日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:斎藤龍興

今まで大河ドラマに登場した戦国武将の登場回数ベスト3は・・・??

①徳川家康・・・21回
②織田信長・・・17回
③前田利家・・・17回

4位の豊臣秀吉を抑えてランクインしたのが前田利家です。

下剋上はびこる乱世に終止符を打つべく、天下統一を目指した織田信長と豊臣秀吉・・・
前田利家は、その二人に仕え、彼らの偉業を陰で支えた人物とされています。
そんな利家の人生には、4つの転機がありました。




①信長に仕えていた23歳の時

信長か、他の大名か??
尾張国の豪族・前田家の4男として生まれた利家は、15歳で織田信長のそばに仕える近習として召し抱えられます。
その信長の家臣時代の同僚には、木下藤吉郎(豊臣秀吉)がいて、同い年の2人は終生の友となります。
前田利家の身長は、180センチ以上もあったといわれ、かなりの大男でした。
端正な顔立ちをした若き日の利家は美男子でしたが、派手な拵えの槍をひっさげ闊歩する傾奇者で、けんかっ早い事で有名でした。
気性の粗さと腕っぷしで、戦で数々の武功を上げていきましたが・・・
23歳の時、窮地に陥ります。
発端は、信長が寵愛する茶坊主・拾阿弥が、利家の笄を盗んだことでした。
けんかっ早い利家は、怒りのあまり信長にこう願い出ます。

「拾阿弥は盗人でございます
 あ奴をたたっ斬ることをお許しください」by利家

当然信長は許可しませんでしたが・・・
利家はあろうことか信長が見ている前で、拾阿弥を斬り捨ててしまいました。
これに信長は大激怒!!
利家は、織田家からの追放を言い渡されます。
妻・まつとの間に子供が生まれたばかり・・・
それなのに、利家は、牢人の身となってしまいました。

利家は、食い扶持を稼がなければならず、信長とは別の主君に仕える道もありました。
利家が選んだのは、信長に再び仕えることでした。
利家が追放された翌年・1560年5月・・・
織田信長は、駿河の今川義元と激突!!
桶狭間の戦いです。
織田家がのし上がっていくために、重要な一戦でしたが、利家はその戦に、信長に断りもなく、単独で参戦しました。
武功さえ上げれば処分が解かれると考えた利家は、決死の覚悟で戦い、敵将の首を3つも討ち取りました。
恐る恐る信長にその首を差し出しましたが・・・信長は見向きもせずに利家を無視しました。

それでもあきらめきれない利家は、粘り強く機会を伺い、1年後、美濃の斎藤龍興との戦いに、またも無断で参戦しました。
この戦でも、首とり足立と恐れられた敵将・足立六兵衛などの首2つを討ち取ります。
すると、信長はようやく利家の帰参を許しました。
牢人の身となって、2年の歳月がたっていました。



②本能寺の変で信長が非業の死を遂げた翌年47歳の時

勝家か?秀吉か??
1582年、京都・・・織田信長は、家臣の明智光秀の謀反により、本能寺で自害に追い込まれました。
光秀は、織田家の他の家臣が出払っている隙に蜂起したと言われています。
この時、羽柴秀吉は毛利方が立てこもる備中高松城を、そして前田利家は柴田勝家らと共に上杉方の越中魚津城を攻略中でした。
その為、利家が信長自害の報せを聞いたのは、しばらくたってからのことでした。
本能寺の変の4日後のことでした。

利家は、勝家や佐々成政らと相談の上、自らの領地である能登に帰ることになります。
かつて能登国を支配していた畠山家の旧臣達が、利家が支配する能登国を奪い返そうと動き出していたのです。
京都の光秀を討つための軍勢を差し向けるのは、難しい状況でした。
身動きの取れない利家らに代わり、秀吉は電光石火の早業で備中から京都に戻ると山崎の戦いで光秀の軍勢を打ち破り、信長の無念を晴らしたのです。

本能寺の変からほどなくして、尾張の清州城に織田家の家臣たちが集まります。
そこで、織田家の跡目を誰にするかなどが話し合われましたが・・・
秀吉らが信長の孫である三法師を跡目に推したのに対し、勝家らは信長の三男・信孝が相応しいと主張。
両者譲らない中、結局秀吉が強引に押し切ります。
その後も、秀吉が信長の葬儀を取り仕切るなど、まるで自分が信長の後継者であるかのように振る舞ったため、織田家の重鎮である柴田勝家は秀吉に対し不満を募らせていきました。

勝家と秀吉の対立によって、どちらにつくのか・・・利家は選択を迫られます。
この時、利家は、与力大名として柴田陣営にいました。
しかし、秀吉は、家族ぐるみで付き合う無二の親友でした。
さらに、利家の四女・豪が、秀吉の養女となっていました。
どちらにも近しい利家は、和睦させようと上洛し、秀吉と交渉します。
しかし・・・徒労に終わりました。

信長の仇を討った秀吉と、織田家の重鎮の勝家・・・。

こうして、1583年、近江国・・・勝家と秀吉は、賤ケ岳で相まみえることになります。
利家が選んだのは・・・柴田軍として戦う・・・!!
勝家の与力であった利家が、武士として勝家方につくのは当然のことでした。
しかし・・・羽柴軍の勢いに押され、やがて柴田軍が総崩れとなると、利家は近江から撤退し、息子・利長の領地・越前府中へ逃げ延びます。
そして、翌日、羽柴軍の追手がやってくると、利家は降伏し、そのまま羽柴軍と共に勝家のいる越前・北ノ庄へと進軍します。
秀吉と共に、勝家を自害へと追い込みます。

下剋上の世、戦国時代にあって、大出世を遂げていった前田利家・・・
その裏には、妻・まつの尽力があったと言われています。
能登の末森城が、佐々成政によって攻められた時、利家は戦費がかさむことを懸念し、援軍を送ることを渋っていました。

「家臣ではなく、金銀を召し連れて槍をつかせたら??」byまつ

自分の家臣の命よりお金に執着する利家を痛烈に皮肉ります。
ようやく利家は援軍の派遣を決断します。
この戦での勝利が、秀吉の北陸制覇の大きな一歩になったと言われています。

こうしてまつの内助の功を受けながら、盟友・秀吉を支えていく存在となっていきます。

1585年、羽柴秀吉は関白に任ぜられ、豊臣姓を賜り、ここに豊臣政権が誕生します。
秀吉は、京都に豊臣政権の本拠地・聚楽第を造営。
その周辺には、諸だぢみょうの屋敷が置かれ、利家は1年の大半をここで過ごし、秀吉のために働いていきます。
秀吉も、そんな利家を信頼していました。

1587年、秀吉自ら九州平定へ出陣。
留守居として京都を守ったのは利家でした。
実直な働きぶりと、気心の知れた安心感・・・諸大名の中にあって、利家の存在は秀吉にとって特別なものでした。
しかし、2人の関係を脅かすことが一度だけありました。

1590年小田原攻め・・・
上洛の求めに応じない、北条氏政・氏直親子を討つため、秀吉は諸大名を動員し、自らも小田原へと攻め込みます。
利家は、越後の上杉景勝と共に別動隊を編制。
北陸から南下し、北関東に陣取る北条勢力を討ち取るよう秀吉に命じられました。
利家らは、上野国の松井田城、武蔵国の鉢形城などを落としていきました。
しかし・・・利家が、秀吉の怒りを買ったのは、この頃のことでした。

従来の説によると、降伏した北条方の武将を助命するなど、利家の戦い方の甘さに秀吉が不満を持ったからだと言われています。
しかし・・・一緒に戦っていた上杉景勝や息子の利長も連座しているはず・・・
しかし、そんな形跡はありません。
そして、秀吉からとがめられた後も、軍事行動を行っています。
利家に政治的な落ち度があったのではなく、感情的なもつれ、意思疎通の問題など、小さな揉め事の可能性があります。
一説に、ある大名が、利家に関してありもしないことを秀吉に告げ口したことで、秀吉が真に受け怒ったと言われています。
それは、秀吉と利家の仲の良さを妬んでのことだったのかもしれません。
結局、秀吉の側近である浅野長政のとりなしもあって、秀吉の利家への怒りは収まります。

