日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:松永久秀

1573年7月、織田信長が将軍・足利義昭を追放・・・
室町幕府を事実上の滅亡に追い込みました。
しかし、信長よりも20年も前に、時の将軍を都から追い出した戦国武将がいました。
その男の名は、三好長慶。

令和・長慶公記 最初の戦国天下人 三好長慶伝 生誕500年記念誌

新品価格
¥1,500から
(2022/11/29 15:41時点)



長慶は、畿内を実効支配、足利将軍に変わって自ら政権を握ろうとしました。
治安維持から中国との外交まで、将軍が行っていた政務を滞りなく行う長慶に、天応や朝廷が信任を寄せていきます。
その名は、遠くヨーロッパまで轟いていました。

室町時代末期、畿内と呼ばれた京の都周辺では応仁の乱の余波ともいえる争いが続いていました。
足利将軍家、さらには将軍家の補佐役の管領の細川家、畠山家が家督継承をめぐって分裂。
三好家は、細川家の家臣としてこの骨肉の争いに巻き込まれていきます。

1522年、三好長慶は阿波国で生まれます。
ところが、長慶11歳の時に、父・元長が主君・細川晴元に謀反の疑いをかけられ、自害に追い込まれてしまいます。
若くして家督を継ぐことになった長慶には、父の仇である晴元に従い続ける以外には道がありませんでした。
転機が訪れたのは、18歳の時・・・
長慶は、現在の兵庫県西宮市にあった越水城の主となります。
この地で長慶は、三好家の立て直しと父の敵討ちのために改革に乗り出します。

父の死の際に、三好家は多くの家臣を失っていました。
そこで長慶は、大胆な人材登用をします。
身分や家柄にとらわれず、幅広い階層から積極的に優秀な人材を取り立てて行きました。
この時に召し抱えられた者たちは、長慶の家臣団の中核をなしていきます。
その中には、土豪身分の出身とされる松永久秀もいました。
長慶は、統治者としての才能を開花していきます。
兵庫県尼崎市にある法華宗大本山本興寺・・・長慶と寺が交わした禁制と呼ばれる取り決めを記した文書が残っています。
禁制には、
・軍勢が乱入し狼藉を働かない
・本興寺の断りなしに、家を建てないこと
などが記されています。
三好が本興寺にある程度の自治を認めているということのひとつです。

本興寺の自治を認め、積極的に保護した長慶。
そこには、彼ならではの狙いがありました。
本興寺には、影響下にある末寺と呼ばれる寺が多く、そのネットワークは堺を起点に畿内や瀬戸内海沿岸、さらには種子島にまで及んでいました。
法華宗の信者たちには商人が多く、彼らはこのネットワークを活用して東アジアを結ぶ貿易ルートを築いていました。
法華宗日隆門流の日本の首都・京都と、琉球や民国に開かれた種子島を結ぶ交易ネットワーク・・・これを保護することによって、東アジア世界に自分の経済基盤を作っていきたいと考えていました。

長慶が手に入れた交易品のひとつとされるもの・・・
それこそが、最新鋭の武器・鉄砲でした。
当時、三好勢と戦をした相手方の記録には、城の壁を二重にし、間に石を詰めて鉄砲の備えとしたとあり、既に長慶が大量の鉄砲を実践投入していたことが伺えます。
実力本位の人材登用、南蛮貿易へとつながる経済活動によって着々と力を備える長慶・・・
父の仇・細川晴元打倒に向けて、機は熟していきました。

1549年、長慶は、主君である細川晴元に決戦を挑みます。
細川勢の重要拠点とされた淀川とその支流に囲まれた江口に攻め込みます。
長慶の軍勢は川を封鎖、細川勢の逃げ道をふさぎ、800人余りを討ち取る大勝利を収めました。
劣勢となった晴元は京都を脱出、ところがこの時思わぬ事態が起こります。
晴元が、14歳の将軍・足利義輝を連れて逃亡!!
当時、将軍家は細川晴元と連携関係にあり、晴元が都を離れれば義輝もついていかざるを得なかったのです。
長慶は、思わぬ形で将軍・義輝にも刃を向けることとなってしまいました。
父の無念を晴らすために戦っていた長慶・・・
しかし、この戦いが、将軍との長い対立の発端となってしまいました。

三好長慶 (光文社文庫)

新品価格
¥770から
(2022/11/29 15:41時点)



室町幕府13代将軍・足利義輝・・・
三好長慶に都を追われた当時、まだ14歳でした。
母は公家社会の頂点に立つ近衛家の出身です。
それまでの足利将軍の中で、最も高貴な血を引き、幕府再建に向けて周囲の期待も大きかったのです。
しかし、都を追われた翌年・・・1550年、父・足利義晴死去。
都に帰れない失意の中で、自害したともいわれています。
葬儀の際、義輝は三好への徹底抗戦を誓う言葉を残しています。

「たとえわが命を父祖のために亡くし、屍を三好の軍門に晒すことになろうとも、一歩たりとも引くことはせん””」by義輝

義輝は、自分にかけられた期待を強く理解していて、自分が将来将軍として執政をするときには幕府を再興しなければいけない意識を強く持っていました。
陪臣である三好に攻められて、京都を追われて、父まで失うという状況の中で、三好に対する憎悪、憎しみはかなり強く持っていました。
しかし、三好軍に対抗できる軍勢を持たない義輝は、なりふり構わない手段に出ます。

長慶暗殺を幾度も企てます。
一度目は、長慶の滞在する屋敷に火を放とうとするものの事前に発覚し失敗。
二度目は、宴会中の長慶を刺客に襲わせました。
しかし、手傷を負わせただけで失敗。
義輝は、長慶の周囲にも刺客を放っていました。
そして、長慶の義理の父の暗殺に成功します。
血なまぐさい緊張状態に陥っていく義輝と長慶。
すると、この状況を憂いた幕府の六角氏が和睦を仲介に動き出します。
これを受けて長慶は、将軍・義輝との和睦を決断します。
長慶としては、将軍を追放するとか、室町幕府を滅ぼして管領家もなくなってしまえばいいとか・・・
そういうことではなくて、問題であった家の分裂を一本にまとめ上げることで、畿内に平和を取り戻す・・・これが当初考えていたことでした。

和睦に際に、長慶は条件を出します。
将軍義輝の帰京は認めるが、細川晴元を幕政から排除してほしい・・・
混乱の火種だった細川家の分裂争いを解消する狙いがありました。
さらに長慶は、将軍の直臣となることを要求します。
義輝の政務を直接補佐し、幕府の再建を目指そうとしました。
長慶との和睦が成立し、京都に戻った義輝・・・
ここで義輝も行動に出ます。
長尾景虎・尼子晴久・朝倉義景など地方で頭角を現した大名達へ幕府の役職などの栄典授与しました。

従来のように家格や身分を重視するのではなく、実力で評価し、新興大名を取り込もうとしたのです。
しかし、彼らは下剋上によって主家に代わって台頭した武将たち・・・
これは、将軍自ら下剋上にお墨付きを与える行動にも見えました。
幕府再建に向けて歩み出した三好長慶と将軍・義輝・・・
しかし、両者の平穏は一時的なものにすぎませんでした。

将軍直臣となった長慶・・・徐々に幕府内での影響力を強めていきます。
しかし、成り上がり者の長慶をよく思わない反三好派が将軍・義輝に接近していきました。
その一人が、細川晴元でした。
義輝の周辺では、三好協調派と反三好協調派に分裂していました。
反三好派とよばれる人たちが、三好と手を切って、細川晴元と手を結ぼうと義輝に口にしていきます。そんな中、義輝も、幕府を支えてきた細川晴元と再び連携をして以降と考えるようになります。

そして事件は起こりました。
1553年3月、足利義輝挙兵。
長慶との和睦を一方的に破棄、細川晴元とともに挙兵し、京の霊山城に立てこもりました。
さらに義輝は、長慶を将軍に刃を向ける賊軍・御敵であるとし、各勢力に長慶攻撃を呼びかけました。
2人の協調関係は、1年余りで破綻・・・!!

