日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:真田昌幸

「偉大なる父親を持つ2代目は辛い」

よく言われることですが、それは徳が分けでも同じです。
江戸時代2代将軍・徳川秀忠・・・
父・家康のようなカリスマ性を持たず、目だった武功をあげることもできなかったため、ダメな2代目という烙印を押されてきました。

「秀忠はあまりに律儀すぎる
 人は律儀のみではならぬものだ」by家康

側近はこれを秀忠に伝え、殿もたまにはほらを吹かれた方がいいのでは・・・と、進言しました。
すると・・・

「父上だからホラを吹いても許されるのだ
 何事も成し遂げていない私がホラを吹いてどうする」by秀忠



1579年4月7日、徳川秀忠は、当時三河と遠江を支配していた家康の三男として浜松城で生まれました。
家康が38歳の時の子で、幼名は長松。
母は側室のお愛の方。
美人で聡明だったため、家康から深く寵愛されたといいます。
三男の秀忠が家康の後継者となったのは・・・??

もともと、家康の跡継ぎと目されていたのは正室・築山殿との間に生まれた長男の信康でした。
剛直で武勇に優れて、跡継ぎとして申し分なかったのですが・・・秀忠が生まれた年に、家康から切腹に処せられ、21歳の若さで死去。
家康が切腹を命じた理由については・・・当主の座を奪おうとしていた信康を、家康が先手を打って亡き者にしたと考えられています。
長男の信康が亡くなりましたが、秀忠の上にはまだ6歳上の次男・秀康がいました。
しかし、秀康は、家康が築山殿の次女に手を付けて産ませた子だったため、築山殿の目を気にする家康から愛情を注いでもらえず、3歳になるまで対面すら叶わなかったといいます。
そして、17歳の時、北関東の大名・結城氏に養子に出され・・・結城秀康です。

秀忠の幼少期は不明です。
しかし、戦国時代から江戸時代中期の人物列伝「名将言行録」によれば、ある日、秀忠が家臣による書物の朗読に耳を傾けていた時のこと・・・突然、巨大な牛が障子を突き破って部屋に飛び込んできました。
過信は慌てふためき悲鳴が上がりましたが、秀忠は顔色一つ変えず

「かまわぬ、読み続けよ」

家康に与する武将たちはこの話を聞いて、

「度量の大きさは家康公に勝るとも劣らない」

と、秀忠を褒め称えたといいます。


また、秀忠に大きな影響を与えたと言われているのが、乳母を務めた大姥局・・・
大姥局は、今川義元の人質になっていた頃の家康の世話役でした。
その人柄を高く評価していた家康が、秀忠の乳母にしようと浜松城に招いたといいます。
秀忠の乳母となったとき、大姥局はすでに50代半ばでした。
その役目は、乳を与えることではなくて教育係だったと言えます。
大変聡明で、慈悲深かったため、高く慕われました。
秀忠は、決して驕ることなく謙虚さを身につけていきます。

秀忠・・姉さん女房を娶る
1595年9月、17歳になった秀忠は、豊臣秀吉の肝いりで結婚。
妻となったのは、織田信長の姪で秀吉の寵愛を受けていた淀の方の妹・江です。
秀忠より6歳年上で、3度目の結婚、出産経験がありました。
酸いも甘いもかみ分けた姉さん女房のお江。
お江と結婚したことで、秀忠は秀吉と相婿・・・姉妹の夫同志となりました。
豊臣家と密接な関係となりました。
この結婚の2年前に、淀の方が秀吉の嫡男の秀頼を生んでいたため、秀吉は、秀忠を秀頼の補佐役にしようと考えていました。
徳川家と豊臣家を結びつけるキーマンとして大きな期待を寄せられていた秀忠・・・
しかし、この3年後、天下人・秀吉が62歳でこの世を去ると、状況は一変します。
父・家康が、天下取りへ・・・!!



秀忠・・・大失態をさらす
1600年9月、徳川家康の三男・秀忠は、わき目もふらず中山道を西へと急いでいました。
どうして・・・??
話しは2か月前に遡ります。
天下取りを目論む父・家康と、豊臣の世を守ろうとする石田三成の対立が激化、京都にある徳川方の伏見城を三成に与する反家康陣営(西軍)が襲撃。
三成蜂起の報せを遠征先の下野国で聞いた家康は、これに対抗するため自らは江戸を経由して東海道で、息子の秀忠には中山道で西へ向かうように命じます。
22歳の秀忠にとって、これが実質的な初陣でした。
その為、家康は精鋭が揃った3万8000の徳川本体を秀忠に預けました。
家康はこの戦いで、後継者である秀忠の存在を、広く世に示そうとしました。
秀忠が必ず活躍できるように万全の態勢を整えていました。

跡継ぎとしての重責を背負った秀忠は、父の期待に応えるべく、8月24日に宇都宮城を出立。
一方、家康は東軍の先鋒を出陣させたのち、江戸城で体制を整え、9月1日に出立。
東海道を進み、9月11日に清州城に入城します。
この時、石田三成が西軍の主力は美濃国の大垣城に入っていたため、東軍の先鋒たちは、家康の到着を待って大垣城に総攻撃をかけようとしていたのです。

家康は、「風邪を引いた」と嘘をついて、出陣しませんでした。

先に出立したはずの秀忠がまだ到着していなかったのです。
この時、秀忠は、清州城の春か手前、信濃の上田城付近にいました。
上田城主の真田昌幸が、次男の信繁(幸村)が共に西軍についたため、まずは上田城を落として西上しようと考えていました。
あくまでも家康の姪を受けて上田城を攻めていました。
3万8000の大軍を擁すれば、3000ほどの兵しかいない真田軍など簡単に攻略できると考えたのです。
しかし、ことは家康の思惑通りにはいきませんでした。
9月1日に中山道を外れて上田城に向かった秀忠は、その2日後、真田昌幸のもとに降伏を求める使者を派遣・・・
すると昌幸は「剃髪して降伏する」と泣きついてきたため、秀忠は昌幸たちの助命を約束します。
ところが・・・そのわずか2日後、

「あれは嘘じゃ、実は戦の仕度を整えておった
 兵糧の運び入れが済んだので、いつでも戦いに応じよう」by昌幸

まんまと騙された秀忠は、激怒して上田城を攻撃!!
当初は兵力で大きく勝る秀忠軍は優勢でした。
敵を引き付けてから一斉攻撃を仕掛ける真田軍の戦略によって形勢は逆転。
秀忠は次々と兵を討ち取られ、上田城を落とすことができませんでした。
この時が秀忠の初陣でした。
真田親子の方が一枚も二枚も上手でした。
しかし、それだけではなく、多くの精鋭が付き従っていた秀忠軍・・・
秀忠に統率力がなかったためか、一枚岩になれなかったのです。
それが、苦戦した原因でした。
そんな中、西軍との決戦が迫っているという知らせが届きます。
こうして9月11日、秀忠は中山道に戻り、西上を再開したのですが・・・真田軍の追撃を警戒しての進軍は、速度が出せず、しかも、途中の河川が増水し、渡るのに時間がかかってしまいます。
焦った秀忠は、「我だけでも先に進まねば・・・」と、わずかな兵のみで先を急ぎます。
しかし、秀忠がまだ信濃国をひた走っていた9月15日午前8時ごろ、美濃国の関ケ原において、東西両軍が激突!!
しかも、戦いは、先陣を切った家康の四男・松平忠吉の抜群の働きや、西軍・小早川秀秋の突然の寝返りなどによって、わずか半日足らずで東軍の勝利に終わってしまいました。
その為、秀忠は、天下分け目の大事な戦いに間に合わなかったのです。

勝利した家康は、近江国の大津状に入ったのですが、そこに秀忠がやってきたのは、戦いが終わって5日後の9月20日。
秀忠は家康に面会し、遅れた理由を説明して許しを乞おうとします。
しかし、秀忠への怒りが収まらない家康は、「気分が悪い」といって、面会を許しませんでした。

秀忠が家康に激怒されたのは、戦いに遅参しただけではありません。
先を急ぐあまり、軍勢を置き去りにしたこと・・・これも原因でした。
結果として東軍が買ったからよかったのですが、もし負けていれば、少数の兵しか連れてこなかった秀忠も討ち取られてしまうかもしれません。
秀忠は、そこまで考えて動く古語が出来なかったために「大将としての資質に欠ける」と激怒されたのです。

この後、家臣の弁明などによってなんとか許された秀忠・・・
家康は、「秀忠が跡継ぎでいいのか」と悩みます。
5人の重臣たちに、「どの子に家督を譲るべきか」と、相談したと言われています。
その結果・・・
無回答・・・・・1名
次男・秀康・・・1名
四男・忠吉・・・2名
三男・秀忠・・・秀忠付きの家老・大久保忠隣

だったのです。

どうして秀忠が跡継ぎとなったのでしょうか??
この時、秀忠を推した大久保忠隣が家康に進言した言葉が、秀忠を口径の座に留まらせました。

「天下を治めるためには武勇よりも文徳が大事
 後継者は知勇と文徳を兼ね備えた謙虚な人柄の秀忠様しかいない」by大久保忠隣

家康も納得し、秀忠を後継者としました。



秀忠・・・2代将軍になる
1603年2月、徳川家康は、征夷大将軍となり江戸に幕府を開きます。
そして、そのわずか2年後、27歳の秀忠が家康の後を継いで将軍となりました。
このあまりにも早い将軍職の交代は、豊臣の世が終わり徳川家が政権を担っていくのだと天下に知らしめるためでした。
家康は大御所と呼ばれるようになります。
2年後には江戸城も秀忠に譲り、駿府城に移りました。
関ケ原の戦いに遅れたという大失態はあったものの、なんとか無事に家康の後を継ぐことができた秀忠・・・その後も幕府の実権を握っていたのは家康でした。

