知盛は、

「なんと情けないこと!!
 どうして深くお沈みにならなかったのか!!」

敵に捕らえられて恥をさらすより、最期まで戦い潔く果てて平家の名を汚さぬことこそ知将・知盛の美学・・・

「見届けるものはすべて見届けた
 今、自害せん!!」

知将と言えども、武運が尽きれば力及ばず・・・!!
知盛は、自分の亡骸が浮かび上がって源氏から辱めを受けないようにと鎧を2領重ねて身につけ、海に飛び込みました。

3月24日、午後4時ごろ・・・壇ノ浦の戦いは源氏の勝利となり、孟き者・平家滅亡!!

海面には、平家の赤旗が無数に漂い、水際に寄せる波は赤色に染まっていきました。
戦場に最後まで踏みとどまり、栄華を誇った平家の終焉を最期までしかとその目で見届け、劇的に散っていった平知盛・・・見事な最期でした。

こうして源平合戦は終わりをつげ、時代は源氏のものに・・・!! 
しかし、源氏軍を率いた源義経は、壇ノ浦の戦いでヒーローとなったことが、兄頼朝との間に深い溝を作ることとなり、逃げた先の奥州・平泉で無念を抱えたまま自害し、果てるのです。
源平合戦最後の決戦・壇ノ浦の戦い・・・つぶさに見ていくと、家の為、忠義の為、意地の為に命を懸けて闘った武将たちのそれぞれの思いがよくわかります。

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有名な武将には、様々な伝説がつきものです。
中でも群を抜いて華やかなのが・・・
①山の中で天狗と武術の稽古
②京の五条大橋で襲い掛かる大男を宙を舞ってかわした
③海の上の戦では、敵の刃をよけて船から船へと八艘飛びを見せた
④モンゴルに渡ってチンギス・ハンとなった
その人の名は、源義経です。

平安時代の末、すい星のごとく現れたヒーロー・・・
その人生は、屈辱と栄光の繰り返しでした。



京都駅から北へ15キロ・・・深い山の中にある鞍馬寺・・・
源義経は、少年の頃、この寺に預けられました。
しかし、16歳の時、寺を飛び出し、平氏打倒に動き出します。
義経といえば、紅顔の美少年というイメージがありますが・・・これは、義経記からいわれたものです。
平家物語には、背が低く、色白、前歯が出ていると書かれています。
義経の幼少期は、謎に包まれた部分が多くあります。
平時物語によれば・・・

1159年、源義経・牛若丸は、京の武士の子として誕生。
母の常盤は、たぐいまれなる美女でした。
父は、源氏を束ねる統領・源義朝でした。
12歳年上の兄が、後に鎌倉幕府を開く源頼朝です。
義経が生まれたこの年、源氏を暗黒に突き落とす事件が起きます。
平時の乱です。
平安時代の末、京では朝廷内部の権力争いが起こっていました。
平氏の棟梁・平清盛と、源氏の棟梁・源義朝は、それぞれ対立する実力者について敵味方として戦いました。
勝ったのは、清盛率いる平氏でした。
敗れた父・義朝は、さらし首にされ、家族は離散します。
この戦が初陣だった頼朝は、伊豆へ流刑。
義経の母・常盤は平氏に捕まり、清盛の側室となりました。
その後平氏は、”平氏にあらずんば人にあらず”ともいわれるほど、栄華を極めることとなります。
義経は、7歳で鞍馬寺に預けられました。
平氏の策略で、義経は自分が源氏の血をひくものと知らなかったといいます。
寺での義経は、およそ坊主とは思えない暮らしぶりでした。
鞍馬山の木の根が地上には出だした木の根道・・・
ここで義経は足腰を鍛えて飛び回ります。
天狗に武術を教わったという伝説も残っています。
そして、夜な夜な町に降りては若者たちとケンカを繰り返していたといいます。
そんな義経でしたが、11歳の時に転機が訪れます。
ある時、源氏の系図を見つけた義経・・・
そこには、牛若の名が・・・!!
自分は源氏の一族だったのだ!!
この時義経は、寺で僧侶にはならず、父の敵討ちを決心したと言われています。

そして、16歳の時・・・
義経は、寺に出入りの商人に密かに頼み、脱出。
寺を抜け出した自分を、奥州・平泉に案内してくれと頼みます。
奥州は、平氏の手が及ばない場所だったからです。

「出家をせずに元服をしたいのだが、そうなれば平氏が問題にするであろうから、東国につれて行ってほしい」by義経

首尾よく寺を抜け出し、奥州に向かう途中・・・
義経は、太刀をはき、烏帽子をつけて自ら元服します。

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義経がたどり着いた奥州平泉は、中尊寺金色堂が建てられるなど、当時は京にも劣らぬ繁栄ぶりでした。
奥州を治めた藤原秀衡・・・彼の力の源は、この地で採られる金でした。
朝廷から自治を黙認されるほど、絶大な権力でした。
義経は、この地で4年ほど過ごしています。
しかし、何をしていたのか・・・詳しいことはわかっていません。

21歳の時、平家打倒のチャンスが訪れます。
兄の源頼朝が挙兵したのです。
頼朝は、伊豆に流刑となったのち、豪族・北条時政の監視下で暮らしていましたが、彼の娘・政子と結ばれ支援を受けました。
北条氏の後ろ盾を得て、頼朝は徐々に関東武士団を束ねる存在になろうとしていました。
頼朝挙兵の報せを聞いた義経は、平泉を発ち、兄のもとに・・・!!
静岡県清水町にある八幡神社・・・その境内には、対面石が残っています。
戦の為、頼朝はこの近くに陣を張っていました。
兄を訪ねた義経は、そこにある石に腰かけて、初めて対面したと言われています。

「奥州に下向して多年を送ってきました
 しかし、平氏打倒のために挙兵したと聞きまして、出てきました」

「先祖が兄弟で協力して敵を倒した話とよく似ている
 義経が来てくれ感動した」

こうして義経は、頼朝の軍に参加しました。
この時、22歳でした。

兄・頼朝と共に、平氏打倒を誓った義経・・・
しかし、頼朝はこの時すでに鎌倉を中心とする武士集団の棟梁・・・
朝廷に頼らない、新しい世を作ろうとしていました。
同じ平氏打倒を目指す兄弟でも、棟梁と家臣と、頼朝は考えていました。

頼朝のもとに来て3年・・・
1183年、24歳の時に義経初陣!!
しかし、相手は平氏ではありませんでした。
同じ源氏の木曽義仲でした。
義仲は、頼朝の従兄弟で無類の強者・・・戦いで負けた兵士を追いかけて上京し、ついには平氏を京から追い出しました。
しかし、京に入った義仲の軍勢は、素行が悪く、乱暴を働いたため、人々や朝廷の評判が悪かったのです。
そこで朝廷は、義仲を追い出すため関東で勢力を広げていた頼朝に助けを求めます。
命を受けた頼朝は、義経を京へと遠征・・・そこにはある思惑がありました。
義経の力量を推察することでした。
2万5000の兵を率いた義経は、この頃から戦における非情さを見せています。
京の手前の宇治川に差し掛かった時・・・
敵によって橋が壊され、兵を進めることができません。
歩いて渡ろうにも川岸が狭く、しかも渡りやすい場所には住民の家が建っており大軍は進めない・・・
そこで義経は、こう命じました。