飯盛山城と三好長慶

新品価格
¥2,640から
(2022/11/29 15:41時点)



1553年8月、三好長慶挙兵。
2万5000の大軍で、義輝の籠城する霊山城を包囲しました。
この時、義輝の期待に反し、畿内諸国や義輝が栄典を授与した地方の大名が援軍を送ることはありませんでした。
さらに、義輝にとってまさかの事態が起こります。
長慶側の大軍に動揺した細川晴元が、一戦も交えずに逃亡!!
一気に孤立無援の状況に陥った義輝・・・
再び近江へと落ち延びざるを得ませんでした。
こうして、京の都はまたしても将軍不在となりました。

新たな将軍を擁立する??それとも自ら政権を握る??

将軍を都から追いやった三好長慶の選択は・・・自ら政権を握るというものでした。
将軍やその後ろ盾すら持たない、後に三好政権と呼ばれる長慶の政権が誕生しました。
三好政権とはどのようなものだったのでしょうか?

大阪府高槻市には、本拠地とした芥川城があります。
長慶の政治の特徴は・・・??
水争いでは、長慶が実際に検使など派遣して実況見分をして裁判の結果を出しています。
当時の戦国武将の中でも、画期的なことだと評価されています。
当時、このような水争いで集落同氏が対立すると、大きな衝突に発展することが度々ありました。
長慶は、公平な調停者として争いを無くそうと努めたのです。
寺や神社の争いにも、長慶は公平な裁決を下しました。
時には、義輝や幕府が過去に下した採決を無効にしてしまうことすらありました。

三好政権での長慶の活躍は、外交にも及びます。
1556年、中国の明の使節が倭寇の取り締まり強化を求めて来日した時のこと・・・
本来、こうした外国使節への応対は、将軍の専権事項とされてきました。
しかし、この時、武家の代表として長慶が、後奈良天皇らと共に明の使節と対面しています。
長慶は、明の使節からも高く評価され、中国の歴史上の偉人になぞらえて記録されるほどでした。
優れた統治者として畿内を治める長慶は、将軍に代わる天下人とも呼べる存在となっていました。

一方、長慶によって都を追放された将軍・足利義輝・・・
滋賀県高島市・・・かつては朽木谷と呼ばれたこの山間の地に身を寄せていました。
父・義晴のために京の銀閣の庭園を模して造られた庭を眺めながら、都への返り咲きを虎視眈々と狙っていました。
この頃、義輝が積極的に行ったのが、全国各地の大名間の和睦調停です。
将軍の名で和睦を仲立ちすることで、地方勢力と関係を築こうとしていました。
やがて、それが実を結び、巨大宗教勢力・本願寺を味方につけ、長慶に対抗できる体制が整っていきます。
こうした中、起きたのが改元問題です。

新三好長慶伝 龍は天道をゆく

新品価格
¥2,200から
(2022/11/29 15:42時点)



1558年2月・・・弘治4年に永禄元年・・・新たに即位した正親町天皇が、「永禄」へ改元します。
本来、武家の代表である将軍が儀式の費用を負担しつつ、天皇と改元を行うのが通例でした。
しかし、正親町天皇が、改元に当たって選んだのは、義輝ではなく長慶でした。
現職の室町将軍である自分を蔑ろにした改元・・・義輝には、到底受け入れることができませんでした。
義輝は、前の元号・弘治の使用を続け、長慶への抵抗を表明します。
この改元問題を機に、両者の緊張関係が高まっていきます。
そして義輝は、京の都を奪い返すべく挙兵。
三好勢との戦闘を開始しました。
この動きに対して、毛利は改元後も弘治を使い続け、義輝支持を打ち出しました。
さらに全国でも、毛利家同様に義輝を支持する反三好勢力の存在が浮き彫りになっていきます。
図らずも改元によって三好政権の基盤の弱さを見せつけられた長慶は、苦渋の決断をします。
1558年11月、義輝と二度目の和睦をし、再び都に迎え入れました。
すると、越後の長尾景虎、美濃の斎藤高政、そして、尾張の織田信長らが次々と上洛。
義輝の帰京を祝しました。
長尾景虎は、将軍・義輝に謁見すると、「越後の国を捨てても御前をお守りする覚悟」とまで発言しました。
こうして三好政権は、およそ5年でその幕を閉じました。
将軍なくしては、全国の大名を従えることはできないと、長慶は思い知らされたのです。

義輝との2度目の和睦の後に、長慶が移った山城・・・飯盛城。
標高300mの山の上に築かれています。
東西およそ400m、南北およそ650mの規模を誇る近畿地方最大級の山城です。
発掘調査で、城の50カ所以上で石垣が発見されました。
長慶が、織田信長に先駆けて本格的な石垣づくりの城を作っていたと注目されています。
かつては城の全域に石垣があった可能性が高いと思われます。
まさに、難攻不落の要塞です。
石造りの城を見せることで、長慶の権威を見せつけようとしていたのかもしれません。
さらに、発掘調査からは、一風変わった宗教施設を作っていたようです。
記録によれば、長慶は、源氏の氏神を勧請しようとしていました。
城の北側の曲輪にある御体塚の付近がその場所ではないかと言われています。
源氏の氏神を祀ることで、三好一族は足利家にも対抗しうる正当な家柄であるとする気持ちがありました。
三好家は、正当な家筋の人たちではないので、我々は源氏の血を引いているということを主張したかったのです。
ここからも、まだまだ支配者たらんとする長慶の姿が見えてきます。

そして長慶は、この飯盛城を拠点に、急速に領土拡大戦争を始めました。
若狭や丹後にまで進出、その支配領域は13カ国にも及びました。
ところが・・・ここから次々と悲劇が長慶を襲います。
三好家を支えていていた2人の弟が相次いで死去。
さらに、1563年には嫡男・三好義興急死。
立て直しを図る間もなく、長慶自身までもが病に倒れ、あえなくこの世を去ります。
享年43歳。
一方、長慶の死の翌年、将軍義輝の身にも悲劇が・・・!!
1565年、三好家の軍勢が、義輝を襲撃!!
なんと、義輝は、その場で討ち取られてしまいました。
享年30歳。

16年に及んだ三好長慶と将軍・義輝の対立は、2人の死で幕を閉じることとなります。
そして、義輝殺害から3年・・・最後の将軍となる足利義昭と共に上洛してきたのは、あの織田信長でした。

↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

下剋上 (講談社現代新書)

新品価格
¥968から
(2022/11/29 15:42時点)



愛知県半田市にある浄顕寺・・・ここに、戦国時代に描かれた珍しい仏画が残っています。
”血判阿弥陀如来絵像”です。
仏画の裏に記された名前と、生々しい血判・・・その数342人。
農民や武士、僧侶など、さまざまな階層の人々は、当時一向宗と呼ばれた門徒たちでした。
人々の血判は、ある人物に対して徹底的に戦う決意でした。
彼等が激しい怒りを向けたのは・・・戦国の覇者・織田信長です。
そして、この一向宗の門徒を率いたのは、大坂に本拠を構えた本願寺第11代門主・顕如です。
信長生涯最大の敵ともいわれています。
一向宗との戦いは、信長が制圧するまで11年もかかりました。
どうしてこれほどまでに苦戦を強いられたのでしょうか?

