日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:細川晴元

1573年7月、織田信長が将軍・足利義昭を追放・・・
室町幕府を事実上の滅亡に追い込みました。
しかし、信長よりも20年も前に、時の将軍を都から追い出した戦国武将がいました。
その男の名は、三好長慶。

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長慶は、畿内を実効支配、足利将軍に変わって自ら政権を握ろうとしました。
治安維持から中国との外交まで、将軍が行っていた政務を滞りなく行う長慶に、天応や朝廷が信任を寄せていきます。
その名は、遠くヨーロッパまで轟いていました。

室町時代末期、畿内と呼ばれた京の都周辺では応仁の乱の余波ともいえる争いが続いていました。
足利将軍家、さらには将軍家の補佐役の管領の細川家、畠山家が家督継承をめぐって分裂。
三好家は、細川家の家臣としてこの骨肉の争いに巻き込まれていきます。

1522年、三好長慶は阿波国で生まれます。
ところが、長慶11歳の時に、父・元長が主君・細川晴元に謀反の疑いをかけられ、自害に追い込まれてしまいます。
若くして家督を継ぐことになった長慶には、父の仇である晴元に従い続ける以外には道がありませんでした。
転機が訪れたのは、18歳の時・・・
長慶は、現在の兵庫県西宮市にあった越水城の主となります。
この地で長慶は、三好家の立て直しと父の敵討ちのために改革に乗り出します。

父の死の際に、三好家は多くの家臣を失っていました。
そこで長慶は、大胆な人材登用をします。
身分や家柄にとらわれず、幅広い階層から積極的に優秀な人材を取り立てて行きました。
この時に召し抱えられた者たちは、長慶の家臣団の中核をなしていきます。
その中には、土豪身分の出身とされる松永久秀もいました。
長慶は、統治者としての才能を開花していきます。
兵庫県尼崎市にある法華宗大本山本興寺・・・長慶と寺が交わした禁制と呼ばれる取り決めを記した文書が残っています。
禁制には、
・軍勢が乱入し狼藉を働かない
・本興寺の断りなしに、家を建てないこと
などが記されています。
三好が本興寺にある程度の自治を認めているということのひとつです。

本興寺の自治を認め、積極的に保護した長慶。
そこには、彼ならではの狙いがありました。
本興寺には、影響下にある末寺と呼ばれる寺が多く、そのネットワークは堺を起点に畿内や瀬戸内海沿岸、さらには種子島にまで及んでいました。
法華宗の信者たちには商人が多く、彼らはこのネットワークを活用して東アジアを結ぶ貿易ルートを築いていました。
法華宗日隆門流の日本の首都・京都と、琉球や民国に開かれた種子島を結ぶ交易ネットワーク・・・これを保護することによって、東アジア世界に自分の経済基盤を作っていきたいと考えていました。

長慶が手に入れた交易品のひとつとされるもの・・・
それこそが、最新鋭の武器・鉄砲でした。
当時、三好勢と戦をした相手方の記録には、城の壁を二重にし、間に石を詰めて鉄砲の備えとしたとあり、既に長慶が大量の鉄砲を実践投入していたことが伺えます。
実力本位の人材登用、南蛮貿易へとつながる経済活動によって着々と力を備える長慶・・・
父の仇・細川晴元打倒に向けて、機は熟していきました。

1549年、長慶は、主君である細川晴元に決戦を挑みます。
細川勢の重要拠点とされた淀川とその支流に囲まれた江口に攻め込みます。
長慶の軍勢は川を封鎖、細川勢の逃げ道をふさぎ、800人余りを討ち取る大勝利を収めました。
劣勢となった晴元は京都を脱出、ところがこの時思わぬ事態が起こります。
晴元が、14歳の将軍・足利義輝を連れて逃亡!!
当時、将軍家は細川晴元と連携関係にあり、晴元が都を離れれば義輝もついていかざるを得なかったのです。
長慶は、思わぬ形で将軍・義輝にも刃を向けることとなってしまいました。
父の無念を晴らすために戦っていた長慶・・・
しかし、この戦いが、将軍との長い対立の発端となってしまいました。

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室町幕府13代将軍・足利義輝・・・
三好長慶に都を追われた当時、まだ14歳でした。
母は公家社会の頂点に立つ近衛家の出身です。
それまでの足利将軍の中で、最も高貴な血を引き、幕府再建に向けて周囲の期待も大きかったのです。
しかし、都を追われた翌年・・・1550年、父・足利義晴死去。
都に帰れない失意の中で、自害したともいわれています。
葬儀の際、義輝は三好への徹底抗戦を誓う言葉を残しています。

「たとえわが命を父祖のために亡くし、屍を三好の軍門に晒すことになろうとも、一歩たりとも引くことはせん””」by義輝

義輝は、自分にかけられた期待を強く理解していて、自分が将来将軍として執政をするときには幕府を再興しなければいけない意識を強く持っていました。
陪臣である三好に攻められて、京都を追われて、父まで失うという状況の中で、三好に対する憎悪、憎しみはかなり強く持っていました。
しかし、三好軍に対抗できる軍勢を持たない義輝は、なりふり構わない手段に出ます。

