日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:秀吉

今回のTHEナンバー2は、豊臣秀次です。

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秀吉によって後継者とされながら、死へと追いやられた人物です。

京都・三条河原に立つ瑞泉寺に、関白になりながら汚名を着せられて切腹した男、豊臣秀次が眠っています。

豊臣方の書物には、悪逆非道な摂政じゃなくて、殺生関白として書かれています。

その首塚も、「悪逆塚」とされていました。

武功夜話によると、
「殺生関白として汚名、天下に、後の世に伝う」とあります。
後世では、殺生関白で、女好きとされている秀次、これは、秀吉の腹心があげつらったものです。

しかし、近年の研究によって、それは捏造であることが解りました。追い落とした秀吉が、大げさに書かせた悪人像だったのです。

かつて治めた、滋賀県近江八幡市では、町おこしの英雄とされ、地元有志によって結成された「秀次倶楽部」なるものがあり、愛されています。


秀次は、No,2になるべくして生まれてきました。
生まれたのは、1578年、秀吉の姉「とも」と、「やすけ」の子でした。この年、信長は上洛し、秀吉は京都奉行に抜擢された年でした。

この秀次、子供のいなかった秀吉が政略の道具として使います。

2歳の時に、浅井家の重心・宮部継潤を寝返らせるために養子に・・・2回目は阿波に勢力を誇っていた三好康長に・・・。将棋の駒のように生きてきました。

自らの存在を主張したのが16歳の時。
1584年小牧・長久手の戦いでした。池田恒興が三河への奇襲攻撃を提案します。乗り気でない秀吉に、

「それがしが、大将として参ります。奇襲の件、是非ともお許しくださりませ。」と願い出ます。

が、これが失敗し、裏目に。。。見るも無残な大敗北でした。
この結果、秀吉は家康と講和せざるを得なくなります。

秀吉が、秀次に宛てた手紙には・・・。
「秀吉の甥であることを鼻にかけ、傲慢な振る舞いが目立つ。ただ今のように、無分別で、うつけであるならば、人に恥であるからお前を斬らなければならない。」

と、書かれています。
少ない身内なので、他人の目もあることだし、叱責することで、やる気を引き出させたかった、愛情の裏返しでした。

後のない秀次、
1585年根来・雑賀衆攻略。
    四国・長宗我部氏攻略。
豊臣家の勝利に大きく貢献します。

これを機に、秀吉は関白に就任、天下取りに大手をかけます。
本当は、将軍になりたかった秀吉、しかし、将軍になれるのは源平藤橘の四氏のみ・・・。
そこで、秀吉は、近衛前久の猶子となって、関白に就任したのでした。この関白とは、天皇に次ぐ地位で、摂関家の一員となったのです。

当時の公家は貧乏で、沢山の賄賂を使って養子にしてもらったのです。


秀次は、武勲を認められ、近江八幡市 43万石の八幡山城主となります。18歳の時でした。

この近江八幡で才能が開花、政治家としての手腕が発揮されることになります。

安土のような商業都市として発展するように・・・。
綿密な都市計画を立てます。
町を碁盤の目のようにします。これは、豪胆な平和宣言です。というのも、戦国時代は城までの道は、攻めにくいようにカギ状になっていたり、蛇行していたりしていたからです。

人々を職業別に住まわせ、安土の商人を積極的に誘致します。

琵琶湖と小海八幡を繋ぐ運河、八幡掘を開発。琵琶湖を通る商業船は、必ず近江八幡を通るように条例を作りました。これは、信長の影響が強く、楽市楽座や、平和になった時の城下町作りと言えるでしょう。
これが、近江商人の発展を促します。

背割水路を作り、人々の上水道・下水道として活用。これは、当時としては例がなく、画期的なことでした。
近隣の村人の水争いを調停
町人の納税を免除
労働奉仕の義務を廃止

など、町人の働きやすい、暮らしやすい町として発展しました。

1589年北条・小田原攻めに参加、敵の前線を叩きます。
秀吉の天下統一の実現でした。

1591年秀吉長男鶴松が2歳で病死。
秀吉は、秀次を養子として跡取りにします。この時は、本気で後継者として指名したのです。

秀吉は55歳で大公となり、秀次は24歳で関白となりました。
しかし、実際は、秀吉の傀儡政権・・・。

この、正式な後継者に任命されたことが、秀次の人生を一変させるのです。
小田原攻めで弟・秀長を失った秀吉、後継者の秀次は、世間的にも遜色ないほどに育っていました。

若くして関白となってしまった秀次。秀吉から聚楽第と黄金1万両を引き継ぎます。
古典文学や芸能に精通していた秀次は、朝廷との関係を円滑化、連歌の会や茶会を開きます。
後陽成天皇には、六国史を献上して、朝廷との関係が深まります。