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

顕如 信長も恐れた「本願寺」宗主の実像 [ 金竜静 ]
価格:3850円(税込、送料無料) (2022/2/10時点)



戦国の覇者・織田信長・・・
その名を天下に広く知らしめたのは、1568年、足利義昭を奉じて上洛したことに始まります。
信長は、征夷大将軍となった義昭や、朝廷の権威を背景に、次々と近隣の武将たちを攻略。
1570年、姉川の戦いでは越前の朝倉と、北近江の浅井を破り、その武威をとどろかせました。

そんな信長が次に狙いを定めたのは、大坂の地でした。
「信長公記」にこうあります。

”大坂は日本一の境地なり”

境地とは、交通、経済、防御に秀でた優れた土地のことを刺します。
信長は、大坂こそが、日本一だと称賛したのです。
周囲を多くの河川で囲まれた大坂は、水陸交通の要衝でした。
都がおかれた京や奈良、貿易が盛んな堺を結ぶ拠点であり、さらに、西に面した瀬戸内海を通じて、朝鮮、中国、南蛮などの異国とも通じる富貴の湊でした。

信長の野望に危機感を抱いた大坂本願寺・・・。
後に名付けられた石山という地名から、石山本願寺とも呼ばれています。
当時、一向宗と呼ばれた仏教宗派の一大拠点だった本願寺は、大坂を中心に越前、伊勢、近江、紀伊など、日本各地で勢力を拡大。
西方極楽浄土の仏・・・阿弥陀如来を信仰する門徒たちは、一向・・・ひたすら念仏を唱え、来世に救いを求めました。
こうした門徒は、全国数十万に及んだといいます。
孤の一大宗教勢力を率いたのは、本願寺第11代門主・顕如。
勇ましい武者姿の肖像画も残されています。
顕如率いる一向宗は、巨大な宗教勢力というだけではなく、本願寺は当時最新の鉄砲に習熟した紀州・和歌山の雑賀衆を傭兵として雇用するなど、戦国大名に匹敵するほどの武装集団でした。

1570年、顕如は、大坂に狙いを定めた信長から、最後通告とも思われる要求を突き付けられました。
顕如が門徒にあてた書状によると・・・

”信長が、上洛を果たして以来、様々な難題を持ち掛けられた
 これまで信長の要求に応じてきたにもかかわらず、今度は本願寺を破却するとの意向を告げてきた”

信長は、顕如に対し、大坂からの退去を求めたのです。
9月、ついに本願寺は、反信長の兵を揚げました。
足掛け11年に及ぶ長きにわたる戦いの始まりでした。
挙兵した本願寺勢は、大坂周辺の織田軍を一気に攻勢、精強誇る織田軍を、わずか1日で退けることに成功しました。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

信長協奏曲 Blu-ray BOX 【Blu-ray】 [ 小栗旬 ]
価格:25064円(税込、送料無料) (2022/2/10時点)



本願寺の強さの秘密とは??
後の天下人・豊臣秀吉によって築城された大坂城・・・それまでは、本願寺の本拠地でした。
織田軍を寄せ付けなかった本願寺の強さ・・・その立地とは??
堀や土居、あるいは土塁、防御のための土の土手・・・それぞれの町の周辺にめぐらせて、自主的な防御が出来ています。
河川を天然の要害となし、海抜30mに及ぶ上町台地の戦端に築かれた本願寺。
堅固な防御施設に囲まれた戦国大名の城下町を彷彿とさせます。

上町台地の自然にも秘密がありました。
比高差、落差があり、天然の城壁となります。
例え法下としても、織田軍は崖の下から包囲することになります。
どう攻めるのか??
それは、天然の要害でした。

さらに本願寺を難攻不落の要塞にしたのは、台地上でも豊富に得られた湧き水でした。
台地・山の上というのは弱点もあります。
なかなか水を得にくいということでした。
水かなければ、長期の籠城を戦うことはできません。

強敵・本願寺と戦端を開いた信長・・・
まもなく、思いもよらない勢力に囲まれることになります。
当時、最強と謳われた武田信玄が、反信長を掲げて参戦。
翌年、信長が擁立した将軍・足利義昭も本願寺に与し、反旗を翻しました。
敵の包囲網・・・信長は、その中心となった本願寺を攻略するため、各個撃破で挑みます。
敵勢力が分散しているうちに、それぞれ個別に打ち破るというものです。
1573年7月、将軍足利義昭を降伏させたことを皮切りに、宿敵・朝倉、浅井を一気に滅亡にまで追い込みます。
これによって、畿内周辺の敵は、本願寺を残すのみとなりました。

大坂本願寺の挙兵以降、各地で織田軍に抵抗をつづけた一向宗の門徒たち・・・
この一向一揆に対し、信長は強硬な作戦に打って出ます。
1574年9月、長嶋一向一揆・・・せん滅
この時、男女2万人を焼き殺したと言われています。
さらに1575年8月、総勢4万人を超える大軍勢で、越前一向一揆・・・せん滅
いっきに参加した人々を皆殺しにしました。
各地の一向一揆を容赦なく弾圧し、本願寺の孤立を図った信長・・・


1576年5月、ついに本願寺の攻略に取り掛かります。
織田軍は、大軍勢で本願寺を囲みます。
ところが・・・本願寺は、数百丁もの鉄砲を駆使し、攻め寄せる織田軍をことごとく蹴散らしました。
さらに、前線に向かった信長は、足を撃たれ負傷・・・
信長が戦場で負傷したという記録は、本能寺の変を除いてこの時だけです。
戦線は膠着しました。
信長は、力攻めを諦め、敵の武器や兵糧の輸送を断つ持久戦に転じます。
本願寺の南に堅固な天王寺砦を築き、西は荒木村重、東は明智光秀と、織田軍精鋭の武将に本願寺を包囲させました。
しかし、本願寺を完全に包囲するためには、海に面した木津川口を封鎖しなければなりません。
信長は、急遽水軍を編制・・・木津川口の封鎖を試みました。
この織田軍の包囲作戦に対し、本願寺が救援を求めたのは信長と敵対し始めていた毛利輝元でした。
本願寺は毛利と同盟を結び、兵糧の輸送を依頼します。
当時、瀬戸内海を制していた毛利水軍の中核を担っていたのは村上海賊でした。
本願寺への兵糧輸送を阻止すべく、木津川口を封鎖しようつする織田軍・・・
対する毛利水軍は、淡路島に終結後対岸に移動、鉄砲に熟達した雑賀衆と合流・・・その数800艘にのぼりました。
7月13日、毛利水軍は300艘からなる織田水軍の防衛線を突破すべく、攻撃を開始します。
この時、勝敗を決したのが村上水軍のほうろく火矢です。
球体の鉄や鉛などの内部に、黒色火薬を詰めた新兵器です。
信長公記はこう伝えています。

”海上ほうろく火矢などというものを作り、味方の船を取り囲み、繰返し投げ入れて織田方の船を焼き崩した”

木津川口の戦いに呼応して籠城していた本願寺勢も陸上で包囲する織田軍を責攻めてました。
本願寺勢の勝鬨は、大坂に響き渡りました。
信長は、本願寺勢の猛攻を前に、またも大敗を喫したのです。

信長の窮地は、木津川口の戦い敗北の後も続きました。
追い打ちをかけたのが、松永久秀叛逆!!
久秀は、本願寺包囲戦の要となる天王寺砦を守っていました。
ところが、それを放棄し、軍を撤退・・・本願寺と内通した裏切りでした。
さらに、荒木村重謀反!!
村重もまた本願寺と通じていました。
信長の痛手は大きかった・・・!!
荒木村重は、信長軍の中では摂津担当でした。
本願寺の北側エリアを中心的に任されていました。
本願寺方に渡ると、西日本から本願寺へ向かう船、様々な物資が容易く入って来れるのです。
これは、信長が摂津を掌握していたことを考えると、形勢逆転となるのです。

この機を逃さず、毛利水軍を動き始めていました。
本願寺に兵糧を輸送するため、織田水軍の倍以上に当たる600艘もの軍勢が、淡路島に集結していました。
度重なる家臣の叛逆、迫りくる敵の大船団・・・!!