「邪魔な民家を焼き払ってしまえ」

火をかける前に、住民に声をかけましたが、誰も外には出てこない・・・
構わず、義経は火をかけ、兵を進めたといいます。
こうして京へと進んだ義経は、木曽義仲を打ち破り、都から追い払いました。
都に入った義経の兵たちは、規律正しく紳士的だったと言われています。
それから間もなく、頼朝から新たな命令が・・・

「平氏を討伐せよ」

ついに、宿敵と相まみえる時が来ました。



当時の平氏は、棟梁の清盛が病死。
息子の宗盛が後継者となっていました。
京を追われた平氏は、福原・・・現在の神戸で、体制の立て直しを図ります。
福原は、瀬戸内海交通の要衝で、平氏は以前から中国・宋との貿易拠点としてこの港を整備していました。
さらに、清盛の孫である安徳天皇を京から福原に連れ出します。
その時、三種の神器も持ち出しました。
福原には、平氏と朝廷の意向が健在でした。
平氏が勢いを取り戻す前に打つべし・・・
1184年、25歳の時、軍を率いて京を出発。
平氏は、本拠地福原を守るため、東西に強固な防衛線を築いていました。
その為、源氏の軍は、東西に分かれます。
義経は山側から西の防衛線・・・一の谷に向かいました。
一の谷は、瀬戸内海に面し、後ろに断崖絶壁を背負った天然の要塞でした。
侵入経路が限られるため、非常に攻めづらい・・・

一の谷の合戦・・・義経は、山の上に!!
奇襲を仕掛けます・・・鵯越の逆落としです。
どうして山の上を選んだのでしょうか??
義経は、いくつかの西海合戦には必ず、現地案内人を見つけながら対応していました。
平家物語によると、義経は、鷲尾義久という地元の漁師に、崖への案内を頼んでいました。
そして、鹿が崖を下ると聞くと・・・

「馬を下らせてみよう、義経を手本とせよ!!」by義経

こう叫んだ義経を先頭に、70騎余りが崖をくだり、奇襲を仕掛けました。
平氏はこの時、源氏の攻撃は西の平地から来ると想定し、裏の守りは薄かったのです。
予期せぬ攻撃に、平氏の陣は大混乱!!
義経が混乱に乗じて火を放つと、平氏は総崩れとなりました。
こうして、一の谷の合戦に勝利した義経は、一躍その名を轟かせることになりました。
この時、26歳!!

一の谷の合戦に敗れた平氏は、西へと撤退します。
瀬戸内海の各地に拠点があったからです。
水軍を主力とする平氏にとって、海での戦は圧倒的有利でもありました。
一方、源氏の主力は騎馬隊を中心とした陸の戦力・・・海での戦いの経験も乏しかったのです。
しかし、義経は、勝利をかさね、平氏を追い詰めていきます。

一の谷の合戦に勝利し、京に凱旋した義経・・・
時の権力者・後白河上皇は、義経を大いに讃えます。
義経は、1184年8月に検非違使に任官。
しかし、このことが、頼朝を激怒させました。
義経は、頼朝に無断で、役職と官位を授かったからです。
官職と、位階は、間に朝廷が介入する余地を与えてしまいます。
頼朝は、官位につく際には、自分が値するかどうか決めて要請するとしていたのです。
義経は、平家追討の任務から外され、京に留まることとなります。



義経は、ひとりの女性と出会います。
静御前です。
静御前は、白拍子という舞の名手でした。
そのうえ、評判の美人・・・
義経は、静かと愛し合うようになります。
平氏追討から外されたことで、幸せな生活を掴んだのです。

その頃、平氏は屋島に本拠を構えていました。
頼朝は、中国地方と九州の平氏勢力を先に攻め、屋島の平氏を孤立させるという計画を描いていました。
しかし、九州方面への長い進軍の途中で兵糧が不足・・・
兵士の指揮も下がり、遠征は失敗・・・
作戦の立て直しを迫られます。
そこで、義経に白羽の矢が経ったのです。
義経は、屋島を攻略せよと命を受けましたが・・・
屋島は、難攻不落の海の要塞でした。
当時の屋島は、周囲を海に囲まれた島でした。
高い山から瀬戸内海を一望できるため、義経たちが船で近づけばすぐに見つかってしまう・・・
運よく接近で来ても、入り組んだ海岸線に隠してある平氏の船から背後を狙われやられてしまう・・・!!
屋島をどう攻略するのか??
ある男が口を開きました。
兄・頼朝の腹心で軍に帯同していた、梶原景時です。

「船に逆櫓をつけ、いざという時に後ろにも逃げられるようにすべきでしょう」by景時

義経は、この案が気に入りませんでした。

「逃げ支度をしての出陣など、縁起が悪い・・・」by義経

 それを聞いた景時は、さらにこう言い放ちました。

「ただ責めるだけでは、前に進むだけの猪武者と同じではないか」by景時

「猪か鹿かは知らないが、戦はひたすら攻めに攻め、勝つことこそ重要だ」by義経

軍議にしびれを切らした義経は、わずか150騎の手勢を連れて、出陣します。
大坂湾に出た義経は、屋島のある西に行かず、屋島の春か南東・・・現在の徳島県の勝浦に上陸。
陸路を通り、平氏の警戒網にかからないようにしました。
しかし、四国へ渡るときに、運悪く天候が悪化・・・
それでも義経は、嵐の中、船を出せと命令しました。
上陸した義経は、海からの攻撃を意識していた平氏の裏をかき、陸側から一気に攻めます。



1182年2月、屋島の戦い・・・
平氏はまたも総崩れとなり、逃げる平氏を追撃した義経は、3日間で屋島を陥落させました。
屋島を失った平氏は、さらに西へと逃げていきます。
義経はこれを負い、壇ノ浦で兵士との最終決戦を迎えます。
壇ノ浦の戦いを前に、義経は頼朝から二つの指示を受けていました。

①天皇を安全に迎えるべし
②三種の神器を無事に取り返すべし

1185年3月24日、壇ノ浦の戦い・・・

源氏軍と平氏軍は、ついに激突!!
壇ノ浦は、潮の流れが速く変化が激しいことで知られていました。
平氏は、この潮の流れをよく知っていました。
午前9時・・・開戦。
平氏軍は、潮の流れに乗り、あっという間に源氏の船に近づくと矢を射かけました。
鮮やかな先制攻撃です。
源氏は思うように動けず、圧倒されました。
しかし・・・やがて形勢が逆転します。
午後になると、潮の流れが180度変わったのです。
西へ流れる潮に乗り、攻勢を仕掛ける源氏軍!!
義経はここで、ある作戦を実行します。
船を操る水夫に矢を射かけたのです。
船のコントロールを失った平氏軍は、反撃の矢が打てない・・・!!
さらに、平氏にとって最悪のことが起きます。
味方の水軍が、平氏を裏切りだしたのです。
義経が、彼らの家族を人質に取っていたからです。
もはや、勝敗は決したも同じ・・・!!
しかし、ここで義経の想定外の事件が起きます。
まだ8歳の安徳天皇が、祖母に抱えられ海の中に身を投げたのです。
そして、三種の神器のひとつ・・・草薙剣も海に沈んでしまいました。
やがて、残った平氏の武士たちも海に身を投げ、栄華を誇った平氏はついに滅亡しました。
義経・・・この時、27歳。

