日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:長篠の戦い

1575年5月21日、その後の戦国の世を左右する合戦が起きました。
織田信長・羽柴秀吉・徳川家康・・・後の天下人3人がそろって甲斐の虎・武田信玄の跡取りの勝頼と相対した長篠の戦いです。

愛知県新城市にある設楽原・・・今から440年前、長篠の戦いが繰り広げられた場所です。
これを長篠の戦いと呼ぶのは、4キロほど離れた長篠城でも戦いが行われたためです。
3000丁もの鉄砲を有する織田・徳川軍が、当時最強だった武田騎馬軍団を撃破したことから、最新戦法が旧式戦法を打ち破ったとして教科書にも書かれています。
しかし、この戦いには、多くの謎が残されています。
果たして長篠の戦いとは、どのようなものだったのでしょうか?

当時、甲斐国を中心に強大な力を誇っていた武田・・・
これに脅威を感じていた徳川家康と織田信長は同盟を結んでいました。
勝頼は、父・信玄の死後、大きな戦いを控えていましたが・・・3回忌を済ませた1575年4月・・・満を持して隣国・三河を攻めます。
この時、勝頼には勝算がありました。
信長が、強力な勢力で敵対する石山本願寺を攻撃する為に大坂に進軍すると情報が入ったのです。
それならば、三河に援軍を送ることはできないだろうと考えたのです。
勝頼は、三河の本拠地である岡崎城に狙いを定めます。
綿密な計画で、岡崎場内に裏切り者を作り内部から崩そうとしましたが・・・情報が洩れ、失敗!!
次に、家康が入城していた吉田城に狙いを変えます。
勝頼は、場外での野戦を望んでいましたが、家康本体に籠城されてしまいます。
戦が長期化し、兵力の消耗が予想されたため、吉田城攻略も断念!!

そこで、兵を向けたのが、三河国の東の守りの要・長篠城です。
城主は、武田方から徳川方に寝返った奥平信昌でした。
長篠城を守る兵の数は、わずか500でしたが、城は二本の川の合流地点にあり、50mもある断崖にある天然の要害で、攻めるには難しく確実に落とせるか??勝頼は考えます。
5月1日、1万5000の兵で長篠城を包囲!!
城攻めは、攻撃側にとってはリスクの大きな戦法で、孫子の兵法にも城兵の5倍の兵力が必要と書かれています。
勝頼は、それを上回る30倍の兵を集め、圧倒的に有利な状況で長篠城攻略に挑みました。

武田軍は、長篠城を見下ろす医王寺山に本陣を置き、敵の周囲に軍勢を展開させました。
さらに、長篠城への援軍を食い止めるべく、小さな城・付城を築きます。
武田の兵たちは、この付城を拠点にし、竹束や大楯などで敵の攻撃から身を守りながら攻め寄せていきました。
5月13日、武田軍は長篠城の一部である瓢丸に強襲を仕掛けて占拠し、城攻め用の井楼を組み上げ、堀や兵を越えて城内に突撃しようとします。
しかし、城から放たれた大鉄砲により、井楼は大破し、完成を阻止されてしまいます。
そこで武田軍は、狙いを食糧を保管する兵糧村のある二の丸に変えました。

長篠の戦い 信長が打ち砕いた勝頼の“覇権” (シリーズ〈実像に迫る〉) [ 金子拓 ]
長篠の戦い 信長が打ち砕いた勝頼の“覇権” (シリーズ〈実像に迫る〉) [ 金子拓 ]

長篠城の必死の抵抗は、2週間以上に及び、その間、城の兵たちは陣太鼓を打ち鳴らして士気を鼓舞し続けたといいます。
しかし・・・5月14日、武田軍の猛攻に耐え切れず、二の丸・弾正曲輪を放棄し、本丸のみを残すまでに追い詰められてしまいます。
陥落寸前!!
本当に後詰は来るのか・・・??
不安に駆られた奥平信昌は、城の外に使者を出すことにします。
しかし、城は武田軍に完全に包囲されて、一歩でも外に出れば命がない!!
使者になろうというものはいません。
そんな中、名乗りを上げたのは、奥平家に仕えていた下級武士・鳥居強右衛門でした。
長篠城から50キロ離れた岡崎城へ行き、織田・徳川軍の後詰が来るかどうかを確かめること!!

5月14日深夜・・・夜の闇に紛れて下水溝から長篠城を脱出!!
そのまま、川を泳いでくだり、4キロほど下流で陸にあがりました。
そして、そこから一気に雁峰山を駆け上がると、のろしを上げ、まずは長篠城に脱出成功を知らせました。
強右衛門は、険しい山道を敵に見つからないように、西へ西へとひたすら走りました。
半日経って、ようやく目的地の岡崎城にたどり着きます。
強右衛門が到着した時、岡崎城には、家康だけでなく信長もいました。
長期に及ぶと予想された石山本願寺との戦いを終えていて、家康の要請に応じて入城していたのです。
強右衛門は、早速状況を報告しました。
すると、信長と家康は、長篠城を救援するために出陣することを快諾します。
そして、強右衛門にしばらく休息をするように勧めたのですが・・・
一刻も早く知らせるために、岡崎城を後にし、来た道を急ぎ引き返していきました。
再び50キロの山道を駆け抜け、長篠城の近くまでたどり着いた強右衛門でしたが、城は武田軍に包囲されていて、忍び込むことなど到底出来そうにありません。
周囲で様子をうかがっていた時、武田軍に見張りにつかまってしまいました。

