1582年、日本を揺るがす大事件が勃発しました。
本能寺の変です。
どうして明智光秀は主君・信長を討ったのか??
日本史最大の謎とされています。
本能寺の変のカギを握るのは細川藤孝・・・細川幽斎となる戦国大名です。
戦国の動乱期に、信長・秀吉・家康という三人の天下人に仕えた稀有な武将です。
江戸時代、239年にわたって熊本藩を統治してきた細川家・・・
現在、熊本市には細川家の数万点に及ぶ資料が蓄積されています。
どうしてこれほど多くの資料が細川家に受け継がれてきたのか・・・
細川藤孝は、室町幕府の名門・細川家の分家筋に生れ、足利将軍家と大名家との取次役として活躍していました。
藤孝の母方は、天皇の教育係をしていた清原家。
藤孝は、幼いころから一流の教育を受けていたといいます。
藤孝が、幼いころから鍛錬を積んだのは、連歌が外交に不可欠な道具だったからです。
和歌や連歌を藤孝が地方の大名たちに教えたり共有したりすることは、その秩序と地方の大名たちを結びつける意味を持っていたのです。
そういう役割が、京都の政権には必要でした。
そして、それを担ったのが藤孝でした。
これが真相! 光秀と盟友細川藤孝が知る「本能寺の変」(上巻)【電子書籍】[ 飯田イチロオ ]
当時、貴族や武士は、和歌や連歌を通じて外交交渉を行い、広いネットワークを築いていました。
藤孝は、将軍家の交渉人として、その才を発揮していきます。
1565年12月5日、藤孝に宛てられた手紙が残っています。
差出人は、あの織田信長です。
”京都に入られるときには命令次第でいつでもお供する覚悟である”
この時藤孝は、暗殺された将軍・足利義輝の実の弟・義昭と京都から逃げ延びていました。
藤孝は、義昭を将軍にするため、地方大名たちに支援を呼びかけ、京都に戻ろうと画策していました。
この文書からは、藤孝が当時勢いのあった新興武士・織田信長の後ろ盾を得ることに成功したことが読み取れます。
さらに、藤孝はこの頃、近江周辺で活動していた明智光秀と出会い、親交を結んでいたとみられています。
1568年10月14日、足利義昭入洛。
室町幕府15代将軍となりました。
藤孝は、3年がかりで目標を果たしたのです。
ところが・・・足利義昭の政権は、わずか5年で瓦解・・・
政治に介入してくる信長に、不満を抱いた義昭が挙兵・・・!!
将軍に忠誠を立て、必死で働いてきた藤孝は、この時驚くべき行動に出ます。
抗争が始まって間もなく、信長が藤孝に送った手紙が現存しています。
”京都の模様を具体的に知らせてくれて満足である”
藤孝は、信長に京都の情報を流していたのです。
この時藤孝は、明らかに信長側についていたとみられています。
1573年7月18日、室町幕府滅亡・・・。
義昭は信長によって京を追放されました。
新時代のリーダーに誰が相応しいのかを見極めた藤孝の大きな決断でした。
そして、すでに信長の配下にいた明智光秀と共に、藤孝は激動の時代を迎えることになります。
室町幕府が滅亡すると、信長は畿内を支配するための新しい闘いの日々を始めます。
信長の命を受け、光秀と藤孝は丹波・丹後攻略に向かっていきます。
丹波と丹後は、近畿と西国を結ぶ要衝・・・信長が何として手に入れたい土地でした。
2人は、4年もの歳月を費やし、丹波、丹後を平定。
藤孝は、光秀の指示のもと、丹後に城を築き領国を運営することになります。
さらに、信長の薦めで藤孝の息子・忠興と光秀の娘・玉子(ガラシャ)が結婚し、姻戚関係で結ばれた細川家と明智家の結束は、さらに堅くなっていきました。
ところが・・・1582年6月2日、本能寺の変勃発。
光秀の謀反によって、信長は討たれました。
どうして光秀はこのような行動に出たのでしょうか??
