日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:廃藩置県

その時、勤王志士・朝廷、慶喜政権、江戸幕府らは、西郷隆盛・大久保利通・薩摩藩年表帖 上巻 ペリー来航から王政復古まで、時系列でわかる! [ ユニプラン編集部 ]

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今から140年前の1878年5月14日、東京千代田区の紀尾井坂で事件が起こります。
明治維新を成し遂げた一人の英雄が暗殺されたのです。
殺されたのは、薩摩藩出身の大久保利通!!
大久保は、今の総理大臣である内務卿として、廃藩置県、身分制度改革などを断行。
そのため、武士としての特権を奪われた困窮した士族の恨みを買って、命を落とすこととなりました。
その死の間際まで大切に思っていた一人の盟友・・・それは、西郷隆盛でした。
背広の胸ポケットに・・・西郷の手紙が二通ありました。

「王政復古のことは、外国に良く説明すべし」
もう一つは、大久保の写真を送られた西郷が、あまりいい男ではないと大久保をからかった手紙でした。
西郷は、1877年自決してこの世を去っていましたが、西郷からの手紙を肌身離さず懐に入れていたのです。
その絆はどんなものだったのでしょうか?

大久保利通は1830年、薩摩国高麗町に生まれました。
父は、薩摩藩士の利世、母は薩摩藩医の娘・ふく・・・5人兄弟の長男でした。
大久保家は、下級藩士の家柄で貧しい暮らしでしたが、大久保はひたすら勉強し、学問に秀でていました。
幼い頃、高麗町から下加治屋町に引っ越して・・・運命の出会いが!!
同じ下級藩士の子で、3歳年上の西郷吉之助・・・後の西郷隆盛でした。
二人は、郷中教育という薩摩藩の青少年の教育制度の下、机を並べ学び、切磋琢磨しました。
西郷は大久保を「正助どん」と呼び、大久保は「吉之助どん」と呼ぶ親しい仲になります。
そして、赤穂浪士の討ち入りの日には、二人で夜を徹して「義臣伝」を読み、忠義を貫いた武士に胸を熱くしていました。
そして、二人は藩校「造士館」で学び、西郷は郡方書役助として、大久保は記録所書役助となりました。
そんな若き日の二人に試練が・・・
大久保が20歳の時に薩摩藩のお家騒動・・・お由羅騒動が起こります。
当時の薩摩藩主・島津斉興の家督相続をめぐって、正室の斉彬派VS側室の久光派の内紛です。
その結果、お由羅を寵愛していた斉興によって斉彬派が粛清され、斉彬派に属していた大久保の父・利世が喜界島に流刑となります。
1850年・・・大久保もこれに連座して免職・・・謹慎となりました。
収入を発たれた大久保家は困窮・・・大久保は恥を承知で妹の嫁ぎ先に借金を頼み込みます。
それでも先の見えない生活に大久保は・・・「何も心配することなか」と、安心させようとします。
そんな時、大久保を支えてくれたのが西郷家でした。
大久保は、西郷の家にやってきて、黙って食事をして帰ったともいわれ・・・西郷も大久保を弟のように思っていたようです。
西郷は、このお由羅騒動で、恩師・赤山靱負が切腹しています。
悔しい思い、苦しい思いを共有していました。
大久保の謹慎は3年に及び、解けたのは1853年のことでした。
島津斉興が隠居し、息子の斉昭が藩主となったからです。
復職した大久保でしたが・・・その時すでに、西郷は異例の大出世をしていました。
11代藩主は斉彬の手足となって東奔西走・・・そして大久保は・・・??

復職した大久保は、薩摩の若手藩士らと、秩序と大義名分を重んじる朱子学の勉強会を開き、藩の力になろうとしますが・・・
彼等が藩を見限り脱藩を画策する思想集団へと変貌していきます。
そこには、藩主・斉彬の存在が大きくありました。
斉彬は黒船来航によって現実味を帯びてきた西欧列強の侵略を警戒し、この国難を乗り切るために、朝廷、幕府、諸藩が一体となって政治を行う挙国一致体制でなければならないと・・・実現に向けて奔走するものの・・・
あくまで幕府が主体となって政治を行おうとする大老・井伊直弼と対立!!
そんな中、1858年7月16日、斉彬が急死してしまいました。
その後を甥の忠義が継ぎます。
しかし、薩摩藩の実権を握ったのは、忠義の父で斉彬の弟・久光でした。
久光は、井伊直弼と対立していた斉彬のことで幕府から追及されないように斉彬の腹心だった西郷を島流しとし、蟄居を命じます。
これに猛反対したのが、勉強会のメンバーで後の精忠組です。
精忠組は大久保がリーダーとなり、蟄居となった西郷精神的な盟主として藩政に異を唱えるようになって過激化していきます。
久光は、幕府に対して恐れを抱いていました。
大久保はそんな態度が不満で、斉彬の遺志を継いでほしかったのです。
そこで大久保は考えます。
「わしらが動いたところで限界がある
 薩摩藩を動かすために、藩の事実上の支配者である久光公を、動かさなければ・・・!!」
しかし、下級武士で久光に会うこともままならない大久保が、どうやって・・・??

