天下統一に向け、大きなターニングポイントとなった七つの戦い・・・これまでは、日本国内の出来事として描かれてきました。
ところが、海外で続々と新資料が発見されています。
そこから、ヨーロッパの国々が、戦国日本に深く関係していたことがわかってきました。
当時は、ヨーロッパの国々が富や領土を求め、世界各地に進出した大航海時代・・・。
大海原へと乗り出した彼等は、壮大な野望を秘め、戦国日本へと押し寄せていたのです。
この時、ヨーロッパの大国と対峙したのは、天下統一を目指す三人の英雄たちでした。
戦国の革命児・織田信長・・・その戦いを支援したのは、キリスト教の宣教師でした。
信長の後を継いだ豊臣秀吉の朝鮮出兵・・・その裏では、ヨーロッパの超大国と激しい駆け引きが繰り広げられていました。
戦国の世に終止符を打った徳川家康・・・その最後の戦いとなったのが、大坂の陣でした。
徳川と豊臣の争いの背景には、世界制覇を狙うオランダとスペインの激しい対立がありました。
ヨーロッパの大国が狙うのは、世界屈指の産出量を誇る銀・・・ジャパン・シルバーでした。
戦国日本は、世界のパワーバランスを塗り替えていきます。
世界規模の視点から明らかになる新たな歴史とは・・・??
愛知県新城市にある長篠の戦い古戦場・・・2019年夏、戦国の覇者・織田信長をめぐる大きな発見あがりました。
50人がかりで行われた初めての大規模な調査・・・
見つかったのは、長篠の戦いで信長軍が使った鉄砲玉でした。
ここに、信長と世界との意外なつながりがありました。
1575年長篠の戦い・・・織田信長VS.武田勝頼
武田信玄の後を継いだ勝頼が、騎馬軍団を率いて信長と同盟を結ぶ徳川家康の領地へと攻め入りました。
対する信長は、3万の援軍を送り家康を支援します。
武田軍と織田・徳川連合軍は正面からぶつかります。
甲斐を拠点に戦国最強と恐れられていた武田家・・・天下統一を目指す信長を脅かしていました。
宿敵・武田を打ち破るため、信長は当時最新の兵器だった鉄砲を大量に購入。
騎馬軍団を主力とする武田軍は、なすすべもなく敗れ去ったと言われてきました。
ところが、長篠の戦いの絵図をつぶさに見ると、武田軍の中にも鉄砲を構える兵士たちの姿があります。
実は、長篠の戦いは、鉄砲VS.鉄砲の戦いでもあったのです。
何が両者の勝敗を分けたのでしょうか??
その謎を解く手がかりが、武田家ゆかりの神社に残されていました。
山梨県にある富士御室浅間神社・・・武田家からの鉄砲玉に関する古文書です。
鉄砲玉のもととして徴収していたのは、お賽銭でした。
武田軍は、原料の入手に苦労していたのです。
その不足を補うため、銅で作られたお賽銭を鋳つぶし、鉄砲玉へと作り変えていました。
ところが・・・銅の弾丸は銃身に詰まりやすく暴発が多かったといいます。
一方、発見された信長軍の鉄砲玉の素材は鉛・・・当時の日本では極めて貴重な金属でした。
鉛の成分を解析すると・・・外国産でした。
信長軍の弾丸は、海外で産出された鉛で出来ていたのです。
どこの鉱山??
候補の一つとして浮かび上がってきたのは、日本から4000キロ離れた東南アジアのタイでした。
首都・バンコクから車で4時間・・・カンチャナブリ―鉱山です。
坑道の総距離は50キロ・・・アジア有数の巨大鉱山でした。
鉛の埋蔵量は、300万トン・・・鉄砲玉に換算すると、20億発に相当する巨大な鉛の生産地でした。
分子レベルでの研究によって、この鉱山の鉛と長篠の戦いで使われた弾丸の成分が一致しました。
海外の鉱山まで延びるこのネットワークこそが、信長の勝因の一つだったのです。
一体、信長はこのタイの鉛をどうやって手に入れていたのでしょうか?