2014年に発見された石谷家文書「長曾我部元親書状」
光秀の家臣・斎藤利三と、土佐の領主・長曾我部元親が交わした複数の手紙が見つかりました。
元親の四国支配政策を、真っ向から否定した信長は、討伐を決断。
四国との調整役をしていた光秀は、戦闘を回避しようと元親と交渉を重ねました。
その結果、元親の側に信長の要求に応じようとする形跡が見られます。
”信長の朱印状に従う
全く叛逆する気持ちはない”
これが、本能寺の変のおよそ10日前のやり取りです。
しかし、光秀の苦労むなしく、信長の四国討伐の方針が覆されることはありませんでした。
信長は、四国の対岸に、三男・信孝の軍勢を集結させ、まさに四国上陸は寸前にまで迫っていました。
調整役の面目が丸つぶれになった事が、光秀謀反の引き金になったともいわれています。
信長の軍事要員の仕方は、具体的な動員人数、動員期間を一切指定しません。
自分の領国の家臣や百姓たちに、過重な軍事動員をかけてしまうことになります。
そうなると、自分たちの領国を回せなくなっていきます。
そんな悪循環と、それに対する危機感が非常に高まっていました。
かくして、6月2日、本能寺の変が発生したのです。
その知らせは、数時間後に丹後の宮津城にいた藤孝の元へと届けられました。
共に苦労を重ね、どの武将よりも親交の深かった光秀と藤孝・・・
細川家は明智側であると考える者も少なくありませんでした。
しかし・・・本能寺の変の速報を聞いた藤孝は、すぐに剃髪し、信長への弔意を示したのです。
そんな藤孝の元へ、光秀は書状を送っています。
そこには、光秀の切実な思いが書かれていました。
第1条では、藤孝が剃髪したことについては腹は立ったがそれは仕方のないこと。
こうなったからには全軍を率いて入魂してほしいと懇願しています。
さらに第2条では、恩賞として摂津や若狭といった領国を渡すと綴っています。
第3条では、信長を暗殺した理由は、自分の息子や忠興の世代を取り立てる為であり、自分自身は身を引くつもりだと書かれ、私利私欲のための謀反でないことを藤孝に訴えています。
盟友・光秀の思いを聞いた藤孝は、どう動くのか??
光秀に加勢する??それとも、光秀を討つ・・・??
自分の行動次第で時代が大きく変わる・・・どうするのか・・・??
本能寺の変を受けて、藤孝は丹後・宮津で緊急会議を開きました。
会議には藤孝の息子や細川家家臣たちが集められました。
長男の忠興は、光秀の使者に斬りかからんばかりに怒り、光秀討伐の意思を見せます。
一方、次男の興元は、信長は悪逆無比で人望もなく、細川家は光秀に協力すべきだと主張します。
藤孝は、家が二分するほどの究極の選択を迫られることになります。
信長と本能寺の変 謎99 (イースト新書Q) [ かみゆ歴史編集部 ]
藤孝が選んだのは、丹後を動かず中立を貫くという選択でした。
藤孝は軍を動かすことはなかったものの、いち早く情報収集の手を打ちます。
家臣を京都に送り、東福寺に情報本部を設置します。
目まぐるしく変わる京都の情報を、逐一入手しています。
さらに、息子・忠興は、玉子を人里離れた山奥に幽閉。
細川家は中立の立場であると天下に知らせます。
光秀にとって、藤孝の選択は大打撃でした。
細川藤孝動かず!!
この事実は、光秀側につくかどうか迷っていた大名たちを足止めさせたからです。
結局、藤孝の行動は、戦いを大きく動かすことになります。
1582年6月13日、山崎の戦いで、光秀は秀吉軍に敗れ、滅亡・・・。
本能寺の変からわずか10日ほどのことでした。
7月15日、藤孝は、信長追善懐旧連歌百韻興行を主宰します。
墨染の 夕べや名残り 袖の露 幽斎
細川家は、亡き信長に忠誠を尽くしたことを天下に知らしめたのです。
信長が秀吉に送った手紙が、細川家に伝わっています。
そこには、鳥取城攻めの方針が事細かく書かれていました。
この事実から、藤孝と秀吉が、本能寺の変以前から深く通じていた可能性もあると考えられます。
両者の軍事連携が、急速に進んでいます。
丹後から・・・光秀の背後から”京都に細川が加勢してくる可能性なし”と、秀吉には確信があったと想定できます。
1582年7月11日、本能寺の変から1か月後に、秀吉から藤孝に宛てた手紙があります。
”この度の信長の不慮について、比類ない覚悟をもって行動されたことは頼もしかった”
秀吉は、光秀に与せず、丹後から動かなかった藤孝を高く評価しています。
さらに、これからは入魂・・・協力関係を維持し、表裏なくどんな時も見放すことはないと血判を押し、藤孝と盟約を結んだのです。
この時、藤孝は来るべき秀吉の時代を見通していたのかもしれません。
1600年9月、関ケ原・・・天下分け目の戦が始まろうとしていました。
秀吉亡き後、石田三成が率いる西軍と、徳川家康が率いる東軍の決戦が迫っていました。
その2か月前・・・丹後の細川藤孝に、人生最大の危機が訪れていました。
舞台は、丹後・田辺城・・・
徳川方の東軍についた藤孝は、この城に立てこもっていました。
これを包囲する西軍勢1万5000!!