そこで大久保は久光に取り入るために策を練ります。

①囲碁

久光公は碁をする・・・相当な碁好きと知った大久保・・・大久保の趣味も囲碁でした。
そこで、久光の碁の相手をしていた碁の名手・吉祥院の住職に弟子入りします。
さりげなく住職に政治の意見を語り、住職を通じて久光の耳に入るようにします。

②書物
大久保は久光が読書家であることを知ると・・・
詠みたがっている本を知人からそれとなく聞き出し、その本を探し出し、藩の政治に対する自分の意見を挟み込みます。
そして久光公に献上し、喜ばせると同時に自分の意見も直接伝えていました。

幕府を恐れる久光に不満を抱く精忠組の薩摩藩士たち・・・
前藩主・斉彬が目指していた薩摩藩が参加する挙国一致体制を実現するため、リーダーだった大久保は大胆な行動に出ます。
精忠組四十数人が脱藩!!
水戸藩など尊王攘夷派の志士たちと共に、挙国一致体制の障害となる大老・井伊直弼たちの暗殺を計画したのです。
この計画が実行されれば、薩摩藩は窮地に陥ってしまう・・・!!
1859年11月5日、誠忠組全員が遺書を認め、船に乗り込もうとしたその時・・・
精忠組の計画を知った久光によって藩主・忠義の名で諭書が出されました。
そこには・・・
薩摩藩は斉彬公の遺志を尊重する。
精忠組の有志達も脱藩せず、協力してほしい。
と書かれていました。
久光が折れたのです。
大久保は、もはや脱藩の必要はないと、血気盛んなメンバーを説得し、計画は取りやめとなったのです。

しかし・・・この騒動は、大久保によって仕掛けられたものでした。
精忠組の中でも冷静で沈着冷静だった大久保は、内心では地方の浪士が幕府首脳を暗殺することは無理だと考えていました。
そこで、精忠組の脱藩計画を久光側に漏らし・・・
慌てた久光は、彼らを引き留めるために慌てて諭書を出すこととなったのです。
大久保は、久光が兄・斉彬と同じく挙国一致体制を目指しているのを知っていました。
久光を促すために、脱藩計画を利用したのです。
そして・・・精忠組を説得したことで、久光の信頼を得ます。
さらに大久保は、久光との交渉の中でもう一つの条件を出していました。
西郷隆盛を奄美大島から戻すことでした。
この転換期に、薩摩にとっても日本にとっても必要な男だと思っていたようです。

大久保はこの日のことを日記に記しています。

「藩全体で立ち上がってこそ、大偉業が出来る。」

大偉業とは、挙国一致体制・・・更なる作戦を繰り出します。

大久保利通は、西郷隆盛を鹿児島城下に戻すことに成功!!
そして、亡き斉彬の遺志を継いで西郷と共に奔走します。
しかし、外様大名の薩摩藩の言葉が簡単に幕府に通るはずもなく・・・
久光は、自らが上洛して朝廷を動かそうと考えます。
それを実現させるために動いたのが大久保でした。
1862年1月京都・・・島津家と関係の深かった近衛忠煕・忠房親子と対面します。
薩摩藩が目指す挙国一致体制の実現を訴えて、強力を要請します。
そして、近衛親子を通じて、久光が上洛し、幕府の改革を要求する建白書を朝廷に提出することとなったのですが・・・
大久保が準備を整えた上洛に異を唱えたのが西郷でした。
西郷は久光は藩主ではなく後見人だと主張します。
「久光公は、憚ることなく申せば田舎者!!
 しかも不用意であり、今乗り出したとしても、事が成就するとは思えませぬ!!」
この言葉に激怒する久光!!
大久保が仲裁に入り、事なきを得ます。
3月16日、久光は上洛するため、大久保ら1000人を従えて薩摩を出発しました。
上洛に伴う準備を任された西郷は、下関で久光一行の到着を待つように言われていましたが・・・
京都で尊王攘夷派の過激な志士たちによる挙兵の動きがあると知ると、それを阻止する為に、久光の命に背き、無断で京都へ・・・!!
またしても、西郷が・・・!!
激高した久光は、西郷に対して捕縛命令を出します。
4月9日・・・それを知った大久保は、兵庫の浜辺に西郷を誘います。

「最早・・・久光公の怒りを鎮めることは難しい・・・
 きっと吉之助どんは捕縛を免れられない・・・
 そうなれば、吉之助どんは面目を潰されたと切腹をするだろう。
 自分にはそれを止めることもできない。
 吉之助どんが死ねば、自分も生きている甲斐はない
 だからお互い、ここで刺し違えて死ぬことにしよう。。。」by大久保

この言葉が、西郷を動かしました。

「自分はどのような辱めを受けようと、耐え忍び、わしらが目指す前途を見つめるつもりだ。
 自害はしない。
 ここで二人して死んだら、誰が斉彬公のご遺志を実現するのか・・・??」by西郷

こうして西郷は、捕らえられることを受け入れ、沖永良部島に流されたのです。

8月21日武蔵国生麦村で・・・薩摩藩を揺るがす大事件が起こります。
大久保は一部始終を目撃していました。
大久保が久光の行列に付き添っていた時に・・・ 
イギリス商人チャールズ・リチャードソンと遭遇。
警護役が馬を降りて端によれというものの・・・彼等は無視しました。
すると、激怒した薩摩藩士が無礼打ちとして4人に斬りかかったのです。
その結果、一人が死亡し、二人がけがをしました。
世にいう生麦事件です。

イギリスは、悪質な攘夷行動と受け取りました。
怒り心頭のイギリスは、幕府に対して正式な謝罪と、10万ポンド(約370億円)の賠償をもとめてきました。
薩摩藩に対しても、犯人の逮捕と死刑執行、遺族と負傷者に2万5000ポンド(90億円)の賠償を要求します。
もし要求に応じない場合は、軍事行動に・・・!!
横浜に停泊していたイギリス艦隊に恐れをなした幕府は、事件の発生から8か月後、賠償金全額を支払いました。
ところが、薩摩藩は拒否!!