小田原攻めで、北条氏を攻め滅ぼしたことで、秀吉は関東を平定し、東北の諸大名らも臣従させ、天下統一を成し遂げます。
すると、甥の秀次に関白の座をあっさりと譲り、太閤となった秀吉は次なる野望・朝鮮出兵に向けて行動を起こします。
そして、この頃から、秀吉と利家の関係に再び変化がみられることになります。



③信長に代わり天下統一を進めていく秀吉に仕えていた56歳の時
秀吉の朝鮮行き・・・認めるか?止めるか?
1592年、豊臣秀吉は、中国・明を平定するため、朝鮮半島への出兵を命じます。
朝鮮出兵です。
丁度その頃、前田利家は、新しい役目を仰せつかります。
秀吉のそばに付き、雑談の相手などをして秀吉の心を癒すというものです。

隠居した大名や、話術・学問に秀でた者がその任につくのが通例でしたが、利家のように現役の大名が務めるのは異例のことでした。
この頃、秀吉は、親族の死・・・弟・秀長、嫡男・鶴松が相次いで病死。
特に、秀吉の右腕として働いた秀長の死は、豊臣政権にとって大きな痛手でした。
そこで、利家に白羽の矢が立ったのです。
この時、利家の三女が秀吉の側室になっていたため、もはや利家は、秀吉にとって親族のような存在でした。
秀吉は、親族のように信頼できる利家をそばに置くことで、弟・秀長のような相談役になってもらおうと考えたのです。
これによって、利家は、秀長が担ってきた秀吉の暴走を止めるという役目も背負うことになります。

もう一人の有力大名・徳川家康と共に、秀吉について朝鮮出兵の拠点である肥前・名護屋城で・・・
豊臣軍が、朝鮮半島で善戦していることを聞いた秀吉が、なんと自分も海を渡って戦場へ行くと言い出しました。

秀吉の朝鮮行きを容認するのか、止めるのか・・・
利家が選んだのは、止める!!
利家は、家康と共に秀吉を必死で説得し、なんとか思いとどまらせたといいます。
結局、日本側が撤退する形で終わった朝鮮出兵・・・
もし、利家が秀吉を止めていなければ・・・戦は長引き、日本の運命は大きく変わっていたかもしれません。




④利家が亡くなる直前63歳の時
1593年8月、豊臣秀吉と淀の方との間に秀頼が生まれます。
諦めかけていた跡継ぎの誕生に、もろ手を挙げて喜ぶ秀吉。
しかし、その裏で、秀吉に仕えていた前田利家は複雑な思いでした。
遡ること2年前、秀吉が甥の秀次に関白の座を譲ったことで、誰もが秀吉の跡継ぎは秀次だと考えていました。
しかし、秀頼が生まれたことで、跡継ぎが誰になるか不透明な状況に・・・!!
秀次とも親しい関係にあった利家は、秀次の立場が危うくなることを案じていました。
そんな中、1595年、突如、秀次に謀反を企てたという嫌疑をかけ、関白の職を剥奪、高野山へ追放しました。
秀次は、失意の中自害してしまうのです。
秀次の死によって、跡継ぎが秀頼に決まったことで、秀吉は新しい組織づくりに着手します。
五大老五奉行せいです。
五大老・・・徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝
五奉行・・・石田三成・浅野長政・増田長盛・長束正家・前田玄以
の合議制により、自分が無き後も豊臣政権を維持しようと考えたのです。
さらに秀吉は、一番信頼していた利家を秀頼の後見人・・・傅役に指名しました。
それで安心したのは、やがて秀吉はこの世を去ってしまうのです。

主君であり、無二の友である秀吉の死に、悲しみに暮れる利家でしたが、この時、すでに利家も病魔に侵されていました。
それでも利家は、最期の力を振り絞り、跡継ぎ・秀頼の後見人よしての役割を務めます。
ところが・・・不穏の動きを見せる者が・・・五大老のひとり、徳川家康です。
秀吉の生前から、許可なく大名家同士が結婚することを禁じられていたにもかかわらず、家康は味方を増やそうと自分の親族と、伊達家や蜂須賀家との結婚話を進めていました。

これに怒ったのが、四大老と石田三成ら五奉行でした。
家康のもとにも支持する諸大名が集まり、利家らと家康との間に一触即発の様相が漂い始めます。

家康と戦うのか、それとも和解するのか??
最後の選択を迫られます。
利家が選んだのは、家康と和解するでした。
利家が、病を押して家康の屋敷を訪ね、その後、家康が利家の屋敷を訪問。
双方が和解したのです。
しかし、家康が訪れた際、利家はすでに死の床にありました。
一説に、その際利家は家康に、こう頼んだといいます。

「これが暇乞いでござる
 わしは間もなく死ぬ
 利長のことを頼み申す」

さすがの家康も、この利家の申し出を涙ながらに受け入れたといいます。
その翌月・・・1599年3月3日・・・利家死去。
63歳の生涯でした。

徳川家康が、天下分け目の関ケ原で勝利したのは、前田利家が亡くなった翌年のことでした。
利長は、関ケ原の戦い直前、母親で利家の正室である”まつ”を家康に人質に差し出すことで、家康方につくことを表明。
関ケ原の戦いののち、家康から加賀国の南半分を加増され、併せて120万石を領することになります。
前田家と徳川家は、婚姻関係を結び、両家は良好な関係にあったといいます。

利家と家康の和解は、前田家にとって大きなターニングポイントだったのかもしれません。

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京都市北区にある等持院は、足利将軍家の菩提寺です。
その一角にある霊光殿には、歴代将軍の木像が安置されています。
およそ240年続き・・・15歳将軍の足利義昭・・・
織田信長の後ろ盾で将軍となってから京都を追放されるまで5年・・・幕府を滅亡させてしまった最後の将軍となりました。
そんな義明につけられたレッテル・・・傀儡将軍・・・
信長に操られていた無能な将軍だったというのですが、本当にそうだったのでしょうか?

1537年11月3日、足利義昭は、12代将軍足利義晴の次男として生まれました。
兄は一つ年上の義輝、下には弟と二人の妹がいました。
足利将軍家では嫡男以外の男子は、仏門に入るのが習わしで、次男である義昭は6歳で、仏教勢力で最大勢力を誇る奈良・興福寺一乗院に入れられ、覚慶と名乗ります。
その後、1546年父・義晴が、まだ11歳だった兄・義輝に将軍職を譲ります。
覚慶は、仏教を修行を続け、26歳で一乗院の門跡となり寺の跡を継ぎます。
本来ならば、このまま僧として生涯を全うするはずでした。
しかし・・・29歳の時、事態は一転・・・乱世に飲み込まれていくのです。

1565年、兄である13代将軍・義輝が、幕府の実権を握っていた三好義継とその家臣である三好三人衆らによって暗殺されてしまったのです。
世に言う永禄の政変です。
この時、覚慶の母・慶寿院と弟・周暠は京都にいたので殺されてしまいました。
覚慶は、奈良におり、寺を継ぐことを条件に命が保証されていました。
命は助かったものの、覚慶は、興福寺一乗院に幽閉されてしまいます。
そんな中、義輝の側近・細川藤孝らが覚慶脱出計画を画策します。
覚慶を新たな将軍として、三好勢から政権を取り戻し、幕府を再興しようと考えたのです。
しかし・・・幽閉された覚慶には見張りがつけられていました。
唯一出入りが許されたのは、細川藤孝只一人・・・その藤孝が計画を覚慶に伝えます。

