秋田県と青森県の県境に広がる白神山地・・・
平成5年、1993年に登録された日本初の世界自然遺産のひとつです。
人間の影響をほとんど受けていない世界最大級のブナの森は、神々の住む森として、アニメ映画「もののけ姫」のモデルとなったともいわれています。
美しく澄んだコバルトブルーの青池・・・神が宿っているような厳かで清らかな自然がそこにはあります。
しかし、今から1万年以上前、ここに縄文人が暮らしていたことはあまり知られていません。
白神山地の東の玄関口・青森県中津軽郡西目屋村・・・ここで、20003年~大規模な発掘調査が行われました。

縄文遺跡のある青森県中津軽郡西目屋村・・・およそ1400人の小さな村です。
ここに建設されたのが、県内最大の津軽ダムです。
総貯水容量は、東京ドームの113.6杯分で、1億4090万㎡です。
津軽白神湖と名付けられたそのダム湖の向こうには、白神山地が広がります。
4月から10月まで運行されている水陸両用バスに乗って、ダム湖を周遊すれば、ダム湖の上から雄大な景色を望む事ができます。

その津軽ダムの底に眠るのは、白神山地東麓縄文遺跡群です。
現在確認することができる遺跡は、ダムの水量が少ない時にだけ見える竪穴住居の柱の跡です。
しかし、もともと心美は18もの縄文遺跡が存在していました。
そのうち17の遺跡の本格的な発掘調査が津軽ダムの建設に伴って開始され、12年に及ぶ調査で発掘されたのは、段ボール箱1万5千個分の遺物でした。

そしてすべての発掘調査が終わった翌年、遺跡群はダムの底へと沈んだのです。
出土した遺物の多くは、青森県埋蔵文化財調査センターに保管されています。
その中に保管されている出土品は膨大です、縄文時代草創期から晩期まで、縄文時代各時期の遺物が出土しています。
一説に、縄文時代は1万3千年以上あったとされ、6つの時期(草創期・早期・前期・中期・後期・晩期)に分けられています。
白神山地からは、すべての遺物が出土しているのです。
中でも最も古いものが、草創期の隆起線文土器の破片です。
隆起線文土器は、粘土ひもを張り付けた縞模様が特徴の土器で、1万2000年以上前に作られた器です。

また、もっとも新しい縄文時代晩期は大型遮光器土偶で、3000年前のものです。
こうした調査の結果、草創期から晩期までが発掘された白神山地の東麓には、縄文時代全般にわたって人々が暮らし続けていたことがわかったのです。
このような縄文遺跡は、他に類を見なく、考古学上きわめて貴重な遺跡・・・大発見でした。

白神山地東麓縄文遺跡群の中に、捨て場があります。
調査の結果、クリ・クルミ・トチの実などの殻が大量に出土、ツキノワグマやカモシカの骨も・・・!!
そして不思議な土器まで出土・・・人と獣の顔が一緒についた土器です。
どうしてこのような土器を作ったのでしょうか?
獲物となる動物を作ったもので、縄文人たちは自然の中に食料を求めていました。
命をいただくことを・・・ツキノワグマへの畏敬の念を込めて、土器を作ったのではないか??と思われます。

彼等がそこに住み続けたのは、獣・木の実などの食料、水・・・
白神山地の麓は、自然の恵みに満ちた場所だったのです。
そして周りの集落がなかったので、自然の恵みを独占できたのです。

縄文人たちは、白神山地から流れる岩木川で、アユ・イワナ・カジカ・ウグイ・・・川魚をとって食べていたようです。
これもまた、白神山地の恵みです。
しかし、ニシン、ホシザメなどの海の魚も発見されています。
さらに、赤貝などのの海でとれる二枚貝でつけられた文様の土器も発見されます。
skら神産地の東の麓から日本海までは約30km・・・
道中は険しい山道で、そう簡単には行き来できないような感じですが・・・どのようにして海の魚や貝を手に入れていたのでしょうか?
縄文人は山の中に住んでいても、山に籠っていたわけでもなければ、自給自足だけで生活していたわけでもありません。
海の人と交流をもって生活していたのです。
二枚貝で模様をつけたの土器は、早期のもので、白神山地の縄文人たちは少なくとも7000年以上も前から海辺の人と交流し、様々な産物を物々交換で得ていました。
さらに・・・クボガイ蓋の化石・・・クボガイは、巻貝の一種で、こぶりながら濃厚・・・
白神山地の人々も食べていたようですが、フタが発見されたということは、むき身にした貝を干して運んだのではなくて、生きたまま海辺から運んで食べていたことがわかります。