長慶暗殺を幾度も企てます。
一度目は、長慶の滞在する屋敷に火を放とうとするものの事前に発覚し失敗。
二度目は、宴会中の長慶を刺客に襲わせました。
しかし、手傷を負わせただけで失敗。
義輝は、長慶の周囲にも刺客を放っていました。
そして、長慶の義理の父の暗殺に成功します。
血なまぐさい緊張状態に陥っていく義輝と長慶。
すると、この状況を憂いた幕府の六角氏が和睦を仲介に動き出します。
これを受けて長慶は、将軍・義輝との和睦を決断します。
長慶としては、将軍を追放するとか、室町幕府を滅ぼして管領家もなくなってしまえばいいとか・・・
そういうことではなくて、問題であった家の分裂を一本にまとめ上げることで、畿内に平和を取り戻す・・・これが当初考えていたことでした。

和睦に際に、長慶は条件を出します。
将軍義輝の帰京は認めるが、細川晴元を幕政から排除してほしい・・・
混乱の火種だった細川家の分裂争いを解消する狙いがありました。
さらに長慶は、将軍の直臣となることを要求します。
義輝の政務を直接補佐し、幕府の再建を目指そうとしました。
長慶との和睦が成立し、京都に戻った義輝・・・
ここで義輝も行動に出ます。
長尾景虎・尼子晴久・朝倉義景など地方で頭角を現した大名達へ幕府の役職などの栄典授与しました。

従来のように家格や身分を重視するのではなく、実力で評価し、新興大名を取り込もうとしたのです。
しかし、彼らは下剋上によって主家に代わって台頭した武将たち・・・
これは、将軍自ら下剋上にお墨付きを与える行動にも見えました。
幕府再建に向けて歩み出した三好長慶と将軍・義輝・・・
しかし、両者の平穏は一時的なものにすぎませんでした。

将軍直臣となった長慶・・・徐々に幕府内での影響力を強めていきます。
しかし、成り上がり者の長慶をよく思わない反三好派が将軍・義輝に接近していきました。
その一人が、細川晴元でした。
義輝の周辺では、三好協調派と反三好協調派に分裂していました。
反三好派とよばれる人たちが、三好と手を切って、細川晴元と手を結ぼうと義輝に口にしていきます。そんな中、義輝も、幕府を支えてきた細川晴元と再び連携をして以降と考えるようになります。

そして事件は起こりました。
1553年3月、足利義輝挙兵。
長慶との和睦を一方的に破棄、細川晴元とともに挙兵し、京の霊山城に立てこもりました。
さらに義輝は、長慶を将軍に刃を向ける賊軍・御敵であるとし、各勢力に長慶攻撃を呼びかけました。
2人の協調関係は、1年余りで破綻・・・!!

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1553年8月、三好長慶挙兵。
2万5000の大軍で、義輝の籠城する霊山城を包囲しました。
この時、義輝の期待に反し、畿内諸国や義輝が栄典を授与した地方の大名が援軍を送ることはありませんでした。
さらに、義輝にとってまさかの事態が起こります。
長慶側の大軍に動揺した細川晴元が、一戦も交えずに逃亡!!
一気に孤立無援の状況に陥った義輝・・・
再び近江へと落ち延びざるを得ませんでした。
こうして、京の都はまたしても将軍不在となりました。

新たな将軍を擁立する??それとも自ら政権を握る??

将軍を都から追いやった三好長慶の選択は・・・自ら政権を握るというものでした。
将軍やその後ろ盾すら持たない、後に三好政権と呼ばれる長慶の政権が誕生しました。
三好政権とはどのようなものだったのでしょうか?

大阪府高槻市には、本拠地とした芥川城があります。
長慶の政治の特徴は・・・??
水争いでは、長慶が実際に検使など派遣して実況見分をして裁判の結果を出しています。
当時の戦国武将の中でも、画期的なことだと評価されています。
当時、このような水争いで集落同氏が対立すると、大きな衝突に発展することが度々ありました。
長慶は、公平な調停者として争いを無くそうと努めたのです。
寺や神社の争いにも、長慶は公平な裁決を下しました。
時には、義輝や幕府が過去に下した採決を無効にしてしまうことすらありました。

三好政権での長慶の活躍は、外交にも及びます。
1556年、中国の明の使節が倭寇の取り締まり強化を求めて来日した時のこと・・・
本来、こうした外国使節への応対は、将軍の専権事項とされてきました。
しかし、この時、武家の代表として長慶が、後奈良天皇らと共に明の使節と対面しています。
長慶は、明の使節からも高く評価され、中国の歴史上の偉人になぞらえて記録されるほどでした。
優れた統治者として畿内を治める長慶は、将軍に代わる天下人とも呼べる存在となっていました。

一方、長慶によって都を追放された将軍・足利義輝・・・
滋賀県高島市・・・かつては朽木谷と呼ばれたこの山間の地に身を寄せていました。
父・義晴のために京の銀閣の庭園を模して造られた庭を眺めながら、都への返り咲きを虎視眈々と狙っていました。
この頃、義輝が積極的に行ったのが、全国各地の大名間の和睦調停です。
将軍の名で和睦を仲立ちすることで、地方勢力と関係を築こうとしていました。
やがて、それが実を結び、巨大宗教勢力・本願寺を味方につけ、長慶に対抗できる体制が整っていきます。
こうした中、起きたのが改元問題です。