覚慶は、藤孝に覚慶が病気だと偽り医師を呼ぶように指示します。
意を汲んだ藤孝は、配下の医師を送り込みます。
そして兄・義輝が襲撃されてから2か月後のある晩・・・
病気平癒と称して、番兵に酔いつぶれるまで酒を勧めます。
覚慶は、番兵が酔いつぶれたすきに屋敷を脱出!!
直臣である和田惟政を頼り、近江へと逃れます。
将軍になり、兄を殺した三好勢から政権を取り戻し、幕府を再興するという使命を帯びた覚慶は、すぐに見方を集めます。
上洛する為に越後・上杉謙信、安芸・毛利元就など、諸国の諸大名などに出兵を擁する御内書を出しました。
御内書は、本来は将軍が発給する文書です。
覚慶はまだ僧侶の身分でしたが、これを発することで正当な将軍の後継であることをアピールしたのです。
この時、まだ覚慶が後継者だとは決まっておらず、京都では三好三人衆が従兄弟にあたる足利義栄を将軍職に就かせようとしていました。

1565年11月、覚慶は近江国矢島の少林寺うつります。
その翌年の2月に、還俗して「義秋」と名を改め、僧侶から武士に戻りました。
そして2か月後、朝廷から従五位下左馬頭に任じられます。
これは、足利将軍家にとって意義あることでした。
足利尊氏の弟・直義が左馬頭に命じられていました。
この左馬頭は、将軍の後見人や次期将軍が任じられる官職でした。
しかし、義秋が任じられた年の12月・・・義栄も左馬頭の官職を得るのです。
焦った義秋が動きます。
義栄を擁立する三好勢を倒すべく、各地の大名たちに御内書を出すのです。
ところが・・・良い返事をくれる者も、兵を送ってくる者もいませんでした。
この頃の戦国大名たちは、お互いに近隣の大名達と生存をかけて闘っているので、国を留守にすることはできなかったのです。
なので、次期将軍の予防であっても、上洛することは難しいことだったのです。
そんな中、義秋の書状に乗ったのが織田信長でした。
この時信長は、尾張を統一したばかりの32歳、勢いづく信長は、義昭に上洛にお供しますと返してきたのです。

1566年8月、こうして信長は、京に向けて出兵します。
しかし、交戦中だった美濃の斎藤龍興に撃退され、先に進めませんでした。
上洛しようと勇みながら、あっけなく敗退した信長を龍興は”天下の笑い者”と嘲笑・・・
耐え難い屈辱を受けた信長は、京都までの経路を安全なものにすることが先だと思い知り、美濃の攻略を優先します。
さらに、万全を期し、伊勢からのルートを確保する為に北伊勢の攻略も開始。
これによって信長を伴っての上洛は先送りとなりました。
そこで義秋は、別の人物を頼ることにします。
以前から交流のあった越前・朝倉義景です。
義秋は、朝倉義景に上洛を要請しますが、嫡男を亡くしたばかりの義景は、一向に動かず・・・
そうこうしているうちに・・・1568年、三好勢に擁立された足利義栄が14代将軍に就任。
この2か月後、32歳でようやく元服し、義秋を義昭としました。
自分が将軍になるためにはどうすればいいのか・・・??

動こうとしない義景を見限り、越前を出た義昭が頼ったのは・・・信長でした。
信長はこの時、斎藤龍興を倒し、美濃を手中に収め、さらに北伊勢をも攻略、上洛のめどが立っていたからです。
義昭は、信長とゆかりがあったといわれる明智光秀の仲介で、美濃で対面を果たします。
しかし、一度義昭と上洛しようとして失敗、屈辱を味わった信長が再び協力してくれるのか??
不安がよぎる中、義昭はこう切り出します。

「今一度、上洛を手伝ってはくれぬか?」by義昭
「義昭さまの望み、しかと承りました」by信長

ゆくゆくは畿内の制圧を目論む信長は、この上洛を足掛かりにしようと義昭の申し出を受け入れたともいわれています。
義昭は、信長の上洛のおまけだったと・・・。

1568年9月、準備を整えた信長は、6万の兵を率いて上洛を開始。
美濃を出ると、抵抗する南近江の六角氏を攻略、城という城に軍勢を派遣し、城下に火をつけ、南近江を手中にすると、美濃に残っていた義昭を迎えいれ、今日へと向かうのです。
この報せに戦々恐々となったのが京の都の人々でした。
都の人々の関心は、信長の動向・・・義昭のことはどうでもいい??
上洛の主役は信長・・・??
都の人々は、信長が来ることで戦場になることを恐れていましたが、義昭が上洛することにお供として上洛することをわかっていました。
義昭と信長は、上洛の宿願を果たします。
そして、14代将軍足利義栄が病死・・・
1568年10月、義昭はついに、室町幕府第15代将軍に就任するのです。
この時32歳、兄・義輝が、非業の死を遂げてから3年余りが過ぎていました。

室町幕府第15代将軍足利義昭は、上洛の最大の功労者・織田信長のことを御父と呼び、尊敬していました。
その信長に、義昭は斯波家の家督相続(織田家は元々尾張の守護だった斯波家の家臣にありました)、管領職の就任を褒美として与えようとしました。
管領職は、三代将軍足利義満の時に作られた将軍を補佐する幕府ナンバー2の役職です。
織田家の主家であった斯波家・畠山家・細川家の三管領家が務めていました。
しかし、この頃、細川家の家臣だった三好家が力を持ち、畿内の国々を掌握・・・
三管領家の立場は弱まり、管領職は名ばかりの役職となっていました。
そこで・・・義昭は、信長に斯波家の家督を継承させ、管領職につけることで「三管領家」を復活させようとしていました。
「将軍→管領→守護」・・・
そして、諸国の大名を従える幕府を再興させようと考えていました。
ところが信長は、これを辞退・・・義昭は副将軍の座を新しく用意します。
しかし、これも辞退・・・堺・大津・草津に代官を置かせてほしいと・・・直轄地にしてほしいと望み、義昭はこれを認めます。
信長の国は、元々尾張国の津島・・・ここは、尾張の中でも有数の港湾都市でした。
信長は、重要な港を押さえることが利点があるとよくわかっていたので、堺・大津・草津といった交通と物流の拠点となる港を手に入れることで、軍資金を得ようとしていたのです。
地位や名誉より実を取った信長・・・そんな信長の要求を認めた義昭は、結局信長を管領にできずに終わりました。

義昭は、信長の軍事力におんぶにだっこだった・・・??
実際は信長に任せきりではなく、1569年、上洛後信長が美濃に帰るとその隙を狙った三好勢が義昭の御座所となっていた「本圀寺」を襲撃・・・本圀寺合戦です。
この時の義昭は・・・軍勢を指揮し、自ら斬りかかって応戦したといいます。
信長が襲撃の知らせを聞いて急遽美濃から早掛けで上洛した時には、戦はすでに終わっていました。
義昭は、信長に頼ることなく勝利を治めていたのです。

義昭が将軍に就任してから2か月・・・信長によって掟書きが・・・殿中御掟が出されます。
しかし、その中に驚くべき項目が書かれていました。

一、将軍への直訴は禁止する
一、幕臣が御所に用向きがある際は、信長の許可を得ること
   許可なしに御所に近づくことは禁止する

この頃、将軍が財政と領地に関わる訴訟に対して介入が可能となり、影響力が強まりました。
しかし、そうなると義昭に有利な判決ばかりが増え、天下を揺るがす事態になりかねないと、信長は思ったのです。

当時、土地をめぐる訴訟は、問注所で審議され、判決を下すことになっていました。
しかし、その問注所を飛び越えて義昭が判決を下すことが多くなっていたのです。
信長は、いずれもめ事が起こるであろうことを危惧し、義昭の将軍権力を制限、通説ではそれを強要したといわれています。
本当に強要されたのでしょうか?
信長にとって幕府は、秩序の安定をもたらす機関です。
将軍はその「天下静謐」を体現するべき存在でした。
信長は、それを義昭に求めたのです。
義昭もまた天下静謐を目指し理想としていたので、「殿中御掟」は双方が承諾して出したものでした。
世の平和を目指す義昭もまた、政治に秩序と安定をもたらすためには公正な裁判が必要だと考えていました。

丁度この頃、信長は義昭のために将軍御所を建設しています。
その場所は、三好勢の襲撃で自害した兄・義輝の将軍御所跡地に建設されました。
信長は、大量の人員を導入し、堅牢な防衛施設を備えた将軍御所をたった3か月で建ててしまいました。
誰の目から見ても、忠臣と映ったことでしょう。
将軍御所が完成し、信長が帰国する際には義昭はその別れに涙を流したといいます。
まさに、蜜月の時・・・しかし、翌年・・・!!

