日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:豊臣秀吉

”退く戦は攻める戦より難しい”

戦国時代、撤退戦は武将たちを死の間際に追い込みました。
乱世に幕を引いた天下人・徳川家康も例外ではありません。
生涯で幾度も危険な撤退戦を経験した家康・・・
その中で、今まであまり語られてこなかった戦があります。

”金ヶ崎の退き口”です。

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織田信長が、朝倉氏討伐のために越前へ出兵。
信長と同盟関係にあった家康も、この戦に参陣しました。
戦いを優勢に進めていた織田軍でしたが、浅井長政の裏切りにより形勢が逆転。
信長は、撤退せざるを得なくなりました。
軍の殿・・・つまり、最後尾を任されたのが、木下藤吉郎・・・のちの豊臣秀吉でした。
しかし、この時、最も厳しい状況にあったのが、敵中深くまで攻め込んでいた家康でした。
家康の家臣はこう記しています。

”信長は、家康を前線に残したまま、何の連絡もなく退却した”

家康は、信長が撤退したことを知らされておらず、最前線に取り残されてしまったのです。
家康は、いかにしてこのピンチを生き抜いたのでしょうか??
信長、秀吉、家康・・・
戦国の三英傑を窮地に追い詰めた金ヶ崎の退き口・・・
この戦いに徳川家康の視点から迫ります。

1560年、桶狭間の戦いで、織田信長が東海の雄・今川義元を討ち果たしました。
これを機に、今川家中の一武将だった家康は、生まれ故郷の三河に帰り、独立を果たします。
この時、19歳でした。
まもなく、尾張の織田信長と同盟を締結。
西からの脅威を無くした家康は、三河を統一し、版図を拡大させていきます。

1570年、29歳の家康に、同盟相手の信長から書状が送られてきました。
それは、天下静謐のため、各地の領主に上洛を命じるものでした。
家康はこの命令に従って、上洛。
将軍・足利義昭の前で、馬揃えを披露しました。
その盛大さに、多くの見物人が集まったと記録されています。
しかし、華やかな式典の裏で、信長はある作戦を実行しようとしていました。

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1570年4月20日早朝、信長は、3万ともわれる大軍勢で都を出陣!!
その中には、家康率いる徳川勢もありました。
都の西岸を北上した軍は、4月22日、若狭国の熊川城に到達。
この時、家康は城下の得法寺に泊まったといわれています。

この時信長は、3万もの大軍を動員して何をしようとしていたのでしょうか?
信長が、毛利元就に送った書状にはこうあります。

”若狭の武藤と申す者が悪逆を企てているので、成敗しなさいと将軍から命令された”

足利義昭から、若狭国衆・武藤氏の討伐を命じられたと言います。
しかし、4月23日、熊川を出た信長は、武藤氏の西ではなく北へ軍勢を向けました。
その先は越前・・・戦国大名・朝倉氏が支配する地です。
従来、この信長の出兵は、朝倉の当主・朝倉義景が上洛命令に従わなかったためと考えられていました。
しかし、近年違った解釈があります。
信長が、最初から越前攻めを考えていたかは非常に難しい所です。
若狭国は、朝倉方と将軍・信長方で二分されていました。
言うことを聞かない武藤氏が、越前の朝倉に援助を求めたとわかってきました。
それなら懲らしめないといけないと、若狭から越前に入って行ったのでは??

朝倉義景が、反将軍派の後ろ盾になっていたと知り、信長は越前に軍を向けたのです。
4月23日、信長は若狭と越前の国境にある国吉城に入城。
その2日後に、越前の敦賀に進軍を始めます。
狙うは金ヶ崎城と手筒山城・・・2つの山城です。

信長はまず手筒山城への総攻撃を指示、家康率いる徳川勢も、南側から力攻めを行います。
結果、手筒山城はわずか半日で落城。
この時織田軍は、1300人以上を討ち取ったと記録されています。
翌日、信長は金ヶ崎城を包囲。
ここで手柄を立てたとされるのが、木下藤吉郎・・・のちの豊臣秀吉です。
城に乗り込んだ木下藤吉郎は、降参すれば命を奪うことはないと説いて開城させました。
越前と畿内を結ぶ要衝・敦賀の全域を易々と占領したのです。

信長は、すぐさま越前のさらに奥へと軍勢を進ませます。
その先鋒を務めたとされるのが、徳川家康!!
4月27日、家康らの先陣は、越前の南北を分ける木ノ目峠に達したと考えられています。
朝倉氏の本拠地・一乗谷まではおよそ50キロ・・・家康は峠を越え、一気に一乗谷へと流れ込もうとしていました。

しかし、その時、信長に驚くべき知らせがもたらされていました。
北近江を治める浅井長政が、朝倉川についたというのです。
長政は、信長の妹婿でもある同盟相手です。
もし裏切った浅井が近江から北上してくれば、信長は朝倉・浅井に挟み撃ちにされます。
一国の猶予も許されない絶体絶命の状況・・・
ここで信長は、”是非に及ばず”と言い捨てました。
後に本能寺の変でも口にする言葉です。
そして、撤退を決断!!
わずかの馬廻りだけを従え、都へ一目散に駆け出しました。
朝倉の追っ手をふさぐ殿は、木下藤吉郎らに託されました。
この時、越前の最も奥まで攻め込んでいた家康は、いかなる状況にあったのでしょうか?
家康の家臣が記した”三河物語”にはこうあります。

”信長は家康を捨て置き、何の連絡もなく宵の口に退却した
 家康はそれを知らず、夜が明けてから木下藤吉郎に知らされ、退却することになった”

危険な最前線に取り残されてしまった家康・・・
ここから決死の撤退戦をすることになります。

信長が退却したことを知らされた家康は、すぐさま兵を集め撤退を始めました。
目指すは、木下藤吉郎ら殿の軍勢が残る金ヶ崎城。
朝倉から奪ったばかりの城です。
この山城は、今は周囲を埋め立てられていますが、当時は三方を海に囲まれた天然の要害でした。
敦賀湾に突き出た金ヶ崎城は、朝倉の追撃を防ぐのに最適の城であったように思われます。
しかし、撤退する家康が、この城に入ったという記録はありません。

その理由の一端が、航空レーザー測量によって見えてきました。
赤色立体図には、細かな地形が視覚化されています。
そこには金ヶ崎城の意外な姿がありました。
それは、朝倉時代に整備された遺構が驚くほど少なかったことです。
南北朝時代に作られたものを、そのまま利用したのではないかと思われます。
南北朝時代の城の遺構は多く確認されましたが、戦国時代の最新の防衛設備は極めて少なかったのです。
山を削って平地を作ったように見える場所・・・それまでは曲輪かと思われていましたが、調査の結果は古墳でした。
朝倉時代のものではなく、新たに確認された古墳です。
城の遺構と思われていたのは、1000年以上前に築かれた前方後円墳でした。
朝倉は、こうした空間に手を付けず、城としての大規模な整備を行っていなかったのです。
実は当時、敦賀では金ヶ崎城のふもとにあった氣比社・・・現在の気比神宮が強い力を持っていました。
氣比社にとって、金ヶ崎城にある山並みは、神が降臨したとされる聖地でした。
朝倉は、こうした事情に配慮したとも考えられます。
金ヶ崎城は、天然の要害であるけれど、自分から反撃するということが籠城するとできない場所でありました。
徳川家康も、ここで残って何かをしようとは思わずに、脱出できる間に脱出して、追撃をかわしながら安全な場所に行く・・・と、考えたと思われます。
金ヶ崎城では、朝倉の追撃を食い止められない・・・
家康は、この城を横目にさらに西に向かいます。
木下藤吉郎ら殿の軍勢も金ヶ崎城を出て西に向かったと考えられます。
背後には、朝倉の追撃軍が迫っていました。
一体どこまで逃げれば助かるのか・・・??

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この時家康が目指したのは、越前と若狭の国境と考えられます。
そこには、国吉城という城があります。
国吉城とはどんな城だったのでしょうか??
登りにくく、ここに山城が無ければ登ろうとは思わない登りたくない山です。
山頂までは急峻な斜面が続き、敵の侵入を防ぎます。
さらに、本丸の手前には、高度な守りの設備も築かれていました。
”連郭曲輪群”があり、5つの階段状の曲輪が並んでいます。
それぞれの曲輪の間には、切岸が築かれています。
攻めよせる敵に、およそ10メートルのがけの上から鉄砲や弓矢で攻撃を浴びせるのです。
本丸までにはこうしたがけが5つ続いていました。
まさに、難攻不落!!
北側は、若狭湾が一望でき、大池もある・・・非常に、防御にも適した立地にある城山でした。
堅い守りを誇る国吉城・・・朝倉氏は、これまで何度もこの城を攻略しようとしていました。
しかし、その度に激しい反撃にあい、失敗。
朝倉義景は、この城について語っています。

”国吉城は、城の守りが固く、自由に攻め寄せられず
 攻めても有利にならない”

国吉城は、家康が逃げ込むのにうってつけの城でした。
織田軍全体の中でも、国吉城に帰れば、国吉城まで撤退すればというところがありました。
朝倉にしてみると、国吉城まで逃げられてしまうと、今まで攻めても落ちない城・・・
そこまで逃げられたら追いかけるのに諦める・・・!!

金ヶ崎城から国吉城まではおよそ10キロ・・・
金ヶ崎の退き口での家康の撤退戦は、この10キロを逃げ切れるかどうかだったのです。
しかし、その道のりは過酷なものでした。
朝倉の記録には、こう記されています。

”親は子を捨て、郎党は主人を知らず、我一番にとひ引き行く
 進むときは鉄壁をも砕く程の猛勢も、退く時は波の声も敵の寄ると恐れをなし
 後より味方の落来るを 敵の追うかと心得て 同士討ちする族もあり”

敵は朝倉の追撃だけではありませんでした。
朝倉や浅井の息がかかった一揆勢が、家康のいく手を遮っていたともいわれています。
そんな中、家康を守る三河武士は、決死の戦いを続けました。
徳川勢の最後尾にいた弓の名手、内藤正成は、6本の矢で6人を倒す、百発百中の腕前を発揮。
槍の半造と呼ばれた渡辺盛綱は、数十人を突き伏せ、一揆勢を退却させたと記録されています。
壮絶を極めた戦いの末、若狭へ入った徳川軍・・・
しかし、国吉城を目前にして、家康は難しい選択を迫られることになります。

若狭国の国吉城へ向け、およそ10キロの道を戦い続ける徳川軍・・・
ようやく国境を越えてまもなく、家康が目にしたのは味方のピンチでした。
殿として撤退していた木下藤吉郎の軍が、敵に囲まれていたのです。

木下藤吉郎の軍が、敵兵に四方から取り囲まれ、全滅寸前になっていた

そんな窮地に陥っている木下藤吉郎を目の当たりにした家康・・・どうする??