1185年4月、平氏を倒し京に凱旋。
義経は、名実ともに都の英雄となりました。
5月・・・戦勝報告のために、鎌倉に向かいますが・・・
手前の小田原で足止めを食らいます。
頼朝の使者が、”鎌倉に入らずその場に止まれ”と伝えたのです。
頼朝が与えた2つの指示・・・
天皇を連れ帰るべし、三種の神器を持ち帰るべし・・・これを義経が守れなかったため、頼朝が起こったからだと言われています。
加えて義経は、またもや頼朝に無断で後白河上皇から重要な役職を授かっていました。
”御厩司”・・・後白河上皇の軍馬を管理する親衛隊長ともいうべき役職です。
頼朝にとって、後白河上皇と義経の接近は、由々しき事態でした。
何故なら、頼朝はこの時、朝廷から自立した武士による新たな政権を作ろうとしていたからです。

頼朝の義経の印象をさらに悪くしたのは、義経と行動を共にしていた頼朝の腹心・梶原景時からの訴えでした。

「義経殿は、頼朝公の代理として御家人たちを与えられ、戦をしてきたにもかかわらず、しきりに自分の手柄だとばかり考えております
 兵士を討ち滅ぼした後の義経公の様子といえば、これまで以上に傲慢なため、みな、危険を感じております」by景時

鎌倉の満福寺・・・
ここに、義経が頼朝にあてた手紙が残されています。

”賞されるべきところを 思わぬ讒言によって 計り知れない功績が無視されることとなり
 私は罪深くして罰を受け 功績こそあっても誤りはないのに お怒りを買ってしまい
 むなしく涙に暮れています”

しかし、その思いは頼朝には届かず、京に戻るようにと命が下るのでした。

1185年10月・・・兄弟の仲を決定的に引き裂く出来事が・・・
京に戻った義経は、頼朝の刺客に襲われます。
かろうじて難を逃れた義経でしたが、ついに頼朝と戦うことを決意します。
義経は、後白河上皇に訴えます。

「頼朝追討の宣旨を賜り、一矢を射たいと思います」by義経

渋る上皇でしたが、度重なる義経の催促に・・・義経の離反を恐れてとうとう・・・
10月、頼朝追討の宣旨を得ます。
これを受け、義経は、打倒頼朝の仲間を募ります。
しかし・・・朝廷の宣旨を得たにもかかわらず、義経の軍に参加するものはいませんでした。

義経に味方しても、最終的に恩賞がどういう形で自分たちの手に入るかという不安定さがあり、義経は個人プレイヤーとして力は強いけれど、その先が見えない・・・

11月、義経は、京を出て逃亡生活に入ります。
長い逃亡生活の始まりでした。
義経が今日から脱出したと聞くと、頼朝は後白河上皇に義経追討の宣旨を要請しました。
さらに頼朝は、義経討伐を理由に、上皇に守護・地頭を全国に配置することを認めさせます。
頼朝は、各地に兵を置き、そこで米を徴収することに成功。
近年ではこの1185年を鎌倉幕府の成立とする研究者も多くいます。

奈良県吉野山・・・ここは、義経の潜伏先でした。
山の中腹にある吉水神社には、義経と静が暮らした部屋が残されています。
しかし、吉野にも追手が迫り、一行はわずか5日間の滞在で去っています。
身の危険を感じた義経は、静御前と別れます。
やがて静は、吉野で捕らえられ、頼朝の厳しい尋問を受けることとなります。
この後も、義経の逃亡生活は2年も続きました。

1187年2月・・・かつて青年時代を過ごした奥州・平泉に向かいます。
義経には、もはや、若き日の自分を保護してくれた藤原秀衡を頼るしかありませんでした。
しかし、平泉での生活も長くは続きません・・・

1187年10月、藤原秀衡死去。
義経、29歳の時でした。
秀衡の死を知った頼朝は、朝廷に義経のみならず、秀衡の息子・藤原泰衡を討伐する宣旨を求めます。

1189年閏4月、藤原泰衡の裏切りで、義経は襲われます。
義経たちは必至に戦ったものの、やがて力尽きました。
1189年閏4月30日・・・源義経自害・・・享年31歳でした。

1189年9月、奥州藤原氏滅亡・・・
義経をかくまった罪で、頼朝は奥州に進軍!!
100年の栄華を極めた奥州藤原氏を滅ぼしたのです。
1192年7月、頼朝は朝廷から武士の最高職・征夷大将軍に任じられました。
義経の死から3年後のことでした。

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鎌倉で長い歴史を誇る鶴岡八幡宮・・・この境内に、雄々しく凛と立つ黒塗りの社があります。
白旗神社・・・祀られているのは、鎌倉で日本初の武家政権・鎌倉幕府を開いた源頼朝です。

流人から武士の頂点・征夷大将軍に前上り詰めた源頼朝。
そこにどうやって至ったのでしょうか??

弟・義経を討て ~源 頼朝・武家政権確立への決断~



①1159年 平治の乱
1147年、頼朝は源氏を束ねる武家の棟梁・源義朝の子として京の都に生れました。
三男でしたが、頼朝は嫡男として育てられます。
それは、母親の家が名門貴族・藤原氏の血を引き熱田神宮の宮司を務めていたことで、2人の兄の母より家柄や地位が上だったからです。
血筋に恵まれたこと、そして父・義朝が院政を敷いていた後白河上皇の近臣・藤原信頼の信頼を得ていたこともあり、頼朝はわずか12歳で上皇の姉・上西門院統子に仕えることになります。
その翌年・・・1159年蔵人に就任・・・すべての事務・行事に関する官職で、出世の登竜門でした。
そして同じ年13歳で・・・頼朝は武士として初陣を飾ります。

それが平時の乱です。
父・義朝が、朝廷の実権を握ろうとしていた藤原信頼と共に起こした内乱です。
武家のライバル平清盛が熊野詣で京の都を留守にしていた隙に、後白河上皇の屋敷を襲撃。
上皇とその息子である二条天皇を幽閉したのです。
このクーデターにより、父・義朝は受領最高峰の播磨守に、初陣を飾った頼朝は右兵衛権佐となりました。
これは、源氏にとって大きな意味のあることでした。
右兵衛権助は、朝廷の有力者の子弟が任命される地位で、四位以上のものが任じられることが多かったのです。
当時まだ従五位以下であった頼朝が任じられたことは、源氏の家柄が非常に上昇したことを物語っています。
父・義朝たちの目論見は、うまくいったはずでした。
ところが・・・クーデターを知った平清盛が、急遽、京の都に戻ってきたのです。
清盛の挙兵によって、後白河上皇と二条天皇が脱出、これによって義朝たちは一転賊軍となりました。
そして、清盛の武力の前に惨敗・・・
父・義朝は、敗走中に命を落とします。
父とはぐれた頼朝にも命の危険が迫っていました。
平家方に捕らえられてしまったのです。
戦で負けた武士は、たとえ年が若くても元服していれば処刑されるのが当時の決まりでした。
頼朝も、その例にもれず処刑されるはずでしたが・・・

