島津斉彬 (シリーズ・実像に迫る11)

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明治維新の立役者の一人、西郷隆盛・・・
西郷が新しい国づくりに邁進できたのは、薩摩藩11代藩主・島津斉彬の存在があったからです。
斉彬がなくなった際には、西郷は死のうとしたといいます。
そこまでさせる島津斉彬とは・・・??

薩摩藩10代藩主・斉興の長男として江戸にある薩摩藩邸で生まれました。
母は、正室の弥姫・・・教養が深く、教育熱心で、乳母を置かずに育てました。
6歳の頃から中国の書物を声を出して読み、絵画、和歌などを母から厳しく教えられた斉彬は、やがて”二つビンタ”と呼ばれるようになります。
ビンタは薩摩弁で頭の事・・・まるで頭が二つあるかのようにいくつものことを同時に処理することができました。
その噂を聞いた幕府の重役たちは・・・
「薩摩のような外様ではなく、譜代大名であったら、幕府の重役として活躍できたであろうに・・・」と、言ったといいます。

しかし・・・40歳を過ぎても藩主にはなれませんでした。
それは、父・斉興がなかなか家督を譲らなかったからです。
斉興は、19歳で藩主となったものの、実権は曽祖父・重豪が握っており、業興が名実ともに藩主となったのは重豪が亡くなってからなのです。
斉興は43歳、斉彬は25歳になっていました。
ようやく藩の実権を握ったものの・・・待っていたのは厳しい財政難でした。
その原因は、重豪でした。
重豪は、オランダ語を話し、歴代のオランダ商館長とも親交を結ぶなど、西洋の学問である蘭学や文化にひどく傾倒し、蘭癖と呼ばれていました。
そこには、薩摩藩の置かれた環境がありました。
全国300あまりある藩の中で、特異な薩摩藩・・・
薩摩藩は、薩摩国・大隅国・日向国諸県郡・琉球王国・・・つまり、現在の鹿児島県・沖縄県・宮崎県の1/3・・・南北1200キロにわたっていました。
おまけに、琉球王国は、名目上中国の支配下の異国・・・藩の中に外国があって、中国貿易が行われている・・・
海外からの物資、情報、文化が次々と入ってきていたのです。
蘭癖大名と呼ばれた重豪は、オランダ、中国などの知識を吸収し画期的な開化政策を打ち出しながら、金に糸目はつけない・・・新しいものや珍しいものを次々と収集します。
藩校である造士館、天文観測施設の天文館を建設し、藩の財政を圧迫していきます。
一時は500万両・・・今の5000億円の借金を抱えていたといいます。
その莫大な借金を返済して、藩の財政を立て直すことが急務でした。
そこで斉興は、幕府の鎖国政策を無視し、琉球を通しての密貿易、抜け荷の拡大で財政の立て直しを図っていきます。
その努力の結果、10年後には50万両の備蓄ができるようになりました。
しかし・・・斉興は斉彬に家督を譲ろうとはしません。
というのも、斉彬は曽祖父・重豪にとてもかわいがられていました。
重豪が斉彬に与えた影響はとても大きかったのです。

斉彬は重豪の蘭癖を受け継いでいました。
多くの蘭学者を優遇し洋書を翻訳させたり、自らローマ字で日記を書いたり・・・蘭学に熱中。
曽祖父と同じく蘭癖と呼ばれるようになるのです。
なので、藩の財政を揺るがす・・・そう考えていた斉興は、斉彬に家督を譲ろうとはしませんでした。
父に疎まれるほどだった斉彬の蘭癖でした。

19世紀半ば、西欧列強が東アジアに進出・・・
アヘン戦争では、東アジア最強と目されていた清がイギリスに負けて開国を余儀なくされてしまいます。
琉球にもフランス船やイギリス船が度々来航。
軍事力をちらつかせながら、通商を迫ってきました。
幕府は薩摩藩に、琉球へ兵を派遣し守るように命じますが、斉興は少数の兵を派遣しただけで幕府には指示通りに送ったと報告していました。
西欧列強が相手では、琉球どころか薩摩藩さえもあぶないと判断し、日本と西欧列強を差を埋めるべく藩の軍事力を強化しようとしました。
武器などの近代化、工業化を進めていきます。
ところが、父・斉興のやり方に斉彬は反対・・・
より近代化を進めようとしますが、藩の財政への圧迫を恐れこれ以上はしないという斉興と対立するのです。
十分対策を取っていると思っている父・・・しかし、斉彬は薩摩だけでは太刀打ちできないと、幕府や他藩と連絡を取り合いましたが・・・父・斉興にとっては、藩の秘密さえも守れない斉彬だと思っていたのです。
家督を譲ることは出来ない・・・

他にも家督を譲らない理由としては、朝廷から与えられる官位です。
薩摩藩主は、四位止まりでしたが、財政再建をさせた斉興は従三位をもらえるのではないか?と、期待していました。
そのため、官位を受けるまでは財政を悪化させる恐れのある斉彬に家督を譲ることはできなかったのです。

