日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:水戸斉昭

江戸幕府15歳将軍・徳川慶喜・・・在任期間はわずか1年足らずで、歴代で最も短かったものの260年に及んだ江戸時代最後の将軍です。

1837年9月29日・・・
江戸・水戸藩上屋敷でひとりの男の子が生まれました。
後の慶喜です。
父親は、水戸徳川家九代当主斉昭、母親は有栖川宮家の吉子でした。
父・斉昭の教育方針により、慶喜は生後7か月で水戸にうつされ、これ以後、天皇を尊ぶ尊王学など英才教育を受けて育ちます。
そんな慶喜に、斉昭は大きな期待を寄せ、こう語ったといいます。

「天晴な名将となるか さもなくば 手に余るようになる」

1847年、慶喜が10歳の時、大きな転機が訪れます。
一橋家から養子の申し出が来たのです。
東寺の一橋家は、11代将軍家斉、12代将軍家慶を輩出した最も将軍職に近い家柄で、慶喜は将軍後見職などの幕府要職を歴任することになり、26歳の時朝廷の対応に当たるため京都に赴き、幕府の代表として幕末混乱期の政局に手腕を発揮しました。

14代将軍・家茂が亡くなると・・・
1866年12月5日、京都にいた慶喜がそのまま15代将軍となります。
就任当時の幕府は、度重なる政策の失敗で、指導力を失い、存続の危機に瀕していました。
弱体化した幕府を強化するため、慶喜がまず行ったのが、軍事改革です。
特に海軍力に力を入れ、国内最大級となる開陽丸など、海外から軍艦を購入し配備しました。
さらに、暗礁に乗り上げていた外交問題にも着手します。
兵庫の開港を求める欧米列強に対し、朝廷は京都に近いという理由から強く反対し続けていましたが・・・慶喜は朝廷を説得して将軍就任わずか半年で開港の勅許を得ます。
各国の大使はそんな慶喜の手腕を高く評価しました。

就任から次々と成果を上げていく慶喜でしたが、この後、わずか半年ほどの間に3度の大きな決断を迫られることになります。
最初の決断は、将軍就任からおよど10か月後の1867年10月14日、大政奉還です。
当時、国内には、幕府政治に疑問を抱き、武力で討幕を目指す(武力討幕)者がいました。
最も積極的だったのが、薩摩藩です。
下級武士名から、反の実権を握っていた大久保利通や西郷隆盛は同じ討幕派の長州藩と手を結び、イギリスから武器を購入するなどして倒幕に向けての準備を着々と進めていました。
一方、同じ討幕でも平和的に政権を移そうと考えていたのが山内容堂率いる土佐藩です。
彼等が掲げたのが、大政奉還論でした。
①幕府は政権を朝廷に返上
②議会を設置
  徳川慶喜も諸侯の一員として参画
といった武力に頼らない討幕を目指したのです。
そんな中、1867年6月22日、京都で土佐の後藤象二郎・坂本龍馬と、薩摩の大久保・西郷らとの間で話し合いがもたれます。
強硬姿勢を崩さない薩摩に対し、挙兵を思いとどまらせようとする土佐・・・
話し合いは、平行線のまま終わるかに見えました。
しかし、一転、大政奉還で合意に至ったのです。
薩摩藩は、どうして態度を変えたのでしょうか?

10月3日、慶喜に土佐藩から大政奉還の建白書が出されます。
しかし、その裏で、薩摩の大久保らも動いていました。
あくまでも武力討伐にこだわる彼等は、公家の岩倉具視と組み、朝廷から慶喜討伐の密書を出してもらう用画策。
すると、10月14日、朝廷は、薩長の藩主に慶喜の討伐を命ずるという「討幕の密勅」を出したのです。
日本を滅ぼしかねない賊臣・慶喜を討て!!
待ちに待ったこの日に、薩摩藩の指揮は一気に上がりました。
しかし、同じ日・・・慶喜は、周囲の予想を裏切り、自らあっさりと大政奉還をしてしまうのです。

「このままに持ち堪えんとすれば無理ばかり多くなり、罪責はますます増加
 遂には奪わるるにも至るべきは必然と見切り申候」

慶喜の中では、幕藩体制の維持は不可能と考えていました。
内乱や外国の介入を阻止するために、大政奉還が一番いい方法だと考えたのです。
朝廷はずっと政治を担っていなかったので、慶喜に頼ざらるをを得ないとも考えていました。

大政奉還からわずか2か月後の12月9日・・・慶喜は、再び大きな決断に迫られます。
武力討伐の中止を余儀なくされた大久保らは、新しい体制となってもなお慶喜が主導権を握るのではと脅威を感じていました。
そこで、古い政治体制をすべて打ち壊すしかないとして・・・
12月9日明け方・・・西郷の指揮のもと、薩摩藩を中心とする兵が、御所の門を完全封鎖し、明治天皇が臨席する中で討幕派主導のクーデターが起きます。
世にいう王政復古のクーデターです。
徳川幕府の廃絶と、新政府の樹立が宣言され、政権運営は新たに創設された三職(総裁・参与・議定)によって行われることが決定しました。
総裁は、今の総理大臣に当たり、議会を統括する役職で、有栖川宮熾仁親王が就任。
議定は上院議員で、皇族や公家、藩主から。
参与は下院議員で、下級の公家や藩士から選ばれました。
しかし、この新政府メンバーに、慶喜の名はありませんでした。

王政復古のクーデターが決行されたその日の夕方、京都御所で新政府による初めての会議が行われました。
議題は、慶喜の処遇です。
この時、新政府内は、旧幕府の徹底排除を求める討幕派と、旧幕府との融合を主張する公議政体派に分裂し、会議は紛糾します。
慶喜に対して最も厳しい条件を突き付けたのは、討幕派の大久保らでした。

「慶喜公からは、内大臣の官位を剥奪し、徳川家の領地800万石を没収し、それを新政府の資金に当てましょう。」

これにたいし、公議政体派の山内容堂が反対の意を唱えます。

「大政奉還という大英断を下した慶喜公こそ、新政府に必要な人物!!
 相応の役職に、迎え入れるべきだ!!」

領地没収に関しても、徳川家だけというのは不公平だと反論し、話し合いは夜中まで続きました。
しかし、最終的には、討幕派が押し切り、慶喜の官位剥奪、領地没収が決定してしまいました。
政権を返上し、諸侯の一人となった慶喜でしたが、元将軍であり、徳川家の当主としての求心力は健在・・・!!
さらに、反幕府派の中からも、大政奉還を好意的にとらえる勢力が現れ始めます。
多くの公卿たちも同調し始めたことで、慶喜を擁護する勢力が勢いを増していきます。
そんな中、旧幕府を支持する会津藩と桑名藩が、御所に向けて出兵!!
討幕派を一掃すべしという声をあげました。

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王政復古から3日後の12月12日・・・
慶喜は、家臣たちの暴発を避けるために、会津、桑名の軍勢を引き連れて京都から大阪城に移ります。
経済的にも軍事的にも重要な大坂を抑えることで、新政府にプレッシャーを与えようと考えたのです。
この選択が、自分自身の運命を大きく帰ることとも知らずに・・・!!

