日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:立花道雪

戦国最強の武将は誰か??
歴史通の間で評価が高いのは、浪人まで身を落としながらも大名に返り咲いた復活の名将・立花宗茂です。

・二人の父
復活の名将・立花宗茂に大きな影響を与えたと言われているのが、高橋紹運と、戸次鑑連(立花道雪)です。
共に、北九州の大部分を支配していた戦国大名・大友宗麟を支えた重臣でした。
どうして宗茂は二人の父を持つことになったのでしょうか?

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1567年、立花宗茂は、豊後国に生れます。
幼名は千熊丸・・・そこから何度も名を改め、宗茂と名乗るようになったのは40歳を超えてからのことでした。
その宗茂の実の父が高橋紹運です。
高橋紹運は、知略を以て知られた人物で、大友宗麟からも信任の厚い人でした。
そして、最後まで主家である大友家を支えた忠義の人物として知られています。

1581年、15歳になった宗茂は、大友氏に反旗を翻した秋月勢の討伐戦に参加します。
敵将のひとりを討ち取るなど、勝利に貢献したといいます。
これが宗茂の初陣ともいわれ、益荒男ぶりを遺憾なく発揮していました。

高橋紹運と双璧をなす大友家の重臣・立花道雪が、紹運に・・・
「そなたの子をわしにくれぬか」と、申し出ます。
男子がおらず、既に還暦を過ぎてきた道雪は、武勇に優れた宗茂に家督を継がせたい・・・そして、それによって両家の結びつきを強くして主君である大友宗麟をいっそう盛り立てていこうと考えたのです。
しかし、宗茂は大事な跡取り・・・
道雪が、熱心に頼んでくるとその思いに心が動かされた紹運は、宗茂を養子に出すことにしました。
高橋家の家督は、宗茂の弟に継がせることにしたのです。

宗茂が道雪のもとに行く前日・・・紹運は、宗茂に言葉をかけます。

「これからは、わしを夢にも親と思ってはならぬ
 敵味方に分かれることがあれば、お前は先鋒になってわしを討て
 少しでも迷いを見せたら、道雪さまはそれを許しはしない
 道雪さまから親子の縁を切られるようなことになっても、おめおめと帰ってきたりせず、潔く自害するが良い」

そして、自分と戦う時や自害する際にはこれを使えと、「長光の剣」を与えました。
宗茂はこの剣を、終生大切にしていたといいます。
一方、宗茂を譲り受けた道雪は、この時69歳。
35歳の時に落雷を受けた影響で歩行が困難でしたが、輿で戦場に乗り込み負け知らず!!
大友家臣団きっての猛将で、ついたあだ名は「鬼道雪」。
しかし、男子に恵まれなかったため、筑前国にある居城と家督は一人娘の誾千代に譲っていました。
誾千代の誾という字には、慎ましやかという意味が込められています。
非常に男勝りでプライドの高い性格でした。

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1581年、宗茂(15歳)は誾千代(13歳)と結婚、道雪の婿養子となりました。
厳しい道雪に鍛えられた宗茂は、その期待に応えていきます。
1582年、反大友勢の鎮圧に道雪と共に参戦。
敵軍に囲まれて苦戦していた道雪を助け、敵方の城を攻め落とすという活躍を見せました。
その甲冑から、宗茂の身長は180㎝という大柄で屈強だということが想像されます。
心身ともにひとかどの武将に成長した宗茂でしたが、全てが順調というわけではありませんでした。
この頃、主家である大友氏は、島津氏や竜造寺氏に押され、筑後国を失うなどかつての勢いはなく、宗茂の2人の父の奮闘によって、なんとか持ちこたえているような状況でした。

1584年、筑後国の奪回戦に、立花道雪と高橋紹運が参戦。
宗茂は1000の兵で立花城の守備を任されました。
道雪の不在を狙って押し寄せてきたおよそ8000の反大友勢を紀州などを用いて撃退しました。
しかし、翌年、筑後国の戦いを優勢に進めていた道雪が病に倒れそのまま亡くなってしまいました。
それを好機と見た大友氏最大のライバル島津氏が、5万ともいわれる軍を率いて筑前国に侵攻。
もはや、自分のみでは島津軍の侵攻を止められないと悟った大友宗麟は、天下人に大きく近づいていた豊臣秀吉に臣従を誓い、援軍を要請しました。
そして、宗茂の実父・高橋紹運は援軍が到着するまでの時間を稼ぐため、筑前国にある居城・岩屋城で島津軍を迎え撃ちました。