平時物語には、池禅尼が助命嘆願をしたと書かれています。
敵である頼朝を本当に助けたのか??
元服して戦に臨んだ敗軍の武士が処刑されることを武士の妻・池禅尼が理解できないはずはありません。
亡くなった息子に似ているからという理由で助命嘆願していないのでは??
池禅尼が頼朝の助命嘆願をしたのは、ある人に圧力をかけられてのことでした。
その人物は・・・上西門院統子と後白河上皇でした。
頼朝の母の一族に助命嘆願された2人が圧力をかけたのです。
母の家柄の良さが、頼朝を救ったのです。

1160年3月11日、頼朝は今日に都を追われ、伊東に流されます。
その身は、平家の有力武将・伊東祐親の監視下に置かれるも、ある程度の自由はありました。
そんな流人生活が従数年続いた頃・・・
頼朝は伊東祐親が上洛している間に、こともあろうにその娘・八重姫と恋仲になり、男の子・千鶴丸をもうけてしまったのです。
これを知った祐親は激怒、娘と頼朝を引き離しただけでは足りず、千鶴丸を殺害してしまったのです。
その後、頼朝の暗殺まで計画、頼朝に再び危険が迫ります。

この危機に救いの手を差し伸べたのが、祐親の次男・伊東祐清でした。
その祐清の手引きにより、伊東から脱出。
蛭ヶ小島に移るとこの地の役人だった北条時政の保護を受けることに・・・。
その後、31歳になった頼朝は、時政の娘・政子と結婚。
娘・大姫を授かります。
流人でありながら穏やかな暮らしを手に入れたのです。
そんな中でも胸の奥には武士としてのたぎる思いがありました。
しかし、平家にあらずんば人にあらずと言われるほど、清盛を中心とする平家の勢いは増すばかり。
頼朝は、挙兵の機会を伺えないまま伊豆に流されて20年を過ごすのです。
流人である頼朝には武力も何もなく、周囲も頼朝が平家を攻撃するとは思っていませんでした。
平家との立場の違いに、頼朝は敵討ちをほとんど諦めていました。

「源頼朝 死をめぐるミステリー 日本史上の大転換点」



②1180年 源頼朝挙兵
流された伊豆の地で、頼朝は父の仇である平家を討つと誓いながらも20年・・・
勢力を増す平家を前に挙兵できずにいました。
そんな中、1180年4月、平家の権勢を良しとしない後白河法皇の皇子・以仁王が挙兵に動きます。
全国の武士に、平家を倒すためともに立ち上がってほしいと呼びかけたのです。
それは、伊豆にいる頼朝のもとにも届けられました。

遂に、平家に一矢報いるチャンスが来たはずでした。
しかし、以仁王の乱は、自然に平家の知る処となり、2か月ほどで鎮圧されてしまいます。
以仁王が殺された後、平家がどう出るのか??頼朝には予想がつかなかったのです。
同時に、清盛の圧政に対して平家への不満が高まりつつありました。
平家の今後の出方と反平家の武士たちの動向を見極め、頼朝はどう動くか、慎重に考えました。
頼朝は伊豆周辺の状況を見ながら、虎視眈々と挙兵のための味方集めをしていきます。
以仁王の乱ののち、それまで源氏の一族が治めていた伊豆国の知行国司の座に平時忠が就任します。
平家による支配が色濃くなったことで、北条氏を含む伊豆の武士たちは反発!!
頼朝はそんな彼等を味方に取り込んでいきました。
さらに・・・相模、上総・・・平家が知行するようになり、後白河法皇の知行国の武士たちは、圧力を受けるようになっていました。
頼朝は、そうした平家の圧力に不満を抱く相模、上総の武士たちにも目をつけます。
すぐさま、相模に腹心を派遣し、味方に引き入れることに成功しました。

1180年8月17日・・・頼朝は平家打倒ののろしを上げます。
しかし、8月23日、相模国の石橋山で、平家方の武将・大庭景親の軍と激突するも圧倒的兵力差により惨敗を喫してしまうのです。
そこで、頼朝は更なる味方を・・・

「平家によって幽閉されている院(後白河法皇)を共に救おう」

後白河法皇のためという大義名分が功を奏したのか、上総、下総の有力武将たちが頼朝の味方に。
不満を持っていた関東の武士が続々と味方となり、平家方の武将を倒していきました。
すると、その形勢に平家方の武将の中にも頼朝に下るものが現れます。
こうして頼朝は、流人ながらも強大な力を持つ軍団を築き上げることに成功します。
そしてその大軍を率いて源氏ゆかりの地・鎌倉に入り、本拠地とします。
石橋山での敗戦からわずか1月半後のことでした。
頼朝は、息つく暇もなく京の都から送り込まれてくる平家の大軍を迎え討つべく出陣!!
黄瀬川沿いに布陣し、富士川の近くに陣を構えた平家軍と対峙します。
富士川の合戦です。
両軍勢に走る緊張・・・!!
ところが意外な結末を見せます。
10月20日未明・・・一斉に飛び立った水鳥の羽音を、源氏軍の奇襲と勘違いした平家軍が慌てふためいて逃げて行ったのです。
戦わずして勝利した頼朝は、これによって実質的に関東を支配することになりました。
そして、この合戦後、運命的な出会いを果たします。

腹違いの弟・義経との出会いです。
平時の乱の混乱のさ中に生れた義経は、幼いころに京の鞍馬寺に預けられるも、打倒平家を胸に京の都を脱出!!
奥州・平泉を拠点とする藤原秀衡の庇護を受け、武士として立派に成長を遂げていました。
そして・・・義経は、兄の挙兵を知り訪ねてきました。
2人は涙しながら語り合ったといいます。
こうして、頼朝と義経は、力を合わせて平家打倒に邁進することになります。

頼朝は如何にして寄せ集め軍団をまとめ上げたのでしょうか?
頼朝は、新恩給与という仕組みを作りました。
敵・・・平家方がもっていた所領を恩賞として手柄を上げた者たちに与えることです。
頼朝は、平家という共通の敵を作り、勝ったら平家の所領を与えることにしたのです。
頼朝は、新恩給与を朝廷にも認めさせ、後の地頭という制度につなげていきました。
頼朝に従っていた武士たちは、やがて御家人と呼ばれるようになっていきます。
御恩と奉公・・・という関係が生まれ、これが鎌倉幕府を支える制度として発展していきます。

関東の武士たちを味方につけ、富士川の合戦で平家軍に勝利した頼朝は、鎌倉を拠点に実質的に関東を支配することになりました。
しかし、頼朝は平治の乱で平家に敗れて以来、いまだ朝廷に弓を引いた謀反人のままでした。
そこで、上洛してなんとか後白河法皇に近づき、謀反人の立場を解いてもらおうと考えていました。
その頼朝の策が・・・
平家打倒と幽閉されている後白河法皇の救援を建前として上洛するというのです。
ところが、そんな頼朝のもとに衝撃的な知らせが・・・!!