秀忠・・・家康の傀儡になる
1605年、徳川秀忠が2代将軍に就任。
先代の家康は、江戸を離れ駿府城に移ります。
ただ・・・隠居をしたわけではなく、駿府においても政を行い続けました。
この頃の江戸幕府には、将軍・秀忠のいる江戸と、大御所・家康のいる駿府という2つの政庁があったのです。

二頭政治、二元政治ともいわれますが、実際は、圧倒的に家康が上でした。
江戸幕府の実権は、駿府の家康が完全に掌握していました。

その政権運営は・・・?
秀忠のいる江戸城には、秀忠付きの家老・大久保忠隣の他、家康の腹心・本多正信など家康譜代の重臣たちを置きました。
家康の駿府城には、新参の官僚と僧侶・儒学者・豪商・外国人などで構成された政策集団を置きます。
そして、そこで家康たちが発案、検討した大名統制政策や、外交方針を、江戸城にいる秀忠と重臣たちに伝え、実行させたのです。

「今はただ父上の仰せのままに」by秀忠

秀忠は家康の性格やふるまいを研究していました。
秀忠は、家康になりきることで家臣たちの信頼を得ようとしました。

秀忠・・・汚名返上を狙う
関ケ原の戦いに間に合わなかったことが負い目となっていた秀忠でしたが、30代半ばでようやく汚名返上の好機が・・・
徳川家と豊臣家の最後の戦い・・・大坂の陣です。
莫大な資金力を有し、秀吉恩顧の大名たちもいまだ健在の豊臣家を危険視していた家康は、1614年10月11日秀吉の嫡男・秀頼のいる大坂城を攻めるため、20万の大軍を率いて駿府城を出立。
23日には二条城に入りました。
一方、秀忠は、江戸城を留守にする準備に手間取ってしまい、家康が二条城に入ったその日に、ようやく6万の兵と共に出陣、その際、家康の側近へ書状を送っています。

「私が到着するまでは、開戦を待ってほしいと父上に伝えてくれ」

関ケ原の二の舞だけは避けたかったのです。
その後も秀忠は、同様の書状を何度も送りつつ先を急ぎます。
秀忠は、馬廻役や歩兵に240人ほどの剣客自慢を選抜、

「遅れずについてきた者には褒美を与える」

といって先を急がせました。
最後まで遅れずについてきた者は30名ほどでした。

二条城でこれを知った家康は、

「人馬が疲弊すると、統率が取れなくなる
 無茶はするな」

と、秀忠の申し伝えましたが、従順な秀忠もこの時ばかりは父の言葉を黙殺。
わずか17日間で6万の兵を京都まで進めました。
そして、11月19日、大坂冬の陣開戦!!
20万ともいわれる徳川軍に対し、9万の兵しか持たない豊臣軍は、大量の鉄砲で応戦します。
家康はこれを予測し、大量の鉄盾を作らせていましたが・・・
秀忠は、「鉄の盾など必要ない」と、受け取りませんでした。
この大坂の陣が汚名返上のラストチャンス・・・!!
家康の庇護下にいると思われたくなかったため、鉄盾を受け取らなかったのです。

一進一退となった冬の陣・・・両者の和睦によって集結します。
しかし、翌年5月、大坂夏の陣!!
汚名返上を果たしたい秀忠は、激戦地を希望!!
家康が首を縦に振ることはありませんでした。
その理由は・・・??
跡継ぎの秀忠を危険にさらしたくはなかった
豊臣家との決着を自分の手で付けたかった
などといわれています。

激闘の末、徳川軍の勝利に終わり、豊臣家は滅亡。
結局、秀忠はこの戦いでも目だった武功をあげることができなかったのです。
それから間もなくして秀忠の側近にこう伝えます。

「これからは何事も秀忠が決めよ
 わしに伺い立てする必要はない
 江戸で決めたことを駿府に伝えてくれればよい」

家康の引退宣言でした。



秀忠・・・豹変する
大坂夏の陣の翌年・・・1616年3月。
75歳の徳川家康は病の床にいました。
そして、2代将軍の秀忠を、枕元に呼びこう問いかけます。

「わしが死んだら天下はどうなると思うか」by家康

「乱れると思います」by秀忠

この答えを聞いた家康は、満足げに一言

「ざっと済みたり」・・・おそらく「そう思っていればよろしい」という意味ではないかと思われます。
再び天下が乱れることを覚悟していれば、本当に転嫁が乱れた際に慌てずに対処できるそういうふうに家康は考えていました。
翌月・・・4月17日、徳川家康は波乱の人生に幕を下ろしました。
そして、秀忠が名実ともに幕府の頂点に立ったのですが・・・家康の陰に隠れていた頃のダメな2代目から豹変・・・苛烈な大名統制をはじめました。
まず秀忠は、実弟の松平忠輝を改易・流罪に処します。
忠輝は、大坂夏の陣に遅参して、十分な働きが出来ずに怒った家康から謹慎を申し渡されていましたが、秀忠はそれでは生ぬるいとして忠輝の所領を取り潰し、伊勢国に流したのです。
不届き者は、身内でも許さないという見せしめでした。
さらに、関ケ原の戦いで東軍勝利に大きく貢献した福島正則に対し、居城を無断で修築しただけで安芸・備後50万石を没収、正則には弁明の機会すら与えませんでした。
その後も秀忠の大名統制は続き、親藩や譜代の大名でもお構いなし、取り潰した大名家41家、没収した石高は439万石にのぼりました。

秀忠は、自分に家康のような才覚やカリスマ性が無いことをよくわかっていました。
そのため、父のようには諸大名と統制できないと考え、力で抑え込む方法を選んだのです。
秀忠には、家康にできないことができました。
家康は、いろんな人物に恩もあり大名統制に躊躇があったのです。
しかし、秀忠にはしがらみが一切なく、幕府のためと割り切って大鉈を振るうことができました。
秀忠の大名統制によって、将軍の権威は高まりゆるぎない幕府の基礎を作り上げました。



秀忠・・・幕府の安定を図る
苛烈な大名統制によって将軍の権威を高め、江戸幕府の基盤を堅固なものにした秀忠。
さらに秀忠は、将軍と一握りの側近によって行われていたそれまでの政治体制を改め、集団合議制を採用します。
これによって、将軍の才覚に左右されない安定した政治ができるようになり、幕府の寿命を大きく引き伸ばしました。
カリスマ性のない時分では、父のようなトップダウンは無理と考えたうえでの改革でしたが、それが功を奏したのです。
また、秀忠は中国船以外の外国船の入港地を平戸と長崎に限定します。
キリスト教の排除に力を注ぎましたが、これがのちの鎖国政策の基礎となりました。
秀忠は、戦国の世を生き抜いた名将、猛将をつねに近くにおいて、彼らの言葉に謙虚に耳を傾け、政について貪欲に学びました。
その性格は、実直で非常にまじめでした。
生誕の日に労われても・・・

「将軍たるものは、常に己を慎み、死ぬ瞬間まで政を行い続ける義務があるのだ」

その思いは、病になっても少しも変わらず・・・

「天下の主が長生きを望んで政をなおざりにするなど畜生にも劣る行為だ」

そう言って、通常通り政務を行いました。

1622年、徳川家光が3代将軍に就任。
秀忠は45歳で大御所となりましたが、家臣たちの希望もあってそのまま政を続けました。
しかし、50歳を過ぎた頃から胸に激しい痛みを感じるようになり、元々悪かった片目を失明。
それでも秀忠は、毎日身なりを整え政務を行っていましたが・・・
病状は悪化の一途をたどり、ついには薬も受け付けなくなってしまいます。
死期を悟った秀忠は、家臣たちに

「わが命は幾ばくも無いが、今一度東照宮を詣でてここまで天下の安寧を保っていたことを父上に伝えたい」

秀忠は、父・家康に認めてもらいたいと、ずっと思っていました。
幕政に参加していた天海僧正が、見舞いにやってきて秀忠に問いました。

「大御所様(秀忠)は家康公のように神号をお受けにならぬのですか」

「我はただ先代の業績を守ってきただけで何の功徳もなく、神号などとんでもない
 人はとかく上ばかりに目が行くが、己の分際を知らぬのが一番おそろしいこと」by秀忠

そう言って、神となることを辞退し、1632年1月24日、54歳でこの世を去りました。
何事につけ、父・家康を尊重し、傀儡将軍となることを受け入れ、家康の死後は幕府の基礎をしっかりと築いた徳川秀忠・・・
この2代将軍の実直さ、謙虚さ、賢さがあったからこそ江戸幕府は260年以上続いたと言って過言ではありません。

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「日本一の兵(つわもの)」・・・と敵からも称賛された戦国武将・・・
天下人、徳川家康の首まであと一歩と迫った男、真田信繁・・・真田幸村です。
信繁が名を上げたのは、大坂冬の陣!!
最大の激戦地で、彼の作った出城があの”真田丸”でした。

長野県上田市にある眞田神社・・・
真田家代々の武将が祀られています。
ここは、戦国時代、真田家が守り抜いた場所です。
真田は、億差上手で知られる徳川軍の攻撃を二度も退けています。
一体どうやったのか??