それを紐解くカギが・・・2014年アラビア海で見つかりました。
沈んでいたのは、大航海時代の交易船です。
大量の武器、弾薬を運んでいました。
中には、ヨーロッパで作られた鉄砲・・・これらを運んでいたのは、ヨーロッパの国・ポルトガルでした。
信長が鉛を入手できたのも、この国の交易船のおかげだったのです。
イベリア半島の西側に位置するポルトガル・・・16世紀半ば、日本が初めてであったヨーロッパの国でもありました。
優れた航海技術で、大航海時代の先駆者となったポルトガル・・・
この国が、海外進出にあたり、特に力を入れていたものはそれが、キリスト教の布教でした。
カトリックの総本山・バチカン市国・イエズス会ローマ文書館
戦国日本に関する貴重な資料があります。
それは、戦国日本を訪れた宣教師の記録です。
ここに、日本に鉛を売るように命じたポルトガル人の名前が記されていました。
日本へと派遣された宣教師のリーダー・・・フランシスコ・カブラルでした。
当時、日本になかったメガネをかけていたため、”4つ目のカブラル”と呼ばれていました。
1572年、カブラルは初めて信長の屋敷を訪問します。
カブラルは、信長への軍事支援と布教を結びつけていました。
「天下統一をしたければキリスト教を支持せよ」
カブラルは、布教を後押ししてもらうため、戦に欠かせない軍事物資を信長に提供していたのです。
カブラルをはじめ、宣教師が担っていたのは、”全世界をキリスト教の国へ”という壮大な使命でした。
それを達成するため、宣教師が日本で極秘の情報活動をしていたこともわかっています。
1572年の記録・・・密かに進められていた将軍の暗殺計画を掴んだことを記しています。
信長配下の軍勢の動きも正確に把握、宣教師は、各地の日本人キリシタンと協力して、広大な情報網を築き、戦国武将の動向を探っていたのです。
宣教師は、日本人キリシタンから政治情勢について情報を得ていました。
それによって、日本の中枢で何が起きているのかも知ることができたのです。
宣教師は、布教拡大を図るため、各地の戦国武将に接触を試みていました。
その中で、最も有力な候補者と考えたのが、織田信長だったのです。
現在の愛知・尾張の領主だった信長は、急速に兵力を広げていました。
”信長はもともと弱小国の武将だったが、鋭い判断力と慎重さを持っていた”
信長は、宣教師と手を組んだことで、大量の軍事物資を獲得、長篠の戦いに勝利し、天下統一に大きな一歩を踏み出したのです。
しかし、信長の前に、最大の敵が立ちふさがっていました。
信長と10年に及ぶ死闘を繰り広げた大坂の石山本願寺です。
1570年~1580年 石山合戦・・・織田信長VS.石山本願寺勢力
石山本願寺を率いるのは、住職の顕如。
武装した僧侶や信徒を多く率いていました。
最新の鉄砲もいち早く導入し、信長軍を窮地に追い込みます。
さらに、各地の大名と連携し、信長包囲網を形成。
その勢力は、信長軍をはるかに凌いでいました。
苦境に立たされた信長・・・この時、救いの手を差し伸べたのが、あの宣教師でした。
機密文書には、石山合戦の記録も残されていました。
”日本のの渦たちが、信長に激しい戦いを挑んでいた
彼等は、キリスト教の代々の敵であり、我々の布教活動の妨げとなっている”
日本の仏教界は、キリスト教のライバルと言える存在です。
キリスト教の布教には、仏教が潜在的に有害な存在でした。
仏教界が弱体化すれば、キリスト教が勢力を伸ばせる・・・!!と、宣教師たちは考えたのです。
キリスト教以外の宗教は、邪教・・・悪魔の教えであると考えていた宣教師・・・信長の敵である仏教勢力が奇しくも宣教師たちの敵でもあったのです。
信長と宣教師は、起死回生の策を講じます。
キリスト教の布教に大きな貢献をした人々を祀るスペインの教会・聖イグナシオ洞窟教会には、カギを握った日本人が描かれていました。
キリスト教の信仰に人生を捧げた人々・・・フランスの国王、スペインの総督、そして・・・キリシタン大名・高山右近です。
この右近こそ、仏教勢力を打ち破る切り札でした。
右近は、石山本願寺に近い摂津国の領主でした。
ここが信長軍の攻撃拠点となれば戦いが有利になります。
1578年、高槻城・・・信長は、右近を説得するため宣教師を派遣します。
味方にならなければ、キリスト教を弾圧すると脅していました。
”この国のキリスト教の行く末が、あなたの決断にかかっているのですぞ・・・!!”
宣教師は、度々右近のもとを訪ねて説得します。
右近を中心に、1万人を超えるキリシタンの援軍を得た信長軍・・・宣教師の力を借りて、ついに、最大の敵をうち破ります。
天下統一を目前にした信長は、日本の新たな中心とすべく、安土城を築城します。
城下町には、宣教師の希望を受け入れ、キリシタンを養成する神学校が建てられました。
安土に神学校を建設すれば、キリスト教の宣教師が主流派になったと日本人が理解すると考えたのです。
キリシタンの勢力拡大を狙っていた宣教師・・・それを示す資料がポルトガルで発見されました。
その南蛮屏風・・・修繕をしようと裏側を外したところ、驚くべき発見がありました。
補強のために使われていた書簡やメモ類が大量に表れたのです。
日本の和紙だからこそ、現代まで残ったものでした。
屏風から、神学校で使われたと思われる教科書が見つかりました。
天使や悪魔も知らなかった当時の日本人・・・悪魔は天狗になぞらえて教えられていました。
神学校に通っていたのは、10歳から18歳までの各地の大名や有力武将の子供たち・・・
彼等を取り込むことで、宣教師たちは日本国内に着々と勢力を伸ばしていました。
信長に取り入ることに成功した宣教師・・・しかし、宣教師は、信長の想像を超える野望を秘めていました。
インド・ゴア・・・ヒンドゥー教徒が多いインドで、人口の3割がキリスト教徒という珍しい街です。
きっかけは、大航海時代に遡ります。
コショウやクローブなどアジアで取れる香辛料を求め、ポルトガルの船が到来・・・
同時にゴアの街にもたらされたのが、キリスト教でした。
街を武力で制圧し、伝統的なヒンドゥー教の施設をことごとく破壊・・・跡地に教会を立て、住民たちに改宗を強いたのです。
従わないものには、容赦ない罰が待ち受けていました。
過激な理論ですが、改宗は精神を征服することでした。
心を支配することで、ヨーロッパ型の思想や社会を広めようとしたのです。
キリスト教の布教に秘められていた征服の意図・・・
ポルトガルによるゴアの支配は、そののち400年以上も続きます。
こうした脅威が、戦国日本にも迫っていたのです。
日本をキリスト教の国に作り替えようとした宣教師カブラル・・・その為の具体的なプランが、資料に記されていました。
”信長をキリスト教に改宗させる・・・そうすれば、日本人を素早くキリスト教に改宗することができる”
カブラルは、早速信長の説得に向かいます。
”デウス様のみが国を支配する力がある
天下統一を望むのなら、デウス様に仕えるのです”
”わしに、キリシタンになれと申すか・・・!!”
