日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:徳川家光

五代将軍・徳川綱吉・・・綱吉は、幕府政治の大転換を図り、武断政治から文治政治を目指したとして再評価されています。
就任早々「民は国の本なり」と宣言しています。
そこにあるのは、民への慈悲に溢れる名君の姿でした。
しかし、生類憐みの令は、民を苦しめた史上まれにみる悪法として名高いものがあります。
徳川綱吉と生類憐みの令・・・理想に燃えた将軍は、どうして暴走していったのでしょうか??

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儒学を重んじ、文治政治への大転換を目指した将軍・綱吉・・・
一体どのような人物だったのでしょうか??
1646年、綱吉は、三代将軍・徳川家光の四男に生れました。
母は側室で、庶民の出だったと言われています。
将軍となることは、全く期待されていなかった綱吉・・・
若いころからのめりこんだのが儒学でした。
”徳川実記”にはこう記されています。

”綱吉公は、儒学の経典を学ぶことに打ち込み、病の時にも書を手放すことはなかった”

学芸に秀でた一門の大名として生きる道を歩んでいた綱吉・・・
しかし、その運命は35歳の時に一変します。
1680年、四代将軍である兄・家綱が死去。
家綱には子がなく、綱吉の2人の兄も若くして亡くなっていました。
図らずも、綱吉は次期将軍の有力候補となりました。
しかし、政治の実権を握ってた老中の中には綱吉の就任に異を唱える者もいました。
綱吉の治世を記した”御当代記”によれば、大老・酒井忠清は次のように主張したとされます。

「綱吉公には、天下を納める様な気量はない」

時の最高権力者の猛反対・・・
これに対し、綱吉を強硬に推した人物が、老中・堀田正俊でした。
後に、綱吉の政治を支えることとなります。
堀田家に残る”伝徳川家綱遺言状”・・・死の床にあった家綱が、堀田に対し、今後のことを支持した文書です。

「その方が提出した書付の内容はいかにももっともである
 そのように計らうように」

堀田家では、これを次の将軍は綱吉にするという許可をいただいたと理解しています。
正俊自身は、次の将軍は血筋の通った綱吉でなくてはいけないと考えていました。
それを一番に後押しする大事な書類でした。

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1680年8月、綱吉は、第5代将軍に就任しました。
その頃、幕府政治は大きな曲がり角に差し掛かっていました。
全国的な天候不順が何年も続き、凶作から飢饉が蔓延・・・
にもかかわらず、代官たちによる過酷な年貢の取り立てが横行していました。
代官の中には、代々その土地を支配し、領民を自分の持ち物のように考える者も多く、各地で農民の騒乱を引き起こしていました。

こうした社会の在り方を見直すべく、綱吉と堀田は一大政治改革に乗り出しました。
将軍となって1か月・・・堀田の名で、7箇条からなる命令が代官たちに下されました。

”民は国の本なり
 代官は常に 民の辛苦をよく察し 飢えや寒さの憂いのないように申しつけられるべし”
 
民生の基本的な心得を、代官たちに知らしめ、違反する者はことごとく罷免し、新たな代官と後退させたのです。
儒学・・・”仁政”・・・民には慈しんで優しく父母のごとく・・・
単に儒学を知識として知っているということではなく、「実践」し、民衆統治の高らかな宣言でした。
「天保の改革」と同じようなレベルで「天和の改革」と言っていいくらいの政治的な改革がそこにはありました。

堀田正俊は、かねてから儒学への造詣が深く、領地でも仁政を志していました。
綱吉は、そんな堀田を大老に任じ、新たな政治を目指しました。
後に、天和の治と呼ばれる改革です。
2人が模範とした儒学は、孔子を始祖とし、理想の政治の在り方を追求する学問です。
為政者が徳を積み、民を慈しむことで理想の政治が実現すると説きます。
堀田は、父母への孝行に励み近隣の飢えた民を救った百姓を表彰し、年貢90石を免除しています。
”孝”を人々に奨励しました。
父・家光が建造した幕府の軍監・安宅丸・・・綱吉は、年に10万石もの維持費がかかるこの船を破却しました。
民の負担を軽くするため、老中の反対をおして決定したと言われています。
新たな政治の実現へと邁進する綱吉・・・その理想は誰よりも誠実で、真っ直ぐなものでした。

1684年8月、江戸城内で衝撃的な事件が起こります。
大老・堀田正俊、江戸城内で殺害される!!
堀田への個人的な恨みの犯行でした。
この突然の事件が、その後の綱吉の政治に大きな変化をもたらすこととなりました。
綱吉は、まず、事件現場近くにあった老中詰所を将軍の居室から遠ざけ離れた場所へと移しました。
将軍と老中とのやり取りは、新たに設けられた側用人によって中継されるようになります。
この結果、将軍と老中が直接政策について相談する機会が減少します。
将軍・綱吉の意志がより強く政治に反映するようになっていきました。
そして・・・悪法として名高いあの法令も、堀田の死後綱吉の主導で発せられました。

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1685年、江戸の町に一枚の高札が立てられました。

”将軍御成の際、犬猫が出てきても構わないので、今後はつながなくてもよい”

これまで、将軍がお出ましの際には、犬や猫はおとなしくつないでおく義務があったのを廃止。
それがたとえ将軍の列のそばに来ても、お咎めなしとしました。
さらに綱吉は、江戸の庶民に、飼っている犬や猫、馬などの毛色や特徴を提出させました。
飼い主を明確にし、それぞれに飼育の責任を持たせるためでした。
これ以後、綱吉は生き物にまつわる100を超える法令を出していきます。
これらを総称して”生類憐みの令”と言います。
どうして綱吉は、このような法の制定に向かったのでしょうか??

生類憐みの令の「生類」とは、すべての動物を包み込む概念です。
そこには、一般の動物の他に人間も含まれています。
とりわけ人間の中でも捨て子や病人、弱い立場の人たちを救済したり保護しなさいということも触れています。
生類憐みの令の中の法令には・・・
・捨て子が見つかった場合、近隣の者が死なないように養育し、やしない親が見つかったら引き取らせること
・江戸市中で、生活に困窮した物乞いらに米を支給し、飢え死にを減らすべし
・牢屋に格子戸をもうけて囚人には毎月5回行水をさせるべし
・衛生状態をよくして牢で死ぬ囚人を減らすこと
現在の福祉政策につながるような部分もあり、野蛮な時代から法治国家、法律や制度に基づいた社会へというものが綱吉の意図でした。
一方で、法の内容について綱吉と周囲の間でずれが生じることもありました。
”犬が行方不明になった場合、あちこち八頭根歩いているようだが、そこまでする必要はない”by老中
その10日後・・・
”先に老中が触れた法令には、心得違いがある
 犬が見えなくなった場合は、徹底的に探し、替え玉などで数合わせしてごまかすなど以ての外である
 なお一層、生類憐みを心がけるように”by綱吉

そして、先の法令を出した老中に、綱吉は謹慎処分を下しています。
弱者を労わり、生命を慈しむためにはじめられた生類憐みの令・・・
しかし、その前途には、早くも不安が立ち込めていました。

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生類憐みの令が暴走して行く画期は1693年にありました。
きっかけは、鷹狩りの廃止です。
飼いならした鷹を話して鳥や獣を捕らえる鷹狩り・・・軍事訓練としての側面や、獲物の贈答を通じて朝廷や大名との関係を深める役割を持ち、武家にとって重要な意味を持つ行事です。
しかし、獲物の命を奪う狩りは、生類憐みの精神に反する・・・
綱吉は、この年、その全面廃止に踏み切りました。
ところが、この決断が江戸の町に大きな混乱を引き起こすことになりました。
諸藩の大名屋敷から、鷹狩り用の猟犬や、鷹の餌として飼育されていた大量の犬が行き場を失って野良犬となり、江戸の町に溢れたのです。
増え続ける野犬と町人の間で、トラブルが続出しました。
戌が人間をかむことはもちろん、今度は人間が犬を厄介な動物として殺す・・・!!
犬を殺すことによって憂さを晴らす・・・??
江戸の町では、武士が腹いせに犬を斬り捨てる事件が続出!!
町人たちは、犬とかかわって罪に問われることを恐れ、野良犬がいてもエサを与えず、腹をすかせた犬が捨て子を襲うといった事態にまで・・・!!
生類憐みの令が引き起こした江戸の大混乱に、将軍としてどう対処すべきか・・・??