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1571年、真田信繁は真田家の次男として生まれます。
父は真田昌幸・・・兄は信之です。
当時、真田家は、武田信玄の配下で、わずかな領地を治めていました。
ところが・・・
1582年、武田家が滅亡。
すると、周辺国の北条、上杉、徳川が、旧武田の領地に勢力を拡大。
昌幸は家を守るためにその時々の有力な大名に忠誠を誓うことで生き残りを図ります。
その為次男の信繁は、上杉景勝をはじめとする有力武将に何回も人質として送り出されました。

信繁の初陣について、後世の軍記物にこう書かれています。

当時真田家が仕えていたのは徳川家康でした。
その徳川は、敵対する北条と和睦、すると、家康は昌幸にこう言いました。

「沼田を北条へ渡せ」by家康

「沼田は、家康より与えられた領地ではない
 アクマで真田が自力で獲得したものだ
 到底、承知できるものではない」by昌幸

家康は、命に背いた真田を討つべく、上田城に攻めてきました。(1585年第1次上田合戦)
立てこもる眞田の兵は2000!!
徳川の兵は7000!

はじめは家康が優勢でした。
徳川の兵は、手柄を立てようと城内になだれ込みます。
それが真田の狙いとも知らずに・・・!!
狭い通りに入ると、隠れていた真田兵が一斉射撃!!
慌てて撤退しようとする徳川軍に対し、別の城に潜んでいた兄・信之が挟み撃ちにしました。
真田は3倍の兵をもろともせずに、徳川軍に勝利し、家康を蹴散らします。

1587年真田家は新しく有力武将を探し、その配下となりました。
豊臣秀吉です。
信繁は、またしても人質となり、秀吉のもとに送られます。
しかし・・・これが幸運をもたらします。
秀吉に気に入られた信繁は、馬廻りに抜擢されます。
24歳の時には、宮中の官位を授かり、大名に取り立てられます。
さらに、豊臣の姓を名乗ることを許されました。
そして、秀吉の重臣・大谷吉継の娘と結婚。
豊臣家の家臣としての地位をゆるぎないものとしました。

真田信繁 「勝利」への条件???“知略”と“胆力”で戦国に挑む「真田一族」が考えたこと

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ところが・・・1598年、秀吉が死去。
やがて、秀吉の部下・石田三成と天下を狙う徳川家康が対立。
関ケ原の戦いへと発展します。
石田三成の西軍につくか、それとも徳川家康の東軍につくか・・・判断を間違えれば一族滅亡の危機でした。

1600年7月、栃木県佐野市にある犬伏で、真田家の3人が話し合いをしました。

「我は石田方につこうと思う」by昌幸

信繁もこれに同意・・・
しかし、兄・信之はこれに反対します。
信之は、家康の重臣・本多忠勝の娘と結婚していました。

「今更、逆心を企てるのも不義というものではないでしょうか」by信之

互いに譲らず、激論の末・・・

「親子離れ離れとなる
 それが家のために良いことであろう」by昌幸

真田親子は、西軍と東軍に分かれる道を選びました。
後に、犬伏の分かれと言われた話し合いです。
一方、徳川の軍は岐阜に兵を進めようとしていました。
信濃には上田城がある・・・
無視すれば、後ろから西軍と挟み撃ちにされる恐れがありました。
家康は軍を分け、秀忠に東山道を西へ向かわせます。
真田を討ち、その後合流して西軍との決戦に参加する予定でした。
その数3万8000!!
対する昌幸と信繁の兵はわずか5000!!

1600年第2次上田合戦・・・
数で劣勢の真田軍は、城に敵を引き入れると、集中砲火!!
退却する秀忠軍に、信繁が追い打ちをかけると敵は総崩れ・・・
またも、真田は徳川を退けたのです。

予想外の足止めを受け、秀忠軍は関ケ原の戦いに間に合わなかったと言われています。
勝利に意気上がる信繁のもとに、思わぬ知らせが・・・
関ケ原の戦いで、石田三成率いる西軍が敗北!!
わずか1日のことでした。
昌幸、信繁親子は、西軍として奮闘しましたが、最後は孤立無援となって降伏します。

真田に二度も苦杯を飲まされた家康は、死罪を命じます。
しかし、徳川方についた兄・信之の必死の嘆願で、なんとか命だけは取られずに済みました。
真田親子は流罪と決まりました。
この時、信繁30歳でした。

1603年、関ケ原の戦いで勝利した家康は、江戸幕府を開きます。
それから11年・・・戦国時代最大の戦い・・・大坂の陣が始まります。
この時信繁は、大坂城の南に出城を築きます。
真田丸です。

1600年、30歳・・・
和歌山県九度山町・・・関ケ原の後、信繁と父・昌幸は、ここに幽閉されていました。
高野山の人里離れた寺・・・ここで信繁は、7人の子供を授かります。
さらに、16人の家臣を養わなけれBならず、生活は苦しかったのです。
救いの手を差し伸べたのが、兄・信之でした。

故郷・上田で、十万石ほどの大名となった信之は、昌幸と信繁に仕送りを続けていました。
領地が与えられているわけではなかったので、お金については本当に苦労していたようです。
高野山周辺には行くことができました。
畑を耕したり、村人といろんな活動をしたり・・・それなりの自由はあったようです。
そんな中、信繁の楽しみは・・・酒でした。

生きてはいても、先が見えない幽閉生活・・・

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1611年・・・九度山に来てから11年目・・・信繁は41歳になっていました。
父・昌幸が64歳でこの世を去ります。
故郷・上田に帰ることは、叶わぬままでした。

41歳の信繁は、故郷・上田の親族に向けて・・・

”私も去年から、急に年もとり、ことのほか病気がちになりました
 歯も抜け、髭なども黒いところはあまりありません”

1614年・・・幽閉生活14年・・・秀吉の息子・秀頼の使者が来ました。
背景には、豊臣と徳川の深刻な対立がありました。
江戸幕府の開設後も、大坂城にいる秀頼が、大きな影響力を持っていたからです。
発火点は、寺の鐘でした。
方広寺・・・寺の鐘に”国家安康”とあります。
家康を、安の字で分断すると、徳川が糾弾する騒動となったのです。
これをきっかけに、開戦の機運が高まっていきます。
秀頼のもとには、職を失った武士、牢人が続々と集まっていました。
信繁は、秀頼の要請に応えようと、長男と共に九度山を脱出!!
大坂城に向かいました。
日頃から信繁と親しくしていた地元の人々は、誰一人、徳川に密告しませんでした。

信繁が大坂城についた頃、集まった牢人は10万に膨れ上がっていました。
城で開かれた軍議には、豊臣家の重臣・大野治長をはじめ豊臣恩顧の大名・長曾我部守親、毛利勝永、そして信繁は参加しました。
信繁は、城の外に打って出るべきだと主張します。
しかし、賛同する者は現れませんでした。
大野治長たちが選んだのは、籠城策です。
秀吉の築いた大坂城の守りの固さは、絶大だったのです。
意見が受け入れられなかった信繁・・・しかし、切り替えて、籠城策の中では最善と思う手を打ちます。
大坂城の南側・・・後に、真田丸と呼ばれる出城です。
真田丸は、大坂城から独立した出城と考えられています。
ここで、徳川の大軍を迎え撃つ・・・いよいよ、大坂の陣が始まろうとしていました。
この時・・・信繁44歳!!

1614年11月、大坂冬の陣が始まりました。
豊臣10万に対し、徳川は20万!!倍の兵力差です。
しかし、信繁は、真田丸で徳川の大軍をことごとく迎え討ち、一躍有名を馳せます。
予想外の苦戦を強いられた家康は、和睦を選ばざるを得ませんでした。
実戦経験が豊富なわけでもない・・・なのに、どうして家康を苦しめることができたのでしょうか?