対する藤孝の軍勢はわずか500!!
死を覚悟していた藤孝を救ったのは??
古今伝授・・・古今和歌集の解釈を秘伝として伝える儀式で、三種の神器を模した鏡・剣・玉を前に執り行われます。
当時、数少ない古今伝授の継承者が藤孝でした。
籠城戦に入る直前、藤孝は急いで次の継承者・八条智仁親王に古今伝授の講義を行っています。
そして田辺城で死を覚悟して、辞世の句を・・・
いにしへも今もかハらぬ世中に
心の種をのこすことの葉
そんな藤孝を助けようと働いた人物が、後陽成天皇でした。
藤孝の死によって、古今伝授の伝統が失われることを嘆き、藤孝に西軍と講和するように要求します。
一方、西軍には、田辺城の包囲を解くように迫ったのです。
9月18日、天皇の勅命により、藤孝は籠城をときます。
古今伝授を伝える藤孝は、危機を乗り越えたのです。
籠城が解かれる3日前に、関ケ原の戦いは終わっていました。
藤孝の2か月に及ぶ籠城が、西軍勢を田辺城に足止めしたことが合戦の行方に大きな影響を及ぼしたのです。
そして、徳川家康が次の天下人となります。
藤孝は家康に、室町幕府時代の伝統やしきたりを伝授し、77歳で亡くなるまで、江戸幕府の基礎作りに貢献しました。
1610年8月20日・・・死去。
国宝「太刀 豊後国行平」
古今伝授を終えた記念の名刀です。
武士でありながら、教養を手掛かりに、戦国を生き抜いた細川家の誇りを、今に伝えています。
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藤孝の母方は、天皇の教育係をしていた清原家。
藤孝は、幼いころから一流の教育を受けていたといいます。
藤孝が、幼いころから鍛錬を積んだのは、連歌が外交に不可欠な道具だったからです。
和歌や連歌を藤孝が地方の大名たちに教えたり共有したりすることは、その秩序と地方の大名たちを結びつける意味を持っていたのです。
そういう役割が、京都の政権には必要でした。
そして、それを担ったのが藤孝でした。
これが真相! 光秀と盟友細川藤孝が知る「本能寺の変」(上巻)【電子書籍】[ 飯田イチロオ ]
当時、貴族や武士は、和歌や連歌を通じて外交交渉を行い、広いネットワークを築いていました。
藤孝は、将軍家の交渉人として、その才を発揮していきます。
1565年12月5日、藤孝に宛てられた手紙が残っています。
差出人は、あの織田信長です。
”京都に入られるときには命令次第でいつでもお供する覚悟である”
この時藤孝は、暗殺された将軍・足利義輝の実の弟・義昭と京都から逃げ延びていました。
藤孝は、義昭を将軍にするため、地方大名たちに支援を呼びかけ、京都に戻ろうと画策していました。
この文書からは、藤孝が当時勢いのあった新興武士・織田信長の後ろ盾を得ることに成功したことが読み取れます。
さらに、藤孝はこの頃、近江周辺で活動していた明智光秀と出会い、親交を結んでいたとみられています。
1568年10月14日、足利義昭入洛。
室町幕府15代将軍となりました。
藤孝は、3年がかりで目標を果たしたのです。
ところが・・・足利義昭の政権は、わずか5年で瓦解・・・
政治に介入してくる信長に、不満を抱いた義昭が挙兵・・・!!