翌日、倒幕派の大久保と岩倉との間で、慶喜の処遇について話し合いがもたれ・・・
岩倉は、二つの案を提示します。
①強硬案・・・薩長の軍事力を背景に、このまま強硬路線を貫くというもの
②妥協案・・・慶喜が、官位剥奪と領地没収を飲むなら、議定職への就任を認めるというもの
強硬な姿勢を貫く大久保らは、新政府内で孤立しつつあり、妥協案で合意するしかありませんでした。
その後の合議の末、慶喜は

①内大臣を辞して”前内大臣”と称す
②領地没収の撤回
③議定職就任

慶喜の思惑通り、新政府に迎え入れられることとなりました。

王政復古のクーデターのおよそ1か月後・・・慶喜は最後の決断を迫られます。
大久保や西郷ら討幕派の勢いは、この頃風前の灯となっていました。
同盟を組む長州藩でさえも、薩摩の行動は理解しがたいと離れて行ってしまったからです。
孤立を深めていく中で、大久保は覚悟を決めます。
「もはや、薩摩一国となっても一戦交えるまでだ!!」
そんな中、慶喜の議定職就任が決定した翌日の1867年12月25日・・・
旧幕府から市中取り締まりを命じられていた庄内藩が、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちするという事件が勃発します。
薩摩浪士たちが江戸で、強盗や放火を繰り返し、幕府を挑発していたことに対する報復でした。
藩邸を襲われた薩摩は、一気に戦闘態勢に!!
一方、焼討事件を知らされた大坂城でも、会津・桑名の藩士たちが武力行使を訴えます。
慶喜が、暴発を抑えようと必死になるものの・・・
薩摩を倒すべきという声が上がり、機運の高まりはもはや慶喜にも抑えられなくなっていました。


「いかようにも勝手にせよ・・・」

慶喜は、薩摩討伐を決意し、署名します。
五か条の「討薩の表」には、こう記されていました。

”王政復古以来、朝廷のふるまいは、薩摩藩の陰謀によるものである
 薩摩の引き渡しを求める”

あくまで薩摩藩を相手に戦うことが目的でした。

1868年1月2日・・・江戸から脱走した薩摩藩士の捕縛を命じられていた開陽丸の艦長・榎本武揚は、4隻の軍艦と共に大坂湾にいました。
すると、脱走した藩士を乗せた薩摩藩の艦船3隻を発見し、ここに戦いの火ぶたが切られます。
日本初の洋式海戦の勃発(阿波沖の海戦)です。
旧幕府軍・開陽の圧倒的な勝利の前に、薩摩の2隻は敗走・・・1隻は逃げきれずに自沈しました。
旧幕府軍は、海上戦で圧勝・・・慶喜が行ってきた軍事力強化がここで実を結んだのです。
海上戦が始まったこの日、陸上では、旧幕府軍が”討薩の表”を朝廷に提出するため大坂城から京を目指し北上していました。
二手に分かれた軍勢は、3日、鳥羽と伏見に到着します。
一方、薩長両藩も、鳥羽と伏見に布陣し・・・旧幕府軍を待ち伏せていました。

1868年1月3日、午後5時・・・4日間に及ぶ戦いが始まります。
鳥羽で旧幕府軍が隊列を組み強行突破を仕掛けると、新政府軍の銃砲が一斉に火を噴きました。
不意を突かれた旧幕府軍は大混乱に陥り、容赦なく浴びせられる銃弾に、歩兵は次々と倒れていきました。
鳥羽から聞こえた銃声を合図に、伏見でも戦闘が始まりましたが、戦況はこちらも同様新政府軍が優勢となりました。
新政府軍の方は、指揮官たちの巧みな戦術のもと、着実に作戦を遂行していたのですが、一方の旧幕府軍は、精鋭部隊のほとんどが江戸にいて、各部隊の命令系統はバラバラ・・・
兵の中には農民もいるなど、寄せ集めの軍隊だったのです。
翌4日になっても、旧幕府軍の劣勢は変わらず、後退を余儀なくされていきます。

鳥羽伏見の戦いのおよそ3か月前・・・
討幕派が集まって、密議が重ねられていました。
岩倉具視が中心となって、幕府軍と武力衝突が起きた際の、戦局を有利に運ぶためにはどうすればいいか??作戦が練られていました。
彼等が、切り札としたのは”錦の御旗”でした。
鎌倉時代に、朝敵を退治する戦で使われた朝廷の軍隊を象徴する旗で、その後は使われなくなり文献にしか残っていなかったのですが・・・
岩倉は、これを復活させ利用しようと提案したのです。
大久保は、早速、錦の布を買いに行かせ、それを長州藩士に渡し、西陣織の職人によって極秘裏に作成されました。

鳥羽伏見の戦いが始まって3日目・・・
新政府軍が掲げた”錦の御旗”が前線に翻りました。
これにより、慶喜は天皇に歯向かう朝敵となってしまったのです。
御旗の効果は絶大でした。
朝敵となることを恐れた諸藩は、次々と新政府側に寝返っていきました。
慶喜は、前線で戦う兵士の士気を高めるため、大坂城でこう演説します。

「たとえ、千騎が一騎馬になろうとも、決して退くな!!
 大坂が破れても江戸がある!!
 屈してはならぬ!!」by慶喜

しかし、その舌の根も乾かぬうちに、慶喜はわずかの供を連れて大坂城を脱出・・・
この日、城で慶喜に拝謁した軍艦奉行の浅野氏祐は、直筆として1枚の紙を渡されたといいます。
そこには、慶喜と共に帰還する者の名と共に、戦場に残す者たちの名があり、それは、主戦論を強硬に唱えていた重臣たちでした。
慶喜は、なんと彼等に戦の責任を取らせることにして、大坂城から逃げたのです。
兵を鼓舞したすぐ後に、どうして大坂城を脱出したのでしょうか?

「これ以上、大坂城に滞在すると、ますます過激論者を刺激してしまう
 自分さえいなくなれば、激論も沈静するであろう
 私は江戸に戻って恭順の姿勢を貫き、朝命に従うつもりだ」

鳥羽伏見の戦いを早期に集結させるために江戸にもどると説明しています。
しかし、実際は、錦の御旗が出て、自分が朝敵になった事が大きかったのです。

1868年1月6日、午後9時・・・慶喜は、わずかな供を連れて大坂城の裏門から抜け出しました。
その際、慶喜はお小姓を装い、城門の衛兵の目をくらましたと言われています。
そして、八軒屋の船着場から、小舟で川を下り、沖に向かったのですが・・・
闇夜でもあり、大坂から離れた西宮周辺に停泊していた徳川家の軍艦を見つけることはできませんでした。
そこで、アメリカ大使に依頼し、夜が明けるまで軍艦に乗船させてもらうことにしました。
翌朝、慶喜一行は、開陽に乗り込んだのですが・・・館長の榎本武明が、大坂城に行っていて船にいなかったため、乗組員たちに出航は無理だと言われてしまいます。
しかし、慶喜は、半ば強引に説き伏せ、江戸に向かわせました。

大坂城脱出から5日ご・・・開陽は、品川港に到着・・・
江戸にもどった慶喜は、恭順の姿勢を示すために、もう一度戦を仕掛けようという声をかたくなに拒否しました。
そして、自ら徳川の霊廟である上野の寛永寺に入り、謹慎のみとなることで政治の表舞台から去っていきました。
その後、謹慎場所を水戸へと移し、
1868年7月19日、戊辰戦争による治安悪化を理由に駿府へと向かいます。
謹慎場所は、徳川家ゆかりの宝台院でした。
この時、慶喜の元を尋ねた旧幕臣の渋沢栄一は、将軍の時とあまりにもかけ離れたその暮らしぶりに涙したといいます。
1869年9月28日、鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争の終結を受け、慶喜の謹慎はようやく解かれます。
この時、32歳でした。

この後、一市民として、狩猟や釣りなどから洋画や刺しゅう、自転車を買ったり、カメラを使ったり・・・様々な趣味に没頭しました。
1913年11月22日、慶喜は76年に及ぶ波乱に人生を終えました。
歴代の将軍が眠る寛永寺でも、増上寺でもなく、自らが購入した谷中墓地で静かに眠りについたのです。
一市民として・・・!!


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第2回です。
今回から吉沢亮くん登場ですよ~~!!

