日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:松平定敬

戊辰戦争最大の悲劇・・・会津戦争。
新政府軍の猛攻を受け、鶴ヶ城は開城・・・民間人も多く巻き込まれ、戦死者は2000人を超えました。
この時、会津藩を率いたのが松平容保。
義を重んじ、幕府に殉じた藩主というイメージが先行する中、その実像は意外なほど知られていません。容保が幕末についてほとんど語らなかったからです。

容保の運命を大きく変えたのが、京都守護職への就任でした。
京に乗り込み、一橋慶喜らと共に政治の実権を握りました。
しかし、変革の嵐はあまりにも激しく・・・
幕府を揺るがす薩長の台頭、思いもよらない長州征討での敗北、そして・・・朝敵とされた鳥羽・伏見の戦い!!
容保を次々と襲った究極の選択がそこにはありました。
その悲劇の真相とは・・??



会津若松市鶴ヶ城・・・松平家23万石の居城です。
天守閣にある博物館に資料が残されています。
描かれているのは、会津から遠く離れた浦賀湾・・・江戸後期、イギリスの帆船が通商を求めて来日した様子を描いたものです。
中央には巨大な異国船・・・その周囲を取り囲むように小舟が・・・
よく見ると、小舟には会津の旗印が・・・!!
実は江戸ののど元にあたる浦賀の警備を会津藩が引き受けていたのです。

江戸時代、泰平の世ということもあり、各藩、武備には力を入れていませんでした。
しかし、会津藩は日ごろ地元でも軍事訓練を続けていました。
だから、会津藩に白羽の矢が当たったのです。

会津藩は、親藩の中でも特に最前線で徳川将軍家を守ることを期待され代々それに応えてきました。
藩祖・保科正之定めた「家訓」
十五条の最初にはこうあります。

”大君の義 一心大切に忠勤を存ずべし”

将軍に絶対の忠誠を誓うことが歴代藩主に課せられた使命でした。
第9代藩主・松平容保は、18歳の若さで藩主の座を引き継ぎます。
高須松平家に生まれ、会津に養子に入った容保が、まず教えられたのがこの家訓でした。
この教えを胸に、容保は時代の荒波に立ち向かっていきます。

時は幕末・・・京では尊王攘夷の火が燃え盛っていました。
導火線に火をつけたのが長州藩・・・
その狙いは、幕府の開国政策の阻止でした。
藩士を京に送り込み、異国排斥を訴え、朝廷の有力公家たちを味方につけていきます。

長州に呼応するように、過激な攘夷派の浪士が続々と京に集結。
幕府に近い公家の家臣などを標的に、テロを繰り返します。
この事態に幕府が頼ったのが、会津藩でした。
新たに設けた京都守護職に容保の就任を命じました。
その任務は、京に千人規模の軍隊を駐屯させ、治安を守るというものでした。
当然、巨額の費用も見込まれます。
家臣たちは、”薪を負うて火を救う”ようなものだと反対の声をあげました。
都での動乱に巻き込まれることを逡巡しながらも、容保は幕府の要請に応えることを決めました。

「我が会津藩は、徳川宗家と存亡を共に存亡すべし定められている
 君臣、ただ京の地を以て死所となすべきである」by容保

1862年12月、会津藩上洛。
容保は会津藩兵を率いて京に到着しました。
御所からおよそ2キロ・・・金戒光明寺は京都守護職の本陣が置かれた寺です。
容保が使った部屋が当時の姿に復元されています。
ここで容保は、京の治安回復の指揮を執りました。

1863年3月・・・この広間で容保と対面したのが、新撰組局長・近藤勇でした。
後に新撰組になる若い浪士たちと容保が初めてであったのもこの寺の境内でのことでした。
土方歳三や沖田総司らの腕前に期待を寄せた容保は、彼等を京の治安維持に用いました。
会津藩御預新撰組は、攘夷派の取り締まりに大いに力を振るいました。
守護職・会津によって、京の治安が回復に向かったことを誰より喜んだのは・・・時の孝明天皇その人です。
初めて謁見した際、天皇は容保の功績を称して、緋色の衣を下賜しました。

katamori

この時の陣羽織がそれです。
容保は大いに感激し、守護職の任務への思いを新たにしました。

しかし、その一方で、長州藩の動きは過激さを増していきます。

1863年5月、長州藩が下関海峡で外国船を砲撃。
長州藩は、攘夷派の公家と共に、更なる計画に動き出しました。

孝明天皇を神武天皇陵へ行幸させ、攘夷戦争の御前会議を開く
というものでした。




この計画が実現すれば、天皇の名のもとに外国へ宣戦布告するにも等しい・・・!!
対外戦争の危機が寸前に迫ったその時・・・!!
容保のもとに外様の大藩・薩摩からの報せが届きました。
長州と攘夷派公家に対するクーデターに、会津藩の協力を求めてきたのです。
容保はすぐに決断、会津藩士に薩摩と行動を共にすることを命じました。
そして、事態を知らされた孝明天皇からの極秘命令が容保に届きます。

”会津の兵力を以て、国家の害を除くべし”

1863年8月18日、政変の幕が切って落とされました。
会津藩兵が御所の門を封鎖し、長州に与した公家の参内を阻止、彼らを排除した朝議でその処分が決められました。
朝廷を牛耳っていた攘夷派公家たちは官位を剥奪、御所警備を解かれた長州藩と共に西国へと落ち延びていきました。
尊王攘夷派は、都から一掃されたのです。

事件のあと、孝明天皇から容保に下された直筆の和歌・・・
自分の意をくんで攘夷派追放に働いてくれた容保の忠誠に対し、天皇はこう詠んでいます。

武士と心合わして いわおをも貫きてまし 世世のおもひで

天皇と武士が心を合わして、国の難局に当たっていくことを望んだ孝明天皇・・・
容保もまた、朝廷と幕府が一体となって政治を行う公武合体の実現を自らの使命としていくのです。


1864年7月、失地回復を目論んだ長州藩が、京に進軍!!
御所を舞台に激しい戦いが繰り広げられました。
禁門の変です。
この時容保は、禁裏御守衛総督の一橋慶喜らと共に出陣し、長州藩を撃退しました。
この結果、権力を掌握したのが一会桑・・・
容保と慶喜に桑名の松平定敬を加えた体制でした。
一会桑が目指したのは、江戸の幕府と京の朝廷をつなぐことです。
幕府が独断で政治決定を行う幕府専制から、朝廷の意思を組んで幕府が政治を行う公武合体への転換を図ろうとしました。

一方、禁門の変で御所に向けて発砲した長州に、孝明天皇は激怒。
7月23日、幕府に対し朝廷長州を討つべしと、長州征討の勅令を下しました。
この時、容保は江戸に書簡を送っています。
それは、将軍直々の上洛の要請です。
将軍・家茂を上洛させ、その後も京に常駐させることで、朝廷との意思統一を図り、公武合体を推し進めようという狙いでした。
ところが、容保の意図を阻止したのは、江戸の幕閣でした。

”容保公は単に京都守護職に過ぎない
 将軍の進退について、口を出すべきにあらず”

容保や会津藩は、朝廷と幕府が強調する・・・それが前提として幕府は存続できるという考えでした。
禁門の変みたいな重大な事件が起きれば、将軍自身が征夷大将軍として出陣をして、京都に行って将軍の誠意を見せる、朝廷の信頼を得るという考え方でした。
対して江戸の幕閣は、過去2度、将軍は上洛したが、朝廷や諸藩に振り回されて将軍の権威が失墜したと考えていました。
ここで、上洛をするということに対して非常に及び腰で、現状認識、危機感といううえで差がありました。

結局、家茂の上洛は持ち越され・・・代わりに征長総督に任命された尾張藩・徳川慶勝のもと、35藩・総勢15万の大軍が進発します。



1864年、第一次長州征討!!
全軍は、11月11日までに5つの攻め口に着陣。
1週間後に総攻撃を決しました。
ところが、ここで思わぬ動きを見せたのが薩摩藩でした。
薩摩は会津と共に長州排除に動いたものの、その後、一会桑によって政治の中枢から遠ざけられていました。
長州征討が成功し、一会桑の勢力がさらに強固になるのは好ましいことではなかったのです。
11月、征長軍参謀にあった西郷隆盛は、単身・岩国を訪れ、長州藩との交渉に臨みました。