時代劇法廷 被告人は源頼朝



③1181年 平清盛死去
1181年2月4日、平家を率い、強大な権力を有していた平清盛が熱病にかかり急死したのです。
清盛の死により、頼朝の策が破たんします。
大黒柱を失った平家が政権を返上したことで、後白河法皇の院生が復活!!
頼朝が上洛する理由が無くなってしまったのです。
そこで頼朝は、驚くべき策を講じます。
源氏と平家の和平です。
頼朝は、後白河法皇に書状を送り、こう申し入れました。

❶院への敵意はない
❷これまでの行動は院の九円が目的
❸員が平家の滅亡を望まない場合は、朝廷の支配のもとで源氏が東国、平家が西国の治安維持を担当する

後白河法皇は、この頼朝の和平案に興味を示しますが、平家は猛反発します。
無き清盛の遺言があったからです。

「必ずや我が墓前に頼朝の首を供えよ」

結局和平は結ばれませんでした。
しかし、これはすべて頼朝の思惑通りでした。
頼朝も、平家と和睦できるとは思っていませんでした。
頼朝は、和平案を出すことで、自分はやみくもに戦争しようとしているわけではない・・・と、後白河法皇の信頼を得ようとしたのです。
実際法皇は、和平を突っぱねた平家に不信感を抱き、頼朝に近づいて行きました。
こうして上洛への道筋を作った頼朝・・・
その最終的な狙いは、謀反人の汚名をそそぎ、朝廷を守る唯一の官軍になること!!
そこに思わぬ横やりが入ります。

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④1183年 木曽義仲上洛
平家打倒と後白河法皇の救援を建前に挙兵し、賊軍の汚名を雪ごうと上洛を画策していた頼朝でしたが・・・同じ源氏の棟梁で従兄弟の木曽義仲が先に上洛。
平家を都落ちさせてしまいました。
さらに、義仲は後白河法皇と面会。
平家を追悼する宣旨を受けます。
一説には、この時義仲は、頼朝を謀反人のまま据え置くように働きかけたといいます。
こうして、後白河法皇の信任を得た義仲が、頼朝より先に官軍として平家追討軍を率いることに・・・
頼朝は、上洛の機会を逸してしまいました。
ところが・・・義仲軍の兵士が京の都で乱暴狼藉を働いたことで、後すら変わ法皇が激怒。
これを知った頼朝は、すぐに後白河法皇に使者を送り、いかに自分が法皇のために力をつくしているかをアピールします。
その苦労が実ったのか、1183年10月9日、頼朝は朝廷から謀反人の立場を解かれ、従五位下に任じられるのです。
14歳で伊豆に流されてから23年、ようやく少年時代の官位にまで返り咲きました。
そして、この5日後、頼朝は次のことを朝廷に認めさせます。

❶東国にある荘園の年貢や税は頼朝が徴収して朝廷や荘園領主に納める
❷これに違反する者がいれば、朝廷は追討を命じることができる

これにより、名実ともに関東の支配権を得た頼朝・・・
京の都では、後白河法皇や朝廷からの信頼を失った義仲追討の為、頼朝の上洛を期待する声が高まります。
その声に応え、頼朝が京に派遣したのが、弟の義経でした。
1184年1月、義経は宇治川の合戦で義仲軍と激突、見事義仲を討ち取りました。
これで、源氏内でのライバルはいなくなり、頼朝が平家追討の旗頭となったのです。

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⑤1185年 平家滅亡
頼朝は、平家追討の為、弟・義経を西国に派遣します。
兄の期待に応えるように、義経は一の谷の合戦や屋島の合戦で奮戦し、平家を追い詰めていきます。
そして・・・壇ノ浦の合戦で平家軍に勝利。
頼朝の挙兵から、およそ4年半・・・遂に源氏が平家を滅ぼしたのです。
この時、頼朝は鎌倉にいました。
滅亡の報せを聞いたのは、父・義朝の菩提を弔う寺院建立に関する儀式の際でした。
頼朝は、感慨のあまり・・・鶴岡八幡宮に向かって座り込も、ただただ黙っていたといいます。

平家を滅亡させた功労者となった義経・・・
父も兄も失くしていた頼朝にとって、血のつながった身内である義経の存在は心から信頼できる唯一の味方と言えました。
そんな義経を頼朝は子として迎え入れ、後継者にしようとしたほどでした。
ところが・・・頼朝は次第に義経と対立を深めていきます。

吾妻鏡によると・・・1184年8月6日、義経は法皇から左衛門少尉に任ぜられ、検非違使の職を宣下されます。
義経は、源氏の権威が上がったと・・・兄・頼朝も喜んでくれるとそう思いました。
しかし・・・平家追討に対する恩賞を誰が与えるか自分が決めると朝廷に申し出ていた頼朝は、自分の許可なく官位をもらった義経に激怒。
これが、頼朝と義経の対立の原因だったと書かれているのです。

しかし、吾妻鏡は事実とはいいがたい・・・??
頼朝は、義経が検非違使に任じられ、後白河法皇に接近したことが問題だと言いながら、その後も後白河法皇との取次などを任せていました。
頼朝は、義経を検非違使に推挙していた可能性もあるのです。

2人が対立した本当の理由とは・・・??

⑥1189年 源義経追討
血を分けた兄弟である頼朝と義経・・・
2人はともに平家打倒の宿願を果たしましたが、その後、激しく対立します。
頼朝は実の弟である義経を死に追い込んでいくことになるのです。
どうして頼朝は、義経を追討することになったのでしょうか?

通説では、頼朝は自身の許可を得ずに検非違使に就任したことに激怒。
これが対立の原因だったと言われてきました。
しかし・・・検非違使就任は頼朝も了承していた・・・
義経の検非違使留任が問題だったのです。

対立の理由
❶検非違使留任問題
頼朝は、平家追討の勲功として義経に伊予守の官職を与えるよう推挙していました。
京の都の治安を守る役職である「検非違使」は、ずっと京に留まる必要がありました。
伊予守などの受領は、必ずしも現地に行く必要がありませんでした。
つまり、頼朝は、義経を伊予守に就任させ、鎌倉に呼び戻し、自分の近くに置いておこうと考えていたのです。
ところが・・・義経は、伊予守の職をもらった後も、通常ならば辞任しなければならない検非違使に留任し、京の都に居続けました。
これに頼朝は腹を立て、2人の間に決定的な亀裂が生じたのだといいます。
頼朝は、自分の軍が朝廷を守る唯一の官軍になることを目指していました。
ところが、義経は検非違使に留まることで京都にそのまま拠点を置き、後白河法皇の直属軍となる可能性がありました。
そうなると、頼朝は唯一の官軍ではなくなってしまう・・・!!
義経の検非違使留任問題が、頼朝軍を唯一の官軍にする大きな妨げとなったのです。

❷後継者問題
弟・義経との初対面から2年・・・頼朝は、待望の嫡男・頼家に恵まれます。
我が子を跡継ぎにしたい頼朝は、弟・義経の存在を疎ましく思うようになっていきます。
義経が源氏の後継者となり、頼家が退けられることを頼朝は恐れていました。
源氏が二つに分裂し、頼朝が築いた権力が消滅する危険性もあったのです。