生類憐みの令の緩和??それとも、継続する・・・??

東京・中野・・・
区役所の一角に、7匹の犬のモニュメントがあります。
1695年、綱吉はこの場所に、犬小屋「御囲」を建設します。
綱吉は、生類憐みの令を継続・・・増えすぎた野犬対策として、それらを収容する施設を作らせました。
これは、並大抵の事業ではなく、最初の御囲が完成したのはその年の秋。
その後、収容する犬の増加に伴って増築に増築を重ねて最終的には5区画・・・29万坪にもなりました。
東京ドームおよそ20個分の広さです。
犬の数は、最盛期で10万匹を数えました。
エサ代は、年間98000両。
現代の貨幣価値で120億円もの莫大な経費が必要となりました。
しかし、当時の幕府にこれを支払う余裕はなく・・・
財源をどこに求めたのでしょうか??

なんと、民に背負わせたのです。
綱吉は、江戸の町に犬小屋の維持費用を納めることを命じています。
新たな税負担に、町民の不満が高まるのをよそに、生類憐みの令はさらに厳しさを増していきました。

犬を傷つけたことによって死罪となった幕臣・・・
いよいよ人々が仁愛の心を持つよう厳しく申し付けるものなり・・・!!

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町人の生活への介入も進みます。
ウナギやドジョウを扱っている商売を禁ずる
これに違反し、ウナギをアナゴだと称して販売した町人は見せしめとして牢に入れられました。
生活の隅々まで厳しく規制する綱吉に対し、人々は声をあげることもできず不満が募っていきます。
その後、生類憐みの令は、改められることもなく、20年以上に渡って人々の生活を縛ることになりました。

1709年1月10日、徳川綱吉死去・・・享年64歳。
その10日後、幕閣は、生類憐みの令に関して今後の方針を発表します。
中野の御囲は廃止、町々に命じられた費用負担も撤回が決まります。
あわただしく法改正を行った後、綱吉の亡骸は徳川家の菩提寺・寛永寺に葬られました。
その死後、犬公方と揶揄され、批判の的とされた綱吉・・・
しかし、彼が始めた捨て子や病人の保護に関する法令は形を変え、その後も継続されていったのです。

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骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと

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1615年5月、大坂城落城。関ケ原の戦いから15年、徳川家康は大坂の陣で豊臣家を滅ぼし、徳川の天下を確かなものにしました。
そして12か月後、75歳で生涯を終えます。
しかし、それはただの12カ月ではありませんでした。
家康の終活・・・それは武力で勝ち取った徳川の天下を戦のない時代に永続させる仕組みづくりでした。
しかし、死を間近にした家康を、最後まで悩ませることがありました。
それは、徳川一門を揺るがしかねないある人物の存在でした。
徳川260年の天下を確かなものにした家康最後の選択とは・・・??



1615年5月8日、大坂夏の陣。
燃え盛る大坂城で豊友秀頼が自刃したことを知った家康は、直ちに京都に向かいました。
夜遅く二条城に入った家康は、すぐさま戦後処理をはじめます。
徳川実記によれば、京都入り2日後の5月10日には諸大名を引見。
真田信繁を討ち取った孫・松平忠直らを褒めたといいます。
大坂夏の陣での諸大名への論功行賞です。
6日後の5月16日には、公家衆、仏教各宗派と僧侶と会見。
6月2日、豊臣家から没収した金銀が届くと、すぐに御所に参内し献上しています。
都に凱旋した天下人・家康。
多忙を極める日々の中、着々と新たな時代を進めていました。
それが法度の作成です。

1614年4月、駿府城・・・
禅僧の金地院崇伝に武家、公家、諸門跡の膨大な資料を集めさせていました。
大坂の陣の2か月は、それらの資料を基にした法案を吟味する時期でした。
崇伝は、法案を家康に文面にして見せるのではなく読み聞かせていました。
崇伝の説明を受け、家康が疑問を投げかける・・・
禅問答のようなやり取りを何度も行っていました。
そして、大坂夏の陣からおよそ3か月、将軍・秀忠の名で次々と新たな法令が矢継ぎ早に発布されていきます。

1615年閏6月13日、一国一城令
大名は領国に城を一つしか持ってはならないとされました。
この法令は、西国の外様大名の軍事力を大幅に削減することを狙ったものとされています。
豊前・小倉の細川忠興の場合、領国内の城の破却に直ちに取り掛かったことを、家康の側近に伝える用伏見城の息子に伝えています。
細川が破却し田代の数は7つ。
門司城などことごとく破却し、小倉城と中津城のみを残すこととなりました。
わずか数日で、400以上の城を破却。

7月7日、大名を統制する13箇条の法令「武家諸法度」が申し渡されました。
”文武弓馬の道 専ら相嗜むべき事”で始まるこの条文、第6条では城を修復する際は、幕府に届け出をすること、新たな城を築くことは禁止とされています。
これは、大名たちの武力を徹底的に削減するとともに、法令を守らない大名を処罰することで幕府の権威を高める仕組みになっていました。
この家康の狙いにまんまとはまってしまった大名がいました。
安芸広島藩藩主・福島正則です。
福島は、洪水で破損してしまった石垣を修理しただけでしたが、届け出がなかったため、許可なく城の改築をしたとして改易、おとり潰しとなってしまいました。
家康の死から3年後のことでした。
武家諸法度の発布後、家光までの間に改易された大名・・・外様51家、親藩・譜代34家。
徳川幕府は法の権威を高めることで、支配を確立したのでした。
さらに7月17日、朝廷と幕府の連絡役の公家が呼ばれ、17条に及ぶ朝廷を統制する法令「禁中並公家諸法度」が申し渡されました。
1条から12条までが皇室と公家が守るべき規定、”1条の天子が治めるべきものは第一に学問である”・・・これは、天皇の政治関与を禁じた規定として知られています。
また、7条の武家の官職は公家の官職とは別のものとするという規定・・・これは、武家の序列の証である朝廷の官職を将軍が自由に任免できることを意味していました。
元禄時代に書かれた”日本海山潮陸図”。
石高と領主の官職が記されていますが、本来一人のはずの出羽守が各地に9人もいます。
ここに、朝廷官位を利用した巧みな武家の統制術がありました。
諸大名の序列は石高ではなく、官位でした。
石高が高くても、官位が低いと下座に置かれました。
だからどうあっても高い官位が欲しい!!
武家諸法度で厳しく行動を規制するのがムチなら、官職はアメ。
その利用価値を家康は見抜いていました。
7月24日には、仏教の各宗派ごとに法令「諸宗寺院法度」が発布されます。
各派ごとに本寺末寺と言う制度を設け、本山である寺が末寺を統制する仕組みを作り上げ、その本山を幕府が管理する・・・
家康は、戦国時代に大名をも脅かした宗教勢力を徹底的に封じ込めようとしたのです。
こうして、大名、朝廷、宗教を統制するルールを作り終えた家康は、8月4日、京都を発ち、23日に駿府に帰りつきます。
そして、この地で大好きな鷹狩りを楽しむこととなります。