木下藤吉郎が、朝倉軍に囲まれたと伝えられる黒浜は、国吉城まで2キロ足らず・・・
家康は信長の家臣ではないのだから、かまわず城へ行くのが当然だと思われます。
しかし・・・見方を見捨てたとなれば、信長はどう思うのか??
浅井に裏切られた怒りにまかせて、どんな仕置きをされてもおかしくはない・・・!!
救援に行き、信長の覚えをよくしておくべきか??

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国吉城の手前で敵に囲まれた木下藤吉郎の軍勢・・・ 
それを見た家康は、こういったと伝わっています。

「ここで木下藤吉郎が討たれれば、再び信長殿に合わす顔がない」

家康は、木下藤吉郎を救援に行く選択をしました。
朝倉軍に突撃した家康は、水から鉄砲を放ち、木下藤吉郎を救出。
命拾いした木下藤吉郎は

「お陰を被りかたじけない次第」

と、家康に感謝を伝えたと言います。
こうして、危険な撤退戦を生き抜いた家康は、何とか国吉城に到達。
朝倉軍は、ここで追撃をあきらめたと考えられています。

数日後、家康は木下藤吉郎とともに都に帰還。
信長は、殿をやり遂げた木下藤吉郎をほめ、黄金数十枚を与えました。
しかし、家康に褒美があったという記録はありません。

金ヶ崎の退き口からわずか2か月後、家康は再び信長の求めに応じ出陣。
浅井・朝倉との姉川の戦いです。
ここで家康は、朝倉軍を一手に引き受け、さらに窮地に陥った織田軍を救い、勝利に導きます。
同盟締結から信長が死ぬまでのおよそ20年・・・
家康は信長を助けつづけるのです。

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戦国乱世を収束させ、天下統一を成し遂げた英雄・豊臣秀吉。
秀吉がまだ羽柴と名乗っていた時代、秀吉を評した言葉が西国の雄・毛利氏の書状に残されています。

”秀吉は、合戦はむろんのこと城攻めを得意とした武略に秀でた名人である”

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1580年8月、11年の長きに及んだ織田信長VS.大坂本願寺の戦いがようやく幕を閉じました。
これにより、畿内統一を果たした信長の敵は、東の武田、北の上杉、そして、西の毛利に絞り込まれました。
毛利に対抗する中国方面を担ったのが、織田家の武将・羽柴秀吉・・・後の豊臣秀吉です。
秀吉は、反旗を翻した別所氏の三木城を下し、姫路城を拠点に播磨や但馬の敵を次々に攻略。
そして、毛利との国境・因幡国・・・現在の鳥取県に矛先を向けました。
毛利氏の山陰地方の要となった鳥取城・・・
2021年、復元されたばかりの大手門・・・江戸時代、鳥取藩32万石の格式を誇る重厚な門構えです。
門をくぐると、そこには鉄壁の防御の工夫がなされていました。
江戸時代の鳥取城は、石垣に覆われた山のふもとに築かれた近世城郭で、城郭の博物館と呼ばれています。

戦国時代の鳥取城は・・・??
それは、城の背後を守る久松山の上にあります。
1580年5月、秀吉は1万騎を率いて因幡へ向け進軍を開始しました。
秀吉VS.毛利・・・戦いの前哨戦となる、第1次鳥取城の戦いの幕開けです。
秀吉の進軍と同じ頃、但馬方面を制圧した秀吉の弟・秀長軍は、海から上陸し、織田方に味方した南条氏も西から進軍を開始します。
秀吉軍は、三方から鳥取城に進軍します。
秀吉軍は、怒涛の快進撃で国内の七つの城を陥落させ鳥取城を包囲しました。

当時、鳥取城の城主は、毛利方に与した山名豊国。
かつて山陰地方を治めた名門大名の末裔です。
しかし、秀吉の大軍勢を目の前にして山名氏は、家臣たちの反対を押し切り秀吉に降伏を申し出ました。
秀吉は、わずかな期間で鳥取城を手に入れたのです。
ところが、秀吉が居城・姫路城に帰陣した後、事件が起きました。
同じ年の8月、鳥取城攻めに参加した南条氏に対し、毛利軍が攻撃を開始。
これによって、南城氏は孤立します。
さらに因幡各地で反織田一揆が勃発。

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そして、1580年9月、秀吉に降伏した山名氏が、毛利を支持する家臣たちによって城から追放され、鳥取城は再び毛利方の手に渡ってしまいました。
追放された城主に代わり、毛利本国から新しく鳥取城主が派遣されました。
毛利を支える武将・吉川経家です。
鳥取城をめぐる新たな戦いが、再び始まろうとしていました。

1581年6月下旬、秀吉は総勢2万の大軍勢で再び鳥取城へと進軍しました。
一方、鳥取城に籠城したのは周辺の避難民を含めて4000人ほど。
鳥取城を完全包囲する織田方の付城群・・・その要となったのが、鳥取城の背後に築かれた秀吉の本陣・・・後世、太閤ヶ平と呼ばれた場所です。

1581年7月上旬・・・鳥取城を包囲した秀吉は、それぞれの付城群を土塁と堀でつなぎました。
その防衛線は、なんと総延長12キロ以上に及んだといいます。
どうして秀吉は鳥取城を包囲するための陣城にもかかわらず、大規模な工事を行ったのでしょうか?
太閤ヶ平には不思議なところがあります。
秀吉の本陣には、それぞれ櫓が設けられていたことが分かっています。
ところが、東側の広大な突出した部分には、櫓とは異なる建造物がありました。
天主台があったのでは??と推測されます。
秀吉がここに天主を築いたその理由とは・・・??
この戦いが、毛利VS.織田の決戦になる!!と、計画を立てていました。
太閤ヶ平は、毛利と織田との決戦が実現した時に、織田信長が鳥取にやってくる・・・
そして、織田信長が鳥取で入場する「御座所」として信長のために建てていた特別な陣城出会ったのです。
信長の格式にあう城を造ろうとしていました。
こうした推測を裏付ける資料が残されています。
信長が織田方の武将に宛てた手紙には・・・??
”信長公が御出馬を急いでおられる
 御座所の普請については、日夜油断なく申し付けている”
御座所とは、高貴な人の拠出のことを言います。
秀吉にとってのその人とは、信長に他なりません。

秀吉自身も、信長を迎える準備をした後は自分自身は西の方・・・伯耆の方に兵を進めると言っている資料が残っています。
単なる兵糧攻めと捉えるのではなく、東伯耆まで含めた広い視野・いろんな角度でとらえ直していく必要があります。
つまり、秀吉の目的は、鳥取城を包囲するだけにとどまらず、さらに西へ向かい、国境を越え、伯耆へと侵攻するものでした。
さらに西へ向かって進軍して、どんどんと西に進み、毛利の本隊・主力軍を鳥取に引きずり出してくるという情勢が整えば、すぐさま信長が畿内の軍勢・広域の軍勢を率いて本体が鳥取にやってくる・・・
毛利輝元の軍勢と信長の軍勢が、鳥取で雌雄を決する!!毛利対織田の決戦を、秀吉が主導して行っていく・・・これが描いていた戦略でした。

信長の書状には・・・
”万一、毛利輝元・小早川隆景の毛利本隊が鳥取城へ出陣し、後詰めするようであれば、すぐに我々も出陣し、毛利を討ち果たす予定だ”とあります。
毛利輝元とは毛利家の当主であり、小早川隆景は毛利宗家を支える知将と知られた人物です。

秀吉は、鳥取城を完全に包囲したのち、毛利領である西への侵攻を開始、秀吉は鳥取城救援のため進出している吉川元春と激突、秀吉のこの陽動作戦により毛利本隊は後詰めのために鳥取城に向かいます。
毛利本隊が進出すると、信長本体も鳥取に侵攻。
信長は御座所となる秀吉の本陣に布陣。
両軍が鳥取城を間に対峙し、やがて織田対毛利の一大決戦となる・・・という作戦です。
秀吉が計画した織田対毛利の一大決戦・・・勝利を手にするのは一体どちらでしょうか??

1581年7月、秀吉軍は鳥取城の西に向かい侵攻を開始。
第2次鳥取城の戦いの始まりです。
ところが、毛利方の資料には・・・
”秀吉が攻め寄せたが、毛利方の吉岡氏が無二の覚悟で合戦に及び、羽柴軍50余りを討ち取った”
とあります。
秀吉軍の当初の目的であった西への侵攻は、毛利方の反撃にあって進軍を阻まれてしまいました。
秀吉が西へ進軍して初めて毛利本隊は鳥取城に進出します。
そしてそれに応じて信長本体も進軍し、僚友の一大決戦が行われるという秀吉の作戦計画です。
ところが、秀吉は毛利方の国衆に阻まれ、西への進軍さえままなりません。
これからどうすればいいのか・・・??

一大決戦の計画を進める??
大崎城は、秀吉軍の侵攻を阻止する要となった毛利方の山城です。
毛利方の最前線の守りを固めた城を、攻め落とすのは難しいものがありました。

計画を諦め、城攻めに専念する・・・??
鳥取城さえ陥落すれば、毛利方の武将達も我が方へ与するかもしれない・・・
そうなれば、西への道も自ずから開けるのではないか??

あくまでも計画通りことを進めるべきか??
それとも計画を諦め、鳥取城包囲に力を注ぐべきか・・・??