1863年6月・・・薩摩藩との交渉が難航する中、イギリスは軍艦7隻を横浜から薩摩に向かわせ、軍事的圧力で要求をのませようとします。
そして7月・・・薩英戦争火ぶたが切られました。
イギリス艦隊のアームストロング砲が炸裂し、鹿児島城下は火の海となり、街の半分が焦土と化します。
薩摩藩側の中心となったのは、攘夷派の武士たちでした。
この時大久保は、圧倒的なイギリスの軍事力に、攘夷論に限界を感じるようになりました。

9月28日、横浜のイギリス公使館で講和交渉が行われました。
薩摩側は賠償金の受け入れを決めました。
しかし、大きな問題が・・・薩摩藩には賠償に充てる資金がなかったのです。
そこで大久保は??
江戸へと向かいます。
幕府の担当者に・・・
「英吉利の要求通り、賠償金は支払います。
 ただしそのお金は、幕府が用立てていただきたい。」
と、幕府に圧しつけたのです。
幕府はこれに激怒し、拒否!!
すると大久保は幕府を脅します。
「薩摩藩は賠償金を支払えません。
 幕府が支払わないと、また戦争になりますが、それでもいいのですか?」
この大久保の一言で、幕府は賠償金を肩代わりすることになったのです。

大久保は、1863年には久光の秘書役・御側約に就任します。
そんな大久保の悲願は、前藩主・斉彬の挙国一致体制を確立し、新しい政治の枠組みの中に薩摩藩を組み入れることでした。
しかし、これに大きく反発したのが幕府でした。
朝廷の力を背景に、久光の幕政改革案を飲まされた幕府は、薩摩藩を恨んでいました。

そんな中、1864年1月、久光の提案で京都に新しい政治の決定機関・参預会議ができました。
参預と呼ばれる評議員を幕府と諸藩の有力者から選出し、朝廷がそれを任命・・・。
朝廷から参預に任ぜられた人物が重要な政策を協議するというものでした。
参預として参加したのは、徳川慶喜・松平容保・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂・・・諸藩からは、藩主や経験者が選ばれ、久光は本来ならば藩主でないので参加できないものの朝廷から「左近衛権少将」の官位を授かり参預として参加しました。
この6人で、日本の重要問題が協議されることとなりました。

ところが・・・会議は、開港していた横浜港を巡っていきなり紛糾・・・
久光は開港を続けるべき・・・他のメンバーも同意しましたが・・・慶喜が反対し、鎖港を訴えたのです。
幕府中心の政治を展開したい慶喜は、薩摩藩が力を持ちすぎることを警戒していました。
どうしても、自分が主導権を握りたかったのです。
そう・・・参預会議は、幕府と薩摩の権力闘争の場となってしまったのです。

慶喜は、攘夷論者の孝明天皇の支持を得ていました。
攘夷思想の孝明天皇に、横浜鎖港を主張し、取り入ったのです。
幕府主導の公武合体を画策したのでした。
大久保の悲願だった参預会議が行き詰ってしまいました。
行き詰ったのを心配した朝廷が設けた酒席で、酔った慶喜が大暴れ!!
久光らを指さし、罵倒したのです。
最早慶喜との話し合いは不可能と・・・幕府を見限って参預辞職を申し出た久光。
こうして新しい政治体制は短期間で瓦解・・・。
薩摩藩が朝廷や幕府と共に政治に参加する道が閉ざされてしまいました。
挙国一致体制が不可能と知った大久保・・・考えを一変させます。

「幕府を倒す!!」討幕へと舵を切ったのです。
奇しくも、久光が参預を辞職したのと同じころ・・・島流しを許された西郷が・・・!!
こうして大久保と西郷は討幕へと突き進むこととなるのです。

王政復古を断行し、新政府を樹立、廃藩置県、版籍奉還などの近代国家への大改革を成し遂げていきます。
大義の為ならば命がけで・・・!!
しかし、二人はやがて決別・・・西郷は西南戦争の首謀者として自決!!
大久保は大改革の反発を一身に受けて・・・
1878年5月14日、道半ばで暗殺されてしまいました。
49歳の若さでした。


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明治4年(1871年)7月14日、日本史上屈指の大改革が断行されました。
およそ、270年にわたり地方の領主だった藩が姿を消し、中央政府が治める県が置かれました。
廃藩置県です。
これにより、日本の政府権力は中央政府に一極集中することになりました。
この廃藩置県は、藩主への事前通達はなく、僅か6日の間に実行された電撃作戦でした。
実行の最後の決断をしたのが、維新三傑のひとり・大久保利通でした。
しかし、大久保は廃藩置県をするかどうか、最後まで悩み続けていました。
出来たばかりの明治政府は、経済力、軍事力ともに決定的に不足し、成功させる実力がなかったのです。
無理矢理断行すれば、諸藩は反発・・・日本は再び血みどろの内戦状態になるかもしれない・・・
躊躇すれば・・・海外からの脅威に立ち向かえないかも・・・??
どちらをとってもいばらの道でした。

薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰戦争・・・。
およそ1年半の激戦の末、新政府軍が勝利を治めました。
幕府に代わって新しい国づくりを担うこととなった新政府軍の中心となったのが薩摩藩だった大久保利通でした。
その真っ先の課題は・・・中央政権でした。
アジアでの西洋列強の植民地化から日本を守るために、天皇のもと、国を一つにまとめる必要があったのです。
しかし、大久保の前には大きな壁が。。。全国に270あまりある藩でした。
それぞれの藩は、財力や兵力をそれぞれ保有し、それらはすべて藩主のものでした。
中央集権を推し進めるためには、財力や兵力を新政府に集めなければなりませんでした。
長州藩出身の木戸孝允と共に出した案は・・・
版籍奉還(版・・・土地、籍・・・人民)・・・まずは、土地と人民を天皇に返上させようと考えました。
しかし、版籍奉還は、藩主にとっては、既得権を喪失すること・・・諸藩が素直に応じる保証はない・・・。
大久保出身の薩摩藩の反応次第では、血みどろの戦いになるかもしれない・・・。

薩摩藩は、集成館事業を行っていました。
当時の日本の最先端の軍事工場で、大量の木炭を燃料に、大砲づくりを行っていました。
西洋式の産業技術を研究し、大砲や火薬の製造、軍艦の整備なども行っていました。
その結果、薩摩は明治に入っても、強大な軍事力を持っていたのです。
もし明治政府の強引な政策に薩摩が反発すれば・・・またもや戦乱に??
たくさん残る氏族の不平が反乱の元になる事を新政府は恐れていたのです。
薩摩をはじめとする諸藩を刺激せずに穏便に改革を進めるためにはどうすれば・・・??
土地と人民を返上させ、再交付をにおわせることにします。
さらに土地と人民の返上を迫られる藩主には、魅力的な役職を・・・知藩事です。
天皇が任命する地方長官のことで、地方を支配する権限はこれまでと変わらない上に、天皇のお墨付きが就くので、大きな名誉なことでした。
大久保たちの狙いは見事に当たり、版籍奉還に魅力を感じた藩主たちはこれに応じるのでした。
その結果、大きな反発もなく、土地と人民は天皇が所有するものに。。。
大久保たちは、少しずつ江戸時代からの地方のあり方を変更し、中央集権の第一歩に成功したのでした。