”長州藩は速やかに禁門の変を主導した三家老を処分
 その首級を届けるべし”

過酷な処分のように聞こえますが、西郷は裏ではこの要求さえのめば攻撃を中止させ、その後も寛大な処分に動くことを長州に約束していました。
長州はこれを受諾、三家老を処刑し、恭順の意を示しました。
ここに、征長軍は、戦うことなく解兵することとなりました。

この時期、容保の元には、京都守護職をやめ、会津に戻ってくることを願う国元からの要請が度々寄せられていました。
しかし、長州征討が一段落した後も、容保はこう返答しています。

「自分が京にいるからこそ、薩長も好き勝手が出来ない
 引き上げた場合、どのような事変が生じるかわからない」by容保

第一次長州出兵は、三家老の首を長州藩が出して、一応終息しています。
しかし、問題はそれで終わっていません。
長州藩に対する朝敵としての具体的な処分を、京都で決めないといけません。
中途半端なところで帰っても、孝明天皇の信頼に応えることもできないし、幕府に対する責任を果たすことができない!!
京で自分が果たすべき使命がまだある・・・!!
容保は、守護職留任を決断しました。

1864年12月、長州で一大事変が勃発しました。
幕府への抵抗を掲げる高杉晋作らが決起、恭順派との内戦に勝利し、藩の主導権を握ります。
彼等は、藩内の武装を強化、表面上は幕府に恭順するが、いざとなれば戦争をも辞さないという方針でした。
この動きを察知した幕府は、
”長州藩内に容易ならざる企てがある
 御所からの要請もあったので、討伐のため将軍自ら出陣する”

朝廷にとっては寝耳に水でした。
天皇は軍事行動など命じていなかったからです。
急遽、説明のため参内を命じられた容保たちは、苦しい弁明を展開することになります。

「征伐」=将軍が大坂へ上る「進発」の意味に過ぎない

容保の言い訳の背景には、幕閣の計画を敢えて利用しようという狙いがありました。
容保たちから見れば、将軍を江戸から引っ張り出す千載一遇のチャンスでした。
将軍を上洛させて、長期間滞在させることで、朝廷と幕府が一体化、長州処分を執行することで、朝廷と幕府の権威が維持できる・・・!!

結局、朝廷も幕府の追討令を追認・・・
1865年5月、将軍・家茂は、江戸を進発し、大坂城に入りました。
11月、広島に目付が派遣され、長州の陰謀を糾問。
これに対し、長州側は、陰謀など事実無根だと弁明しました。
藩内への立ち入り調査も拒否され、使者は引き下がざるを得ませんでした。

どうにも不審な長州の態度に、老中が急遽状況。
一会桑との間で、対応が話し合われることとなりました。
この時、長州の軍事討伐にこだわった老中は失脚し、その顔触れは穏健派に代わっていました。
長州の態度にはあいまいな部分があるが、再度詰問すれば、紛糾し戦の恐れがある・・・
戦争を避けるためには、藩主親子の謹慎や、領地の削減など、寛大な処分にとどめるべき??

これに反発したのが一橋慶喜でした。
道理を曲げて寛大な処分を下すことに断固として反対しました。
反逆者への処分がうやむやになるようでは、幕府と朝廷の権威失墜を天下に示すことになる・・・!!
いざとなれば戦う覚悟で再度使者を送り、疑惑を徹底究明すべきだ・・・!!

果たして、容保はどちらに与すべきか・・・??

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容保の選択を伝える記述が越前藩の記録に残っていました。

”長州問題を巡って、一橋と老中は一旦決裂したが、その後、会津と桑名がとりなしたことで、両者は再協議することになった
 会議が物別れに終わると、容保が動いていた
 慶喜に直談判!!老中との再協議を説得した”

容保の選択は、長州に対する寛大な処分でした。
改めて開かれた会談で、長州処分最終案は・・・
・藩主父子の隠退
・領地10万石の削減
・朝敵の名は除く
でした。

1866年2月、長州藩に処分案を伝達、返答期限は5月29日に・・・!!

しかしこの時、容保の知らないところで歴史は大きく動いていました。
1866年1月・・・薩長同盟締結

”長州の朝敵の汚名を晴らすため、薩摩はいかようにも尽力する
 一会桑が邪魔立てするようならば、決戦に及ぶ”

長州は、処分を断固拒否し、徹底抗戦の意思を固め、薩摩もその支援を確約していたのです。
当然返答期限に長州の返事が届くことはありませんでした。
幕府の面目をつぶされたことに、慶喜は激怒。
6月7日、孝明天皇から一橋慶喜に長州征討の勅許が下ります。
開戦に踏み切りました!!
もはや、容保に止める術はありませんでした。
1866年6月、第2に長州征討の戦端が開かれました。
薩摩の援助で入手した最新式の武器が、幕府軍を圧倒していきます。
実はこの戦いには、精強を誇る会津藩兵が導入されていません。
容保は、この戦が、長州と会津の私戦と受け取られることを危惧し、出兵に踏み込めませんでした。
しかし、その後、会津兵を欠いた幕府は、各地で連戦連敗・・・
戦局を変えるべく、遂に出陣を決意します。
しかし、予期せぬ事態が待ち受けていました。
1866年7月20日、将軍・家茂が大坂で病死。
後を託された慶喜は、容保の必死の説得にも応じず、戦を続けることを断念・・・
第2次長州征討は、幕府の敗北に終わりました。
そして、更なる事態が容保を襲います。
1866年12月25日、孝明天皇崩御。
これをきっかけに、まるで崖を転がり落ちるかのように容保は窮地に追い込まれていきました。



1868年1月3日、鳥羽・伏見の戦い
会津は、徳川慶喜擁する旧幕府方として、薩長を中心とする新政府軍と戦火を交えました。
火力の差は歴然でした。
そして・・・新政府軍が、戦場に錦の御旗を掲げると・・・
朝敵に名指しされた慶喜は戦意喪失、海路を江戸へと帰ってしまいました。
傍らには、容保の姿もありました。

容保の小姓の手記「浅羽忠之助遺録」
容保の会津藩主就任以来そのそば近くに仕えた小姓です。
家臣に一言も告げず、戦場を離脱した容保に対し、忠之助はこう記しています。

「このような苦戦になり、死傷者も多く出ている
 それをお見捨てになって、お立ち退きとはあってはならない」

決死の逃避行の末、江戸にたどり着いた忠之助は、主君に拝謁し、そのことを諫言しました。
容保は、ただこう返したといいます。

「誠に失策の至りであった」

1868年閏4月、会津戦争
朝敵とされた会津は、新政府軍の猛攻に晒されました。
2500発もの砲弾を撃ち込まれ、鶴ヶ城は開城。
老人や女性、子供にまで多くの犠牲者を出し、会津戦争は終結しました。
鶴ヶ城のほど近くにある御薬園・・・
降伏ののち、死罪を免れた容保は、明治に入ってから数年間、この地で過ごしました。
公武合体の実現をひたむきに追い求め、夢破れた容保・・・

家訓十五箇条が会津藩の憲法でした。
「大君」は、将軍家であるとともに、帝・皇室であると考えていました。
帝と武家が、手を取り合って平和な国を作っていこうと・・・
これが、激しい時代の中で、全く逆の立場に立たされたのです。
自分は戦争責任者・・・
会津の罪もない人たちに大変な塗炭の苦しみを味あわせてしまった・・・
このことを、何より悔いていました。

会津戦争から25年・・・1893年、松平容保死去。
容保は59歳で没しました。
その亡骸は、会津の山中で、静かに眠っています。

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その美しさから会津富士と呼ばれる明峰・磐梯山
今から150年前、この山の麓で、戊辰戦争最大の激戦が行われました。
藩の誇りをかけた会津藩が、攻め込んできた新政府軍に徹底抗戦!!
そんな会津藩に悲劇が・・・
白虎隊の少年兵たちが非業の死を遂げたのです。
城が陥落したと絶望して・・・。
今も語り継がれる白虎隊と会津藩・・・その壮絶な最期とは・・・??