将軍に忠誠を立て、必死で働いてきた藤孝は、この時驚くべき行動に出ます。
抗争が始まって間もなく、信長が藤孝に送った手紙が現存しています。
”京都の模様を具体的に知らせてくれて満足である”
藤孝は、信長に京都の情報を流していたのです。
この時藤孝は、明らかに信長側についていたとみられています。
1573年7月18日、室町幕府滅亡・・・。
義昭は信長によって京を追放されました。
新時代のリーダーに誰が相応しいのかを見極めた藤孝の大きな決断でした。
そして、すでに信長の配下にいた明智光秀と共に、藤孝は激動の時代を迎えることになります。
室町幕府が滅亡すると、信長は畿内を支配するための新しい闘いの日々を始めます。
信長の命を受け、光秀と藤孝は丹波・丹後攻略に向かっていきます。
丹波と丹後は、近畿と西国を結ぶ要衝・・・信長が何として手に入れたい土地でした。
2人は、4年もの歳月を費やし、丹波、丹後を平定。
藤孝は、光秀の指示のもと、丹後に城を築き領国を運営することになります。
さらに、信長の薦めで藤孝の息子・忠興と光秀の娘・玉子(ガラシャ)が結婚し、姻戚関係で結ばれた細川家と明智家の結束は、さらに堅くなっていきました。
ところが・・・1582年6月2日、本能寺の変勃発。
光秀の謀反によって、信長は討たれました。
どうして光秀はこのような行動に出たのでしょうか??
2014年に発見された石谷家文書「長曾我部元親書状」
光秀の家臣・斎藤利三と、土佐の領主・長曾我部元親が交わした複数の手紙が見つかりました。
元親の四国支配政策を、真っ向から否定した信長は、討伐を決断。
四国との調整役をしていた光秀は、戦闘を回避しようと元親と交渉を重ねました。
その結果、元親の側に信長の要求に応じようとする形跡が見られます。
”信長の朱印状に従う
全く叛逆する気持ちはない”
これが、本能寺の変のおよそ10日前のやり取りです。
しかし、光秀の苦労むなしく、信長の四国討伐の方針が覆されることはありませんでした。
信長は、四国の対岸に、三男・信孝の軍勢を集結させ、まさに四国上陸は寸前にまで迫っていました。
調整役の面目が丸つぶれになった事が、光秀謀反の引き金になったともいわれています。
信長の軍事要員の仕方は、具体的な動員人数、動員期間を一切指定しません。
自分の領国の家臣や百姓たちに、過重な軍事動員をかけてしまうことになります。
そうなると、自分たちの領国を回せなくなっていきます。
そんな悪循環と、それに対する危機感が非常に高まっていました。
かくして、6月2日、本能寺の変が発生したのです。
その知らせは、数時間後に丹後の宮津城にいた藤孝の元へと届けられました。
共に苦労を重ね、どの武将よりも親交の深かった光秀と藤孝・・・
細川家は明智側であると考える者も少なくありませんでした。
しかし・・・本能寺の変の速報を聞いた藤孝は、すぐに剃髪し、信長への弔意を示したのです。
そんな藤孝の元へ、光秀は書状を送っています。
そこには、光秀の切実な思いが書かれていました。
第1条では、藤孝が剃髪したことについては腹は立ったがそれは仕方のないこと。
こうなったからには全軍を率いて入魂してほしいと懇願しています。
さらに第2条では、恩賞として摂津や若狭といった領国を渡すと綴っています。
第3条では、信長を暗殺した理由は、自分の息子や忠興の世代を取り立てる為であり、自分自身は身を引くつもりだと書かれ、私利私欲のための謀反でないことを藤孝に訴えています。
盟友・光秀の思いを聞いた藤孝は、どう動くのか??
光秀に加勢する??それとも、光秀を討つ・・・??
自分の行動次第で時代が大きく変わる・・・どうするのか・・・??