9歳になった栄一は、お父さんの仕事のお手伝いを始めていました。

tuke5











目利きな父親と一緒に、各地の藍農家をまわり、藍葉を買い付けるのも仕事でした。
躾に、仕事に厳しい父も、栄一に仕事を教えるのは楽しいようです。

tuke2















村では、五穀豊穣と悪疫退散のために、祭りが催されます。
お千代もまつりに合わせて、新しい着物を作ってもらえると喜んでいました。

血洗島の渋沢家には、この地域一帯を納めている岡部藩の代官が時々やってきました。
そんな時は、精一杯のおもてなしで迎えることが常でした。
代官からお話がありました。

「この度、若殿の御乗出しが決まった
 ついでは、道を整えねばならぬ
 六月吉日の前後十日、この村より人足を百人と御用金二千両を用意するようにとのお申し付けだ」

「恐れながら、お代官様・・・
 その頃と申しますと、この村は一年のうちで一番人手が足りぬ時期で・・・
 毎年、他の村より人手を借りるほど・・・
 御用金の方は、なんとか用立てます。
 何卒今少し、人足の数を減らしてはいただけませんかと・・・」by市郎右衛門

「そうか・・・その方、不服と申すのか・・・!!」

「不服など、もってのほか・・・
 ただ・・・六月は、お蚕様も繭になり、藍の買取も一番忙しい時にて・・・
 どうか、この地の百姓のためにも、百を八十に、九十にも減らしてはいただけませんか・・・」by市郎右衛門

「たわけおって!!
 その方、百姓の分際で口が過ぎるぞ・・・!!」byお代官様

「ははっ!!」by市郎右衛門

「いいか、お上が百人出せといったら、百人出すんだ!!」byお代官様


何か言いだしそうな栄一に口止めする母・・・
井戸に向かって叫びます。

「承服できん!!
 承服できっこないに!!
 なんでとっさまが・・・村のみんなに慕われているとっさまが・・・
 あんなに頭を低くしなきゃなんねえに!!」by栄一

村人に慕われている父が、頭を下げて・・・悔しかったのです。

人も足りない・・・お金も足りない・・・みんなが楽しみにしていた祭りは諦めないといけないのか・・・??

「俺は嫌だに!! 
 俺は獅子が舞いてえ!!
 祭りをしてくれ!!
 そんじゃあ、今年の五穀豊穣はどうするんだに!!」
 悪疫退散は・・・祭りをして村の悪いものを追い出さねえと、なんねえ・・・!!
 だって、おいちゃんも、村の祭りは大事だといったじゃねえか・・・!!
 大事とわかっててやんねえのは、”義を見てせざるは勇無きなり”だ!!」by栄一

父に頭をはたかれてしまいました。

「なんもわかんねえモンが、えらそうなこと言うな!!
 みんなも悪いな・・・
 お代官様からの申しつけだが、ちと来てくれ・・・」by市郎右衛門

村のみんなも、栄一の気持ちを痛いほどわかってくれていました。
でも・・・祭りは無くなってしまったのです。
不条理を感じる栄一でした。

その頃、江戸城の一橋邸・・・
七郎麻呂は、将軍・家慶の慶の字を賜わり、徳川慶喜となりました。
そして・・・暇を持て余していたのです。

その頃、水戸・・・
慶喜の父・斉昭は、幕府の命により、隠居生活を送っていました。
そして、慶喜に望みをかけていたのです。

6月・・・血洗島で一番忙しい季節がやってきました。
しかし、お代官様の命令通り、男たちは人足にとられ、女たちで桑や藍葉の刈り取りです。

「よし!!」と、働く栄一!!

時期を逃すと、葉に含まれる色素が変化するので、急いで刈り取らなければならないのです。
お蚕様も、繭になる時期でした。

忙しいので、人足仕事から帰ってきた男たちも、まだまだ働きます。
松明をともしてまでも働く・・・そんな日が、何日も続きました。

tuke3















刈り取りが終わり、人足仕事も終わり・・・市郎右衛門が足を洗おうとしたとき・・・
どこからともなく笛の音が聞こえてきました。
それは獅子でした。

tuke4















「何やってんだ・・・!!」by市郎右衛門

「五穀豊穣!!悪疫退散だに!!」by栄一

それは、栄一と喜作でした。

そこへ、父・市郎右衛門、村人たちも・・・ささやかな祭りの始まりでした。

それから数年が経ち・・・栄一は、立派な青年になっていました。

tuke1















栄一と喜作はともに剣を学び、読書に明け暮れる日々を送っていたのです。

将軍は、自分の子よりも、聡明な慶喜を気に入り、次の将軍は・・・??
と噂されるようになっていました。

そこへ・・・ペリーがやってくると長崎奉行から阿部正弘に知らせが届いたのです。

一生懸命働いていた栄一は、父に江戸に連れて行ってもらえることになり、嬉しそうです~~!!

「江戸だ~~!!江戸だ~~!!江戸~~!!」by栄一

ということで、少年から青年になりましたね~~!!
私は、この少年→青年には、トラウマがあって・・・( ̄▽ ̄;)
もちろんそれは、八代将軍吉宗です。
あの伝説の、”包帯とったら西田敏行事件”ですΣ( ̄ロ ̄|||)
ツッコミどころ満載でしたが、あの作品はとっても好きだったから~~( ̄▽ ̄;)!!
今回は、同じようにかぶってましたけど・・・( ̄▽ ̄;)スッと代わりましたね。
獅子舞も良い感じでした。

今回は、第2回です。
第2回ですが、視聴率とかなんだかんだといろいろと言う人もいるようです。
私は女ですが・・・男尊女卑なのか・・・大河ドラマは男性の主人公が好きです。
やっぱり、血湧き肉躍る作品が好きだからです。
なので、ダイナミックに戦国時代を描いてくれた作品は大好きです。
ちなみに、女性が主役なものでは「八重の桜」が好きかな??

おまけに、イケメンで推している作品は??と思ってしまうきらいがあります。
言わずもがな・・・あのイケメン大河「花燃ゆ」ですよ・・・Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

そしてそれは「龍馬伝」だったとしても・・・
もともと坂本龍馬さんはあまり好きではない(っていうか、新撰組派)なので思い入れがないし、もともとの龍馬も、福山雅治さんも飄々している感じがするのでなんだかなあ・・・って思っちゃうんです。
「龍馬伝」で言うなら、同じイケメンでも泥にまみれた佐藤健さんの岡田以蔵が良かったですね。
そんな感じの好みです。

おまけに、皆さんにあまり評価の高くない「平清盛」は大好きです。
きっと、昔の人はお風呂にもあまり入らないし、画面が暗いとか埃っぽいと言われたけど、事実、江戸時代でさえコンクリートもないから埃っぽかったんですよ??
と思ってみたりして・・・変かな??

そして今回の「青天を衝け」、2回までですが、見てみて良い感じだと思いました。
今回、栄一が井戸に向かって叫ぶシーンは良かったです。
昔、腹が立ったら、井戸に向かって叫ぶ・・・こんな事良くしましたよね??
SNSで叫べないしな・・・
でも、今の人は、井戸なんて見たことないだろうからやったことももちろんないでしょう。
そんな若い子も観てほしい大河ドラマなんですよね。

話はそれますが、私が子供の頃に読んだ子供向けの本「ガラスのうさぎ」は、原作者さんが映画化、アニメ化、漫画化を嫌っていました。
でも、最近、映画になったように思います。
どうしてか??それは、最近の子が字で読んでも、防空壕とか、かまどとか・・・映像化しないとわからないものが多すぎるからというのが理由でした。

時代劇をテレビで見なくなって久しい・・・あ、「鬼滅の刃」は時代劇かしら??
そうね・・・アニメの方でやっているのかもしれませんね。

話は長くなりましたが、渋沢栄一、今はまだ若造で、お話も朝ドラのようですが、その活躍、実績はすごいですよ!!
起業家、福祉活動・・・人たらしで魅力的な人です。
そりゃあ、お札になる人です!!
ネタはそこらへんに転がっているんだから~~!!
尻上がりに面白くなると思っています!!

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幕末、・・・日本は未曽有の国難に直面していました。
攘夷か、開国か!!
国論は、真っ二つに別れ、遂には武力による討伐・・・明治維新へと突き進みます。
そんな幕末動乱の時代に、危機に立ち向かった先陣の英知とは・・・??