会津藩は、伊達家の仙台藩、上杉家の米沢藩が幕府に反旗を翻した場合に、防衛の拠点となる重要な藩でした。
藩の礎を築いたのは、2代将軍秀忠の息子・保科正之です。
保科は、会津藩家訓15か条を作り、第1条に・・・
”徳川家に絶対的な忠誠を誓うことが、会津藩の務めである”と。
その使命を果たすべく、代々藩主は人材育成に努めていきます。
その一環として藩士の子供たちは、”什の掟”という心構えを教え込まれます。
10歳になると、藩校・日進館に・・・。
論語、大学など中国の古典を声に出して読み教養を深め、医学、天文学まで幅広く学びました。
砲術、弓術、水練・・・徳川家の有事に備え、有能な藩士を育てようとしました。
こうして幕府から絶大な信頼を得ていく会津は、幕末、朝廷からも信頼を寄せられます。

9代藩主・松平容保は、京の治安維持を担う京都守護職に・・・。
時の孝明天皇から高く評価されます。
しかし・・・15代将軍徳川慶喜が政権を交代した大政奉還を境に会津藩の立場は激変!!
幕府、朝廷・・・両方から敵視されることに・・・

慶喜の裏切り・・・
1868年1月、容保ら旧幕府軍は、慶喜を大将に新政府軍に戦いを挑みます。
鳥羽伏見の戦いです。
しかし、あえなく敗戦!!
容保は慶喜に付き従い江戸に逃げ帰ります。
対して新政府軍は朝敵となった慶喜に対し素早く追討令をだし、江戸へと迫ってきました。
すると・・・慶喜は朝敵に対し恭順の意を示したばかりか、信頼していた容保を江戸から追放したのです。
そこには慶喜の思惑がありました。
まだ新政府軍と戦う気だった会津藩の存在が邪魔だったのです。
「江戸から遠ざけたい・・・!!」
”会津藩 松平容保は、天皇に対し恭順の意を表していない”と印象付けようとしたのです。

徳川家に尽くして来た会津藩に対する裏切りとも取れる慶喜の行為・・・
大きなショックを受けた容保は、失意のまま会津に戻ります。
そして14歳だった養子の喜徳に家督を譲り隠居、自らも朝廷に対し恭順の意を表すのですが・・・
その申し出は受け入れられませんでした。
新政府軍は、容保の斬首を要求!!

どうして新政府軍は会津に厳しかったのでしょうか?
長州藩との因縁・・・
それは、まだ幕府が政権を返上する前、京都守護職の容保は、新選組を配下に置き、尊王攘夷派の長州藩士などを厳しく取り締まっていました。
攘夷派だった孝明天皇も、容保に信頼を寄せるようになります。
1863年、8月18日の政変!!
孝明天皇に近づき利用しようと画策していた長州藩士と尊王攘夷派の公家らを京都から追放!!
この時、長州藩士たちを追放したのが容保ら会津藩でした。
長州藩は尊王攘夷激派で、容保はまだ公武合体派だったのです。
孝明天皇も、まだ”長州藩士らの追放”を望んでいました。

1864年禁門の変・・・復権を目論んだ長州藩が再び上洛し、蛤御門で幕府軍と対決!!
しかし、御所を守っていた会津藩(松平容保)、桑名藩(容保の弟・定敬)、薩摩藩によって撃退されます。
長州藩は多数の死者を出したうえ、責任を取って3人の家老が切腹を命じられました。
これによって長州藩は会津藩と薩摩藩を「薩賊会奸」と恨むようになりますが・・・
この後、長州は薩摩と同盟(薩長同盟)を組み・・・憎悪の念は、会津藩一藩に集中するのでした。
つまり、容保の厳しい処分は、長州藩の強い意向によるものでした。
新政府軍は、自らの威信を世に知らしめるために、朝敵となっていた松平容保の斬首を決めたのです。
会津藩の存亡をかけた戦い・・・会津戦争が始まりました。

会津藩・松平容保の斬首を執拗に要求した新政府軍・・・
これに猛反対した東北諸藩は、朝廷に容保の助命嘆願をしましたが、朝廷はこれを却下。
そこで、仙台藩を中心に、長岡藩、米沢藩、庄内藩を中心に奥羽越列藩同盟を結び、新政府軍に対抗することになりました。
容保も、幼い藩主に代わって、密かに戦いの準備を進めていました。
まずは、部隊を年齢別に4つに分けます。
東西南北の守護神から・・・
主力は朱雀隊・・・18歳~35歳の屈強な青年部隊
続く青龍隊・・・36歳~49歳で構成
年配者は玄武隊・・・50歳以上の予備隊
白虎隊・・・16~17歳の少年で、予備隊した。
この白虎隊は、上流藩士の子弟で構成される士中隊、中級藩士の子弟で構成される寄合組隊、下級藩士の子弟の足軽隊と、身分によって分かれていました。
容保は、武器の洋式化も進めていました。
プロイセンの武器商、ヘンリー・スネルを軍事顧問として招聘していた容保は、会津藩・平松武兵衛を与え重用。
新潟にいたスネルの弟を通じて、武器を購入していました。
この時、会津藩・庄内藩からプロイセンに対し、領地売却の打診があったようです。
当時、新政府軍は、イギリスから最新鋭の武器や弾薬を入手していました。
そこで、会津藩と庄内藩は、蝦夷の領地をプロイセンに売却することで、武器を用立てようとしました。
しかし、ビスマルクは、この提案を拒否!!
このことが、会津藩の戦いに大きな影響を与えることとなります。

1868年4月下旬・・・
会津藩が、白河口の戦いで白河小峰城を占拠!!
新政府軍を迎え討ちます。
指揮を執ったのは、会津藩家老・西郷頼母でした。
仙台藩や、二本松藩らの援軍も駆けつけ、新選組の生き残りたちも会津藩に参戦し、会津藩・東北諸藩・旧幕府軍2500あまり・・・対する新政府軍は僅か700!!
いざ戦いが始まってみると・・・会津藩は、700人以上の死者を出して敗北するのです。
どうして・・・??そこには武器の装備の差がありました。
新政府軍は、最新式の元込め銃・・・手元で弾薬の装填をするので、短時間で弾を込めることができました。
会津藩は、旧式の先込め銃を使っており、先端から弾薬を装填するため、時間がかかりました。
おまけに命中精度は非常に悪かったのです。
武器の輸入が上手くいかなかったことは、用地売却が上手くいかなかったことが原因かもしれません。
白虎隊の少年たちに与えられたのも、先込め式の銃でした。
しかも、体の小さい彼等には小さいものを用意したといいます。
この時、白虎隊に鉄砲を指導した一人が山本八重(新島八重)でした。
来る戦いに備えて・・・!!
白河小峰城を落とした新政府軍は、会津へと迫っていました。
長岡藩、二本松藩が次々と破れ、新発田藩は寝返り。。。奥羽越列藩同盟は崩壊しました。
会津藩は追いつめられていきます。
新潟港を抑えられ、スネルの弟からの武器の補給路が絶たれてしまいました。

8月21日・・・新政府軍が会津にやってきました。
母成峠で激戦!!
新政府軍3000に対し、会津藩は僅か800でした。
この戦いに敗退・・・遂に領内に攻め込まれてしまいました。
そして・・・翌日、白虎隊に出陣命令が出されたのです。
苦渋の選択・・・もはや、避けることのできないところまで追いつめられていました。

主力部隊を藩境に・・・!!
しかし、東側の母成峠の戦いに勝利した新政府軍は、城下と山を隔てた猪苗代湖へと一気に攻めてきました。
容保の決断・・・主力部隊を藩境に送り出した後、城に残っていたのは50歳を超えた老兵と、まだ年端も行かぬ少年部隊でした。
そして、容保が選んだのは、白虎隊士中二番隊に出陣命令を出すのです。

8月22日、容保から出陣命令を受けた白虎隊士中二番隊は、猪苗代湖周辺で戦う味方と合流すべく隊長・日向内記のもと、峠を越えていきました。
到着したのは、日没間近の事でした。
8月22日は、今の暦にすると10月初旬・・・台風が接近していたので、強風雨や寒さに苦しめられました。
予備兵だった白虎隊の出陣は、突如決まったので、十分な食料を所持していませんでした。
一行は、降りしきる雨の中、野営を・・・!!
雨を避ける場所などなく、寒さに震えながらの野営・・・。
すると、隊長の日向が・・・
「他の隊に掛け合って、食料を分けてもらってくるから、諸君らは、ここで待つように。消して動いてはならぬ・・・!!」と、部隊を離れていきました。

激しい雨と不安の中、眠れない夜を過ごした少年兵たち・・・
早朝から新政府軍の激しい攻撃にさらされます。
会津軍は、たちまち陣形を崩し後退・・・。
白虎隊市中二番隊は、必死に逃げ回っているうちに他の隊とはぐれてしまいました。
二番隊も散り散りとなり、37人いたのに20人に・・・!!
指示を仰ぐ隊長もいない少年兵たちは、リーダー格の篠田儀三郎を中心に話し合います。
ひとまず若松城に戻ることに・・・しかいs、周囲は敵ばかり・・・!!
そこで、飯盛山の洞穴を通っていこう!!
そうして命からがら、飯盛山の西側にたどり着いた20人・・・ところが・・・
「城が・・・燃えている・・・!!」
目の前には、黒煙に包まれた若松城が・・・!!