本願寺と和議を結ぶ??それとも本願寺との戦いを継続する??

これまで信長は、鉄甲船を準備したと言われてきました。
ところが、他の資料には、その記述がありません。
しかも、信長の船を実際に見学した宣教師はこう記しています。

”その船は、日本国中最も大きく、また華麗なるものにして、ポルトガルの船に似たり
 船には、大砲三門を載せ、無数の大なる長銃を備えたり”

こうしたことから、信長が新たに建造したのは船体を鉄で覆った鉄甲船ではなく、大砲と長銃を備えた南蛮船のような大船だと、近年では考えられています。
この大砲があれば、さすがの敵も、木津川口に近づくことさえできまい!!

毛利水軍との戦いを避けて、本願寺と和議を結ぶべきか??
海戦に挑み本願寺との戦いを継続すべきか??

信長は、本願寺と和議を結ぶと見せつつ、新たに建造した大船を木津川口に配置。
和戦両様を見せていました。
そんな信長に対し、優位に進めていた本願寺が和議を結ぶいわれはありませんでした。
その2日後、大坂湾で戦端が行われました。

11月6日、第2次木津川口の戦い!!
戦いはどのように展開したのでしょうか?
11月6日、淡路島に拠点を置いた毛利水軍600艘が、大坂湾を進み、木津川口に船を進めます。
織田水軍は、巨大軍船を軸に、船を並べ、それを待ち受けました。
両軍の船が近づいたとき・・・織田の巨大軍船の大砲が火を噴きました。
この攻撃で、毛利水軍の大将が乗った大船を大破させました。
織田水軍は、大砲などの重火器による集中砲火で敵に大打撃を与えて行きました。
しかし、織田方の一方的な勝利というわけではありませんでした。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

[新品]信長のシェフ (1-30巻 最新刊) 全巻セット
価格:19701円(税込、送料無料) (2022/2/10時点)



開戦の後も、本願寺に兵糧を運び入れていた毛利軍・・・
第2次木津川口の戦いに勝利したとはいえ、海の搬入路の完全封鎖は不可能でした。
そこで信長は外交策に出ます。
まず、荒木村重配下の武将たちを次々に調略。
村重を孤立させることに力を注ぎます。
本願寺への兵糧輸送を阻止するべく、豊後の大友、肥前の宇喜多と同盟を結び、東西から毛利本国に圧力をかけて行きました。
これによって、毛利は自衛の戦いを余儀なくされ、本願寺の兵糧輸送にまで手が回らなくなってしまいます。

1569年、荒木村重の居城・有岡城陥落。
信長は、大坂湾周辺の制海権を取り戻すことに成功します。
そして・・・1580年4月、深刻な兵糧不足に陥った本願寺は、朝廷を介し信長に和議を申し入れます。
信長もこれを受け入れ、最終的な和睦が成立しました。
その結果、顕如は大坂を知り沖、紀州に逃れます。
門徒たちも、無事に大坂を退去。
当時の信長にとって、大坂の地を手に入れることこそ、最も重要な目的だったのです。

こうして信長は、足掛け11年に及んだ本願寺との戦いに幕を閉じ、ようやく畿内統一を果たしました。
ところが・・・そのわずか2年後、本能寺で明智光秀に打たれることとなります。
信長が、日本一の境地とたたえた大坂は、後継者の秀吉に受けつがれます。
秀吉は、ここに当時日本最大の大坂城を築城し、天下統一を成し遂げたのです。

にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村
[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

信長のシェフ Blu-ray BOX【Blu-ray】 [ 玉森裕太 ]
価格:23265円(税込、送料無料) (2022/2/10時点)




大阪府大東市と四条畷市にまたがる飯盛山・・・
2019年6月、この地で今までの戦国史を覆す大発見がありました。
大東市と四条畷市の3年に及ぶ調査の結果、50カ所で石垣が発見されたのです。
それは、戦国時代その山に築かれた飯盛城の石垣でした。
城全体に石垣を施した初期の城として織田信長の小牧山城が知られていますが、その信長より前に、城に巨大な石垣を作り上げていた戦国武将のいることがわかりました。
三好長慶です。

最近、長慶はこう呼ばれています。
「戦国初の天下人 戦国の革命児」・・・それは織田信長のことでは・・・??
しかし、三好長慶のことです。

江戸時代に歴史家・頼山陽が書いた「日本外史」には・・・
織田信長のことを”世に優れた才能である”と、高く評価している一方、
長慶は”まだ若いのに病の老人のように政を家臣の松永久秀に任せきり”と全く評価していません。
長慶は、信長の影に隠れて忘れ去られてしまったのかもしれません。

そんな三好長慶とは・・・??
1522年、武士たちが覇権を争う真っただ中、三好長慶は阿波国の武将・三善元長の嫡男として生まれました。
長慶の父・元長は、阿波国守護・細川晴元の重臣でした。
当時、細川氏は、細川晴元と細川本家室町幕府No,2の管領・細川高国が勢力争いをしていました。
その内紛で功績を挙げたのが、長慶の父・元長でした。
管領の高国を討ち、主君・晴元に細川家の実権を握らせたのです。

これで三好家も安泰・・・と思っていた1532年、元長に悲劇が起こります。
元長の力を警戒した晴元が、排除すべく大坂の本願寺と手を組んで、一向一揆を起こさせたのです。
それによって、10万の一揆勢が、堺にいた元長を襲います。
追いつめられた元長は、顕本寺で自害・・・。
一説に、元長は腹を掻っ捌き、内臓を引き出し、天井に投げ出したといいます。
壮絶な最期、無念の死でした。
この時、父と共にいた長慶は、辛くも逃がされ、阿波国に帰ったことで命を救われます。
わずか11歳で家督を継ぐことに・・・しかし、一揆勢の為に多くの重臣を失い、三好家は危機的状況にありました。

「三好の家を守るには、どうすれば・・・?」

考えた末に、長慶の決断は・・・??
1533年、再び機内にわたると、父の仇である細川晴元に服従を示しました。
弱体化した三好家を滅亡させないためには、晴元に従うしかなかったのです。

細川で実験を握った晴元は、1537年12代将軍足利義晴の時に管領に就任。
幕政を取り仕切るほどの力を持つようになります。
長慶は、そんな晴元の家臣として戦歴を重ねます。
18歳の時、力が認められ・・・1539年摂津国の越水城主となり、守護の代わりに守護代に任命されます。

「いつの日か、父の仇を・・・!!」

耐え忍ぶこと、晴元に仕えること15年・・・1548年、仇を討つ好機が・・・!!
摂津国の池田城主・池田信正は、ある戦で晴元を裏切ったと疑われ自害します。
すると、晴元の側近・三善政長が、池田家の財産や領地を没収しようとしました。
子の横暴な振る舞いに、四国の武士たちは、強い不信の念を抱くことになります。
長慶は、これを好機ととらえました。
兵を挙げ、各地の武士に訴えます。

「我こそが、武士の利益を守るものである」

すると、晴元に不満を持つ武士たちが、長慶のもとへ・・・!!
1549年1月、長慶は晴元側の軍勢と激突!!
そして6月24日、大坂・江口で800人の軍勢を破り、見事勝利するのです。
これを知った晴元は、すぐさま京都に退散・・・
さらに、家慶の追撃を恐れ、12代将軍だった義晴、13代将軍になった義輝親子を連れて、近江に逃げるのです。 
主君と袂を分かった長慶は、細川氏内で晴元と対立していた細川氏綱(高国の養子)に付きます。
そして新たに主君となった氏綱と京都に入ると、本拠地・阿波を始め、淡路、讃岐摂津を支配下に・・・!!