①老中首座・阿部正弘
200年以上守ってきた鎖国の危機に、阿部は人々の納得を取り付けながらシステムを変えるという最も困難な仕事に取り組みました。
1853年、ペリー浦賀に来航!!
その中には、最新鋭の蒸気軍艦二隻の姿もありました。
逆風をものともせず進む巨大な黒船・・・
これまで目にしたこともない黒船の異形に人々はパニックに陥りました。
当時の瓦版に書かれたペリーの姿は、同じ人間とも思えない風貌・・・黒船打ち払うべしという攘夷の声は、日本全土へと広がっていきます。
しかし、備えはまったくと言っていいほどなされていませんでした。
阿部が老中になる前年・・・1842年イギリスがアヘン戦争に勝利・・・清に領土を割譲させたという知らせは日本にも届いていました。
ところが、当時の幕府財政は火の車・・・海岸を守るための軍艦や砲台に回す資金はありませんでした。
ペリーはさらに、江戸湾内に船を進めます。
そこには驚くべき意図が・・・!!
ペリーが本国に提出した江戸湾の測量図があります。
ペリーは、江戸湾を測量し、どこまで陸地に近づけるかを調べていました。
国土への直接攻撃をにおわせる示威行動でした。
その上でアメリカは、船舶の補給基地として港を開くことと、交易の開始を要求します。
余りにも強引な開国要求でした。
ペリーの圧力に屈して鎖国を捨てれば幕府の威信は地に落ちる・・・
高まる攘夷の中、阿部は前代未聞の方法に踏み切ります。
それまで幕府政治への参加を許されなかった御三家や外様大名・旗本に、国書を開示し、意見を聴収します。
それは、挙国一致で当たるという幕府始まって以来の方針転換でした。

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挙国一致の課題は、大きな大名との協調政策です。
国の一番重要な政策について意見を聞きます。
有力大名の半数が、鎖国を守るためには戦争も仕方ないと主張!!
その代表が、水戸藩の徳川斉昭!!
御三家として大きな影響力を持っていました。

「刀や槍の戦いでは我が国に分がある
 電光石火のごとく戦えば、かの夷族を鏖にすることは掌のうちにある」by斉昭

圧倒的な攘夷派を前に、選択を迫られた阿部・・・!!

黒船に積まれていた最新式のペキサンス砲・・・その特徴は、爆弾を的に対して水平に発射できること!!
命中率が高く、破壊力も大きい!!
ペリー艦隊の攻撃によって、海岸沿いの下町は完全に火の海になる恐れがありました。
御城下が灰になるほどの事態になれば、幕府の威信は地に落ちてしまう・・・??

「外寇への備えは、交易の利潤をもって当てる」by勝海舟
勝は、通商を行って、利益を得ることが、国防の強化につながると説いていました。
しかし、通商を認めることは鎖国を捨て去ること・・・
国法を曲げては、幕府は弱腰であると、大名からの声が沸き起こるであろう!!

ハッキリとは回答しない・・・??
回答延引策は、薩摩藩主・島津斉彬たちが唱えていました。

「交渉は出来る限り引き延ばす・・・3年ほど待てば、軍備も整うのでその後に打ち払う」by斉彬

攘夷か?開国か?それとも回答延引策?
いずれを選んでも困難な道でした。
先の来航から半年経った1854年1月・・・ペリーは再び江戸湾に現れました。
果たして、阿部の選択は・・・??
それは、”ぶらかす”・・・回答延引策でした。
1853年6月、将軍・家慶死去・・・
阿部はそのことを口実に、交渉延期を申し入れます。
しかし、ペリーはこれを黙殺!!

「将軍の死は公務を遅らせる理由にはならない」byペリー

引き延ばしはもはや通用しない!!
阿部は、諸大名と共に撮るべき方策を協議しました。
実際の交渉にあたる役人は、通商まで譲歩しなければまとまらないと主張!!
しかし、阿部はあくまで慎重でした。
打ち出したのは、「開港容認・通商拒絶」でした。
1854年2月10日・・・
圧倒的な武力を持つアメリカに対する綱渡りのような交渉が始まります。
阿部の意を受けた役人は、頑なに通商を拒みます。
日本海国という名誉を祖国アメリカにもたらすことを重視していたペリーは、次第に焦り始めました。

「このまま通商に固執することは得策なのか・・・??」byペリー

交渉開始から1か月・・・日米和親条約締結。
開港を許したのは、大都会から離れた下田と箱館。
そこでは、航海に必要な物資の補給だけを認めました。
通商に関する要求は、完全に退けたのです。
阿部はいかにしてこの結果を手にしたのでしょうか?
近年、広島県福山でその資料が発見されました。
阿部の腹心である軍学者・江木鰐水の手記によると・・・
交渉のさ中、黒船に乗り込んだ江木は、事細かく書いています。
ペリーが話すときの声は温和・・・
交渉相手のことを事細かく調べたうえでの交渉に臨むことで、阿部は薄氷の勝利を得ました。
しかし、阿部は、自らが用意した日本の未来を見ることはできませんでした。
未曽有の国内に対処してきた重荷が、その肉体を確実にむしばんでいました。
1857年、阿部正弘死去・・・享年39歳でした。

②長州藩・高杉晋作
1864年・・・それは、長州藩が国内外の危機に直面し、がけっぷちに立たされた運命の年でした。
国政の主導権を握ろうとする長州に対し、薩摩藩と会津藩が反撃!!
世に言う禁門の変が勃発します。
7月19日、薩摩・会津の連合軍と衝突した長州軍は、僅か1日で惨敗・・・
御所に向かって発砲した長州藩は、時の帝・孝明天皇によって朝敵の烙印を押されてしまいました。
状況はさらに深刻化・・・
それは、武力によって外国船を打ち払おうとする祖国・長州藩の暴走でした。
8月5日、下関戦争・・・
長州は、関門海峡を航行する外国商船を砲撃!!
激怒した欧米列強によって報復攻撃を受けます。
関門海峡の殆どの砲台が列強連合軍により占領!!
植民地化という最悪の危機が予想されました。
追いつめられた長州は、停戦交渉を要請・・・
そしてその難しい立場での交渉に登場した男こそ、高杉晋作でした。
8月8日・・・交渉の席上、列強側は300万ドルという巨額の賠償金を要求。
晋作は啖呵を切ります。

「もし、戦争を続けるというのなら、長州は最後の一人になるまで戦うつもりだ」by高杉晋作

晋作たちの強硬な姿勢に、列強側は態度を一変・・・
関門海峡の砲台撤去、水・食糧・燃料補給のため下関上陸を求めてきました。
晋作たちは、本来は幕府の権限であるはずの下関の開港を独断で受け入れます。
下関を開港し、貿易を行えば、富国強兵を推し進めることが出来る・・・
晋作たちは、交渉の土壇場で、未来の実利につながる決断をしました。

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1864年7月・・・第一次長州征伐・・・幕府は朝敵の長州を攻め滅ぼすべく13万の大軍を大坂に・・・!! 
その一報を受け、長州藩の上層部が真っ二つに分かれます。
抗戦派・・・大義名分のため幕府に抵抗
恭順派・・・藩存続のため幕府に謝罪
この対立です。
11月12日、恭順派によって長州藩の三家老が切腹・・・幕府への徹底恭順の証とされました。
抗戦派に組していた晋作は、身の危険を感じ、九州・筑前藩に亡命!!
再起の時を伺っていました。
この時、晋作にはどのような選択があったのでしょうか?

内乱挙兵の決起策か??
藩士以外の武士や、庶民で編成された奇兵隊を!!
最新式の銃を装備し、西洋式の戦術を学んだ長州の軍です。
それとも冷静に交渉の道を選び、藩の大義名分を取り戻す・・・??
朝敵の汚名をどうしたらいいのか・・・??