京都での法令づくりを終えてから2か月を経た10月、家康は江戸城にいました。
徳川実記によれば、この時家康は関東各地を巡り狩りを楽しんでいるように思われます。
しかし、その目的は違うところにありました。
9月、駿府滞在中、江戸から訪ねてきたある女性によって徳川家の将来にかかわる重大な報告を受けていたのです。
その女性とは、将軍・秀忠の長男で跡継ぎである竹千代の乳母・春日局でした。
春日局は、秀忠と正室の江が、病弱な竹千代を跡継ぎの座から外し、快活で両親の寵愛を受けている弟の国松に変えようとしていると訴えたのです。
春日局の報告を受けた家康は、すぐさま江戸に赴きます。

江戸城で竹千代と国松に面会した家康は、ある行動で竹千代が次期将軍であると秀忠と江に示します。
竹千代と国松を呼び寄せた家康は、身近に竹千代を呼び座らせます。
国松が並ぼうとすると、それはダメだと下がるように支持。
あくまで年長の竹千代が将軍跡継ぎで、国松は将軍を支える立場であることをわからせようとしたのです。
長幼の序という秩序を乱す危険性・・・
能力主義で兄弟の優秀なものを選ぶのは一つの考えです。
しかし、能力主義がもとで権力闘争、内紛から政治体制が自壊することを危惧していました。

1616年元旦・・・江戸城黒書院。
秀忠は将軍への最初の挨拶をまず竹千代に行わせました。
家康の意を察した秀忠は、家臣たちの前で跡継ぎは竹千代であることを示したのです。
将軍後継者と徳川一門をめぐる新たなルール作りに心を砕いていた家康・・・
実は、頭を悩ませる問題がもう一つありました。

9月、京都での法令発布を終え、駿府で休息をしていたとされる家康。
しかし、徳川実記には大事件があったと書かれています。
この日、家康は息子・上総之介忠輝を勘当していたのです。
松平忠輝は、家康の六男です。
将軍秀忠と13歳違いの23歳。
存命している家康の息子のうち2番目の年長者で、越後高田75万石を領する大大名でした。
当時、徳川一門では、2代将軍秀忠に次ぐ存在でした。
どうして勘当??
原因は、大坂夏の陣での出来事でした。
忠輝は、大坂に向かう自分の軍を抜こうとした将軍・秀忠の家臣2人を討ち取り、報告もしていなかったのです。
さらには、肝心の夏の陣では戦場に到着が遅れ、陣の最後尾で高みの見物をしていたと、様々な記録に残されています。
将軍を蔑ろにし、戦では何の成果もあげない・・・
報告を受けた家康は激怒、それが、感動という処分につながったのです。
しかし、当時、行軍中の追い抜きは無礼にあたるということで切り捨てが認められていました。
本当に家康は切り捨てが原因で勘当処分にしたのでしょうか?

そこにはもう一つの理由がありました。
伊達政宗の存在です。
政宗は、忠輝の舅で、忠輝を非常にかわいがっていました。
高田城普請の際にも、自ら駆けつけ世話を焼くほどの入れ込みようでした。
忠輝と政宗が連携することになれば、大きな力になりかねない・・・と考えていました。
忠輝は、仙台62万石の伊達政宗の娘・五郎八姫を娶っていました。
関ケ原の戦いの前年、伊達政宗との関係を深めようと家康が画策した政略結婚でしたが、それによって徳川家の中では秀忠を脅かす存在となっていたのです。

1613年、政宗は、大坂の陣の前年、家康の許しを得てスペインやメキシコとの貿易交渉に支倉常長を派遣していました。
ところが、スペインは貿易の条件としてキリスト教の布教許可を要求。
政宗は、領内の布教を容認する姿勢を示したと考えられます。
しかし、キリシタン禁教を進める幕府からすれば、そんな政宗のふるまいは徳川の方針に沿わない危険な人物でした。
しかも、使節を案内したソテロ神父は、ヨーロッパ各地で家康亡き後は政宗が日本の皇帝になると言いふらしていました。
徳川を脅かしかねない伊達政宗・・・
その伊達政宗に支えられ、将軍・秀忠を蔑ろにする忠輝・・
忠輝は徳川家一門最大のリスクとなっていたのです。

1616年正月、江戸では謀反の噂が・・・
江戸にいた大名・細川忠興が、国元の息子に送った手紙には・・・
「政宗のこと、色々と噂がある
 根も葉もない話とも、まこととも知れないが、内々に陣の用意をしておくように」
平戸のイギリス商館長コックスの日記・・・
「皇帝と政宗の後押しを受ける上総(忠輝)の間で戦争が起きるという噂がある」

勘当された忠輝が、政宗と兵を挙げるという噂が全国に広がっていました。
忠輝と政宗の婿と州との関係、キリスト教と政宗の親密な関係・・・
何かしでかすかもしれないと思わせるような政治状況は残っていました。

一方、家康には死期が迫っていました。
静岡県藤枝市田中城・・・家康が鷹狩りで訪れていました。
1616年1月21日、家康発病。
夕食二体の天ぷらを食べた後のことでした。
現在は胃がん説が有力視されています。
すぐさま駿府に戻ったものの、病状は一進一退を繰り返します。
秀忠をはじめとする一門が駆けつける中、謀反の噂が立っていた忠輝も駿府に向かっていました。
忠輝は、なんとか面会したいと願い、何度も嘆願を繰り返しましたが、家康は面会を許しませんでした。

忠輝と政宗を攻め滅ぼすか??それとも2人を徹底的に引き離すのか??

伊達政宗が、晩年に側近に語った懐旧談があります。
そこに、家康の選択が記されていました。
家康の死から16年後、秀忠が死の床で政宗に語った言葉です。

「権現様が駿河で病気になったとき、政宗をひどく悪く言って、私に江戸に戻って仙台攻めの支度をせよと命じられた」

政宗自身も語っています。

「家康公が病気と聞いて、駿府に向かおうとしていたら、将軍秀忠公が江戸で仙台攻めの用意をしているという知らせが次々と入ってきた
 身に覚えがないことなので、驚いた
 もし戦となれば幕府軍相手に勝ち目はない・・・!!」by政宗

家康は、政宗討伐を選んだように見えます。
しかし、そこにお勝の方から政宗に手紙が届きます。

「一刻も早く家康公と対面しないと為にならない」

駿府に行けば殺される!!という家臣たちの手を振り切り、政宗は駿府に向かいました。
2月22日到着。
病床の家康に会って聞かされた仙台攻めの理由とは・・・謀反の疑いでした。
政宗が、家康の病に乗じて大坂の豊臣方の残党と手を組んで謀反を起こすかもしれない・・・
そんな密告をした人物・・・その人物とは誰なのか・・・??
 


上総守・・・松平忠輝!!