それは、武官ではない文官としての天性の素質でした。
他にも、五山文学の復活、勉強をする僧侶への援助など、本来の関白として文化人や教養人を重視します。

が、秀吉にとっては・・・。朝廷とつるまれるのは困る・・・。と、だんだんと距離が開いていきます。

1592年朝鮮・明国の侵略に乗り出す秀吉。秀次は、そのことに批判的だったが、表には出しませんでした。

1593年秀頼が誕生。
秀吉は、秀次を関白に任命したことを後悔します。「自分の血を分けた子に・・・。」

はじめは秀次をたてて、秀頼と秀次の娘との婚約話を持ってきました。次は、日本の4/5は秀次が、残りの1を秀頼が治めるという提案をし、懐柔しようとします。

もちろん、「ノー」はないと思っていました。
が、秀次は態度を保留。「関白の任命権は天皇=秀吉では取り上げられない」

苛立つ秀吉。

しかし、思いもよらない事態が起こります。

1595年7月3日  石田三成が秀次の元を訪ねます。
「御謀反の子細御せんたくしたき・・・」
秀次は、身の潔白を訴えるも晴らせず・・・。
これは、関白から引きずりおろす口実だったとされていますが、三成が本気で疑っていた可能性もあります。

それは、秀次は、朝鮮出兵で財政難となっていた毛利輝元・細川忠興の借金の願いを受けたので、聚楽第の金蔵から諸侯に金を貸し付けていました。これが、秀吉の猜疑心に火を付けたのです。
「何か、企んでいるのでは?」

当時の秀吉は、猜疑心の塊でした。それは、朝鮮出兵には反対する武将もたくさんいたのです。その急先鋒が、徳川家康。家康は、北条を抑えるという大義名分のもと、一人も兵を出していません。そして、この武将たちも、平和志向の人が増えてきていたのです。


7月8日釈明させるため、伏見城に呼び出すも、会わずに石田三成から「豊臣家からの追放」を伝えられます。領地、聚楽第、官位の剥奪・・・。

高野山に出家させるも、
7月15日切腹を命じます。
高野山の僧侶は怒り、抗議を検討します。当時は、仏門に入ることで俗世から切り離されます。仏門に入った限りは、切腹を命じられることなどなかったのです。

しかし秀次は、切腹を受け入れました。自分の身の潔白のために。

「月花を 心のままに 見つくしぬ
       何か浮世に  思い残さむ」

切腹は、武士の名誉の死、切腹をすると家族の命は守られるというのが通例でした。
しかし、正室、側室、5人の子供を含む39人が三条河原で処刑されました。
血筋はすべて断つ!!

ここまで、10日、秀次を陥れるための先頭は三成でしたが。。。必要以上に追いやります。

巷では、秀頼は、大野治長の子とか、三成の子とか・・・。
あれよあれよと秀次は切腹へ、とことん残虐に、陰惨に、根絶やしにされてしまいました。

秀吉の異常な憎しみを感じさせる蛮行です。これで、秀吉の血を引くのは秀頼のみとなりました。秀頼かわいさのあまり、血筋を弱めてしまいました。

秀次を殺してしまった時点で、豊臣家滅亡のシナリオは始まっていたのです。


もしかすると、秀次が尊敬していたのは秀吉ではなく、信長ではなかったでしょうか?

平和な都市づくり、日本国の経営、安土城には楽市楽座、学校、セミナリオ、病院が整っていました。
日本国民のための日本国。

もし、秀次が生きていたら、関ヶ原はなかったのかもしれません。

勝者の歴史によって、秀次は数々の汚名を着せられ、貶められます。

しかし、
1611年豪商・角倉了以が、一族を弔うために瑞泉寺を建立。秀次の母日秀が弔いのために瑞龍時を創建、現在は近江八幡に移築されています。

秀吉は、次世代のNo,1を自らの手で葬ってしまったのかもしれません。

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~秀吉が最も恐れた男~
THEナンバー2です。

黒田官兵衛 鮮烈な生涯 (歴史探訪シリーズ 13・晋遊舎ムック)

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なかなか見るのが進みませんが、今回は豊臣秀吉を天下人に押し上げた軍師「黒田官兵衛」です。

彼は、抜群の頭脳と巧みな交渉戦術、そして奇想天外なアイデアで主君・秀吉に天下を取らせます。

有名な、中国大返しの大博打は、彼がいなかったら有り得ませんでした。そして、このナンバー2が、将来、天下を取った秀吉を脅かす存在になるのです。

そんな黒田官兵衛とは、どんな人物だったのでしょうか?