とはいえ・・・紹運の兵はわずか700・・・到底勝ち目はありませんでしたが、紹運は一歩も引かずに徹底抗戦を貫きました。
結果は、紹運を含む全員が討死!!
それでも島津軍に死傷者およそ4500人という甚大なダメージを与えたのです。
まさに武士の鑑だった高橋紹運・・・しかし、秀吉の援軍はまだ到着していません。
島津軍の矛先は、岩屋城からわずか4里・・・およそ16キロ離れた宗茂の守る立花城に向けられました。

二人の父を失った宗茂・・・しかし、悲しみに暮れる暇もなく、
1586年8月、宗茂の居城である立花城が島津軍に包囲されてしまいました。
宗茂軍が籠った立花城は、標高376mの立花山の山頂に築かれた堅固な山城でした。
その城で、宗茂は徹底抗戦の構えを崩さず、島津軍が降伏を迫っても応じませんでした。
すると島津軍は、豊臣秀吉の援軍が迫る中、立花城の攻略に時間を割くのは得策ではないと撤退を開始しました。
これを見た宗茂は、
「今が勝機!打って出る!!」
と、島津軍を追撃します。
怒涛の勢いで討ち取り、その数は一説に1000人以上。
さらに、島津方の城となっていた高鳥居城を攻め落とし、父・紹運が最後まで戦いぬいた岩屋城を奪回しました。
時を前後して、秀吉が送った援軍が続々と九州に上陸。
1587年3月には、秀吉自身も豊前国に入りました。

宗茂の奮闘を伝え聞いた秀吉は、いたく感心したと言われ・・・
その武勇を讃えた文書にはこう記されています。

”宗茂は九州の一物である”

秀吉は、総勢25万ともいわれる大軍を二つに分け、東西それぞれのルートで島津の本拠地である薩摩を目指すことに・・・。
秀吉は、西側ルートの指揮を執りその先鋒を任されたのが宗茂でした。
すると宗茂は、竹迫城、宇土城、出水城、大口城といった島津方の重要拠点を次々と攻略。
追い詰められた島津氏は、もはや勝ち目はないと降伏し、九州は秀吉の手によって平定されたのです。

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そして、1587年6月、宗茂は秀吉から
「その忠義鎮西一 その剛勇また鎮西一」
と、讃えられ、筑後国柳川13万2000石を拝領します。
21歳にして大友氏から独立し、豊臣家の直臣大名に取り立てられたのです。

13万2000石の大名となった宗茂は、立花城から柳川城に居城を移します。
宗茂はこの地で領国経営に力をつくしたと言われ、宗茂が農業用水の確保のために作った運河は、今も残り、立花宗茂の名をとって花宗川と呼ばれています。

家臣や農民からも慕われる良き殿様・宗茂・・・しかし、一つ問題がありました。
誾千代と別居・・・
誾千代が移り住んだ館は、柳川城から500mほどの位置にあり、別居の理由は今もはっきりとわかっていません。
子供がいなかったこともあって、2人は不仲だったともいわれていますが・・・
当時は、誾千代を当主と仰ぐ勢力もあったようです。
立花家内の勢力争いを解消するために城を出たのではないか?と言われています。
夫婦といううよりも、立花家を守る同志!!
二人はそんな関係だったのかもしれません。

立花宗茂 天下無双
豊臣秀吉から武勇を絶賛され、13万2000石の大名に取り立てられた立花宗茂。
主君となった秀吉のために、次々と武功をあげていきます。
宗茂が大名となった1587年の7月、肥後国で大規模な一揆が起きました。
秀吉はすぐに鎮圧隊を送りましたが、必死に抗戦する一揆勢は手ごわく、苦戦を強いられます。
すると宗茂は、1200あまりの兵を率いて肥後に入り、鉄砲隊を駆使して戦況を打破、時には1日に13度も戦い一揆勢が戦勝していた城を次々と落とし、およそ650の首を討ち取ったといいます。
一揆勢が降伏したのは、それから間もなくのことでした。

比類なき強さを再び見せつけた宗茂は、一揆鎮圧の翌年、従五位下侍従を授かり、豊臣姓を下賜されます。
そして1590年、宗茂は小田原攻めで集められた諸大名の前で秀吉からこう称賛されます。
「東の本多忠勝 西の立花宗茂 天下無双」
徳川四天王の一人である本多忠勝は、勇猛果敢で知られた猛将でした。
その忠勝と並び称されたのは、宗茂にとってこの上ない名誉でした。