本能寺の変を受けて、藤孝は丹後・宮津で緊急会議を開きました。
会議には藤孝の息子や細川家家臣たちが集められました。
長男の忠興は、光秀の使者に斬りかからんばかりに怒り、光秀討伐の意思を見せます。
一方、次男の興元は、信長は悪逆無比で人望もなく、細川家は光秀に協力すべきだと主張します。
藤孝は、家が二分するほどの究極の選択を迫られることになります。
信長と本能寺の変 謎99 (イースト新書Q) [ かみゆ歴史編集部 ]
藤孝が選んだのは、丹後を動かず中立を貫くという選択でした。
藤孝は軍を動かすことはなかったものの、いち早く情報収集の手を打ちます。
家臣を京都に送り、東福寺に情報本部を設置します。
目まぐるしく変わる京都の情報を、逐一入手しています。
さらに、息子・忠興は、玉子を人里離れた山奥に幽閉。
細川家は中立の立場であると天下に知らせます。
光秀にとって、藤孝の選択は大打撃でした。
細川藤孝動かず!!
この事実は、光秀側につくかどうか迷っていた大名たちを足止めさせたからです。
結局、藤孝の行動は、戦いを大きく動かすことになります。
1582年6月13日、山崎の戦いで、光秀は秀吉軍に敗れ、滅亡・・・。
本能寺の変からわずか10日ほどのことでした。
7月15日、藤孝は、信長追善懐旧連歌百韻興行を主宰します。
墨染の 夕べや名残り 袖の露 幽斎
細川家は、亡き信長に忠誠を尽くしたことを天下に知らしめたのです。
信長が秀吉に送った手紙が、細川家に伝わっています。
そこには、鳥取城攻めの方針が事細かく書かれていました。
この事実から、藤孝と秀吉が、本能寺の変以前から深く通じていた可能性もあると考えられます。
両者の軍事連携が、急速に進んでいます。
丹後から・・・光秀の背後から”京都に細川が加勢してくる可能性なし”と、秀吉には確信があったと想定できます。
1582年7月11日、本能寺の変から1か月後に、秀吉から藤孝に宛てた手紙があります。
”この度の信長の不慮について、比類ない覚悟をもって行動されたことは頼もしかった”
秀吉は、光秀に与せず、丹後から動かなかった藤孝を高く評価しています。
さらに、これからは入魂・・・協力関係を維持し、表裏なくどんな時も見放すことはないと血判を押し、藤孝と盟約を結んだのです。
この時、藤孝は来るべき秀吉の時代を見通していたのかもしれません。
1600年9月、関ケ原・・・天下分け目の戦が始まろうとしていました。
秀吉亡き後、石田三成が率いる西軍と、徳川家康が率いる東軍の決戦が迫っていました。
その2か月前・・・丹後の細川藤孝に、人生最大の危機が訪れていました。
舞台は、丹後・田辺城・・・
徳川方の東軍についた藤孝は、この城に立てこもっていました。
これを包囲する西軍勢1万5000!!
対する藤孝の軍勢はわずか500!!
死を覚悟していた藤孝を救ったのは??
古今伝授・・・古今和歌集の解釈を秘伝として伝える儀式で、三種の神器を模した鏡・剣・玉を前に執り行われます。
当時、数少ない古今伝授の継承者が藤孝でした。
籠城戦に入る直前、藤孝は急いで次の継承者・八条智仁親王に古今伝授の講義を行っています。
そして田辺城で死を覚悟して、辞世の句を・・・
いにしへも今もかハらぬ世中に
心の種をのこすことの葉
そんな藤孝を助けようと働いた人物が、後陽成天皇でした。
藤孝の死によって、古今伝授の伝統が失われることを嘆き、藤孝に西軍と講和するように要求します。
一方、西軍には、田辺城の包囲を解くように迫ったのです。
9月18日、天皇の勅命により、藤孝は籠城をときます。
古今伝授を伝える藤孝は、危機を乗り越えたのです。
籠城が解かれる3日前に、関ケ原の戦いは終わっていました。
藤孝の2か月に及ぶ籠城が、西軍勢を田辺城に足止めしたことが合戦の行方に大きな影響を及ぼしたのです。
そして、徳川家康が次の天下人となります。
藤孝は家康に、室町幕府時代の伝統やしきたりを伝授し、77歳で亡くなるまで、江戸幕府の基礎作りに貢献しました。
1610年8月20日・・・死去。
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