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1581年7月下旬・・・
西へ向かった秀吉は、毛利方の思わぬ反撃にあい、なんと三度も敗北を喫したと言われています。
秀吉の西への進出は果たされず、その為毛利本隊は動かず、信長の進出も頓挫しました。
秀吉の、織田対毛利の全面戦争の目論見は崩れ去りました。

秀吉は、やむなく鳥取城の包囲に専念し、兵糧攻めを選択しました。
毛利軍は、流通路を確保することが一番のポイントであると見抜いていて、確保する出城を作って守りを固めていました。
それに対して秀吉は、その丸山城の先にある川と海の接点に砦を作り、丸山城に物資が運び込まれるというのを防いでいました。
8月、秀吉軍の鉄壁の包囲戦によって、丸山城では餓死者が続出。
悲惨な状況に追い込まれていました。
一方、鳥取城包囲戦に計画を変更した秀吉軍も、毛利軍と同じく兵糧不足に悩まされていました。
こうした秀吉の窮状を知った信長は、味方の城へ兵糧を確実に入れておけと、船で兵糧を届けさせたといいます。

両軍の我慢比べの決着がついたのが10月下旬・・・
兵糧が先に尽きた鳥取城主・吉川経家は降伏を決断。
自らの切腹と引き換えに、城兵の命を助けました。
鳥取城は、ついに陥落したのです。

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最終的には、本陣山の太閤ヶ平に秀吉はずっといて、鳥取城を兵糧攻めにして落城させました。
それはあくまで最小限の戦果でした。
鳥取城が開城すると、毛利方の国衆も降伏。
秀吉は、なんとか因幡平定を成し遂げたのです。
その5か月後、秀吉は、織田方の大名・宇喜多氏と共に山陽方面の毛利方の城を攻略しました。
三木城・鳥取城に次ぐ、秀吉の三大城攻めのひとつ、備中高松城の水攻めです。
鳥取城の戦いを進化させたこの包囲戦は、水を利用した兵糧攻めでした。
秀吉はこの作戦で、ついに毛利本隊を戦場に引きずり出すことに成功します。
それに応じた信長は自ら兵を率いて出陣することを決定!!
ところが・・・山陽方面に向かうため京に滞在していた信長を悲劇が襲います。
本能寺の変!!
秀吉の企てた織田対毛利の一大決戦は、ついに幻と化したのです。

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500年前、身の丈6尺、180㎝という大男が現れました。
茶の湯の大成者・千利休です。
彼が愛したのは、その体とは対照的なとても小さな宇宙でした。

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京都府の南・・・大山崎町。
ここには、千利休がつくった唯一現存する茶室が残っています。
国宝・待庵です。
小さな入り口をくぐると、わずか2畳の極小の空間。
壁は、素材がむき出しで質素な素材。
窓は小さく、室内は薄暗い・・・
利休が好んで使ったのが、武骨で荒々しい黒樂茶碗。
独自の日を追求したこの小宇宙で、名だたる戦国武将たちをもてなしました。
茶の力によって時代を動かした利休。
しかし、歴史の表舞台に現れたのは、50代の頃でした。
そこから激動の人生を歩むことになります。
堺の商人出身で、52歳の時に信長に茶の師匠として抜擢されます。
信長が本能寺の変で討たれると、その後、天下人となる豊臣秀吉のもとでは茶の湯のみならず、裏で政治を操るほどの大出世。

「利休以外には、秀吉さまへ一言も進言できる者がいない」

また、茶の湯を大衆に広めるため、1000人を超える茶の湯の大イベントを成功に導きます。
さらに、秀吉の信頼を受け、前代未聞、御所での茶会をプロデュースします。
天皇からも認められる存在となりました。
硬い絆で結ばれた秀吉のもと、時代の寵児となった利休・・・
しかし、秀吉から命じられたのは切腹でした。
利休に何が起きたのでしょうか??
その栄光と挫折とは・・・??

千利休の生まれは、自由な商売で繁栄した商売の町・堺。
しかし、利休は、その自由な町の支配を狙う戦国武将・織田信長に仕えることになります。
どうして信長に仕えたのでしょうか??
千利休・・・幼名・与四郎は、室町時代終盤の1522年、現在の大阪・堺に生れました。
倉庫や魚、塩を扱う商家と言われますが、父や祖父を早くに失い、暮らしは厳しかったといいます。
当時は戦国大名が、各地で力を競い戦乱の時代・・・。
堺の商人の中でも、外国と貿易を行い武器を大名に売るものは巨万の富を得て豪商へと成長しました。
堺は、町の周囲に堀を築いて守りを固め、豪商が自ら町を治める自治都市として繁栄しました。
日本に滞在した宣教師ルイス・フロイスは、自由で豊かな商業都市・堺をこう例えました。

「まるで東洋のベネチアのようだ」byフロイス

そんな堺の町の商人たちの間で流行していたのが茶の湯です。
茶の湯は、4畳半ほどの茶室でお茶を飲みながら商談や世間話などをするサロンのようなものでした。
茶の湯を楽しむときに欠かせないのが、名物・・・主に中国製の高価な茶道具です。
堺の商人にとって、莫大な富で名物を買い集め、客に披露しながら茶の湯を行うのがステータスでした。
与四郎も、商人のたしなみとして、十代の頃から茶の湯の稽古を始めました。
そして、19歳の頃、大きな影響を受ける人物と出会います。
武野紹鴎・・・武具・甲冑を売る豪商で、名物の収集家・・・堺の商人や茶人としても一流でした。
与四郎は、紹鷗の茶会に参加するなど修行を続け、この頃から千宗易と名乗るようになります。
ある時紹鴎が、宗易の才を試そうとした逸話が残っています。

「庭を掃除しなさい」by紹鷗

しかし、宗易が庭に行ってみると塵ひとつありません。
紹鷗は、わざと宗易を困らせて反応を見ようというのです。
宗易は、庭の木の1本の近づき揺らす・・・やがて落ち葉が風に舞い、地に落ち、庭に自然の趣を添えました。
宗易は、わざと完璧を崩すことで美しさを演出したのです。
完璧・・・完全無欠を日本人は好みません。
花も散り際が美しいという、古来日本で語られていたある種の「わび」が生まれてくるもとになった言葉を表現しています。
「わび」とは何かを理解し、それを表現しようとする少年でした。

さらに宗易は、茶会の際、独自の工夫で客人を喜ばせます。
当時、宗易がもっている数少ない名物のひとつは、香炉。
宗易は、茶会の前に本来は床の間に飾り披露する香炉を茶入れ用の袋に入れて隠しておきました。
茶会が始まり、客が見せる様な名物もないのかと思う中、宗易が素知らぬ顔で袋を開けたところ・・・
名物の香炉が出てきて客はビックリ!!
この宗易の大胆な工夫は、客を楽しませ、茶会は大成功に終わったといいます。

名物道具の鑑賞というのが、お茶会の柱でしたが、名物を持っていない茶人も出てきます。
これを当時はわび数寄と言い、千利休の弟子の山上宗二が書きとどめたわび数寄の心構えが”胸の覚悟ひとつ 作分ひとつ手柄ひとつ”。
作分は創意工夫、作分を支えるのが胸の覚悟・・・名物の鑑賞会から脱却して、お茶というものを通じて亭主と客がコミュニケーションをとっていくことが中心となっていくお茶を、突き詰めていったのが千利休でした。

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宗易の評判は次第に広がり、37歳の時に有力武将とも親交を持ちます。
戦国武将・三好実休です。
三好家は、畿内や四国で大きな勢力を持つ大名で、堺が商人の自治都市として維持できているのは三好家の後ろ盾のおかげでした。
三好実休も、茶の湯をきっかけに宗易を気に入り、お抱えの商人にしました。
いわば、宗易の恩人です。

実休亡き後、1568年、宗易47歳の時に三好家との間にひびが入ります。
織田信長の上洛です。
尾張の一大名だった信長は、京の都で足利将軍家の権威を得ることで、畿内での勢力を拡大。
畿内の有力者三好勢を京から追い払うとともに、後ろ盾の無くなった堺の商人に過酷な要求を行います。

「軍資金2万貫の献上を命じる」

現在の価値で20億円という莫大な金額の献上金でした。
これは、信長が堺を支配下に置くための第一歩でした。
豪商の多くは、堺の自治を守るため三好の反撃に期待し、信長の要求を拒否しようとします。
しかし、そんな堺の中で、信長に従おうとする者が現れます。
堺で指折りの豪商・今井宗久です。
宗久は、戦国大名が欲しがる鉄砲の生産に目をつけ、その売買で得た大金で多くの名物を持つ茶人でした。
信長の上洛後すぐに、茶つぼと茶入れを信長に献上、敵意がないことを示していました。
また、千宗易も今井宗久と親しいことから、これまでの三好とのつながりよりも、信長側につくことを選んだと言われています。
信長の上洛の翌年・・・堺の多くの期待を背負った三好勢は、信長方に攻め込みますが・・・反撃を受け敗北。
後ろ盾を失った堺は、信長からの軍資金の要求を受諾。
信長の支配下に置かれることになりました。
そして、今井宗久はいち早く従う意思を見せたことで信長に認められ、その経済面を支える重要な配下となります。
この時宗久は、茶の湯を嗜みとする信長に、堺の優れた茶人を紹介・・・その中に千宗易もいました。
信長の茶の湯を仕切る一人として召し抱えられることとなったのです。
この時・・・52歳!!

室町時代の中頃まで身分の高い人々が嗜んでいた茶の湯・・・
大広間に高価な美術品を飾り、大人数んで行うことが一般的でした。
しかし、宗易は、わずか2畳の質素な茶室を作ります。
そこにはどのような狙いがあったのでしょうか??