「新政府軍の手に落ちたというのか??」

戻る城を失った白虎隊市中二番隊は、もはやこれまで・・・と、次々と命を絶つのです。
しかし、この時、城下は焼き払われていたものの、まだ城は落ちてはいませんでした。
これが、会津戦争最大の悲劇として語り継がれてきた白虎隊の最期ですが・・・

近年新説が・・・
自害した白虎隊20人の中で、一命をとりとめた者がいました。
飯沼貞吉です。
喉を突きさすも息があり、通りかかった女性に助けられました。
平成20年・・・白虎隊顛末略記という手記が発見されました。
これによると、若松城が落城したと思い込んで自決したわけではありませんでした。

意見がまとまらない中、リーダー格の篠田は、
「いずれの策をとっても、敵の捕虜にならないとは限らない。
 そんな恥辱を受けるより、ここで潔く自刃し、武士の本分を果たそう!!」
と、自決に至ったのです。

1868年4月下旬・・・会津戦争
会津藩は奮戦するも、4か月後、新政府軍に若松城を包囲されてしまいます。
城下では目を覆う惨劇が・・・!!
その様子が、会津藩士・荒川勝茂の日記につづられています。

「老人、婦女子、地にまみれ、地に染み、泣き叫ぶ声哀れなり
 あるいは夫人、風呂敷包みを背負いて出で 逃げるに妨げとなり 途中にて捨てるもあり
 また老人背負いて打たるるもあり
 実に目も当てられぬ有様なり」

この時、会津藩士の妻や娘などの多くが、足手まといになること、敵からの辱めを受けることを嫌い、自ら命を絶ったといいます。
その中で、中野竹子が指揮をした娘子隊は果敢にも長刀で戦います。
当時、新政府軍は生け捕りにしようとしましたが、その長刀さばきと勇猛果敢さに、慌てて銃を取り銃弾を浴びせました。
竹子は額に銃弾を受け、命を落とします。
まだ、22歳でした。
新政府軍によって、城下を押さえられた会津藩は、若松城での籠城戦を強いられます。
深い堀と高い石垣に囲まれた若松城は、奥羽一の堅固な城と呼ばれていました。
そのため、新政府軍を大いにてこずらせます。
鉄壁の城に刺客などなく、敵を撃退していきます。
しかし・・・長期戦の様相を呈してくると、様相は一転!!
5000人いた若松城は、食糧不足に陥ります。
会津藩の予想より早く、新政府軍は攻めてきました。
新政府軍の中心・薩摩、長州、土佐藩は、寒さに弱く、冬が来る前に攻撃を急いでいたのです。
5000人分の備蓄ができていなかったのです。
食糧が底をつくと、もち米の粉を湯がいただけのものを食べ、飢えを凌ぎました。
秋の深まりとともに、寒さも増していきます。
着の身着のままで逃げてきた人々は、震えながら夜を過ごします。
城内の人々が疲弊していく中・・・新政府軍は新たな戦法へ・・・!!
若松城の南東2キロにある小田山・・・新政府軍は、ここに最新の大砲・アームストロング砲を据えました。
射程は2キロ以上・・・城まで十分に届きます。
この大砲で、1日1000発以上もの砲弾を若松城に向けて撃ったのです。
城は大きなダメージを受けていきます。
激しい攻撃、劣悪な環境・・・次第に脱走者が続出し、悲観して自決する者も出てきました。
それでも、松平容保は、家臣たちと戦うことを選びます。
藩士たちもそれに応えます。
最後まで新政府軍を城の中に入れることなく戦ったのです。

ところが・・・
奥羽越列藩同盟の東北諸藩が降伏していく中、同盟の中心だった仙台藩がついに新政府軍の軍門に下ります。
その翌日・・・新政府軍より会津藩の元に降伏勧告状が届きます。
戦いの指揮を執ってきた容保は、遂に城を明け渡すことを決断!!
家臣たちは、涙ながらに容保の決断を承諾したのです。
9月22日、若松城に降参の意味を込めた白旗が掲げられます。
それは、負傷者の包帯に使っていた木綿の端切れを縫い合わせて作ったものでした。
そして、礼服に身を包んだ容保は、自ら降伏謝罪状を持って新政府軍の元へ・・・。
戊辰戦争の最初、鳥羽伏見の戦いから数えると、会津藩の死者は3000人近くに上ったといいます。

生き残った藩士たちには、過酷な運命が・・・
本州最北端の斗南藩3万石(実高6000石)へ移住させられます。
会津藩士だけが移住させられ、亡くなる人も沢山でした。
会津藩家老萱野長修が全責任を負って切腹。
松平容保は、斬首を免れ鳥取藩江戸屋敷などで謹慎。
容保は、日光東照宮の宮司となり、明治26年59歳でこの世を去りました。

新政府軍により賊軍となった会津藩は、自らの信念を曲げることなく最後まで戦いました。
故に、多くのものを失うこととなってしまいました。
そんな中、生き残った少年たちに会津の未来が託されました。
白虎隊の二人の少年が会津藩士・秋月悌次郎の尽力で、長州藩士・奥平兼輔の元に預けられ、書生となります。
その一人・山川健次郎は、後に48歳の若さで東京帝国大学総長となります。
その後も、日本の未来を担う、豊かな人材を育てることに尽力したのです。

山川は、常に、子供たちにこう教えていました。

「終生 人格を磨くべし」

何事に対しても、我慢強く、卑怯な真似はしてはならない・・・
会津で学んだ心得・・・会津士魂を伝えたのです。

白虎隊市中二番隊19人は、自決した飯盛山に眠っています。
会津を思い、会津のために死を選んだ19人の少年・・・
その傍らには、彼らを最後まで出陣させたくないと思っていた容保の歌碑があります。

幾人の涙は石にそそぐとも
        その名は世々に朽ちじとぞおもう
                           容保


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東京目白にある学習院大学・・・敷地内には幼稚園・中等科・高等科が併設され、皇族の子息が通われる学校として知られています。
起源は江戸時代の京都・・・1847年に御所の日御門前に学問所を新設、二年後に時の天皇が学習院と名付けました。
その名付け親が孝明天皇です。
激動の幕末に即位した江戸時代最後の天皇です。

①前代未聞
弘化3年孝明天皇は16歳で天皇の位を受け継ぎます。
5月浦賀にアメリカ艦隊が来航し、通商条約締結を要求してきました。
6月長崎にフランス艦隊が来航。
幕府は鎖国を理由に彼らの要求を拒み、退去させました。
しかし・・・その2か月後、孝明天皇が思わぬ行動に出ます。
時の関白を通じて・・・幕府に勅書を下します。

「近年、異国船が時々渡来するという噂を耳にする
 幕府は異国を侮らず畏れず海防を強化し、日本の恥とならないよう処置し、朕を安心させるようにせよ。」by孝明天皇

その孝明天皇の勅書に江戸幕府12代将軍家慶をはじめとする幕府の人間は驚きます。
幕府の政策に天皇が口を出すなど前代未聞のことでした。
当時の天皇と幕府の関係は・・・
天皇が幕府に政治を任せる・・・ということでしたが、圧倒的に幕府に力があり、天皇は抑えられていました。
なので、天皇・朝廷が幕政に口出しすることなどなかったのです。
その理由の一つが・・・天皇・公家たちは幕府から経済的な支援を受けていたからです。
天皇の所領は、禁裏御料と言われ3万石、朝廷に仕えていた公家たちには合わせて7万石ほど・・・。
幕府は朝廷に対し、10万石も献上していたのです。
幕府からの支援を得、孝明天皇はどんな生活をしていたのでしょうか?