父との確執のために、30を超えても藩主になれない斉彬ですが・・・跡継ぎである事には変わらず、江戸の薩摩藩邸に詰めていました。
そんな中、父・斉興の行動が波紋を呼びます。
参勤交代で薩摩を留守にするときは、斉彬の弟・久光に任せることにしたのです。
斉彬の藩主を望む藩士たちは、弟の久光が藩主となるのでは??と勘繰ります。
そして、影で操るのが斉興側室のお遊羅の方だと・・・
そのさなか、斉彬の息子二人が相次いで病死・・・斉彬の家臣たちは、お遊羅の方の呪いではないか?と噂始めました。
実際に、呪符が見つかっていました・・・が・・・これは・・・斉興が琉球にやってきた外国の銀貨を呪符で包んで呪ったものでした。
すべては勘違いでしたが・・・早合点した斉彬派の家臣たちは・・・
「このままでは、斉彬も呪い殺されてしまう!!」と、お遊羅の方の暗殺計画を立てます。
ところが・・・お遊羅の方を愛する斉興が激怒!!
1849年斉彬派を処罰!!
12人を切腹、38人を磔や島流しになどの刑に処しました。
父との対立は深まる・・・??
しかし、このお家騒動が幕府の耳に入り・・・1851年斉興が隠居届を提出。
斉彬はようやく11代藩主となったのでした。
この時、すでに43歳でした。

西欧列強に対抗する為に、軍備の強化、近代化を図っていく島津斉彬。
それは、鎖国体制の日本にあって先駆的なものでした。

◎洋式船の建造
当時、日本にやってきていた西欧列強の巨大な船は、鉄製で、蒸気で動き、大砲を何本も装備していました。
対して日本の船は、幕府によって”大船建造禁止令”が出され、大きくても米を500石積めるだけの船しか作ることができず、大砲も積めませんでした。
戦国時代さながらの船だったのです。
斉彬は、外圧に晒される今、大型船の必要性を思っていました。
ペリーが浦賀に現れ・・・幕閣もついに西洋の脅威に気付きます。
斉彬はこの機を逃さず、幕府に大型船の建造の解禁を願い出て、これを認めさせたのです。
そして、西洋船の西欧に着手・・・全長30m、砲16門を搭載する西洋式の軍艦・昇平丸を作ります。
その後も、大型船を作り、日本初の蒸気船・雲行丸を作らせています。

◎鉄製大砲の鋳造
島津家の歴史を語る尚古集成館にも、斉彬の近代化の痕跡が・・・反射炉跡です。
ここで、鉄の大砲を作るために作られたもので、基礎部分が残っています。
斉彬は丈夫な大砲を作ろうとしましたが・・・当時、その知識・技術は日本にはなく、作るのに大変な苦労がありました。
すでに反射炉を成功させていた佐賀藩からオランダの書物を取り寄せ研究を開始、西洋式反射炉の制作に取り掛かります。
失敗を繰り返し・・・日本の技術を応用し、苦労をする家臣たち・・・

「西欧人も人なり
 佐賀人も人なり
 薩摩人も同じく人なり
 退屈せず、ますます研究すべし」

と言って励ましたといいます。
藩士たちは奮起し、意地と努力で1857年反射炉を完成させます。
併せて日本初の溶鉱炉も建設、鉄の大砲の鋳造に成功するのです。
斉彬は他にも、ガラス工場や蒸気機関研究所を設け・・・そうした工場群を集成館と名付けました。
最盛期には、1200人もの人が働いていたといいます。
2015年、集成館は歴史的価値のある工場群として世界遺産に登録されました。
独自の近代化を進めた斉彬の功績が世界に認められたのです。

日本を守るために、軍備の近代化を進める斉彬ですが・・・
「第一人和」日本を守るためには、人の和は城となる・・・人の和を生み出すのは人々に豊かな生活を保障すること・・・を目指していました。
紡績、ガラス、出版、酒造りなどの産業を育成しました。

中でも薩摩切子という新しい工芸品を生み出します。
それは、西洋でも難しいとされていた技術でした。
斉彬は外国に輸出することを考えていたようです。
薩摩焼も、外国人好みに変えろと命令しています。
1867年のパリ万博では好評で、薩摩焼が大量に輸出されました。
薩摩切子も外国に出ることを夢見ていました。
日本初のガス灯の実験もしていました。

城下をガス灯で照らそうと考えていたのです。
研究と実験をかさね、次々と近代産業を立ち上げていった斉彬ですが・・・持てる技術と知識を幕府や他藩に教え、視察も喜んで受け入れています。
そこには、”日本一致一体”の精神がありました。
日本の挙国一致体制を思ってのことでした。