全国の大名を動員した20万の徳川勢に、大坂城は完全に包囲されました。
最前線の真田丸には、信繁率いる6000の兵が立てこもります。
彼等の姿は、敵からもひときわ目を引きました。
寄せ集めの牢人たちを集め、士気を高めるために信繁が用意したのは赤備え・・・!!
徳川勢にとっては、格好の標的でした。
真田丸に向けて兵を進めます。

「攻め潰してやろうと襲い掛かってくる敵に、そう簡単にはやられはしない」

家康の命令により、徳川の兵は真田丸に不要に近づかずにいました。
信繁は部下に命じて、敵をあざけり挑発させました。
これに我慢できず、一部の兵が突撃を開始!!
すると・・・他の部隊も遅れまいと、雪崩をうって真田丸に押し寄せます。
徳川勢は、大きな空堀にどんどん落ちていきます。
そこで・・・当時のイエズス会の文献には

”あらしのように銃撃したため、大虐殺が繰り広げられた”

と記されています。

家康は、不甲斐ない味方の姿を見て、こうこぼしたといいます。

「戦い慣れない者が多すぎる
 足手まといになっただけだ」

関ケ原などの大きな戦いが終わった後は、合戦がない時代が続きました。
なので、実戦経験の乏しい人が増えてきていました。
大名も代替わりした家が多く、部隊を統制しきれず、前線の武士たちが動くことを止められませんでした。

豊臣勢が夜襲に備えて堀に提灯をつるしていましたが・・・
徳川軍は、弾除けとして竹を束ねた盾を作り、塹壕を掘り進めていました。
しかし、真田丸に向かう兵は、塹壕を掘っていません・・・孤立した出城に過ぎないと、真田丸を見くびっていたのです。
激戦となったのは、たったの1日でした。
それでも文献にはこう記されています。

”徳川方の死者、その数を知らず”

一説では、大坂冬の陣で討死した徳川勢の8割は、真田丸のこの一戦の犠牲者だといわれています。

徳川勢は、真田丸を攻略できず、戦いは膠着状態に・・・
正面突破が難しいと見た家康は、裏から手をまわ層としました。
信繁の叔父を密かに派遣し、味方になれば10万石を与えるという条件を示します。
しかし、信繁は・・・

「高野山で、困窮していたところを秀頼様に召し出され、一つの曲輪を預けられたことは幸運であり、その恩があるので徳川につけと言われても困る」

すると家康は、条件をさらに上げ、味方になった暁には信濃一国を与える・・・と伝えます。
しかし、これに信繁は激怒!!
家康は諦めるしかありませんでした。
信繁の奮戦で、戦いは1か月以上!!
その為、徳川勢の20万は野営を強いられます。
士気が低下し、寝返るものを恐れた家康は、水面下で和睦交渉を進めます。
それと並行して、大坂城に昼夜を問わず大砲で揺さぶりをかけます。
すると、その中の1発が、淀殿が居住する御殿を直撃!!
侍女が死亡するという事態となりました。
動揺した秀頼や淀殿は、家康との和睦に応じることにしました。
信繁は、戦いを続けるべきだと主張したと言われています。
ある資料には・・・信繁は、これで徳川方が油断するとふみ、家康の襲撃を企てたといいます。
しかし、家康は、豊臣の牢人たちが和睦に不満を募らせていると警戒していました。
その為、信繁は奇襲を断念したといわれています。

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12月19日、大坂冬の陣集結。
豊臣と徳川に和睦が成立!!
大坂冬の陣は終わりました。
家康は、秀頼の身の安全と、領地の安堵を保障する見返りとして、大坂城の堀を埋め立てるという条件を出します。
その結果、真田丸も取り壊されました。
戦いが終わって1か月後、信繁は故郷・上田の姉にあてて手紙を送っています。

”まずまず無事に済み、私も死なずに済みました
 明日になればどうなるか、わからぬ状況ですが・・・”

この時、信繁45歳でした。

大坂冬の陣が終わり、つかの間の平和が訪れました。
講和によって、堀はすべて埋められました。
しかし、集まった牢人たちは居座り続けていました。

「諸大名は、家康を恐れて我らを召し抱えてくれない
 再び戦をして報奨金をもらうしかない!!」

それが彼らの言い分でした。
大坂城の重臣たちは、和平派と再戦派の真っ二つに分かれ、秀頼も考えを決めかねていました。

1615年3月、信繁は、義理の兄に手紙を送っています。

”秀頼様のご寵愛は、程よいものではありますが、何かと気遣いが多いです

 定めなき世の中ですから、一日先のことは全くわかりません
 私などのことは、この世に生きている者とはお思いにならぬようお願い申し上げます”

大坂に、再び戦の気配が漂ってきました。

4月4日、徳川家康、大坂へ!!
豊臣方の牢人が、大坂城で戦の準備をしているとの知らせを受けたからです。
信繁は考えます。
堀が無ければ、籠城は不可能だ!!
野戦で決着をつけるしかない!!
信繁は、作戦を進言します。
秀頼が陣頭指揮を執り、畿内を押さえて徳川を迎え撃つと!!
しかし、豊臣の重臣たちは、京への秀頼の出陣に同意しません。
結局、大坂城の南で決戦に・・・!!

「敵が来たならば戦い、討ち死にするつもりだ」by秀頼

1615年4月27日、大坂夏の陣!!
徳川勢15万、信繁たち豊臣勢5万!!
しかし・・・戦力の差は歴然!!
豊臣方は、大坂城の南10キロの地点から大坂城に後退していくしかありませんでした。
5月7日、追い込まれた豊臣側は、一大決戦に出ます。
この時、豊臣の重臣が味方の全軍に向けて指令を出します。

「真田、毛利とよく相談するように
 迂闊な戦いをしてはならない」

最後の最後になって、信繁はようやく自分の考え通りに全軍を動かすことができたのです。
信繁こそが頼りになる武将だ!!
信繁が考えた起死回生の策は・・・??
信繁たちが総力をかけて闘い、徳川勢の主力をひきつけます。
その間に、奇襲部隊が迂回し、手薄となった家康本陣を一気に襲撃する!!
目指すは、家康の首!!
ところが、ことは作戦通りに運びませんでした。
奇襲部隊が配置につく前に、戦が始まってしまいました。
信繁は、それでも秀頼が出陣すれば、士気が上がると考えます。
信繁は、一緒に出陣した息子・大助を呼び寄せ、大坂城に戻って秀頼の出陣を乞うように命じます。
大助は、共に戦って最期を迎えることを願いますが、信繁は許しませんでした。

「お前が私と一緒に死んだら、誰が私に二心がないことを明らかにするのか
 行って、秀頼公を生死を共にせよ」

その間、戦いは信繁の考え以上に早く進み、激しい乱戦となります。
もはや、奇襲部隊が家康に迫ることは不可能でした。
万事休す・・・??
その時、信繁が目にしたのは、徳川勢に起きた異変でした。
味方に裏切者が出た!!という噂が流れると、気弱な兵が、我先にと逃げ出したのです。
天が与えた最後の好機!!

信繁は、一直線に家康の本陣へと突き進みます。
信繁の突進のすさまじさに、徳川勢は押される一方!!

”重臣たちは逃げ出し、家康の周りに残ったのはひとりだけだった”

家康は、徳川家の馬印が倒れるのも構わず、逃げだします。
家康は、二度、切腹を覚悟したといいます。

戦場を稲妻のような速さで家康に迫る信繁・・・
その姿を見た兵は、こう呼びます。

「真田 日本一の兵」

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しかし・・・ようやく徳川勢の援軍が駆けつけると・・・信繁はあと一歩及びませんでした。

大坂城の4キロ南にある安居神社・・・ここで信繁は討ち死にします。
45歳の生涯でした。

信繁を討ち取った武将によると・・・

”馬で高き所に乗り上げたときに、よき敵と遭遇
 言葉をかけ、互いに馬から降りて槍で組みあい討ち取った”

その夜、大坂城は落城し、大坂の陣は終わりを告げます。
信繁の武勇は、徳川勢にも鳴り響いていました。
信繁にあやかりたいと、その首から紙を抜いて持ち去る者が絶えなかったといいます。

信繁の息子・大助は、秀頼とともに自害。
しかし、真田家は、兄・信之によって受け継がれ、信濃国・松代藩として江戸時代を生き抜いていきます。
真田家の宝物を保管した「吉光御腰物箱」・・・
中にある文書には、西軍・石田三成から眞田家に送られた書状もあります。
兄・信之が入れたものだと考えられています。
幕府から謀反の嫌疑を受ける危険を冒してでも、昌幸と信繁が生きた証は真田の家宝として守られました。

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豊臣と徳川の決戦が始まった。
大坂城を出、野戦に持ち込む信繁だったが、形勢は圧倒的に不利。

そんな中、後藤又兵衛が討死する。

ということで、遂に、最終回となってしまいました。
ああ・・・本当に寂しい・・・。

信之は、大坂からの帰り・・・休むことになった尼寺で・・・本多正信と一緒になってしまいました。
本多正信、何を思う・・・??

maru












大坂城では・・・名もなき武将が・・・って、ダメ田十勇士じゃん!!

ダメ田十勇士はこちら


そんなこんなの、名もなき者たちが活躍していた大坂城・・・。

「命を惜しめ、そして必ず勝て・・・!!」by幸村

そんな幸村は、大角与左衛門の元へ・・・
そこには、上田から連れてきた与八の亡骸が・・・。

「もっと早く気付くべきだった・・・」by幸村

そう、徳川の間者は与左衛門??

maru10












しかし、徳川に仕えたことなどないという・・・。
「娘は太閤に手籠めにされ・・・それを苦に命を絶った・・・妻も一緒だ。
 以来、ず~っとここにいる。
 秀吉と大坂城が、此の世から消え去るのをこの目で見るまで・・・。

 役目は終わった・・・
 この城も、明日で終わりじゃ・・・」by与左衛門

と、腹を突く与左衛門・・・。
この時、息の根を止めとけばよかったんだよ。

戦略会議で、遂に、千成瓢箪とともに、秀頼の出陣が決定!!