我が子・頼家を後継者にする弊害となり、源氏内の派閥闘争の火種となる義経を排除したかったのです。

こうして、頼朝と義経の関係は、急速に悪化、義経は挙兵の意思を後白河法皇に伝えたといいます。
一方、頼朝は、御家人たちに呼びかけ、義経との全面対決を決意するのです。
京の都での評価が、頼朝を上回っていた義経は、すぐに兵を集められると考えていたようです。
しかし、実際は、特に恨みのない頼朝を倒すために兵はあげられないと・・・味方に付くものはほとんどいませんでした。
義経は挙兵に失敗し、都から落ち延びていきます。
向かった先は、奥州・平泉でした。

1187年、義経は、藤原秀衡を頼って奥州・平泉に到着。
一方、頼朝は、義経追討の宣旨を朝廷から受けていました。
しかし、秀衡の強大な軍事力を前に、頼朝は手を出せずにいたのです。
ところが・・・その年の10月、秀衡が病で亡くなります。
頼朝は、義経追討に動きます。
秀衡の後継者である泰衡に圧力をかけ、義経と奥州藤原氏の分裂を画策。
泰衡は、家を守るため、義経を襲撃することに・・・
追い詰められた義経は・・・1189年4月30日、自害。
その後、頼朝は平泉・・・奥州藤原氏を滅ぼすのです。
これで敵対する勢力は消滅・・・頼朝はついに武家の頂点に立ったのです。

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⑦1192年 頼朝将軍就任
弟である源義経、奥州藤原氏を滅ぼし、後顧の憂いを断った源頼朝は、1190年11月7日、1000騎の兵を従え、堂々とした姿で京に戻ってきました。
14歳で伊豆に流されて以来、30年ぶりの都でした。
この時頼朝は、武官の最高職・右近衛大将に任じられ、名実ともに武士の最高峰に上りつめます。
しかし、わずか9に後に辞任し、鎌倉に帰ってしまいました。
実は、右近衛大将は、朝廷の政務、儀式への参加が主な仕事でした。
京の都にたえず居なければなりませんでした。
頼朝は、拠点とする鎌倉で政権を盤石にすることを優先したのです。
頼朝は、その一方で、鎌倉にいても務まる権威ある官職を朝廷に求めます。
そうして2年後、1192年、朝廷から賜ったのが征夷大将軍でした。
46歳・・・頼朝は、ついに流人から将軍となったのです。
その3年後、頼朝は再び上洛します。
妻・政子、嫡男・頼家、娘・大姫らを引き連れてのことでした。
頼朝は、娘の大姫を、後鳥羽天皇の后にしようと考えていたのです。
朝廷の有力者に大姫を紹介し、後鳥羽天皇との縁談を取り持ってもらおうと・・・

娘を天皇に・・・やがて生まれた子が男の子であればその子が天皇・・・
そうなれば、源氏は天皇の外戚となります。
さらに源氏の権威が高まります。
また、大姫は時政の孫でもありました。
大姫を天皇に嫁がせることで、源氏と北条氏の権威が上がると頼朝は考えていました。
源氏と北条氏が天皇と縁戚になり、高い権威を持つことで幕府の安定を図ろうとしたのです。

ところが・・・1197年7月14日、入内を待たずに大姫が病によりこの世を去ります。
20歳だったと言われています。
悲しみ癒えぬままに頼朝は大姫の代わりとしてその妹の入内計画を進めるのですが・・・
最後の願いはかないませんでした。

1199年正月13日・・・頼朝、53歳で死去。

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山口県下関市関門海峡・・・かつて長門国赤間関壇ノ浦と呼ばれていたこの場所で、1185年3月24日、平家と源氏が激突しました。
源平合戦の最後の戦・・・壇ノ浦の戦いです。

一の谷の戦い→屋島の戦い→壇ノ浦の戦い・・・
滅亡のその日、いったい何があったのでしょうか??

平安時代末期、奢れるものも久しからずの言葉通り、棟梁の平清盛が亡くなると、知行国30か国と全国の半分ほどを手中に収めていた平家の力が衰えを見せ始めます。
清盛の三男・宗盛が父の跡を継ぎましたが・・・平家打倒に立ち上がった源氏によって京都から追い出されてしまいます。
源氏を束ねる源頼朝が、更なる平家追討を命じたのが弟の範頼と義経でした。
中でも義経は、兄の期待に応えるべく、破竹の勢いで進撃!!
摂津国・一の谷の戦いで鵯越の逆落としとして有名な奇襲によって平家に大打撃を与えます。
それによって平家はさらに西国へと敗走・・・しかし、あきらめてはいませんでした。
一緒につれてきた清盛の孫でもある安徳天皇と、天皇の象徴である三種の神器を持っていたからです。
それが平家の切り札でした。
天皇と三種の神器を押さえておけば、新たな天皇を即位させることはできないことになっていました。
宗盛は、九州で勢力を盛り返し、京都奪還を狙っていました。

逆転を狙う平家でしたが、一の谷の戦いの翌年・・・1185年2月。
逃れていた屋島で、源氏軍を迎え撃つもまたもや義経の奇襲によって大敗を喫してしまいます。
ただただ逃げるしかなくなった平家は、壇ノ浦まで追い詰められてしまいます。



2月1日・・・平家滅亡まであと53日。
屋島の戦いに敗れた平家は、瀬戸内海を転々とした後、長門国赤間関壇ノ浦にある彦島に本陣を置きます。
前もって平知盛が城を築いて傘下の水軍を集め、源氏との戦いに備えていた場所だったからです。
そこは、平家にとってまさに背水の陣でした。
本当ならば、平家は屋島から彦島に渡り、九州で体制を立て直すのが理想でした。
しかし、源氏の範頼に先回りされ、先に九州を押さえられてしまったのです。
そんな平家軍の起死回生の策は、多くの水軍を有し、得意だった船戦でした。

源氏の大将・義経は、その平家の作戦を見抜いていたにもかかわらず、不安に駆られていました。
一の谷、屋島・・・どちらも地上戦の騎馬軍団の奇襲でした。
海上戦は一度も経験していませんでした。
義経は、すぐさま会場訓練を開始、1か月かけて初めての海上戦の準備をしていきます。
さらに、義経は戦力強化のために・・・
この時、源氏に十分な船が揃っていませんでした。
そこで、義経は、平家方についていた西国の海賊衆にこんな交渉を持ち掛けます。

「こたびの戦、もし加勢いたすならば勝利の暁には俸禄をもって取り立てよう」by義経

すると、屋島の戦いの戦況を伝え聞いていた海賊衆の棟梁たちは、源氏に分があるとその誘いにのり、次々と水軍を率いて合流しました。
俸禄を餌に、平家方の水軍を寝返らせて味方にすることで、源氏方の兵力を強化したのです。
しかし、中には平家を裏切ることに躊躇している者もいました。
紀伊国・熊野水軍を率いていた別当の湛増です。
平家は、瀬戸内海に勢力があり、熊野水軍との親しい関係にありました。
鎌倉方は、湛増にとってはよくわからない集団でした。

悩む湛増が頼ったのが、熊野権現でした。
祈ったところ、白幡につけというお告げが・・・白幡・・・つまり、源氏です。
それでも湛増は、これまでの平家からの恩を考えると、態度を決められずにいました。
そこで今度は、赤い鶏と白い鶏をそれぞれ7羽・・・1羽ずつ出し合って神前で勝負をさせました。
結果は、赤い鶏は一度も勝てずに城の完勝でした。
意を決した湛増は、200艘の水軍を率いて源氏に合流します。