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1558年2月・・・弘治4年に永禄元年・・・新たに即位した正親町天皇が、「永禄」へ改元します。
本来、武家の代表である将軍が儀式の費用を負担しつつ、天皇と改元を行うのが通例でした。
しかし、正親町天皇が、改元に当たって選んだのは、義輝ではなく長慶でした。
現職の室町将軍である自分を蔑ろにした改元・・・義輝には、到底受け入れることができませんでした。
義輝は、前の元号・弘治の使用を続け、長慶への抵抗を表明します。
この改元問題を機に、両者の緊張関係が高まっていきます。
そして義輝は、京の都を奪い返すべく挙兵。
三好勢との戦闘を開始しました。
この動きに対して、毛利は改元後も弘治を使い続け、義輝支持を打ち出しました。
さらに全国でも、毛利家同様に義輝を支持する反三好勢力の存在が浮き彫りになっていきます。
図らずも改元によって三好政権の基盤の弱さを見せつけられた長慶は、苦渋の決断をします。
1558年11月、義輝と二度目の和睦をし、再び都に迎え入れました。
すると、越後の長尾景虎、美濃の斎藤高政、そして、尾張の織田信長らが次々と上洛。
義輝の帰京を祝しました。
長尾景虎は、将軍・義輝に謁見すると、「越後の国を捨てても御前をお守りする覚悟」とまで発言しました。
こうして三好政権は、およそ5年でその幕を閉じました。
将軍なくしては、全国の大名を従えることはできないと、長慶は思い知らされたのです。

義輝との2度目の和睦の後に、長慶が移った山城・・・飯盛城。
標高300mの山の上に築かれています。
東西およそ400m、南北およそ650mの規模を誇る近畿地方最大級の山城です。
発掘調査で、城の50カ所以上で石垣が発見されました。
長慶が、織田信長に先駆けて本格的な石垣づくりの城を作っていたと注目されています。
かつては城の全域に石垣があった可能性が高いと思われます。
まさに、難攻不落の要塞です。
石造りの城を見せることで、長慶の権威を見せつけようとしていたのかもしれません。
さらに、発掘調査からは、一風変わった宗教施設を作っていたようです。
記録によれば、長慶は、源氏の氏神を勧請しようとしていました。
城の北側の曲輪にある御体塚の付近がその場所ではないかと言われています。
源氏の氏神を祀ることで、三好一族は足利家にも対抗しうる正当な家柄であるとする気持ちがありました。
三好家は、正当な家筋の人たちではないので、我々は源氏の血を引いているということを主張したかったのです。
ここからも、まだまだ支配者たらんとする長慶の姿が見えてきます。

そして長慶は、この飯盛城を拠点に、急速に領土拡大戦争を始めました。
若狭や丹後にまで進出、その支配領域は13カ国にも及びました。
ところが・・・ここから次々と悲劇が長慶を襲います。
三好家を支えていていた2人の弟が相次いで死去。
さらに、1563年には嫡男・三好義興急死。
立て直しを図る間もなく、長慶自身までもが病に倒れ、あえなくこの世を去ります。
享年43歳。
一方、長慶の死の翌年、将軍義輝の身にも悲劇が・・・!!
1565年、三好家の軍勢が、義輝を襲撃!!
なんと、義輝は、その場で討ち取られてしまいました。
享年30歳。

16年に及んだ三好長慶と将軍・義輝の対立は、2人の死で幕を閉じることとなります。
そして、義輝殺害から3年・・・最後の将軍となる足利義昭と共に上洛してきたのは、あの織田信長でした。

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大阪府大東市と四条畷市にまたがる飯盛山・・・
2019年6月、この地で今までの戦国史を覆す大発見がありました。
大東市と四条畷市の3年に及ぶ調査の結果、50カ所で石垣が発見されたのです。
それは、戦国時代その山に築かれた飯盛城の石垣でした。
城全体に石垣を施した初期の城として織田信長の小牧山城が知られていますが、その信長より前に、城に巨大な石垣を作り上げていた戦国武将のいることがわかりました。
三好長慶です。

最近、長慶はこう呼ばれています。
「戦国初の天下人 戦国の革命児」・・・それは織田信長のことでは・・・??
しかし、三好長慶のことです。

江戸時代に歴史家・頼山陽が書いた「日本外史」には・・・
織田信長のことを”世に優れた才能である”と、高く評価している一方、
長慶は”まだ若いのに病の老人のように政を家臣の松永久秀に任せきり”と全く評価していません。
長慶は、信長の影に隠れて忘れ去られてしまったのかもしれません。

そんな三好長慶とは・・・??
1522年、武士たちが覇権を争う真っただ中、三好長慶は阿波国の武将・三善元長の嫡男として生まれました。
長慶の父・元長は、阿波国守護・細川晴元の重臣でした。
当時、細川氏は、細川晴元と細川本家室町幕府No,2の管領・細川高国が勢力争いをしていました。
その内紛で功績を挙げたのが、長慶の父・元長でした。
管領の高国を討ち、主君・晴元に細川家の実権を握らせたのです。

これで三好家も安泰・・・と思っていた1532年、元長に悲劇が起こります。
元長の力を警戒した晴元が、排除すべく大坂の本願寺と手を組んで、一向一揆を起こさせたのです。
それによって、10万の一揆勢が、堺にいた元長を襲います。
追いつめられた元長は、顕本寺で自害・・・。
一説に、元長は腹を掻っ捌き、内臓を引き出し、天井に投げ出したといいます。
壮絶な最期、無念の死でした。
この時、父と共にいた長慶は、辛くも逃がされ、阿波国に帰ったことで命を救われます。
わずか11歳で家督を継ぐことに・・・しかし、一揆勢の為に多くの重臣を失い、三好家は危機的状況にありました。