1579年1月・・・
室町幕府15代将軍足利義昭と織田信長との間で新たな条約が制定されました。
五か条の条書です。
その内容は・・・
・将軍が諸国の大名に御内書を出す際には、必ず信長に報告し、書状を添えて出すこと
・将軍がこれまでに諸大名に出した命令はすべて無効とし、改めて考えたうえで下すこと
信長が将軍義昭を傀儡とし、厳しい要求を突き付けているように見えますが、その理由が第四条に書かれています。
”天下のことは信長に任せおかれたので、相手が誰であっても将軍の許可を得ないで信長の分別次第で成敗する”
通説では、義昭が将軍の仕事・・・天下のことをすべて信長に任せたため、義昭に対して厳しい要求を突き付けることが出来たといわれてきましたが・・・
義昭は信長に任せっきりだったのでしょうか?
”天下”とは、畿内5か国のことです。
さらには、義昭な将軍の権限全てを委任したわけではなく、”成敗”においてという限定的なものだったと思われています。
つまり、義昭は信長に対し、「畿内5か国における討伐」の権限を与えたのにすぎず、将軍の仕事を任せたわけではなかったのです。

1570年、勢力回復を図る三好三人衆が摂津で挙兵します。
将軍義昭は、信長と共に出陣します。
この時の幕府・信長連合軍6万のうち3万は、義昭の動員要請によって集められました。
そう考えると、義昭の力を侮ることはできません。
幕府・信長連合軍は、大軍によって三好勢を圧倒するも、大坂にある石山本願寺が挙兵!!
信長が本願時と敵対します。
義昭もまた本願寺と対立することとなりました。
この本願寺挙兵に呼応して、越前・朝倉義景、北近江・浅井長政が兵をあげます。
さらに、甲斐の武田信玄までもが信長打倒に乗り出したのでした。
これによって幕府・信長連合軍は、三好、本願寺、浅井、朝倉、武田に包囲されてしまいました。
信長包囲網の形成です。
今までは、この信長包囲網は、義昭がしたものと考えられてきました。
しかし、実際には義昭に敵対する勢力との合戦だったので、義昭も包囲される対象であり、義昭・信長包囲網だったことが分かります。
信長包囲網は、義昭が仕組んだものではなかったのですが・・・

幕府再興と天下静謐を目指し共に戦ってきた第15代将軍足利義昭と織田信長・・・
義昭は信長に、上洛して将軍にお礼を申し上げるようにという書状を信長に出させています。
これを受け、諸大名は次々に上洛、幕府の臣下であることを認めたのです。
こうして将軍の権威は回復、目指した幕府再興が叶いました。
しかし、2人の中に亀裂が入ります。
将軍となってから5年・・・義昭が信長を裏切るのです。
一体何があったのでしょうか?
原因の一つは、義昭の所領政策にありました。
幕臣たちの給与である所領の与え方が、人を選んだ偏ったものだったのです。
十分な所領を得られなかった幕臣たちは、不満を募らせ信長に助けを求めます。
これを受け、信長は義昭に対し異見十七ヶ条を送りつけます。
その第3条には、
”よく奉公をして忠節を尽くしている者にそれ相応の恩賞を与えずに、新参者でたいした身分でもない者に扶持を与えている、人々の評判もよろしくない”
痛烈な批判を食らった義昭でしたが、偏った所領政策には理由がありました。
幕府には、義昭以前から与える領地が無くなってきていました。
義昭の所領政策は、破たんしていたのです。
与える領地が不足していたため、致し方のなかったことだったにもかかわらず、信頼していた信長に批判された義昭は、信長に強い不信感を抱くようになります。

そんな中、1573年1月25日・・・三方ヶ原の戦いが勃発!!
織田・徳川連合軍が遠江の三方ヶ原で武田軍と激突し、大敗を喫するのです。
これによって信長の本国・尾張と美濃は、いつ武田軍に攻め込まれてもおかしくない状況に・・・
そこへ、朝倉達反信長方が大挙して来れば、たちまち京都は戦場と化します。
義昭は決断します。

「このまま信長と一緒にいては、せっかく再興した幕府も危うくなる・・・
 もはや信長を裏切るしか手はないか・・・??」

義昭が、反信長の兵をあげたのは、1573年2月13日・・・幕府を守るために苦渋の決断でした。
信長は義昭の離反を知り、とても驚いたといいます。
一方、反信長方に翻った義昭を味方につけた三好・本願寺・浅井・朝倉・武田は、有利に戦いを進めていきます。
信長討伐まであと少し・・・!!
しかし、思いもよらない事態が起こります。

病に伏していた武田信玄が、1573年4月12日死去。
武田勢が甲斐に撤退します。
さらに、近江に出陣していた朝倉軍も撤退。
信長包囲網の崩壊です。
信長は、この機を逃しませんでした。
義昭のいる京まで軍勢を率いて都に火を放ったのです。
義昭は、二条城で抵抗を続けていましたが、都で戦火が広がることを恐れた時の正親町天皇が、義昭・信長双方に矛を収める様に命じ、講和が成立するのです。

ところが・・・その3か月後、義昭がまさかの再挙兵!!
信長をどうしても許すことのできなかった義昭は、一方的に講和を破棄、3700という僅かの勢力で再挙兵し、山城の槙島城に籠城します。
これに対し信長は、大軍で槙島城を攻め、周辺一帯に火を放ちます。
恐れをなした義昭は降伏・・・信長によって都を追放されると山城枇杷荘に退きました。
これをもって、室町幕府滅亡とされてきました。
しかし、義昭が将軍の地位を朝廷に返していなかったため、名目上幕府は存続していました。
義昭は、西国の大大名・毛利元就を頼り、備後の鞆の浦に映ったのち、鞆幕府を作ったといわれています。

信長から都を追われてもなお、幕府を再興しようと奮闘して、守ろうとしたのです。
しかし、時代は義昭に味方をしませんでした。
天下は織田信長の世に・・・そして信長が本能寺の変で自害すると、豊臣秀吉が天下人となるのです。
その後、秀吉から京に戻ることを許された義昭は、1588年将軍職を辞して出家・・・
名実ともに室町幕府は消滅したのです。
晩年、義昭は、秀吉の保護を受け、槙島一万石の大名となります。
大阪城下に私邸を構え、静かに暮らしたといいます。
そして、1597年8月28日、61歳で波乱の人生に幕を下ろすのです。

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明智光秀って、紹介するにはいろいろエピソードがあって・・・
でも、本当のことはあまりよく知られていないという・・・なんとも難しいキャラです。
が、色々話があるのにわからないってことは、いろんな話が作れるってことで、ドラマとしては面白くなるのかもしれないですね。

mituhide













先日紹介しましたが、「麒麟がくる」では長谷川博己さんがやってくれます。

mituhide2



















明智光秀は、みなさんご存じだと思いますが、本能寺の変で織田信長に謀反を起こし、でも・・・根回しが不十分で誰も味方がおらず、中国大返しで意気揚々な羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、三日天下で終わる・・・あの光秀です。

後に世を治めるのが、光秀のライバルであった秀吉や家康だったので、なかなかいいところは書物として残されていないというのが現状です。
だから、光秀のことはよくわからないんだと思います。