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1592年、文禄の役・・・
3000あまりの兵を率いる宗茂は、明の軍と激突した碧蹄館の戦いで先鋒を務めます。
多くの将兵を討ち取って、日本軍の勝利に貢献します。
主将を務めていた小早川隆景から「立花の三千は他家の一万の軍勢に匹敵する」と、称賛されました。
二度目の朝鮮出兵・・・慶長の役でも、宗茂は落城寸前だった日本勢の城・蔚山城に駆けつけ、籠城していた加藤清正を救うなど活躍を見せました。

ところが、1598年8月、豊臣秀吉が亡くなると、朝鮮出兵は中止。
宗茂の運命も大きく揺さぶられることになります。
帰国した宗茂たち諸大名を待っていたのは、五奉行筆頭の石田三成と、五大老筆頭の徳川家康の対立でした。
秀吉の嫡男・秀頼を支え豊臣家を守ろうとする三成に対し、家康は天下取りの野心をたぎらせ勢力拡大していました。
1600年、石田三成は、五大老のひとり・毛利輝元を総大将に担いで家康を討つべく挙兵!!
すると、家康は、秀吉から天下無双と称賛された宗茂を東軍に勧誘します。
一説には、東軍勝利の暁には宗茂の所領を50万石に加増するという破格の条件を出したと言われています。
しかし、宗茂は、西軍に着きました。
柳川家臣団から東軍につくべきという声が上がり、三成との確執があった加藤清正からも西軍への参加を思いとどまるように言われますが・・・宗茂の決意が揺らぐことはありませんでした。
自分を大名に取り立ててくれた秀吉への恩顧に報いるため、西軍についたと考えられます。
また、毛利やその一族である小早川家は、朝鮮出兵で宗茂と同じ隊で戦っていました。
近しい関係だったので、行動を共にしたとも考えられます。

しかし・・・天下分け目の関ケ原に宗茂の姿はありませんでした。
1600年9月7日(関ケ原の戦いの8日前)
宗茂は、西軍から東軍に寝返った大名大津城主・京極高次を討つため、その居城である近江国の大津状を包囲。
大津は琵琶湖に面した交通の要衝だったため、寝返りに早急に対処する必要があり、その任を宗茂が任されたのです。
戦いは、鉄砲隊を使った宗茂が終始優勢・・・しかし、京極の軍勢を粘りを見せなかなか降伏せず、ようやく9月15日に城を明け渡しました。
9月15日・・・その日こそ、関ケ原の戦いが始まった日でした。
しかも、戦いはわずか半日で西軍の大敗に終わったのです。

納得できない宗茂は、大坂城に向かい西軍の総大将・毛利輝元に訴えます。

「大坂城に籠って徹底抗戦すべし!!」by宗茂

しかし、すでに家康と和睦交渉を始めていた輝元はそれを認めませんでした。
止む無く宗茂は領国・柳川に向けて撤退を開始。
するとその道中で西軍として戦った島津軍に遭遇します。
島津軍は、九州の覇権をかけて闘ったかつての敵で、宗茂の実父の仇でした。
家臣たちは、仇を討つ機会だと息を巻きます。

「敗軍を討つのは武門の恥」by宗茂

逆に、島津軍の護衛を申し出て、共に九州に帰りました。
宗茂の男気に島津義弘が感服したのは言うまでもありません。

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10月、柳川城に帰還。
すでに、この時家康の命を受けた鍋島直茂・加藤清正・黒田官兵衛たちが、柳川侵攻の気配を見せていました。
一説に、誾千代は、女官たちと共に武装し敵襲に備えていたといいます。
まもなく、鍋島軍3万が、柳川の領内に進攻。
立花軍の兵力はその1/10ほどしかなく、死力を尽くして戦うも、宗茂は将兵たちを失って行きました。
戦況を見守っていた加藤清正と黒田官兵衛は、これ以上の戦いは無益だと、宗茂を説得。
宗茂はそれを受け入れて、柳川城を明け渡しました。
宗茂を慕う領民たちは、「柳川を見捨てないでほしい」と懇願しますが、宗茂は、
「皆を戦に巻き込みたくない故降伏したのじゃ」・・・領民を巻き添えにしたくない宗茂の苦渋の決断でした。