堺が織田信長の支配下に置かれた2年後、54歳の千宗易は信長3番手の茶頭に。。。
茶頭とは、主君に仕え茶会を仕切る重要な役割です。
しかし、宗易はその重い責任に臆することなく、自らの茶の湯を表現しました。

ある茶会にて・・・
信長は、宗易が茶をたてる様子に違和感を覚えました。

「他の茶頭と比べると、作法を略してあるところがあるようだが・・・」

信長に、手を抜いていると思われたら一大事!!
ところが・・・

「信長さまは、茶の湯をお好みですから、後には世の人々もそれに倣うようになるでしょう
 その時、古法の通りにやっていては難しがって嫌がります
 そう考えて、わかりやすい作法にしました」by宗易

これを聞いた信長は、大いに感心したといいます。

型をその場その場に応じて変化させることに恐れない・・・
必要とあらば、ある種の権威や格を外したり崩したりすることを恐れないという踏み込んだ勇気と個性がありました。
信長が、宗易たち茶頭を重宝したのは、趣味のためだけではありません。
茶の湯は、政治に利用できるからです。
武士の時代、功績を上げた家臣には領地を与えて労うのが常識でした。
しかし、土地には限りがあります。
そこで信長は、高価な茶器・名物に目をつけました。
新たな支配地で、茶器の収集・名物狩りを行い、家臣に褒美として与えるようになります。
褒美の茶器が素晴らしいものと価値をつけるためには、目利き役として宗易たち茶頭は欠かせなかったのです。

”褒美には、茶入れを所望したが、都から離れた国を与えられては茶の湯が出来ない”by滝川一益

また宗易は、相手の気持ちを察し気遣いできる達人でもありました。

「戦の前、鉄砲の弾千発が届いた
 心遣いを大変うれしく思う」by信長

やがて宗易は、信長のもとでその後の人生を決める大きな出会いを・・・!!
羽柴秀吉・・・後の豊臣秀吉です。
秀吉は、信長の有力な家臣として各地で戦をする多忙の中でも、茶の湯を好んだといいます。
そんな秀吉に、宗易は茶釜を送り、親交を深めていきました。

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1582年6月、宗易61歳。
本能寺の変!!
明智光秀が謀反を起こし、信長を討ちます。
この時、利休は大きなかけに出ます。
新たな支配者として京の都を制した明智光秀ではなく、中国大返しのさ中の秀吉のもとへ身を寄せたのです。
二人とも成り上がりで、持たざる者でした。
それと同時に、茶の湯など、文化芸術が二人とも好きでした。
宗易は、元祖職業茶人・芸術家なので、それを愛してくれる人と結びついたのです。
本能寺の変からおよそ10日後・・・
畿内に駆け戻った秀吉は、京の都のある山城国の入り口・山崎で明智光秀を撃破。
信長の後継者として名乗りを上げ、天下人へと向かう秀吉・・・その茶頭として、宗易も天下に名を上げていきます。

光秀を破ったのち、秀吉が本拠地を構えたのが山崎。
ここに、秀吉と共に千宗易がつくった茶室が残っています。
国宝・待庵。
茶の湯の伝統を覆す、独創的な空間で知られています。
かがまなければ入れないにじり口、中はわずか2畳・・・
それまでの開放的な大広間や、堺の茶人たちが使用した四畳半よりもさらに狭く・・・。
さらに茶道具にも革命を起こします。
本能寺の変で、信長が持っていた中国製の価値のある名物の多くが失われました。
新しい茶器が必要でした。
そこで、宗易が新しく職人に作らせたのが、黒!!

”黒キハ古キコゝロ 赤ハ雑ナルコゝロ”

”黒は古き心なり”の中に、見せかけの華やかさや豊かさを捨てることで、物事のもともと持っている素の形、姿の中に、美しさとか価値というものと向き合って、それを自分が選び取っていくことが、わび数寄には大事なんだということを、利休は好み、人に伝えようとしました。
黒楽茶碗は、名物とは対照的な質素なデザインでした。
しかも、適度な厚みで熱を伝えにくいため、持ちやすくて実用的でした。
宗易は、茶の湯を通して時代の美意識を変えていきます。
この時、61歳!!

1585年、宗易64歳。
秀吉が関白に就任します。
天下人への道を歩む秀吉は、朝廷から天皇の補佐をする関白職に任じられたのです。
そのお礼として秀吉は、御所で茶会を開きます。
秀吉自ら天皇に茶をたてる”禁中茶会”です。
これには、秀吉の権威を見せつけるという意味もありました。
失敗が許されない催しに、宗易も茶頭として参加することになりました。
しかし、一つ問題が・・・
朝廷で位も官職もない宗易は、御所に入ることができません。
そこで、宗易が天皇から授かったのが、”利休居士”の号です。
居士とは、朝廷に仕えず自由に修行に励む者のことです。
階級や身分から外れた特別な立場です。
こうして禁中茶会に参加が叶った宗易・・・以後は、利休と名乗るようになります。

「禁中で台子の茶式を行った
 この上なく光栄なことだ」by利休

そして、禁中茶会で利休と秀吉は権威を示す驚くべきものを持ち込みました。
黄金の茶室です。
この茶室の特徴は、組み立て式だということ。
禁中茶会の後も、どこにでも持ち運ぶことができました。
秀吉は、後に大坂城で組み立て、訪れた客に披露したといいます。
世間の序列の外、特別な存在として認められた利休・・・
彼の言動は、時代の価値観を大きく揺さぶっていきます。

「古い由緒もない新品に1000貫文の値をつけた」

1000貫文は、今の価値でおよそ1億円・・・
利休が認めれば、どんな茶器も高い価値を持ったのです。
全てを常識にとらわれずに見定める利休は、政治も大きな影響力を持つようになります。
秀吉の有力の補佐・弟の豊臣秀長は、ある大名に語っています。

「内々に秀吉さまに申し上げることは利休に
 公に申し上げるにはこの秀長にお伝えください」by秀長

秀長の信頼を得た利休は、その後ろ盾によってますます大きな存在となっていきます。

「利休以外には秀吉さまへ一言も進言できる者がいない」

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利休64歳の時、秀吉は天下統一への大きな足掛かり・・・九州平定に乗り出します。
秀吉は、九州全域を手に入れるべく戦いを続けていた島津義久に対し、警告を送ります。

「戦を中止しなければ、遠征し成敗する」by秀吉

九州では勢いのある島津でしたが、圧倒的な軍事力の秀吉に攻め込まれれば勝ち目は薄い・・・
島津義久は返事を送ります。
あて先は利休でした。

「少ないですが、生糸十斤を送ります
 秀吉殿におとりなしくだされば大変喜ばしいです」by島津義久

やがて秀吉は、九州を平定。

1587年、利休66歳・・・歴史的な茶会を開催します。
京都の北野天満宮に1000人以上が集まったとされています。
北の大茶湯です。
その様子を描いた図が、北野天満宮に残されています。
秀吉や利休の姿・・・くじ引きで当たった者は、秀吉や利休の点てた茶を飲むことができたといいます。
しかも、この大茶湯が画期的だったのは、上流階級だけの茶会ではなかった事です。

「茶の湯に興味がある者は、若侍、町人、農民、誰でも参加せよ
 茶座敷は各々2畳、ただし、畳を持って来られない者はむしろでも構わない」by秀吉

藁の敷物を敷いた茶席、地面に傘を差しだただけの茶席・・・
秀吉が、天皇から庶民に至るまで、自分こそが天下人であり、天下人は政治・権力を握っているだけではなく、ある種の文化の庇護者として世の中をリードしてこれを庇護する存在なのだとアピールする意味で、必要なイベントだったのです。

秀吉と利休、2人は同じ志のもと、長く固まっていた社会の序列を破壊し、新たな時代を目指そうとしていました。

常識外れの茶会を次々成功させ、秀吉と共に新たな時代を目指していた千利休・・・
しかし、利休は、盟友のはずの秀吉に切腹を命じられます。
二人の間に何があったのでしょうか?
1590年、利休は69歳の時、小田原にいました。
秀吉の天下統一に抵抗する最後の大物・北条氏を屈服させる小田原攻めに同行したためです。
しかし、この頃から、利休と秀吉の関係は悪化していきます。
一説には、小田原攻めの時、利休の弟子・山上宗二が秀吉に処刑されたことが原因とされています。
もともと宗二は、利休と共に秀吉に仕えていました。
歯に衣着せぬ発言で、頑固な性格と言われる宗二・・・率直な物言いが、秀吉を怒らせ追放処分に。
その後、宗二は北条氏に仕えたため、小田原の地で利休と宗二は再会します。
利休は、愛弟子を利休に面会させ、追放処分を解いてもらおうとしました。
しかし、宗二の発言がまたも秀吉を怒らせます。
そしてついに、処刑!!
耳と鼻を削ぐという残酷な仕打ちでした。
利休は、手紙に記しています。

”小田原で悲しい思いをした
         涙を流すばかりだ”

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1590年、利休69歳・・・
北条氏を倒した秀吉は、天下を統一!!
しかし、この後、秀吉は変わります。
茶の湯では新たな作法をもうけ、秀吉が認めた者のみが秘伝を教わるように限定しました。
茶の湯をルールで縛る権威付けに使う秀吉・・・
利休は密かにつぶやきました。

「本来、茶の湯に大事な習いなどというものはありません
 習いなどないことを極意とするのです」by利休

1591年利休70歳・・・
彼の立場は大きく揺らぎます。
利休と共に秀吉を支え、信頼篤かった豊臣秀長が病死したのです。
その後、利休は秀吉から突然罪に問われました。
罪状は二つ・・・
①大徳寺の山門に利休の像を設置したこと
山門は、天下人である秀吉や天皇の勅使もくぐるもの
それを、利休の像が上から見下ろすのは不敬とされたのです。
しかし、この像は、2年前から設置されており、今更罪に問うのは不自然でした。
②売僧と呼ばれた不当売買
鑑定や売買で不正を行い、値段を釣り上げたというのです。
しかし、そもそも茶器売買は、目利きの利休が決めた値打ちに客も納得して行うものです。
昔からのやり方を不当と言い出すのも、おかしな話でした。
罪に問われた利休は京を追放され、堺に蟄居を命じられてしまいます。