政府の発言力を強め、影響を全国に及ぼすためには、強力な後ろ盾が必要・・・!!
大久保は、薩摩藩の力に目をつけます。
カリスマ的な西郷隆盛、藩に絶大な影響力を持つ島津久光。。。
二人を新政府に参画させようと試みました。

1870年1月、大久保は、自ら説得のために鹿児島へ・・・
逆風は覚悟していたものの、新政府への風当たりは予想以上のものだったのです。
久光の説得は難航・・・政府の中央集権に協力すれば、県独自の力が失われてしまう・・・。
久光は、大久保の意見に全く耳を貸しませんでした。
親友・西郷隆盛に至っては、大久保たち新政府を痛烈に批判!!
西郷は、政府の腐敗ぶりに不信感を抱いていたのです。
高額な月収を取り、かつての大名屋敷に我が物顔で住んでいるが、何の成果も揚げていない・・・これでは、泥棒と同じである・・・と。。。

地方のやり方を重視する側からみると、政府のやり方は間違っているのではないのか・・・??
天候不順の上に、政府は財源確保のために、容赦のない取り立てを行っていました。
ふるさと薩摩の痛烈な拒絶・・・
そこで、強制的に藩制を制定。。。
財政のうち・・・10%=知藩事の給料
         18%=軍事費(うち9%は政府に上納)
         72%=藩の運営経費
政府の統制を強化しようとしたのです。

ところが・・・激しく拒絶したのは薩摩藩でした。
薩摩の代表は、鹿児島へ帰ってしまいます。
更に大事件が・・・薩摩藩士の横山安武が、政府の批判を書状に認めて自害!!
これが世間を騒がせ、さらに政府への風当たりがきつくなります。
そして、国外にも衝撃を与えます。

大久保は、再度薩摩藩を説得しようと試みます。
1870年12月、再び鹿児島を訪れます。
さらに関係は悪化していました。
ところが・・・薩摩藩は意外な・・・政府への協力を約束したのです。
西郷隆盛の新政府への参画、3000人の薩摩藩士族たちが御親兵として供出されることが決まりました。
どうして薩摩藩は態度を変えたのでしょうか??
御親兵・・・御親兵の生活費は、政府が保証することで、薩摩藩の財政負担が軽くなったのです。
戊辰戦争から帰ってきた士族たちは、やることもなくくすぶっていました。
彼らに新しい役割を与えると・・・沈静化もされる・・・一石二鳥のことでした。
大久保は、政府と薩摩藩双方に、メリットのある方法を見つけ出したのです。
薩摩藩の協力を得た新政府は、中央集権化に向けて大きな力を得ることに成功したのです。

強力な後ろ盾を得たにもかかわらず、なかなか先に進めません。
中央集権に向けての改革と関係のないところで、大久保と木戸が激しく対立。
大久保は、政府の組織改革を提案・・・しかし、木戸は大久保の案を激しく批判していたのです。
その上、政府の人事案においても二人は対立!!
度重なる対立に、大久保は爆発寸前・・・!!

「動かすべきを動かさずして、動かすべからざるを御動かし、ムチャクチャの御裁断
 なにぶん今日の姿にては、奮発する気も全く失せ果て申し候」

両者の対立はひと月ほど続き、政府は分裂の危機を迎えていました。
その結果、中央集権に向けた改革は置き去りにされてしまいました。

そのことで、大久保が追いつめられる悪循環が発生します。
軍事運営の現場に近い中級官僚による突き上げが始まったのです。
彼らは、政府内の混迷で中央集権が棚上げされることで、軍事・経済の改革が止まることに危機感を強めていました。
今すぐに廃藩置県を断行しなければ・・・!!
そうすれば、廃藩置県を行えば、中央集権が一気に進む??
もし、廃藩置県が断行されれば、藩は無くなりその兵力と財源は国のものとなる・・・これを天皇の命令の元に一気に・・・!!
木戸孝允、井上馨がこれに共鳴!!
そして、まさかの西郷隆盛までもが廃藩断行に同意したのです。
中央集権が足踏みのまま、現状でいる事には西郷も限界を感じていたのです。

「私情においては忍びがたいが、廃藩は天下の世運であり、この流れは最早、人の力では止めることができない」

木戸と西郷、廃藩断行に同意し、残るは大久保のみ・・・
西郷は意見を求めますが・・・ゆっくりと慎重に進めるべきだと考えて来た大久保にとっては、青天の霹靂でした。
どうする・・・??

中央集権が進まぬ今、無策でいては、国の存続すら危うくなってしまう・・・!!
大久保はついに決断します。
「篤と熟考 
 今日のままにして瓦解せんよりは、寧ろ大英断に出て瓦解いたしたらん」
大久保は廃藩置県断行に同意する決意を固めたのです。
7月9日・・・早速断行に向けた密議が・・・出席者は、大久保をはじめとする薩長出身の一部の官僚たちでした。
この計画は、明治維新に貢献のあった諸藩や岩倉具視にさえ知らされることはありませんでした。
実行に当たっての懸案事項は・・・諸藩からの反発!!
井上馨は・・・
「多少の動揺はあると覚悟せねばならぬ
 その時は、兵を用いる必要が生じるかもしれない
 その覚悟はよろしいか」
西郷は・・・
「兵は、我々が引き受ける」
場合によっては血が流れても仕方がない・・・軍事力の行使もやむ負えない・・・。
大久保も不退転の決意で大改革に臨むことになりました。

1871年7月14日、諸藩の知藩事に対し、廃藩置県の勅令が下ります。
天皇の命令という強制力を伴った通達でした。
その結果、全国に260余りあった藩はすべて廃止・・・。
県が置かれることになりました。
密議からわずか6日・・・疾風迅雷のごとくの電撃作戦でした。
急転直下の改革劇に諸藩は・・・??