影の軍師として秀吉に仕えた官兵衛は、1546年、姫路城城主黒田職隆の長男として生まれます。が、当時は城主もいないようなちっぽけな城でした。御着城の出城のようなものでした。

当時の主従関係にある小寺政職に織田・毛利・三好のどちらの見方に突いたほうが良いか、聞かれます。家臣の殆どは毛利を支持しました。

そんな中、官兵衛は、三好は主君を殺した罪があるので問題外。毛利は吉川と小早川が両脇を固めているものの当主輝元は天下取りの器にあらず。信長の勢いはとどまるところを知らず、これからの日本を率いるのは彼しかいない!!。と、ひとり織田信長を推したのでした。

1575年官兵衛は信長に謁見します。
毛利攻めの際には、是非自分を最前線に!!と、願い出るのです。信長としても、中国攻めに向けて、地理に明るい官兵衛は都合が良かったのです。官兵衛を気に入った信長は、名刀「へし切」を与えます。
また、官兵衛は、長男長政を人質に出して、忠誠を誓うのです。

信長の毛利攻め、行く可能性が高かったのは荒木村重でした。1573年から信長に仕え、有岡城を本拠地に摂津の国を支配していましたが、1575年、信長に反旗を翻します。それは、家臣が裏切って、米を持って毛利方に寝返ったという噂が流れるのです。信長の性格を恐れて挙兵するに当たった、といわれています。これには中国方面の司令官を誰にするかで誰かが?画策した・・・。とも言われています。そうして、本来ならば村重が行くはずだった中国攻めに、秀吉が行くことになるのです。

官兵衛は、村重を説得するために有岡城へ向かいます。が、すぐに捕らえられ、城内の牢獄に幽閉されてしまいます。なかなか戻らない官兵衛に信長は激怒し、長男の殺害を命じます。
が、ここで竹中半兵衛が、「そんなことは絶対にない」と、長政をかくまうのです。

有岡城の牢獄で、最低限の食事、蚊や虱にまみれ、1年余り耐え続けました。そうして、落城と共に救出されるのです。が、この苦い経験から、決して主君を裏切らないという信頼こそが大切だと気がつきます。
この件で、もともと口の上手い、手八丁口八丁な男だと思われていた官兵衛は、彼が心底そう思い、命がけで説得する男であると一目置かれるようになるのです。

この官兵衛の忠誠心を疑ったことを悪いと思ったのか、信長は播磨1万石を与えました。官兵衛は小寺から独立し、秀吉直属の武将となったのです。

では、何故村重は官兵衛を殺さなかったのでしょうか?官兵衛は、ドン・シメオンという洗礼名を持っていました。官兵衛も、村重もキリシタンでした。つまり、殺し、殺されることは出来ないのです。

そうしていよいよ、毛利最前線へ配属されます。官兵衛の向かった先にはすでに播州入りをしていた秀吉がいました。これが、運命の出会いとなり、時代は大きく動き出すのです。

1582年3月高松城の水攻めが開始されます。これは官兵衛のアイデアで、川に堤防を作り、水攻めにするというものです。これには莫大なお金がかかりましたが、今こそ高松城落城に向けて投資するべきだ!!とはじめるのです。

この高松城の水攻めの秀吉本陣跡が、今も残っています。ここで、秀吉を中心に据え、官兵衛が左、蜂須賀小六が右に陣を取り、前のほうを堀尾茂助や仙石権兵衛らが山裾にじんを張っていました。

それと同時に、官兵衛は、安国寺恵けいと和睦を進めていました。それは、毛利の領地のうち半分に当たる5カ国(出雲・ほうき・美作・備中・備後)の受け渡しは成立しており、後は清水宗治の説得だけが未定でした。

日に日に水没していく備中高松城。そして、それを阻止できない毛利軍。さらに、この高松城は吉川・小早川の陣を張る山から一望できました。このような失態を目の当たりにした毛利についている備中・備後に不安が広がります。毛利を見捨てて、信長に着いたほうが良いのでは?もうあと一歩でした。