そして、茶々は・・・
城が落ちる夢をよく見るという。
茶々には誇り高く生きることを望む幸村。。。
そして・・・茶々に臨むのは・・・
「家康が死ねば、戦は終わります。
 豊臣と徳川がこの先、どう折り合いをつけていくかの談判が始まります。
 また戦になれば、つぎは必ず負けます。」by幸村

maru15















「左衛門之佐がいれば勝てる・・・!!
 死ぬつもりなのですね・・・!!」by茶々

「戦に勝った後なれば、より良き和議の案を突き付けることができます。
 大坂城を捨て、豊臣家を四国全土の主として認めさせるのです。」by幸村

「わかりました。」by茶々

「そして万に一つ、私が家康を討ち損じ、徳川の兵が城に攻め込んできたときには・・・その時には、和睦の使者として、千姫さまを秀忠の元へお使わし下さい。 
 
 くれぐれもお忘れなきよう。
 望みを捨てなかったものに飲み、道は開けるのです。」by幸村
 
戦支度をしながら・・・

「私は、私という男がこの世にいた証を何か残せたのか??」by幸村

「人の真の値打ちというものは、己が決めることではございません。」by内記

「誰が決める?」by幸村 

「時でござる。
 戦国の世に・・・義を貫き通し、徳川家康と渡り合った真田左衛門之佐幸村の名は、日の本一の兵として、語り継がれるに相違ございません。」by内記

「どんな終わりを迎えてもか・・・??」by幸村

MARU21















「大事なのは、いかに生きたかでございます故。。。」by内記

おお・・・さすが、内記。。。

幸村は、六文銭を手に何を思う・・・??

5月7日早朝・・・
豊臣方は、茶臼山から岡山にかけて布陣、明石隊が船場口で待機!!
徳川方は、南から数段で陣を配備・・・!!

キンチョー!!いよいよ戦いが始まる・・・!!

徳川としては、味方の豊臣恩顧の大名がいる・・・もし、秀頼公が出陣するようなことがあったら裏切られるかもしれない・・・??
と、真田が寝返ったという噂を流します。


出てこない秀頼・・・。
しかし、千成瓢箪でなんとかカバーする??

午前10時過ぎ・・・
松平忠直隊から毛利勝永軍に対し、鉄砲が撃ち込まれました。
秀頼の出陣は・・・??
真田幸村が裏切った・・・??

「罠かもしれません。
 城を出られてはなりません。」by大蔵卿局

毛利隊は、破竹の勢いで本多隊を破り、そのまま家康の本陣へ・・・!!
その手前には、真田信吉の陣が・・・!!

真田信吉隊とぶつかった毛利勝永隊・・・!!
圧倒的に撃破!!
小笠原、榊原、酒井、諏訪・・・毛利の勢いはとまりません。

maru16















未だ出ない秀頼・・・出陣を促すよう大助を城に戻す幸村・・・!!

与左衛門は・・・自分で腹を刺したのに、真田にやられたと秀頼に進言。
理由は、”徳川の間者との密会を見てしまったから・・・。”
疑心暗鬼に駆られる秀頼。。。

maru17















進んできた幸村・・・
そこには真田信吉の軍が・・・!!

かつて仕えた若に槍をもって打ちかかる三十郎・・・!!

maru18
















「・・・・・・!!
 源次郎様・・・!!」

そう・・・これはきっと、倒すためではなく、死にに行く幸村を止めたかったんだよね、三十郎・・・!!

徳川軍は大混乱・・・!!
真っすぐ、真っすぐ、家康の本陣へ・・・!!

「目指すは家康の首・・・!!」by幸村

逃げる、逃げる、逃げる・・・!!

家康の馬印が倒されたのは、武田信玄に敗れた三方が原の合戦以来のことでした。

逃げる、逃げる、逃げる・・・!!

戦況は、圧倒的に豊臣方の有利であった。
岡山口にいた大野治房隊は、秀忠の本陣に襲いかかった。

逃げる、逃げる、逃げる・・・!!

戦いは、豊臣軍の圧勝に思われました。
秀頼公に出馬を促すために大野治長が城に戻る途中・・・馬印・千成瓢箪を掲げて持ち帰ってしまいました。(これは本当)
そう・・・このことが、敗因・・・

maru5












千成瓢箪が大坂に帰る・・・秀頼が負け帰る・・・??

おまけに・・・

maru11












与左衛門が放火・・・!!(これも本当!!)
でも・・・とりあえず、与左衛門は間者という立ち位置というより、豊臣を見限って、放火を手柄に徳川に・・・って感じのようですが・・・
仕えていた豊臣を見放したことで、家康には雇ってもらえなかったとか・・・??

maru12












大坂城に火の手が上がってしまいました。

最後の戦国武将は、戦には流れが変わる瞬間があることを体で知っていた。
彼はそれを逃さない・・・!!

好機だ!!陣を立て直す家康!!

徳川軍の反撃が始まりました。
奮戦する真田軍が待っていたのは、秀頼公の出陣でした。

後手後手に回る大坂方・・・!!
出陣しようとする秀頼公・・・!!
真田も毛利も苦戦・・・!!
流れが変わってしまった・・・!!

徳川の猛反撃・・・!!

作兵衛が・・・!!
槍で奮戦するも・・・撃たれちゃいました・・・。

maru19















大蔵卿局を押し切って、出陣したい秀頼・・・しかし、茶々が許さず・・・!!

千姫が、きりに連れられて大坂城を脱出!!

大坂城内にも敵が・・・!!
猛追する徳川軍に立ちはだかる老兵・内記・・・!!

「若は、秀頼公の傍へ・・・!!」by内記
「内記も参れ・・・!!」by大助
「わしはここで敵を防ぎます。」by内記
「内記・・・」by大助
「早く行かれよ・・・!!」by内記

若(大助)を守るために・・・!!

戦いの後・・・力いっぱい戦い、尽き果てた内記の姿が・・・!!
その懐には大殿の位牌が・・・!!

そして作兵衛は・・・いつも耕していた畑で・・・尽きるのでした。


彼らが仕えていた殿は・・・ついに家康のもとへ・・・!!

maru20















宿敵・真田・・・!!


maru8













「殺したいなら殺すがよい!!
 されど、わしを殺したところで何も変わらん。
 徳川の世は既に盤石!!
 豊臣の天下には戻らん・・・!!

 戦で雌雄を決する世は終わった!!
 お主のような、戦でしか己の生きた証を示せぬような手合いは、行きていくところなど、どこにもないわ・・・!!」by家康

「そのようなことは百も承知・・・!!
 されど、私はお前を討ち果たさねばならぬのだ・・・!!
 わが父のため、わが友のため、先に死んでいった愛する者たちのために・・・!!」by幸村

そして一発の乾いた銃声が・・・!!

それを撃ったのは・・・参陣した秀忠軍でした。

「真田左衛門之佐・・・そこまでじゃ~~~!!」by秀忠

落ち延びた・・・

maru3












西尾宗次(たぶん)に見つかっちゃいました。
この時点でここまでボロボロとは・・・もう、ほとんど兵が残っていないぐらいに戦ったのかもしれませんね。
で・・・返り討ちにしちゃいましたよ・・・??

「ここまでのようだな・・・

 長い間・・・よう、仕えてくれた。
 いくつになった。」by幸村

「55でございます。」by佐助

「疲れたろう・・・」by幸村

「全身が痛うございます。」by佐助

「だろうな・・・」by幸村

最後まであの六文銭を・・・

maru2












何を思う・・・??

maru14












徳川家康の陣にやってきた・・・おじじ様のもとへ帰ってきた千姫・・・。
その千姫を連れてきたのはきりでした。
その場を去るきり・・・。

幸村は、死んでいった者たちのために戦った・・・
しかし、他にも・・・生きている者もいる・・・。

maru9












領地に帰ってきた本多正信・・・。
あの知恵者も、領地ではとってもいいお殿様のようです。
今年は豊作・・・そう・・・時代は、平和に向かってきていました。

そこへ・・・大坂から火急の知らせが・・・。
聞くまでもない・・・信之はすべてを悟ったのでした。
そんな兄もまた六文銭を持っていました。

maru6















ということで・・・カンドー!!です。
そのカンドーはどこで??
というお話はあとで・・・。

この真田幸村、亡くなったのは・・・
疲れて休んでいるところを見つかって・・・討ち取られたと言われています。
その時・・・「わしの首を取って、手柄にせよ・・・!!」と言ったとか。
まさか・・・返り討ちにするとは思わなかったわ・・・。

こちらの方が、個人的にはカッコいいとは思うのですが・・・女性も見ているのでちょっとグロイかな??
って、私も女ですが・・・。

で・・・私、昔っから主人公は好きにならないタイプ。
この大河は、作兵衛にフィルターをかけてみてました・・・。
が、最終回で誰がかっこよかったか??
もちろんみんな見せ場があってかっこよかったんですが・・・

やっぱり内記と三十郎がワンツーでしょう。
号泣しちゃいましたよ。

あんなに仕えたかった幸村に槍を向けた三十郎の気持ち・・・
本当は、徳川の陣へ・・・死地に赴く幸村を、命を懸けて止めたかったんだろうな・・・
でも、それは幸村の本意じゃないことも、三十郎は解っていた・・・
ってとこかな??
幸村第一の理解者だったのかもしれませんね。

で、もう一人はもちろん内記
最初から、いい味出してるな・・・さすが!!って思っていたんですが、すごかったですね。
内記は本当に、真田三代に仕えてくれました。
最後の大助との会話・・・きっと大助に生きてほしかったでしょうね。
自分が凛々しく育てた大助に・・・。
大助とのやり取りで号泣!!
なのに、最後の大殿の位牌でまたもややられてしまいました。
戦うこともできず、無念にも死んでいった大殿と一緒に戦ったのね・・・!!
ほんと、かっこよかったです、高梨内記!!