大久保たちの心配をよそに・・・反発は起きませんでした。
どうして廃藩置県を素直に受け入れたのでしょうか??
廃藩を積極的に受け入れた藩もあったのです。
七戸藩は・・・東京からはるか遠方にあり、不毛の土地がおおく、年貢もあまり集まらない・・・。
このうえは七戸藩を排し、他藩の管轄下に入れて欲しかった。。。
廃藩置県になると、借金は国が肩代わりしてくれました。
抵抗があったものの・・・名より実をとった藩が多かったのです。
廃藩置県を受け入れると・・・知藩事は収入が保障され、安定した生活が得られます。
華族の称号が与えられる・・・武士から見たら、憧れの公家と同じ称号がもらえる。。。
反対する理由はありませんでした。
渡りに船だった可能性も・・・??
多くの知藩事たちが、廃藩置県を厳粛に受け止めるように藩士たちに説いています。

私情を捨て、日本という国に報いる・・・
明治の人は流血を避け、中央集権を成し遂げる重要性を一人ひとり深く理解していたのです。
大久保は、この時の心境について何も残していません。
この反応をどのように受け止めたのでしょうか??
明治政府は悲願だった中央集権の実現に成功し、これを足掛かりに地租改正、徴兵令と、改革が進み、日本の近代化が一気に幕をあけます。



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今からおよそ150年前、日本に新しい時代をもたらした明治維新・・・その中心となったが、薩摩藩です。
下級藩士・西郷隆盛や大久保利通が牽引したといわれることが多いのですが・・・
藩主の座にはつかなかったものの、島津久光の影響が強くあります。

1862年・・・桜田門外の変から2年、尊王攘夷が声高に叫ばれていた時代、久光は毛槍を高々に掲げ、1000人もの武装した兵を率いて京へ乗り込みます。
前代未聞の卒兵上京でした。
当時、大名がくることさえ異例だった京都・・・無位無官の久光が京に行ったことは、歴史を変える大きな出来事でした。
従来、この上京は、久光の暴挙だとされてきました。
しかし、その実情は・・・??
朝廷、幕府、有力諸藩も加わった、挙国一致の政治体制を樹立。。。
その周到な計画の一端だったのです。
薩摩の地で、欧米列強の圧力にいち早く直面した久光・・・。
日本の危機を乗り越えるための賭けに出ました。

アメリカ商船モリソン号・・・ペリー来航の16年前の1837年、モリソン号が鹿児島に来航。
日本人漂流民の引き換えと共に、開国を求めてきました。
薩摩藩は、幕府の鎖国の方針に従って、砲撃!!
薩摩藩主の5男に生まれた久光は、この事件を20代前半で体験しています。
城下の喉元に、外国船の侵入を許したことに大きな衝撃を受けたことは、想像に難くありません。
海外の情報を貪欲に集め始めた久光・・・ほどなくして・・・
隣国・清でのアヘン戦争の知らせ・・・イギリスが清国を完膚なきまでに叩きのめしたというのです。
この戦争について久光は細かく記しています。
これ以降、越境の進出は加速していきます。
イギリス船、フランス戦が琉球に来航し、繰り返し開国を要求します。
この時期久光は、軍役方名代に抜擢され、海岸防備を任されます。
越境からどのようにして国を守るべきか・・・!!
それを示したのは、兄・斉彬でした。
斉彬は反射炉を建設、いち早く国産大砲の鋳造に乗り出していました。
その姿勢は、幕藩体制にも向いていました。オールジャパンの国防体制を・・・!!

行きついたのは、古い幕政の改革でした。
それまで幕府は内政や外交を、一部の譜代大名で行っていました。
つまり、譜代専制です。
斉彬は、カヤの外に置かれていた、外様や親藩も政治に参加することを求めました。
外国に対して、挙国一致体制を目指したのです。

実現に向けて・・・そんなさなか、1853年、黒船来航!!
幕府が大名達に意見を聞くと・・・多くの大名は、打ち払いを!!
そんな中、斉彬の意見は異彩を放っていました。
「打ち払いでは勝利は覚束ない。
 三年ほど返答を引き延ばし、軍備を整えたうえで打ち払うべきである。」
1854年、日米和親条約締結!!

食料や燃料の供給は認めるものの、通商は拒否する・・・
幕閣は斉彬の言うように、無謀な攘夷は避け、開国を先延ばしにしたのです。
ところが1858年・・・アメリカ総領事ハリスの執拗な要求に、日米修好通商条約を締結!!
時の孝明天皇は、条約承認を拒み、諸大名の意見聴取を求めていました。
これに対し、大老・井伊直弼は、独断で調印!!
さらに、井伊は、自らの方針に反するものは弾圧!!朝廷や雄藩の影響を排除した従来通りの譜代専制の幕政に戻したのです。
安政の大獄の嵐が吹き荒れるそのさなか・・・1858年7月、島津斉彬急死。
次の藩主は、久光の子・茂久に決まり、久光は後見役として藩政を支える立場となりました。

名君の死で抑えの利かなくなった薩摩藩は大混乱!!
井伊の強権政治に反対する若手下級藩士による脱藩突出計画!!
しかし、実際は、井伊の命を狙うテロ計画でした。
この危機に久光は対応を迫られます。
暴発寸前の藩士に対し、久光は茂久の名で・・・
「斉彬さまのご意志を貫き、国家を護り、朝廷への忠勤に励む。
 力を貸してほしい・・・」
ここには、機械が来たら、久光が中央政局に乗り出す。それまで待て!!
その時に、活躍の場を与える。。。という意味がありました。

感激した下級藩士は、誠忠組と名乗り、幕政改革を目指すこととなります。
辛くも暴発を抑え込んだ久光・・・
1860年3月、江戸で桜田門外の変が・・・井伊直弼の暗殺です。
井伊の首を取ったのは有村治左衛門・・・あろうことか、薩摩藩の脱藩浪士でした。
幕府の強権政治に対する反発は全国に広がり、薩摩藩にも飛び火する危険性が・・・。
一刻も早く、幕政改革に乗り出さなければ・・・!!
久光は、抜き差しならない状況に陥っていました。

江戸城の目と鼻の先で大老が暗殺されたことで、幕府の威信は地に落ちました。
幕府が選んだ道は、朝廷にすがることでした。
1860年孝明天皇の妹・和宮降嫁を要請。
公武合体による朝廷の権威をもって、譜代専制体制の延命を図ったのです。
一方、桜田門外の変は、薩摩の誠忠組にも動揺をもたらします。
脱藩突出計画が再燃・・・
幕府の反動政策と、薩摩の下級藩士の暴発・・・久光は事態の打開に動く・・・??