信長自身は改宗しなかったものの、一族や家臣が改宗することは認めます。
信長は、宣教師の計画を察知しながらも、軍事物資を手に入れるため手を組み続けたと考えられています。
信長にとって、それは天下統一の為でした。
しかし、キリスト教勢力が、力を増すことは秩序を乱すリスクでもありました。
信長は、敵に対抗するための駒とみて、リスクに目をつぶっていました。
ところが、石山合戦が集結した1580年、宣教師の計画を加速させる事態がヨーロッパで起きました。
征服王と呼ばれたスペインのフェリペ2世がポルトガルを併合したのです。
これは、世界情勢を大きく塗り替える事態でした。
当時、無敵艦隊を抱え、世界有数の海軍力を誇ったスペイン・・・そのスペインが、ポルトガルの広大な植民地をも飲み込んで、世界の覇権を手中に収めたのです。
日の沈まない大国・・・スペイン帝国の誕生でした。
フェリペ2世は、世界帝国を築くことで、キリスト教を中心とした生き方を強制しようとしました。
布教によって”救済”と”進歩”が社会にもたらされる・・・征服は”正当な戦争”だと考えていました。
「アジアの征服に尽力せよ」byフェリペ2世
この指令は、日本にいる宣教師たちにも直ちに伝えられました。
戦国日本に迫る、大国スペインの脅威・・・対する信長は・・・??
宣教師の情報網がつかんだ信長と家臣・豊臣秀吉の会話は・・・
「宣教師は密かに征服計画を進めている」by秀吉
宣教師を脅威ととらえ、進言します。
しかし、信長の考えは異なっていました。
スペインが、はるかヨーロッパから大軍を送り込むのは難しい・・・日本が直ちに征服されることはない・・・と、信長は踏んでいたのかもしれません。
さらに、信長の判断に影響を与えたと言われているのが、戦国に日本で行われていた軍事革命です。
鉄砲の信管・・・海外産より日本産の方が不純物が分散されて作られていました。
つまり、国産の銃身の方が強度が安定しているのです。
日本の鉄は、和鉄といって、砂鉄精錬によって作られています。
非情にきめ細やかに鍛錬されているのです。
そのカギとなるのは、日本の玉鋼をはじめとする和鉄を鍛錬する高度な技術でした。
秘密は、鍛造と呼ばれる技法にあります。
この技は、日本刀の製作で磨かれたものです。
鉄を鍛え上げることで、強度を飛躍的に高めたのです。
日本の鉄砲は独自のイノベーションを遂げていました。
この進化した鉄砲の大量生産を推し進めたのが、信長でした。
信長が直轄地として治めた堺の町・・・
地元の商人が、鉄砲伝来の地・種子島からいち早く製造方法を持ち帰り、一大産地へと発展しました。
見つかったのは、鉄砲の製造について記された2万点の古文書・・・戦国時代には、堺に鉄砲鍛冶が住んでいた・・・
その職人たちのリスト・・・銃身から台座、火蓋まで、戦国時代には分業制がとられ、鉄砲の大量生産が行われていたのです。
戦国日本にあった鉄砲の数は、30万丁と呼ばれ、世界一の銃大国だったのです。
世界でも突出した軍事力を手中に収めていた信長・・・
その様子をつぶさに見ていた宣教師は、計画の変更を迫られます。
”日本は絶え間なく軍事力を高めている
ここで日本と戦争をすることは、得策ではなかろう
だが、この軍事力は将来必ずスペインの利益となるであろう”アレッサンドロ・バリニャーノ
日本の軍事力をどう利用するのか??
その記述が、スペイン帝国に宛てた宣教師の秘密文書に記されていました。
浮かびあがってきたのは、アジア征服に向けた壮大な計画でした。
”我々の最大の目標は中国の征服である
それは、スペイン国王の権力の発展につながる”
当時、明と呼ばれた中国は、アジア最大の国土と人口を抱えていました。
さらに、高価な陶磁器や絹織物を生産する世界一豊かな国でもありました。
キリスト教がアジアを席巻するためには、この国の征服が不可欠だと考えられていました。
”スペイン国王が行う中国征服事業の為、日本は非常に有益な存在となるあろう”
当時日本は、中国に比べて非常に好戦的な国だと考えられていました。
宣教師は、日本の軍事力を利用すれば、中国の征服も可能だと分析していました。
アジア征服の為、日本の軍事力を利用しようとする宣教師・・・
宣教師がもたらす軍事物資を使って、天下統一を目指す信長!!
お互いの利益のために結び付いてきた両者・・・しかし、その関係に終わりが近づきます。
信長の言葉です。
「我、神にならん!!」by信長
天下統一を目前に自信を深めた信長・・・キリスト教の神ではなく、自分こそこの世の支配者だと宣言したのです。
それは宣教師にとって、許せない発言でした。
”信長は、悪魔に取りつかれた”
信長は、意のままにはならない・・・
戦略の立て直しを図ることとなった宣教師・・・新たな計画に乗り出します。
実行の部隊は、信長の拠点から遠く、中国大陸にも近い九州・・・
宣教師が作った計画書には・・・??