関ケ原の戦いの後、改易された大名は88家・・・立花家もその一つで、所領も城も失った宗茂は、34歳にして浪人となってしまいました。
加藤清正や前田利長は、その器量を惜しみ仕官話を持ち掛けます。
しかし、宗茂はそれに応じることはありませんでした。
大名への復帰・・・立花家の再興を諦めていなかったからです。
その為宗茂は、加藤清正が治める肥後国に妻や家臣たちを預けます。
20人ほどの側近と京にのぼり、浪人生活を開始します。
当時の家康は、伏見城で政務を行うことが多かったので、近くにいてお家再興の機会をうかがっていたのです。
しかし、貧しい生活が続き・・・1602年10月、誾千代が死去。

立花宗茂 大名復帰
1606年9月・・・千載一遇のチャンスが・・・!!
家臣に宛てた手紙には・・・
”将軍様に召し出され候 まずもって当分 心安くこれあり”
これ以上家臣たちに苦労をかけずに済むという安堵の言葉でした。
そして宗茂は、2代将軍・秀忠と謁見、陸奥国棚倉に1万石を拝領・家臣として取り立てられます。
1万石は、大名と呼ばれる最低限の所領で、しかも柳川から遠く離れた東北の地でしたが、宗茂は6年ぶりの大名復帰を果たしました。

どうして将軍・秀忠は宗茂を召し抱えたのでしょうか?
「徳川実記」には、秀忠は武勇の誉れ高い宗茂を、将軍になった暁には召し抱えたいとかねてから考えていたと書かれています。
家康も健在だったことから、家康の意向を抜きには考えられません。
一説によると、家康は宗茂を高く評価しており、若い秀忠の相談役にしようと考えていたようです。
当時は大坂城に豊臣秀頼が健在でした。
宗茂を豊臣方に取られると大きな痛手となるので、先んじて召し抱えたのです。

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関ケ原の戦いで西軍についたため、改易されて浪人になるも徳川秀忠のもとで大名に復帰した立花宗茂・・・
大名復帰の4年後には、江戸御留守番に就任しました。
将軍の警護が主な仕事だったと考えられています。
それに伴い、宗茂の所領は3万石に加増、幕府内での地位も高まっていきました。
そして、大名復帰から8年がたった1614年・・・徳川が豊臣との最後の戦い・大坂の陣に臨むことになります。

立花宗茂 柳川に戻る
大坂の陣で、かつての主君・豊臣家を敵に回すことになった宗茂・・・

「秀吉さまへの恩は、関ケ原で返した」by宗茂

徳川家に仕えて8年・・・もはや、迷いはありませんでした。
この時、48歳。宗茂は、大坂の陣で重要な役を担います。
秀忠のそばにあって、軍事の指南役を担っていました。
2度に渡った大坂の陣・・・それは最終決戦・夏の陣の時のこと。
秀忠が宗茂に尋ねます。

「本陣をもっと前方に置くべきではないか」by秀忠
「敵は必死に攻めてくるため、本陣は後方にひくべきです」by宗茂

これには多くの者が異を唱え、結局本陣は動かしませんでした。
いざ戦いが始まると、豊臣軍の圧力に押され、本陣を1キロほど後方に下げることになりました。
重臣たちは、宗茂殿が正しかったと、自分たちの見通しの甘さを認め、さらに本陣を下げようとします。
ところが宗茂は、
「先ほどの戦闘で敵は力を使い果たし、動きが緩慢になっております
 もはや、本陣を下げる必要はなく、このまま戦うべきです」by宗茂

すると、またしても宗茂の読みが的中・・・
敵はそれ以上攻め込むことが出来ず、至近距離から徳川軍の攻撃を受けた豊臣軍は、総崩れとなりました。

あまたの激戦を制し、勝ち方をよく知っていた宗茂は、軍師としてもまた天下無双!!
これを聞いた家康は、
「今後も宗茂とは懇意にすべし」と、秀忠に命じました。
その家康が、大坂夏の陣の翌年、駿府城で病に伏すと、秀忠は見舞いのために江戸城を留守にしましたが、その間、江戸城大手門の警備を任されたのは宗茂でした。
通常は譜代大名が務める任務で、家康の言葉通り、秀忠が宗茂を重用していたことが伺えます。

そして、1620年、54歳になっていた宗茂は・・・宿願を果たします。
立花家が改易されたのち、柳川には田中家が入っていましたが、跡継ぎがいなかったことで取り潰しに・・・
代わって宗茂が20年の時を超えて旧領に復帰したのです。
柳川藩10万9000石の大名に返り咲いた宗茂は、肥後国の加藤清正のもとに預けていたかつての家臣たちを柳川に呼び戻しました。
歓喜の再会・・・
関ケ原の戦いで失った旧領を回復したのは、立花宗茂ただひとりでした。