朝起きると、糠を入れた絹袋を石鹸代わりに洗顔。
1日か2日おきにお歯黒。
身支度が終わると、神仏、先祖の御陵の方向に向かって拝みます。
午前中は、手習い、学問、和歌を詠んで過ごします。
昼食・・・一日の食事の中で、最も豪勢で、毎日30センチもある”鯛の尾頭付き”を食べていました。
午後も、手習い、学問、和歌で過ごします。
6時ごろから夕食・・・宮廷内で酒は御献(おっこん)とよばれ、孝明天皇はかなり好きだったようで、夜10時ごろまで飲んでいたので、就寝は12時頃でした。

対して、当時の将軍は、梅干しや煮豆などの一汁二菜で、夕食でもそれに焼き魚が着く程度でした。
幕府の支援を受けながら、優雅な暮らしの孝明天皇でしたが、開国を迫る欧米諸国をひどく恐れていました。
1853年、アメリカからペリーが来航!!
日本は激動の時を迎えます。
1854年、日米和親条約を締結。
箱館と下田の二港を開港し、イギリス・ロシアなどとも条約を結びました。
この時、孝明天皇は、朝廷のある関西地方の警備体制の強化を要請しながらも、条約締結については承認します。
和親条約は、友好をうたったもので、貿易協定などを結ぶものではありませんでした。
京都と離れた箱館と下田の開港だったので、孝明天皇としても恐れるほどではないと思っていました。
しかし、事態は急変・・・
1856年アメリカ在日総領事ハリスが、下田に着任し・・・
①通商条約の締結を要求
②江戸城で直接将軍に謁見し、大統領の親書を渡すと要求
幕府はハリスの要求を受け入れます。
この時、幕府はアメリカと戦う気はありませんでした。
中国・清が、イギリスとのアヘン戦争に敗れ、不平等な条約の締結と、香港の割譲させられたことを知っていたからです。

欧米諸国と戦えば・・・清の二の舞になってしまう・・・!!
開国賛成派と鎖国維持派に諸大名たちは真っ二つ!!
そこで、孝明天皇の勅許をもらうために・・・京都に堀田正睦が向かいました。
しかし!!

幕府が通商条約締結に向かっていると事前情報を手に入れていた朝廷では、その対応が協議されました。
そこで、孝明天皇は自らの意見を表明します。

「アメリカの願い通りになってしまっては、天下の一大事の上、朕の代よりそのようなことになってしまったのでは、後々まで恥となる。」by孝明天皇

だから・・・条約締結は承認できない・・・!!

幕府の提案を承認しないなど、前代未聞のことでした。
幕府と上手くやっていきたい公家たちは、焦ります。
そのまま幕府に伝えれば角が立つ・・・
迷った挙句に、参内した老中・堀田正睦に告げます。
「徳川御三家以下、諸大名の本心を今一度聴取し、その報告を聞いたうえで、改めて帝が判断を下さされる。」
開国を反対する大名を納得させるために、京都まで来たというのに・・・もう一度彼らの意見を聞けというのか・・・??
堀田はこれを拒みます。
「アメリカと戦っても勝ち目はありません。
 世界の情勢を見ても、通商条約締結は、もはや避けられないことなのです。」by堀田
理路整然と涙ながらに説明する堀田・・・。
しかし、孝明天皇の心は変わりませんでした。
最後に堀田は・・・
「アメリカがしびれを切らし切迫した場合は、戦か条約締結か、幕府が判断してもよろしいのでしょうか?」by堀田
「アメリカが武力で訴えるならば、戦も致し方ない!!」by孝明天皇

孝明天皇が望んでいたのは、”鎖国体制の維持”でした。
ハリスの・・・アメリカ人の強引なやり方が、孝明天皇の”外国人に対する嫌悪感”につながったのです。
攘夷に繋がっていくのです。
頑なな天皇を前に、なすすべもなくなった堀田は、勅許を得られないまま江戸へと帰っていきました。

幕府の提案をはねのけた孝明天皇ですが、幕府は強硬手段に!!
指揮を執ったのは、大老・井伊直弼でした。
井伊は、諸藩の意見を聞くことも、孝明天皇の意見を聞くこともなく・・・
1858年幕府の独断で日米修好通商条約に調印してしまいました。
これが、孝明天皇の逆鱗に触れたのです。

天皇はすぐに、幕府に御趣意書を送り付け、猛烈に抗議します。
「このたびの幕府の措置は、厳重に申せば、勅書を無視したものであり、不信感を抱かせるものである。」by孝明天皇
そこで、水戸藩に勅書を下し、他の藩にも伝えるように命じました。
その中で天皇は・・・
”独断で日米修好通商条約を締結した幕府に経緯の説明を求めること”
”攘夷を推進すべく、幕府を改革していくこと”
を強く求めました。
幕府は、天皇と諸大名が直接やり取りをすることを禁じていたので、天皇の越権行為でしたが・・・
それだけ、孝明天皇が幕府に怒っていたともいえるのです。
しかし、幕府の大老・井伊直弼は、攘夷にこだわる孝明天皇を逆なでするかのように・・・尊王攘夷派を大量に処罰。
吉田松陰、橋本佐内らが死罪・・・安政の大獄です。
これを聞いた天皇は激怒!!
あまりに怒ったので、関白の頭を扇子で執拗にたたいたと言われています。
どうして孝明天皇はそこまで攘夷にこだわったのでしょうか?
200年以上鎖国体制が続いていたので、気持ちの切り替えがむつかしかった・・・現状維持が大事なことだったのです。
歴代の天皇が守ってきたものを、自分の代でかえることに抵抗を感じていました。
将軍=征夷大将軍は、”夷”・・・つまり、外国人を制圧するのが職務でした。
アメリカのいうことを聞いて、言うがままになることは、職務を果たしていないということになるのでは・・・??

孝明天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約に調印し、天皇を支持した尊王攘夷派を処罰した井伊直弼・・・
当然ながら、多くの敵を生みました。
1860年(安政7年)3月3日・・・阿桜田門外の変で暗殺されてしまいます。
主犯は、尊王攘夷派の水戸派の浪士たちでした。
これを機に、諸大名も幕府の強引なやり方に反発します。
幕府の権威は急速に失墜していきます。
そしてこの後、孝明天皇は図らずも維新の渦に巻き込まれていくのです。

②妹・和宮
公武合体を画策する幕府・・・
その象徴として・・・14代将軍徳川家茂と孝明天皇の妹・和宮の婚姻でした。
皇族が・・・武家に嫁ぐなど、前代未聞のことでした。

この時、孝明天皇自身も公武合体を望んでいました。
しかし、和宮にはこの時すでに、有栖川宮熾仁親王という婚約者がいました。
そして、和宮自身も、江戸で暮らすことを嫌がっていました。
宮中で育った和宮には、外国人がたくさんいる江戸は、恐ろしいものでした。
妹の幸せを願った孝明天皇はこれを却下・・・。
しかし幕府は食い下がります。
信頼する岩倉具視に孝明天皇が相談すると・・・

「幕府が攘夷の実行を約束するならば、降嫁をお許しになればよろしいのでは?」by岩倉具視

そこで、その条件を幕府に突き付けると・・・

「十年以内に鎖国体制に戻します。」by幕府

孝明天皇の望むように攘夷を決行すると約束してきました。
結婚に頑なな和宮・・・生まれたばかりの孝明天皇の娘・寿万宮を嫁がせようとすると、それを知った和宮は、自分が行かなければ誰かが犠牲になる・・・と、決めたのでした。

その代わりに和宮は、大奥に入っても御所の流儀を通すこと、御所の女官を御側付きにすることなどを条件に出します。
孝明天皇は、和宮の要求を守るようにと、江戸へと送りました。
和宮を降嫁させたことで、幕府に対し”貸し”を作ることとなりました。
そして、幕府は、降嫁の交換条件として出した”攘夷”を、いつ決行するのか・・・??
幕府に対し、優位に立った孝明天皇は、人事まで介入してきました。
「老中を決める際、事前に天皇に伺いを立てること」を幕府に認めさせました。
攘夷に反対する人物を、幕府の首脳陣に加えさせないためでした。

和宮は、家茂のやさしさに仲睦まじい・・・これで公武合体も上手くいく・・・??

