室町幕府を事実上の滅亡に追い込みました。
しかし、信長よりも20年も前に、時の将軍を都から追い出した戦国武将がいました。
その男の名は、三好長慶。
令和・長慶公記 最初の戦国天下人 三好長慶伝 生誕500年記念誌 新品価格 |
長慶は、畿内を実効支配、足利将軍に変わって自ら政権を握ろうとしました。
治安維持から中国との外交まで、将軍が行っていた政務を滞りなく行う長慶に、天応や朝廷が信任を寄せていきます。
その名は、遠くヨーロッパまで轟いていました。
室町時代末期、畿内と呼ばれた京の都周辺では応仁の乱の余波ともいえる争いが続いていました。
足利将軍家、さらには将軍家の補佐役の管領の細川家、畠山家が家督継承をめぐって分裂。
三好家は、細川家の家臣としてこの骨肉の争いに巻き込まれていきます。
1522年、三好長慶は阿波国で生まれます。
ところが、長慶11歳の時に、父・元長が主君・細川晴元に謀反の疑いをかけられ、自害に追い込まれてしまいます。
若くして家督を継ぐことになった長慶には、父の仇である晴元に従い続ける以外には道がありませんでした。
転機が訪れたのは、18歳の時・・・
長慶は、現在の兵庫県西宮市にあった越水城の主となります。
この地で長慶は、三好家の立て直しと父の敵討ちのために改革に乗り出します。
父の死の際に、三好家は多くの家臣を失っていました。
そこで長慶は、大胆な人材登用をします。
身分や家柄にとらわれず、幅広い階層から積極的に優秀な人材を取り立てて行きました。
この時に召し抱えられた者たちは、長慶の家臣団の中核をなしていきます。
その中には、土豪身分の出身とされる松永久秀もいました。
長慶は、統治者としての才能を開花していきます。
兵庫県尼崎市にある法華宗大本山本興寺・・・長慶と寺が交わした禁制と呼ばれる取り決めを記した文書が残っています。
禁制には、
・軍勢が乱入し狼藉を働かない
・本興寺の断りなしに、家を建てないこと
などが記されています。
三好が本興寺にある程度の自治を認めているということのひとつです。
本興寺の自治を認め、積極的に保護した長慶。
そこには、彼ならではの狙いがありました。
本興寺には、影響下にある末寺と呼ばれる寺が多く、そのネットワークは堺を起点に畿内や瀬戸内海沿岸、さらには種子島にまで及んでいました。
法華宗の信者たちには商人が多く、彼らはこのネットワークを活用して東アジアを結ぶ貿易ルートを築いていました。
法華宗日隆門流の日本の首都・京都と、琉球や民国に開かれた種子島を結ぶ交易ネットワーク・・・これを保護することによって、東アジア世界に自分の経済基盤を作っていきたいと考えていました。
長慶が手に入れた交易品のひとつとされるもの・・・
それこそが、最新鋭の武器・鉄砲でした。
当時、三好勢と戦をした相手方の記録には、城の壁を二重にし、間に石を詰めて鉄砲の備えとしたとあり、既に長慶が大量の鉄砲を実践投入していたことが伺えます。
実力本位の人材登用、南蛮貿易へとつながる経済活動によって着々と力を備える長慶・・・
父の仇・細川晴元打倒に向けて、機は熟していきました。
1549年、長慶は、主君である細川晴元に決戦を挑みます。
細川勢の重要拠点とされた淀川とその支流に囲まれた江口に攻め込みます。
長慶の軍勢は川を封鎖、細川勢の逃げ道をふさぎ、800人余りを討ち取る大勝利を収めました。
劣勢となった晴元は京都を脱出、ところがこの時思わぬ事態が起こります。
晴元が、14歳の将軍・足利義輝を連れて逃亡!!