「三好の家を守るには、どうすれば・・・?」

考えた末に、長慶の決断は・・・??
1533年、再び機内にわたると、父の仇である細川晴元に服従を示しました。
弱体化した三好家を滅亡させないためには、晴元に従うしかなかったのです。

細川で実験を握った晴元は、1537年12代将軍足利義晴の時に管領に就任。
幕政を取り仕切るほどの力を持つようになります。
長慶は、そんな晴元の家臣として戦歴を重ねます。
18歳の時、力が認められ・・・1539年摂津国の越水城主となり、守護の代わりに守護代に任命されます。

「いつの日か、父の仇を・・・!!」

耐え忍ぶこと、晴元に仕えること15年・・・1548年、仇を討つ好機が・・・!!
摂津国の池田城主・池田信正は、ある戦で晴元を裏切ったと疑われ自害します。
すると、晴元の側近・三善政長が、池田家の財産や領地を没収しようとしました。
子の横暴な振る舞いに、四国の武士たちは、強い不信の念を抱くことになります。
長慶は、これを好機ととらえました。
兵を挙げ、各地の武士に訴えます。

「我こそが、武士の利益を守るものである」

すると、晴元に不満を持つ武士たちが、長慶のもとへ・・・!!
1549年1月、長慶は晴元側の軍勢と激突!!
そして6月24日、大坂・江口で800人の軍勢を破り、見事勝利するのです。
これを知った晴元は、すぐさま京都に退散・・・
さらに、家慶の追撃を恐れ、12代将軍だった義晴、13代将軍になった義輝親子を連れて、近江に逃げるのです。 
主君と袂を分かった長慶は、細川氏内で晴元と対立していた細川氏綱(高国の養子)に付きます。
そして新たに主君となった氏綱と京都に入ると、本拠地・阿波を始め、淡路、讃岐摂津を支配下に・・・!!

フランスの地理学者シャトランの描いた「歴史地図帳」、日本の統治者の変遷の図に・・・
そこには、天皇の内裏、将軍の公方と一緒に、三好殿とあります。
天下をとった三好家は、日本の統治者であったと海の向こうまで知れ渡っていたのです。

1550年、京都から逃げていた12代将軍足利義晴が病で死去・・・
これによってまだ15歳の13代将軍足利義輝が、名実ともに将軍家の指揮を執るようになります。
すると義輝は、京都奪還を目指して兵を挙げ、幾度となく三好家と激突します。

1551年3月7日・・・
長慶が京都の寺で酒宴に興じていると、そこへ忍び込んだ子供が寺に火をつけようとしました。
その7日後には、酒宴に乱入してきた男が、長慶に刀で斬りかかる事件が発生しました。
この2度にわたる暗殺未遂事件で、長慶は一時京都をでます。
全ては、将軍義輝の差し金・・・

すると翌年、将軍義輝と和睦します。
京都に迎え入れたのです。
長慶の残した言葉の中に「理世安民」という言葉があります。
長慶は、道理の通った民が安心して過ごせるような平和な世の中にしたいと考えていたのです。
そもそも、16世紀初めの戦いの原因は・・・
応仁の乱以降、足利家が分裂し、それが一番の原因だったのです。
長慶は、個人的な恨みは捨て、世の中の平和を生み出そうとしました。
長慶は、義輝が都に不在であることも内紛の原因だと思っていました。
義輝を京都に戻し、将軍の権威を復活させることで、争いを無くそうとしたのです。
長慶はその約束の際、自身を将軍の直臣にすることを条件としました。
そのため、和睦後は細川氏を離れ、将軍の臣下となったのです。
ところが・・・和睦した将軍義輝が、再び長慶にかかってきました。
さすがの長慶にも、もう、和睦の選択はありませんでした。

1553年、長慶は2万5000の兵を率いて上洛し、将軍義輝の軍勢が守る霊山城を襲い、圧勝します。霊山城の戦い
義輝は、長慶と一戦も交えることなく敗走!!
再び近江へと逃げていきました。
長慶は、この時も義輝を追いませんでしたが、義輝に付き従っていた者たちに言い放ちます。

「将軍に従う者の領地をすべて没収する」

すると、多くのものが京都に戻り、義輝のもとに残ったのはわずか40人ほどでした。
そして長慶は決意を固めます。

「これからは、この三好長慶が都の泰平を守る」

長慶は、義輝に代わる新たな足利将軍を擁立せずに京都を支配します。
戦国時代、京都から将軍を追放したものは長慶以外にもいました。
しかし、足利家から他の将軍を擁立するのが当時の常識でしたが・・・長慶は、足利将軍を擁立せずに、京都を支配したのです。
これは戦国乱世の中でも初めてのことでした。
足利将軍家の代わりに京都を支配した長慶は、その後次々と畿内五か国を手に入れていきます。
戦国初の天下人の誕生でした。
天下とは、鎌倉時代は首都・京都を指していました。
そして、戦国時代は、天下は京都の周辺五か国(山城・大和・摂津・河内・和泉)を指していました。
長慶は確かに天下人でした。
公家や農民も、実力のある三好長慶の政治を求めるようになってきていました。
長慶は、結果的に天下人となったのです。