”長崎を強大にするため、住民全員に武器を持たせよ”
宣教師は、1580年、貿易港として栄える長崎一帯をキリシタン大名から譲り受け、直接支配下に置きます。
岬の発端にあった教会を難攻不落の要塞へと作り変えました。
さらに・・・当時、世界最先端の兵器だった大砲・・・鉄砲に比べ、破壊力も格段に増していました。
宣教師が大砲を送った大名の名が砲身に残されていました。
”フランシスコ”・・・現在の大分・豊後国の戦国大名・大友宗麟の洗礼名です。
宣教師から最新の兵器を贈られた九州の大名たちが、次々にキリスト教に改宗していました。
九州は、宣教師たちにとって、征服計画を始めるためのプラットフォームでした。
宣教師が蓄えた強大な軍事力は、信長にとって大きな脅威になっていきます。
1580年代、キリスト教の勢力範囲は九州を中心に10万人に増加。
巨大な勢力へと成長していました。
宣教師を天下統一への駒と考えていた信長・・・しかし、宣教師は、信長の想像を超えたアジア征服計画を実現しようとしていたのです。
緊張をはらんだ両者の関係は、突然の事件によって断ち切られます。
1582年、本能寺の変!!
京都にいた信長が、家臣・明智光秀の軍勢に襲われたのです。
この時のことを、宣教師はつぶさに記録していました。
”信長は、襲撃を察知できていなかった
なぎなたで戦った後、銃弾を受けた”
信長は、自身を戦国の覇者へと導いた鉄砲に撃ち抜かれました。
天下統一を目指す信長の野望は、ここに砕け散りました。
その後、信長の遺志を継ぎ、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。
キリシタンは脅威だと信長に進言していました。
ところが・・・スペインで発見された資料によると・・・
”信長の死はキリシタンの増加につながった”
秀吉の時代、国内のキリシタンは順調に増え続けていたのです。
そのきっかけは、秀吉と光秀が繰り広げた信長の跡目争いにありました。
1582年、山崎の戦い
本能寺の変の11日後に起きた山崎の戦い・・・
豊臣秀吉が、謀反人・明智光秀を討ち果たした戦いです。
毛利攻めの最中だった秀吉は、主君の訃報を聞くや破竹の勢いで京へと駆け戻り、光秀を打ち倒します。
この戦いにも宣教師の影が・・・!!
スペイン・エスコリアル修道院にその実態を紐解く資料が残されていました。
”右近の活躍によって敵を撃破した”
とあります。
右近・・・高山右近です。
石山合戦で活躍したキリシタン大名でした。
秀吉が勝利するとした宣教師が、高山右近らキリシタン大名に対し、秀吉側につくよう働きかけていたのです。
”光秀は暴君、神父たちに危険が及ぶので、決して味方してはならない”
右近たちが勝利すれば、キリスト教の勢力拡大に有利に働きます。
宣教師は、情勢の変化に期待していたのです。
秀吉軍の先鋒を務めた右近・・・
見事な活躍を見せ、秀吉の家臣に取り立てられます。
キリシタンの力を利用することで、天下統一を目指した秀吉・・・政権中枢には、多くのキリシタン大名が名を連ねました。
この時代、キリスト教の教えが、急速に広まっていたことも明らかになっています。
京・大坂の中心に位置する高槻城・・・山崎の戦いで活躍した高山右近の居城です。
2019年、二の丸の発掘調査が行われ、巨大な堀の跡が見つかりました。
当時、最新の設備だった石垣・・・堀の底に土手を築き、敵の侵入を難しくさせる障子堀・・・堅固な城の実態が明らかになりました。
三の丸の跡から見つかったのは、27基に及ぶキリシタンの墓でした。
遺骨のそばには、数珠のような玉が散らばっていました。
ロザリオでした。
埋葬されていたのは、子供から老人まで、様々な年齢の男女でした。
武士や特権階級だけが葬られるのではなく、年齢の差も、性別も、隔たりのない、一般の方も眠っている墓地でした。
博愛、身分差のない信仰の教えを形にしています。
秀吉の時代、日本のキリシタンは30万人を突破。
こうして、信長の死後もキリスト教の信者は着々と増えていたのです。
1587年、天下統一を目前にした秀吉のもとで、思わぬ追い風が吹き始めます。
”秀吉殿は日本を平定したあとは、どのように・・・??”
「明国への出兵・・・!!」by秀吉
秀吉が、次なる目標と語ったのは、奇しくも宣教師の狙いと同じ、明への遠征でした。
宣教師は、この機会を見逃しませんでした。
”我らの軍船をお貸ししましょう
キリシタンも意のままに動きましょう”
1592年~1598年 朝鮮出兵
1592年、キリシタン大名を先陣とする大部隊が、海を渡りました。
中国征服の足掛かりにしようと始まった朝鮮出兵です。
日本軍の猛攻撃を受けた朝鮮軍は、劣勢を強いられます。
これに対し、中国の明が朝鮮に大規模な援軍を派遣。
闘いは激化し、推定で74万人が動員される大戦争となりました。
この時、最前線で戦うキリシタン大名の犠牲が急増・・・
しかし、それは秀吉にとって戦略の一環だったと考えられています。
朝鮮出兵を通じて、中国の征服を目指した秀吉は、実はもう一つの思惑を秘めていました。
キリシタン大名を最前線で戦わせることで、消耗させ、軍事力を弱体化させようとしていたのです。
拡大を続けるキリシタン勢力を脅威ととらえ、その力を削減しようとしていた秀吉・・・
これに先立ち、日本では伴天連追放令が出され、キリスト教の布教も禁じられていました。
キリシタンが所有する神社仏閣の破壊や改宗を強制、キリスト教の布教活動が目に余るようになっていたのです。
秀吉に忠誠をつくして来たキリシタン大名の高山右近も、領地を没収され、国外追放を命じられます。
宣教師の思惑とはかけ離れた形で進んでいくアジア征服計画・・・!!