人材育成にも長けていた斉彬は・・・
「付和雷同で意見を持たぬもの、十人が十人とも好む人材、彼らは非常事態に対応できない」と言っていました。
偏屈な男こそ、国の宝である・・・と。
そこで、取り立てられた若者は、藩の中心人物となっていきます。
激動の時代・・・非常事態に対応し、日本を背負っていきます。
西郷隆盛もその一人でした。
斉彬は、下級藩士だった西郷を初めて知ったのは、大量に送られてきた建白書によってでした。
当時、薩摩藩の郡方書役助だった西郷は、農家や村を指導監督する中で、農民などが重い年貢で困窮していることを知ります。
そこで、その改善策と共に、悪政を訴えた建白書を何度も斉彬に提出します。
斉彬はこれを高く評価し、藩主として江戸にのぼる際に、西郷を庭方役に抜擢し、江戸に連れて行きます。
庭方役とは、藩主の用事を庭先で聞く役職で、西郷を諸藩との重要な連絡や情報収集に当たらせるなど、信頼していました。
人脈や政治的視野が広がったことで、西郷は、明治維新の立役者となるのです。

当時、幕府内では将軍の後継問題が勃発・・・
家定は体が弱く、跡継ぎを望めなかったので、次期将軍の決定が急務となっていました。
候補は二人・・・一人は紀州藩主・徳川慶福、もう一人は、一橋慶喜でした。
慶福を推したのは、譜代大名の井伊直弼らで、慶喜を推したのが阿部正弘で・・・斉彬は一橋派でした。
次期将軍を決めるのに際し、大奥の力が大きく働くことを知っていた斉彬は、篤姫を将軍に嫁がせて慶喜擁立を有利にしようと画策したのでは??と言われています。
が・・・この縁談話は、家定が将軍となる3年前に持ち上がったものでした。
将軍の世継ぎであった家定は、公家の娘を2度正室に迎えていましたが、共に死別・・・。
次は武家から迎えたいと考えていました。
そこで白羽の矢が立ったのが島津家でした。
というのも、前例があったからです。
11代将軍が正室に迎えたのが、重豪の娘・茂姫で、その後、家斉は将軍在位50年、正室と側室との間に53人もの子を設けました。
子の出来なかった家定も、薩摩から正室を迎えれば、死別せずに子宝に恵まれるのでは??と思われました。
つまり、斉彬は、幕府の要請で篤姫を養女とし、将軍に嫁がせることにしたので、後継問題とは関係ありませんでした。
どうして、利用したといわれたのでしょうか??
篤姫の輿入れは、1850年に申し込まれたものの・・・
黒船来航、江戸での大地震・・・と、実現するまでに6年もかかってしまいました。
そして・・・その頃、継承問題が出てきたから言われるようになってしまいました。
家定に輿入れして1年・・・世継ぎは生まれません。
斉彬が動いたのはこの時でした。
信頼していた西郷を江戸詰めとし、諸藩との連絡係にし、慶喜の将軍擁立を画策!!
しかし、1858年、南紀派の井伊直弼が大老となり、その権限で慶福が14代将軍・家茂になります。
斉彬は再び動きます。
薩摩の兵を率いて、京に上るために西郷に準備を命令させます。
その動きは、斉彬が朝廷を武力で動かし、慶喜を将軍に差せようとしたのでは?と、考えられますが・・・
西欧列強の脅威にさらされている今、国内で争っている場合ではない!!
斉彬の行動には、常に日本の未来を見据えた大局的な視点がありました。
まもなく・・・斉彬が病に・・・。
弟・久光らを呼んで遺言を伝えます。
自分の跡継ぎは・・・息子がまだ小さいので、久光か、久光の長男・忠義に・・・と。

1858年7月16日、島津斉彬死去。
50歳の生涯でした。
明治という新しい時代を見ることなく・・・
斉彬亡き後、忠義が薩摩藩12代藩主となります。
久光は後見役に・・・斉彬の遺志を継ぎ、藩士たちと共に幕末から明治維新にかけての薩摩藩をけん引していきます。
彼等が目指したのは、”順聖院様御深志”・・・斉彬の遺志の実現でした。
それは、挙国一致体制を築き、日本を西欧列強の植民地とされないような国にすることでした。
斉彬の遺志と夢を実現するという共通の夢を持っていたからこそ、薩摩藩士は分裂することなく明治維新での重責を担っていくこととなるのです。
西郷隆盛は、中心人物として廃藩置県、警察制度に関わり、近代国家の礎を作りました。
同じように大久保利通は、富国強兵を明治維新のスローガンとし、殖産興業政策を推進。
富岡製糸場などの官営模範工場を各地に作り、近代産業の育成に尽力しました。
明治維新によって近代国家となった日本・・・斉彬の遺志を継いだ明治政府の高官たちによって、富国強兵策が全国展開し、日本は強く豊かになっていきます。
斉彬は近代日本のプランナーだったのです。

勝海舟は言っています。

「維新の折、薩摩から人材が多く出たのは、斉彬の教育感化によるものである」と。

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