晋作の決断は・・・決起策でした。
反乱の兵をあげ、武力によって藩の方針を覆す道を選びました。

11月25日、高杉晋作、長州に帰還!!
奇兵隊をはじめとする諸隊に反乱の決起参加を要求します。
しかし、諸隊幹部は無謀な戦いだと消極的な態度に・・・!!
その姿勢に晋作は叫びます。

「僕は、毛利家300年来の家臣だ
 たとえこの身が討ち倒れようと長州に殉じる!!」by晋作

ここに、反乱軍は挙兵します。
晋作たちは長州藩の経済の要・下関の会所を制圧!!
さらに、藩の軍艦を強奪することに成功!!
最初は消極的だった奇兵隊たちが動き出しました。
反乱軍は、800人の大軍勢に膨れ上がります。

1865年1月7日、大田絵堂の戦い・・・
恭順派率いる軍の正規軍と激突します。
野戦戦術と、最新式のミニエー銃を使うことを学んだ奇兵隊は、藩の正規軍を圧倒!!
そして、晋作決起からおよそ40日後・・・
藩主・毛利敬親によって、徹底恭順は撤回!!
もし攻撃を受ければ、最期の一兵まで戦い抜くこと・・・武備恭順を藩の方針とさだめました。
晋作の決起が導いた奇跡の勝利・・・次なる幕府との戦争が始まる中、晋作はまったく独自の構想を抱いていました。
長州の将来について晋作が記した意見書・・・回復私儀・・・
そこには、晋作が最も力を入れている方策があります。
それが、「大割拠」でした。
徳川一強の時代は終わった・・・

「今こそ、我が長州藩の下関を世界に向けて開こう
 そして、欧米列強の力にも十分に対抗できる国力を身につけるのだ
 世界五大陸にこの長州藩を押し出して、長州の大割拠、独立を成し遂げるのだ」by晋作

しかし、その夢が実現することはありませんでした。
1867年4月14日、高杉晋作病没・・・享年29歳でした。
あまりにも早すぎる突然の死でした。

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③薩摩藩家老・小松帯刀

小松帯刀・・・薩摩で島津家に次ぐ名門の家に生まれ、28歳の若さで家老に就任。
当時、権力の座にあった国父・島津久光の抜擢によるものでした。
帯刀は久光のもと、富国強兵を推し進めました。
綿・・・当時、綿花はアメリカで始まった南北戦争の影響で世界的に品薄となっていました。
帯刀は、西国諸藩から綿花を調達し、ヨーロッパへ輸出・・・
その利益で5隻もの蒸気船を購入、海軍の創設に力を注ぎました。

1863年、帯刀は、久光から京都での政治工作を任されます。
目的は、雄藩連合です。
これまで幕府では、一部の譜代大名が政治や外交を独占・・・
外様藩である薩摩や長州は蚊帳の外に置かれていました。
薩摩は有力大名が手を組んで政治に参加する雄藩連合を構想し、実現に向けて動き出しました。
このことが、幕府側との対立を引き起こすこととなりました。
御所を警護する一橋慶喜、京都守護職・会津藩松平容保、京都所司代・桑名藩松平定敬ら一会桑勢力です。
1964年7月、慶喜は朝敵・長州を討つべく、15万の大軍を大坂に集結させました。
第一次長州征伐の発動です。
ところが、これに対し薩摩は思いもよらない行動に出ます。
10月、小松帯刀、慶喜に征伐中止を進言!!
その要因は、京都政局のパワーバランスでした。
一会桑は、有力な藩を国政運営に加えたくありませんでした。
薩摩としては、長州を敵に回さない方が得・・・恩を売るという考えがありました。
薩摩の行動は素早く・・・長州に対して禁門の変を主導した三家老を処刑し、幕府に謝罪するように打診します。
長州がこの条件を受諾したことで、第一次長州征伐中止・・・!!

薩摩への警戒を強める慶喜・・・
再起へ虎視眈々の長州・・・
幕末の風雲はいよいよ急を告げます。
1865年、幕府側の巻き返しが始まりました。
15万の大軍が、大坂へ・・・第二次長州征伐です。
幕府は諸外国に対し、長州に武器を売らないように要請!!
長州は、絶体絶命の窮地に陥りました。
この時、帯刀は驚くべき決断をします。
薩摩名義で7300丁もの銃を購入、長州へあっせんしたのです。
長州の使者に対し帯刀はこう答えています。

「幕府の嫌疑等意に介してはいない・・・ 如何なることでも尽力する」by帯刀

薩長両藩は、1866年1月・・・長州から木戸孝允が上京します。
帯刀のもとで交渉を担当したのは西郷隆盛!!
幕府側に対する武力行使も辞さない強硬派です。
ところが、西郷が発したのは思いもよらない一言でした。

「ここはまず、幕府の処分をあまんじて受け入れよ」by隆盛

この時点で、幕府は長州に藩主親子の引退、領地10万石削減などを通告する見通しとなっていました。
過酷な処分を受け入れよという西郷・・・実は背景には国父・島津久光の意向がありました。
注目すべき資料は、島津久光に宛てた伊達宗城の書簡です。

「近頃西郷はしきりに暴論を主張している 久光公は依然として持重」

久光にとっては幕府に対する武装蜂起など思いもよらない・・・
急遽京都藩邸に使者を送り、藩士全員に厳しく自重を命じました。
西郷と帯刀は、朝敵の汚名を晴らす政治工作は動けても、幕府への武力行使には協力できない状況に追い込まれていました。
しかし、長州は既に臨戦態勢にありました。
更なる処分を受け入れるはずもありませんでした。
交渉は平行線をたどり、木戸はついに帰国を口にしました。
このままでは薩長提携に向けて動いたことは、すべて水泡に帰す・・・
帯刀は交渉を続けるか否かの決断に迫られました。

交渉は打ち切るしかないのか??
このままいけば、幕朝開戦の可能性が極めて高い・・・久光公の本意は、幕府と事を構えることにないのは明らか・・・家老として、その御意志を越えてまで、長州との提携を進めることが許されるのだろうか??
しかし、久光の方針に従えば、薩長提携の道は閉ざされてしまう・・・!!
それは目指す雄藩連合からの後退を意味していました。

ここで長州を孤立させていいのだろうか・・・??
雄藩連合が頓挫してしまう・・・
久光公を説得して、同盟締結に持っていけないだろうか・・・??

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小松帯刀の選択は、薩長同盟締結でした。
幕府との対決にひた走る長州との同盟を、帯刀は独断で締結したのです。
薩長同盟には、両藩の公式文書は存在しません。
唯一その内容を伝える木戸孝允の書簡・・・そこからは、政治家・小松帯刀の周到な計算が読み取れます。
そこには巧妙なロジックが隠されていました。
戦うとしたら一会桑・・・と書かれています。
つまり、幕府とは言っていないのです。
一会桑との対立は、そう遠くはない・・・久光サイドも理解できていました。
薩摩が生き残るためには、長州を絶対に滅ぼしてはならない・・・帯刀は久光の許容範囲すれすれで同盟を結び、事後承諾を勝ち取ったのです。
新たな時代・・・明治を切り開いた薩長同盟・・・その意義とは・・・??

久光主導から、小松、西郷、大久保による主導に転換していきつつあるきっかけになりました。
両藩の間での正式の合意文書がない・・・第5条の決戦条項を久光には見せられなかったのでしょう。
それは、久光の初期の方針を逸脱したものだったからです。

全て自分が責任を負う・・・それが、歴史の方向を決定づけました。
阿部正弘、高杉晋作、小松帯刀・・・身分は違えど、三人に共通するのは、新たな時代は自分が作るという責任感でした。

老中・阿部正弘は、死の1年前、幕府の路線を大きく変更しました。

「交易互市の利益をもって富国強兵の基本とする」by阿部正弘

開国通商に舵を切ると宣言したのです。

その志は確かに受け継がれます。
鹿児島のとある釜元・・・薩摩焼は帯刀の進言で輸出用に作られたものです。
ヨーロッパで上流階級に珍重され、注文が殺到しました。
小松帯刀は病のため36歳で亡くなりました。
しかし、彼は最後まで来るべき時代の輝かしい日本の未来を夢見ていたのです。


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今からおよそ150年前、大改革が行われていました。
参勤交代は、全国の大名が二年に一度江戸へ赴き、軍役奉仕を行う江戸時代の基本制度です。
その費用は莫大で、藩財政を圧迫・・・幕末には多くの藩の財政を圧迫し、破たん寸前となっていました。
当時は異国船の来航・・・防衛力の強化と財政の立て直しが叫ばれていました。

「最早参勤交代をしている場合ではない!!」

そういったのは、越前福井藩主・松平春嶽です。
春嶽は、大胆な緩和を幕府に提案し、大名の負担軽減と防衛力の強化を叫びます。
しかし、参勤交代は主従関係を確認する幕藩体制の根幹・・・周囲は難色を示します。
国家存亡の危機を前にしても帰られないその制度とは・・・??!!