さらに、宣教師たちにとって想定外の事態が起きます。
スペインの植民地・フィリピン・・・宣教師は、現地からの情報で、秀吉の野心がフィリピンにも向かったことを知ります。
”日本の密偵が放たれている
秀吉の狙いは、フィリピンからスペイン王に送る大量の金である”
秀吉が狙ったのは、スペインの富・・・征服王・フェリペ二世の植民地を奪うことで、朝鮮出兵の戦費を賄おうとしていました。
「スペインの富を手に入れよ!!
そして、明国を討ち滅ぼすのじゃ!!」by秀吉
”秀吉は、傲慢と野心の塊で、世界を簡単に支配できると考えている”
フィリピンの状況を知ったヨーロッパの超大国スペイン・・・一触即発に備え、警戒します。
有史以来、人類が体験したことのない未曽有の事態でした。
アジアを発火点に、「最初の世界戦争」が起きようとしていたのです。
戦国時代、ヨーロッパから伝わった兵器を進化させ、世界屈指の軍事国家へとなった日本。。。
秀吉の底知れぬ野心によって、ヨーロッパとアジアが激突する世界戦争の危機を招いていたのです。
しかし・・・1598年、緊迫した恐恐が一変します。
スペインのフェリペ2世が急死・・・その5日後、日本で秀吉が死去。
日本軍が朝鮮半島から撤退を決定します。
宣教師と秀吉が思い描いた中国征服計画は、ここに幕を閉じたのです。
1600年 関ケ原の戦い
秀吉の死から2年後、天下をにぎわす大決戦が行われました。
天下分け目決戦・・・関ケ原の戦いです。
東軍を率いるのは信長・秀吉のもとで力を蓄えていた徳川家康でした。
対する西軍は、石田三成を筆頭とする豊臣恩顧の武将たちが参戦していました。
総勢20万ともいわれる大軍が激突した史上空前の合戦・・・!!
しかし、家康の策によって、西軍から寝返る武将が相次ぎ、半日足らずで勝敗が決します。
この家康の勝利には、当時新たにヨーロッパで力を持ち始めた国が深く関係していました。
大航海時代・・・新興の商業国家として世界各地に進出していたオランダです。
オランダと戦国日本との運命の出会いは、関ケ原の戦いの半年前に遡ります。
オランダの貿易船が、嵐に見舞われ難破・・・命からがら日本にたどり着きました。
船には、最新式の銃500丁、弾5000発、火薬300kg・・・大量に積まれていました。
このオランダ船に目をつけたのが、徳川家康でした。
家康は、自ら生き残った船員たち(ウィリアム・アダムス、ヤン・ヨーステン)を尋問しました。
この時の詳細なやり取りが、記録に残されています。
”家康は、スペインとの戦争について詳しく知りたいといった
私は、家康が満足するまで、ヨーロッパの覇権争いについて説明した”
当時、大国スペインの支配下にあったオランダ・・・
圧政を逃れるべく、独立を宣言し、激しい戦争をはじめていました。
しかし、スペインの力は強大でした。
世界中の植民地から、莫大な富を獲得。
この財力で無敵艦隊という最強の海軍を支えていました。
独立間もないオランダは劣勢に・・・
この時、オランダが考えたのが、外国との貿易によって軍資金を得ることでした。
その計画の鍵を握るのが、戦国日本でした。
2016年、日本とオランダの知られざる関係を示す資料が見つかりました。
日本に滞在したオランダ商館にあった日誌や手紙などの膨大な記録です。
これは、謎だったオランダ貿易の実態を明らかにするものでした。
どういう商品が貿易されて、どんな商売の仕方をしていたのか・・・??