フランスの地理学者シャトランの描いた「歴史地図帳」、日本の統治者の変遷の図に・・・
そこには、天皇の内裏、将軍の公方と一緒に、三好殿とあります。
天下をとった三好家は、日本の統治者であったと海の向こうまで知れ渡っていたのです。

1550年、京都から逃げていた12代将軍足利義晴が病で死去・・・
これによってまだ15歳の13代将軍足利義輝が、名実ともに将軍家の指揮を執るようになります。
すると義輝は、京都奪還を目指して兵を挙げ、幾度となく三好家と激突します。

1551年3月7日・・・
長慶が京都の寺で酒宴に興じていると、そこへ忍び込んだ子供が寺に火をつけようとしました。
その7日後には、酒宴に乱入してきた男が、長慶に刀で斬りかかる事件が発生しました。
この2度にわたる暗殺未遂事件で、長慶は一時京都をでます。
全ては、将軍義輝の差し金・・・

すると翌年、将軍義輝と和睦します。
京都に迎え入れたのです。
長慶の残した言葉の中に「理世安民」という言葉があります。
長慶は、道理の通った民が安心して過ごせるような平和な世の中にしたいと考えていたのです。
そもそも、16世紀初めの戦いの原因は・・・
応仁の乱以降、足利家が分裂し、それが一番の原因だったのです。
長慶は、個人的な恨みは捨て、世の中の平和を生み出そうとしました。
長慶は、義輝が都に不在であることも内紛の原因だと思っていました。
義輝を京都に戻し、将軍の権威を復活させることで、争いを無くそうとしたのです。
長慶はその約束の際、自身を将軍の直臣にすることを条件としました。
そのため、和睦後は細川氏を離れ、将軍の臣下となったのです。
ところが・・・和睦した将軍義輝が、再び長慶にかかってきました。
さすがの長慶にも、もう、和睦の選択はありませんでした。

1553年、長慶は2万5000の兵を率いて上洛し、将軍義輝の軍勢が守る霊山城を襲い、圧勝します。霊山城の戦い
義輝は、長慶と一戦も交えることなく敗走!!
再び近江へと逃げていきました。
長慶は、この時も義輝を追いませんでしたが、義輝に付き従っていた者たちに言い放ちます。

「将軍に従う者の領地をすべて没収する」

すると、多くのものが京都に戻り、義輝のもとに残ったのはわずか40人ほどでした。
そして長慶は決意を固めます。

「これからは、この三好長慶が都の泰平を守る」

長慶は、義輝に代わる新たな足利将軍を擁立せずに京都を支配します。
戦国時代、京都から将軍を追放したものは長慶以外にもいました。
しかし、足利家から他の将軍を擁立するのが当時の常識でしたが・・・長慶は、足利将軍を擁立せずに、京都を支配したのです。
これは戦国乱世の中でも初めてのことでした。
足利将軍家の代わりに京都を支配した長慶は、その後次々と畿内五か国を手に入れていきます。
戦国初の天下人の誕生でした。
天下とは、鎌倉時代は首都・京都を指していました。
そして、戦国時代は、天下は京都の周辺五か国(山城・大和・摂津・河内・和泉)を指していました。
長慶は確かに天下人でした。
公家や農民も、実力のある三好長慶の政治を求めるようになってきていました。
長慶は、結果的に天下人となったのです。

江戸時代初期の戦国武将の逸話集「武辺咄聞書」によると・・・
「信長は長慶の家臣になって働きたかった」とあります。
戦国の覇者となって世の中を次々と変えていった革命児である織田信長。。。
三好長慶の家臣になりたがっていたといわれるのは、信長が長慶に畏敬の念を抱いていたからかもしれません。
なぜなら、長慶は信長に先んじて常識破りの政策を行っていたからです。
信長が、足軽だった秀吉を重用しましたが・・・
戦国時代、このような画期的な人材登用は長慶の方が先でした。
武家では、代々仕える家臣を大事にするのが常でしたが、長慶はその常識を破り、身分や家格に関係なく、才能や実力を評価しました。

①人材を登用
その一人が摂津国の土豪出身とされる松永久秀です。
久秀は、長慶の右筆に抜擢されると、持ち前の知恵で、将軍や大名との交渉に力を発揮、三好家の重臣となります。
京都郊外の西九条の荘園の代官だった石成友通は、長慶の元で奉行で頭角を現し、三好家の中核となります。
長慶は自らの弟たちも上手に差配・・・
次男・実休、三男・冬康、四男・一存を敵に備えて重要な場所に置きます。
越水城主となった際、次男・実休を本拠地・阿波に、三男・冬康を淡路(安宅家の養子)に、四男・讃岐(十河家の養子)に出しました。
こうして長慶は、自身が治める畿内の周辺を兄弟で固めることで三好家を守ったのです。

②鉄砲の導入
長慶は、堺、尼崎、兵庫津など京都の物流拠点の大阪湾の主要港を支配することが重要だと考えていました。
そこで、港を拠点に活動していた法華宗の寺院や、その信者である有力な商人たちを保護、これによって流通ネットワークを掌握します。
日本国内のみならず、東アジアの貿易に関与します。
長慶の元には、明などから貴重な品が届くようになります。
その一つが、当時の最新鋭の武器・・・鉄砲です。
1550年、足利義晴方の記録に残っています。
三好長慶は、大量の鉄砲を持っていたことになり、これは信長の長篠の戦いの25年前になります。

③キリスト教の保護
1564年長慶は、領内でのキリスト教の布教を許可し、保護します。
南蛮貿易がもたらす経済効果を早くから熟知していたようで、宣教師からの最新の情報や、西欧の新しい技術を取り入れることが目的だったと考えられています。

④居城の移転
長慶は天下人となった際に、越水城から同じ摂津国でも京都に誓い芥川山城に居城を移します。
これにより、芥川山城は、幕府に代わり政治の中心となるのですが、1560年に嫡男・義興に譲ります。
自らは河内国の飯盛城に移るのです。
越水城は阪神間を、芥川山城は京を、飯盛城は河内、大和、伊勢、紀伊に拡大していく・・・
長慶は、政策課題に応じて、臨機応変に居城を移していくのが特徴で、他の戦国大名には見られません。
これは、織田信長につながっていく政策なのです。
織田信長も、那古野城→清洲城→小牧山城→岐阜城→安土城と、京都に近づいて行きながら戦国の覇者となっていきます。

⑤城の造り
大阪府大東市と四条畷市にまたがる飯盛山・・・
ここに、長慶最期の居城・飯盛城がありました。
長慶は、ここを新たな居城と定めると、大規模な工事を行い、南北700m、東西400mの山城を築きます。
山城は、山を削って、掘って盛り固めることで、堀や土塁なⅮ歩の防御システムを築き、それを囲った曲輪でつくられた構造となっています。
そんな当時は。。。石垣が施されるのは、土台が弱い一部のみ、補強でした。
石垣に適した花崗岩がなかなか手に入らなかったからです。
そのため、山城である飯盛城も石垣は一部だと考えられてきました。
大東市と四条畷市が3年間かけて発掘調査をしたところ、驚くべき事実がわかったのです。
千畳敷曲輪で・・・飯盛城の中でも最大級の石垣が発見されました。
その大きさは、長さ30m、高さ4mと推定され、石も大きなものが使われていて、一番大きなものは1.6mの花こう岩が使われていることがわかりました。
さらに、千畳敷曲輪を含めた50カ所で石垣が発見されました。
石垣が見つかったことで、飯盛城の全域に石垣が取り入れられていた可能性が高まったのです。
代全体に石垣を使った武将として有名なのが織田信長です。
1563年に築城した小牧山城をはじめ、岐阜城、安土城と総石垣にしています。
城を強固にするためだけでなく、貴重な花崗岩をふんだんに使うことで、その経済力を見せつけ、他を圧倒するためだったといわれています。
しかし、長慶の方が早く総石垣の城を作っていたという可能性が高まったのです。