光秀の本姓は、源氏、清和源氏の家系で、土岐氏の支流である明智氏の出身です。
糟糠の妻は熙子、子供にはあの細川ガラシャもいます。

私のイメージでは、武闘派で田舎者の多かった織田家臣団にあって、唯一の知性派だったと思います。
もちろんそこは信長も一目置く・・・というか、光秀の公家とのあれこれを最大限に利用します。
そうして、真面目で使い勝手のいい光秀・・・
だからこそ、一国一城の主となったのは、家臣団の中で光秀が第一号でした。
信長に出会ってから3年・・・出世争いで秀吉を大きく引き離します。

ちなみに、この時秀吉は、裏切った浅井攻略を任されていましたが、大苦戦!!
浅井氏の居城・小谷城を攻め落とし、浅井氏を滅ぼすのに3年の月日を費やしてしまいます。
その後、1573年信長から落とした小谷城と北近江3郡13万石を与えられます。
一国一城の主に・・・家臣団の中では第2号・・・光秀からおよそ2年遅れてのことでした。

後に信長に領地を取り上げられますが・・・
領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域もあるほどです。

聞けば聞くほど・・・光秀のことを知りたくなります。
大河ドラマでは、どんなふうに色付けしてくれるのか・・・とっても楽しみです。



「明智光秀が築いた京の奥座敷 亀岡の城下町」はこちら
「明智光秀・本能寺への葛藤」はこちら
「悲劇!二君に仕えた男~明智光秀~」はこちら
「光秀VS秀吉 信長はどちらを評価?」はこちら
「明智光秀~"天下の謀反人"の真実~」はこちら
「新説・山崎の戦い~なぜ光秀は天下をとれなかったのか?~」はこちら

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群雄割拠の戦国時代、並み居る強敵を退けて天下統一に王手をかけたのが織田信長です。
しかし、その戦績を見ると・・・
上杉謙信・・・64勝8敗36分
武田信玄・・・54勝6敗22分
織田信長・・・151勝42敗9分
と、負け戦が多いのです。

どうして信長は戦国の世を征することができたのでしょうか??
その理由は旗印にありました。
描かれているのは・・・「永楽通宝」・・・どうしてお金を旗印にしたのでしょうか??
それは、銭の力で天下を取る・・・信長の圧倒的な力は経済力だったのです。

1559年尾張国を平定した織田信長は、桶狭間の戦いで駿河・遠江を支配する今川義元に勝利し、天下に名をとどろかせます。
その勢いはとどまることを知らず、美濃の斎藤龍興を責め難攻不落と言われた稲葉山城を制圧!!
岐阜城と改めて新しい居城としました。
天下統一に邁進する信長・・・この時34歳!!
しかし、まだまだ並の大名にすぎず、武田信玄や上杉謙信の足元にも及びませんでした。

1568年、室町幕府の再興を願う足利義昭から支援を要請された信長は、義昭を擁して上洛。
6万もの兵を以て京を制圧し、義昭を15代将軍に就任させます。
大いに喜んだ義昭は、褒美をとらせることに・・・

「此度の礼として畿内5か国の管領に任ぜよう」by義昭

信長にとっては大変な出世でしたが・・・「身に余ること」と辞退してしまいました。

義昭は・・・「管領で不足ならば、副将軍ではどうじゃ」

それでも信長は首を縦に振りません。
何が欲しいのか・・・??

「堺・大津・草津に代官を置かせていただきたい」by信長

代官を置くとは、直轄地にすることで・・・義昭はそれをあっさりと認めました。
どうして信長は副将軍の座より3つの町を選んだのでしょうか??

足利将軍に取り入れられることを拒否し、銭の力で天下統一を果たそうとするマネー戦略の一つでした。

信長のマネー戦略①地位より港町
堺は、日本最大級の港町で、物流の拠点でした。
日明貿易や南蛮貿易の外国船も数多く入港し、国際商業都市として大いに発展。
それは、京都をもしのぐ繁栄と言われ、フランシスコ・ザビエルは
「日本の殆どの富がここに集まっている」と言っています。
一方、大津と草津は、琵琶湖水運港町でした。
当時、京都と日本海を行き来するためには、琵琶湖水運で船を使うのが一般的でした。
そのため、大津と草津には、常に多くの人や物が出入りしていたのです。
信長が、義昭に所望した場所は、いずれも物流の拠点となる港町でした。
当時は、船の積み荷に関税を課していました。
大きな港となれば、莫大な関税収入を得ることができました。
これが、信長の軍資金となりました。
越後の上杉謙信の場合、柏崎港と直江津港からの関税収入は、年間4万貫・・・約60億円でした。
堺や大津などは、莫大になったでしょう。
副将軍より三つの町を選んだ理由は、港町からの莫大な税収を、軍資金にして天下を取るためでした。

1534年、信長は尾張国守護代重臣の織田信秀の長男として生まれます。
守護代とは、守護大名を補佐する立場で、尾張には二人いました。
信秀は、その守護代のひとりに仕える重臣のひとりにすぎませんでした。
信長が生まれた頃から急激に勢力をつけていきます。
そこには圧倒的な経済力がありました。
信秀は、勝幡城近くにある津島近くの港町を支配下に置いていました。
木曽川沿いの津島は、伊勢湾水運の要所で、多くの船が出入りしていました。
信秀は、ここに出入りする船に関税をかけ、莫大な収入を得ていました。
さらに信長が生まれた年には古渡城を築城、それによって伊勢湾水運によって栄えていた熱田湊の関税収入を手に入れます。
すると信秀は、伊勢神宮の下宮の仮殿造営費のために700貫(1億円)を献上。
四千貫(6億円)を京都御所の修理に献上。
圧倒的な経済力を相手に見せつけることで圧倒!!
ついに、尾張国の実質的支配者となるのです。
そんな父を見て育った信長は、「武力に勝るものがある」ことを、知っていたのです。

1560年、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った翌日、信長は清須城で論功行賞を行いました。
真っ先に一番槍をつけた服部春安か、一番首の毛利良勝が一番手柄だろうと考えていました。
ところが、信長が一番の褒美を与えたのは戦場では目立った活躍もしていない簗田政綱でした。
簗田は信長への情報提供・・・戦った武将たちよりも情報を届けた簗田の方が手柄が上だと考えたからです。
戦国の世に置いて、武力だけにとらわれない信長は、革新的な経済政策を打ち立てていきます。

信長のマネー戦略②楽市楽座

美濃国の戦国大名・斎藤龍興を退けて岐阜城に入った信長は、1568年に岐阜城下に「楽市楽座令」を発布します。
「市の独占、座の特権は全く認めない」
市=商売を行う場所のこと。
当時は、定められた市でしか商売ができず、一の多くは寺社の境内や門前に開かれることが多く、商人たちは寺子銭(場所代)を払わなければなりませんでした。
座=商品の独占販売権を持つ同業者組合のこと。
商人たちはどこかの座に所属しなければ商売ができませんでした。
座を保護している公家や寺社に冥加金(売上税)を払わなければなりませんでした。
信長はこれらを自由化してどこでも商売ができるようにし、以前よりも安く設定した売上税のみを信長側に支払うように命じました。

楽父楽座は、南近江の戦国大名・六角義賢が観音寺城で始めたもので、信長よりも20年ぐらい早く始めていました。
更に進化したものを行った信長です。
信長の経済改革によって岐阜城下には多くの商人が集まりました。
経済は活性化し、城下町が急速に発展!!
信長には売上税ががっぽり!!
しかも、城下町のおかげで人材や物資の確保がしやすく、天下取りの土台と考えていました。

この楽市楽座には、信長の大いなる野望が隠されていました。
”天下布武”という言葉の意味は・・・
鎌倉時代以降の日本は、公家、寺家、武家の3つの権門がけん制し合っていました。
公家や寺家が莫大な税収に寄って武家に対抗できる大きな権力を持っていたのです。
信長は、公家や寺家の介入を許さない、純粋な武家政権の樹立を目指していました。
公家や寺家の既得権益を奪い、経済力を低下を図ったのです。
そして、商人たちを信長の味方につけることに繫がりました。