白羽の矢が立ったのは、開明派の水戸徳川家・一橋慶喜と、松平春嶽です。
雄藩連合に賛同する二人を担ぎ出すことで、幕政の改革をはかったのです。
しかし、藩主でもなく、無位無官の久光に何ができる・・・??
どうして幕府人事に介入できるのか・・・??

卒兵上京して幕府に改革を迫る・・・??
当時、幕府は禁令によって大名の入京を大きく制限していました。
そこで久光が考えたのが、島津家を所縁の深い、公家の近衛家から入京を要請してもらうことでした。
京に派遣されたのは、久光の腹心・大久保一蔵(大久保利通)!!
近衛忠房に打診しました。

「天皇のお考えを幕政に反映させるためには、十分な京都守衛の兵力が必要。
 我が藩が入京し、その任に当たる。」

しかし、久光にもたらされた返事はつれないものでした。
さらに足元に不安要素が・・・西郷隆盛の動向です。
西郷の久光に対する発言・・・
「恐れながら久光公は田舎者にございます。
 薩摩から一歩も外に出たことのない久光が入京したところで、誰も相手にはしてくれない・・・
 政治を変えることなどできない・・・」
というのです。

もう一つの道は・・・
薩摩同様、中央政局への関与を図っていた長州藩との提携です。
孝明天皇の和宮降嫁の条件は・・・通商条約を破棄し、鎖国に戻すことです。
しかし、一旦締結したものは破棄できない・・・。

この時、幕府に長州藩が持ち掛けたのが「航海遠略策」でした。
こちらから航海に乗り出して、交易を行えば、異国は恐れて朝貢してくるであろう・・・
積極的に海外進出し、異国を従わせるというロジックは、孝明天皇にも受け入れられ、朝廷と幕府の関係を好転させると期待されていました。

卒兵上京か??長州との連携か・・・??

1862年3月16日、1000人もの大軍が、薩摩を出発しました。
久光は、卒兵上京を選択したのです。
この時点で、京に入れる保証はどこにもありません。
しかし、久光は、懸命に打開策を探っていました。
藩士を京に先行させ、公家への工作を盛んに行っていたのです。
反応したのは・・・孝明天皇の側近・岩倉具視。
”諸藩が幕府を恐れ従っている中、薩摩と長州の両藩が、国家のため力を尽くしてくれることは、天の助けである”
岩倉は、””朝廷の命令を聞く幕府・・・幕府は一執行機関”に追い込んで、ゆくゆく政権そのものを奪ってしまおうと思っていました。
決め手は、久光の圧倒的な武力!!
薩摩兵は、100挺の小銃と、4門の野戦砲を携えていました。
奇しくも、京には攘夷派の志士が集結・・・
久光の上京に乗じ、京都所司代襲撃、武力討幕を計画していました。
久光と岩倉は、その鎮圧を、入京の理由にしようと思っていたのです。

薩摩を発って1か月後・・・1862年4月17日・・・薩摩兵入京。
その前日、孝明天皇から密かに下された勅命には・・・
”京に滞在すべし・・・”久光は、京都滞在の明文を得ました。
卒兵上京から1週間・・・4月23日に、久光の元へ恐るべき知らせが・・・。
伏見の寺田屋に、薩摩の誠忠組の一部が集結!!
京都所司代襲撃に向けて動き出したというのです。
久光の決断は・・・??

寺田屋事件・・・武力による鎮圧でした。
同じ薩摩の藩士を粛正したのです。
非情な決断でした。
襲撃を未然に防いだことで、孝明天皇の絶大な信頼を得る久光。
幕政改革案への朝廷の同意を獲得することに成功したのです。

1862年5月・・・久光は、勅使に同行して江戸へ出府!!
朝廷の命令と、薩摩の武力を背景にした威圧に、慶喜と春嶽の登用を飲むほかありませんでした。
無位無官の久光が、朝廷、幕府を動かしたのです。
卒兵上京の賭けは成功しました。

2年後の1864年1月・・・京都二条城で、新しい政治体制が始まりました。
久光が創設に尽力した参与会議です。
一橋慶喜を筆頭に、有力諸侯が朝廷の会議に参加し、その意向を幕政に反映させるという久光の目指す挙国一致体制そのものでした。
しかし、その前途は思わぬ形で阻まれることに・・・
火種となったのは、横浜鎖港問題です。
当時の日本は、通商条約の締結によって、箱館、長崎、横浜の三港を外国に開いていました。
そのうち横浜の開港を取りやめることで、攘夷にこだわる天皇を懐柔しようとしたのです。
久光ら諸侯の意見は、鎖港反対で一致していました。
しかし、その前に立ちはだかったのが・・・一橋慶喜でした。
対立のきっかけとなったのが・・・孝明天皇から、将軍家茂に宛てた宸翰です。

”無謀な攘夷は、朕の好むところにあらず”

あくまでも攘夷にこだわっていた天皇とは思えない内容でした。
訝しんだ慶喜が、密偵を使って調査させた結果、驚くべき結果が・・・
勅書の作成に、久光が深くかかわっていたことがわかったのです。