大阪府堺市にある南宗寺・・・
ここは三好長慶が、非業の死を遂げた父・元長の菩提を弔うために、建てたといわれています。
その境内には天下人となった長慶の銅像があります。
そこには桐紋が・・・1561年、将軍足利義輝から、桐紋の使用を許可されていました。
名門の出ではない長慶が、桐紋を許されるのは、極めて異例なことでした。
この家紋のしようが許されたということは、三好家の家格が足利一門並みに上昇したことを意味しています。
長慶は、天皇からも大きな信頼を寄せられていました。
1558年、正親町天皇践祚(三種の神器を先帝から受け継ぐこと)のため、永禄の改元が行われたとき・・・
当時改元は、朝廷を代表する天皇から幕府を代表する将軍に相談や連絡があり、双方の合意により行われるのが通例でした。
しかし、正親町天皇は、将軍義輝を無視し、三好長慶に相談・連絡をしてきたのです。
これは、長慶が武家の代表者だと、天皇から認められたということでした。
名実ともに天下人となった三好長慶・・・
しかし、これから次々と悲劇に見舞われます。

1561年、和泉国を任せていた弟・・・四男の十河一存が病死、その翌年の1562年には次男の実休が戦死、そしてその翌年の1563年には長慶の嫡男・義興が22歳の若さでこの世を去ります。

「このままでは三好の家が・・・!!」

身を奮い立たせ、後継者選びに奮闘します。
候補となったのは、弟の中でまだ存命だった安宅冬康、亡き弟・実休の嫡男・長治、一存の嫡男・義継でした。
血縁の序列で言えば、弟・冬康ですが、長慶が選んだのは序列で一番下の義継でした。
長慶は、先の関白・九条植通の養女を母とする義継を選んだのです。
家格も天下人に相応しいようにと選んだのです。

「これで三好の家も安泰じゃ・・・」

しかし、1546年5月9日、弟・安宅冬康を飯盛城に呼び寄せると・・・殺してしまいました。
どうして・・・??
軍記物語などでは、長慶の家臣・松永久秀が三好家を乗っ取るために冬康を陥れるために画策・・・
「冬康殿が上様に謀反を起こそうとしております」
と、長慶にウソを吹き込んで殺害させたと書かれていますが・・・
松永久秀の讒言はなく・・・まだ幼少の三好義継が長慶の後継者となった事で、家臣団が義継と冬康に分かれてしまった事を恐れていました。
三好家の内紛で、世の中が乱れないように、内紛の火種になる弟・安宅冬康を殺害したのです。
内紛によって、衰退の一途をたどっていった足利将軍家や細川氏を目の当たりにしてきた長慶・・・三好家が同じ道を歩まないように、弟・冬康を殺害するという苦渋の結さんをしたのです。
実の弟を殺める・・・長慶は、病に伏してしまいます。
わずか2か月後・・・1564年7月4日、三好長慶、43歳で死去・・・。
この時、新たに当主となった義継はまだ15歳にも満たなかったため、混乱を避けるために長慶の死はふせられました。

家督を継いだ義継は、翌年の1565年、三好を陥れようとしたとして、将軍足利義輝を討ち取ります。
長慶の晩年より、将軍家との関係が急速に悪化していました。
そこを継いだ義継は、将軍義輝を討つことで、三好家を率いていくという姿勢を示したかったのです。
しかし、その後、長慶が憂いでいたことが起きます。

重臣・松永久秀と、三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、石成友通)が対立!!
義継は、家臣たちをまとめきれずに、結局三好家は分裂・・・。
そんな中、1573年、天下布武を掲げて躍進していた織田信長の軍勢に攻められ、義継が自刃・・・
三好家の天下はここに潰えたのです。
長慶が亡くなってから、わずか9年後のことでした。

織田信長より先んじていた戦国の革命児・三好長慶・・・
戦乱の世を終わらせ、平和を築くことを願い、天下を掌握した男でした。
しかし、その天下は、皮肉にも、あとを追ってきた戦国の風雲児・織田信長によって奪われてしまうのです。
まさに乱世の因縁・・・長慶の死から4年後・・・
1568年、京都を目指して進軍していた信長は、芥川山城を攻め、10日余り滞在しています。
芥川山城は、長慶の本拠地、京都に代わる政治の中心地でした。
そこを攻め落とすことで、三好家の時代は終わったのだと、世間にアピールする狙いがあったのだとされています。
信長にそうまでさせる三好長慶は、大きな存在だったのです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

飯盛山城と三好長慶 [ 仁木宏 ]

価格:2,640円
(2019/10/5 23:41時点)
感想(0件)

三好長慶 室町幕府に代わる中央政権を目指した織田信長の先駆者 三好長慶四百五十年遠忌記念論文集

価格:3,850円
(2019/10/5 23:42時点)
感想(0件)

歴史REAL織田信長 一族と家臣から迫る信長軍団の全貌 (洋泉社MOOK)

価格:1,296円
(2018/5/7 05:21時点)
感想(1件)



戦国の世、天下を手中にすべく、尾張の国から突き進んだ織田信長。
非道ともいわれる行為を尽くし、自らを魔王と名乗った男が恐れた武将がいました。
越後の龍・・・上杉謙信です。
そんな二人が同盟を結びますが、最初にして最後の戦いを迎えることとなります。
そんな二人の関係とは・・・??

織田信長と上杉謙信・・・対照的な武将です。
自らを魔王と名乗り、天下を取るためなら比叡山焼き討ちなど、手段を選ばなかった織田信長。
片や、毘沙門天の化身と名乗り、関東管領として義の戦いを繰り広げた上杉謙信・・・。
二人が激突するのが1577年手取川の戦いです。
信長軍と謙信軍の最初で最後の戦いとなりました。

1534年尾張の国で生まれた織田信長・・・
1560年桶狭間の戦いで海道一の弓取りと言われた今川義元を討ち取ります。
隣国美濃への侵攻を進め、戦国時代の主役に躍り出ようとしていました。
上杉謙信は、信長よりも4歳年上・・・
1530年越後の守護代の家に生まれた謙信は、下剋上で守護の座を勝ち取り、1560年には大軍を率いて関東に侵攻。
翌年には、小田原城を包囲し、関東管領に任じられます。
1561年の第四次川中島の戦いでは、北に領地拡大を目指す武田信玄の軍に強烈な打撃を与えました。
天下統一・・・その偉業に最も近いものが上杉謙信でもありました。

謙信と信長の交流が生まれたのは、1560年のこと。
信長の方から接近しました。
信長は、息子を養子に差し出し申し出をしています。
それを受け入れてくれた謙信に対して・・・
「大変ありがたい事です。
 これからも御指南をいただきたく、ご相談させてください。」と徹頭徹尾へりくだっています。
どうしてへりくだる必要があったのでしょうか?