日本の資料にない記述や出来事もたくさん記録されていました。
史料には、戦国武将の懐に入り、利益を上げようと奔走するオランダ商人の姿が書かれていました。
”徳川家と豊臣家との間に戦争がおこるという確かな情報を入手した
戦場で着る陣羽織の需要が高まるに違いない
生地を売り込むチャンスだ
ありったけを送れ”
オランダには、これまで日本にやってきた船と大きく違う点がありました。
ポルトガルやスペインが重視していたのが、キリスト教の名のもとに信者を増やし、自国の領土を広げることです。
それに対し、商人たちが作った国・オランダは、布教にこだわらず、純粋に利益を上げることだけを目的としていたのです。
「日本に来た狙いは?」by家康
”貿易です
我々の武器を買えば、あなたはより強くなるはずです”
天下取りを目指す家康・・・軍事力を強化するために、オランダの提案は渡りに船でした。
家康は、船員たちを家臣として召し抱えることを決めます。
船に積まれていた大量の武器弾薬は、家康の手に収まることになりました。
この半年後に起きたのが、関ケ原の戦いだったのです。
当時の宣教師の記録に、その様子が記されています。
”徳川軍が撃つ嵐のような弾丸
瞬く間に三成たちの軍は総崩れとなった”
両軍の火力差は歴然でした。
オランダの武器を手にした家康が勝利を得たのです。
しかし、家康が天下を取るには最大の障壁が残されていました。
父・秀吉の跡を継いだ豊臣秀頼です。
2019年、大坂城そばの発掘調査で、秀頼に関する新たな発見がありました。
巨大な建物跡・・・秀頼に従う大名屋敷がありました。
こうした大名屋敷が、大坂城を中心に幾つも立ち並んでいたのです。
これが、秀頼の絶大な力を示しています。
当時、大坂を訪れた外国人の記録には、こう記されています。
”大坂は、日本で最も素晴らしい商業都市、堅固な城を持っている
秀頼さまは皇帝になるかもしれない”
父・秀吉から莫大な遺産を受け継いでいた秀頼・・・その元には、豊臣家に忠誠を誓う武将たちが集結していたのです。
激しさを増す徳川家と豊臣家の争い・・・
同じ頃、ヨーロッパでもオランダとスペインの戦いが新たな局面を迎えていました。
1602年、世界初の株式会社・オランダ東インド会社の誕生です。
グローバル経済の先駆者となるオランダ・東インド会社・・・本来、国の持つさまざまな特権が一つの会社に託されていました。
外国の領主と独自に条約を結ぶ権利、兵士を雇い要塞を築く権利、さらに、貨幣を作り権利まで・・・最前線に立つ商人に、強力な権限を与えることで、迅速な海外進出を目指し、宿敵スペインに打ち勝とうとしたのです。
オランダ東インド会社は、貿易に関するあらゆる権限を持った非常に洗練された組織でした。
その目的の一つは、スペインの海外での収益を奪うことです。
つまり、経済戦争に勝利することでした。
この世界初の株式会社は、戦国日本に正式な使節を送り込みます。
オランダ商館長のジャック・スペックスです。
オランダ東インド会社が狙っていたのは??
近年、ヨーロッパの沖合・ジブラルタル海峡でそれを紐解く発見がありました。
水深1100mに沈んだ貿易船の調査・・・莫大な数の財宝が引き上げられました。
59万枚・・・17トンに及ぶ銀貨・・・その銀こそが、世界の覇権を握る原動力でした。
16世紀、アメリカ大陸で大規模な銀山が見つかると、銀貨が大量に作られます。
ヨーロッパの商人たちは、この銀貨を使い、東南アジアの香辛料や中国の陶器など、世界各地の商品を購入できるようになりました。
銀は、ヨーロッパとアジア、アメリカをつなぐ、世界初の国際通貨だったのです。
当時、この銀を独占していたのが、世界最大の帝国スペインでした。
スペインは、新大陸の植民地で、巨大な銀山を次々と開発、世界の生産量の8割を握っていたのです。
一方、新興の商業国家オランダ・・・
スペインに対抗するために、銀の独自の入手先が必要でした。
当時、オランダは、スペインに対して独立戦争をしています。
世界貿易に乗り出すのであれば、銃南米、スペイン領以外のどこかで銀を入手できる地域を確保する必要がありました。
そして、アジアで最も銀を多く生産しているのが日本だったのです。
16世紀にヨーロッパで出版されたドラード「日本図」・・・そこには、銀山王国と記されていました。
戦国時代に、日本は銀の産出国として知られていたのです。
”この国の銀山から我々がB必要とする銀すべてを採掘できる可能性がある
秘密裏に佐渡の銀を調査せよ”
新潟県佐渡島・・・戦国時代、ここに日本最大級の銀山がありました。
この銀山の開発を進めたのが、徳川家康でした。
家康は、豊臣家と対抗する資金源として銀を重視・・・関ケ原の戦いのあと、一早くを押さえていました。
家康の号令で始まった佐渡のシルバーラッシュ・・・
家康は5万人の労働者を送り込み、昼夜交代で休みなく採掘を進めました。
佐渡全体での埋蔵量は、2300tを超え、世界トップレベルの銀山でした。
家康が、幕府を開いたときに、一番日本で勢いのある鉱山であることは間違いありません。
ここから出る金銀を当てにしていたのは、間違いありませんでした。
家康は、佐渡をはじめ、全国各地で次々と鉱山開発を進めました。
日本の銀の生産量は、急速に拡大し、年間100トンを超えます。
世界の生産量のおよそ1/3を占めました。
日本の銀を狙うオランダのスペックス・・・
調査の結果、佐渡の銀は、スペインの銀以上に純度が高いことがわかりました。
しかし、当時、良質の銀を国外に持ち出すことは、禁じられていました。
スペックスは家康との交渉に乗り出します。
スペックスは、家康が好む商品を入念に調査・・・献上品として用意していました。
”家康さまの贈り物として、美しい毛織物、色とりどりのガラス、最高級の鏡が喜ばれるだろう”
スペックスは、非常に柔軟で、日本に適応して、習慣や文化も理解しました。
オランダの動きに焦ったのが、スペインでした。
家康のもとに使者を送りこみます。
ロドリゴ・デ・ビベロです。
ビベロは、家康との交渉に有効なカードを持っていました。
鉱山技師です。
最先端の技術を持つ技師がいれば、日本の銀の生産量を伸ばすことができる・・・!!