忠輝は、「政宗は謀反の意思を持っているということを言ってきた」と話したのです。
それを家康は本当か心配になって仙台陣とか、お勝の文という形に動いていったのです。

もし、謀反する気ならば決して来ないだろう・・・

だが、駆けつけたことで、家康は政宗への疑いを説きました。
政宗自身の証言によると、毎日のように見舞いに訪れる政宗に、家康は将軍・秀忠の後見さえも命じたといいます。
忠輝が本当に政宗謀反を密告したのか、証拠はありません。
確かなのは、家康の言葉を聞いた政宗が、忠輝と縁を切り、二度と支えようとしなかった事です。
家康は、政宗と忠輝を殺すことなく2人の間を裂き、政宗を秀忠を支える側に回らせたのです。

1616年3月19日、家康は金銀を末の息子3人に分け与えます。
遺産の総額は、194万1600両・・・今の金額でおよそ1940億円となります。
4月2日、金地院崇伝らのブレーンを呼び、亡くなった後の埋葬、位牌などを支持します。

「一周忌が過ぎたら下野日光に小堂を建て、勧請せよ
 関八州の鎮守になろう」

この言葉が、家康の遺言となりました。

そして、4月17日、息を引き取ります。
享年75歳。
家康の死から3か月後、忠輝は、将軍・秀忠の命で改易、伊勢朝熊に蟄居させられました。
長野県諏訪市貞松院・・・伊勢に流されてから10年後、忠輝は諏訪にうつされ92歳で亡くなるまでこの寺で暮らしました。
25歳で流されてから67年・・・その頃、幕府は5代将軍・綱吉の時代になっていました。
家康が忠輝に残した遺品・・・笛・乃可勢。
信長、秀吉が秘蔵し、天下人の笛と呼ばれたものです。
死の床にあった家康は、忠輝の生母・おちゃあの局にこの笛を遺品として託したと言われています。

幕府のためには我が子であるけど廃嫡にしなければいけないかった
親として非常に忍びない・・・その愛情の証として送ったのではないかと思われます。

幼少の頃から笛の名手だったといわれる忠輝・・・
父・家康が死の前に思い起こしていたのは、その幼き日の息子の姿だったのかもしれません。

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愛と欲望が渦巻く女の園・・・大奥・・・江戸城の中で営まれた煌びやかでミステリアスな暮らしぶりは、今も私たちの心を揺さぶります。
その基礎を築いたのが、春日局です。

将軍の世継ぎを作るためにもうけられた大奥・・・
最盛期には、3000人もの女性たちが暮らした絢爛豪華な世界です。
その礎を築き、最高権力者として君臨した春日局・・・本名はお福。
お福の生涯は、苦悩と困難の連続でした。

1579年、お福は丹波国・・・兵庫県丹波市に誕生します。
高台に今も残る城の石垣・・・この城の主が、お福の父・斎藤利三でした。
斎藤利三は武芸に優れ、家族を大切にした人物として知られています。
1万石という領地で裕福なお姫様として育ったお福・・・
しかし、25歳の時、徳川家の乳母として仕えることとなります。

1582年、4歳の時・・・突如として幸せな暮らしを壊す大事件が起こります。
明智光秀が、主君・織田信長を裏切った本能寺の変です。
お福の父・斎藤利三は、明智光秀の重臣でした。
その後、光秀は信長の家臣・羽柴秀吉に敗れ、父・利三も謀反人として捕まります。

斎藤利三を生け捕り、京の都中を引き回し、首を刎ねた・・・!!
明智の首と共に晒しものにした・・・!!

この時お福は4歳・・・一説には、母に連れられ、父の最期を目にしたともいわれています。
謀反人の娘となったお福・・・それまでの生活が一変します。
一家は亡き父の友人を頼りにする流浪の身・・・
食べる物も満足にない粗末な暮らし・・・なんとか生き長らえたことが当時の記録に残っています。
極貧・・・謀反人の娘としてどん底の生活をしていました。

1588年、10歳の時に親戚にあたる公家の家に引き取られます。
お福はこの家で、書道や歌道を学びます。
この経験が後に役立つことになります。
17歳になったお福は、母の遠縁にあたる武士と結婚。
相手は、稲葉正成・・・中国地方の有力大名・小早川秀秋に仕える武将でした。
お福は子宝にも恵まれ・・・しかし、幸せは長くは続きませんでした。
夫・正成が、諸君とそりが合わずに解雇・・・浪人となります。
一家は夫の故郷・美濃谷口に移り住みます。
夫の収入はなく、自給自足のどん底の暮らしだったといいます。
お福が懸命に働いて家計を支えているにもかかわらず、夫は妾を囲っていたともいわれています。
そんな暮らしを続け、3人目の子どもが生まれた時・・・思わぬ話が耳に入ります。
二代将軍に子供が生まれるので、乳母を募集するという・・・
お福はこの話に飛びつきます。
極貧の生活から脱出する為に・・・自分が主として子供たちを育てていくためにも、何か職を・・・!!

乳母の募集を命じたのは、天下人・徳川家康でした。
その頃、京都の伏見城にいました。
お福は美濃からわざわざ京に上り、面接を受けました。
応募者は、20人以上・・・
決め手は家康・・・家康はお福の父・利三を高く評価していました。
立派な武将で、力量が高い・・・戦略的にうまい・・・!!

「お福は斎藤利三の娘なので、優れた人物のはずだ」

家康にとっても乳母として最適なお福だったのです。

お福は将軍家の乳母に見事合格!!
夫と離縁し、乳飲み子と次男を母に預け・・・長男一人を連れて江戸に向かいます。
お福はこの時、25歳・・・新しい人生の始まりでした。

埼玉県川越市の喜多院・・・ここには、三代将軍家光が生れた部屋があります。
江戸城から移築されたものです。
家光の部屋につながる春日局化粧の間・・・お福が使っていたとされる部屋があります。
家光の幼名は竹千代・・・内気で病弱だったものの、お福と二人三脚で将軍の跡目争いを勝ち抜いていきます。
今も同じ屋根の下にある二つの部屋は、二人の強い絆を表しているのです。

どうしてお福は竹千代を将軍にすることができたのでしょうか?

お福が25歳の時に乳母としての生活が始まりました。
赤ん坊に乳をあげるだけでなく、付きっ切りで世話をして育てます。赤ん坊の名は竹千代・・・次期将軍です。
竹千代の父は、二代将軍秀忠、そして母は信長の姪・お江でした。
3歳になると、竹千代には厳しい教育係がつけられ、武道や学問を徹底的に教え込まれました。
そんな日々を送る竹千代が、ヒマを見て逃げるように通ったのがお福の部屋でした。
厳しい教育環境・・・選りすぐりの将軍教育をされていた竹千代・・・息苦しい教育環境にあったので、家光も気がめいりことが多く・・・一息付けるのがお福の家だったのです。

しかし、竹千代には将軍になるには不安な点が二つありました。
①内気でおとなしい性格
将軍として全国の大名に号令するにはあまり相応しくない・・・
そこで、役に立ったのが、お福が故郷から連れてきた長男・正勝・・・幼いころから竹千代の世話係・小姓にしていました。
何でも話せる年上の相談相手が、内気な性格を徐々に変えていきます。
②病弱
竹千代は体が弱く、病気がちでした。
食べ物の好き嫌いも激しく、食も細かったのです。
そんな竹千代が工夫を凝らしたのが食事でした。
七色飯・・・白米の外に、茶飯、粟飯、小豆飯、麦飯・・・七色用意しました。
見た目を楽しくしてたくさん食べてもらおうとしたものです。
竹千代に豪華な食事を出す一方、お福は極めて質素でした。
それを気にした竹千代が、自分の膳から分けたこともあったといいます。

お福の愛情ですくすくと育つ竹千代。

しかし、そんな二人に暗雲が・・・
竹千代が7歳の時に跡継ぎ争いにライバルが現れます。
2歳下の弟・国松です。
内気な兄・竹千代とは違い、活発で聡明な国松・・・。
お江は、竹千代よりも国松に愛情を注いでいました。