当時、将軍家は細川晴元と連携関係にあり、晴元が都を離れれば義輝もついていかざるを得なかったのです。
長慶は、思わぬ形で将軍・義輝にも刃を向けることとなってしまいました。
父の無念を晴らすために戦っていた長慶・・・
しかし、この戦いが、将軍との長い対立の発端となってしまいました。
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室町幕府13代将軍・足利義輝・・・
三好長慶に都を追われた当時、まだ14歳でした。
母は公家社会の頂点に立つ近衛家の出身です。
それまでの足利将軍の中で、最も高貴な血を引き、幕府再建に向けて周囲の期待も大きかったのです。
しかし、都を追われた翌年・・・1550年、父・足利義晴死去。
都に帰れない失意の中で、自害したともいわれています。
葬儀の際、義輝は三好への徹底抗戦を誓う言葉を残しています。
「たとえわが命を父祖のために亡くし、屍を三好の軍門に晒すことになろうとも、一歩たりとも引くことはせん””」by義輝
義輝は、自分にかけられた期待を強く理解していて、自分が将来将軍として執政をするときには幕府を再興しなければいけない意識を強く持っていました。
陪臣である三好に攻められて、京都を追われて、父まで失うという状況の中で、三好に対する憎悪、憎しみはかなり強く持っていました。
しかし、三好軍に対抗できる軍勢を持たない義輝は、なりふり構わない手段に出ます。
長慶暗殺を幾度も企てます。
一度目は、長慶の滞在する屋敷に火を放とうとするものの事前に発覚し失敗。
二度目は、宴会中の長慶を刺客に襲わせました。
しかし、手傷を負わせただけで失敗。
義輝は、長慶の周囲にも刺客を放っていました。
そして、長慶の義理の父の暗殺に成功します。
血なまぐさい緊張状態に陥っていく義輝と長慶。
すると、この状況を憂いた幕府の六角氏が和睦を仲介に動き出します。
これを受けて長慶は、将軍・義輝との和睦を決断します。
長慶としては、将軍を追放するとか、室町幕府を滅ぼして管領家もなくなってしまえばいいとか・・・
そういうことではなくて、問題であった家の分裂を一本にまとめ上げることで、畿内に平和を取り戻す・・・これが当初考えていたことでした。
和睦に際に、長慶は条件を出します。
将軍義輝の帰京は認めるが、細川晴元を幕政から排除してほしい・・・
混乱の火種だった細川家の分裂争いを解消する狙いがありました。
さらに長慶は、将軍の直臣となることを要求します。
義輝の政務を直接補佐し、幕府の再建を目指そうとしました。
長慶との和睦が成立し、京都に戻った義輝・・・
ここで義輝も行動に出ます。
長尾景虎・尼子晴久・朝倉義景など地方で頭角を現した大名達へ幕府の役職などの栄典授与しました。
従来のように家格や身分を重視するのではなく、実力で評価し、新興大名を取り込もうとしたのです。
しかし、彼らは下剋上によって主家に代わって台頭した武将たち・・・
これは、将軍自ら下剋上にお墨付きを与える行動にも見えました。
幕府再建に向けて歩み出した三好長慶と将軍・義輝・・・
しかし、両者の平穏は一時的なものにすぎませんでした。
将軍直臣となった長慶・・・徐々に幕府内での影響力を強めていきます。
しかし、成り上がり者の長慶をよく思わない反三好派が将軍・義輝に接近していきました。
その一人が、細川晴元でした。
義輝の周辺では、三好協調派と反三好協調派に分裂していました。
反三好派とよばれる人たちが、三好と手を切って、細川晴元と手を結ぼうと義輝に口にしていきます。そんな中、義輝も、幕府を支えてきた細川晴元と再び連携をして以降と考えるようになります。
そして事件は起こりました。
1553年3月、足利義輝挙兵。
長慶との和睦を一方的に破棄、細川晴元とともに挙兵し、京の霊山城に立てこもりました。
さらに義輝は、長慶を将軍に刃を向ける賊軍・御敵であるとし、各勢力に長慶攻撃を呼びかけました。
2人の協調関係は、1年余りで破綻・・・!!
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1553年8月、三好長慶挙兵。
2万5000の大軍で、義輝の籠城する霊山城を包囲しました。
この時、義輝の期待に反し、畿内諸国や義輝が栄典を授与した地方の大名が援軍を送ることはありませんでした。
さらに、義輝にとってまさかの事態が起こります。
長慶側の大軍に動揺した細川晴元が、一戦も交えずに逃亡!!
一気に孤立無援の状況に陥った義輝・・・
再び近江へと落ち延びざるを得ませんでした。
こうして、京の都はまたしても将軍不在となりました。
新たな将軍を擁立する??それとも自ら政権を握る??
将軍を都から追いやった三好長慶の選択は・・・自ら政権を握るというものでした。
将軍やその後ろ盾すら持たない、後に三好政権と呼ばれる長慶の政権が誕生しました。
三好政権とはどのようなものだったのでしょうか?
大阪府高槻市には、本拠地とした芥川城があります。
長慶の政治の特徴は・・・??