江戸時代初期の戦国武将の逸話集「武辺咄聞書」によると・・・
「信長は長慶の家臣になって働きたかった」とあります。
戦国の覇者となって世の中を次々と変えていった革命児である織田信長。。。
三好長慶の家臣になりたがっていたといわれるのは、信長が長慶に畏敬の念を抱いていたからかもしれません。
なぜなら、長慶は信長に先んじて常識破りの政策を行っていたからです。
信長が、足軽だった秀吉を重用しましたが・・・
戦国時代、このような画期的な人材登用は長慶の方が先でした。
武家では、代々仕える家臣を大事にするのが常でしたが、長慶はその常識を破り、身分や家格に関係なく、才能や実力を評価しました。

①人材を登用
その一人が摂津国の土豪出身とされる松永久秀です。
久秀は、長慶の右筆に抜擢されると、持ち前の知恵で、将軍や大名との交渉に力を発揮、三好家の重臣となります。
京都郊外の西九条の荘園の代官だった石成友通は、長慶の元で奉行で頭角を現し、三好家の中核となります。
長慶は自らの弟たちも上手に差配・・・
次男・実休、三男・冬康、四男・一存を敵に備えて重要な場所に置きます。
越水城主となった際、次男・実休を本拠地・阿波に、三男・冬康を淡路(安宅家の養子)に、四男・讃岐(十河家の養子)に出しました。
こうして長慶は、自身が治める畿内の周辺を兄弟で固めることで三好家を守ったのです。

②鉄砲の導入
長慶は、堺、尼崎、兵庫津など京都の物流拠点の大阪湾の主要港を支配することが重要だと考えていました。
そこで、港を拠点に活動していた法華宗の寺院や、その信者である有力な商人たちを保護、これによって流通ネットワークを掌握します。
日本国内のみならず、東アジアの貿易に関与します。
長慶の元には、明などから貴重な品が届くようになります。
その一つが、当時の最新鋭の武器・・・鉄砲です。
1550年、足利義晴方の記録に残っています。
三好長慶は、大量の鉄砲を持っていたことになり、これは信長の長篠の戦いの25年前になります。

③キリスト教の保護
1564年長慶は、領内でのキリスト教の布教を許可し、保護します。
南蛮貿易がもたらす経済効果を早くから熟知していたようで、宣教師からの最新の情報や、西欧の新しい技術を取り入れることが目的だったと考えられています。

④居城の移転
長慶は天下人となった際に、越水城から同じ摂津国でも京都に誓い芥川山城に居城を移します。
これにより、芥川山城は、幕府に代わり政治の中心となるのですが、1560年に嫡男・義興に譲ります。
自らは河内国の飯盛城に移るのです。
越水城は阪神間を、芥川山城は京を、飯盛城は河内、大和、伊勢、紀伊に拡大していく・・・
長慶は、政策課題に応じて、臨機応変に居城を移していくのが特徴で、他の戦国大名には見られません。
これは、織田信長につながっていく政策なのです。
織田信長も、那古野城→清洲城→小牧山城→岐阜城→安土城と、京都に近づいて行きながら戦国の覇者となっていきます。

⑤城の造り
大阪府大東市と四条畷市にまたがる飯盛山・・・
ここに、長慶最期の居城・飯盛城がありました。
長慶は、ここを新たな居城と定めると、大規模な工事を行い、南北700m、東西400mの山城を築きます。
山城は、山を削って、掘って盛り固めることで、堀や土塁なⅮ歩の防御システムを築き、それを囲った曲輪でつくられた構造となっています。
そんな当時は。。。石垣が施されるのは、土台が弱い一部のみ、補強でした。
石垣に適した花崗岩がなかなか手に入らなかったからです。
そのため、山城である飯盛城も石垣は一部だと考えられてきました。
大東市と四条畷市が3年間かけて発掘調査をしたところ、驚くべき事実がわかったのです。
千畳敷曲輪で・・・飯盛城の中でも最大級の石垣が発見されました。
その大きさは、長さ30m、高さ4mと推定され、石も大きなものが使われていて、一番大きなものは1.6mの花こう岩が使われていることがわかりました。
さらに、千畳敷曲輪を含めた50カ所で石垣が発見されました。
石垣が見つかったことで、飯盛城の全域に石垣が取り入れられていた可能性が高まったのです。
代全体に石垣を使った武将として有名なのが織田信長です。
1563年に築城した小牧山城をはじめ、岐阜城、安土城と総石垣にしています。
城を強固にするためだけでなく、貴重な花崗岩をふんだんに使うことで、その経済力を見せつけ、他を圧倒するためだったといわれています。
しかし、長慶の方が早く総石垣の城を作っていたという可能性が高まったのです。

大阪府堺市にある南宗寺・・・
ここは三好長慶が、非業の死を遂げた父・元長の菩提を弔うために、建てたといわれています。
その境内には天下人となった長慶の銅像があります。
そこには桐紋が・・・1561年、将軍足利義輝から、桐紋の使用を許可されていました。
名門の出ではない長慶が、桐紋を許されるのは、極めて異例なことでした。
この家紋のしようが許されたということは、三好家の家格が足利一門並みに上昇したことを意味しています。
長慶は、天皇からも大きな信頼を寄せられていました。
1558年、正親町天皇践祚(三種の神器を先帝から受け継ぐこと)のため、永禄の改元が行われたとき・・・
当時改元は、朝廷を代表する天皇から幕府を代表する将軍に相談や連絡があり、双方の合意により行われるのが通例でした。
しかし、正親町天皇は、将軍義輝を無視し、三好長慶に相談・連絡をしてきたのです。
これは、長慶が武家の代表者だと、天皇から認められたということでした。
名実ともに天下人となった三好長慶・・・
しかし、これから次々と悲劇に見舞われます。