③尊王攘夷派

孝明天皇のもとで政治を行い、開国を迫る外国を打ち払おう・・・という尊王攘夷運動が出てきました。
当初は容認していた孝明天皇ですが・・・
天皇がいる京都に続々集まってきた尊攘攘夷派の志士!!
その中心は、桂小五郎や久坂玄瑞のいた長州藩でした。
朝廷内の公家たちに近づき、その多くを味方につけていきます。
そんな中・・・1853(文久3年)年将軍・徳川家茂が上洛。
将軍の上洛は、徳川家光以来、およそ230年ぶりのことでした。
孝明天皇が、将軍・家茂を呼びつける・・・攘夷をいつするのか??
幕府は、文久3年5月10日に攘夷を決行すると約束してしまいました。
孝明天皇が、将軍家茂に約束させた5月10日・・・
攘夷を掲げる長州藩が動き出しました。
下関沖を航行中のアメリカの商船をいきなり砲撃!!
ついに、攘夷を決行しました。
さらに長州藩は、天皇の行幸を勝手に計画・・・奈良にある神武天皇陵と春日大社を参拝することを決めました。
孝明天皇の指揮で、攘夷を行うべく軍議を開くというのです。
日に日に過激さを増す攘夷派・・・
ところが、文久3年8月18日、京都・御所にて・・・
クーデターが勃発!!
長州藩とそれに味方した公家らが追放されてしまいました。
8月18日の政変です。
クーデターを実行したのは、”公武合体派”の会津藩と薩摩藩でした。
そして、彼らに命じたのは・・・なんと孝明天皇でした。
どうして、味方である尊王攘夷派を追放したのでしょうか。
当初、尊王攘夷派は孝明天皇の意見を代替する存在でしたが、いつしか孝明天皇の意向を無視して事を進めるようになってしまったのです。
孝明天皇が望んだのは、幕府による緩やかな攘夷でした。
しかし、尊王攘夷派はどんどん過激になっていったのです。
尊王攘夷派の中には、幕府を倒し、王政復古を目論む者もいました。
孝明天皇自身は、幕府と共に、国を動かす公武合体を望んでいたのです。
そして、尊王攘夷派を追放したが為に、孝明天皇自身の運命が変わっていくのです。

過激な尊王攘夷派を追放したのち、孝明天皇は再び参内した14代将軍徳川家茂に対し、こう表明します。
「無謀な征夷は実に朕が好む所に非ず」by孝明天皇
なんと、急進的な攘夷は望まないと言ったのです。
幕府に対し、あれほど攘夷せよと言っていたのに・・・軟化させたことに世間は驚きました。
攘夷の態度を軟化させたことで、世間は孝明天皇に対し、不信感を抱くようになります。
天皇の絶対的な権威に対する不信を招いたのです。
当時の世論の大半は、攘夷派でした。

そんな中、孝明天皇は、公武合体を強固にするために、幕府との関係を深めていきます。
まだ十代だった家茂には・・・

「互いに親子のような情愛を持って接することが、天下の安定につながるであろう。」by孝明天皇

そう諭し、幕府から京都に派遣されていた人物と信頼関係を深めていきます。
一人は一橋慶喜・・・後の15代将軍です。
この時、禁裏御守衛総督として、京都に赴任していました。
もう一人は、京都守護職・会津藩主・松平容保です。
そして、その弟で京都所司代・桑名藩主だった松平定敬です。
中でも、孝明天皇が最も信頼していたのが、松平容保でした。
忠義を尽くし、天皇の身辺警護に当たっていました。
配下の新選組を使って、追放後も復権を狙う尊王攘夷派の志士たちを取り締まりました。
そんな容保に、孝明天皇は和歌を送っています。
内容は・・・
「武士と心合わせれば、どんな困難なことにも打ち勝つことができ、そのことは代々伝えられていくことだろう。」となっています。

容保を信頼し、幕府と運命を共にするという孝明天皇の決意の表れでした。
しかし・・・次々と事件が起こります。
1864年・・・禁門の変(蛤御門の変)
このことがきっかけで、京都の町の大半が焼失しました。
さらに翌年には、兵庫沖にイギリス・アメリカ・フランス・オランダ四か国の連合艦隊が来航。
攘夷運動の中心が天皇にあると見た彼らは、孝明天皇に通商条約の勅許を下すよう要求します。
しかし、態度を軟化させても攘夷に変わりない孝明天皇はこれを退けました。
幕府が説得を試みずも応じず・・・幕府との間に緊張が走ります。
これを打破したのが、一橋慶喜でした。
孝明天皇に・・・
「欧米諸国が京都に乗り込んで、孝明天皇が命の危険に晒される事態も起こり得る」と、進言するのです。
命も危うい・・・慶喜の言葉に、初めて諸外国の怖さを味わいました。
幕府が独断で、日米修好通商条約を締結してから7年・・・その勅許を下すのです。
失意の中・・・孝明天皇を悲劇が襲います。
1866年大坂城・・・将軍・徳川家茂が、病に倒れます。
知らせを聞いた孝明天皇は御所から二人の医師を派遣しますが、その甲斐もなく将軍家茂は亡くなってしまいました。
追い打ちをかけるように、孝明天皇への批判が・・・!!

「孝明天皇の勅許と言えども、万人が納得できなければ認めることはできない」by大久保利通
「天皇は絶対的な存在ではない」by岩倉具視

そんななか、1866年孝明天皇崩御・・・36歳でした。
公武合体を共に進めた家茂と孝明天皇の相次ぐ死で、幕府の命運は尽きました。
この後、長州藩、薩摩藩が中心となって討幕へ!!
1年後・・・1867年には大政奉還。
およそ260年続いた江戸幕府は、終わりを告げるのです。

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1866年、京都のとある場所で・・・密約がなされました。
薩長同盟です。
あまりにも有名な伝説・・・
西郷隆盛と木戸孝允、面子を気にして同盟を切り出せない二人を坂本龍馬が一喝!!
同盟成立に導いたというストーリーですが・・・
近年、歴史は見直されつつあります。

ひとまず幕府に従うべきだという西郷、これ以上過酷な処分は受けないといいはる木戸・・・。
意見は食い違い、薩長は決裂寸前となっていました。
暗礁に乗り上げた交渉をまとめ上げたのは・・・龍馬ではない・・・もう一人のキーマン・・・小松帯刀!!
薩摩藩の若き家老です。

「薩摩での人物はまず小松である」by龍馬
「私が一番知っている日本人で、一番魅力ある人物」byアーネスト・サトウ
「薩摩藩の製作は、ほとんど小松が立案している:by海舟

万難を配し、長州との同盟に踏み切った帯刀、知られざるその構成期とは・・・??

小松帯刀・・・帯刀本人が愛用した薩摩琵琶。
帯刀は、若い頃、寝食を忘れてこの楽器に熱中しました。
心配した家臣が、先祖の功績に恥じぬ生き方をせよと忠告すると、涙ながらに琵琶をしまい、二度と手に取ることはありませんでした。
藩主・島津家に並ぶ名門に生まれた帯刀・・・幕末の動乱へ・・・!!

1853年黒船来航

開国を迫ります。
圧倒的な武力の前に、開国に踏み切る幕府。
この先・・・欧米諸国とどう向き合うのか・・・??
薩摩藩は、他国に先んじて、富国強兵に乗り出していました。
藩主・島津斉彬は、反射炉を建設し、大砲鋳造に乗り出します。
21歳の帯刀は、斉彬の隣で産業育成に関わります。
この経験が、帯刀の目を開きました。
壮大な造船業、製鉄業、紡績業が、鹿児島に次々に生じていきます。
日本を変えていくためには殖産興業・富国強兵だ・・・!!
自立しながら日本全体を守っていかなくては!!