久光が作成した草案は・・・一字一句同じ!!
この頃の、天皇の意向は、久光の思惑を色濃く反映していました。
慶喜にとって、見過ごすことのできない事態だったのです。
久光が朝廷に近づきすぎた・・・

慶喜の頑強な抵抗の前に、久光は辞表を提出。
参与会議は僅か2か月で解体に追い込まれました。
雄藩の政治参加の青写真を描き、舞台を整えた久光の夢は潰えたのです。

失意のうちに薩摩に帰国した久光・・・
しかし、国政参加への想いが衰えることはありませんでした。
1865年、ヨーロッパへ留学生を派遣。
その一人が五代友厚です。
五代は、ベルギー商社契約を結んでいます。
ベルギー政府と薩摩藩が、薩摩領内の鉱山開発や貿易について取り決めたものです。
久光の新しい国家構想が・・・
もう、幕府そのものはなくしてしまう。。。
忠、武力の発動ではなく、外交権を奪うことで、幕府を事実上失くしてしまう。。。
朝廷のもとで、緩やかな連邦国家を作る・・・
これが、久光の日本国の在り方の青写真だったのです。
しかし、時代のスピードは、久光の予想をはるかに超えていました。

1866年、徳川慶喜が第15代将軍に・・・!!
徳川家への権力維持を図る慶喜に対し、西郷たち薩摩藩京都藩邸は、かつてのライバル・長州との提携を進めます。
天皇中心の新政権樹立に動き出していました。
そして・・・討幕の密勅が・・・!!

「賊臣慶喜を殄戮せよ!!」

それは、緩やかな改革を目指した久光の考えとはかけ離れたものでした。
裏で動いていたのは、かつて卒兵上京に尽力した岩倉具視と大久保利通でした。

1868年1月、戊辰戦争勃発!!
薩長両藩をはじめとする新政府軍は、1年以上の戦いの末、旧幕府軍に勝利!!
その結果、明治新政府は、天皇の元での中央集権体制へ向けて加速していくのです。

1871年突然の廃藩置県!!
久光の薩摩における政治基盤は、根こそぎ奪われました。
その日、久光は屋敷で花火をあげ、うっぷんを晴らしたといわれています。
政治の表舞台から退いた久光が、力を注いだのが歴史資料の収集です。
麗明館に残る玉里島津家資料は、1万2000点に及びます。
久光の命により集められたものです。
自らの手で開いた歴史の扉・・・しかし、その先に待っていたのは、思い描いていた時代ではありませんでした。



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今回のTHEナンバー2は、”逃げの小五郎”です。

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1833年6月26日、山口県萩市に生を受けます。
それは、大久保利通、西郷隆盛と並ぶ、明治維新の三傑の一人、桂小五郎(木戸孝允)です。
要衝の頃からずば抜けて聡明だった小五郎は、幕末には稀な、先見の明を持った人物でした。

西郷、大久保、坂本龍馬・・・明治維新に関わったほとんどの人が下級武士です。

一方、小五郎は、上級武士のエリートで、幕藩体制を守る立場にありました。
しかし、廃藩置県・版籍奉還・五箇条の御誓文・・・

武士の世を終わらせる政策を打ち出します。

この改革こそが、短期間で日本を近代化させる原動力となりました。

小五郎は、松陰に宛てた手紙に書いています。
「人の功を取って
  我が拙を捨て
 人の長を取って
  我が短を補う」    By桂小五郎。。。

吉田松陰の一番弟子と言われる小五郎。
吉田松陰が、長州藩の藩校・明倫館の時に、もう教えています。

久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文・・・松下村塾の塾生とは違うのです。

小五郎は、武士ではなく、医者の和田家に生まれます。
8歳の頃、200石の上級武士の桂家に養子に出されました。

武士になったことで、明倫館に通えるようになった小五郎、この明倫館で、自らのNo,1と出会います。
そこで兵学を教えていたのが吉田松陰でした。

剣の修業にも熱心に行った小五郎、20歳になると、藩で1,2を争うようになり江戸に剣術修行に。。。


江戸で小五郎が出会ったのが、神道無念流。
さらに、剣の腕を上げます。
しかし、最も感銘を受けたのが、神道無念流の思想でした。

「武」という漢字には、「戈(ほこ)」を「止」めるという意味が隠されている。本当に強い力は、相手を倒すのではなく、争いを止めることにある。という考え方をするようになります。
この慎重なところが、逃げの小五郎に繋がっていくのです。

江戸にいたことが、小五郎の運命を変えることになります。

1853年ペリー来航。
鎖国にこだわる日本が、時代遅れになっていることに気づきます。

この時代、日本の限界を感じている人が2人いました。一人は坂本龍馬、そしてもう一人は小五郎の師・吉田松陰。吉田松陰は、藩を代表する学者でしたが、ペリーを見に行き・・・

「どうしても欧米を見たい!!」

と、黒船に密航し失敗、投獄の憂き目にあいます。

一方、小五郎は、神道無念流の無謀を戒める教えを守ります。日本にいながら西洋を学ぼうとしました。

吉田松陰は獄中から、小五郎を登用するように長州藩に手紙を書きます。それがきっかけで、外交の重要ポストに就きました。
剣の道から、政治の道へと方向転換です。


吉田松陰は・・・
「俺は死んでもいいから、誰かがやらねばならぬ」
と、失敗を考えない人でした。そんな人間は臆病になる。。。と。

「かくすれば かくなるものと しりながら
                己むに己まれぬ大和魂」   By吉田松陰

この言葉が、松陰の人となりを良く表現しています。

そんな松陰は、長州に対して、小五郎の冷静で沈着な部分を推薦したのです。

藩の外交官となり、藩主・毛利敬親のNo,2を目指すことになります。

討幕を目論む長州藩の外交官・桂小五郎は、幕府にとってはとっても危険な人物です。

まず、「桂を斬る」と言ったのは、新選組でした。

その発端は、8月18日の政変。
長州では、討幕の機運が高まります。

新選組は、京都を取り締まっていました。長州・・・特に、小五郎をターゲットにしていました。

1864年新選組は池田屋を襲撃、世にいう池田屋事件です。

小五郎は、襲撃に気が付くと、仲間を見捨てて命からがら逃げだしました。
池田屋事件に怒った長州は、軍を率いて京都に上ります。
対立する会津・薩摩・幕府軍と戦うも、返り討ちに遭います。これが、禁門の変です。

