よく言われることですが、それは徳が分けでも同じです。
江戸時代2代将軍・徳川秀忠・・・
父・家康のようなカリスマ性を持たず、目だった武功をあげることもできなかったため、ダメな2代目という烙印を押されてきました。
「秀忠はあまりに律儀すぎる
人は律儀のみではならぬものだ」by家康
側近はこれを秀忠に伝え、殿もたまにはほらを吹かれた方がいいのでは・・・と、進言しました。
すると・・・
「父上だからホラを吹いても許されるのだ
何事も成し遂げていない私がホラを吹いてどうする」by秀忠
1579年4月7日、徳川秀忠は、当時三河と遠江を支配していた家康の三男として浜松城で生まれました。
家康が38歳の時の子で、幼名は長松。
母は側室のお愛の方。
美人で聡明だったため、家康から深く寵愛されたといいます。
三男の秀忠が家康の後継者となったのは・・・??
もともと、家康の跡継ぎと目されていたのは正室・築山殿との間に生まれた長男の信康でした。
剛直で武勇に優れて、跡継ぎとして申し分なかったのですが・・・秀忠が生まれた年に、家康から切腹に処せられ、21歳の若さで死去。
家康が切腹を命じた理由については・・・当主の座を奪おうとしていた信康を、家康が先手を打って亡き者にしたと考えられています。
長男の信康が亡くなりましたが、秀忠の上にはまだ6歳上の次男・秀康がいました。
しかし、秀康は、家康が築山殿の次女に手を付けて産ませた子だったため、築山殿の目を気にする家康から愛情を注いでもらえず、3歳になるまで対面すら叶わなかったといいます。
そして、17歳の時、北関東の大名・結城氏に養子に出され・・・結城秀康です。
秀忠の幼少期は不明です。
しかし、戦国時代から江戸時代中期の人物列伝「名将言行録」によれば、ある日、秀忠が家臣による書物の朗読に耳を傾けていた時のこと・・・突然、巨大な牛が障子を突き破って部屋に飛び込んできました。
過信は慌てふためき悲鳴が上がりましたが、秀忠は顔色一つ変えず
「かまわぬ、読み続けよ」
家康に与する武将たちはこの話を聞いて、
「度量の大きさは家康公に勝るとも劣らない」
と、秀忠を褒め称えたといいます。
大姥局は、今川義元の人質になっていた頃の家康の世話役でした。
その人柄を高く評価していた家康が、秀忠の乳母にしようと浜松城に招いたといいます。
秀忠の乳母となったとき、大姥局はすでに50代半ばでした。
その役目は、乳を与えることではなくて教育係だったと言えます。
大変聡明で、慈悲深かったため、高く慕われました。
秀忠は、決して驕ることなく謙虚さを身につけていきます。
秀忠・・姉さん女房を娶る
1595年9月、17歳になった秀忠は、豊臣秀吉の肝いりで結婚。
妻となったのは、織田信長の姪で秀吉の寵愛を受けていた淀の方の妹・江です。
秀忠より6歳年上で、3度目の結婚、出産経験がありました。
酸いも甘いもかみ分けた姉さん女房のお江。
お江と結婚したことで、秀忠は秀吉と相婿・・・姉妹の夫同志となりました。
豊臣家と密接な関係となりました。
この結婚の2年前に、淀の方が秀吉の嫡男の秀頼を生んでいたため、秀吉は、秀忠を秀頼の補佐役にしようと考えていました。
徳川家と豊臣家を結びつけるキーマンとして大きな期待を寄せられていた秀忠・・・
しかし、この3年後、天下人・秀吉が62歳でこの世を去ると、状況は一変します。
父・家康が、天下取りへ・・・!!
秀忠・・・大失態をさらす
1600年9月、徳川家康の三男・秀忠は、わき目もふらず中山道を西へと急いでいました。
どうして・・・??