斉彬の後、権力の座に就いたのは弟・久光でした。
久光は、帯刀を僅か28歳で家老に昇進させます。
家老になる1年前・・・1861年には藩命により長崎へ・・・異国人から蒸気船を学びました。

当時アメリカでは・・・1861~1865年まで南北戦争によって品薄となっていた綿・・・これに目をつけて、西国諸藩から綿を買い取って輸出!!
売り上げは18万両にのぼりました。
その利益を手に、海軍の建設に乗り出しました。
この年、薩摩藩は、5隻の蒸気船を購入しています。
同じ頃、運命的な出会いが・・・坂本龍馬です。
神戸海軍操練所の閉鎖に伴って行き場を失っていた龍馬を、帯刀は薩摩に引き取ります。
顔が広く、抜群の政治センスを持つ龍馬は、帯刀の元で、薩摩外交の一翼を担うようになります。
彼らの共通の理想・・・それは、雄藩連合です。
これまで幕府では、一部の譜代大名が政治や外交を独占!!
外様はカヤの外でした。
薩摩は、有力大名が手を組む雄藩連合を構想、実現に向けて動き出していました。
帯刀は久光の代理として京都での工作を任されます。
そこで直面したのが長州をめぐる政局でした。
その頃長州は、異国を打ち払うべしとし、外国船への砲撃を決行!!
一部の公家と結びつき、通商条約の破棄を工作していました。
幕府側は激しく反発し・・・その中心が、禁裏御守衛総監・一橋慶喜、京都守護職・松平容保、京都所司代・松平定敬でした。
薩摩はこの時幕府側について、長州と蛤御門で戦い、撃退します。
慶喜はこれに乗じて、長州排除に動きます。15万の征討軍を動かし、長州国境に迫りました。
第一次長州征伐です。

ところが・・・ここに及んで薩摩は態度を一変!!
1864年10月、上京した帯刀は、慶喜に征伐中止を宣言しています。
「ここで内乱を起こすことは、植民地化を狙う諸外国の思うつぼ・・・!!」
この薩摩の方針の変更は、京都におけるパワーバランスによるものだと思われます。
一会桑は、有力藩を国政運営に加えたくない・・・
薩摩は加えたくない・・・??
勢力との深刻な対立。。。
長州を敵に回すのではなく、恩を売っておくほうが得策なのではないか・・・??

薩摩は事態収拾へと動きます。
禁門の変を主導した長州の三家老を処刑し、幕府へ謝罪するように打診・・・。
長州がこれを受諾したことで、第一次長州征伐中止。
振り上げた拳の行先の無くなった慶喜は、苦々し気に吐き捨てます。
「芋に酔うのは酒に酔うより甚だし」と。

薩摩への警戒を強める慶喜、再起へ虎視眈々の長州、その中で京都での工作に励む小松帯刀・・・
幕末は、いよいよ風雲急を告げる・・・!!
1865年、幕府側の巻き返しが・・・
三家老の処刑では処分は済んでいないとし、将軍家茂率いる15万の軍が大坂へ・・・!!
第二次長州征伐です。
長州は、開戦を覚悟しました。
しかし、幕府は諸外国に対し、武器を売らないように要請します。
長州は、絶体絶命の窮地に陥りました。
この時の、帯刀の決断とは・・??

薩摩名義で7,300丁もの銃を購入し、長州に斡旋したのです。
長州の使者に対して・・・
「幕府の嫌疑など意に介していない。
 如何なることでも尽力する。」
この時帯刀は、幕府を排除した新しい政治体制を模索していました。

薩摩は長州との更なる提携の道を探るべく使者を派遣!!
うけて翌年、長州藩・木戸孝允が上京!!
交渉の場は、帯刀の宿舎・御花畑・・・藩邸を避けたのは、幕府に嫌疑を起こさせないための薩摩側の配慮でした。
1866年1月・・・交渉が始まりました。
帯刀の元で交渉を担当したのは西郷隆盛!!
西郷は、幕府側に対する武力も辞さない強硬派として知られていました。
しかし、会談の冒頭に発したのは・・・
「ここはまず、幕府の処分を甘んじて受け入れよ」でした。
この時点で、幕府は長州に対し藩主親子の隠退、領地10万石削減・・・を通告する見通しとなっていました。
過酷な処分を受け入れよという西郷・・・
そこには、国父・島津久光の意向がありました。

久光は、京都藩邸に使者を送り、藩士たちに厳しく自重するように命じてます。
西郷と帯刀は、長州に対して朝敵の汚名を晴らす政治工作はできても、幕府への武力行使はできない状況に追い込まれていたのです。
しかし、長州は既に臨戦態勢・・・更なる条件など受け入れられない・・・。
三家老の首級で住んでい入るはずでは・・・??
軍事支援か?政治的解決か・・・??
薩摩に置いて、久光は絶対でした。

交渉を打ち切るか・・・??
同盟締結に向かう・・・??

1866年1月20日、暗礁に乗り上げた交渉は・・・思わぬ展開に!!
きっかけは龍馬!!
御花畑に到着し、薩長両藩に交渉の継続を求めます。
龍馬の働きかけで交渉は続けられ、後は帯刀次第・・・
「私の思いが小松、西郷に通じた。感謝に耐えない・・・」by孝允
帯刀は、処分を突っぱねて、幕長戦争に突っ走る木戸の主張を受け入れたのです。
ここに、薩長同盟が成立!!

木戸の書簡には、6か条にわたって盟約の詳細が・・・

若し、幕府と長州は戦争となった場合、薩摩は二千の兵を上京させ、京都、大坂を固める!!
薩摩は朝廷に働きかけ、長州の朝敵の汚名を晴らすべく尽力する!!

ここまでは、久光にとっても許容範囲ですが・・・

第五条には・・・
一(橋)会(津)勢力総勢力がこれまでのように、長州の復権を遮る場合は決戦に及ぶ・・・
つまり、決戦条項です。
久光の指示に反するかのような条文・・・そこには巧妙なロジックが隠されていました。

一会桑・・・つまり、幕府とは一言も言っていません。
薩摩が生き残るためには、長州を絶対滅ぼしてはならない!!
軍事同盟ともそうでないともとれるこの密約は、帯刀苦心の結晶でした。

1866年6月、幕長開戦!!
ついに戦闘状態に・・・!!
帯刀のあっせんした最新兵器の威力は凄まじく、長州は四方からの15万の幕府軍を撃退!!
1867年5月、京都・二条城に将軍・慶喜と久光ら有力諸侯が集まり、長州の戦後処理について話し合われました。
帯刀の書簡には・・・久光の言葉が・・・
「三家老の首級を差し出したことで、謝罪は済んでおります。」
同盟交渉の場での、木戸孝允の言葉を久光が口にしたのです。

同盟締結から1年余り・・・帯刀がいかに久光を説得したのか・・・その真相は全くわかっていません。
しかし、この時、確かに歴史は動いたのです。

薩長同盟は、その後の歴史を大きく変えました。
1868年1月3日、鳥羽伏見の戦い・・・薩長中心とする新政府軍と旧幕府軍が激突!!
新たな国家を作る戦いが始まりました。
しかし、そこに帯刀の姿はありませんでした。
この頃、持病の足の痛みが悪化し、鹿児島に戻っていました。
戦いを遠くから見守ることしかできませんでした。

「天下の大事に後れたこと、実に残念でならない。」

しかし、討幕戦争のさなかにも、帯刀は新政府の構想を・・・
より装飾性の高めた薩摩焼を作り、欧米の人にも賛美されるように・・・
薩摩焼は、1867年のパリ万博に出展されています。
その機を逃さないように・・・!!
繊細な薩摩焼は、ヨーロッパの上流階級に珍重され、ジャポニスムの潮流を巻き起こします。
宮殿などの装飾品として注文が殺到!!
当時、ヨーロッパでは日本の陶器はすべて薩摩と呼ばれるほどの人気でした。
殖産興業・・・帯刀の夢が、世界に飛翔した瞬間でした。

しかし、その夢の実現を帯刀が見ることはありませんでした。
1870年7月20日・・・病のために36年の短い生涯を閉じたのです。
維新の大業のために、命を燃やし尽くした帯刀・・・顧みられることのなかったその功績に、近年、ひかりが当たりつつあります。



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写真家大名・徳川慶勝の幕末維新―尾張藩主の知られざる決断

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西郷隆盛、勝海舟、木戸孝允、坂本龍馬、大久保利通・・・数々の英雄が歴史を彩った明治維新。
この維新があのような形で進んでいった理由は・・・御三家筆頭・第14代尾張藩主・徳川慶勝でした。

1868年鳥羽伏見の戦いで、新政府軍が勝利するも、江戸では旧幕府軍が徹底抗戦を主張!!
日本は、京都・江戸の間で国を二分する内乱の危機に陥っていました。
この時、慶勝がどちらに組するかで戦いの行方は大きく変わろうとしていました。