松平春嶽が、参勤交代の帰り道を書いた日記によると・・・
江戸を出て間もなく、農民たちの姿を目の当たりにして・・・

”裕福なら牛や今を使えるが、貧しいとそうはいかぬ
 もし百姓の苦労や実情を知らぬ大名がいたら、嘆かわしきこと”

一国の主たるもの、領民を慈しむ政治をしなくてはならない!!
その政治信条を培ったのが、幕末の財政難でした。
90万両もの借財があったと言われていて、自分の藩を見つめ直し、領民に対する見方を戒めたのです。
つもりに積もった福井藩の借金・・・90万両=450億円・・・。
そのしわ寄せが領民の年貢に・・・打ちこわしや一揆が頻発していました。
危機的な懐事情で・・・春嶽ですら一汁一菜でした。
粗食で耐え凌ぐ有様でした。
他の藩も同様の状況で苦しめられていました。

その最大の原因が、莫大な経費を必要とする参勤交代でした。
その旅路は宿代だけでもバカにならず、2000人のお供を連れていた加賀藩の場合、1泊で1000万以上・・・
江戸までの片道の宿泊費は総額2億円にもなりました。
少しでも宿泊日数を減らそうと、速足で駆け抜けるという涙ぐましい努力をする藩もありました。
さらに、江戸へ人質として置いていた妻や子の住む江戸藩邸の維持費も大きなものでした。
5000人もの藩士がいた加賀藩では、年間予算の半分・・・50億円を江戸で費やしていました。

それなら参勤交代の規模を縮小すれば・・・??
御用商人たちの武鑑には、各大名の名前、石高、武器の種類や数まで事細かく書かれていて・・・それが大名の格となっていました。
江戸に暮らす庶民は、この武鑑を大名行列のガイドブックとしていたので、大名たちは、お家の威信にかけて格を下げるようなことはできませんでした。
しかも、この行列は、幕府にとっても大名にとってもメリットがあり・・・
江戸に大名が来るというのは、幕府の権威を非常に高め政権が安定します。
大名同士の序列の中で、自分の家が他藩より高いか努力します。
参勤交代の道具を増やすことを幕府に嘆願し、幕府が許可する・・・
それは、幕府の恩恵を感じ、大名は同等だった大名たちに一歩先んじる努力をしたのです。

将軍との謁見でも、格に応じて畳の何枚目に座るかが決まっており、大名の努力次第で位置を変えることができ・・・参勤交代は、大名同士の格式をめぐるせめぎあいでもありました。
しかし、その制度の改革を迫る未曽有の危機が日本を襲います。

1853年ペリーが浦賀に来航。
どう対応するのか??幕閣は連日議論していました。
しかし、結論を出すことができません。
時の老中・阿部正弘は、全国の大名に意見を募ります。
幕府としては異例の試みでした。
そして、1通の建白書が幕府に届きます。
その差出人こそ、26歳の福井藩主・松平春嶽で、その内容は、幕府にとって衝撃的なものでした。

全国の大名は参勤交代で疲弊しきっております。
この国難に対峙するためには、江戸に散布する大名を帰国させ、挙国一致で軍備を整えるべきかと存じます。

春嶽は、異国に立ち向かうためには、財政をひっ迫させている参勤交代を緩和する必要があると幕府に訴えたのです。
しかし、将軍の忠誠を誓う証である参勤交代の改革を主張すれば、幕府から反逆を疑われ、処罰されてもおかしくありませんでした。
どうして春嶽は危険を省みず主張したのでしょうか??
春嶽は、本来は田安徳川家の出身で、将軍になったかもしれない立場でした。
なので、福井藩のことだけを考えてはいなかったのです。
春嶽が生まれた田安徳川家は、八代将軍吉宗に始まる家柄で、春嶽は11代将軍家斉の甥に当たり、12代将軍家慶のいとこにあたるサラブレッドだったのです。
これは譜代からは言えず・・・親藩大名の将軍に近い自分だからこそ言える!!自信と使命感に溢れていました。
しかし、幕府はこれを却下。

「幕府を人体に例えれば、大名の参勤は、骨の最大なるもの。
 骨を砕いてしまえば、取り返しがつかない。」by阿部正弘

納得がいかない春嶽は、当時最も英明と言われていた薩摩藩主・島津斉彬に自分の意見を解き、幕府説得の協力を求めます。
しかし、斉彬は春嶽に同意するものの・・・外様の自分に言えるわけがないと答え、幕府の前で突飛な言動は控えるようにとくぎを刺されてしまいます。
しかし、建白書を出し続ける春嶽。

諸大名の忠誠と服従を繋ぎ止めてきた参勤交代を緩和すれば、幕府の権威は一気に崩れ去るかもしれない・・・
そんな危機感が幕閣にはあったのです。
このまま何も変えなくていいのか・・・??
春嶽の前に大きな壁が立ちはだかっていました。

最早自分一人の力だけではどうすることもできない・・・春嶽は、行動に移します。
同じ志を抱く大名と党派を組んで幕府の政治を変えようというものでした。
春嶽は、水戸・徳川斉昭、薩摩・島津斉彬と共に、栄明と評判の高い一橋慶喜を次期将軍に推薦します。
さらに、1857年8月、江戸の藩邸に徳川家に近しい大名達と会談し、協力を要請します。
春嶽の意見を聞いた徳島藩主・蜂須賀斉裕は、神君家康公以来の法に触れるのは幕府に不審を抱かせると難色を示しました。
それでも春嶽は引き下がらない!!改革の意義を力説します。
その熱い想いにじっと耳を傾けていたのが鳥取藩主・池田慶徳です。
慶徳はその後も春嶽と会談を進め、大名の声が天下変革の響になるという春嶽の想いに共感し、幕府に建白書を提出します。
やがて春嶽達に同調するかのように幕府内からも参勤交代を見直すことが挙げられます。
特に海防を担当する海防掛大目付は改革の必要性を痛感。
「参勤交代の緩和が諸藩の出費を減らし、海防強化の一助になる」と、建白書を出しています。

春嶽が参勤交代の緩和を主張してから4年・・・改革の機運は高まりつつありました。
ところが・・・一人の男が立ちはだかります。
譜代最大の大名・井伊直弼です。
次期将軍に紀州の徳川慶福(のちの家茂)を推した直弼は、次期将軍をめぐっての主導権争いに勝利!!
そして・・・一橋派の一掃に乗り出しました。
世に言う安政の大獄です。
1858年7月、春嶽は隠居謹慎処分に・・・江戸藩邸で逼塞生活を送ることとなりました。
井伊直弼の強硬な姿勢に耐え忍ぶようにと、家臣たちを戒めます。
2年後、春嶽を謹慎に追い込んだ井伊直弼が桜田門外で暗殺されます。
幕府の権威は急速に傾き始めました。
しかし、春嶽の近親が解かれることはなく、4年にも及びました。
春嶽はどのような政治構想を持っていたのでしょうか。
虎豹変革備考・・・春嶽がイギリスの政治体制をもとに自らの政治構想を記しています。
上院と下院に分かれた議会で、幕府には行政のみを委ねる議会制度を構想していました。
上院には大名を、下院には武士や百姓町人を参加させるべきだと説いています。
春嶽は参勤交代の改革を突破口に、近代的な政治の導入を模索していたのです。

井伊直弼の暗殺から2年後・・・時代は大きく動きます。
1862年3月、島津久光が藩兵1000人を率いて上洛。
朝廷を後ろ盾にして、幕府に政治改革させようとしました。
それは、春嶽を大老に、慶喜を将軍後見役に就任させ、幕政の助けにするという要求でした。
これに慌てたのが老中たちです。
朝廷や外様大名の要求を受け入れ幕政改革が行われるような事態になれば、幕府の権威は地に落ちたも同然!!
1862年5月、春嶽は謹慎を解かれ江戸城へ登城!!
将軍家茂の元へ・・・!!
欧米列強の対応で亀裂の入っていた朝廷との関係を修復、公武合体の実現に向けての交渉役を依頼されます。
春嶽にとって、それは将軍の以来と引き換えに参勤交代の緩和の絶好のチャンス!!
しかし、幕府の権威が落ちた今、それを行うのは大きなリスクをはらんでいました。
どうする・・・??