一説にはこの頃江戸城内ではある噂が立つこととなります。

「お江が竹千代より国松をかわいがるのはお福のせいである」と。

原因は、お福とお江の浅からぬ因縁でした。
お江の伯父は信長・・・その信長を殺した光秀の家臣がお福の父・斎藤利三・・・
更に家臣の間には・・・
「将軍様は竹千代さまでなく、国松さまを嫡男(跡継ぎ)になされるかもしれない・・・」
家臣たちは、国松に貢物を持参する一方で、竹千代にはほとんど持ってこなかったといいます。

江戸時代も始まったばかりのこの頃、優秀さが将軍にはどうしても必要でした。
優秀なように見える国松が、兄を差し置いて跡継ぎになるということもあり得たのです。
お福はそれを一番心配していました。
実の母の冷たい仕打ちに追いつめられていく竹千代・・・
そして・・・竹千代・・・自殺未遂・・・。
しかし、その寸前でお福が見つけ、思いとどまらせたといいます。
思い余ったお福は、将軍秀忠の側近に話を持ちかけます。

「そろそろ竹千代君が世継ぎであるという正式なお披露目があっても良い時期なのに、いまだなんのお沙汰もありません
 一体どうなっているのでしょうか」

秀忠の返事は一言・・・「そのうち決めることにする」

このままでは竹千代の将来が危ない・・・!!

1612年、34歳の時、お福は江戸から旅立ちます。
行先は駿府城・・・!!
大御所・徳川家康と会うためでした。

お福は家康に訴えます。

「竹千代さまが将軍家のお世継ぎであるはず
 弟の国松さまを母君が愛され、その勢いは竹千代さまを凌いでいます
 しかし、弟が兄に勝ることは許されることではありません
 将軍の跡継ぎの決定は、天下の一大事だからです」

跡継ぎは兄の竹千代にするべき・・・そうしなければ秩序が崩れてしまうと家康に直訴!!

この行為は、身分をわきまえないものとして厳しく罰せられるかもしれない危険な行為でした。
お福の切なる訴えを聞いた家康・・・すぐには決断しませんでした。

次期将軍は竹千代??国松・・・??

1611年10月、突然家康が江戸を訪れます。
竹千代と国松を呼び出し・・・広間の上座についた家康は、まず竹千代に、
「竹千代殿 これへ これへ」つられて国松も上座に行こうとすると・・・
「国松はそこにおれ!!」と、しかりつけ、下座におきました。
竹千代を上座に呼ぶことで、家康は自分の考えを家臣たちに示しました。
三代将軍が決まった瞬間でした。
1623年、竹千代は家光と名を改め、20歳で将軍につきます。
お福45歳のことでした。

家光を三代将軍に育て上げ、乳母としての念願を果たしたお福・・・
しかし、それで満足することはありませんでした。
次に力を注いだのは、大奥の礎作りでした。
大奥とは、江戸城の奥で、将軍の正室や側室たちが生活する男子禁制の場です。

「全て奥向きの定法は皆二位の局(お福)の制作なりとぞ」

どうしてお福はそのようなことができたのでしょうか?
父・秀忠から将軍職を継承した家光・・・
その3年後・・・1626年に実母・お江が死去・・・享年54歳でした。
20歳の頃から理想とする政治を始めた家光・・・
47歳になったお福は子育てを終えてからも一層家光を支えることとなります。
乳母の後見役割・・・育てた「養い君」は、大きくなっても叔母に相談に行きます。
これに応える関係があり、お福も何かお役に立ちたいと思っていました。
家光は、意欲的に政治に取り組みます。
全国の藩主を江戸に行き来させる参勤交代制度を確立、外国への渡航を禁じた鎖国政策を強化、当時は幕府に絶対的な力はなく、大きな力を持つ大名はたくさんいました。
お福はこの頃、頻繁に大名の婚姻の相談に乗ります。
相談に乗りながら、その家にはどんな人物がいるのか??謀反を起こしそうな気配はないのか??
大名たちをくまなく調べたといいます。

婚姻政策は、当時の大名統制の根幹でした。
家光がどうやったら日本を統治できるのか??
家光がよりよく徳川幕府を運営していくためにはどうしたらいいのか??
派閥工作をしていたのです。

「上様のためなら何でもできる・・・」

お福は大名達を奥向きから支配していきます。
小姓をしていたお福の息子・稲葉正勝を、重要な箱根の関所のある小田原藩主に・・・
これによって、お福のせいへの影響力はますます増していきます。
全てが順調に見えた家光の治世・・・
しかし、お福には頭を悩ませる問題がありました。
将軍になって10年になっても正室の間に跡継ぎが生れませんでした。
このままでは家康から続く徳川宗家の血統が途絶えてしまう・・・!!
そんな折、衝撃的な出来事が起きます。
家光が天然痘にかかり、瀕死の状況に・・・
天然痘で亡くなるのが普通であった時代・・・家光が亡くなると徳川家自体が危機に瀕してしまう・・・!!
幕府も倒壊してしまうのではないか・・・??
大きな危機感を抱いていました。
すぐさまお福は、江戸城内の神社に向かいました。
そこで、こう祈願したと言われています。

「もし、家光さまを助けてくれるというのなら、私は死ぬまで絶対に薬を飲みません」

お福の祈りが通じたのか、家光は奇跡的に命を取り留めます。
病気は治ったものの、跡継ぎ問題に新たな危機を感じたお福。
家光の正室は京都から来た公家の娘・・・仲は良くなかったと言われています。
一説では、女性に関心がなかったと言われる家光・・・
そんなある日、お福のもとに耳寄りな情報が・・・家光が女性に一目ぼれしたと言います。
しかし、その女性は尼さん・・・
それでもお福は諦めず、尼さんを強引に還俗させ、髪が伸びるまで待って側室に迎え入れたのです。
さらに、お福自らも町に出てスカウトします。
そして目をつけたのが、一人の女性・・・
古着屋の店先に座っていたお蘭という娘でした。
当時側室と言えば、大名や公家などの名門から取るのが常識・・・町娘から取るのはありえない話でした。
春日局は”上様のお気に召すか”を一番大切にしていました。
家光はお蘭を一目で気に入り側室にしました。
1641年、家光の嫡男が誕生。
これでひとまず跡継ぎ問題は解決しました。
しかし、お福はさらに側室を江戸城に迎えます。
これが後に大奥という組織の礎となりました。
中々順調に子供が育たない時代、家光が若い時から病弱だったことから、第2、第3の候補の跡継ぎを産む女性を作っておく必要があったのです。
それが徳川家の安泰のためになるという方針でした。

家光の時代の大奥は・・・
御殿を囲むように女中たちの部屋が・・・最大8名にまで増えた側室たち。
そこには、お福の部屋もありました。
こうした組織を作ることで、お福の政治への影響力はより高まっていきました。
将軍とのかかわりが近い・・・将軍の意向を左右し得る立場でした。
幕府の政治にも、大きな影響を与えました。
全国の大名からも注目され、将軍の考えを聞くために春日局に接触して将軍の考えを聞こうという大名はたくさんいました。

最盛期には3000人を超えたのちの大奥・・・
規律を守るため、男子禁制などの厳しい掟がありました。
その一方、お福は側室だけではなく、世話をする女中たち全員の待遇改善に努めます。

女房(女中)たちは、武士が具足を一揃えするほどの費用をかけ小袖を用意しております
今までは私のお手当を分配して参りましたが、全ての階級の女中たちに、衣装代を幕府より頂戴したいのです

お福は、奥で働く全ての階級の女中に衣装代を出してほしいと幕府に要望します。
衣装代を出してほしい、実家に手当てが欲しい、勤めに関することがらを奔走しました。
そういう要求をできるのはお福で、そういう人だからいろいろな人から要望が集まってきました。
大奥制度を作る基礎にお福が参画していったのです。