それはまさにでっち上げでした。
平和な時代が訪れる中で、身分制度など新たに立ち上がっていく武士を中心とした社会の中で、階級に属さない特別な立場の人間の居場所がなくなっていきました。
利休のような特殊な立場の茶頭を必要としない世の中になっていったのです。
利休は、都を去る時、弟子に言い残しています。

「都の思い出が様々思い出され、今は悲しく涙を流すばかりだ」by利休

利休追放から間もなく、京都では大徳寺の利休像が一乗戻橋のたもとで磔に・・・晒されました。
一説には、直ちに謝罪しなければ、利休本人も処刑するという秀吉の脅しともいわれています。
利休を慕う武将たちは、秀吉に物申したくても、仲介役の利休が罪に問われ、秀長もすでにいない・・・
そこで頼ったのが、秀吉の家族である母・大政所と妻・北政所でした。
秀吉が大切にする身内であれば、仲介も上手くいくに違いない・・・
二人は秀吉に謝罪するように助言します。
しかし、
「茶の湯で天下に名をあらわした私が、命が惜しいからと女性たちを頼って助命となるのは無念でしょう」by利休

秀吉は、利休を京に呼び戻し、命じます。
「切腹・・・」と。
利休は受け入れます。
1591年・・・70歳の時でした。

利休は、己の運命を神となった偉人に例えました。
優れた才能が嫉妬され都を追われた人物・・・

「利休は何はともあれ果報者である
        菅原道真になると思えば」by利休

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京都・表千家 ~わび茶の世界~



1590年、豊臣秀吉は、小田原の北条氏を攻めました。
天下統一の総仕上げとなった戦場・・・そこに苦楽を共にした一人の武将の姿がありませんでした。
秀吉の弟・豊臣秀長です。兄が壮大な夢を叶えるのを見届けることなく、秀長はこの世を去りました。

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1582年6月2日、秀吉、秀長兄弟の運命の歯車が急速に回り始めました。
織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変・・・
信長の家臣として出世を重ねていた羽柴秀吉、この時46歳!!
中国地方で毛利氏と戦っていた秀吉は、信長が討たれたという知らせを受け急ぎ畿内へと引き返します。
中国大返しです。
この時、撤退する秀吉軍の殿を任されたのが、弟・秀長・44歳でした。
最後尾で敵の追撃を食い止める殿は、命を張って大将を守る危険な任務です。
これまで幾度となく秀吉軍の殿を務めてきた秀長・・・
この時も、明智光秀のもとに攻めあがる秀吉の背後を守る地味ながら重要な役割を一手に引き受けました。
そして迎えた明智光秀との山崎での戦い・・・
秀長は、勝敗を分ける天王山に布陣!!
この地の守りを固め、秀吉本体の突撃を援護、勝利に貢献しました。
強気に攻める秀吉に対し、守りを固める秀長・・・
そんな兄弟は、生い立ちからして対照的でした。

1537年、尾張国の農民の家に生まれた秀吉は、若くして家を出ます。
行商人として放浪したのち、武士を志し信長に仕えるようになります。
一方、秀長は、1540年、秀吉の3歳下の弟として生まれました。
真面目で働き者の秀長は、長男の秀吉に代わり農家を守っていました。
しかし、秀長が20歳を過ぎた頃、突然、秀吉が弟の元を訪れ、自分の家来になってほしいという・・・。
武士になるなど夢にも思わなかった秀長は困り果てたものの、兄の強引な誘いを断り切れませんでした。
以来、行動を共にするようになった2人・・・20年後、本能寺の変をむかえたのです。
山崎の合戦で主君の仇を討った秀吉と秀長・・・ここから天下統一への兄弟の挑戦が始まります。

1583年、賤ケ岳の戦い・・・
秀吉は、信長の後継者の座をかけて、柴田勝家と戦います。
勝家軍は、北国街道を南下、それを琵琶湖の右岸で秀吉軍が迎え撃ちました。
布陣から一月後、両軍睨み合う中でハプニングが発生!!
信長の3男・織田信孝と、滝川一益が挙兵。
秀吉は戦場を離脱し、美濃に向かわなければならなくなりました。
後を任されたのが、秀長でした。

この時、秀吉から秀長に送られた書状が残されています。
秀吉が秀長に、どう戦闘を行うべきか、柴田軍と対峙するべきかの命令が書かれています。

”私が戻ってくるまでは攻め込んではならない”

この時も秀長は、秀吉から戦場の守りを任されたのです。
しかし、敵の大将がいなくなったのを知った柴田軍は、一斉に攻撃を開始。
窮地に立たされる秀長・・・それでも秀吉の命に徹し、守り続けました。
そこへ秀吉本体が美濃から引き返してきました。
形勢は一気に逆転し、戦いは秀吉軍が勝利!!

兄弟の連携によって、秀吉の後継者争いに一歩抜き出たかに見えました。
しかし、ここで二人に待ったをかける者が現れます。
徳川家康です。
賤ケ岳の戦いの翌年の1584年。
家康は、信長の2男・織田信雄の求めに応じて挙兵。
小牧長久手の戦いで、秀吉は家康に手痛い敗戦を被りました。
各地の反秀吉勢力と関係を深めた家康・・・最大のライバルとして秀吉の天下統一に立ちはだかります。

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家康と敵対するうえで、戦略拠点となった城・・・それは、大和国の宇陀松山城です。
ここを難攻不落の城に大改修したのが秀長でした。
この城の東には、伊賀・伊勢、南には紀伊、そこには、家康と気脈を通じる勢力が根を張っていました。
伊賀衆、根来衆、雑賀衆・・・といった地侍集団の本拠地でした。
彼らは、小牧長久手の戦いでは家康と連携して秀吉を苦しめました。
もし、再び彼らが家康と結託して攻め寄せる事態となれば、秀吉は二方面から攻撃を受けることになってしまう・・・
その脅威を阻むためには、宇田松山城で、伊賀や紀伊の在地勢力を押さえ込むことが必要でした。
その為に、秀長は、この宇陀松山城の防御能力を飛躍的に高めようとしました。
東海より東に領地が広がる徳川家康・・・西に広がる秀吉。
両者がぶつかり合う地点を、秀長は堅固な城で守り通すのに成功します。
秀長は、秀吉の影の存在として、兄の天下取りを支え続けていたのです。

秀吉の天下取りを陰で支え続けた秀長・・・
46歳になった時、武将としての真価が問われる機会が訪れました。
1585年、四国攻めです。
小牧長久手の戦い以降、秀吉は徳川家康と手を組む勢力への対応に苦慮していました。
なかでも、秀吉に強く反抗し続けていた人物が・・・長宗我部元親です。
土佐の豪族から身を立てて、一代で四国全土を制覇した戦国大名です。
小牧長久手の戦いの際には、徳川家康の重臣・本多正信が元親に畿内への出兵を依頼していたことが記録されています。
四国支配を目論むようになってきた秀吉には、服従しない姿勢を貫いていました。
業を煮やした秀吉は、対に自ら総大将となって、四国攻めに出ることを決断し、準備に取り掛かります。
しかし・・・直前になって秀吉は体調を崩したため、急遽総大将は秀長が任されることになります。
これまで影の存在となってなってきた秀長は、予期せず表舞台に立つことになりました。
徳島県土佐泊・・・秀長が率いる6万の軍勢が、ここに上陸しました。
秀長は、長宗我部方の前線の城を次々と攻略。
そして行きついたのが、阿波一宮城!!
四国山地の入り口に位置するこの城は、長宗我部の本拠である土佐へ侵入するのを防ぐ防衛拠点でした。
ここを突破すれば、四国攻めは一気に秀長側に形勢が傾くと考えられていました。
5000の長曾我部軍は、阿波一宮城に籠城します。
秀長は、川を挟んだ辰ヶ山に本陣を置き、およそ5万の兵で城を包囲しました。
城攻めを進めていた秀長・・・そこに、大坂から思わぬ知らせが届きます。
病のいえた秀吉が、出陣して来るというのです。
秀吉からの申し出に・・・指示に従い秀吉の出陣を待つ??それとも、秀吉の出陣を断わる??

四国攻めを行っていた当時、秀吉は別方面にも手ごわい敵を抱えていました。
家康に与していた佐々成政が、北陸で敵対行動を起こしていました。
佐々討伐のために、秀吉が発給した命令書が残っています。
記されているのは、前田利家・池田輝政・山内一豊・蒲生氏郷・細川忠興・・・名だたる武将への出兵要請でした。
兵の総勢は、5万7300!!
北陸で、四国攻めと同等の大きな戦が始まらんとしていました。
もしここで秀吉が四国攻めに参加すれば、佐々成政や家康に自由に動く機会を与えることになってしまう・・・!!

秀吉の出陣を待つべきか??自ら四国攻めを決着させるべきか・・・??