参勤交代の緩和を今切り出すのか?それとも時期を見るのか・・・??

将軍を目の前にどう応えたのでしょうか?
春嶽は将軍自らが不退転の覚悟で幕政改革をすると約束しないならば、従うつもりはないと言い放ちました。
その上で、老中らに速やかに徳川優先の政治をやめ、大名を苦しめる参勤交代の緩和をはじめとする幕政改革を迫ったのです。

改革の時はいまを置いて他になし!!

1862年7月、将軍後見職に一橋慶喜、政事総裁職に松平春嶽を任命。

その一月後・・・幕府はついに参勤交代の緩和を布告しました。
この改正によって参勤は2年→3年となり、江戸の滞在日数を1年→100日としました。
江戸にいる間は幕府に積極的に政治的意見を具申するようにさせます。
大名妻子は帰国は自由とし、大名たちを最も苦しめていた江戸での経費削減を実施していきます。
効果は覿面!!
全国で藩政改革が進んで行きます。

大名達はこぞって軍艦や大砲を購入。
それまでできなかった軍事力の強化と産業の育成に励みます。

しかし・・・その先には、春嶽も予測できなかった時代のうねりが・・・。
それは、急速に発言力を持ちだした朝廷でした。
春嶽たちが幕政改革をし出した2か月後・・・大名に対し、帝のいる京都の治安を守るように京都警護を発令!!
幕府を通さず、天皇が直接大名たちに軍役奉仕を求めたのです。
強硬な公家・三条実美は将軍後見職の慶喜に対し、諸大名の参勤は江戸と京都で折半しようと持ちかけさえしました。
1863年2月、上洛のために家茂が江戸を出発。
開国を容認してもらうために・・・。
その交渉役を任された春嶽は、将軍上洛の数か月前から朝廷と開国容認の交渉を続けていました。
しかし、孝明天皇は認めず、攘夷実行尾を春嶽に迫ります。
交渉は暗礁に乗り上げていました。
幕府と朝廷との板挟みになる春嶽・・・

さらに盟友であった一橋慶喜との間で政治方針を巡って対立し始めました。
3月、春嶽は政事総裁職を辞任。
政治改革の道から離脱してしまうのです。
その後、日本は本格的な激動を迎えます。

1864年第一次長州征討
幕府は諸大名に出兵を命じます。
その1か月後、幕府は参勤交代の復旧を発令!!
幕府への統制力を強めようというのが狙いでした。
ところが大名たちは、国家の大事件だと困惑・・・。
春嶽にも問い合わせが来ます。

「幕命には従わなければならないが、そのまま様子を伺い、幕府から催促が来た場合には病気を口実に断ればよい」と。

春嶽から見ても、衰退は止めようがありませんでした。

1867年10月14日、大政奉還
仕える将軍がいなくなったことで、参勤交代制度は終焉を迎えます。

明治に入っていからの春嶽は、執筆活動に専念。
数々の著作を残しています。
井伊直弼のことは・・・
”徳川家の威光を盛んにせんとの志にて、決して私欲のためにやったことではない。
 彦根公の英断が今に至りては感すへし”
と書いています。

直弼の一連の決断は、幕府と徳川を思っての英断だったと振り返っています。

春嶽は、自分が行った改革を失敗だったと思っていたのでしょうか?
その真意が明かされることはなく、1890年6月、春嶽死去・・・63歳でした。

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西郷は、後にこう言っています。

「才能や学識、人間の器、左内にわれの及ぶところは一つもない」と。

日本を震撼させた安政の大獄・・・左内は捕らえられ、僅か26歳で刑場に散りました。
どうして幕府は、左内に死を命じたのだろうか?
1834年、福井藩の藩医の家に生まれた左内・・・その人となりを表す資料が残っています。
「啓発録」・・・左内が数え15歳の時に書いたもので、人生の目標を定めた書です。
幼心を捨て、気を振るい、志を立て、勉学に励み、交友を選ぶ・・・
左内は、この5つを自らに課すことで、武士として生きる道を目指しました。
文末には・・・
「私は医者の家に生まれ、家を継がなければならない
 志を果たせぬ事が、悔しくてならぬ」
と、書かれています。
身もだえするような焦り・・・
背景には、西洋諸国の脅威がありました。
1840年に勃発したアヘン戦争、隣国清がイギリスに敗れ、植民地化されていました。
この危機から日本を守らねばならない!!
そのため、左内が選んだのが蘭学でした。
1849年、16歳で適塾に入門します。
福沢諭吉らを輩出した蘭学の名門です。
西洋の医学書を原書で読んで、最新の知識に触れた左内の結論は、日本は西洋に学ばなければならない・・・というものでした。

後に左内は、こう記しています。
貿易を始めることは、国家の大なる利益、品物だけでなく、知恵の交易も肝要である。
それは、西洋の政治思想や軍事産業など、あらゆることを学ぶという決意でした。

1853年、ペリーが来航し、開国を要求します。
圧倒的な軍事力を前に、幕府は和親条約締結に踏み切ります。
この危機に動き始めたのが、左内の主君・松平慶永(春嶽)です。
越前藩の記録によると・・・一橋慶喜公は、不世出の御英明・・・このお方を将軍の後継にすれば、天下憂えるに足らず!!
時の将軍・家定は、病弱で暗愚とのうわさが絶えない・・・その跡継ぎに当時17歳、御三家水戸斉昭の子で、栄明に高い一橋慶喜を将軍に据えようというのです。
そこには、大名たちの政治参加の意思が隠されていました。
これまでは、10万石クラスの譜代大名だけ幕政に携わることができました。
しかし、御三家、親藩、外様の大藩には、一早く国際情勢を知り、西洋の最新技術導入に着手している藩もありました。
名君慶喜の元、挙国一致体制を作るのが、慶永の狙いでした。
水戸斉昭、島津斉彬など、一橋派の賛同を得て、政治工作に乗り出しました。
慶永の意をくむ懐刀として、左内に白羽の矢が立ちました。

1855年、武士に取り立てられ、江戸行きを命じられます。
江戸での活動は・・・薩摩の西郷と緊密に連携しながら、政治工作に臨みます。
この時の出会いは、西郷にとっても終生忘れることはなかったといいます。

左内独自の政治構想は・・・
列強が争う時代にあって、日本が単独で生き残ることはとてもできない・・・。
ロシアとの同盟を結ぶべきである。
と、当時の国際情勢を冷静に分析し、日本の生き残りの道を提示した左内・・・
国内体制の変革は・・・??
将軍継嗣を確立し、慶永公、斉昭公、斉彬公を国内事務宰相とする。
そして、天下に名だたる知識人は、陪審や浪人に関わらず、幕府で採用する。
今や日本国中を一家と見なければならない
主君をはるかに凌駕する改革案・・・左内はこれを西郷に明かしたのではないか??