経済行動ではなく、人間同士の交流が具体的に見えてきます。

遺跡から新潟県産のヒスイや、長野県の黒曜石の壮士食品が出土したことから、縄文人たちの行動範囲がかなり広かったことがわかります。
日常に使う道具も遠方から入手しています。
石斧もその一つです。
白神山地東麓縄文文化遺跡群から出土したものは、完成品ばかり・・・。
製作途中での失敗作が出土していないのです。
完成品がたくさん出る・・・つまり、ここでは作っていないのです。
石斧は、すべて完成品として運ばれてきたものなのです。
白神山地周辺では、石斧を作るのに適した石が採れません。
良質の石の産地は、北海道や下北半島・・・産地で作られて出来上がったものを使う・・・
そんな合理的な生き方をしていたのです。

他の地域の人々と交流し、豊かな生活をしていた縄文人たち・・・
彼等は、社会性とコミュニケーション能力を持ち、文字が残っていないために証拠はありませんが、言葉を持っていたようです。
さらに、数の概念を持っていて、足し算や引き算だけでなく、掛け算や割り算も使いこなしていました。
それを裏付けるのが、秋田県の大湯環状列石から出土した土版です。

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①から⑥までを表す穴があけられていて、計算のための道具では??といわれています。

さらに、青森にある三内丸山遺跡では、縄文人が数を使いこなしていた痕跡があります。
大型掘立柱建物は、柱の間隔が全て4.2mになっています。
縄文時代に長さの尺度があったことを示す証拠です。
その長さの基準は、35cm・・・縄文人たちは、35cmを一つの尺度と考えていました。
他にも35cmの倍数を使った建物が見つかっていて、35cmは縄文尺と呼ばれています。
35cmの意味は・・・??縄文人たちの肘から手首までが35cmだったとも考えられています。

縄文の名付け親は日本人ではありません。
1877年に大森貝塚を発見したアメリカの動物学者エドワード・S・モースです。
モースは、縄目文様の土器を”Cord Marked Pottery”=縄の跡がついた焼き物と呼び、それが日本語で縄文土器と訳されたことが始まりでした。

縄目文様をつけた理由は滑り止めともいわれていますが・・・
縄目文様のないものも多く、ハッキリとはわかっていません。
しかし、土器がつくられるようになったことで、煮炊きができるようになり、彼らの食事が格段に豊かになりました。
その他にも、土器は儀式の道具として用いられたり、子供の棺として使われたりと、用途は多様で、縄文人たちの生活は、土器と共にありました。
縄文時代全般にわたって生活していた白神山地でも、様々な土器が発見されています。
掌におさまるような小さな土器・・・前期~中期に作られたミニチュア土器は、祭壇のお供え用?子供用に作ったおもちゃではないか?と考えられています。
後期から晩期に作られた注口土器は、注ぎ口が男性器を模したものになっています。
しかも、同じようなものがいくつも発見されています。
どうして・・・??
土器は女性が作るもので、遊び心からできたものだと思われます。
その遊び心が・・・人面付き土器・・・その表情は仏様のように穏やかです。
そして性器つけたことで、土器を人間的に扱っているのです。
土器を擬人化して楽しんでいた女性たち・・・
しかし、この世紀をつけるのは特定期しかなく、流行り廃りがあったようです。
当時の女性も流行には敏感だったのです。

暮らしに大切な土器は、壊れることも日常茶飯事・・・
縄文人たちは、修理をしながら大切に使っていました。
そして、その修理には、接着剤を使っていました。
アスファルトを使って修復した土器も出土しています。
天然アスファルトは、石油の成分などが地熱によって蒸発し、その残留物が化学変化を起こしてできた物質で、粘着性が強く、冷えると石のように固まるため、縄文人たちは接着剤として日常的に使っていました。
このアスファルトは、日本海側でしか採れません。・・・山形県、秋田県、青森県、北海道かた採ってきて、土器、土偶、を修復していました。
あとは、石鏃をアスファルトを使って柄にくっつけていました。
天然アスファルトと共に、縄文人たちが重宝していたのが漆です。
様々な木の漆器はもちろん、前面に漆を塗った土器も出土しています。
縄文人たちは、漆に防水、防菌の効果があることを知っていたのだと思われます。
また、遺跡からは朱色の漆が塗られた櫛も発見されています。
もともとは鮮やかな色合いで・・・当時、櫛は髪飾りとして使われていました。
作るのは、漆はかぶれるので、漆を採る集団、漆器を作る集団が存在していました。
縄文人たちは、特技を生かした分担・・・今でいう職業があったのです。
そしてひも状の針葉樹の木の皮を縦横交互に編んだポシェットのような籠、5500年前のものが発見されています。
発見された当時、そこにはクルミの殻が一つ入っていました。
縄文人たちは、様々な道具を編み出して、生活を豊かにしていたのです。