こうして、義経率いる源氏軍は、熊野水軍・渡辺水軍・伊予水軍などを味方につけ、およそ800艘の船団を編成しました。
白幡をなびかせ彦島を目指すと、周防国で兄・範頼の軍勢と合流するのです。

3月23日、平家滅亡まであと1日・・・
源氏軍は壇ノ浦の奥津にある満珠島・干珠島まで兵を進めると、兄の範頼軍は壇ノ浦近くの陸地に布陣・・・。
源氏軍の動きを知った平家軍は、彦島を出発し、関門海峡の東の出口に当たる田ノ浦辺りに集結・・・赤旗を掲げた500艘あまりの水軍で待ち構えます。
相対する距離は、わずか300m・・・義経の戦略は、自らは海上から彦島に攻撃をかけ、退いたところを陸地から範頼軍が矢を射かけて攻撃、挟み撃ちにするという者でした。
平家物語によると、こののち、双方相談の上、戦の開始を意味する矢合わせの時刻を翌朝の午前6時ごろと決めました。
当時の武士たちの戦争は、ルールがありました。
そのルールに従って戦います。
軍師を交換して日時と場所を決め、決められた日に集まり戦争をはじめていました。
源平の合戦は全国規模の戦いで、日本史上初めてのことでした。
それまでの合戦のルールが、現実に合わなくなってきていました。
戦が大規模化したことで、ルールを変更せざるをえなくなってきていたのです。

1185年3月23日・・・壇ノ浦の戦いの前夜・・・
いよいよ明日平家との決戦という時に、義経の陣営でひと悶着が起こりました。
きっかけとなったのは、軍監の梶原景時の一言でした。

「此度の先陣は、梶原にお任せください」by景時

「この義経がいなければのう・・・残念なことに、先陣はこのわしじゃ!!」by義経

「なんと・・・仰せられる
 殿は総大将でございます
 総大将が先陣を務めるなど、聞いたことがありませぬ」by景時

「何を申す!!
 総大将は兄頼朝、この義経は軍の指揮を承っただけの事。
 故に、先陣を務めても差しさわりあるまい・・・!!」by義経

この言葉に、先陣で手柄を立てたかった梶原は、
「全く、この殿は生まれつき主君にはなれぬ器じゃ・・・!!」by景時

「そなたこそ、日の本一の愚か者よ!!」by義経

売り言葉に買い言葉で一触即発になりかけます。
梶原景時は、相模国の武士で、京都にも詳しく官僚として優秀でした。
屋島の戦いの際も、言い争いをして、これが初めてではありませんでした。
熱くなった二人を周囲はこう諌めます。

「明日の決戦を前に同士討ちなどとはもってのほか
 鎌倉殿のお耳にでも入りましたらタダではすみませぬぞ 
 どうか気を静めてくださいませ」

義経は、それは最もなことと、怒りをといたためどうにか事なきを得ました。

この後も、景時は義経の行動を頼朝に逐一報告しています。
結果として頼朝と義経の兄弟仲を裂き、義経の失脚の原因を作ったのです。

3月24日早朝、壇ノ浦の戦い早朝!!
源義経率いる船団800VS平知盛率いる500が、壇ノ浦で300mを隔てて対峙!!
そして、いよいよ合戦取り決めの時刻です。
戦闘開始の合図・矢合わせが行われました。
鏑矢が射られ、敵方もそれに応え鏑矢を飛ばします。
鬨の声が上がり、壇ノ浦の戦いが始まりました。
まずは矢戦!!
源氏方の陸地から矢を仕掛ける役目を担ったのが、和田義盛でした。
坂東武者の鏡たる豪勇の士であり、弓矢の名手です。
放った矢にひるんだ平家軍に向かって、こう挑発しました。

「その矢を射返してみよ!!」

平家軍には、この距離を射る武士はいないであろうとバカにしたのです。
この喧嘩を買ったのは、平家方の仁井親清でした。

「その矢、わたくしめがもらいます」

そう言って射返すと、矢は和田義盛の後方にいた武士の左腕に命中しました。
和田に大恥をかかせることに成功するのです。
しかし、これで終わりではありませんでした。
仁井親清は、義経が乗った船にも矢を射かけると、和田をまねてさらに挑発してきます。

「その矢を射返してみよ!!」

源氏の面目を潰された義経は、怒りに震え浅利与一に矢を射返すよう命じました。
与一は、屋島の戦いでも平家方の小舟の上に立てられた的を射った弓の名手です。
この時も、仁井親清の胸を射抜き、源氏の面目を保ったのです。
こののち、両軍つめて戦いは激しくなっていきます。
兵の数では劣る平家軍でしたが、得意の船戦であり平知盛には策がありました。
そもそも知盛が広島に本拠を置いたのは、平家の強力な水軍を活かすためでした。
そして、関門海峡独特の早い潮の流れと干満の潮の流れの変化を熟知していたのです。
相手は、水軍を操ることに不慣れな源氏・・・その潮の流れに乗って、一気に源氏を追い詰めようとしました。
その目論見通り、戦は平家軍優勢で進んでいきます。



源平合戦最後の戦い・・・壇ノ浦の戦い・・・
源氏の大将・源義経の策は、平家方だった西国の海賊衆を味方につけ強化した水軍で、海上から平家の拠点・彦島に向けて正面攻撃を仕掛け、退く平家の背後から、兄・範頼軍がつくという挟み撃ち作戦でした。
対して平家を率いる平知盛軍は、得意とする海上戦を優位に進めるべく・・・
九州の山鹿秀遠や松浦党といった強い味方がついていた平家軍は、500艘の船団を三手に分け関門海峡特有の早い潮の流れに乗って、一気に攻め込もうというのです。
そして・・・源氏方が狙う安徳天皇&三種の神器・・・ならば、豪華な御座船目掛け攻めてくるに違いない・・・!!
そこで、知盛は、安徳天皇ら身分の高い者たちを兵船に乗せ、雑兵たちを豪華な御座船にのせて囮としました。
知盛の策は、囮となった御座船に襲い掛かってきた源氏の軍勢を包囲し、三方から矢を射かけてせん滅しようというものでした。
戦いを前に知盛は、兵士たちをこう鼓舞します。

「戦はこの日が最後ぞ!!
 少しも退くな!!
 東国の者どもに、弱気を見せるでないぞ!!」by知盛

3月24日午前・・・
潮の流れが変わる前に決着をつけたい知盛は、源氏軍側に流れる潮にのり攻め込みました。
まずは、第1陣が義経の船目掛け矢の集中攻撃を仕掛けます。
流石の義経も、降り注ぐ矢を前に、手も足も出せず満珠島まで下がります。
3月24日昼頃・・・
このまま一気に戦を終わらせたい知盛は、味方を激励!!
太鼓をたたき声をあげ、平家軍は攻め続けました。

と、その時・・・!!
劣勢を強いられていた義経の頭上に、どこからともなく白旗がひらひらと舞い降りてきたのです。
白旗は、言うまでもなく源氏の旗・・・!!