ところが、
”鉱山技師を派遣するには、条件がございます
新たに採掘した銀の半分はスペインのものとすること
オランダ人を国外追放すること”
オランダ人を排除し、銀を独り占めを狙うスペイン・・・中でも最重要の条件がありました。
”キリスト教の教会を建て、宣教師を置くこと”
スペインは、必ずしも商人ではなく聖職者もついてきます。
彼等にとって、キリスト教布教と貿易は、表裏一体であったのです。
必ずキリスト教布教も許しなさいの一点張りでした。
全世界をキリスト教の国にしようとしたスペイン・・・キリスト教の布教が、家康の欲する鉱山技師派遣の条件とされたのです。
そこには、隠された狙いがありました。
ビベロが国王に送っていた文書には・・・
”日本には数多くの銀の鉱脈があります
この地に侵入するのは極めて有益です
しかし、軍事力に秀でた日本を征服するのは容易ではありません
キリスト教の布教を進めるべきです
キリシタンが増えれば、家康の死後、陛下を新たな王仰ぐぐことでしょう”
キリスト教の布教の先にあるアジア征服計画が、再び始まっていたのです。
スペインの野心を察知したオランダは、家康に訴えます。
”スペインは、キリスト教を広め、キリシタンの反乱によって国を崩し、征服しようとしています。
フィリピンやメキシコも、この方法で支配下に置き、植民地にしてきたのです。”
家康が選んだのは、オランダでした。
家康は、軍事物資と交換にオランダに銀を渡すことを約束します。
世界屈指の生産量を誇った日本の銀・・・オランダは、巧みな交渉術でその扉を開くことに成功したのです。
オランダは、スペインがキリスト教を広めた後、国を征服するとはっきり家康に進言しています。
尚且つ、自分たちは宗教を広めず、貿易にしか関心がないと始めから明言しました。
江戸幕府は、色々な情報を判断して、オランダならば自分たちの望むような貿易をしてくれると期待したのです。
一方、スペインに対して家康は不信感を募らせていました。
”キリシタンの徒党、日本の占領を企てている
後世必ず国家の患いとなろう”
1612年、禁教令を出します。
各地で厳しい弾圧の嵐が吹き荒れました。
この時、キリシタンに手を差し伸べたのが、家康と敵対する大坂城の主・豊臣秀頼でした。
”秀頼様は、自由な布教と教会の建設を約束してくださった”
家康との直接対決が近づいていたこの時期、禁教令によって行き場を失っていたキリシタンの兵力は、豊臣方にとって喉から手が出るほど欲しい存在でした。
秀頼は、宣教師を通じて全国各地のキリシタンに働きかけます。
キリシタンは軍事勢力として考えたとき、全国からやってきたらかなりの数にのぼりました。
南蛮国から援軍がやってくるということを、城内に籠っている人たちは信じていました。
そのような期待は、江戸幕府と戦うにあたって大阪城でもありました。
豊臣軍は、総勢10万の大軍に膨れ上がっていました。
1614年~1615年、大坂の陣
戦国最大にして最後の合戦となった大坂の陣・・・
キリスト教を禁止した家康、キリシタンの援軍を得た秀頼・・・
大坂の陣は、キリスト教布教の行く末を左右する戦いでもあったのです。
大軍で四方から攻め寄せる徳川軍・・・
しかし、豊臣軍から一斉射撃を浴びせられ、大坂城に近づくことも困難でした。
窮地に陥った家康・・・
豊臣軍善戦の裏には、宣教師とつながるキリシタン勢力の存在がありました。
決戦の舞台となった大坂城の発掘調査で・・・
地下から現れたのは、豊臣軍の軍事基地の跡でした。
そこから、作りかけの鉄砲玉が発見されました。
大坂城下では、戦のさ中、銃弾の製造がおこなわれていました。
それを可能にしたのが、スペインとつながるキリシタン商人だったのです。
キリシタン商人は、玉の原料となる鉛をかき集め、大坂城に運び込んでいました。
追い詰められた家康・・・起死回生の策とは??
大砲による大坂城への直接攻撃です。
しかし、徳川軍の陣地から本丸までは、最短でも500m・・・従来の大砲の有効射程を超えていました。
この時、家康が頼みの綱としたのがオランダでした。
”家康さまが、大砲と砲弾をすべて購入することを報告する”byスペックス
家康の待ち望んだオランダの大砲・・・
17世紀にオランダが開発したブロンズ製の大砲です。
当時、最新式のカノン砲です。
オランダ東インド会社は、海外の戦場で売れる商品として大砲に着目・・・
多額の開発資金を投じ、イノベーションを加速していました。
オランダは、ヨーロッパの軍事産業の中心地で、常に新兵器の開発が行われていました。
最新式の大砲を積んだオランダの船は、武器市場を世界に広げました。
特に成果を上げたのが、戦国時代の日本だったのです。
オランダの大砲の技術は・・・??