そんなお福が51歳の時、嬉しい出来事が・・・
京に赴き天皇に拝謁した時のこと・・・「春日局」という称号を賜わったのです。
春日局とは、本来天皇の子を産んだ女官だけに与えられる由緒ある称号でした。
それが、徳川家の、しかも一介の乳母に与えられたのは前代未聞のことでした。

夫と別れ、人生をやり直そうと江戸城に来て40年・・・
お福は公私にわたって家光を支え続けました。
ところが・・・1643年、65歳の時に病に倒れます。
容態は日に日に悪化・・・しかし、周りがどんなに勧めても薬を飲もうとはしませんでした。
かつて家光が大病を患った時に立てた薬立ちの願掛けを今なお守っていたのです。
何度も見まいに来た家光が、書いた手紙が残っています。

”お前は私が病とならぬよう、薬断ちの願をかけ、長い間それを守ってくれた
 だが、お前に万一のことがあれば、それこそ私は心痛の余り命が尽きてしまうだろう
 お前が薬を飲むのは天下のためだ
 どうか薬で病を治し、私に長く仕えてほしい”

しかし、お福は何度頼まれても薬を口にすることはありませんでした。
困った家光は一計を案じます。

”これならば如何じゃ・・・薬を飲んでくれるか?”

家光が用意したのは、徳川家の家宝「曜変天目茶碗」・・・
家光自身、めったに使うことのない貴重な茶碗を、お福に薬湯を飲ませるために差し出したのです。

「上様のご厚情・・・有難き幸せにございます」

お福はようやく薬の入った茶碗を口に運びました。
しかし、薬はお福の喉を伝い、胸元へと流れていきました。
家光はここまでしても、自分の願掛けを破らなかったのです。
そして、お福は静かに息を引き取り、65年の人生を終えました。
1643年、春日局死去
京都にあるお福の菩提寺・麟祥院・・・家光は一体の木像を掘らせ置きました。
”春日局木像”です。
慈悲深い優しい笑みを浮かべたお福の姿・・・
命をかけて生涯尽くしてくれたお福に対しての感謝のしるしだと言われています。

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江戸時代の歴史の常識は・・・??
江戸幕府は三代将軍家光の頃に海外からの往来や通商を制限し、日本人の海外渡航と帰国を禁じました。
さらに、通商を許していたオランダとの貿易さえも、長崎の出島に限ったため、ここに鎖国が完成したといわれてきました。
実際は長崎の出島だけではなく、幕府の統制下で開かれた4つの窓口がありました。
①長崎・・・オランダ・明・清
②対馬・・・朝鮮
③薩摩・・・琉球
④松前・・・アイヌ
この4つの港で、日本は外国と貿易をしていたのです。
カトリック強国でないオランダ、中国、朝鮮、東南アジア諸国とは禁止していませんでした。
いわゆる鎖国言葉自体、家光の頃にはありませんでした。
鎖国という言葉はいつ生まれたのか・・・??
江戸時代の蘭学者・志筑忠雄の書いた「鎖国論」です。
鎖国論は、1801年に蘭学者・志筑忠雄によって書かれたもので、江戸時代後期に書かれたこの本で、鎖国という言葉が使われました。
1712年にドイツで出版されたドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルが書いた「廻国奇観」が元になっていて、出島にあったオランダ商館医師だったエンゲルベルト・ケンペルがペルシャを中心とするアジア諸国を巡った際の報告書です。
その14章に・・・
”最良の見識によって自国民の出国及び外国人の入国・交易を禁じ、国を閉ざしている日本王国”と紹介されています。
これがオランダ語に訳され「日本誌」に・・・日本に入ってくると、志筑が自分の意見を踏まえ、”日本人が全国を鎖して”と翻訳、「鎖国論」としました。
つまり、鎖国は、江戸時代後期にドイツの書籍の翻訳から生まれた言葉だったのです。
その後、鎖国という概念は、幕末にやってきた外国の使節を追い返すために利用され、開国の対語として使われるようになった=江戸時代の外交と、定着してしまったのです。


江戸時代の身分制度である士農工商・・・
①武士・・・支配階級
②農民・・・幕藩体制の財政基盤となる米を作る
③職人・・・大工など
④商人・・・不浄なものとされた銭を扱う
厳格な身分制度です。
しかし、近年では士農工商は、身分制度ではなかったといわれています。

現在の教科書に書かれている身分は三つ・・・武士、町人、百姓です。
武士は侍たち特権階級のことですが、町人と百姓は、住んでいるところによって呼び方が振り分けられていただけで、町に暮らしていれば町人、村に暮らしていれば百姓といった感じです。

百姓には農業だけでなく、漁業や林業の者も含まれていました。
百姓=”百せい”で、いろんな名字を持つ人という意味です。
その名字を持っていたものの大半が百姓だったので百姓=農民となりました。

武士、町人、百姓の身分関係は・・・町人は百姓と同等でした。
武士の身分は特権を持ち格差はありましたが、そこまで厳格ではありませんでした。
大名行列の際・・・人々は土下座をして通り過ぎるまで待つ??といわれますが、将軍や徳川御三家を除けば、庶民も顔をあげて見物のぞき見などもすることができました。

士農工商とは何だったのでしょうか?
その語源は、中国の「漢書」で、”士農工商四民有業”とあります。
本来は身分の違いを現したものではなく、民衆全体を指すものでした。
明治時代・・・江戸時代を厳しい身分制度があった悪しき時代とするために、政府は江戸時代に重んじられていた儒教の思想が階級社会と結びつきやすいと考え、士農工商を身分制度の言葉へと捻じ曲げてしまったのです。

士・・・古代中国の儒学では、何かを成し遂げる能力のある人という意味です。
日本では、武士に置き換えていました。
農・・・生活に欠かせない米を作る農民
と、観念をあてはめやすかったのです。
明治政府は士農工商を明治時代の身分制度に仕立て上げるとともに、四民平等を掲げることで新しい時代はいい時代だと強調したのです。

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およそ260年続いた江戸幕府・・・世界でも類を見ない長期安定政権が実現したのは、その礎を三代将軍・家光と会津藩主・保科正之が築いたからです。
二人は異母兄弟・・・ともに持つ、政治家としてのぶれない意志・・・その支えとなったのが、兄弟の絆でした。

徳川家康が関ケ原の戦いに勝利し、江戸に幕府をひらいた翌年・・・1604年。
二代将軍秀忠と正室お江の間に世継ぎが生れました。
竹千代・・・後の三代将軍家光です。
それから7年後の1611年、江戸神田の牢人の家で、幸松・・・後の保科正之が生れました。
父は、竹千代と同じ二代将軍秀忠でしたが、幸松の母・静は、江戸城に奉公に上がっていた奥女中でした。
美しかった静は、すぐに秀忠の子を身籠ります。
将軍の子・・・本来ならば、喜ばしいことですが・・・秀忠の正室お江は、とても気位が高く、嫉妬深かったのです。
夫が側室を持つことを許しませんでした。
子ができたとなると、何をするかわからない・・・
そこで、実家へ帰された静は、お江から恨みを買わないように子をおろします。
しかし、静は、秀忠によって大奥に戻され、またもや子を身籠ってしまうのです。
そんな静に家族は・・・
「上様の子を二度も堕ろしては天罰を受ける」
とし、静はお江に見つからないように、親類の浪人宅で出産しました。
秀忠は、この事実を伝え聞きますが、お江に気を遣い、幸松を実子とは認めませんでした。

将軍の子であることを隠して生きることとなった幸松は、母・静が慕っていた武田家の侍女・見性院に預け育てられます。
そして、幸松7歳の時、見性院は然るべき武家に幸松を預けようと考え、ある大名に白羽の矢を立てます。
高遠藩藩主・保科正光です。
保科家は、もともと武田信玄の家臣で、さらに、正光の父・正直の後妻は家康の妹で、武田家は徳川家と姻戚関係にあったからだと言われますが・・・この養子縁組の裏には秀忠の存在があったといいます。
幸松の養育を、見性院に依頼したのは秀頼側だったともいわれています。
さらに、保科家に養子に行った時に、高遠藩に5000石の加増をしています。
幸松の養育費であると考えられます。
父・秀忠の計らいで、保科家の養子となった幸松は、大切に育てられます。

二代将軍秀忠には、この時3人の息子がいました。
竹千代・国松は、共に母親が正室のお江・・・そしてお静の子・幸松です。
そして、幸松の存在を知らずに幼少期を過ごす竹千代・・・。
その出会いとは・・・??