信長の狙いは、謙信の強さを恐れていました。
当時、関東管領の謙信と良好な関係を築くことは、武田の甲斐・信濃をけん制するという意味でもありました。
信長は、謙信にへりくだりながら、謙信の宿敵・武田信玄にも度々書状を送り高価な贈り物を届けていました。

一体誰がこの戦国の世に終止符を打ち、天下を治めるのか??
武将たちがしのぎを削る中・・・三好家家臣・松永久秀らが、室町幕府第13代将軍足利義輝を殺害しました。
間一髪で脱出した弟・義昭は、各地を転々とし、将軍の座に就こうと上洛を画策します。
この時義昭が頼ったのが、上杉謙信でした。
義昭は、上洛する為に、力を貸すように求めます。
しかし、当時の謙信は、武田、北条と戦いが続いていて、西に兵力を割くことができません。
義昭の要望に応えることができませんでした。
そんな謙信に代わって、義昭を上洛させたのは、誰あろう織田信長でした。

1568年、信長は義昭と共に上洛を成し遂げようと動きます。
この時、信長は謙信に書状を送り、義昭を奉じての上洛を説明しています。

「公方様御入洛の供奉の儀うけかい申す」

自分は義昭の上洛を請け負っただけとし、天下のために謙信殿も奔走されることを希う・・・と、謙信への配慮をしました。
自分の抜け駆けではなく、謙信に代わって室町幕府のために成したと弁明しています。
しかし、謙信が領地争いに忙殺されている間に、自分が一気に京都を抑えてしまおう・・・
謙信は、心の底では、悔しがっていたのではないか??

信長は、足利義昭を15歳将軍に就任させ、天下取りに向けて謙信に一歩先んじることとなります。
しかし、謙信を警戒・・・そこには理由がありました。
生涯の戦歴を比べると・・・
信長・・・214戦154勝48敗12分・・・負けない確率78%
謙信・・・108戦64勝7敗37分・・・・・負けない確率94%
この驚異的な数字は、信長が謙信を恐れた理由でした。
当時、周囲が敵だらけの信長にとって、謙信は絶対的にしてはならない相手だったのです。

どうして謙信は強かったのでしょうか?
負けない戦をする・・・軍略は自身が最前線で戦い統率力があったこと、兵士がお金で雇われたものではなく越後のために同意を得た民兵であったこと・・・が挙げられます。
信長は、戦に強いイメージがありますが、苦戦、敗戦が多く、信長は戦の人ではなく外交の人でした。
そして、戦う目的が違いました。
信長は自分の領土拡大のために戦いましたが、謙信は助力を乞われて・・・”義”のための戦いだったのです。
そんな欲のない戦いをする謙信に恐れを抱いていたのかもしれません。

足利義昭を奉じて上洛した織田信長・・・強引な手法がアダとなったのか、様々な困難に直面します。
その一つが、将軍・足利義昭との亀裂でした。
京を実質的に支配した信長は、義昭の実権を奪う五か条の要求をします。
その内容は・・・

天下の儀は信長に委任されたし
信長の添え状なしに、諸侯に書状を出してはいけない
今までの義昭殿の命令はすべて無効

などといったもので、義昭を名ばかりの将軍にしようとしたのです。
義昭は・・・将軍としての権力を保とうとして反発し、二人は対立することに・・・
義昭は、信長に対抗する為に、各地の大名に檄を飛ばします。
本願寺・筒井・浅井・朝倉で、信長包囲網を作り上げます。
そこには手ごわい敵も・・・大名以上に力を持っていると言われていた比叡山延暦寺も・・・
比叡山は、浅井・朝倉と連携し、苦戦を強いられた信長は、講和を申し入れますが聞き入れられなかったため、最終的には焼き討ちに・・・僧兵だけでなく、信者たちまで殺戮します。

信長は延暦寺に続いて、一向宗・・・石山本願寺との戦いに挑みます。
ところが本願寺との戦いに大苦戦!!
信長は、全国の一向宗門徒を敵に回すことに・・・。
遂に、友好関係にあったはずの武田信玄が将軍義昭の檄によって、二部長包囲網に参加。

1572年、西に向けて進軍開始!!遠江に侵攻・・・ここは徳川家康の領地・・・家康が負ければ、次は信長の領地です。
この瞬間、信玄は川中島で戦っていた謙信だけではなく、信長の敵となりました。
そこで、11月、遂に信長と謙信は、信玄に対抗すべく同盟を結ぶことに・・・!!
しかし、それでもなお信玄は西に進軍を止めようとはしません。
迎え撃った信長・家康連合軍は、三方ヶ原の戦いで大惨敗!!

信長は絶体絶命の窮地に・・・!!
ところが武田軍は、進軍を中止し甲斐に・・・
信玄が戦いのさ中、死去したのです。
天運によって危機を脱した信長・・・しかし、新しい畏れが・・・謙信の上洛です。

信長は謙信の上洛を恐れていました。
それは、自ら実権を握るというのではなく、室町幕府の復権を望んでいたからです。
武田信玄の宿敵の為、上洛できなかった謙信・・・
しかし、信玄の死によって、上洛のチャンスが・・・!!

もし、謙信が上洛するとなれば、信長との戦いは避けられない・・・。
信長包囲網も勢いづいてしまう・・・。

そこで信長は、謙信へ贈り物・・・「上杉本 洛中洛外図屏風」です。

応仁の乱で荒れ果てていた街並みが復興した京の町を一望する視点で描かれています。
京の夏を彩る祇園祭の山鉾・・・朝廷の貴族・・・武士・・・子供達・・・
描いたのは、当時随一の絵師・狩野永徳。
将軍家の御用絵師だった永徳は、足利義輝の死後、信長が新しい後ろ盾となっていました。
絵を送られた謙信は、喜んだといいます。

洛中洛外図は信長が描かせたものではなく、足利義輝が謙信に贈るために書かせたものだと言われています。
将軍が贈ってくれるはずだったものを、代わりに贈ってくれたことが、嬉しかったのです。

謙信は信長包囲網に加わることなく、越後を動くこともありませんでした。
そして・・・この屏風には、謙信の心を打つメッセージが・・・

義輝は、どうして永徳に絵を描かせたのでしょうか?
室町幕府足利将軍邸に年始の挨拶にやってきた行列・・・
輿に乗って将軍に挨拶にやってきているのは、謙信だといわれています。
江が完成した1656年、謙信は、この時すでに2回目の上洛を果たしていました。
将軍義輝に際し、全面支援を約束していました。
そんな謙信に対して・・・もう一度京の都に来てほしい・・・そして、将軍を中心とした秩序を取り戻そうではないか・・・
義輝から謙信へのメッセージが隠されていました。
この屏風に深い思い入れを感じたことでしょう。

しかし、二人の同盟は長くは続きませんでした。
織田信長は天下統一を目指して、しかけます。
信長包囲網の首謀者である足利義昭を京都から追放!!
越前・朝倉、北近江・浅井を攻め、一気に滅亡へと追い込み領地を拡大!!
越前の上杉謙信の近く・・・加賀まで侵攻して来ようとしていました。
そんな時、同盟を結んでいた謙信が思いもよらない行動にでます。
信長との同盟を破棄!!
この時、二人の緩衝地帯は能登・加賀・越中でした。
どうして謙信は同盟を破棄して信長と戦う決断を・・・??

信長と戦ってきた石山本願寺が、謙信に和解を持ちかけてきたのが大きなきっかけでした。
謙信が越後を離れられない大きな要因に、一向一揆がありました。
越後の隣、越中と加賀に立ちはだかっていたのです。
しかし、対立していた石山本願寺と和解したことで、一向宗が謙信の味方となり安全なルートが確保されました。
謙信にとって、朝倉家を滅ぼして、越前までやってきた信長は、脅威となっていたのです。

1577年閏7月、謙信は畠山家の本拠地である能登・七尾城に進軍!!
この時、畠山家は城主の春日丸が幼かったので、実権を握っていたのは重臣の長綱連と遊佐続光でした。
謙信の侵攻に直面した二人の意見は対立!!
信長に援軍を求めるのか?謙信に下るべきか??
意見がまとまらない中、長綱連は安土城の信長に援軍を求めます。

信長は、今こそ能登を手中に治め、謙信をたたく好機として北陸軍の派遣を・・・柴田勝家を総大将に任命します。
1577年8月、5万の大軍が北庄を出陣します。
信長も後を追う準備を・・・!!
絶対に負けられない・・・総大将・柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、羽柴秀吉!!
しかし、信長はまだ安心できなかったのか、出羽・伊達輝宗に使者を送り、越後の反謙信勢力である本庄繁長と連携!!
背後を脅かすよう申し入れます。
万全の体制!!信長軍の負ける要素なし!!