話しは2か月前に遡ります。
天下取りを目論む父・家康と、豊臣の世を守ろうとする石田三成の対立が激化、京都にある徳川方の伏見城を三成に与する反家康陣営(西軍)が襲撃。
三成蜂起の報せを遠征先の下野国で聞いた家康は、これに対抗するため自らは江戸を経由して東海道で、息子の秀忠には中山道で西へ向かうように命じます。
22歳の秀忠にとって、これが実質的な初陣でした。
その為、家康は精鋭が揃った3万8000の徳川本体を秀忠に預けました。
家康はこの戦いで、後継者である秀忠の存在を、広く世に示そうとしました。
秀忠が必ず活躍できるように万全の態勢を整えていました。
跡継ぎとしての重責を背負った秀忠は、父の期待に応えるべく、8月24日に宇都宮城を出立。
一方、家康は東軍の先鋒を出陣させたのち、江戸城で体制を整え、9月1日に出立。
東海道を進み、9月11日に清州城に入城します。
この時、石田三成が西軍の主力は美濃国の大垣城に入っていたため、東軍の先鋒たちは、家康の到着を待って大垣城に総攻撃をかけようとしていたのです。
家康は、「風邪を引いた」と嘘をついて、出陣しませんでした。
先に出立したはずの秀忠がまだ到着していなかったのです。
この時、秀忠は、清州城の春か手前、信濃の上田城付近にいました。
上田城主の真田昌幸が、次男の信繁(幸村)が共に西軍についたため、まずは上田城を落として西上しようと考えていました。
あくまでも家康の姪を受けて上田城を攻めていました。
3万8000の大軍を擁すれば、3000ほどの兵しかいない真田軍など簡単に攻略できると考えたのです。
しかし、ことは家康の思惑通りにはいきませんでした。
9月1日に中山道を外れて上田城に向かった秀忠は、その2日後、真田昌幸のもとに降伏を求める使者を派遣・・・
すると昌幸は「剃髪して降伏する」と泣きついてきたため、秀忠は昌幸たちの助命を約束します。
ところが・・・そのわずか2日後、
「あれは嘘じゃ、実は戦の仕度を整えておった
兵糧の運び入れが済んだので、いつでも戦いに応じよう」by昌幸
まんまと騙された秀忠は、激怒して上田城を攻撃!!
当初は兵力で大きく勝る秀忠軍は優勢でした。
敵を引き付けてから一斉攻撃を仕掛ける真田軍の戦略によって形勢は逆転。
秀忠は次々と兵を討ち取られ、上田城を落とすことができませんでした。
この時が秀忠の初陣でした。
真田親子の方が一枚も二枚も上手でした。
しかし、それだけではなく、多くの精鋭が付き従っていた秀忠軍・・・
秀忠に統率力がなかったためか、一枚岩になれなかったのです。
それが、苦戦した原因でした。
そんな中、西軍との決戦が迫っているという知らせが届きます。
こうして9月11日、秀忠は中山道に戻り、西上を再開したのですが・・・真田軍の追撃を警戒しての進軍は、速度が出せず、しかも、途中の河川が増水し、渡るのに時間がかかってしまいます。
焦った秀忠は、「我だけでも先に進まねば・・・」と、わずかな兵のみで先を急ぎます。
しかし、秀忠がまだ信濃国をひた走っていた9月15日午前8時ごろ、美濃国の関ケ原において、東西両軍が激突!!
しかも、戦いは、先陣を切った家康の四男・松平忠吉の抜群の働きや、西軍・小早川秀秋の突然の寝返りなどによって、わずか半日足らずで東軍の勝利に終わってしまいました。
その為、秀忠は、天下分け目の大事な戦いに間に合わなかったのです。
勝利した家康は、近江国の大津状に入ったのですが、そこに秀忠がやってきたのは、戦いが終わって5日後の9月20日。
秀忠は家康に面会し、遅れた理由を説明して許しを乞おうとします。
しかし、秀忠への怒りが収まらない家康は、「気分が悪い」といって、面会を許しませんでした。
秀忠が家康に激怒されたのは、戦いに遅参しただけではありません。
先を急ぐあまり、軍勢を置き去りにしたこと・・・これも原因でした。
結果として東軍が買ったからよかったのですが、もし負けていれば、少数の兵しか連れてこなかった秀忠も討ち取られてしまうかもしれません。
秀忠は、そこまで考えて動く古語が出来なかったために「大将としての資質に欠ける」と激怒されたのです。
この後、家臣の弁明などによってなんとか許された秀忠・・・
家康は、「秀忠が跡継ぎでいいのか」と悩みます。
5人の重臣たちに、「どの子に家督を譲るべきか」と、相談したと言われています。
その結果・・・
無回答・・・・・1名
次男・秀康・・・1名
四男・忠吉・・・2名
三男・秀忠・・・秀忠付きの家老・大久保忠隣
だったのです。
どうして秀忠が跡継ぎとなったのでしょうか??