西国ににらみを効かす御三家筆頭・尾張徳川家。
1849年分家から尾張藩主となります。
幼いころから英才の誉れ高く、尾張家臣や領民から嘱望されての就任でした。
藩主となった慶勝は、海外の最新情報を集めることに力を注ぎます。
清が開国したことで生じた混乱・西欧列強の強大な軍事力・・・
国防に関心のある外様大名(福岡藩主・黒田斉溥、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬)らと連携し、来るべき外圧に立ち向かう道を探ろうとしていました。

藩主となって4年後・・・1853年ペリー来航。
開国を要求します。
策をまとめられない幕府に対して、意見「御尋二付建白書」をを提出。
国の根幹を揺るがす外交問題だとして朝廷と連携するべきだと進言します。
これは、挙国一致体制だと思われます。
慶勝は、日本全体を考えていたのです。


1858年日米修好通商条約締結
井伊直弼の・・・朝廷の了承を得ないままの本格的な開国でした。
それを知った慶勝は、急遽江戸城へ・・・!!
朝廷の許可を得ない条約の締結は、幕府の危機を招きかねない!!と、井伊直弼を責め立てますが・・・
反対に、突然の登城を責められ、藩主の座を追われ、謹慎の身となってしまいました。

謹慎の失意を慰めたものは・・・西洋の最先端テクノロジー・・・写真でした。
自由な外出も許されない慶勝は、屋敷の中で撮影に没頭!!
隠居謹慎の中で、写真に真実を追求していったのです。

慶勝の謹慎中・・・幕府を取り巻く環境は変わっていきます。
1860年桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺され、幕府の権威は失墜!!
幕府は天皇家と婚姻関係を結ぶことで権威を回復しようと公武合体を図ろうとします。
慶勝が求めていた朝廷との協力体制です。
しかし・・・孝明天皇は婚姻を認める代わりに厳しい条件・・・破約攘夷を求めます。
外国との条約を破棄し、外国人を退去させるよう求めたのです。
困難な状況に追い込まれた幕府が頼みにしたのが慶勝でした。
1863年正月 慶勝上洛。
朝廷との折衝役として・・・政治の表舞台に復帰します。

1863年5月長州藩外国船砲撃
各藩が勝手に行動しないように・・・幕府主導の下の挙国一致をしようとします。
そして慶勝の弟たちも・・・
会津藩主・松平容保は京都守護職に任命され、京都市中の治安維持を任されます。
桑名藩主・松平定敬は京都守護職となり容保を支えます。

長州が外国船に発砲した翌年・・・
1864年容保配下の新選組が池田屋で長州藩士たちの過激派たちを襲撃!!
2864年7月禁門の変、会津藩排除を唱える長州藩が、藩兵2000余りで京都御所に侵入するのを撃退しました。
長州は朝敵とされ、幕府に追討命令が出されました。
10月第一次長州征討
幕府にとって、230年ぶりの大規模な軍事行動です。
薩摩藩など35の藩で征討軍が組織され、総司令官に選ばれたのが慶勝でした。
15万の兵を率いて長州へ向かう慶勝。
ところが慶勝は、長州藩が禁門の変の首謀者として3人の家老の首を差し出すと、それを受け入れ、武力行使することなく征討軍を解散してしまいました。
どうして戦おうとしなかったのか・・・??

「聴衆を征伐して、海内を疲弊し、醜夷の術中に陥り候」

慶勝は、西欧列強が日本に進出する隙を与えないために、内戦を回避しようとしたのです。
そして、慶勝は、征討に参加した大名たちの合議で長州の処分を決めようとしました。

「外様大名も、日本の行く末を考えている・・・!!」

しかし、それに強く反対したのは、弟の会津藩主・松平容保でした。

「彼の諸侯を京師に召集すとある事を、深く非とせられ」

容保は、諸大名の合議で決めれば、幕府主導の政治体制が崩れてしまうと危惧していました。
これからの日本の在り方について・・・容保たちと相容れなくなってきました。

1866年6月第二次長州征討
幕府は命令に従わない長州に対して二度目の征討を行いました。
しかし、薩摩と同盟を結んで最新鋭の武器を獲得していた長州軍を前に、幕府軍は敗戦を続けます。
これを機に、薩長軍の討幕の勢いは加速し、幕府はその存続を脅かされていきます。
1867年10月将軍慶喜は起死回生の一手・・・大政奉還を行います。
政権を朝廷に返し、政治体制を大名の合議制に・・・その中で、主導権を握ろうとしていた慶喜。。。
慶勝も、大政奉還に賛同しています。
大名の合議制の確立が、世の混乱を立て直す機会だ!!と、持論に沿うものだったのです。
慶勝の望んだ挙国一致の体制が出来上がろうと見えましたが・・・

大政奉還から2か月後の12月、王政復古の大号令!!
薩摩藩、長州藩、公家の岩倉具視らが、天皇を中心とした新政府の樹立を宣言します。
慶勝はその新政府の要職に・・・。
ところが、新政府の中に慶喜の名前はありませんでした。
このままでは挙国一致の構想から徳川家が外れてしまう・・・。
慶勝は、慶喜を新政府に入れるように強く求めます。
これに対し、岩倉たちの条件は・・・”辞官納地”・・・つまり、慶喜の官位、徳川領200万石を朝廷に返上せよというものでした。
この徳川宗家を無力化する仕打ちを慶喜に伝える苦しい役を負わされたのが慶勝でした。
慶喜との会談の場で・・・
「尾張全国を宗室に還納し、以てその不足を償はん」
慶勝は、尾張の領地を宗家に返すことで、慶喜を支えるというのです。
新政府の中で、宗家を生き残らせたいという精一杯の進言でしたが・・・
慶喜は、これを受け入れようとはしませんでした。
そして最悪の事態が・・・!!

新政府の徳川家に対する処遇に不満を抱いていた容保たちが動きます。
1868年1月3日鳥羽・伏見の戦い勃発!!
旧幕府軍VS新政府軍の戦いです。
戦いは、錦の御旗を掲げた新政府軍の圧勝に終わります。

慶喜、容保、定敬らは、負傷兵を残したまま江戸に逃走!!
朝廷は彼らを朝敵とし、追討令を出します。
追討令が出されたその日、慶勝は岩倉具視から過酷な選択を迫られます。
旧幕府につくのか??新政府につくのか・・・??

宗家と共に起死回生の策に打って出るのか?
弟たちを敵に回しても新政府に留まるのか・・・??

1868年1月8日慶勝は自ら岩倉具視に告げます。
「勤王の道」と。

新政府側に付くことを選んだのです。
その後の慶勝の行動は素早く・・・
尾張藩の旧幕府派を処分し、名古屋から江戸にかけての大名に使者を送って、新政府側につくように説得!!
慶勝の工作は、寺や神社にまで徹底的に行われました。
集めた誓約書は500近くに上りました。
皆が揺れていたこの時期・・・尾張ケガ勤王誘因活動をする・・・
大規模な戦争をするのではなく、戦争を回避しようとしているという意思表示・・・
幕府の人材を失うことなく、徳川を残す・・・そんな行動だったようです。
2月6日、京都を発った新政府軍は、慶勝の働きもあって大きな抵抗を受けることもなく、僅か1か月で江戸に到着!!
江戸城は無血開城!!
慶勝は新政府に貢献する一方で、容保、定敬を救おうと一生懸命でした。
江戸で一橋家の当主となっていた茂徳に嘆願に当たらせます。
しかし・・・弟たちが許されることはありませんでした。
容保は会津で新政府軍に徹底抗戦ののち力尽きて降伏。
定敬は旧幕府軍最後の砦・五稜郭まで転戦するものの結局投降・・・。
二人は死罪は免れるものの、蟄居謹慎の身となりました。
維新の争乱も落ち着きを見せた明治4年・・・慶勝は名古屋から東京に移り住みます。

新しい町でも慶勝は写真の撮影をしました。
戦火を免れたかつての江戸を・・・。
慶勝が東京に移り住んだ翌年、容保と定敬は謹慎を解かれ・・・慶勝の日記には容保や定敬が登場するようになってきました。


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1878年9月・・・慶勝は弟たちを銀座に集めます。
行先は写真館。
兄弟そろっての記念撮影を呼び掛けたのです。


幕末維新という時代の曲がり角をそれぞれの信念で生き抜いた兄弟たち・・・。
これが最初で最後の集合写真となったのでした。





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