秀吉が四国攻めに参戦すると聞いた秀長は、思案の末、兄に書状を送りました。

”ご出陣は、殿の御威光を損ねます
 たとえ日数がかかっても、期待に応えますのでご出陣をおやめください”

秀長は、秀吉の出陣を断わり、自ら四国攻めをやり遂げることを選択しました。
これまで戦場では、兄からの命令を忠実にこなしてきた秀長が、自らの考えで行動することを決断した瞬間でした。

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鉄壁の阿波一宮城をどのように攻略すべきか??
秀長は一つの策を思いつきました。
貯水池を干上がらせるため、秀長は城の背後から侵入させ、水路を破壊しました。
水の手を奪われたことで、城の兵たちは慌てふためきました。
このタイミングで、秀長は長曾我部元親に和議を提案しました。

”城が落ちる前に降参すれば、元親殿の面目も保てるでしょう
 私に任せてもらえれば、良きように取り計らわせていただきます”

秀長は、どちらかが滅ぶまで戦うよりも、和議による道を探ります。
阿波一宮城が落城すれば、本領土佐への侵攻は避けられないと考えた元親は、提案を受け入れ降伏。
阿波・讃岐・伊予の三国は秀吉方に接収されましたが、秀長の計らいによって土佐は安堵されました。

一方、四国に来なかった秀吉は、北陸を攻め佐々成政を降伏させました。
各地の味方を失った徳川家康・・・
ここで秀吉は、思い切った懐柔策に打って出ようとします。
妹・旭姫を家康に嫁がせ、母の大政所も家康のもとに送ろうとしたのです。
家族を事実上の人質に差し出そうとする兄に、秀長は猛反対!!強く意見したといいます。
この頃を機に、秀長は秀吉からいわれるがままに動かずにはっきりと反対意見もいう存在に変わっていきました。

1585年、秀長は、大和、紀伊、和泉の大名になります。
秀長が、領国経営の拠点とした大和郡山城!!
近年の発掘調査によって、この城について新たな事実が明らかになりました。

2014年に行われた発掘調査で、礎石が発見され大和郡山城に天守があったことが分かりました。
さらに、大坂城と同種の金箔瓦が出土したことから、豪華絢爛な天守であったことも明らかとなりました。
秀長が、煌びやかな天守を築いたことには、ある狙いがありました。
薬師寺、東大寺、興福寺を見ることができます。
大和国はもともと寺院や神社の力の強い地域でした。
寺社勢力は、広大な荘園からなる経済基盤を持つだけでなく、独自に兵を組織し、武力も備えていました。
武士にはなびかない厄介な相手に対して、天守を見せることで領主としての権威を示そうとしたのです。
豊臣が力を持ち、これからの時代は豊臣が中心の大和国である!!
そのメッセージを、いかにお寺のお坊さんたちに見せつけるか??意図して豪華にしたものです。

秀長は、寺社勢力と渡り合うために他にも知恵を絞っていました。
興福寺の僧が記した”多門院日記”には、秀長の行った政策が細かく記されています。

・多武峰(寺)が、弓・槍・鉄砲などの全てを秀長に差し出した
秀長は、強大な兵力を備えていた多武峰寺をはじめとする寺社から、武具や防具をすべて没収し、武装解除させました。
これは秀吉が行った刀狩りの3年も前のことです。
秀長は、戦乱の世を終わらせる方策をいち早く考えていたのです。
秀長が行った政策について、こうも記されています。

・土地の面積など書き、差し出すように申しつけられた
秀長は、所領の面積や米の収穫量を申告させる差しだしという検地を行いました。
申告内容は、細かく確認され、寺の土地はことごとく押し取られたというケースもあります。
実際、興福寺は、2度に渡った検地で、領地を1/5にまで減らされました。
秀吉は、大和国の検地をさらに改良した太閤検地を全国の大名に実施させ、長く続いてきた荘園制に基づく土地所有の在り方を一新させました。

秀長は、後に豊臣政権の屋台骨となる政策を先駆けとなってあみ出していたのです。

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1587年、九州攻めでは秀吉が肥後方面の総大将・・・秀長は日向方面の総大将となり、二方面から島津氏を攻略。
九州平定によって、東海より西はほとんど秀吉の支配する処となり、天下統一は目前となりました。
秀長はこの年、48歳にして従2位大納言に叙されます。
豊臣政権内では、秀吉に次いで高い官位です。
この頃になると、秀長は戦場よりも政治の場で重要な役割を担うようになっていました。
秀吉に謁見する為に上洛する各地の大名達・・・
血の気の多い戦国武将たちをもてなすのも秀長の仕事となりました。
秀長の居城・大和郡山城に招かれた毛利輝元の言葉が残されています。

”お供の衆にまで気を遣われる大納言殿の心配りは、筆舌に尽くしがたい”

九州の有力大名であった大友宗麟は・・・

”内密の話は千利休だ
 公式な業務は私が執り計らうので安心してほしい”

大友宗麟は、豊臣ファミリーをこう評しています。

”秀長殿に頼ればすべて大丈夫である”

今や権力者となった秀吉に、意見を言える数少ない存在となった秀長・・・
最も強く反対したのは、朝鮮出兵の構想についてでした。
決して実行すべきではないと歯止めをかけ続けました。

1590年の北条攻め・・・秀吉の天下取りも最終段階に入ったこの戦に、秀長の姿はありませんでした。
1591年・・・病を患った秀長は、52歳でこの世を去りました。
秀長の葬儀には、20万もの領民が集まり、野山を埋め尽くしたと記録されています。
秀長に領地を奪われた興福寺の僧でさえ、こう記しています。

「これからこの国はどうなるのか、心細い限りである」

その心配は、ほどなくして現実となります。
秀長の死から1か月後、政権を内から支えていた千利休が、秀吉に命じられて切腹。
さらに翌年、秀長が頑なに反対していた朝鮮出兵が断行されました。
秀長亡き秀吉政権は、崩壊へと進んでいったのです。

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今から400年前の日本に、260年もの長きにわたる平和を実現させた人物がいました。
戦国乱世に終止符を打った英雄・徳川家康です。
家康が築いた天下泰平の世・・・この奇跡は”パクス・トクガワーナ”・・・徳川の平和と呼ばれ、世界にも広く知られています。

しかし、家康75年の生涯は、平和とは程遠い、過酷な試練の連続でした。
幼くして父と母を失い、隣国の人質に・・・
本能寺の変、関ケ原の戦いなど、あまたの合戦を生き抜き、江戸幕府を開府、そして、大坂の陣で天下人となり、その翌年に死を迎えました。
戦国武将の中で、どうして家康だけが長い平和な時代を築くことができたのでしょうか??

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そんな家康の選択のベスト⑩、最強の家臣ベスト⑩とは??

家康の選択10位・・・今川での人質生活
・今川家の人質となった家康は、空気を読み、相手の気持ちを洞察することに長じるようになった。それが後々まで効いてくる。
・少年から青年になるまでの家庭を、当時、東国の都と呼ばれるほど、文化の成熟した駿府で過ごした経験は、家康の自己形成を考えるうえで非常に重要であったと考えられる

徳川家康が今川家に連れていかれたのは8歳の時でした。
人質生活は、それから12年間続きました。
1542年12月26日、三河・岡崎城主・・・松平家の嫡男が産声を上げました。
幼名は竹千代・・・後の家康です。
松平家は、家康の祖父の代に三河全土に勢力を広げた国衆です。
しかし、東を今川、西を織田に挟まれ、どちらからも領地を脅かされる状況にありました。
そんな不安定な環境が、竹千代の成長に大きく影響します。
母・於大の方の実家と松平家の方針の違いによって両親が離縁・・・3歳で母と離れ離れになりました。
さらに8歳の時、父・広忠が家臣に暗殺されます。
その混乱に乗じたのが、駿河・遠江を治める今川家当主・今川義元でした。
義元は、松平家の嫡男・竹千代を人質にとり、三河を実質的に支配するようになります。
今川の本拠地・駿府・・・現在の静岡市で過ごすことになった竹千代・・・
8歳から19歳まで続いた人質生活は、家康の人格形成に多くの影響を及ぼしました。

奈良時代に創建されたと伝わる清見寺は、家康ゆかりの寺です。
幼い家康が、学問に勤しんだとされる三畳の小部屋があります。
教育係を務めたのは、太原雪斎。
僧侶でありながら、今川家を重臣として支えた人物です。
論語、教養の書物、兵法書を学びながら育ちました。
太原雪斎から、儒教の経典である四書五経や、孫氏の兵法などを学んだという竹千代・・・
人質という立場ではあったものの、当代随一の英才教育を施されていました。
しかし、若き当主が不在の中、三河では松平の家臣たちが辛酸をなめる日々を送っていました。
満足な録もえられず、農業をして凌ぐ生活・・・
それでも彼らが松平家を離れることはありませんでした。
ある時、三河をを訪れる機会を得た家康は、家臣たちが畑で土にまみれている姿を目の当たりにします。
すると涙を浮かべ・・・

「私の所領が少ないせいで、家中の皆に辛く苦しい生活を遅らせ申し訳ない」

家臣たちの忠義は、若い家康の心に深く刻み込まれました。

家康の選択9位・・・大坂の陣
征夷大将軍を息子・秀忠に譲り、大御所として君臨していた73歳の家康。
天下統一の総仕上げとして臨んだのが生涯最後の合戦・大坂の陣でした。
大坂城から南15キロの位置に建つ堺にある南宗寺。
この寺に、家康にまつわる奇妙な言い伝えが残されています。
徳川家康の亡骸を、しばらくの間納めていた墓の跡があるのです。
家康の墓・・・家康が亡くなったのは、大坂の陣の翌年、駿府でのハズです。
大坂の陣の時に、家康が後藤又兵衛に槍で刺されて亡くなったことを公表するとまずい!!となり、しばらくの間、寺で預かっていたというのです。
こうした死亡説が残っているほど、家康にとって生きるか死ぬかの瀬戸際だった大坂の陣・・・。
戦いは庶民たちをも巻き込み、両軍合わせて10万の死者を出したともいわれています。

大坂の陣で家康と相対したのは、豊臣秀吉亡き後、逞しく成長していた嫡男・秀頼でした。
戦乱の世に終止符を打つために避けては通れない決戦でした。
しかし、家康の前に、三国無双と称えられた大坂城が立ちはだかります。
台地の北端に建つ城は、三方を川に囲まれた天然の要害で、巨大な惣構えも備えた難攻不落の城でした。
1614年、冬の陣では・・・家康は、総勢20万とも言われる大軍勢で城を包囲します。
しかし、秀頼率いる10万の籠城軍に阻まれ、戦いは膠着。
そこで家康は、一旦秀頼側と和議を結んだ後、城を囲む堀をすべて埋め立て、再び城攻めを行うこととしました。
この策は、後の記録によれば、家康も参陣した小田原攻めの秀吉を真似た策だと言われています。
生涯最大の戦いに、家康は知恵と経験を総動員して臨んだのです。
翌年の1615年、夏の陣が始まりました。
大坂城を丸裸にした家康は、余裕綽々、甲冑も着ずに側近が具足の着用を求めると、大声でこう言い放ちました。