秀吉は信長の参戦を待っていたのです。そうして、この中国攻めに向かう途中の1582年6月2日本能寺の変で信長は明智光秀によってその生涯を終わりにさせられるのです。

絶対的な信長、その信長の背中を追ってきた秀吉・・・。言いようのない喪失感と信長の無念を思い泣き崩れる秀吉・・・。

毛利攻めは、あと一息で終わらせることが出来たのに。。。

信長亡き後、毛利に攻め込まれる可能性は大いにありました。ここを乗り越えるには・・・。

官兵衛は言います。「殿、開運の時が参りましたなあ。今こそ、天下を取るときにございます。」と。

思いもよらなかった?秀吉。この一言が秀吉を変えます。
官兵衛は、すぐに東に向かうため、夜中にもかかわらず安国寺恵けいとの一大交渉に臨みます。官兵衛は、清水の説得を明日にする代わりに5カ国を3カ国で良いと申し入れます。

敵ながら信頼をしていた安国寺恵けいは、この交渉が毛利にとっても有利であるとして交渉が成立しました。敵に見抜かれないように、顔色ひとつ買えずに・・・。

翌日、清水宗治自決を見届けると、秀吉は光秀を討つため東へ反転します。これが、世に言う「中国大返し」この時、官兵衛は、毛利の2人の人質を返しています。明智を倒したならもちろん秀吉の天下なので人質など必要ないし、帰れないなら死ぬまでだから・・・。と。

3万の軍の大移動。姫路城にある金品を与え、10日~2週間はかかるところを6日間で走破しました。距離、実に200キロ。その後、賤ヶ岳では柴田を打ち破り、天下へと突き進むのです。

この中国大返し、出世できるかもしれない!!という人間の欲が6日間で走破させたのだといいます。つまり、秀吉が光秀を討つ、そうなれば仕官→大名、足軽→仕官になれるかもしれない!!という噂が戦場を駆け巡ったのです。そして、それにかけてみようと思った人たちが、人間の欲がそうさせたのです。

官兵衛の天下取りの進言・・・。しかし、秀吉は、自分と同じ事を考えている人間が隣にいる・・・。ということに不安を感じるようになります。

官兵衛の生涯最大の失敗は、秀吉に天下を取れと進言した瞬間かもしれません。そのせいで、トントン拍子に天下をとりに行く秀吉に対し、1585年、関白に叙任されると同時に、九州中津12万石に飛ばされてしまうのです。中国大返しの最大の功労者であるにもかかわらず・・・。

秀吉に警戒される官兵衛。44歳で家督を長男長政に譲ります。

1597年50歳の官兵衛は隠居し、黒田如水となります。「如水軒円清」(水の如く)のことで、この如水とは号で、号とは学者、文人画家などが、大名のほかに用いる呼び名のことです。天下を取るつもりはない。おとなしくしているという意味が込められており、自由に生きたいと表明しています。

が、天下に対する野心はあり、能力の高い武将であることには間違いないのです。ナンバー2の人生は終わったかに見えた1598年秀吉が死にます。

これは、官兵衛にとって衝撃的で、軍師の血が騒ぎ出します。53歳、人生最大のかけに出ることになります。

浪人や農民を訓練し、はじめは2~3万だった軍隊も、中津城を出る頃には10万人の大軍になっていました。関ヶ原に向かい進軍しようとしていたそのとき・・・。予想ははずれ、半年はかかると思われた徳川VS石田の関ヶ原。それが、一日で終わってしまったのです。官兵衛は、関ヶ原が長引くと思い、お互いが体力を消耗するのを虎視眈々と狙い、天下を取ろうと画策していたのです。

その原因を作ったのは皮肉にも、息子長政でした。この長政、凄く良くできる人で、竹中半兵衛と、黒田官兵衛という二人の軍師に学んだ人なのです。小早川との交渉に当たったのが長政だったのです。家康は長政が第一の手柄と喜び握手を交わすほどでした。

それを父官兵衛に話すと・・・。「右手で握手をしていたとき、左手は何をしていたのか?何故左手で刺さなかったのか?」といったと言われています。そんなことをすれば長政は斬られてしまいます。息子の命と引き換えにしてまでも天下が欲しかったのかも知れません。別の説によると、この言葉で家康をけん制したとも言われています。

その裏には、自分と秀吉の関係を、息子長政と家康に見たのかも知れません。

1604年3月20日、京都伏見亡くなります。享年58歳

おもひおく
 言の葉なくて
  つひに行く
道はまよはじ
 なるにまかせて

戦国時代は、皆さんぎらぎらしていて、エネルギッシュ。生きているなあ・・・。って感じがしますね。どの人にも色々なドラマがあって、それを少しでも知ることが出来たらうれしいですね。


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