縄文時代の遺物といえば・・・土偶です。
姿や大きさはさまざまですが、女性の姿をかたどっていて、妊婦が多いのが特徴です。
縄文人たちの祈りの道具といわれ、祈りの造形といわれていますが、明確な根拠があるわけではなく、その制作目的は今もって謎です。
造形美に優れたものも多く、国宝に指定されているものもあります。
白神山地からも多くの土偶が出土し、その数は500点以上です。

土偶の中には犬もあります。
多くの縄文人たちは犬と暮らし、私たちと同じように心を通わせていました。
しかし、ペットではなく狩りを一緒にする生活のパートナーでした。
縄文犬は、体高約40cmで、脚が太く短く、身体がしっかりしていて、現在の柴犬や狐のような感じでした。
そんな縄文犬・・・青森県七戸町三ツ森貝塚から発見された縄文犬は、骨がすべてそろっています。
人の手によって手厚く埋葬されていました。
骨折の跡もあるのですが、治っているので手当をしてもらっていたと考えられます。
このような縄文犬の骨は、全国各地から発見されていて、中には人の骨と一緒に埋葬されていたものもありました。
縄文人にとって犬は大切な家族であり、良きパートナーだったのです。

温帯性の落葉広葉樹・・・ブナがここに生え始めたのは、氷河期が終わり日本が温暖になってきた約8000年前・・・
それからまた悠久の時を経て、広大な森となったのです。
白神山地の麓に縄文人たちが暮らし始めたのは1万2000年前・・・。
縄文人たちは、ブナの木が生える4000年前から白神山地の麓で暮らしていたのです。
ブナの森の誕生を目撃し、その成長と共に生きてきた縄文人たち・・・。

彼等はブナの森の形成にどのように携わってきたのでしょうか?
狩猟、採集などの自然に身をゆだねるしかなかったと考えられていた縄文人たちですが、自然をコントロールするすべを持っていたのでは・・・??といわれています。

青森市にある三内丸山遺跡・・・多い時には200人ほどが暮らしていたとされる縄文時代中期の集落跡ですが、この周りにはクリの林があったとされています。
そして遺跡から出土したクリの実を遺伝子分析したところ、その遺伝子構造がほとんど同じでした。
大粒で糖度の高いものばかりでした。
三内丸山遺跡の周りのクリの林は、縄文人たちによって人工的に作られた林であったと思われます。
彼等は、甘くて大きいクリの実のなる木を集落の周りで栽培し、食料用として確保していたのです。

彼等はどうすれば自然のものをうまく使えるか、常に考えていました。
大豆や小豆の原種も栽培しようとしていました。
自然を利用する技術が高かったのです。

ブナの森に対しては・・・??
多くの命を育むのに最適の場所で、多様な哺乳類と鳥類が生息しています。
さらには2000種を超える昆虫類が今も生息しています。
もちろん、木の実や山の幸も豊富で、東北地方の日本海側は、有史以来、干ばつや冷害による飢饉に何度も襲われてきましたが、白神山地周辺では餓死者がほとんど出なかったといわれています。

そこに暮らす者にとって、ブナの森はまさに命の森・・・
この生育に縄文人たちが一役買っていたということはないのでしょうか??
人間がブナの森を作ることはありません。
縄文人たちは自然を支配しようとしているのではなく、あくまでも感謝する・・・
自然に生まれたブナの森を、縄文人たちは侵すことなく見守り続けたのです。

自然への感謝を忘れずに共に生きる・・・それが白神山地に暮らして来た縄文人たちからのメッセージだったのです。
大自然の中に身を置き、敬意を払いながら共存し、遠くの人々と交易しながらないものを補い合い、情報を交換して生き抜いてきた縄文人たち・・・
残された遺跡や遺物を見ると、縄文人たちの生活は豊かで力強く、想像力に富んだものでした。

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