空前絶後、他には見られない体系的な改革で、大名の家来や庶民まで動員し、日本最上の人材を幕府に集中し、西洋の危機を凌ごうとしたのです。

左内が帰宅したのち、西郷は周りにこう漏らしました。
「今日の談論、余甚だ敗せり」

しかし、事はそう容易くは運びませんでした。
幕閣の中心である南紀派が慶喜擁立に一斉に反発しました。
彼等が推すのは、紀州慶福・・・。
年齢こそ幼いものの、慶喜と以上に将軍との血統が近く、継承権が上なのは、誰もが認めるところでした。

老中・堀田正睦は・・・
「継嗣は将軍の御意志に従うべきではあるが、強いて言えば紀州慶福さまかと思う。」
幕閣への工作が難航する中、一橋派が頼ろうとしたのが大奥でした。
薩摩から迎えた将軍正室・篤姫を通じ、将軍を引き込もうという作戦です。
左内は、慶喜の側近から集めたエピソードを小冊子にまとめ、西郷経由で大奥に配っています。
慶喜がいかに文武に優れ、開明的な人物であるかをアピールしたのです。

結果は・・・??
息子の地位を脅かす慶喜擁立に、将軍・家定の実母本寿院が難色を示したことで、工作は遅々として進みません。
左内は、追いつめられていきます。

突破口は、思わぬところから・・・??
継嗣問題と並んで政治的課題となっていた通商条約問題。
1857年10月、老中首座・堀田正睦は、アメリカとの条約締結に向けて交渉を進めていました。
ところが、これに待ったをかけたのが京の朝廷でした。
時の孝明天皇が、自らの代で鎖国の国是を変えることはまかりならんと、頑なに主張したのです。
1858年1月、条約勅許をえるために、堀田は京へ・・・
この機をとらえて、慶永は左内に命令を下します。

京へ向かい、朝廷への工作を行うように・・・!!

左内に託されたのは、堀田を支援して、条約勅許を実現することでした。
幕府の抱える課題を解決すれば、継嗣問題も有利に運ぶことができるのでは??というのが、慶永の考えでした。
2月、公家・三条実万を訪問します。
この時、左内が藩に送った密書によると・・・

「朝廷のお考えは、攘夷か通商許容かをお聞きしたところ、実万公は呆然のご様子で、今しばらく様子を見てから・・・と、おっしゃるのみだった。」

三条は左内にこう訴えた・・・
「もし、御三家や、一門に英傑がいれば、その人を頼むしかない。」
左内にとって絶好の機会でした。
そこで、おいおいと、一橋公のことを申し上げたところ、実万公は、手を打って「その人を得た」と、お喜びであった。
条約問題ははぐらかされたものの、一橋継嗣に期待できることを聞きだします。

一方、幕府の条約勅許の交渉は難航していました。
2月23日に下された勅答は・・・
「御三家以下、諸大名の意見を聞いて、もう一度持ってくるように。」

堀田は止む無く京に留まって交渉を続けます。
左内も、今後の対策を迫られることとなります。

継嗣問題に方向転換??
順調に見えた継嗣問題も・・・
南紀派の巨頭・井伊直弼が、腹心・長野主膳を京に向かわせ、工作を展開し、関白・九条尚忠を慶福支持へと動かすことに成功していました。
そして、左内自身にも葛藤が・・・
朝廷に取り入るのは、南北朝のような混乱をもたらす・・・??

条約勅許工作を継続??
継嗣問題は、幕府内だけで決めればいいのでは・・・??
朝廷が関わると、朝廷の存在が大きくなりすぎる・・・!!
下手をすると、派閥争いで内乱になるかも・・・??

どうする??左内!!

1858年3月下旬・・・京に一通の書簡が届きました。
差出人は松平慶永、宛先人は天皇に次ぐ実力者・鷹司政通の側近でした。
「英明の一橋卿を差し置いて、他の人が将軍になるようであれば、皇国の為にもなりませぬ。
 殿下のご尽力を賜わりますよう。」

左内は、九条関白の政敵・鷹司への工作に・・・継嗣問題に方向転換しました。
効果は絶大!!
左内は、国元にこう送っています。
「将軍継嗣の一件は、年長、英傑、人望の者と定まった」と。
事実上、慶喜を名指しするものでした。

しかし、思わぬ落とし穴が待ち受けていました。
3月24日、朝廷から下された勅答は・・・
「継嗣が決定し、政務を助けられることとなれば、おにぎやかにてよろしい」
南紀派の巻き返しが功を奏し、九条関白が独断で、「年長、英傑、人望」の三条件を消し去ったのです。

そして、条約問題も壁にぶち当たり・・・
堀田の度重なる説得にもかかわらず、朝廷は条約を頑なに拒否!!
アメリカが武力に出るようならば、戦も辞さない!!と・・・条約勅許を得られなかったのです。

左内の日本を一家とする政治改革構想はついえたかに見えました。
しかし、左内はまだあきらめてはいませんでした。
京を引き上げる寸前の1858年3月24日、一人の人物とあっています。
日米和親条約締結に当たった幕府のエリー外交・ト海防掛・岩瀬忠震です。
岩瀬はこう持ち掛けます。

「ご主君・慶永公が宰相となり、将軍継嗣一橋公を補佐する体制を作る。
 事態を打開するにはそれしかない。」

堀田老中、岩瀬をはじめとする幕府の条約推進派は、条約勅許が難しくなった段階で、一気に一橋派に舵を切る・・・慶喜は積極的明国論で、慶喜継嗣に合わせて通商条約問題を一気に解決しようと思っていました・
岩瀬だけではなく、老中首座の堀田正睦も加わった一橋派。
これに対し、南紀派も反撃に出ます。
井伊直弼が大老に就任。
6月に入ると、将軍家定の「継嗣は慶福」との内意を受け、朝廷に使者を派遣。
これに朝廷からの承認が下りればすべては決着する・・・一橋派は、絶体絶命の窮地に陥ります。
予期せぬ好機が到来・・・
1858年6月17日、ハリスがぐぐん間で江戸湾に現れ、通商条約を強行に迫ります。

この時、交渉に当たった岩瀬は、勅許もないのに調印は出来ないという井伊の主張を押し切って調印を強行!!
これこそが、左内たちの最後の望みの逆転の秘策でした。
朝廷に調印を連絡しなければならない・・・しかも、それは違勅。
朝廷、孝明天皇に対し、説明する人がいかなければならない・・・!!
慶永を派遣したらどうか・・・??
その時に、将軍継嗣の話もしてもらって、もう1回内勅降下を図ろうとしたのです。

条約調印前日の6月18日、岩瀬は左内と慶永にハリスとの交渉を逐一奉じ、後は頼むとばかりにこう記します。
「回天の一事、何とぞご精力下さい。」
しかし、6月23日堀田正睦、老中を罷免!!
すべての計画が狂ってしまいます。

おりしも朝廷から祝い状が届き、慶福継嗣が正式に発表されます。
慶永は、井伊に抗議する為に江戸城に押しかけるものの、もはや決定が覆ることはありませんでした。
左内が未来を託した政治改革の夢は、ここに潰えたのです。

敗北の代償はあまりにも大きく、1858年7月5日、松平慶永隠居謹慎処分に。
左内は責任を痛感し、死を決意!!
そんな左内を思いとどまらせたのは、主君・慶永からの命令書でした。

「愕然のあまり性急に死を選ぶようなことがあれば、我を見捨てることと同じである。」

左内は、京に向け政治工作の中止を命じ、自らも一切の政治活動から身を引きます。
しかし・・・時代の激流は押しとどめることは出来ず・・・井伊は強権を発動!!
度重なる政治介入で幕政に混乱をもたらしたとして、公家、攘夷派の志士を処罰!!
世にいう安政の大獄です。
左内も、前年の朝廷工作の咎で捕縛!!
1859年10月7日、橋本左内・・・斬首・・・刑死・・・享年26歳でした。
誰もが予想しない重い処罰・・・そこには、左内の思想と行動力に対する井伊の恐れがありました。

あまりにも早すぎる死・・・しかし、左内の志は、新たな時代へと受け継がれていきます。
1868年、太政官布告「政体」・・・この中に、興味深い一節があります。

「藩士、庶人といえども、二等官に至るを得る」

身分にかかわらず、有能な人物を官僚に登用することで、対外的な危機に立ち向かう・・・左内がかつて記した構想が、10年の時を経て受け継がれていました。
時代を先駆け、時代と真っ向から格闘した橋本左内・・・
その想いは、その後も人々の心の中に生き続けたのです。

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