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立花宗茂が最後の勇士を見せたのは、1637年の島原の乱。
宗茂はすでに70歳を超えていたといいます。
3代将軍・家光の命を受けて参戦!!
幕府軍の総大将・松平信綱の補佐役を務め、敵の夜襲を的確に予想し、兵糧攻めを指示したり、往年の実力を見せつけ、一揆勢が立てこもる原城での戦いに一番乗りを果たした際には、武神が再来したと称賛されたといいます。
そして、76歳・・・波乱の生涯に幕を閉じました。
宗茂のかつての領地・福岡県柳川市に鎮座する三柱神社・・・
ここには、天下無双の名将・宗茂と、義理の父・立花道雪、妻・誾千代が御祭神として祀られています。
その為、復活の社とされ、現在も宗茂にあやかろうとする人々の厚い崇敬を集めています。

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水郷の町として知られる福岡県柳川市・・・
江戸時代、柳川藩10万9000石の城下町として栄えました。
城跡には、明治時代に旧藩主が立てた洋館や、江戸時代の壮麗な大名庭園があります。
ここの旅館を経営しているのは・・・柳川藩主・立花家の子孫です。
戦国大名に連なる家が、今も城内の屋敷を守り続けているのは全国でも珍しい・・・。

柳川藩の礎を築いたのは、立花宗茂・・・当今無双の勇士と秀吉に称えられ、西国一の猛将と言われていました。
宗茂の戦歴はすさまじく・・・秀吉の天下統一戦争にことごとく参陣、江戸時代には大坂の陣、島原の乱で活躍し、その武勇を轟かせました。
そんな宗茂の生涯で最大の試練となったのは、関ケ原の戦いでした。
東西両軍の決戦は、わずか半日で終了・・・
宗茂のいる西軍の大敗北に終わりました。
決戦に参加することもできず、宗茂は敗者となりました。
しかし・・・宗茂には秘策が・・・??

福岡県柳川市・・・その中心に水堀に囲まれた広大な敷地に柳川城址があります。
資料館には・・・関ケ原合戦時の立花宗茂愛用の甲冑が残されていました。
その甲冑は、戦いの神・摩利支天を模し、鉄の地金が厚く、実践向きです。
体格は非常に大きく・・・身長175cmから180cmの間ではないかと言われています。
天下無双と呼ばれた武将・・・立花宗茂・・・その武勇は、二人の父親から譲り受けたものでした。
宗茂は、1567年、九州筑前の武将・高橋紹運の長男として生まれました。
宗茂が紹運から譲り受けた刀・・・鎌倉時代の名工長光の剣・・・宗茂が15歳で養子に出されるとき、敵味方に分かれたらこの剣で父を討ち取るようにと言われたという・・・
紹運からは、武将としての覚悟をたたき込まれました。
もう一人の父・養父・立花道雪。
道雪は勇猛果敢で知られているが、彼が与えた刀は、道雪が雷神を一刀両断にしたという名刀・雷切丸。
切っ先が変色しているのは、雷神を切り裂いた証だといいます。
道雪の猛々しさをよく伝えています。
二振りの刀を常に戦場に持ち、武勇に長けた宗茂・・・
道雪から家督を譲り受け立花家を継ぎます。
主は、紹運や道雪が仕えた大友宗麟。
九州北部・6か国を治める大名でした。
海外の文化をいち早く取り入れたキリシタン大名としても知られています。

九州は動乱の時期を迎えていました。
島津が急速に版図を拡大し、大友に迫ってきていました。
同じころ、中央では豊臣秀吉が台頭し、瞬く間に畿内や中国地方を制圧し、四国まで勢力圏を広げていました。
島津の圧迫に・・・1586年4月、大友宗麟、秀吉に救援を求めます。
大友が服属したことで、宗茂も秀吉の配下となりました。
5万の大軍勢を率いて大友領に侵攻した島津軍は、九州の要・筑前に狙いを定めました。
この時、宗茂に任されたのは、北の玄関口・博多湾を押さえる立花山城。
実父・紹運はその先の要衝・岩屋城で南から迫る島津の大軍勢を待ち構えました。
島津軍の猛攻に、紹運はわずか70余りの兵と共に徹底抗戦!!
しかし・・・兵力の差は大きく、7月27日岩屋城は陥落、紹運は自刃し、籠城兵はことごとく討死という非業の死を遂げました。
島津の次の狙いは立花山城・・・大小7つの峰に砦が築かれた山城です。
若干20歳の宗茂は、兵1700と共に籠城しました。
8月、立花山城を囲んだ島津軍は、宗茂に降伏を呼びかけました。
宗茂はこう答えます。
「関白秀吉公のご命令を守るのみ!!
 関白殿を捨ておき、島津に降伏するなど武士のすることではない!!
 実父・紹運はこの義を固く守り、見事に切腹して果てたというのに、自分だけ生き長らえて汚名を天下に伝えるなど、思いもよらぬことである。」と。
宗茂も戦死した父と同じく徹底抗戦を宣言したのです。