「これは、源氏の守護神、八幡大菩薩が出現され、源氏に力をお与えになったのだ・・・!!」by義経

義経は、これは吉兆だと喜んで手をあわせました。
一方、勝利を確信していた平家軍にも不思議なことが・・・
2千頭ものイルカの群れが、海底から湧き出たように接近してきました。
これは神のお告げ・・・と、総大将・平宗盛は、陰陽師に占わせます。
すると・・・

「イルカが手前で折り返し源氏に向かえば平家の勝ち
 イルカがこのまま平家の船の下を通れば源氏の勝ち
 となるでしょう」

それをきいた知盛は、固唾をのんで見守りました。
しかし、願いもむなしくイルカはそのまま平家の船の下を過ぎて行ったのです。

「平家物語」にこんな一説があります。

”壇ノ浦は潮の流れが激しいところで、源氏の船はその潮の流れに圧され、平家の船は潮の流れに乗り攻めていた
 それが一転、潮の流れが源氏有利の西向きに代わったことで、それまで優勢だった平家が劣勢に・・・そのまま一気に圧されて平家軍は滅亡した”

しかし、壇ノ浦の時、海はなぎの状態でした。
以前は、潮の流れが変わったことで勝敗が決したといわれていましたが、その説は現在は重視されていません。

3月24日昼過ぎ・・・
このままでは平家に負ける・・・そう考えた義経は、当時の常識では考えられない策に出ます。

「射るのは平家にあらず、水手を狙うのだ!!」

なんと、非戦闘員である船の漕ぎ手を射るように命じたのです。
この頃の合戦は、戦闘員同士の戦いでした。
舵取りを殺すという発想がありませんでした。
源平合戦以降、相手の馬を狙うなど、戦闘方法が変わっていきます。

兄頼朝と誓った打倒平家の為、策を選ばなかった源氏の義経、一方平家にとっては掟破りの策という予想だにしていない展開・・・!!
誤算でした。
漕ぎ手を次々と失っていった平家軍の船は、動くことができなくなって大混乱!!
そんな中、またも誤算が生じます。
味方である阿波水軍の武将・民部重能の裏切りです。
重能は平家軍の主力だった阿波水軍300艘を率いる武将でした。
形勢が逆転するとみると、源氏に寝返ったのです。
そして、御座船は囮で安徳天皇は乗っていないと源氏方に伝えてしまいます。

「狙うは、御座船にあらず!!」by義経

源氏軍が、一斉に安徳天皇の乗る兵船目掛けて漕ぎ出しました。
すると、これに呼応するように四国・九州の兵も平家方から離反・・・!!
源氏軍の猛攻に、平家軍は海へと沈んでいきました。
船の漕ぎ手を狙うという義経の掟破りの反撃と、味方の裏切りによって、平家軍は追い込まれて壊滅状態となりました。
民部重能の裏切りは、義経が仕向けたことでした。
この時、重能の子供・教能が、人質として源氏方につかまっていました。
このことを、平家方は知っていました。
知盛は、裏切る可能性がある民部重能の殺害を総大将の宗盛に進言しましたが、認められていませんでした。

「やはりあの時斬っていれば・・・!!」

敗北を悟った知盛は、船の上を掃き清め、覚悟を決めるように全軍に呼びかけます。
そして、安徳天皇は、建礼門院徳子、二位尼時子の乗る船に移るとこう告げるのです。

「これから女官たちは源氏の兵たちに襲われるであろう」

これを聞いた二位尼は、平家の敗北を察し、源氏に捕まるのならと死を決意!!
孫であるまだ8才だった安徳天皇を抱き寄せ祈りを勧めます。
言われるがままに東は伊勢大神宮に、西は阿弥陀如来に向かって祈りを捧げた安徳天皇は、こう聞きます。

「どこへつれていくのか?」
「この波の下に極楽浄土というめでたい都がございます
 お連れいたしましょう」

そう言って、海に身を投げました。
幼い天皇は、祖母に抱かれ海の中へと沈んでいきました。
この時、二位尼は、三種の神器のうち剣を腰に差し、勾玉を抱えていたといわれています。

3月24日午後3時・・・
平家軍の敗北が決定的となり、平清盛の妻だった二位尼時子と安徳天皇は海へと身を投げました。
安徳天皇の生母・建礼門院徳子も懐に石や硯を入れて錘とし、後を追うように飛び込みました。
しかし、すぐ源氏軍によって引き上げられ、とらわれてしまうのです。
その様子を見ていた女官たちや平家の武士たちも覚悟を決めます。
女官や武士たちは、錨や鎧を錘として次々と海に飛び込みました。
そんな中、ひとり気を吐く男がいました。
知盛の従兄弟で平家一の猛将・平教経です。
 
「せめて義経を道連れにしよう!!」by教経

そう言って、教経は、なんと片手に大太刀、もう一方にはなぎなたを持ち、源氏の船に乗り移ると、義経との一騎打ちに出ます。
あと少しのところまで追い詰めますが、かなわないと見るや義経は6mも離れた八艘先の味方の船に・・・!!
教経の猛攻を避けました。
世にいう義経の八艘飛びです。
義経に逃げられ、源氏軍に囲まれた教経は、もはやこれまでと覚悟を決めると・・・
源氏の大男2人を両脇に抱えて海に飛び込み道連れにしました。
平家一の猛将・平教経・・・見事な散り際でした。

しかし、一方で、生き恥をさらす武将も・・・平家の棟梁で総大将の平宗盛です。
平家の頂点に立つ身でありながら、覚悟が決まらず、船の上を右往左往逃げ回っていました。
その姿にあきれ果てた家臣たちは、後ろを通るふりをして、宗盛を海に突き落としてしまいます。
しかし、錘も着けておらず、海面をバタバタ・・・すると宗盛は、あろうことか源氏によって引き上げられてしまいました。
その有様に、知盛は、

「なんと情けないこと、どうして深くお沈みにならなかったのか・・・!!」

敵に捕らえられて恥をさらすより、最期まで戦い抜き、潔く平家の名を汚さぬことが美学・・・!!

「見届けるべきものはすべて見届けた
 今、自害せん!!」

知将といえども武運尽きれば力及ばず・・・知盛は、自分の亡骸が浮かび上がって辱めを受けないよう、鎧を二領重ねて海に飛び込みました。



3月24日午後4時・・・
こうして、源平最後の合戦・壇ノ浦の戦いは、源氏の勝利となり、ここに猛き者・平家は滅亡しました。

海面には平家の赤旗が無数に漂い水際の波は赤色に染まっていた・・・
平家物語にはそう書かれています。
最期まで踏みとどまり、栄華を誇った平家の終焉をしかとその目で見届け、劇的に散っていった平知盛・・・
見事な最期でした。
こうして源平合戦は終わりをつげ、時代は源氏のものに・・・
しかし、源氏軍を率いた源義経は、壇ノ浦の戦いでヒーローとなったことが逆に兄頼朝との間に深い溝を作ることになり、逃げた先の奥州平泉で無念を抱えたまま自害し果てるのです。
源平合戦最後の壇ノ浦の戦い・・・家の為、忠義の為、意地の為に命を懸け戦った武将たちのそれぞれの思いがよくわかります。

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