ということで、個人的には、高梨内記にやられてしまいました。
ほんと、昔っから弱いのよね・・・。
機動戦士ガンダムで、大好きなキャラはシャア・アズナブルでした。
当時小学生だったんですが・・・恥ずかしくって言えなかったんですが、実はランバ・ラルやドズル・ザビも好きでした。
一本気で・・・子供ながらに、私って渋いな・・・って思ってたんです。

負けるとわかっていても戦う男に弱いんです、私。。。
そして時代遅れで不器用な男たちも・・・
だから、新選組も大好きなんですが・・・
そう思うと、彼らは徳川の世には必要ない人々だったのかもしれません。
なので・・・ここで亡くなって幸せだったのかなあ・・・??

とにかく、毎週楽しみにしていたのに、とっても残念です。
真田丸ロスな人が沢山出ているようですが・・・
時代遅れの不器用な男の好きな私が・・・
何がいいって、時代劇は耐え忍んだり、義に生きたり・・・そんなところがいいと思うんですよね。
ということは、女性はず~っと忍んでいないといけないわけで・・・
となると、女性の主人公の大河ドラマに感情移入できるんだろうか??
かなりの不安を感じてしまいます。

とにかく、今は、真田丸に浸って・・・明日の総集編を見よう!!
そういえば・・・昔は総集編って大々的にやってましたよね。
久し振りじゃないかしら??総集編!!
それだけ、真田丸が好評だったってことね。


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徹底抗戦か、和睦か。
大坂城に籠る豊臣勢は、決断を迫られた。
信繁の後押しで、茶々は戦う道を選んだ。
そんな時、天守に一発目の砲弾が撃ち込まれた。

ということで、いよいよ家康の反撃が始まりました。
もう、わかっているのに面白い!!そこが真田丸の凄い所だと思います。

破壊力抜群の砲弾!!

この日、大阪城内では多くの女たちが命を落としたという・・・
砲撃は一日で終わった・・・。

で・・・この砲弾に驚き、茶々が和睦することを決めちゃいました。

「今は和睦の時ではございません・・・!!」by幸村

しかし、憔悴しきっている茶々・・・

和睦に・・・舵を切ってしまった豊臣上層部!!
浪人たちは、かかえてもらえないのか・・・??自分の先行きに不安を感じていました。

和睦に持ち込んで、浪人たちを追いやって、新たに攻める・・・
家康の策がわかっているのに決定権のない幸村・・・どうする??

そんな中、評定が始まりました。

牢人たちを少しでも雇うように・・・と、進言する幸村ですが・・・
大蔵卿局が牢人を毛嫌いして首を縦に振りません。
茶々を江戸に人質に出すことも首を縦に振りません。
そして・・・秀頼が大坂城を出ることも首を縦に振らない大蔵卿局・・・。
一体どうしたいの・・・??

ってことですが、大蔵卿局の言うことも、一理あります。
秀頼が治めていた頃とは違って、領地も少なくなってきた豊臣家。
おまけに、あの頃のように貿易もままなりません。
収入が少なかったので、牢人達10万も養えなかったんです。
1万人ぐらいなら養えたでしょうか??
なので、みんなの「大嫌いキャラ」を演じている大蔵卿局ですが、じつはあながち間違ったことは行ってないのです。



大坂にはこだわらないという秀頼・・・
秀頼の方がよっぽど大人だわ。。。


茶々は、さっきまで話をしていた侍女たちが亡くなったことに相当なショックを受けていました。

maru
















「心配ございません。
 出来の弾はつきました。」by幸村
「茶々を叱ってください。
 あれほど和睦はしないと言っておきながら・・・!!」by茶々

「ご案じなされますな。
 なんとかうまい形で和睦に持ち込もうと・・・今、皆で思案しているところ・・・」by幸村

やはり、心細い・・・ずっとつらい思いをしてきた茶々。。。

そして・・・牢人達も・・・八方ふさがりで戦うこともできず、悶々としていました。
爆発寸前・・・??

皆の前に引きずり出された作兵衛・・・尋問が始まりましたよ??

「真田幸村ってどんな野郎だ・・・??」by又兵衛
「俺達が命を預けるに足る男か・・・?」by勝永
「しらぬ!!
 あのお方が京におられる間、わしは上田を守っておった。
 九度山にもついて行っておらぬ故、おそばにいたのはわずかな間じゃ。
 しかし、あのお方の父君、安房守様のことはよう知っておる。
 真田家の家風もわかっておる。 
 安房守様ほど、義に厚いお方はおられなかった・・・。
 
 安房守様は、生涯をかけ、武田の領地を取り戻そうとされていた。
 信玄公への忠義を死ぬまで忘れなかった・・・。
 そのためには、どんな手でも使った。。。
 卑怯者の汚名も着た。
 源次郎さまはその血を受け継いでおられる。
 あの方は、太閤殿下のご恩に報いるためには何でもする。
 そういう御方じゃ。
 わしに言えるのはそれだけじゃ。」by作兵衛

もう戻ってもええかの??と、啖呵きって、可愛く帰っていった作兵衛!!
カッコいい!!
気は優しくって力持ち!!まさに、私の大好きなパターンです。
そうね・・・昌幸が亡くなったころ・・・本当に思いました。
信濃が欲しかったんだなあ・・・って。
ってことは、やっぱり昌幸のお館様への忠義・・・すべて・・・
その大義名分があれば、どんな卑怯な、姑息な手を使っても勝ち取ろうとした。。。
そう思うと、昌幸の生き方にも一本筋が通りましたね。
死んでなお、真田丸をかっこよくしてくれる昌幸パパです。

大坂から徳川に、和睦の案が届きました。
牢人達を養うために、領地を増やしてほしい。。。
秀頼は大坂城を出るので四国2か国をほしい。。。ということでしたが・・・

和睦と見せかけて、敵を丸裸にし、総攻めをしようとしている家康がいました。

「四国はやらん。
 国替えを望むなら、江戸の近くにしてもらおうか。
 安房と上総がよい。」by家康

その文を見た大坂方は・・・??

「関東へ下校するなど断じてなりませぬ!!」by大蔵卿局

「関東はさすがに嫌じゃ。」by秀頼

maru3















「この先は使者を立て、直に話し合うのが良いと存じます。」by有楽斎

ということで、使者は常高院+大蔵卿局+きり、となりました。

って、どうしてそんなに関東を嫌がるんでしょうね??
それは・・・
もちろん、「くだらない」という言葉があるように、江戸が田舎だからというところはあると思います。
四国なら、もともと豊臣は関ケ原で西軍だったんだし、船ですぐに大坂だしね。
でも・・・家康としては、やっぱり自分の手に届くところに置いておきたかったんでしょう。
関東なら江戸と三河でサンドイッチに出来るし・・・さすがよ~く考えている家康です。

最初は秀吉に追いやられた江戸でしたが、江戸は荒れ果てた田舎でしたが、まっさらな・・・誰のてもついていない、息のかかっていない土地・・・家康の好き放題の土地でしたね。
そう思うと、秀吉、大失敗です。


大蔵卿局は、初は全く政には接点がないというようなことを言っていますが、でも、茶々の妹であり江の姉・・・
実は、交渉にはもってこいの人物なのです。

で・・・徳川方は・・・阿茶!!

阿茶のことを、どのような女子ですか?と聞く初に・・・

「なかなかの食わせ物でございます。
 本多様が古狐ならば、女狐・・・見た目から言えば、女狸でございます。」byきり

なんと、この女子会に行くことになったきり。

「風向きが悪くなったらその場をかき回せ。
 流れを変えるのだ。
 お前にしかできぬ事だ!!」by幸村

「お任せあれ!!」byきり

12月18日、和睦交渉の会談が初の義理の息子・京極忠高の陣で始まりました。
maru9












「戦は男の勝手で始まるもの。
 我ら女は、いつも振り回されてばかり・・・
 このように、我ら女だけで戦の始末をつけるというのは・・・
 愉快なものでございますね。」by阿茶

「さようでございますね。。。」by大蔵卿局

と、阿茶の虜になってしまっているではないか・・・??

「まずは、おかみさまについて・・・
 人質とは致しませんからどうぞご安心くださいませ。

 右大臣・秀頼公におかれましては、御領地はこれまでと同じ。
 今後とも、御身に危害が及ぶことはないことをお約束いたします。
 大坂のお城を明け渡せとも申しません。
 今後、もし大坂を離れられることがあれば、お好きな国を望まれませ。
 どこなりと。。。

 城に籠り、徳川に楯突いた牢人たちについては、一切処罰は致しません。」by阿茶

この時点で・・・言い方が、かなりな上から目線だと思うんです。
豊臣が勝ったんでしょ??
でも、阿茶マジックにかかっちゃった大蔵卿局・・・

「よいことづくめではありませぬか。」by大蔵卿局

「当たり前でございます。
 そちらは戦にお勝ちになったんですから。
 あとは・・・
 ま、おいおい・・・おいおい・・・」by阿茶

「あああ~~~!!」

maru11













「足がつりました・・・!!」byきり

と、常高院に目くばせ!!