1632年秀忠死去・・・。
家康が、長子相続を説き、竹千代が家光として20歳で三代将軍となります。
家康が、理想とした幕府を実現していきます。
大名たちを江戸城に呼びつけます。
居並ぶのは伊達政宗ら、歴戦のつわものたち・・・
彼らを前に、家光は、こう宣言します。

「余は生まれながらの将軍である
 貴殿らに対し、遠慮するものはない
 今後みな、家臣同様として扱う・・・そのように心得よ
 もし不承知ものがいるならば、戦の準備を致せ」と。

家光が、挑発的な態度に出たのは理由がありました。
戦争を知らない家光・・・下剋上の思想を断ち切るために、強気に出たのです。
家光は徳川政権を盤石にするために、様々な政策を打ち出していきます。

①幕府の組織づくり
大名たちの謀反を防ぐために、監察官として柳生宗矩ら4人を「そう目付」に任命します。
そして、将軍を補佐する大老、老中の設置。
将軍を頂点とする幕府のシステムを確立、政治の安定化を図ります。


②諸制度の確立
1635年、武家諸法度を改定
参勤交代を制度化します。
江戸での滞在期間、交代の時期を明確に定めました。
これによって大名たちは、旅費などの莫大な出費を余儀なくされ、財力が低下。
その結果、戦を構えることもできなくなり、幕府は優位に立つことになりました。

③大名の改易
家光は、反旗を翻しそうな危険分子を取り除くなど、政権の安定を図ろうと、改易にも取り掛かります。
その数は、歴代の将軍が行った改易の中で最も多い数でした。
武断政治(武力や厳しい刑罰で統治する政治手法)です。

その頃の幸松・・・後の保科正之は、養父である保科正光が選んだ優秀な家臣から英才教育を受け、幕府に奉公するための心得を徹底させられていました。
保科正光は、もしかすると幸松が将軍となる可能性があると考えていました。
もしそうなった場合、保科家も発展していくだろう・・・と、教育したのです。
幸松もまた、自分が将軍の子だと知るようになっていきます。
そして養子となって14年目・・・養父・正光がこの世を去ります。
家督をついだ幸松は、正之となり、高遠藩を継ぐのでした。
この時、21歳!!

家光が保科正之の存在を知ったのは、目黒に鷹狩りに行った時のこと・・・
鷹狩りの中、家光は、身分を隠し、ある寺で休息することに・・・。
そのお寺は、正之の母・静が、正之の無事な成長を祈願していた寺でした。
そこの住職がこんな話をしてきました。

「高遠藩の保科殿を知っていますかね?
 保科殿は、将軍様の弟君であるのに、それに相応しい扱いを受けていないんですよ
 それが、不憫でしてねエ・・・」

家光は、自分に会ったことのない弟がいて、高遠藩主になっていることを知ったのです。

「余に・・・顔も知らぬ弟・・・それは一体どんな男なのだ・・・??」

異母兄弟・・・弟の存在を知った家光は、ある儀式のために江戸城にやってきた正之を一目見ようと大広間のふすまの陰に潜みました。
すると・・・部屋に入ってきた正之は、末席に座ったのです。
保科正之は、3万石の小大名のため、末席だったのです。
礼儀をわきまえる正之・・・

「自分は将軍の弟だという横柄な態度を見せず、謙虚に末席に控えるとは・・・なんと殊勝な男よ」

この一件以来、家光は正之を取り立てるようになります。
正幸は、高遠藩3万石から山形藩20万石の大名に抜擢されます。
片腕として重用するようになった正之に・・・「忌諱を憚ること勿れ」と言いました。
更に家光は、苗字を松平に改め、葵の紋を使うことを勧めましたが、正之は・・・

「今の自分があるのは、養父・保科正光のおかげです。」

保科家への恩義から辞退したと言われています。
その控えめな態度に感心した家光は、その信頼を厚くするのです。

しかし、家光が、正之を取り立てたのにはもう一つ理由がありました。
それは、もう一人の弟・忠長の存在です。
同じ母・お江から生まれた忠長は、兄弟というより同じ将軍の座を争うライバルでした。
家光は生まれつき体が弱く、言葉に不自由なところがあったため、両親の愛情はいつからか弟・忠長に注がれるようになります。
すると家臣たちも、
「次期将軍は兄気味ではなく弟君がふさわしい」と・・・。
両親ノア異名を受けずに将軍の器でないとささやかれた家光は、12歳の時悲しみのあまり自殺しようとしたともいわれています。
父・秀忠の愛情を受けずに育った正之に、共感を抱いたのです。
家光の弟・忠長は・・・駿府藩55万石の大名となり・・・しかし、それでも満足せずに加増しろとか、大坂城の城主になりたいとか・・・。
甘やかされて育てられていた忠長は、将軍への夢が忘れられず、兄・家光に憎悪を抱いていました。
その後、忠長は精神的に追い詰められ、奇行が目立つようになり、理不尽に家臣を手打ちにしたりしています。
怒った家光は、忠長を幽閉し、最後は自害に追い込んでいます。
正之は弟として兄を支えるというよりも、それは家臣として将軍を支える・・・自分をわきまえた人でした。

保科正之が山形藩の藩主となった翌年の1637年、九州で大事件が・・・!!
島原の乱です。
キリスト教勢力の拡大を恐れた家光が、キリシタン改めを全国の大名に命じたことに始まる厳しい弾圧が原因でした。
この江戸幕府始まって以来の一揆の鎮圧には、家光の最も信頼する正之が当たるものだと誰もが思っていました。
しかし、その大役に選ばれたのは、老中・松平信綱でした。
正之は家光から領地である山形藩に戻るように命じられたのです。
家臣たちは皆首をかしげましたが、正之には、家光の意図がわかっていました。

「西国に異変ある時は、東国に注意せよということであるな」

家康の遺訓に従って、東国の反乱に備えたのです。

1638年山形藩の隣にある幕府直轄地の白岩郷で・・・
百姓一揆が起こります。
その鎮圧を任された正之は、一揆の首謀者36人全員を処刑します。
控えめで優しい性格の正之の非情な決断でした。
無秩序状態にさせないため、厳しい処罰を下したのです。
しかも、幕府の直轄地での出来事・・・
家光の威光が低下する可能性があったのです。
正之は、兄であり将軍である家光の名を汚さないために、鬼となったのです。