さらに関所を撤廃。
これもまた天下布武のためには外せません。
戦国時代の関所は税関で、公家や寺社が自領の荘園内を通る道に勝手に関所を設けていました。
通行税を課して、大きな収入源としていたのです。
そのため、関所の数は膨大で・・・
荘園が入り組んだ淀川河口から京都までの50キロの間に、380カ所もありました。
ひどいところでは、1里の間に40カ所もありました。
行商人は大変で・・・上乗せした値段が高くて商品が売れないという悪循環も・・・
そこで信長は、1568年頃から関所の撤廃を始めます。
公家や寺社の資金源を断ち、商品をスムーズに動かし経済を動かしました。

信長のマネー戦略③交通インフラの整備

戦国時代、通常戦国大名たちは敵を警戒して居城辺りはわざと悪路にしていました。
橋も架けない・・・そんな常識を・・・
1574年、命令を出しています。
・入り江や川には船を並べた上に橋を架け、意志を取り除いて悪路をならせ
・本街道の道幅は、3間2尺(約6.5m)とし、街路樹として左右に松と柳を植えよ
・周辺の者たちは道の清掃と街路樹の手入れをせよ

交通インフラの整備によって商品流通を活性化させ、財を成した商人たちから多くの税を集めることが目的でした。
道を通りやすくすることで敵に攻められやすくなる・・・そのことを、圧倒的な経済力によって強化しました。

兵農分離・・・当時の多くの兵士たちは、半農半兵の地侍でした。
普段は村に住んで田畑を耕し、合戦が始まると戦場に駆り出されていました。
そのため、農繁期の秋には出陣もままならず、長期遠征も困難でした。
「戦に専念できる兵士が欲しい」
そこで、信長が目をつけたのが、地侍の次男、三男でした。
当時は調子相続が原則で、次男、三男は長男が亡くなった時の控えで、家を継ぐことはありません。
そんな次男、三男を召し抱え、親衛隊を結成しました。
親衛隊が活躍すると、兵農分離を強化します。
召し抱えた兵士たちを城下町に住まわせて、武器ごとに集団訓練をさせます。
高い組織力と機動力で強くなっていきました。
農業からから切り離した兵士たちに生活費を支給しなければならない・・・経済的な負担は大きいものでしたが、それを実行できたのは、信長が様々な税によって収益を得ていたからです。
信長の経済力がなさせた・・・天下統一への大きな要因の一つでした。

火縄銃・・・信長が10歳の時、1543年にポルトガルから種子島に伝来。
しかし、強力な新兵器としてみなが興味を示すも普及しませんでした。
その理由は・・・
①弾を込めるのに時間がかかる
②非常に高価だった
からです。
鉄砲1挺=1丁30金・・・およそ50万円しました。
信長は、鉄砲を重視していました。
19歳の時に引き連れていた親衛隊は、500挺の鉄砲を持っていました。
そして、その鉄砲が活躍したのは、織田・徳川連合軍と武田勝頼軍が激突した長篠の戦いでした。

兵の数こそ織田・徳川軍が大きく上回っていたものの、武田軍には戦国最強の騎馬軍団がいました。
そこで信長は、今のお金で15億円という大金を使って3000挺の鉄砲を購入し、騎馬軍団に対抗しました。
一発撃つごとに先頭を交代し、連射を可能にしたともいわれています。
これによって長年の宿敵・武田軍を撃破!!
天下取りに大きく近づきました。
強大な経済力と境を手に入れていたこと・・・この二つが鉄砲を大量に手に入れることができた理由でした。
堺は鋳物文化が盛んであったこと、そして日本では作ることのできない火薬である硝石を手に入れやすかったことが、信長が鉄砲を存分に使えた理由でした。

信長のマネー戦略が武力に勝った瞬間でした。
その経済力のたまものの兵器・・・鉄鋼船です。
1570年、寺社勢力を削ごうとする信長に対し、石山本願寺の蓮如が立ち上がります。
各地で一向一揆が勃発!!
激闘を繰り広げるも、蓮如は次第に追いつめられていきます。
すると・・・中国地方の有力大名の毛利輝元に援助を要請!!
毛利水軍700艘を本願寺に・・・補給のために大坂湾に差し向けます。
信長は、これを阻止する為に300艘を大坂湾に・・・しかし、あえなく撃退・・・。
毛利水軍焙烙火矢(焼夷弾)によって多くが焼かれてしまいます。
信長は、配下に置いていた伊勢志摩水軍に燃えない船を作れと言明!!
こうして作られたのが鉄鋼船です。
全長23mの巨大な船でした。
当時、鉄鋼は高価なので、船全体に貼ることは莫大なお金が必要でした。
それを作ってしまった信長・・・経済力は相当なものでした。
この頃、鉄鋼船は世界中にどこにもなく、信長が初めてでした。
鉄鋼船は、焙烙火矢にはびくともせず、多数の銃を搭載していたので圧倒的な力で毛利を撃退!!
2年後の1580年には石山本願寺が降伏しました。

信長のマネー戦略④居城の移転
一所懸命・・・当時の武士たちは一つの場所でその土地を命をかけて守るというものでした。
そして、その土地をめぐっての戦いで・・・土地が最も大切でした。
そのため、自分の土地を離れる者はおらず、武田信玄、上杉謙信も一度も城を移してはいません。
しかし、信長は那古野城、清須城、小牧山城、岐阜城、安土城と、4回も城を変わっています。
理由は・・・22歳の時父から譲り受けた那古野城から清須城に移転したのは、清州が尾張国の中心だったからです。
8年後に小牧山城に移ったのは次の侵略目標の美濃に近いからでした。
美濃を攻略するとそのまま岐阜城に。
次には安土城に・・・更なる領地拡大の拠点とするため、最前線に城を築いたのです。
兵農分離のなせる業でした。

新しく城を築くには、莫大なお金がかかります。
城下町を拡大すれば、経済が活性化し、税収がアップする・・・城下町を作り、拡大し、より多くの税収を集めるために居城を移転しました。
満を持して・・・安土城!!
1576年1月・・・信長は標高200メートルの安土山に築城を開始。
この時43歳でした。安土を選んだ理由・・・
中京経済圏、近畿経済圏の両方に目を光らせ、琵琶湖を使えば京都に半日で行けること。
中山道、近江商人と伊勢商人が行き来する八風街道・・・商品流通の要所・・・経済的な発展も狙っていました。
城下町も整備し、商人たちの誘致にも知恵を絞ります。
「安土山下町中掟書」には・・・
・城下町を楽市楽座とする
・往来する商人は必ず安土に立ち寄らなければならない
・他所からに転入者も従来からの住人と同じ恩恵が受けられる
・馬の流通は安土で独占する

人々を呼び集めるために政策が書かれていました。
城にも・・・完成した安土城は七層の壮大なものとなりました。
最上階は内も外も金で輝いていたといいます。
信長はこの城を、盂蘭盆会でナイトアップ!!
人々は集まり、信長の威厳と力を目の当たりにしました。
信長は、安土を京都や堺に並ぶ大都市に成長させました。
天下統一がなされたときには、安土に遷都を考えていました。
安土城には天皇を迎えるための御幸の間がありました。
そして、その御幸の間は信長の天主よりも低いところにあったのです。
天皇をも凌駕する存在になろうとしたのでは・・・??
お金の力で天下を取る・・・それを現実のものにしようとしていた信長・・・
1582年6月2日、京都本能寺で明智光秀に襲撃されあえなく死去。
光秀は、天皇をも超える存在になろうとしていた信長を危惧し、今何とかしないと大変なことになる・・・そう考え謀反を起こしたともいわれています。
巧みな経済感覚で時勢を追い、戦乱の世を征した信長でしたが、光秀の心までは読めませんでした。


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羨望術数渦巻く戦国時代、大きな野望を抱き、下剋上という荒波を乗り越え、遂には天下統一を成し遂げた男・豊臣秀吉。
そんな秀吉には二人の軍師がいました。
一人は、若き日の秀吉を支えた竹中半兵衛。
織田信長が認め、家臣にしたがったほどの逸材!!
もう一人は、その半兵衛の後を継ぎ、秀吉を天下人へと導いた黒田官兵衛です。
天下無双の戦術と巧みな交渉術で次々と敵を落としていきます。
清算帽として名を馳せた半兵衛と官兵衛。
二人の天才軍師・・・最強なのはどちらでしょうか?