大軍勢の島津にどう立ち向かうべきか・・・!!

宗茂には勝算がありました。
籠城から1か月後、総勢20万に及ぶ秀吉の第一陣が九州に迫りました。
秀吉の九州征伐です。
この時を宗茂は待っていたのです。
秀吉軍の到来を聞いた島津軍は、8月25日撤退を開始!!
宗茂はこの機を逃しませんでした。
兵力わずか1500で場外へ出陣!!
撤退するしまずの大軍勢を果敢に追撃!!
宗茂の逆襲は、島津軍には思いもよらないことで、散々に蹴散らされたと言われています。
この時、父の守っていた岩屋城の奪還にも成功しています。
後の秀吉は、宗茂を「真に九州の一物」と、称え、大友の家臣から10万石の大名に取り立てました。
領地は築後の柳川・・・ここに、戦国大名・立花宗茂が誕生したのです。

しかし・・・1588年8月18日、豊臣秀吉死去。
豊臣政権を受け継いだのは、政務を司る五大老と実務を行う五奉行でした。
やがて五大老の筆頭・徳川家康と五奉行の筆頭石田三成の対立があらわに・・・
家康につくのか??三成につくのか・・・??

宗茂に宛てた三成の書状が残っています。
朝鮮出兵での宗茂の功績をたたえたものです。
三成は、宗茂を頼りにしていました。
1600年、家康は謀反の疑いありと五大老のひとり・上杉景勝討伐に動きます。
3万の軍勢を率いて会津に向かいました。
その隙をつき、石田三成は同じ五大老の毛利輝元を総大将に担ぎ出し、反家康の兵を挙げます。
宗茂は迷うことなく三成に味方しました。
「戦いの勝敗如何を問わず。
 ただ、秀吉公の恩義に報いるのみ!!」
宗茂は三成に求められた兵を越える4000の兵を率いて8月に上洛。
8月22日、宗茂達西軍は、美濃大垣に進出。
上杉討伐から取って返してくる東軍の大軍勢を待ち受けるためでした。
ところが西軍の大津城主・京極高次の裏切りが発覚!!
宗茂は三成の要請に従い、大津城攻略に矛先を変えることとなります。
琵琶湖の南に位置し、古くから交通の要所として栄えた大津・・・平地に築かれた大津城は、琵琶湖に突き出た湖上の城・・・。
攻め手の攻撃を阻む三十の堀に囲まれた守りの固い要塞でした。
9月7日、宗茂たちの大津城攻めが始まりました。
これに対し、籠城する京極勢は、夜討ちで対抗しようとしました。
しかし・・・
「立花は西国第一の猛将・・・
 世に知られた武勇の達人
 夜討ちの油断をするわけがない」
京極勢は、宗茂を恐れ、守りに徹したのです。

大津城をいかに攻略するか・・・
宗茂たちが注目したのは城の背後の長等山でした。
日本史上大筒を使用した攻城戦は、大津城の戦いが初めてです。
西軍は、長等山から大津城を攻撃!! 
前代未聞の攻撃に、城内は阿鼻叫喚となりました。
9月15日、大津城は陥落・・・京極高次は降伏し、城を明け渡しました。
宗茂達西軍の完勝でした。
同じ日・・・美濃では東西両軍が関ケ原へ転進。
東軍7万5000、西軍8万が激突!!
天下分け目の合戦・・・関ケ原の戦いの始まりでした。
緒戦は一進一退の攻防が続きます。

しかし・・・西軍に組しながら戦いを傍観していた小早川軍・1万5000が突然西軍に襲い掛かりました。
小早川秀秋の裏切りでした。
結果、西軍は総崩れ・・・戦いはわずか半日で東軍の勝利となりました。
大津城にいた宗茂は、まだこの事実を知りませんでした。