1561年、和泉国を任せていた弟・・・四男の十河一存が病死、その翌年の1562年には次男の実休が戦死、そしてその翌年の1563年には長慶の嫡男・義興が22歳の若さでこの世を去ります。

「このままでは三好の家が・・・!!」

身を奮い立たせ、後継者選びに奮闘します。
候補となったのは、弟の中でまだ存命だった安宅冬康、亡き弟・実休の嫡男・長治、一存の嫡男・義継でした。
血縁の序列で言えば、弟・冬康ですが、長慶が選んだのは序列で一番下の義継でした。
長慶は、先の関白・九条植通の養女を母とする義継を選んだのです。
家格も天下人に相応しいようにと選んだのです。

「これで三好の家も安泰じゃ・・・」

しかし、1546年5月9日、弟・安宅冬康を飯盛城に呼び寄せると・・・殺してしまいました。
どうして・・・??
軍記物語などでは、長慶の家臣・松永久秀が三好家を乗っ取るために冬康を陥れるために画策・・・
「冬康殿が上様に謀反を起こそうとしております」
と、長慶にウソを吹き込んで殺害させたと書かれていますが・・・
松永久秀の讒言はなく・・・まだ幼少の三好義継が長慶の後継者となった事で、家臣団が義継と冬康に分かれてしまった事を恐れていました。
三好家の内紛で、世の中が乱れないように、内紛の火種になる弟・安宅冬康を殺害したのです。
内紛によって、衰退の一途をたどっていった足利将軍家や細川氏を目の当たりにしてきた長慶・・・三好家が同じ道を歩まないように、弟・冬康を殺害するという苦渋の結さんをしたのです。
実の弟を殺める・・・長慶は、病に伏してしまいます。
わずか2か月後・・・1564年7月4日、三好長慶、43歳で死去・・・。
この時、新たに当主となった義継はまだ15歳にも満たなかったため、混乱を避けるために長慶の死はふせられました。

家督を継いだ義継は、翌年の1565年、三好を陥れようとしたとして、将軍足利義輝を討ち取ります。
長慶の晩年より、将軍家との関係が急速に悪化していました。
そこを継いだ義継は、将軍義輝を討つことで、三好家を率いていくという姿勢を示したかったのです。
しかし、その後、長慶が憂いでいたことが起きます。

重臣・松永久秀と、三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、石成友通)が対立!!
義継は、家臣たちをまとめきれずに、結局三好家は分裂・・・。
そんな中、1573年、天下布武を掲げて躍進していた織田信長の軍勢に攻められ、義継が自刃・・・
三好家の天下はここに潰えたのです。
長慶が亡くなってから、わずか9年後のことでした。

織田信長より先んじていた戦国の革命児・三好長慶・・・
戦乱の世を終わらせ、平和を築くことを願い、天下を掌握した男でした。
しかし、その天下は、皮肉にも、あとを追ってきた戦国の風雲児・織田信長によって奪われてしまうのです。
まさに乱世の因縁・・・長慶の死から4年後・・・
1568年、京都を目指して進軍していた信長は、芥川山城を攻め、10日余り滞在しています。
芥川山城は、長慶の本拠地、京都に代わる政治の中心地でした。
そこを攻め落とすことで、三好家の時代は終わったのだと、世間にアピールする狙いがあったのだとされています。
信長にそうまでさせる三好長慶は、大きな存在だったのです。

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1577年10月10日、一人の戦国武将が大和国・信貴山城で、爆死を遂げました。
その武将とは、戦国時代の大悪党と呼ばれた松永久秀です。

信長は、家康にこう言って紹介しました。
「この老人は、これまで人のせぬことを3つした。
 将軍の殺害に主君への謀反、奈良の大仏殿を焼いたことだ・・・!!」
信長は恐れ、傍に置いておきたいと考えました。
宣教師・ルイス・フロイスも、天下を掌握していたのは松永久秀だとしています。

松永久秀とはどんな人物だったのでしょうか??

