鉄砲伝来の日本史 火縄銃からライフル銃まで

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(2013/11/18 14:27時点)
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シリーズ日本のインパクト第1弾です。

戦国時代、強き者だけが残る下剋上の日本に・・・
衝撃の鉄砲伝来です。
1543年種子島にもたらされました。
しかし、新兵器は、1年後に複製、大量生産を行い、一大軍事大国となるのでした。
大量の鉄砲は、戦いを・・・武士の常識を変えていきます。

まず・・・鉄砲を使うと、死傷者の数が爆発的に増えます。
弓は修練が要りますが、鉄砲はそうではないので、民衆が鉄砲を手にして参加できるようになりました。
そしてお城も、鉄砲に対してどう戦うのか?というふうに造られるようになったのです。

1543年種子島に漂着したポルトガル人が伝えました。
と、思われてきました。
しかし、最近、鉄砲を伝えたのは・・・
ポルトガル人と一緒にいた中国人だとも言われています。

”鉄砲記”には、その名を”五峯”としています。
日本に鉄砲を伝えたのは、倭寇だというのです。
超大国の明、海禁政策を行っていて、国が貿易を独占していました。
しかし、15世紀後半に貿易が衰えてきます。
その中、密貿易を活発に行ってくるようになったのが、倭寇なのです。
彼等は武力で東アジアを支配するようになります。
莫大な利益を得ていきます。
そして、もっとも成功した倭寇のリーダーが”五峯=王直”でした。

この頃大航海時代となり、ポルトガルがアジアに侵攻。
1511年マラッカを占領。
陶磁器、生糸を求めて、明への進出を図りますが・・・
当時の明は、朝貢貿易・・・周辺国が、中国皇帝に貢物をして返礼を受けるという貿易でした。
威信は保ちたいけどお金は払いたくない明。。。
明との貿易交渉に失敗し、マラッカから先に進めなくなったので・・・倭寇を利用しようとなったのです。

王直の船にポルトガル人が乗って、密貿易で金を儲けようとしたのです。
そしてこのタイミング???
時はまさに戦国時代・・・激しい戦いが繰りひろげられていました。
種子島時尭は、鉄砲の利用価値に気付き、2丁を金・2000両で・・・現在の1億円で購入します。
この鉄砲が多きなインパクトとなっていくのでした。

日本人で初めて鉄砲を手に入れた種子島時尭。
時尭が戦国の世を変えていきます。

「これと同じものを作ってみよ!!」

銃身、カラクリ、ネジ・・・

命じられたのは種子島の刀鍛冶。。。

1年後・・・国産鉄砲が完成しました。

種子島には砂鉄がありました。
そこには製鉄のベースがあり・・・鉄砲を作るにはいい土地でした。
噂が広まり・・・戦国大名たちはこぞって手に入れようとします。
島津貴久、織田信長、上杉謙信・・・

そこにいち早く目を付けたのは、東洋のベニス・・・堺の商人たち・・・会合衆でした。
どうすれば鉄砲を大量生産できるのか???
それは、部品互換方式。
部品を同一規格で分業し・・・最後に組み立てて完成させることにしました。
当時世界では、ひとりの作り手が、一つ一つ作り上げていく時代でした。
世界に先駆けた分業大量生産だったのです。

その産業基盤は古くからあり・・・畿内では、産業革命が早くから起こっていたのです。
大量生産によって、鉄砲大国となっていく日本。
1550年代に30万丁・・・ヨーロッパの保有数を上回っていた。。。
ヨーロッパへ逆輸出されたともいいます。

まさにモノづくり日本だったのです。

30年がたち・・・戦国時代の戦を変える決定的な戦いが起こります。

1570年の石山合戦です。
天下布武の信長に立ちはだかったのは、本願寺・顕如。
天下統一を阻む一番の強敵でした。
石山本願寺を攻めた信長・・・苦戦して10年もかかります。
その原因は・・・大量の鉄砲の銃弾だったのです。