1600年9月15日、関ケ原の戦いに敗れた西軍の武将たちは、戦死する者、敗走する者が後を絶ちませんでした。
宗茂の一代記「立斎旧聞記」には、その後の宗茂の動向が記されています。
翌16日、大津城にいた宗茂に西軍敗北の報せが届きます。
東軍が石田三成の居城・佐和山城を攻めているという情報が入ります。

関ケ原のこと・・・事実であるに違いない・・・
ここは覚悟を決めなければならない・・・

17日早朝、宗茂は大津城を引き払い西へと向かいます。
当時、大坂城には秀吉の遺児・豊臣秀頼と西軍総大将・毛利輝元が対陣していました。
西軍が破れた今、どう行動すべきか・・・??
難攻不落の大坂城に籠城して迎え討つ・・・??
大坂城は北と東に川に守られ、南を低湿地が守る天然の要害・・・
秀吉はここに三重の堀を構え、当時最大の城を築きました。

2003年、現在の追手門近くで巨大な堀跡が発見されました。
幅22m、深さ6mの障子堀です。
障子堀は、秀吉を悩ませた関東の雄・北条氏の築城術です。
侵入してきた敵は、細かく仕切られた堀に手間取り、矢や鉄砲の攻撃にさらされます。
堀に落ちた者には逆茂木が待っていました。
大阪城の主要な出入り口3カ所にこのような堀が作られていたとされています。
秀吉が無くなる寸前に作っていました。
秀頼のことが心配で、城をより強固なものにするために掘られたのです。



大坂城を守る??それとも九州へ帰還??
関ケ原の戦いで毛利は動かず、小早川が裏切ったため、西軍は敗北した。
いくら難攻不落の大坂城とはいえ・・・心が一つでなければ籠城戦は出来ない・・・。
九州に帰還しても、宗茂には勝機がありました。
同じ西軍で、武勇の誉れ高い薩摩の島津義弘と手を組むという方法です。
前年、宗茂と義弘は起請文を交わしていました。

「この度の談合について、心の底から残らず互いに語り合ったことは、一切他言しないこと」

島津家は、そもそも立花宗茂にとっては実父・高橋紹運の敵でした。
しかし、秀吉の九州平定後は、親密な間柄になってきていました。

大坂城に籠城する??
それとも、九州に帰還する・・・??

1600年9月17日、宗茂は大坂城に向かいます。
籠城戦に打って出ることを選択したのです。
早速総大将・毛利輝元のもとに使者を派遣。
しかし、輝元は決断できませんでした。

「これから評議を尽くしてご返答申し上げる」

宗茂はあきれ返りました。

「今から評議するなどとは、ことのほか浅き知恵である
 総大将がそうであれば、とても籠城などできまい」

宗茂は軍勢を連れて九州へ帰還することに・・・!!
これにより、大坂城での決戦は幻に終わりました。

10月、急ぎ領国・柳川に戻った宗茂・・・しかし、新たな苦難に直面・・・
東軍の軍勢・4万に、柳川を包囲されたのです。
東軍の武将・加藤清正が降伏を勧めます。

「兵たちの命は、城主が切腹して助けるというのが武将の大法である」

宗茂は自らの命で城兵を守ろうとしたのです。
しかし、清正は宗茂を生かし、全ての兵を助けることを約束。
宗茂はこれに応じ、城を明け渡しました。

1601年3月、立花家改易。

宗茂は一介の牢人となりました。
しかし、宗茂は諦めません。
自ら上洛し、家康との接触を図り、旧領柳川の復活を目指したのです。
何が宗茂を突き動かしたのか・・・??

宗茂は、養子として立花家(戸次家)に入ってきたのでアウェーでした。
なので、家臣に対して心配りができる武将になっていたのです。
家臣の大半は、その後清正に召し抱えられましたが、二十数人は牢人の宗茂に付き従いました。
この家臣たちを路頭に迷わせないためにも、旧領の回復が必要だったのです。
そんな宗茂を乞うっておかなかったのが家康でした。
敵でありながら、宗茂の武勇と人徳を認めていたのです。

1606年、家康の計らいによって陸奥棚倉・3万石を拝領します。
宗茂は大名への復帰を果たしたのです。
その後、大坂の陣で活躍、1617年将軍・秀忠の御咄衆となります。
徳川家の絶大な信頼を勝ち取っていきます。