「あの世倅めに何の具足!!」

しかし、戦の一寸先は闇・・・
豊臣方の真田信繁・・・赤備の軍勢が、家康本陣にまで斬り込んできました。
信州・上田を居城としていた真田家は、一度ならず二度までも、徳川軍を打ち負かしている因縁の相手です。
家康は、夏の陣の直前、信濃一国という破格の待遇で調略を図るも、信繁はこれを拒否していました。
真田軍の猛攻を受け、崩れかける家康本陣・・・
もはやこれまで!!家康は自害まで追い込まれました。
しかし、兵力に勝る徳川軍の猛攻で、形勢は逆転!!
大坂城は炎上し、豊臣秀頼は自刃!!
家康は幕府による全国支配を盤石なものとしました。

勝利から2か月後、家康は年号を元和と改めます。
元和とは、9世紀、中国大陸の唐が大乱を平定した際に用いた元号です。
家康は、応仁の乱以来、150年近く続いた戦乱の終わりと平和の始まりを、改元によって高らかに宣言したのです。
これが、家康の亡くなる9か月前のことでした。

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家康の選択8位・・・長篠の戦い
家康の選択7位・・・信康事件

どちらも、家康と信長、武田との三つ巴の戦いでした。
家康、34歳の時の長篠の戦い・・・
信長の勝ち戦として知られていますが、家康にとっても大事な一戦でした。

織田・徳川連合軍・・・信長は、軍勢の後方に・・・
前線に布陣するのは、ほぼすべて徳川の軍勢でした。
家康にとって長篠の戦いは、長年の宿敵・武田との雌雄を決する戦でした。
1575年5月、家康は窮地に陥っていました。
信玄の跡を継いだ武田勝頼が、徳川方の長篠城を包囲したのです。
その数、1万5000!!
わずか8000の軍勢しか用意できなかった家康は、同盟を結ぶ織田信長に援軍を要請します。
これに応じた信長が、自ら軍を率いて出陣!!
その数3万!!
織田・徳川連合軍は、3万8000の大軍となりました。
さらにもうひとつ、信長は勝利への秘策を戦場に持ち込んでいました。
突撃してくる武田の騎馬隊に向かって放ったのは、当時最新の武器だった鉄砲でした。
信長が用意した鉄砲の数は、3000丁ともいわれています。
これによって、山県昌景や、馬場信春などの武田の名だたる武将を相次いで討ち果たしました。
信長のもたらした大軍と鉄砲によって、家康は宿敵・武田に勝つことができました。
しかし、信長の力にすがったことで、家康はそののち残酷なジレンマに陥ることとなります。

長篠の戦いの4年後に起きた信康事件です。
この時、家康は38歳!!
家族か、信長か、究極の選択でした。
1579年、家康は、同盟相手の信長から思わぬ命令を受けます。

”信康に腹を切らせるよう家康に申し伝えよ”

家康の嫡男・松平信康は、この時21歳!!
跡継ぎにしようという息子の命を奪えというのです。
さらに信長は、家康の正室・築山殿も殺すように命じます。
そのきっかけについて通説では、信康の正室・徳姫が、夫や姑の素行の悪さを父・信長に訴えたためだとされてきました。
近年では・・・
信長に妻子殺害を命じられる前から、徳川家中に織田ではなく武田と組まんとする派閥が生まれ、内紛状態にあったというのです。
武田と徳川の戦争は、一進一退の膠着状態が続いていました。
この武田とたたかっちえる状況を見直したいという動きがあったのです。
信康は、こうした家臣や築山殿と共に、武田方に内通していたといいます。
父・家康の新織田路線の危うさを見て、武田との関係を捉え直そうとしていたのです。
徳川家はふたつに分かれてしまうような状況でした。
その中で、家康としてはどちらに行くべきなのか、立場をはっきりと示さなければならなかったのです。

信長の命令によって、選択を迫られることとなった家康・・・
武田に寝返るか??織田との同盟を継続するのか・・・??
家康は苦渋の決断をします。
家臣に命じて築山殿を殺害!!
続いて信康を切腹させました。
家康は、家族の命と引き換えに、織田との同盟を継続したのです。

家康の選択6位・・・三河一向一揆
22歳の若き当主・家康を襲った家臣団分裂の危機でした。
愛知県豊田市にある隣松寺・・・ここに珍しい像が残されています。
20代前半と伝わる家康の木像です。
この頃、三河統一に向け、着々と勢力を拡大させていた家康・・・
しかし、思わぬ敵が足元から現れます。
一向宗の門徒たちによる一向一揆です。
きっかけは、家康が寺院から強引に米を兵糧として取り立てたことだと言われています。
これに一向宗門徒が反発!!
武装集団が蜂起します。
さらに家康を悩ませる事態が・・・
一揆方に、一向宗門徒の家臣たちがたくさんいたのです。
彼らは離反の理由をこう主張しています。

「主君の恩は現世のみ、阿弥陀如来の大恩は未来永劫つきることはない」

家康軍は、内部分裂に陥ります。

1564年1月、ついに大規模な武力衝突が起こります。
一揆勢が家康方の砦に攻め寄せたのです。
乱戦のさ中、銃弾二発が家康に命中します。
鎧が頑丈だったため、命拾いはしました。
しかし、このまま戦いを続ければ、大勢の家臣を失うのは間違いありませんでした。

一揆方と和睦する??それとも、徹底抗戦・・・??

衝突から1カ月半・・・家康は決断を下します。
一揆方と和議を結び、敵対した家臣たちを不問に処することにしました。
許された家臣の中には、後に徳川十六神将と呼ばれる蜂屋半之丞や渡辺守綱など、家康の躍進に欠かせない人物が多数含まれています。
後に家康の懐刀として辣腕を振るった本多正信ももとは一揆の首謀者の一人・・・
若き家康は、こうして家臣団分裂の危機を乗り越えたのです。

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家康の選択5位・・・本能寺の変と伊賀越え
家康41歳!!
宿敵・武田が滅んだわずか3か月後、家康を襲った絶体絶命の危機・・・その発端が本能寺の変でした。
1582年6月2日、この日、家康は主だった家臣と共に大坂・堺にいました。
長年の武田攻めの労をねぎらうべく、信長から畿内見物に招待されたのです。
そんな家康のもとに知らせが届きます。

21年間、家康と同盟関係にあった信長が、明智光秀の謀反によって本能寺で自害したというのです。
これを聞いた家康は狼狽・・・
信長の後を追い、京の知恩院で切腹すると口走ります。
この時、家康を思いとどまらせたのは、本多忠勝はじめ、家臣たちの言葉でした。

「信長公への方向として追腹を切るのと、弔い合戦をして討ち死にするのとどちらが良いとお思いか・・・??」

我に返った家康は、ひとまず三河に戻ることにします。
しかし、この時の家康の手勢はわずか30人余り・・・
京を通れば光秀の手勢に襲われ太刀打ちできない恐れがありました。
そこで家康たちが選んだのが、最短ルートの伊賀越えです。
しかし、この道のりにも困難が待ち構えていました。
まず、家康一行の前に立ちはだかったのが京都・木津川。
地元の漁師から船を借り、なんとか川を渡るも・・・数百人に地侍たちが家康一行を襲撃。
絶体絶命化と思われたその時!!
助っ人が現れました。
地元の伊賀衆200人余りが家康の警護を買って出たのです。
仲介役を果たしたのが、同行していた家康の家臣・服部半蔵正成!!
服部半蔵は岡崎で生まれていますが、父が伊賀の出身でした。
半蔵を通じて伊賀者との結びつきが強かったのです。
こうして家康一行は、丸3日で200キロ以上の道のりを踏破し、岡崎城へ到着。
幕府の記録には、この伊賀越えこそ、家康の生涯にとって艱難の第一・・・もっとも苦しんだ出来事であったと記されています。

家康の選択4位・・・小牧・長久手の戦い
家康43歳・・・
後に天下人となる秀吉と家康、その最初で最後の直接対決が、小牧・長久手の戦いでした。
江戸時代後期の歴史家・頼山陽は言いました。

「家康の天下をとるは、大坂にあらずして関ケ原にあり
 関ケ原にあらずして小牧にあり」

本能寺の変から2年、信長亡き後の家督争いに静観を続けていた家康も、巻き込まれることになります。
畿内を中心に急拡大をとげていた羽柴秀吉と対立することになったのです。
戦いは、明らかに秀吉の優勢でした。
徳川軍およそ2万に対し、羽柴軍は10万もの大軍で攻め寄せたのです。
しかし、結局戦いは和睦で幕を閉じます。

愛知県にある小牧山城は、家康が戦いの拠点とした城です。
かつては信長の居城でもあった山城です。
家康は、如何にして秀吉の大軍に抗ったのでしょうか?

小牧・長久手の戦いの戦いの時に、徳川家康がつくらせた巨大な土塁と堀が残っています。
敵を迎え討つために築かれた高さ8mもの土塁・・・
土手を駆け上ってこないと小牧山城の中心には近づけません。
おまけに、土手の上で鉄砲で迎え撃つことができました。
その奥には大きな空堀があります。
一斉に弓矢や鉄砲で向かってくる敵に対して反撃が出来る!!
当時としては最大級の堀を持っていました。

この巨大な堀が、当時は城を取り囲むように築かれていました。
さらに家康は、山の中腹にも空堀を築き、2重の堀で鉄壁の防御を施します。
小牧山城は、もともと織田も武長がつくった城がありました。
その信長の城は、石垣を中枢部のところに巡らせた当時としては最先端の城でした。
家康は、信長の造った石垣を一部壊しながら、一気に巨大な空堀を作ることで中心部分の守りを強くしていきました。
小牧山城は、「石垣」の城から「土」の城に変わった珍しい城です。