美濃国・斎藤家に仕えた竹中半兵衛は、1544年に生まれ、細身で色白女性のような面立ちでした。
性格も温和で女性のようでした。
しかし、軍師・半兵衛は、「敵を制すること神の如し」と、軍師・諸葛孔明に例えられ、”今孔明”と呼ばれていました。
黒田官兵衛は・・・半兵衛よりも年下の1546年生まれ、姫路出身です。
軍師としては、戦国一の切れ者と言われました。

①戦術
竹中半兵衛は、豊臣秀吉に仕える前は、美濃国・斎藤龍興の家臣でした。
龍興に対し、クーデターを起こします。
難攻不落の稲葉山城をわずか17人で、1日で落としてしまいました。
1564年稲葉山城占拠事件です。
半兵衛はどうやって難攻不落の城を落としたのでしょうか?
まず、稲葉山城に詰めていた弟・久作に仮病をさせ、その見舞いの為と見せかけて城に向かいます。
酒と御馳走と偽って、長持ちの中にびっしりと武具を詰め込んで!!
一行は、武具を身に着けるや否や、一気に奇襲!!
龍興の側近ら6人を殺害します。
半兵衛の奇襲に龍興は動揺し、家臣らと共に城から飛び出していきました。
どうして半兵衛はクーデターを起こしたのでしょうか?
斎藤龍興は、政務に関心を示さなかった上に、遊興に溺れていました。
この悪政を見かねてのクーデターだったのです。
電光石火のクーデター・・・半兵衛21歳でした。
これに織田信長が驚きます。
自分が長年攻めあぐねていた稲葉山城をわずか17人で・・・しかも1日で落としてしまった・・・。

「稲葉山城を明け渡すならば、美濃国を半分与えよう」by信長

しかし、半兵衛はこれを拒絶し、半年後、反省した主君・龍興に城を返すのです。

この一件で、半兵衛に惚れこんだ信長は、木下藤吉郎をつかって落とそうとします。
渋る半兵衛のもとに足しげく通う藤吉郎。
どうやって口説き落としたのでしょうか?
と、これは、三国志演義を元にしたお話。。。
信長が美濃・斎藤家を滅ぼした後、斎藤家の家臣を自らの家臣団に迎えています。
この中に一緒に家臣となって、秀吉の与力となっています。
与力とは・・・身分は信長の家臣で、軍事行動の際には、秀吉の一員として戦ったのです。

信長が、天下統一を目指す中、同盟を結んでいた北近江の戦国大名・浅井久政、長政親子が反旗を翻します。
起こった信長は、小谷城を攻撃!!
半兵衛は、秀吉と共に小谷城近くの横山城へ!!
浅井は横山城攻略のために・・・
あたかも別の場所に向かうふりをして横山城を通過、これにつられて出てきたところを迎え討とうというのです。
秀吉は、この策にまんまと引っかかり出撃命令を出してしまいますが・・・
半兵衛はこれを見ぬいていました。
出撃を思いとどまらせ、近くの山中に速やかに兵を配置!!
なかなか兵を出さない秀吉軍に業を煮やした浅井軍は、横山城に接近!!
半兵衛はこれを不意打ちして撃退したのです。
半兵衛のするどい洞察力と起点に救われた秀吉でした。

浅井攻めも大詰め・・・小谷城に・・・!!

「城内にいる御位置を救出せよ!!」by信長

信長の妹であり、浅井長政の正室・お市とその子供たちを救出せよという難題でした。
小谷城は、急峻な山城で、攻め落とすだけでも困難・・・その上、救出とは!!
仮に攻め落とすことができたとしても、お市も自害してしまうかもしれない!!
半兵衛は、情報収集に走ります。
反信長は、父・浅井久政で、長政は仕方がなかったという。
長政とお市は織田に城本丸に、父・久政は小丸に・・・と、離れていました。

そこで半兵衛は、本丸と小丸の間にある京極丸を占拠!!
父・久政を攻撃し、長政のもとへ使いをだしお市を説得!!
追い込まれた浅井親子は自害するものの・・・お市と三人の娘は助け出されました。
情勢を把握し、知略を尽くした半兵衛の見事な戦略でした。


黒田官兵衛は、播磨の小寺政職の家臣でした。
1575年、着々と勢力を伸ばしている織田に付くか、西の大勢力毛利輝元に着くべきか??判断に迫られていました。
割れる意見・・・
小寺家の重臣は、今までのことを考えて毛利に付こうという考えの者が多かった中、官兵衛は・・・
「輝元は凡庸な男、一方信長は向かうところ敵なしで、武名を天下にとどろかせている!!」と、重臣たちを説き伏せました。
播磨が信長に味方することを使者として伝えに行く官兵衛。
秀吉に信長へのとりなしを頼みます。
これが二人の初対面でした。
そして、二人は、毛利の中国地方に攻め入ることになります。

城攻めを得意とした官兵衛。
❶1577年福原城攻め・・・囲師必闕
この時福原城には、毛利方1000の兵が!!
これを知った半兵衛は、三方に兵を置き、一方を空けておきました。
どうして一辺を空けておいたのでしょうか?
「孫氏」の戦術・囲師必闕で、四方を囲むと置き込まれた敵が、予期せぬ力を発揮することがある・・・
死に物狂いでかかってくることを生じさせないために、逃げ道を作っておいたのです。
その逃げ道に密かに兵を置いた官兵衛は、城から逃げてくる敵を一網打尽にしました。
リスクを避けて効率よく相手にダメージを負わせる・・・。
合理的な戦術です。

❷1581年鳥取城攻め・・・渇え殺し
毛利に組した山名豊国の重臣と、毛利からの援軍・吉川経家合わせて2000の兵が鳥取城に籠城!!
経家は兵糧の確保に走りますが、一向に手に入らず苦境に・・・
事前に官兵衛は手を打っていました。
1年前の秋口に、官兵衛が派遣した商人が通常の倍の値段でコメを買い占めていたのです。
農民たちは、鳥取城に治めるはずの備蓄米まで売り払ってしまい・・・城下の米の殆どを手にした官兵衛。。。
そして・・・①城下の村々を焼き払い
      ②領民を鳥取城に逃げ込ませます。
      ③2000人ほどだった城内は倍に!!食料は瞬く間になくなり、多くの人が餓死していきました。
非情な渇え殺し!!
たまらず吉川経家は、鳥取城を明け渡したのでした。

❸1582年備中高松城攻め・・・水攻め
この時、秀吉軍は攻めあぐねていました。
高松城は、湿地帯の中にあり、容易に近づけなかったからです。
大軍では近づけない・・・。
官兵衛が選んだのは水攻めでした。
湿地帯の南側に3キロ(高さ8m・奥行24m)に及ぶ堤防を築きます。
土嚢一つを100文(5000円)で買い取ると農民たちに呼びかけて・・・
数百万個の土嚢が集まって、2週間ほどで完成!!
次に官兵衛は、西にある足守川を堰き止めます。その方法は・・・大量に石を積んだ船を空きなく並べ、一気に船底に穴をあけて沈めました。
梅雨の時期だったこともあって、湿地帯の水位は瞬く間に上昇!!
城主・清水宗治は観念して自害!!
毛利と秀吉との間で講和が結ばれることに・・・!!
官兵衛の場合、極力味方にダメージを与えないような合理的な戦術です。