この時、秀忠を推した大久保忠隣が家康に進言した言葉が、秀忠を口径の座に留まらせました。
「天下を治めるためには武勇よりも文徳が大事
後継者は知勇と文徳を兼ね備えた謙虚な人柄の秀忠様しかいない」by大久保忠隣
家康も納得し、秀忠を後継者としました。
秀忠・・・2代将軍になる
1603年2月、徳川家康は、征夷大将軍となり江戸に幕府を開きます。
そして、そのわずか2年後、27歳の秀忠が家康の後を継いで将軍となりました。
このあまりにも早い将軍職の交代は、豊臣の世が終わり徳川家が政権を担っていくのだと天下に知らしめるためでした。
家康は大御所と呼ばれるようになります。
2年後には江戸城も秀忠に譲り、駿府城に移りました。
関ケ原の戦いに遅れたという大失態はあったものの、なんとか無事に家康の後を継ぐことができた秀忠・・・その後も幕府の実権を握っていたのは家康でした。
秀忠・・・家康の傀儡になる
1605年、徳川秀忠が2代将軍に就任。
先代の家康は、江戸を離れ駿府城に移ります。
ただ・・・隠居をしたわけではなく、駿府においても政を行い続けました。
この頃の江戸幕府には、将軍・秀忠のいる江戸と、大御所・家康のいる駿府という2つの政庁があったのです。
二頭政治、二元政治ともいわれますが、実際は、圧倒的に家康が上でした。
江戸幕府の実権は、駿府の家康が完全に掌握していました。
その政権運営は・・・?
秀忠のいる江戸城には、秀忠付きの家老・大久保忠隣の他、家康の腹心・本多正信など家康譜代の重臣たちを置きました。
家康の駿府城には、新参の官僚と僧侶・儒学者・豪商・外国人などで構成された政策集団を置きます。
そして、そこで家康たちが発案、検討した大名統制政策や、外交方針を、江戸城にいる秀忠と重臣たちに伝え、実行させたのです。
「今はただ父上の仰せのままに」by秀忠
秀忠は家康の性格やふるまいを研究していました。
秀忠は、家康になりきることで家臣たちの信頼を得ようとしました。
秀忠・・・汚名返上を狙う
関ケ原の戦いに間に合わなかったことが負い目となっていた秀忠でしたが、30代半ばでようやく汚名返上の好機が・・・
徳川家と豊臣家の最後の戦い・・・大坂の陣です。
莫大な資金力を有し、秀吉恩顧の大名たちもいまだ健在の豊臣家を危険視していた家康は、1614年10月11日秀吉の嫡男・秀頼のいる大坂城を攻めるため、20万の大軍を率いて駿府城を出立。
23日には二条城に入りました。
一方、秀忠は、江戸城を留守にする準備に手間取ってしまい、家康が二条城に入ったその日に、ようやく6万の兵と共に出陣、その際、家康の側近へ書状を送っています。
「私が到着するまでは、開戦を待ってほしいと父上に伝えてくれ」
関ケ原の二の舞だけは避けたかったのです。
その後も秀忠は、同様の書状を何度も送りつつ先を急ぎます。
秀忠は、馬廻役や歩兵に240人ほどの剣客自慢を選抜、
「遅れずについてきた者には褒美を与える」
といって先を急がせました。
最後まで遅れずについてきた者は30名ほどでした。
二条城でこれを知った家康は、
「人馬が疲弊すると、統率が取れなくなる
無茶はするな」
と、秀忠の申し伝えましたが、従順な秀忠もこの時ばかりは父の言葉を黙殺。
わずか17日間で6万の兵を京都まで進めました。
そして、11月19日、大坂冬の陣開戦!!
20万ともいわれる徳川軍に対し、9万の兵しか持たない豊臣軍は、大量の鉄砲で応戦します。
家康はこれを予測し、大量の鉄盾を作らせていましたが・・・
秀忠は、「鉄の盾など必要ない」と、受け取りませんでした。
この大坂の陣が汚名返上のラストチャンス・・・!!
家康の庇護下にいると思われたくなかったため、鉄盾を受け取らなかったのです。
一進一退となった冬の陣・・・両者の和睦によって集結します。
しかし、翌年5月、大坂夏の陣!!
汚名返上を果たしたい秀忠は、激戦地を希望!!
家康が首を縦に振ることはありませんでした。
その理由は・・・??