1620年11月、宗茂、旧領・柳川に復帰。
関ケ原の戦いから20年の歳月が経っていました。
関ケ原で西軍に属して改易された大名は88家。
立花宗茂だけは、旧領に戻れたのです。

敗軍の将から奇跡の復活を遂げた宗茂は、1643年11月25日、76歳の生涯を閉じました。
江戸から明治、そして現代・・・激動の時代を乗り越え、立花家は今も柳川城の中に生き続けています。

立花家に代々受け継がれてきた宗茂の言葉があります。

「領民の幸せこそ 第一の義とせよ」

その思いは、今も受け継がれています。

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柳川城は・・・難攻不落の要塞でした。
網の目のように張り巡らされた有明海に続く堀を決壊させ・・・
町中全てを水浸しにし、敵が城下町に入る事すらできないという・・・鉄壁の城でした。

では・・・柳川城は誰のお城???

三柱神社には・・・
柳川にゆかりのある3人の人物が祀られています。
その中にいるのは柳川に君臨した女武将。
戦乱の世にあって女性の殿様がいたのです。

ここに祀られているのは・・・
立花家初代は負けなしの立花道雪。
立花家初代柳川藩主は秀吉に九州一の名勝と謳われた立花宗茂。
最後は道雪の娘でああり宗茂の妻・誾千代。
この誾千代が薙刀使いの名手で女殿さまと呼ばれていたのです。

お家に嫡男が生まれない場合、養子をもらいお家存続が当たり前の時代・・・
道雪は、7歳の娘・誾千代に家督を譲ったのです。
道雪は北九州の覇者・大友宗麟の筆頭家臣でした。
大友家から養子をとるように再三催促があったにもかかわらず・・・
しかし、大友家はお家騒動や内紛があり巻き込まれないためにも・・・養子を受け入れずに娘に家督を譲ったのです。
まさに前代未聞のことでした。

ところが6年後・・・
女城主として大友家に仕えてきた誾千代に天気が訪れます。
大友家のライバル島津家が大友家に攻め込みます。
立花家のピンチ!!
そこを救ったのが立花宗茂です。
戦の達人と呼ばれることとなる15歳の宗茂は、誾千代の婿養子となり家督を譲り受けます。

宗茂が家督を継いでいたとはいえ・・・立花家のことには口出しせず・・・
気は優しくて戦上手の宗茂と女ボス・誾千代の戦国最強の戦う夫婦が誕生しました。
1586年立花城の戦い。。。
遂に九州制覇を目論む島津に包囲されてしまいました。
しかし、一歩も引かず籠城による徹底抗戦!!
女軍を組織し、夫の後方で戦いました。
戦国最強夫婦によって島津は撤退を余儀なくされます。
これによって宗茂は秀吉に、九州一の名将と呼ばれ。。。
大友家の一家臣から柳川城主となり、13万石を拝領することとなるのです。
夫婦で勝ち取った城でした。

歴代の柳河藩主が使用したのが”御花”と呼ばれる別邸で、代々住居としてきました。
現在でも人々に親しまれています。
”金甲”が飾ってあり・・・
それは、戦において無敗を誇った立花宗茂・・・築後の金甲軍団の印でした。

九州随一の強さを誇った立花家。。。
名勝・松濤園があります。
250本もの見事な松が見ものです。

柳川では男の子よりも女の子の誕生を喜ぶ風習が残っており、節句も華やかなのだそうです。
どうして女性がちやほやされるのでしょう???

柳川名物は・・・柳川鍋・・・ドジョウ。
柳川では開いたドジョウを使うそうです。

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日吉神社は・・・
1290年創建、誾千代宗茂夫妻の頃より代々立花家によって祀られてきました。
初節句には”さげもん”でお祝いをします。
これは柳河藩女中が始めたと言われています。
柳河藩11万石・・・城勤めとはいえ、つつましかった女中たち。。。

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お雛様を買うのは入用で・・・しかし、華やかにお祝いしたい母心から古い着物や帯などを使って毬や小物などを作ったと言われています。
今も街を挙げて盛大に柳川雛祭り「さげもんめぐり」が行われます。

他にも柳川名物は・・・?
日本一干潮と満潮の差が激しい有明海。その差は7m。深さ20m浅く、国内最大の干潟を誇っています。
この有明海のおかげでここでしか取れない珍しい魚介類がいます。

女性が元気な城下町、福岡県柳川・・・誾千代から始まったこの町は、逞しく生き生きとした女性のいる素敵な町でした。

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