有効射程は500m以上、世界各国で開発された大砲の中でも、群を抜く性能でした。
絶大な衝撃力で、その恐怖は尋常ではありませんでした。
最新式のオランダの大砲12門が、戦いのさ中家康のもとに届けられました。
さらにオランダは、熟練の砲手を送り込んで、徳川軍を支援します。
砲弾は、天守と御殿を直撃・・・多数の死傷者を出します。
キリシタンを率いる秀頼は、戦意を喪失。
家康は、オランダの力をかり、150年にわたる戦国の世に終止符を打ったのです。
戦いの背後で暗躍していたスペックス・・・
大坂の陣を機にオランダ東インド会社は待望の銀を手にします。
”家康さまに、大砲と砲弾を納品した
代金は、銀貨1万2000枚にのぼる”
家康の信頼を勝ち得たオランダ・・・年々取引高を伸ばし、最盛期には年間94tもの銀が日本から運び出されます。
銀だけではなく・・・さらに、日本から輸出されたある物が、世界の覇権を左右していきます。
オランダの積み荷リスト・・・火縄銃や槍、日本刀・・・戦乱の中で性能を高めた日本製の武器は、恰好の商品でした。
さらに、武器と共に数多く記されているのが、日本人の名前です。
ひとりひとりに細かく給料が定められています。
彼等の正体は、金で雇われ、海外の戦場で戦う日本人傭兵でした。
日本の侍たちが、商品として輸出していたのです。
背景にあったのは、日本の戦国時代が幕を閉じたことでした。
天下泰平の江戸時代が訪れると、それまで戦を生業としていた多くの侍が失業・・・新たな戦いの場を求めていたのです。
日本人傭兵の総数は、おそらく数千人を超えていました。
彼等は、アジア各地に散らばり、ヨーロッパ勢の植民地争いで大変重用されました。
とても豊富な戦争経験を持っていたからです。
東南アジアで繰り広げられていたオランダとスペインの植民地争奪戦・・・この戦いの鍵を握っていたのが日本人傭兵でした。
知られざる戦国・・・日本人傭兵の戦い
日本人傭兵を雇い入れるために家康との交渉役となったのが、あのスペックスでした。
スペックスのもとに、東南アジアの植民地総督から救援要請が届きます。
”スペインとの戦争に投入するため、果敢な日本人を可能な限り送ってくれ”
スペックスは、日本の侍を、一気に数百人規模で雇いあげようと画策します。
その実現のため、家康との直接交渉に乗り出しました。
オランダから武器を入手し、利益を得ていた家康・・・スペックスの申し出を特別に許可します。
”家康さまに日本人傭兵の出国許可を願い出た
とても見事な兵士を届けることができるだろう”
日本人傭兵を手にしたオランダ・・・スペインがしはいするモルッカ諸島に定めます。
モルッカ諸島は、スペインの最重要拠点の一つでした。
特産品の香辛料は、一粒が同じ重さの銀に匹敵すると言われ、莫大な利益を生む商品でした。
スペインは、モルッカ諸島の各所に強固な要塞を築き、防備を固めます。
オランダは長年その攻略を試みるも果たせずにいたのです。
この時、突破口を切り開くために投入されたのが、日本人傭兵だったのです。
モルッカ攻略作戦
夜の闇に紛れて軍艦を近づけ、砲撃を加える
敵がくぎ付けになっている隙に、歩兵隊が上陸
夜が明けるとともに、敵の死角から一気に攻め入りました
先陣を切ったのは侍たち・・・槍や日本刀による接近戦で、敵を切り崩しました。
侍たちの決死の攻撃で、要塞は陥落・・・オランダは勝利を手にしました。
”日本の傭兵は、オランダ人以上に勇敢だった
彼らの旗が、城壁に最初に掲げられた“
勢いに乗ったオランダは、スペイン・ポルトガルの植民地を次々に奪取。
東南アジアにおける優位を確立します。
インドネシアのジャカルタに築かれたオランダ東インド会社の総督府・・・家康が送り出した日本人傭兵が、世界のネットワークを大きく似り変えたのです。
こののち、世界の海を行くヨーロッパの船の3/4にオランダの旗が翻ることになります。
世界屈指の産出量を誇ったジャパン・シルバー。
長きにわたる戦乱の世が最強の兵士・侍を・・・オランダは、戦国日本と結びつくことで、世界の覇権を握ることとなったのです。
大航海時代の世界は、ヨーロッパの視点で語られることがほとんどです。
しかし、それは、物語の一部にすぎません。
戦国時代の日本は、まさに世界史の最前線だったのです。
戦国日本と深く結びついていた激動の世界・・・今、アジア各地で様々な調査が行われています。
ベトナム・ラム川の河口・・・音波探査機の調査では、朱印船が沈んでいるのでは??
朱印船とは、家康の正式な許可を得て送り出された貿易船です。
日本の銀と引き換えに、国内では手に入りにくい生糸や絹織物を輸入していました。
日本版・大航海時代を夢見た家康・・・この計画を支えていたのがオランダでした。
世界の海で培った技術や造船方法を家康に惜しげもなく提供。
多い時には年間30隻近くの船が、ベトナムやタイなど東南アジア各国との間を往復していました。
この朱印船に乗って、多くの商人たちが海を渡っていました。
その痕跡を探る調査も行われています。
海を渡った日本人商人たちは、東南アジア各地で活躍、日本人町を形成していました。
ヨーロッパの人々が続々とアジアに押し寄せた大航海時代・・・
それはまた、日本人が未知の大海原へと漕ぎ出した時代だったのです。
世界と初めて対峙した戦国日本・・・
小国の領主に過ぎなかった信長は、宣教師とつながることで戦国の覇者へと上り詰めました。
天下統一を成し遂げた秀吉は、超大国スペインを出し抜き、海の向こうまでその野望を広げました。
そして、新興国オランダと結び、250年もの天下安泰をもたらした家康・・・
3人の天下人は、ヨーロッパの大国と熾烈な駆け引きを繰り広げながら、この国の進路を決定づけていきました。
戦国・・・それは、日本が激動の世界と向き合った最初の時だったのです。
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