跡継ぎの秀忠を危険にさらしたくはなかった
豊臣家との決着を自分の手で付けたかった
などといわれています。
激闘の末、徳川軍の勝利に終わり、豊臣家は滅亡。
結局、秀忠はこの戦いでも目だった武功をあげることができなかったのです。
それから間もなくして秀忠の側近にこう伝えます。
「これからは何事も秀忠が決めよ
わしに伺い立てする必要はない
江戸で決めたことを駿府に伝えてくれればよい」
家康の引退宣言でした。
秀忠・・・豹変する
大坂夏の陣の翌年・・・1616年3月。
75歳の徳川家康は病の床にいました。
そして、2代将軍の秀忠を、枕元に呼びこう問いかけます。
「わしが死んだら天下はどうなると思うか」by家康
「乱れると思います」by秀忠
この答えを聞いた家康は、満足げに一言
「ざっと済みたり」・・・おそらく「そう思っていればよろしい」という意味ではないかと思われます。
再び天下が乱れることを覚悟していれば、本当に転嫁が乱れた際に慌てずに対処できるそういうふうに家康は考えていました。
翌月・・・4月17日、徳川家康は波乱の人生に幕を下ろしました。
そして、秀忠が名実ともに幕府の頂点に立ったのですが・・・家康の陰に隠れていた頃のダメな2代目から豹変・・・苛烈な大名統制をはじめました。
まず秀忠は、実弟の松平忠輝を改易・流罪に処します。
忠輝は、大坂夏の陣に遅参して、十分な働きが出来ずに怒った家康から謹慎を申し渡されていましたが、秀忠はそれでは生ぬるいとして忠輝の所領を取り潰し、伊勢国に流したのです。
不届き者は、身内でも許さないという見せしめでした。
さらに、関ケ原の戦いで東軍勝利に大きく貢献した福島正則に対し、居城を無断で修築しただけで安芸・備後50万石を没収、正則には弁明の機会すら与えませんでした。
その後も秀忠の大名統制は続き、親藩や譜代の大名でもお構いなし、取り潰した大名家41家、没収した石高は439万石にのぼりました。
秀忠は、自分に家康のような才覚やカリスマ性が無いことをよくわかっていました。
そのため、父のようには諸大名と統制できないと考え、力で抑え込む方法を選んだのです。
秀忠には、家康にできないことができました。
家康は、いろんな人物に恩もあり大名統制に躊躇があったのです。
しかし、秀忠にはしがらみが一切なく、幕府のためと割り切って大鉈を振るうことができました。
秀忠の大名統制によって、将軍の権威は高まりゆるぎない幕府の基礎を作り上げました。
秀忠・・・幕府の安定を図る
苛烈な大名統制によって将軍の権威を高め、江戸幕府の基盤を堅固なものにした秀忠。
さらに秀忠は、将軍と一握りの側近によって行われていたそれまでの政治体制を改め、集団合議制を採用します。
これによって、将軍の才覚に左右されない安定した政治ができるようになり、幕府の寿命を大きく引き伸ばしました。
カリスマ性のない時分では、父のようなトップダウンは無理と考えたうえでの改革でしたが、それが功を奏したのです。
また、秀忠は中国船以外の外国船の入港地を平戸と長崎に限定します。
キリスト教の排除に力を注ぎましたが、これがのちの鎖国政策の基礎となりました。
秀忠は、戦国の世を生き抜いた名将、猛将をつねに近くにおいて、彼らの言葉に謙虚に耳を傾け、政について貪欲に学びました。
その性格は、実直で非常にまじめでした。
生誕の日に労われても・・・
「将軍たるものは、常に己を慎み、死ぬ瞬間まで政を行い続ける義務があるのだ」
その思いは、病になっても少しも変わらず・・・
「天下の主が長生きを望んで政をなおざりにするなど畜生にも劣る行為だ」
そう言って、通常通り政務を行いました。
1622年、徳川家光が3代将軍に就任。
秀忠は45歳で大御所となりましたが、家臣たちの希望もあってそのまま政を続けました。
しかし、50歳を過ぎた頃から胸に激しい痛みを感じるようになり、元々悪かった片目を失明。
それでも秀忠は、毎日身なりを整え政務を行っていましたが・・・
病状は悪化の一途をたどり、ついには薬も受け付けなくなってしまいます。
死期を悟った秀忠は、家臣たちに
「わが命は幾ばくも無いが、今一度東照宮を詣でてここまで天下の安寧を保っていたことを父上に伝えたい」
秀忠は、父・家康に認めてもらいたいと、ずっと思っていました。
幕政に参加していた天海僧正が、見舞いにやってきて秀忠に問いました。
「大御所様(秀忠)は家康公のように神号をお受けにならぬのですか」
「我はただ先代の業績を守ってきただけで何の功徳もなく、神号などとんでもない
人はとかく上ばかりに目が行くが、己の分際を知らぬのが一番おそろしいこと」by秀忠
そう言って、神となることを辞退し、1632年1月24日、54歳でこの世を去りました。
何事につけ、父・家康を尊重し、傀儡将軍となることを受け入れ、家康の死後は幕府の基礎をしっかりと築いた徳川秀忠・・・
この2代将軍の実直さ、謙虚さ、賢さがあったからこそ江戸幕府は260年以上続いたと言って過言ではありません。
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