この時も、小五郎は藩の中心人物であったにもかかわらず、最後まで姿を見せませんでした。

剣豪は一転、「逃げの小五郎」となったのです。
逃げれば逃げるほど執拗に幕府軍に追われる小五郎。。。
そんな小五郎の逃亡生活を支えたのが、芸者(のちに夫人)の幾松でした。
当時の旅館には、隠し扉などが残っています。

小五郎は、禁門の変は無謀だと思っていました。
もちろん、先頭に立っていた「久坂玄瑞」も。。。反対していた玄瑞は、負けると解っていても参加した組なのです。

この禁門の変は、非常にまずい事態を巻き起こしました。
御所に向かって発砲してしまったので、朝敵となってしまったのです。。。
川の下でのホームレス生活。。。筵にくるまって逃げまくる小五郎の姿がありました。

逃げに逃げる小五郎の、本当の勝負がここから始まりました。


それは、薩長同盟。この同盟が、265年続いた江戸幕府に終止符を打つ原因となりました。

この同盟には不思議な問題があります。。。
朝敵となってしまった長州が、薩摩と対等に近い同盟を結ぶことが出来たということです。。。
そこには、小五郎の交渉術がありました。

立場的には弱かった長州、大変難しいが、粘り強く交渉します。
その交渉が始まったのは、1866年1月。

上に立ちたい西郷からは、同盟を言い出しません。
小五郎から言い出した場合・・・藩の面目丸つぶれ、という苦しい立場にありました。
作戦は「だまる」こと10日以上。

悠然と余裕綽々と構える西郷に対して、針のむしろ状態の小五郎。。。


そこには逃げない小五郎の姿がありました。
長州の未来を懸けた沈黙。。。その間桂が待っていたのは坂本龍馬でした。

坂本龍馬が親交のあったグラバー。武器商人だったグラバー頼りの新型の武器。。。

龍馬が前に現れた時、小五郎は帰り支度を始めます。

「誇りを捨てて薩摩に媚びるくらいなら、長州は滅びても良いのだ!!」

桂の気迫が、龍馬に西郷を説得させ、薩摩から話を持ちかけさせるようにしたのです。

対等な同盟を求める小五郎に西郷は・・・一言。。。

「ごもっともでごわす」

この薩長同盟が、江戸の終焉を迎えさせ、明治維新へと繋がります。

しかし、難しい交渉でした。
禁門の変で長州の武闘派の殆どが薩摩にやられています。
おまけに指揮をとっていたのは西郷でした。
長州には、殺された者たちの親族がたくさんいました。
だから、頭を下げることは出来ないのです。
下手に出るわけにはいきませんでした。
この薩長同盟、小五郎でなければ結ばれることはなかったでしょう。

幕末維新、松下村塾の塾生が活躍します。

そして、維新後、日本の未来を小五郎が切り開きます。

初めの仕事は、五箇条の御誓文の最終添削。
また、武士の特権を削っていきます。

版籍奉還・廃藩置県

殿さまがいなくなりました。

当時は大義は国ではなく、藩の大名に対して尽くすもの。
それを国民が、日本を考えるようにしました。
国民が国のことを考えないと、近代化は出来ません。
選挙も出来ないのです。
これは、仕えていた藩主を含め、全ての大名の地位が無くなるものです。
心理的にかなりの抵抗があったと思われますが、近代化のためには必要でした。

武士だった小五郎・・・。
どうして既得権益を否定することが出来たのでしょうか?

それは、武士とか、身分制ごとかでなく、新しい価値観で世界を見、人間を見ていたからでしょう。

小五郎の思いが掛け軸にあります。

「我が国の前途は容易なものではない
 三千万人の人民をどのようにしてゆけば良いのだろうか。」

1871年岩倉使節団の一員として各国を回ります。
帰国後文部卿に・・・。

身分に関係なく、学校に通えるようにつくします。
それは、師・吉田松陰の夢の続きだったのかもしれません。。。


何故下級武士でもないのに、そんなことが出来たのでしょうか?
長州はもともと平等な国でした。
おまけに小五郎は医者の息子、医者にとって病人は平等です。

奇兵隊は身分に関係なくの隊ですが、関ヶ原までは武士だったという人が多いのです。
関ヶ原で負けた長州の人々は、武士を捨て、農民になった人も多かったので、身分制度もはっきりしていなかったのでしょう。
現在までの総理大臣に山口県の人が多いのも、松下村塾があった影響が強いと言えます。

武士の世を終わらせた桂小五郎。
武士として死んでいったかつての仲間たちへの思いが・・・

京都にある霊山護国神社。ここには、幕末の志士たちが多く葬られています。
その一番高いところに小五郎の墓があります。

それは、自らが望んだものでした。

池田屋事件・禁門の変で亡くなった人と共に・・・。

吉田松陰の考えを実践した小五郎は、仲間たちと共に眠っています。


桂小五郎さん、幕末維新にかけてのインパクトがあんまりないのですよね。。。
それはやっぱり”逃げの小五郎”だからかしら・・・。失恋
本当に、筵にくるまれて逃げているっていうか、ホームレスしているところか・・・
あとは、幾松にかくまってもらっているぐらいしか覚えていないんですよね。。。


まだまだ勉強不足かしら?

日本で初めての身分を越えた結婚をしたのが桂小五郎・・・
本当に最初の新婚旅行は桂小五郎が幾松と城崎温泉に行ったとか・・・。黒ハート

逃げてないじゃん!!小五郎!

新選組に代表される”滅びの美学”良いですよね。。。
でも、きっとそれじゃあ、国家は築くことは出来ないのは確かでしょう。黒ハート

小五郎さんも、頑張って勉強します。黒ハート

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