こうした大土木工事をたった5日で終わらせたともいわれる家康・・・
城を攻めあぐねた羽柴軍とにらみ合いの状態に・・・
しびれを切らして先に動き出したのは羽柴軍でした。
秀吉の甥・秀次が大将となり、およそ2万の兵が密かに南下。
家康の領国・三河への侵攻を試みます。
しかし、敵の動きを察知した家康も自ら兵を率いて密かに小牧山城を出陣!!
羽柴軍を追撃します。
決戦の舞台となったのは、現在の愛知県長久手市。
激しい戦いの様子が、屏風絵に残されています。
先鋒を務めたのは井伊直政。
武田の兵法を引き継いだ赤備えの軍団が、弾丸を羽柴軍に雨のように降らせます。
さらに追い打ちをかけたのが、戦場に突如掲げられた金地に日の丸の扇。
家康の所在を示す馬印です。
家康は小牧山にいると思い込んでいた羽柴軍は驚愕!!
瞬く間に戦意を喪失!!
池田恒興や、森長可など秀吉に与した名だたる武将が討ち死に!!
長久手の戦いでは家康の圧勝に終わったのです。
その後、7カ月近くにらみ合いが続いた後、和睦という結果に終わった小牧・長久手の戦い・・・
5倍の兵数を誇る秀吉と互角に渡り合ったことで、家康強しの評価が轟きます。
これが豊臣政権下でナンバー2となるステップとなったのです。

家康の選択3位・・・関ケ原の戦い
家康59歳の時、天下分け目の合戦、関ケ原の戦い!!
家康の目には、戦いの先にどんな風景が映っていたのでしょうか?
秀吉の死後、その遺児・秀頼を頂点とする豊臣政権は大きく揺らいでいました。
政権を支える有力大名で構成された五大老筆頭・徳川家康と五奉行の中心人物・石田三成が政権内の主導権を巡り対立!!
武力衝突にまで発展したのです。

1600年9月15日、家康率いる東軍と、三成の西軍・・・
両軍合わせて10万余りの兵たちが、関ケ原に集結しました。
関ケ原の戦いの幕開けです。
戦いの勝敗は、家康が事前に調略を仕掛けた西軍の武将達が次々と味方したことで決しました。
わずか数時間で決着がついたともされています。
ところが・・・実はこの戦い、勝敗の行方は直前までわかりませんでした。
近年、関ケ原周辺で航空機を使った測量調査が実施されました。
空から地方にレーザー光線を当て、地形のデータを読み取る最新の測量方法です。
その結果、驚くべきことが判明しました。
関ケ原古戦場から西に2キロほどの山頂に、玉城と呼ばれる巨大な山城があったのです。
正体不明の巨大な城は、誰が、何のために築いたのか・・・??
地元には、関ケ原の戦いの200年以上前、城があったという言い伝えが残されていました。
そこには、最新の築城技術がなされていました。
そこからこの山城は、豊臣秀頼の本陣として西軍が築いたものと考えられるようになりました。
もし、この時、兵を挙げた秀頼が西軍陣地である玉城に入城を果たしたならば・・・豊臣恩顧の武将達で編成された家康率いる東軍は、秀頼に歯向かうことが出来ず、家康は大敗北を喫したと推測されます。
石田三成や大谷吉継たちは、勝利の作戦をしっかり立てていて、少し状況が変われば西軍が勝っていたかもしれません。
もし仮に、毛利輝元やあるいは豊臣秀頼が玉城に来てしまうと、家康がつくった戦略の全体が崩れて行ってしまう・・・!!
なんとしてもそれより前に、今いる西軍の主力部隊と決戦をしなければ勝ち目がなくなるという状況に家康はありました。
しかし、秀頼は決戦場に現れることはありませんでした。
そして家康は決戦を制しました。
関ケ原の戦い・・・それは家康にとってまさに薄氷を踏む勝利だったのです。

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家康の選択2位・・・桶狭間の戦い
今川家で人質生活を送る家康・・・19歳。
その危機は、平和を目指す出発点となりました。
1560年5月、今川義元が1万を超える大軍を西へと進めていました。
目指すは織田信長のいる尾張!!
この時、今川軍の先陣には、若き家康の姿がありました。
義元の命によって、家康は本隊から先行し、今川方の大高城に兵糧を搬入。
しかし、待てど暮らせど義元が姿を現すことはありませんでした。
桶狭間にいた今川本体を、信長がわずか2000足らずの兵で急襲。
義元を討ち取ったのです。
家康のいる大高城にも、信長軍が責めてくることは必定でした。
この時、家康には2つの選択肢がありました。
駿府に戻るか、岡崎へ帰るのか??
密かに大高城を抜け出し、家康が向かった先は、岡崎城でした。
敗戦の将となった家康は、実に十数年ぶりに故郷に帰ることを選択しました。

岡崎城の北3キロのところに立つ大樹寺・・・
家康から5代遡った松平家の先祖が建立した菩提寺です。
岡崎城への道中、織田軍に襲撃された家康は、大樹寺へと逃げ込み、祖先の前で自害しようとしたといいます。
しかし、この時、住職は諌めます。

「厭離穢土 欣求浄土」

浄土宗・仏教書に書かれた一節・・・
乱れたこの世を離れて、清らかな浄土を目指していくという意味です。
戦乱の世の中から平和な、皆が安心して暮らせる社会を作っていくために生を受けてきたのだから、もう一度頑張りなさい

平和な世の中を願った松平家代々の思いをここで断ち切るのか、そう住職に諌められた家康は、墓前に額づいたと言われています。
岡崎城に入った家康は、これまでの状況を一変させる動きに出ます。
桶狭間の戦いから9か月後、今川義元の首をとった織田信長と和睦。
さらに、義元から一字を授かっていた名前・元康を家康に改めます。
家康は、今川氏への従属関係を完全に断ち、一国一城の主となる道を選んだのです。
家康は自らの旗印に菩提寺で授かった「厭離穢土 欣求浄土」の文字を刻み、平和国家建設の大望を持って戦乱の世に出て行ったのです。

家康の選択1位・・・三方ヶ原の戦い
家康31歳!!
生涯最大の敗北を喫した三方ヶ原の戦い・・・!!
敗北以上に大きなものを家康は手に入れたとされています。

1572年10月、武田信玄が2万5000の兵を率いて本拠地・甲府を出陣!!
徳川領への侵攻を開始しました。
家康より21歳年上の信玄は、戦国最強ともいわれる武田軍を率い、甲斐の虎と恐れられていました。
武田軍の勢いはすさまじく、徳川方の城を次々と攻略。
なす術のない家康は、武田軍を迎え討つべく浜松城で籠城を決めます。
しかし、ここで信玄は、家康の想定外の行動に出ます。
浜松城に向かっていた軍勢が、突如西へと進路を変えて、家康の前を素通りしたのです。
家康は選択を迫られます。
武田を追撃する??それとも野戦を避けて籠城を続ける・・・??
この時、籠城を勧める家臣たちに対し、家康はこう述べました。

「信玄が領土内を横切るのに、多勢だからといって出陣しないわけにはいかない」

家康は、武士の誇りにかけ、追撃することを選択しました。
12月22日の夕刻、自ら兵を率いて出陣、日が落ちるころ合いをみて背後から武田軍を襲撃しました。
ところが・・・家康の追撃を見越していた信玄は、坂の上で進軍を止め、徳川軍を待ち構えていました。
戦闘はわずか数時間で勝敗が決しました。
徳川軍の惨敗でした。
静岡にある浜松八幡宮・・・
ここに、敗走中の家康にまつわる伝承が残されています。

「雲立の楠」・・・
味方が原の戦いで、この地まで逃げ延びた徳川家康が、楠の根元のウロに隠れて難を逃れたという伝承です。
家康が一心に八幡様に祈りをささげると、瑞雲という吉兆の雲が湧き出て、楠の梢から白馬に乗った白い着物を着た翁が浜松城の方向へ飛び去りました。
家康は、まだ自分に運があることを悟って浜松城に戻りました。
浜松周辺には、権現(家康の神号)谷という地名があったり、八幡様も含めて、匿ってもらった農家の伝承もあります。
浜松市の調査によれば、市内に残る三方ヶ原の戦いの伝承は40以上。
家康の窮地が語り継がれていることが特徴です。
みんな家康に同情的です。
弱き家康、殺されそうな家康を、みんながこぞって匿ってあげた・・・
天下人になり、江戸幕府を作った英雄、東照大権現という仰々しい厳めしい家康ではなく、守ってあげたい弱き家康が伝えられています。

伝承の中には、家康家臣に関するものもたくさん残されています。
その一つが、死を覚悟した家康を諌め、自らが影武者となって討ち死にした夏目吉信の忠義を讃えた日もあります。
この戦いで、家康は1000人もの家臣を失ったといわれています。
自分の未熟さを痛いほど叩き込まれた家康・・・
もし、三方ヶ原での敗戦がなければ、家康の人生は全く違ったものになったかもしれません。

家康が平和の世を切り開くうえで、欠かせない経験・・・
本能寺の変と伊賀越えでは、信長の死を反面教師に持続可能な組織作りとは何かを考え、小牧・長久手の戦いではかつての敵さえ家臣に取り込み力に変える柔軟性を発揮、そして関ケ原の戦いではどんなに理詰めで戦略を練っても最後は勝負は時の運・・・ギャンブルだと悟りました。
桶狭間の戦いでは、平和を目指す原点「厭離穢土 欣求浄土」のスローガンを得ました。
そして、三方ヶ原の戦いでは、人生最大の敗北から自分より優れた者がいることを忘れない謙虚さを学びました。

信長でもなく、秀吉でもなく、家康が平和な世を築けた理由は・・・??

色んな時代のいろんな戦国大名を見てきた家康・・・その中で、戦い方、都市づくり、城づくり、統治・・・すべて学んで、自分の天下に活かしていく術に非常に長けていました。
織田信長からは戦争・合戦で如何にして勝つのかを学びました。
秀吉が認めた戦争しか正統な戦争とは認めない・・・戦争を違法化していく、内戦を違法化していく・・・他の大名は、幕府に許可を得なければ軍事的なことができないようにしました。
そして、家康の残した遺産を後継者たちが上手く理解して応用していった結果が平和な世でした。

戦いの連続を経験し、本当に戦いがない時代になればいいなという思いをずっと持ち続けていました。
関ケ原の3年後、征夷大将軍になった家康は、定を出しています。
その中で、”百姓をむざと殺すまじく候”・・・施政方針を書いた中に、命の大切さを謳っています。
命の大切さを・・・戦いがない時代を実現しよう・・・
家康が一生戦いの連続だったことが、最終的には平和を求める精神になったのです。
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