②交渉術

戦は、必ずしも力のある者が勝つとは限りません。
天候、運、不運・・・も関係している??
戦国時代前期までは、占い、呪術を使う軍師が活躍していました。
戦いによい日時を占ったり、勝利を願う儀式を執り行いました。
しかし、後期になると、兵法に長け、策略や外交交渉もこなせる策士タイプが求められるように!!
豊臣秀吉を支えた竹中半兵衛と黒田官兵衛もこのタイプでした。

半兵衛がその力を発揮したのは、浅井の小谷城攻め!!
信長と秀吉は半兵衛を使って浅井家家臣の寝返り工作を進めさせます。
半兵衛の場合、浅井家にも仕えていたのでは??と言われています。
浅井の家臣・堀秀村、宮部継潤など浅井の家臣を寝返らせています。
戦わずして勝つことを理想とした半兵衛は、事前に敵との交渉し、できるだけ戦を避ける戦術をとったと言われています。
外交交渉だけでなく・・・半兵衛のことを快く思わない秀吉の家臣たちとも交渉を・・・
相手を褒めちぎり、褒めた後にアドバイス!!
秀吉の名前を上手く使いました。


官兵衛の交渉術は・・・
1590年小田原城攻めでは・・・
長期に渡り籠城していた北条氏政、氏直親子を、説得し無血開城していますが・・・。
その交渉術は大胆なものでした。
秀吉軍は小田原城を完全に包囲したものの、なかなか落とせずにいました。
そこで、交渉役として官兵衛を遣わします。
城の中の北条方に、酒・二樽、魚・十尾を差し入れます。
北条家はプライドも高いので、礼を尽くし懐柔しようとしました。
その返礼として鉛玉と火薬が出されました。
この意味は・・・北条の降参ととり、交渉に臨んでいます。
礼装に身を包むと、台頭せずに丸腰で、単身で小田原城に乗り込む官兵衛。
礼を尽くし、説得に当たった官兵衛に対し、北条親子は城を明け渡すことを承諾します。
この官兵衛の働きによって天下人となった秀吉です。


③人間力
二人が秀吉の下で一緒に働いたのは4年間ほどでした。
その頃の二人のエピソードから人間力を推察すると・・・??

官兵衛が秀吉について間もない頃、毛利方の大名を次々と織田方に寝返らせたことで、秀吉から感謝状を受け取り有頂天に!!
得意げに半兵衛に見せると・・・その書状を破り捨てた半兵衛は・・・
「こんなものを残しておいても、そなたの物にはならぬ!!」過去の栄光に縋りつくことを戒めた半兵衛は、手柄をひけらかすことを良しとしない愚直な男でした。

1578年織田信長に仕えていた荒木村重が裏切って毛利についたとき・・・
官兵衛は信長から村重を説得してくるように命じられ、意気揚々と有岡城に入りますが・・・
そこで囚われの身となってしまいます。
いつまでたっても戻ってこない官兵衛に、「村重に続き、官兵衛も裏切ったか!!」と思い込んだ信長は、人質に取っていた息子・松寿丸を殺すように秀吉に命じます。
これに断固反対したのが半兵衛でした。

「人質を殺せば、官兵衛は深く恨み、敵となるでしょう。
 そうなれば、大きな損失となります。」by半兵衛

しかし、この信長の直談判は聞き入れられません。
そこで半兵衛は松寿丸を、美濃国にあった自分の屋敷に匿ったのです。
バレれば自分の命も危ういというのに・・・。
しかし、半兵衛は、官兵衛を信じていました。
出会って数年のふたり・・・半兵衛は、軍師としての官兵衛を高く評価しており、自分が死んだ後、秀吉を支えるのは官兵衛だと思っていました。

1年後、救出された官兵衛は、家臣から半兵衛が息子を匿ってくれていたことを聞くと、半兵衛の懐の大きさに改めて感服し、自分を信じてくれたことに深く感謝しました。


④危機管理能力

乱世の世、危険だらけ??
半兵衛は、高価な馬には乗りませんでした。
それは、いつでも捨てて逃げられるように!!

官兵衛は、??
1582年毛利方の備中高松城を落とした秀吉は、毛利との講和条約を結ぼうとしていました。
が・・・衝撃の知らせが!!
本能寺で信長が光秀に討たれたのです。
焦る官兵衛!!
そもそも、毛利が交渉に応じるのは、急速に勢力を拡大している信長に脅威を感じていたから・・・。
しかも、秀吉軍は、信長軍に加勢すべく集まっていた播磨・備中の諸大名の混成部隊!!
信長が死んだと聞けば、秀吉軍は瓦解する可能性があり、毛利から反撃を受けた場合どうなるか・・・大ピンチでした。
おまけに秀吉は、主君・信長の死で冷静な判断ができない状況でした。
官兵衛はどうしたのか??
秀吉の耳元で・・・
「今こそ、貴殿が天下人となる好機ですぞ!!」by官兵衛

この言葉で我に返った秀吉は、官兵衛にすぐさま毛利との講和条約を結ばせ、明智光秀を討つべく、岡山から猛スピードで200キロを進軍!!
光秀がいた京都・山崎に僅か1週間で到着します。
中国大返しです。
この中国大返しを成し得た裏で、官兵衛が動いていました。

「本能寺で無念の死を迎えた信長公の仇を、秀吉さまが討てば、秀吉さまが天下人となる。
 此度手柄を立てた足軽は侍大将に、侍大将は大名になれるであろう。」by官兵衛

出世欲を刺激された兵たちは走りに走ります。
こうして、空前絶後の大移動が完成したのです。
本能寺の変の時点で、信長の部下がどこにいるのか?それを官兵衛は把握していました。
なので、一早く、秀吉に光秀を撃たせるために!!
信長の死を、秀吉のチャンスに変えたのです。
これがなければ、秀吉は天下をとれなかったかもしれません。


⑤秀吉からの信頼度
軍師・竹中半兵衛最後の戦いは、1578年播磨三木城主・別所長治の三木城攻めでした。
兵糧攻めに出るも、粘る別所軍に思わぬ持久戦に・・・。
長く陣を張り、待つ中で、半兵衛は病に倒れてしまいました。
京都に戻って養生するも、一向に回復せず・・・。
死を悟った半兵衛は・・・
「どうせ死ぬのであれば、戦場で死にたい・・・」
望み通り、戦場に戻ると36歳の若さで亡くなりました。
秀吉はその亡骸に縋りついて泣き崩れたといいます。
病弱だった半兵衛は、私利私欲のない男でした。
いかに敵を攻略するかだけを求めた、生粋の軍師でした。
なので、野心のない半兵衛は、秀吉にとって信頼できる数少ない家臣でした。


中国大返しの後、官兵衛は四国征伐、九州征伐で武功をあげ、秀吉の天下統一に大きく貢献していきます。
しかし、秀吉から与えられたのは・・・豊前12万石の小国でした。
どうして官兵衛の印象は少なかったのでしょうか?

酒の席で・・・
「わしが死んだなら、誰が天下をとると思うか?」by秀吉
家臣らは、徳川家康や前田利家など、有名武将の名をあげたといいます。
すると秀吉は・・・
「官兵衛こそが、天下を取るであろう!!」と言ったと言います。

数々の戦で絶妙の判断・・・多くの信頼を寄せていたものの、あまりの切れ者ぶりにいつしか恐れを抱くようになったのではないか??
天下人の座を官兵衛に奪われるのではないか??
これを伝え聞いた官兵衛は・・・
「某は、恐ろしい者と目されているようだ。」
自分がいると秀吉にお家を潰されてしまうかもしれない・・・と、44歳で隠居。
切れ者過ぎたことで、秀吉に疑念を抱かせてしまった官兵衛でした。

秀吉の軍師、竹中半兵衛と黒田官兵衛・・・どちらが最強でしょうか?
どちらか一人ではなく、二人いたからこそ、秀吉は天下をとれたのです。
 


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