冷酷無比で知られる織田信長・・・しかし、そんな信長が、一目置いていたのが松永久秀です。
久秀は、1510年京都・石清水八幡宮のあたりで生まれたと言われています。
久秀が生まれた室町時代後期・・・権力を持っていた足利将軍家と守護大名の力が弱まり、代わりに実際に領地を治めていた守護代・国衆などが武力と経済力を持ち、政治に影響力を持つようになっていました。
そのため、主君をうらぎる下剋上は当たり前・・・阿波出身の三好長慶もその一人でした。
主君の細川家(晴元)に反旗を翻して中央に進出し、畿内5か国に加え、丹波、讃岐、播磨・・・当時の戦国大名としては最大の規模を誇っていました。
久秀は、この三好長慶の右筆として仕えていました。
やがて才能を買われて武将として取り立てられると、外様でありながら三好家の親族と同じぐらいに出世していきます。
そんな中、久秀が主君を裏切ったという噂が・・・!!
当時、三好政権は、長慶の4人の弟たち(野口冬長・十河一存・安宅冬康・三好実休)によって支えられていました。
中でも、安宅冬康は重要な地位にいたのですが、長慶は冬康は城に呼び出すと謀反の疑いで自害させたのです。
この時、冬康の謀反を吹き込んだのが、松永久秀と言われています。
この前年、三好家の嫡男・義興が22歳の若さで病死していますが・・・これも、松永久秀が毒殺したともいわれています。
三好家を滅亡へと追い込み、下剋上を考えているのだと・・・??
事実、三好長慶が存命中はそむいたりしたことはなさそうですが、ルイス・フロイスは、「天下の再興統治権を掌握していたのは、松永霜台(久秀)であった。」と書き記しています。
当時、室町幕府より力のあったと言われている三好長慶よりも、久秀は力を持っていた・・・??
それは、久秀が置かれていた異様な立場に関係しています。
久秀は50歳で、室町幕府のお供衆に就任します。
お供衆は、将軍に付き従い、外出のお供や給仕を務める役職です。
つまり、三好家の家臣でありながら、幕府の仕事もこなしていたのです。
そのため、幕府の儀式の際には役人として参加し、主君・三好長慶よりも上座に座ることがあったので、主君への裏切りは久秀の立場が招いた周囲の誤解だったと噂されてしまいました。

将軍殺害・・・??
1565年、二条室町の将軍の御所を、突如1万2000の三好の兵が取り囲みました。
御所内には、13代将軍足利義輝が・・・!!
必死の抵抗を試みますが・・・義輝はついに殺されてしまいました。
この時、義輝の子を身ごもっていた侍女や、義輝の弟をはじめ200人近くが無残に殺されました。
あまりにも凄惨なこの事件・・・裏で糸を引いていたのは久秀・・・??

権力の回復を望んでいた義輝は、実質的権力者の三好に大きな不満を抱いていました。
そんな中、1564年三好長慶死去、これを好機と義輝は幕府の権力を復活させようとします。
が・・・長慶の死後も幕政を支配しようとした三好家の家臣たちは、義輝を殺害してしまったのです。
襲撃の際にの軍勢に、久秀の嫡男・久通がいましたが、本人は大和国にいて、襲撃には加わっていません。
その興福寺には、将軍の弟・義昭がいました。
兄が殺されたことで、自分の身を心配した義昭は・・・久秀から「義昭殿の命をとるつもりはない」と、書状を受け取っています。
そんな助けていた久秀が、本当に黒幕だったんでしょうか??
確実な資料はありませんが、情報は知っていたようで・・・それを止めた形跡はありません。
黙認だったようです。

義輝暗殺後、三好家は意のままに操れる義栄を14代将軍とします。
一方久秀も、興福寺の勢力を破り、大和国の一部を支配、信貴山城・多門山城を地盤を固めます。
しかし、三好政権の長慶が亡くなってから・・・三好家(三好長逸・三好政康・岩成友通)との間に争いが・・・!!
1566年、14代将軍義栄が久秀討伐令を出させます。
久秀も反撃を開始!!三好三人衆の高屋城を攻めますが、堺への撤退を余儀なくされました。
そして、三人衆側の1万5000の兵に包囲されてしまうのです。

戦国時代堺は貿易港として経済的に発展し、会合衆という商人たちによって自主的に運営されていました。
会合衆たちと親交のあった久秀、臙脂屋と能登谷に和睦の仲裁を依頼します。
武士の支配の入らないところで、交渉をしてもらったのです。
久秀が戦に負けたことを正式に公表することを条件に、戦は終わりました。三人衆は兵を引き上げます。
しかし、久秀は反撃に出ました。

1567年10月10日、奈良大仏殿が・・・火に包まれ、安置されていた大仏も火に包まれ、甚大な被害が・・・!!
出火の原因は松永久秀だったのでしょうか??
堺の戦いの翌年、三好三人衆に追いつめられた久秀に好機が訪れます。
それは、三好家の正式な後継者となった義継から・・・
三人衆によって冷遇されてきた義継が久秀に保護を求めてきたのです。
大義名分を手に入れた久秀・・・三好三人衆は、大和国で久秀と領地争いをしていた筒井順慶と手を組み、久秀の本拠地である多門山城の攻略に取り掛かります。
この時、本陣として選んだのが東大寺でした。
敵の進軍を知った久秀は、城を出て東大寺戒壇院跡地に陣を置きます。
両軍は6か月にわたり戦いを繰り広げますが、数に劣る久秀は、追い込まれていきます。
そこで、本陣に奇襲を・・・!!
敵の本陣に夜襲をかけたのです。
すると、放たれ火が大仏殿に・・・??
この火災について・・・猛火天に満ち、さながら落雷があったようで、ほとんど一瞬になくなった・・・と、書かれています。
巨大な大仏殿を一瞬で焼き尽くした猛火・・・
当時の大仏殿は、現在の大仏殿よりも幅約86m長いものでした。
また、この戦で大仏の下のほうが被害が少なかったということが分かります。
つまり、下から炎上したのではなく、天井に炎が・・・柱などの構造物は炎上しなかったと思われています。
東大寺の記録には、「西の回廊に火が懸かる 火を消すと雖も西風頻りに吹き・・・」とあります。
このことから強風にあおられ西の回廊から大仏殿に燃え移ったと思われます。
真っ先に火が着いたのは、組物の部分では??
毎秒1~2メートルで!!
屋根の内側から大仏殿を炎で包んだと思われます。