水争いでは、長慶が実際に検使など派遣して実況見分をして裁判の結果を出しています。
当時の戦国武将の中でも、画期的なことだと評価されています。
当時、このような水争いで集落同氏が対立すると、大きな衝突に発展することが度々ありました。
長慶は、公平な調停者として争いを無くそうと努めたのです。
寺や神社の争いにも、長慶は公平な裁決を下しました。
時には、義輝や幕府が過去に下した採決を無効にしてしまうことすらありました。
三好政権での長慶の活躍は、外交にも及びます。
1556年、中国の明の使節が倭寇の取り締まり強化を求めて来日した時のこと・・・
本来、こうした外国使節への応対は、将軍の専権事項とされてきました。
しかし、この時、武家の代表として長慶が、後奈良天皇らと共に明の使節と対面しています。
長慶は、明の使節からも高く評価され、中国の歴史上の偉人になぞらえて記録されるほどでした。
優れた統治者として畿内を治める長慶は、将軍に代わる天下人とも呼べる存在となっていました。
一方、長慶によって都を追放された将軍・足利義輝・・・
滋賀県高島市・・・かつては朽木谷と呼ばれたこの山間の地に身を寄せていました。
父・義晴のために京の銀閣の庭園を模して造られた庭を眺めながら、都への返り咲きを虎視眈々と狙っていました。
この頃、義輝が積極的に行ったのが、全国各地の大名間の和睦調停です。
将軍の名で和睦を仲立ちすることで、地方勢力と関係を築こうとしていました。
やがて、それが実を結び、巨大宗教勢力・本願寺を味方につけ、長慶に対抗できる体制が整っていきます。
こうした中、起きたのが改元問題です。
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1558年2月・・・弘治4年に永禄元年・・・新たに即位した正親町天皇が、「永禄」へ改元します。
本来、武家の代表である将軍が儀式の費用を負担しつつ、天皇と改元を行うのが通例でした。
しかし、正親町天皇が、改元に当たって選んだのは、義輝ではなく長慶でした。
現職の室町将軍である自分を蔑ろにした改元・・・義輝には、到底受け入れることができませんでした。
義輝は、前の元号・弘治の使用を続け、長慶への抵抗を表明します。
この改元問題を機に、両者の緊張関係が高まっていきます。
そして義輝は、京の都を奪い返すべく挙兵。
三好勢との戦闘を開始しました。
この動きに対して、毛利は改元後も弘治を使い続け、義輝支持を打ち出しました。
さらに全国でも、毛利家同様に義輝を支持する反三好勢力の存在が浮き彫りになっていきます。
図らずも改元によって三好政権の基盤の弱さを見せつけられた長慶は、苦渋の決断をします。
1558年11月、義輝と二度目の和睦をし、再び都に迎え入れました。
すると、越後の長尾景虎、美濃の斎藤高政、そして、尾張の織田信長らが次々と上洛。
義輝の帰京を祝しました。
長尾景虎は、将軍・義輝に謁見すると、「越後の国を捨てても御前をお守りする覚悟」とまで発言しました。
こうして三好政権は、およそ5年でその幕を閉じました。
将軍なくしては、全国の大名を従えることはできないと、長慶は思い知らされたのです。
義輝との2度目の和睦の後に、長慶が移った山城・・・飯盛城。
標高300mの山の上に築かれています。
東西およそ400m、南北およそ650mの規模を誇る近畿地方最大級の山城です。
発掘調査で、城の50カ所以上で石垣が発見されました。
長慶が、織田信長に先駆けて本格的な石垣づくりの城を作っていたと注目されています。
かつては城の全域に石垣があった可能性が高いと思われます。
まさに、難攻不落の要塞です。
石造りの城を見せることで、長慶の権威を見せつけようとしていたのかもしれません。
さらに、発掘調査からは、一風変わった宗教施設を作っていたようです。
記録によれば、長慶は、源氏の氏神を勧請しようとしていました。
城の北側の曲輪にある御体塚の付近がその場所ではないかと言われています。
源氏の氏神を祀ることで、三好一族は足利家にも対抗しうる正当な家柄であるとする気持ちがありました。
三好家は、正当な家筋の人たちではないので、我々は源氏の血を引いているということを主張したかったのです。
ここからも、まだまだ支配者たらんとする長慶の姿が見えてきます。
そして長慶は、この飯盛城を拠点に、急速に領土拡大戦争を始めました。
若狭や丹後にまで進出、その支配領域は13カ国にも及びました。
ところが・・・ここから次々と悲劇が長慶を襲います。
三好家を支えていていた2人の弟が相次いで死去。
さらに、1563年には嫡男・三好義興急死。
立て直しを図る間もなく、長慶自身までもが病に倒れ、あえなくこの世を去ります。
享年43歳。
一方、長慶の死の翌年、将軍義輝の身にも悲劇が・・・!!
1565年、三好家の軍勢が、義輝を襲撃!!
なんと、義輝は、その場で討ち取られてしまいました。
享年30歳。
16年に及んだ三好長慶と将軍・義輝の対立は、2人の死で幕を閉じることとなります。
そして、義輝殺害から3年・・・最後の将軍となる足利義昭と共に上洛してきたのは、あの織田信長でした。
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