「一揆が起きてからでは遅い
 一揆が起きないような政をすることが大切なんだ」

1643年、保科正之が33歳の時に、山形藩20万石から会津藩23万石への転封を命じられます。
これは、水戸藩25万石と肩を並べるほどの厚遇でした。
ところが、その会津藩は大きな問題を抱えていました。
前の藩主の悪政と飢饉で領民は疲弊・・・よその藩へ逃げ出す者が続出していました。
領民のための改革を行うこととなった正之

①社倉制
藩の資金で米を買い上げて備蓄しておき、凶作になったら領民に米を貸し出し救済する制度のことです。
2割という当時安い利息で米を借りることができました。
しかし、正之は利息で得た資金で、新しく米を買って社倉の備蓄を増やしていきます。
これ以降、会津藩では飢饉での死者は出なかったと言われています。

②人命尊重
正之の母・静は一度は堕胎し、正之も命が危ぶまれていました。
「宿った命は生きることを辞めさせるべきではない」そう命の大切さを説き、間引きを禁止。
さらに、領内で行き倒れになった人は医者に連れて行くという政令を出し、その人がお金を持っていない場合は、藩が支払いました。

③老養扶持
高齢者の保護です。
90歳以上の者、全てに1日5合分の米を毎年支給しました。
ある年は該当者が150人にも及びましたが、分け隔てなく支給され、大いに喜ばれました。

農民を豊かにすることは政治を安定させる
政治の安定は農民の豊かさにつながる・・・正之は、勧農意識・・・主として農業振興奨励し、実行しようとする考えがありました。
それをすることが一揆の撲滅につながると・・・

そのさなか、家光が病に倒れます。
死を悟った家光・・・1651年のこと。
愛用の萌黄色の直垂と烏帽子を与え、こう言い渡します。
「今後、保科家は代々、萌黄色の直垂を使ってよい」
それは、正之が将軍と同格であるという意味でした。
さらに・・・家光の嫡男・家綱はまだ11歳でした。
正之に、幼い家綱の後見人を任せるつもりだったのです。
幕閣たちから一段上げて、補佐にしよう・・・と!!

それから間もなくして家光の病状は悪化・・・
有力大名が次々と寝所に呼ばれる中、最後に呼ばれたのは家光が最も信頼する保科正之でした。

「跡を継ぐ家綱はまだ幼い・・・
 汝に家綱の補佐を託す」

「身命を投げ打って御奉公いたします故、ご心配あそばされますな」

これが、兄・家光との最後の別れとなりました。
1652年4月20日、徳川家光48歳で死去・・・。

正之は、この後、ほとんど会津に帰ることなく、身命を投げ打って幕府に・・・!!
しかし、この時、幕府は大きな問題を抱えていました。

正之は、武断政治の否定・脱却をはじめました。

①大名証人制度の廃止
大名証人制度とは、大名の妻子などを人質として江戸に住まわせることです。
これは、戦国時代、大名同士が同盟を結んだ場合に裏切らないように行っていたことを踏襲したものです。
しかし、幕藩体制が整ったこの時代においては無用と、廃止。

②殉死の禁止
江戸時代初期、主君の死を受けての殉死は美徳とされていました。
実際、家光が亡くなった際も、家臣が後を追い自害しています。
しかし、これでは有能な人材が失われてしまうと、殉死を禁止したのです。

③末期養子の禁 緩和
大名は生前に跡取りを決め、幕府に届ける必要がありました。
死の間際に養子をもらって跡取りにする末期養子は禁じられていました。
そのため、跡取りのいない藩主が急死すると、その藩は取り潰しになっていたのです。
正之はこの禁を緩和・・・50歳以下の大名の末期養子を認め、藩の取り潰しをへらします。

正之は、家光の行った武断政治を次々と否定するかのように、それまでの制度を廃止していきました。
家光時代の幕府は、敵対しそうな大名を改易していたので、巷では浪人が溢れ、幕府に不満を抱くものが急増していました。
正之は、彼らの暴発を危惧し、これ以上浪人を増やさない政治・・・文治政治へと変換していったのです。
戦の絶えた時代を生き抜くための政治だったのです。
大名を上手に取り込むことは、国家統合につながる・・・徳川の平和につながる・・・徳川ファーストを関bが得ていました。

1657年1月18日、江戸を未曽有の火災が襲います。
明暦の大火です。
江戸の町の6割が焼き尽くされ、死者は10万人を超えたともいわれています。
火の手は風にあおられて、江戸城へも・・・!!
天守をはじめ、本丸、二の丸、三の丸まで焼け落ち・・・この時正之は、家綱を守り西ノ丸へ避難するも、火の手はそこまで迫っていました。
すると幕閣たちは・・・
「上様を場外に避難させましょう!!」
「上様が逃げるなど言語道断!!
 西ノ丸が焼けたら、本丸の焼け跡に陣屋を立てればよい!!」by正之
幕府の長たる将軍が、火事ごときで城を逃げ出すなど・・・!!
非常時だからこそ、将軍が中心となって強い態度で対処すべきだと説いたのです。
火事発生から2日後やっと鎮火・・・
正之は民のために動き出しました。
被災者のためのおかゆの炊き出し。
二種類の炊き出しを用意させ、老人や体の弱ったものには塩分の少ないものを・・・それ以外の人には濃いものを配るという配所を怠りません。
幕府の16万両と言われる幕府の貯蔵金を町の復興に宛てようとします。
「そのようなことをすれば、金蔵が空になってしまいます!!」
「なにより、このような時のために、金を蓄えておるのに、今使わずしていつ使うのだ・・・!!」
この正之の判断と采配によって、焦土と化した江戸の町は復興していくのです。

現場の最前線で陣頭指揮を執った正之でしたが、この時、嫡男・政頼が、避難先で病に侵され亡くなっていました。
しかし、正之は深い悲しみの中にあって、私情を廃し、我が子を弔うことより街の復興を優先させたのです。
その後、江戸城の本丸、二の丸、三の丸は再建されましたが、天守は再建されませんでした。
保科正之が天守の再建に反対したからです。

「天守は戦乱の世が終わった今、ただ遠くを見るだけのもの。
 無用の長物をこのような時にお金をかけてまで再建すべきではない・・・!!」

兄・家光に誓った将軍への忠誠を守り続ける保科正之・・・その正之が最期に徳川家のために下した決断とは・・・??
正之が、常に大事にしていたのは「仁」
慈しみ思いやることです。
そんな正之が自らの政治理念を後世に伝えるべく定めたのが「会津家訓十五か条」です。
人としての心得を説く中で、最初に伝えたかったのは・・・

大君の儀一心大切に忠勤に存ずべし
若し二心を懐かば 即ち我が子孫に非ず
面々決して従うべからず

「将軍に対しては一心に忠義に励むべきである
 もし、将軍に反く藩主が会津に現れたなら、私の子孫ではないから、決して従ってはならない」

兄に誓った将軍への忠誠を、子々孫々に守らせようとしたのです。
そんな正之も、晩年は病に倒れ、病状が悪化すると幕府に隠居を申し入れます。
そして息子の正経に家督を譲ると、驚きの行動に出ます。

なんと、屋敷の裏庭で書類を焼き始めたのです。
それは、幕政への意見書、様々な政策の記録などの重要書類でした。
正之の政策が残ってしまえば、自分がしたことがわかってしまう・・・。
政を将軍・家綱の功績にするために、書類を燃やしたのではないか?と言われています。
正之は、最期まで幕府と将軍のことを想い動いた私利私欲のない男でした。
1659年12月18日、保科正之は三田に会った会津藩邸で息を引き取ります。
62歳の生涯でした。
磐梯山を望む福島県猪苗代町・・・将軍の子として産まれながら、一家臣の子として生きることを選んだ信念の男は、ここで眠っています。

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