数千丁の鉄砲をもっていたと思われる石山本願寺。。。
信長も足を撃たれたとか・・・。
どうして本願寺が大量の鉄砲を扱うことができたのでしょうか?
そこには謎の傭兵集団が・・・
雑賀衆。。。
それまでの常識を覆し・・・個人の技量には頼らない鉄砲の連射。。。
鉄砲を取り換えて、取り換えて・・・チームワークで連射をしていました。
これを利用して弾幕を張っていたと思われます。
そして・・・徹底的なゲリラ戦法を使っていました。
隠れて狙撃し、撃ったら逃げる・・・名誉を重んじる武士には出来ない芸当でした。
雑賀衆は・・・武士ではなく、漁業や農業を行っている民衆でした。

紀州は・・・守護大名の力の弱い惣国でした。
小さな独立国家が多かったのです。
雑賀衆はその、自衛組織だったのです。

雑賀衆に煮え湯を飲まされた信長・・・
石山本願寺を落とすことは出来ずに・・・和平を結ぶこととなります。
雑賀衆の戦法は、信長に大きな影響を与えたと言えるでしょう。
これ以後・・・鉄砲足軽隊の比率が大きくなっていきます。
信長は・・・天下統一へと突き進んでいったのでした。
兵農分離も進んでいきます。

鉄砲に対抗するために、城の造りも変化していきます。
今のお城の形となったのです。
難攻不落と言われたのが大坂城。
大坂の陣はこの城が舞台となりました。城VS鉄砲の究極の戦いとなったのです。
堀の幅が10mから20mへ。。。
3重の堀となります。
石垣には、屏風折れ。
櫓や壁には狭間が作られ・・・城壁や門も鉄板で覆います。
秀吉の大坂城は、鉄砲を想定して作られており、世界的にも屈指の要塞でした。

徳川家康は・・・
大筒鉄砲を近江で作ります。射程距離は1㎞以上。
2㎞まで届く鉄砲さえ製造させています。
生きているうちに豊臣を倒す!!
でも、大筒の玉をどのようにして命中させる???
鉄砲を改良します。
弾道計算を重ね、鉄砲を作り上げていきます。

冬の陣の火蓋が!!!
徳川側は、城から800m離れた備前島から大筒鉄砲で攻撃!!
城の中枢部に着弾させ。。。
さらに大砲を・・・!!!昼夜構わず撃ち込まれます。

豊臣方は、怖れをなし講和に・・・夏の陣でなすすべなく徳川の勝利となるのでした。
鉄砲伝来から70年・・・戦乱の世は終焉を迎えたのでした。
鉄砲が戦国を終焉させ・・・新しい徳川的な秩序を作りだしたのです。

太平の世となって・・・
しかし、鉄砲保有数は世界トップレベルでした。
どうして戦乱のタネとならなかったのでしょうか?
3代将軍家光は・・・軍役を細かく定めています。
5万石では150丁、10万石では350丁。。。
既定に満たないものは処罰されます。

民衆も鉄砲所持を認められ・・・鑑札が発行されます。
世界初の銃規制でした。
狩り・害虫駆除に使われ・・・戦いに使われることはありませんでした。
平和を求める気持ちが強かったのです。
喧嘩両成敗・・・つまり紛争を武力で解決してはならない・・・
圧倒的な武力を誇示する江戸幕府の中。。。武器がシンボル化していきます。

戦国のすさまじい時代を潜り抜けてきたからこそ!!という英知だったのかも知れません。

今回は雑賀衆が出てくることもあって、和歌山市出身の津本陽さんが出ていました。
84歳でもとってもお元気そうでした。

和歌浦出身の津本陽さんも雑賀衆???
その近くで生まれた私も雑賀衆の末裔かもしれません。
が・・・一番速かった時でさえ・・・50mを10秒以上かかる私は、すぐに死んじゃうんだろうな。。。

いつも3月の末には(雑賀)孫一まつりがおこなわれ。。。
コスプレ・・・甲冑をつけた人たちが、町中を練り歩いてくれます。

ホント、この頃が一番和歌山に活気があったかも???


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