「牢人の処遇がまだ決まっておりませんが、あの者たちの手当てのために、ご領地を増やしていただけるという話は・・・??
 それを決めませぬと、牢人達が困ってしまいます。」by初

「牢人達は今後どうされるのですか?」by阿茶

「それについては頭を痛めておるのです。」by大蔵卿局

「このまま仕官するつもりの者も、大勢います。
 ご領地を増やして頂かないと。。。」by初

「あの出城・・・なんと言いましたか・・・真田丸
 そう、あれを壊してしまったらいかがですか?
 あんなものがあるから牢人達がいつまでも居座るのです。」by阿茶

「それは良いお考え!!」by大蔵卿局

黙れ!!!小童でなかった大蔵卿局!!
見ているみんなが言ったでしょうね。
とっても魅力的です。

「ついでに・・・お堀も埋めてしまいましょう。
 お城が裸になれば、いくら面の皮の厚い牢人達も、出て行かざるを得なくなる。
 そうお考えになりませんか?」by阿茶

出た~~~!!
やっぱりお堀、埋めちゃいます・・・??

「さすがは阿茶様!!」by大蔵卿局

「ね、そういたしましょう!!」by阿茶

「そういたしましょう!!」by大蔵卿局

そういたしましょうリフレイン・・・

ああ・・・牢人達にいてほしくないオーラ出てましたかね??

またまた足のつるきりちゃん・・・
初がこの案件を持ち帰りたいというものの・・・

百戦錬磨の阿茶&阿茶信者となり果てた大蔵卿局によって話がまとまってしまいました。

①牢人の罪は問わない
②秀頼公の領地はこれまで通り
③茶々様は江戸に住まなくてもいい
④お移りなるならば、お望みの国へ
⑤秀頼公御身の無事を。。。

でかした!!と、大手柄!!と、家康の陣!!
和睦は成立し、徳川方は、戦闘態勢を解きました。

やっぱり「おいおい」が大問題となっている大坂方・・・。

不安がよぎる秀頼。

都合の良すぎる和睦の案件・・・
治長&幸村が首をひねっていますが・・・全部話してないようです。
大蔵卿局!!

maru2















このほかに決まったことはなかったか??と、幸村に聞かれ・・・
堀のことが書かれていない・・・堀を埋めて、真田丸を取り壊すこともかかれていない・・・??

そして・・・真田丸の取り壊しと堀の埋め立てが、徳川によってはじめられたのでした。
まさに、電光石火!!

「わたくしが許しました。
 戦は終わり、あのようなものは無用の長物。」by大蔵卿局

「家康の真の狙いはそこだったのです。
 なぜお分かりにならぬ・・・!!」by幸村

「牢人達を養うだけの金銀はもうありません。 
 後は、出て行ってもらうしかない。
 堀がなくなれば、これ以上戦はできないとあの者たちも思うでしょう。」by大蔵卿局

「なんという愚かな!!」by幸村

「何が愚かです!!」by大蔵卿局

「出城も堀も失っては、戦えませぬ!!
 戦えぬわれらに、家康が約定を守るとお思いか!!」by幸村

「母上は豊臣をお潰しになられるおつもりか・・・!!」by治長

「すべては豊臣のためじゃ・・・!!」by大蔵卿局

「これでよかったのだ・・・」by有楽斎

まあ、戦いが終わって平和になろうという考えでは、有楽斎の行ってることもわかるんですが・・・やっぱりなあ・・・。ダメだ、大蔵卿局。

大坂城は、本丸を残し丸裸になってしまいました。

「これぞ、城攻めよ!!」by家康

maru4















「総構えはすべて破却、堀も埋め立てられ、二の丸、三の丸も壊す約束を交わしたらしい・・・」by幸村

あんたの策を聞かせてほしい・・・勝永にこう言われた幸村は・・・

「策はない。
 もはや、この戦、勝ち目はなくなった。
 すべては私の力不足だ・・・。
 もうしわけない・・・
 
 皆、早々に立ち去るがよい。
 城を枕に討ち死にしようなどと愚かなことは考えぬように。」


「お前ら、行く当てあんのかよ・・・!!
 行く場所のねえ奴らが、ここに集まったんじゃねえのかよ!!」by又兵衛

「戦うつもりか・・・!!」by勝永

「堀もない城で、どうやって敵を追い払う・・・??」by盛親

「( ̄∇ ̄;)ハッハッハ!!
 おもしれえじゃねえか!!」by又兵衛

しかし、立ち去らなかった者たち。。。

家族にも、上田に行くように勧める幸村でしたが・・・

「何のんびりしてるんだよ。 
 早く策を立ててくれよ。
 俺達はうずうずしてるんだ」by又兵衛

「私は何のために九度山に行ったんです??」全登

「わしらはお主に従う!!」by盛親

「考えろ!!
 どうすれば勝てるか、考えるんだ・・・!!」by勝永

「あなたは勝つためにここに来られたのではないのですか?」by重成

「殿、徳川に一泡吹かせてやりましょう!!」by作兵衛

maru6















やっとここで一つにまとまりましたね。

maru5















「望みを捨てぬ者だけに、道は開けるとそなたは言った・・・
私は、まだ捨ててはいない・・・!!」by秀頼

「かしこまりました。」by幸村


え~い!!
お~~~~!!

ということで、少年漫画のような風になってきましたね。
私は少年漫画が大好きなんです。
みんなが結局仲間になって一致団結!!という持って行き方が。
昔は、大河な歴史漫画が沢山ありましたよね。

最近なら「信長協奏曲」や「JIN」、「信長のシェフ」なんかが流行っていますが・・・
あ・・・これらはみんな主人公がタイムスリップしてるわ・・・。

最近のライトな感じじゃなくって、私が読んでいた頃の・・・30年以上前のジャンプな感じ。
そんな少年漫画な感じをほうふつとさせる持って行き方に、ワクワクが止まりません。


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大坂城は三十万の徳川軍に包囲された。
南の出城・真田丸に立てこもった信繁は、迫りくる敵兵を知略の限りを尽くして、撃退する。

「いたずらに攻めかかるのはもうやめじゃ!!
 真田丸がここにある限り、らちがあかん!!
 左衛門之佐・・・全く、親子二代で手こずらせてくれるわ・・・!!」by家康

そう・・・副題の「砲弾」からして、もう予測できちゃいますが・・・家康、本腰入れての戦いとなってきましたよ。
ということで・・・エゲレス製の大砲を待っている家康です。

まずは、30万の兵を、3つに分けて、かわるがわる一晩中、鬨の声をあげさせることに・・・!!


勝ったと思っている秀頼に、現状を説明する幸村・・・。

maru6















「策とは、ただ戦に勝てばよいというものではございませぬ。
 いかに味方の命を損なわぬか、ここは守りに徹するのです。
 
 焦る敵は、必ず押し寄せて参ります。
 それをまた打ち払う。
 なすべきは、城を守りきること。
 徳川が大軍をもって攻めようとも、大坂城はびくともしなかった。
 そのことを天下に知らしめるのです・・・!!
 さすれば、敵の中に心変わりする者が必ず現れます。
 徳川を見限り、我らにつくものが・・・!!
 それを待つのでござる。
 攻めに転じるのはそれから・・・!!」by幸村

「私は父上が残されたこの城を守り、父上が築かれた安寧の世を守り、そしていずれ、父上を越えたい・・・!!
 この先も、力を貸してくれ、左衛門之佐。」by秀頼

「喜んでお手伝い仕る。」by幸村

二人の間に信頼関係が築かれているのがわかりますね。
偉大な父の記憶のない秀頼が父のように慕う幸村。。。
そんな感じがします。

その信頼関係から・・・

「殿様には、もっとご自身のお言葉の重みを知っていただきとうございます。」by幸村

最後に断を下すのは殿様であって、茶々ではないということを・・・!!

鬨の声をあげる徳川勢に、おろおろする豊臣上層部・・・!!
無理もありません、大蔵卿局や茶々は女性ですからね。

「大丈夫! 
 本当に攻めてくるときは、あんな呑気な声は出しません。
 私たちを怖がらせようとしているんですよ。
 いいですか?恐がったら負けですよ?」byきり

さすが、百戦錬磨なきりちゃんです。

maru7















弱い犬ほどよく吠える!!
まだまだ余裕の大坂城ですが・・・??

気丈に振る舞う茶々を支えるのは妹の常高院(お初)。

「私には、あの人が死にたがっているように思えてならないのです。
 心のどこかでこの城が焼け落ちるのを待っているような・・・
 
 私たちの父も母も、城とともに命を絶ちました。
 姉も、自分が同じ運命であると半ば信じています。


 姉を救ってやってください。」by常高院

と、幸村に言うのでした。
本当なんだろうか??
母として、息子・秀頼の命が全てではないのかな?とも思うんですが、茶々の周りで落城→死とならなかったのは、にっくき?秀吉だけですからね。。。
命を全うするいいお手本がなかったのは事実でしょう。


真田屋敷では・・・平野長泰が愚痴をこのしていました。
七本槍の・・・七人のうち、生き残った者、誰一人豊臣に味方をしていないことを残念に思っているようで・・・
秀頼公のお役に立ちたい・・・!!
余りにも太閤殿下が可哀想だ・・・
平野&信之・・・大坂に・・・幸村の元へ兵糧を届けようとします。

おお!!出浦昌相!!