しかし・・・思わぬ事態が・・・
最強の信長軍団が・・・
秀吉が勝家の指揮に異論を唱え・・・無断で陣を解いて引き上げてしまいました。
秀吉と勝家の間に何が・・・??
この時の二人はライバルで・・・勝家が、秀吉軍が活躍できないように後軍に回しました。
秀吉としても、活躍しても、それは勝家の活躍となってしまう可能性があったので・・・。

悪いことは二人の亀裂だけではなく、進軍が困難を極めます。
その頃、七尾城内では異変が起こっていました。
信長派の長一族が謙信派の遊佐一族に皆殺しにされたのです。
9月15日、七尾城開城。
謙信に開けわたされました。
この事実を知る由もない勝家・・・。
手取川を越えて、松任城まで兵を進めたものの、七尾城との連絡は途絶えたまま・・・。
謙信はさらに能登南端の末森城を攻め落とし、加賀を南下。
七尾城を目指して進軍する織田軍の動きを察知した謙信は動じることなく命じます。

「一騎一卒も活て返す事 有べからず」

そして高らかに次の春には、自らが上洛すると宣言するのでした。

織田軍と上杉軍との戦いで戦局のカギを握っていたのは七尾城・・・
しかし、上杉軍に取り囲まれ、謙信の手に落ちていました。
そうとは知らない織田軍の総大将・柴田勝家は、陣を構えた松任城で、大きな決断を迫られていました。
このままやみくもに進んで勝ち目はあるのか??
百戦錬磨の勝家は、撤退をすることに・・・!!
漆黒の闇の中、5万の織田軍が南へと撤退を始めました。

9月23日夜・・・加賀国・手取川・・・退却する織田軍に突然大軍が襲い掛かります!!
謙信率いる上杉軍でした。
上杉軍が奇襲をかけると追い立てられた織田軍は手取川へ・・・!!
川を渡って逃げようとするも・・・川は連日の雨のために増水し、荒れ狂っていました。
万事休す!!
この機を逃してなるものか・・・!!
猛追する謙信!!
討ち取られた織田軍は1000人余り!!
数えきれないほどの兵が激流に流されて溺死してしまいました。
しかし、これは偶然ではなく、謙信が手取川に来るまで待って増水した川を利用した・・・謙信の作戦勝ちでした。

さらに織田軍の敗退にはもう一つ理由がありました。
上杉軍は一向一揆を味方につけていたので、織田軍の動向が手に取るように解っていたのです。
謙信を手助けしたのが、加賀・一向一揆の門徒たちでした。
上杉軍の動きを悟られないように、織田軍に情報封鎖を行い、織田軍の動きを逐次上杉軍に伝えていたのです。

上杉に 逢ふて織田も 名取川(手取川)
       はねる謙信  逃るとぶ長(信長)

上杉軍とぶつかった信長が、まるで飛ぶように逃げ去ってしまった・・・と。

実際には、信長は手取川にはおらず、到着する前に負けてしまったと考えられています。
しかし、上杉軍はそれ以上織田軍を追うことはなく・・・
春日山城に帰っていきました。
季節はまもなく冬・・・本拠地である越後は雪なので、謙信は、地元に帰って春を待たなければならなかったのです。
もしかしたら・・・これが、謙信最大のミス・・・??雪国の宿命だったのかもしれません。
あまりにあっけない勝利に、謙信はこう書き残しています。

「案外に手弱の様体 この分に候わば
 向後天下までの仕合わせ 心やすく候」

織田軍の弱さを皮肉ったうえで、上洛は難しいものではないと豪語したのです。
謙信の上洛が実現することはありませんでした。
手取川の戦いの半年後・・・1578年3月9日、謙信は、居城春日山城で突然病で倒れ、4日後に49歳という生涯を閉じることとなったのです。

もし、二人が直接対決していたら・・・??

外交戦略では信長の方が上、戦いそのものは謙信の方が上、武将としての力量は、謙信の方が上??

信長軍を破った越後の龍・謙信の突然の死・・・
天は信長を見放してはいませんでした。
実の子がいなかった謙信の死によって、上杉家は後継者争いを招き、能登をわずか3年で信長に明け渡すことに・・・
謙信という最大のライバルがいなくなった信長は、勢力を伸ばし、天下取り目前まで突き進んでいきます。
しかし・・・手取川の戦いから5年後・・・1582年、本能寺の変で明智光秀によって無念の死を遂げ、その夢を絶たれたのです。
その時信長49歳・・・奇しくも謙信の亡くなった年齢と同じでした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

三好一族と織田信長 「天下」をめぐる覇権戦争 (中世武士選書) [ 天野忠幸 ]

価格:2,700円
(2018/5/7 05:21時点)
感想(0件)

上杉謙信の夢と野望 (ワニ文庫) [ 乃至政彦 ]

価格:779円
(2018/5/7 05:23時点)
感想(0件)

TVアニメ 信長の忍び Blu-ray BOX<第1期>【Blu-ray】 [ 水瀬いのり ]

価格:8,377円
(2018/4/2 08:11時点)
感想(0件)


「私、信長様の忍びになります!!」本格戦国ギャグアニメ!はじまりはじまり~
原作は、重野なおきさんによる4コマ漫画です。

sinobi












ということで、先日から夜中にやっていたアニメです。
どんなものか全くわからず、それでも面白ければ・・・と思ってみました。
久し振りの私にとっての初めて見るアニメ作品です。
さて・・・どんなのでしょう?

1555年──世はまさに戦国の時代!!ひとりの青年がでっかい夢を抱いていた。
うつけと呼ばれる彼こそ後の…、そう、織田信長である。
そんな青年を慕う少女がひとり・・・名は千鳥。
信長の夢に魅せられた彼女は笑顔で言った。
 「私、信長様の忍びになります!!」目指すはひとつ、天下布武のみ!! 
ど天然帰蝶、パシリ秀吉、ツンデレねね、ツッコミ光秀、死にかけ半兵衛、脇を彩る豪華キャラと共に、本格戦国ギャグアニメ、はじまりはじまり~!!

sinobi2













ということで、このお茶目で可愛い忍び・千鳥が主人公です。
で・・・殿がこちら。

sinobi3












もちろん信長様です。

sinobi4













他のキャラクターはこんな感じで、簡単なキャラに見えますが、一度見ると納得の「そんな顔かもなあ・・・」と思えるキャラクターデザインになっています。

本格戦国ギャグアニメと銘打っているのも納得です。
キャラクターの顔が私たちの思う顔と結構リンクしているし、その性格もきっとこんな風だろうなあ・・・って思える性格になっています。
いい声優さんも沢山出ていますしね。

で・・・この作品を見て思ったのですが・・・
5分のギャグアニメ・・・それでも、その世界観は戦国だし、そのキャラクターの思想はかっこよく書かれています。
そうであってほしいと見る側が思うように書かれています。
そう・・・5分のアニメであっても・・・。
次のシリーズが4月10日からBSフジでやってくれるそうです。
とっても楽しみ!!

だからこそ、大河ドラマには見る側の夢を壊してほしくないんだよ~~~!!って思ってしまいました
ああ・・・西郷どん・・・どうにかしてくれ~~~

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

信長の忍び外伝 尾張統一記 3 (ヤングアニマルコミックス) [ 重野なおき ]

価格:616円
(2018/4/2 08:11時点)
感想(1件)

信長の忍び(1) (ヤングアニマルコミックス) [ 重野なおき ]

価格:616円
(2018/4/2 08:12時点)
感想(7件)

このページのトップヘ