出火元と原因は・・・??
勧進所(穀屋・穀物倉庫)から出たといわれています。
穀屋で発生した兵火が、法花堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼し、丑刻には大仏殿が焼失した!!
と、書かれています。
穀屋は、両陣営の中間地点に当たり、最も激しい戦闘がされていました。
つまり、火災の原因はどちらか・・・??特定することはできません。
が、どうして松永久秀がやったということになるのでしょうか??
地元の人間ではなく、外部から入ってきた人間だったので、嫌われていたという側面があります。
旧勢力側からすると歓迎されない人物だったのです。
歴史の展開の中で、悪く言われてしまうことになります。

三好三人衆は撤退し、この戦いには勝利した久秀、しかし、三人衆の攻撃は止まらず信貴山城は陥落!!
これによって窮地に追い込まれた久秀!!
織田信長に目をつけます。
桶狭間で今川義元を破った信長が、勢力を拡大!!
そして、天下取りのために京に上ると、足利義昭を将軍にしようと画策します。
これに反発した三好三人衆は・・・信長に敗れ阿波に・・・!!
こうして、義昭が15代将軍となり、それを庇護する信長が幕府の実権を握ると・・・久秀が動き出しました。
信長に取り入るために・・・
信長が茶の湯に傾倒していることを利用!!
なんと、久秀は名の通った茶人だったのです。
三代将軍義満が持っていたという茶入「つくも茄子」を一千貫(1億5000万円)で手に入れ、信長に譲ることで機嫌を取り取り入ることに成功します。
これによって久秀は2万の援軍を得て、筒井順慶を追い出し、大和国を平定することに成功します。
しかし、ここに想定外の事態が・・・!!
義昭と信長の関係が悪化!!
義昭は武田信玄などと接触し、信長包囲網を展開!!
これを見た久秀は、信長をあっさり裏切り、将軍に着きます。
将軍側の包囲網には信長でもかなうはずはない!!
しかし、久秀の読みは外れ・・・武田信玄が病死!!
さらに義昭も信長に敗北・・・室町幕府が滅亡してしまいました。

信長に反旗を翻した久秀軍も、多門山城を包囲され・・・降伏を与儀なくされます。
自分を裏切った者に容赦しない信長ですが、この時は大和国の支配権を奪っただけで、命まではとりませんでした。
どうして・・・??

久秀が、堺の商人と密接な関係があるという事、鉄砲の生産地、海外との交易・・・その軍事力、経済力を手に入れようとしたときに、久秀を利用しようとしたのです。
笹井を支配するために・・・!!
そして、久秀の築城術も手に入れようとしていました。
見事に作られた多門山城・・・のちの天守閣を思わせる四層の楼閣・・・豪華な壁画・・・壮麗な御殿・・・。
多門櫓は久秀の考案とされています。
信長が築いた安土城は、この久秀の多門山城を参考にしたともいわれています。

合戦の城から見せるための城へ・・・!!
それは信長からではなく、久秀からだったのです。
戦乱の世、城は重要な砦!!
人々がひれ伏する城を手に入れようとした信長なのです。
しかし、久秀はまたもや信長に逆らいます。

天下統一の信長の前に立ちはだかったのは・・・本願寺11代宗主・顕如。
1570年石山本願寺に籠城!!
以後、信長と10年にわたり石山合戦が始まります。
1577年、久秀は、信長軍の一翼となって石山本願寺を包囲していましたが、突如陣地を離れ、信貴山城に立てこもってしまいました。
またもや信長を裏切った久秀ですが・・・
一つは越後の上杉謙信!!
謙信が上洛の動きを見せていることに気付いた久秀は、本願寺派と組めば信長を討てると考えたからです。
そして、もう一つは、信長によって奪われていた大和国の支配権でした。

久秀の二度目の裏切りに激怒した信長は、明智光秀、筒井順慶らに信貴山城の包囲をさせます。
しかし、説得をも試みる信長・・・!!
久秀の持つ茶道具の名器「平蜘蛛茶釜」を差し出せば、命を助けるというものでしたが・・・
「わしの首と、この平蜘蛛の釜だけは信長には見せはせん!!」
拒絶した久秀!!
10月5日、織田軍4万の総攻撃が始まりました。
これに対する久秀の軍勢は8000余り・・・。
抵抗を試みるも追い詰められていきます。
久秀は、家臣・森好久に命じ、石山本願寺に援軍を要請!!
城を出た森は、鉄砲衆200人を引き連れて戻ってきました。
10月10日、織田軍の総攻撃が再び始まりました。
押し返す久秀軍!!
突如天守に近い三の丸から火の手が上がりました。
火をつけたのは、森好久が連れてきた鉄砲衆・・・実は彼らは敵の兵士たちでした。
森は本願寺に行くと見せかけて、敵の筒井順慶の陣地に・・・!!
そこで鉄砲衆200人を信貴山城に招き入れていたのです。

鉄砲衆の反乱により大混乱!!
久秀軍は後がない・・・!!
久秀は天守閣に火を放ち・・・信長が熱望した平蜘蛛の茶釜に鉄砲の火薬を入れて・・・爆破!!
城とともに焼け死んだといわれています。
68歳の生涯でした。

その茶釜は願い通り信長に渡ることはありませんでしたが・・・
久秀の首は安土へ・・・
体は久秀のライバル・筒井順慶によって信貴山城近くの達磨寺に葬られたといわれています。


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