「大坂へ行ってはなりませぬ!!
 もしこれが、徳川に知れたら、真田は終わりだぞ!!
 徳川の目を盗んで城に兵糧を入れるなどできるわけがない・・・!!」by昌相

と、反対します。

「父上も源次郎も、さんざん無茶をしてきたではないか!!
 わしだって、一度ぐらい・・・!!」by信之

「そなたの父は、どんなに無茶に見えても、常に先を見据えていた。
 お前がやろうとしていることは、それとは違う。
 お前の父親が必死になって守ってきた真田の家を滅ぼすつもりか・・・!!
 大坂に行ってはならぬ・・・!!
 このわしが行かせん・・・!!」by昌相

ということで、昌相の罠にかかって行かせてもらえなかった信之・・・

そうですよね、不良な子がちょっといいことをすると褒められるのと似ているような気がします。
愚直にも真面目に生きてきた信之・・・やっぱりちょっとでもそぶりを見せただけで、バレてしまうと感じたんじゃないかと思うんです。
そう・・・信之はこれから先・・・80歳を超えて家康に仕えるわけですが、ず~っと頭を下げて下げて、下げまくる・・・華々しく散った弟の方が武士としての名を残し、楽だったんじゃないか??という一生を送るわけです。
だから、行かせるわけにはいきませんよね・・・??


その頃大坂城では・・・

maru9















先の戦での大助の高砂・・・とっても良かったとみんなが褒めてますが・・・
母上・春は怒っていました。
どうしてそんな危ないことをさせるのか・・・!!と!!
ま、これが戦なんですけどね。
大助はちょっと自信がついてきたんじゃないかしら??この顔!!

が・・・徳川の鬨の声も続いていました。


豊臣、徳川両軍はやる気持ちを抑えきれない様子・・・どちらが先にしびれを切らすのか??
いかに兵を損なわずに戦うのか・・・??

家康の陣に、真田信尹が呼ばれました。。。
真田には真田??

「真田左衛門之佐を調略せよ・・・!!」by家康

「お断りいたす。
 源次郎信繁は、父親に似て度胸があり、知恵も働き、そのうえわれら兄弟に似ず、義に厚い男でございます。
 寝返ることはまずないと・・・!!」by信尹

「わしはあれをかっておる。
 寝返れば左衛門之佐に・・・10万石を与えよう・・・。」by家康


信吉の陣では・・・この調略に乗るかどうか??
「信吉、信政、真田家の行く末は、そなたたちにかかっておる。
 しかと頼むぞ・・・!!」by信尹

・・・佐助から・・・叔父上から幸村に密書が・・・!!
そして、久し振りの叔父上との対面です。

が・・・何も言わずに去ろうとする叔父上。

「大御所様からの書状だ。
 寝返った時の褒美が書いてある。
 読まんでいい。」by信尹

破り捨てる幸村・・・

そうそう・・・何回も、何回も、幸村にラブレターを送る家康なんですが、ず~っとシカトされちゃうんですよね、家康。
本当に、真田は徳川に反抗する、反抗する!!で、家康としてはやりにくさこの上なかったことでしょう。
それが・・・江戸時代に入って・・・
”ほうら、あの真田が、わしに仕えているのだ・・・!!”と、低姿勢な兄・信之が仕上がっていくこととなります。
で、それとは反対に、赤穂浪士の芝居が人気が出たように、幕府に物申したい人たちが、理想の真田幸村&十勇士を作っていくんですよね。


調略が失敗したことがわかると家康は・・・この人を使いますよ。

「大御所様は、和睦を望んでおられる
 一日も早く、城内を和睦でまとめよとの事」by正純

maru












「難しいご注文ですが・・・
 かしこまりました。」by有楽斎

と言ってますが、思い出してください。
この人、信長の弟君です。
世が世なら・・・の人なんですよね。
こんなに下手に出ていたのかは不明ですが・・・
ま、豊臣と徳川の架け橋になりたかったというのは本当なようです。


和睦に傾く大坂城・・・

「いすれは和議を結ぶ時が参りましょう。
 しかし、今ではない。
 戦に勝ったのは我ら。
 向こうが和睦を乞うならまだしも、こちらから持ち掛けては家康に足元を見られます。」by幸村

「戦に勝ったからこそ、有利に話を運べるのではないか?
 近々、敵はさらなる大軍勢で攻めて参りましょう。
 その時、それこそ家康の思うがまま・・・!!」by有楽斎

「和睦いたしましょう!!
 殿、和睦でございます!!」by大蔵卿局

判断難しいなあ・・・秀頼・・・!!
幸村に言われたように、もう少し待って、敵が名が得るのを待とうと頑張ります!!

maru11
















負けてもいないのに、どうして和睦なのだと、みんなもお怒りです・・・!!
佐助に有楽斎を調べるように言いつける幸村

そんな幸村のいない場所で・・・

「真田を信じてはなりません。」by有楽斎

「あの者たちは戦が大好きなのです。
 もう、戦いたくてたまらないのです。
 口車に乗ってはいけません。」by大蔵卿局

「我らは・・・すでに勝ったのです。
 兵の命を無駄にしてはなりません。
 今こそ和睦を・・・!!
 亡き太閤殿下もそうなされたはずです。」by有楽斎
 
おお・・・これが最後の一押し・・・??
そして若殿・・・秀頼は・・・押し切られてしまいました。

「左衛門之佐・・・なんとかならんか??」by治長

???お前のオカンだよ・・・!!と、言いたいわ・・・。


ひとり茶々の元へ向かう幸村。。。

「秀頼公をお説き伏せ頂きたい・・・!!」by幸村

「まことのことを言います。
 私は秀頼と一緒にいられればそれでよいのです。
 子の城だって、手放せというのなら手放しましょう。
 そこか遠くのちいさな国へ移って、そこで皆で暮らせれば、それ以上は望みませぬ。
 私と秀頼と、そして左衛門之佐がおれば・・・」by茶々

ということで、幸村の意を汲んでくれたかしらね??茶々、秀頼を説き伏せると引き受けました。

「和睦はなりませぬ!!
 左衛門之佐が戦を続けると申しておるのです。
 それに従っておけばよい!!

 私は右大臣・秀頼殿の母なるぞ・・・!!」by茶々

「母上・・・断を下すのは、あくまでも大坂城の主であるこの私です。
 そうであったな・・・左衛門之佐・・・」by秀頼

「・・・・」by幸村
 
「そなたを産んだのは誰じゃ??
 我こそがこの城のまことの主ぞ・・・!!
 断は私が下します。
 
 和睦は決してなりませぬ・・・!!」by茶々

ああ・・・ショックなのは秀頼・・・初めて自らきちっと決断したのに・・・
それをこんな形でかえさせられるなんて・・・!!

「左衛門之佐・・・
 母を説き伏せたのはそなただそうだな。
 己の言葉の重みを知れと申したのはそなたではないか。
 一体、何がまことなのじゃ・・・!!」by秀頼

「断を下すべきはもちろん殿でございます。
 しかし、その断に誤りがあれば、私はいかなる手を使っても食い止めまする。
 私は戦に勝つためにここに参ったのでござる・・・御免!!」by幸村

何が何だか分からなくなってきた秀頼です。
が・・・戦の真ん中にいる人って、みんなそうなんだろうなあ・・・って思います。

じっと待ってるのは勘弁・・・と、夜討ちをしようと画策するメンバーに参加する幸村。

maru13















むしゃくしゃするんだよ~~~!!と、戦いに来た男たちが戦う戦う・・・!!
ちょっとガス抜きできたかしらね・・・??

maru2













しかし・・・徳川軍にイギリスの大砲が到着しました。

maru12
















大坂城へ大砲を打ち込むという・・・

maru3













且元にどこが茶々の部屋か確認する抜け目ない家康。

「そればかりは・・・」by且元

「案ずるな、何も狙い撃ちしようというのではない。
 その逆だ・・・
 居場所がわかれば、そこを外すことができよう。」by家康


「天守の南を狙え・・・!!」by家康

正純に、茶々の部屋を狙えと命じる家康です。
ほんと、食えないタヌキオヤジですね。
内野さんも面白いんじゃないかな??だんだんとタヌキオヤジに拍車がかかってきましたよ・・・!!
と、家康のタヌキオヤジ化が激しいですが、実はこの大坂城に大砲を打ち込んだの・・・指揮したのが片桐且元って説もあるんですよ??
それじゃあ、みんな食えないタヌキオヤジじゃないの・・・??


慶長19年12月16日。
この日、徳川の陣から最新鋭のカルガリン砲が、大坂城に向けて発射された。
その一発の砲弾が、多くの人々の運命を狂わせる。

maru4












侍女に砲弾が・・・!!
「なりませぬ!!」
パニックに陥る茶々を引き留めるきりがそこにはいました。

maru5












きり、とってもいい味出してますね。
この真田丸に欠かせないキャラとなりました。
って、この真田丸、みんなキャラだってるから、誰一人かけちゃいやよね??

ということで、大坂城に砲弾が飛んでくる事態が・・・まさに、緊急事態勃発です。

「男なら、危険をかえりみず、死ぬと分かっていても行動しなくてはならない時がある。
 負けると分かっていても戦わなくてはならない時がある。」

この言葉は、キャプテン・ハーロックの言葉
ハーロック・・・海賊旗のもとに集まった仲間たちと、自分の信念を負けずに戦う男です。

そんなこんなを思い出した真田丸でした。



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