勝頼は、強右衛門を尋問し、織田・徳川軍が長篠にやってくるのを知ります。
そこで、武田家の家臣として降伏することを条件に、援軍は来ないとウソの情報を城に向かって叫ぶように命じます。
強右衛門は、従わざるを得ませんでした。
しかし、援軍が来ないと聞けば、長篠城は抵抗をやめ、武田軍に城を明け渡すことになり、自分のせいで城が落ちてしまう・・・!!
本丸のすぐそばまで連れてこられた強右衛門は、覚悟を決めました。

「信長公・家康公はすでに御出馬された!!
 あと3日、城を持ちこたえよ!!」

この声を聞いた長篠城内の兵からは、歓声が上がったといいます。
これを知った勝頼は激怒し、強右衛門を長篠城から見える場所に磔にして処刑させました。

まさに、命がけで城を救った下級武士・鳥居強右衛門・・・その激走と覚悟によって、長篠城の士気は上がり、援軍到着まで無事に城を守ることができました。


1575年5月15日、信長と家康は、三河・岡崎城を出発し、長篠城へと向かいます。
そして、長篠城の手前4キロのところにある設楽原に布陣しました。
どうして、設楽原だったのでしょうか?
そこには、戦に長けた信長と家康の巧妙な戦術が隠されていました。
この先は、一騎打ちの節所と呼ばれた細い道になっていて、さらに、城に近づいても川を渡る橋が一カ所しかなく、このまま進めば武田軍から狙い撃ちされることは目に見えていました。
もう一つの理由は・・・「信長公記」に書かれています。

”志多羅の郷は、一段地形くぼき所に候
 敵方へみえざる様に段々に 御人数三万ばかり立て置かる”

信長は、岡と岡との間に大軍を隠したかったのです。
実際に織田徳川軍が布陣した場所を、勝頼軍から見て見れば弾正山という丘が邪魔になって、その背後を見通すことはできません。
信長は、山の後ろに大軍を隠して、武田軍をおびき寄せ、急襲をかけようと設楽原に布陣したとされていますが・・・
雁峰山からは見通せます。
雁峰山の裏に、武田軍の見張りが登ったのは、容易に考えられるので、大軍を隠す以外の目的があったのでは??
それは、武田軍に対して自分たちの兵力が倍以上あるということを見せつけて、戦わずに勝利しようと考えたかもしれません。
この時、織田・徳川連合軍は3万8000・・・
これに対し、武田軍は1万5000で、その兵力の差は、武田軍を動揺させるには十分でした。

設楽原に布陣した織田・徳川軍は、着々と戦の準備をしていきます。
先端をとがらせた木の枝を打ち込んだ逆茂木や土塁を作り、戦国最強と呼ばれた武田騎馬隊の突撃から守るために長さ2キロにわたる馬防柵を設置しました。
これは、3000ともいわれる織田・徳川軍の鉄砲隊の攻撃を活かす狙いがあったためです。

布陣にも、信長の周到な作戦がありました。
連合軍最大の兵力を有していた徳川軍が武田軍を迎え撃ちます。
さらに、信長は、徳川軍の右側には徳川家とゆかりの深い佐久間・水野隊で援護をさせ、左に織田軍鉄砲隊を配置することで鉄壁の布陣を敷いたのです。
長篠城から北に800mほどの場所にある医王寺山に本陣を置いていた武田勝頼は・・・3万8000もの織田・徳川軍の接近を知り、軍議を開いて対応を検討していました。
甲陽軍鑑には、この時、家臣の中から3つの案が出たといいます。

①一時撤退・・・山県昌景
②長篠城攻略の続行・・・馬場信春
③決戦・・・長坂光堅

まさに、三者三様・・・勝頼はどのように考えていたのでしょうか?
手紙には・・・
「敵、手立てのすべを失い、一段逼迫の体に候の条」・・・
織田・徳川軍が設楽原に布陣したのは、手立てを失い行き詰っているからだと考えていたようです。
さらに・・・
「無二に彼の陣へ乗り懸り、信長・家康両敵共、この度本意を達すべき儀、案の内に候」・・・
勝頼が、織田・徳川軍を積極的に攻める意思を持っていたことが分かります。

しかし、長篠城を攻め落とさずに設楽原に向かえば、前後から挟まれる形となって戦況はますます不利となります。
勝頼は決断します。

「設楽原に討って出て、決戦に挑む!!」

どうして戦いに挑んだのでしょうか??
そこには、勝頼の出自が関係していました。
勝頼は、信玄の4男として生まれ、諏訪四郎勝頼と名乗っていました。
母が、諏訪頼重の娘で、生まれた勝頼は、諏訪家の当主として育てられていました。
もともと武田家の正当な跡取りではなかったのです。
自分が信玄の正統な後継者であることを示すために・・・認めてもらいたいという願望があったのです。
戦での実績を、家中や周辺大名に誇示するため・・・
勝頼にとって、倒すべき敵は、信長・家康以外に家中にも会ったのです。

1575年5月20日・・・勝頼は、長篠城包囲の軍勢を残して、1万2000の兵を率いて設楽原へと向かいました。
連吾川を挟んで、織田・徳川軍と対峙した武田軍は、信玄台地と呼ばれる丘の上に、13カ所に分かれ陣を敷きました。
翌日・・・21日、午前6時過ぎ・・・
けたたましい太鼓の音を合図に、武田軍は攻撃を仕掛けます。
設楽原を横切って、織田・徳川軍の築いた馬防柵に突撃!!
甲陽軍鑑には、城攻めの如くにして・・・とあり、織田・徳川軍の築いた野戦陣地の堅固さに苦しめられたようです。
鉄壁の守りで挑む織田・徳川軍でしたが、合戦前日にもこの合戦を有利にするための作戦を遂行していました。
徳川家の重臣・酒井忠次に命じて、別動隊を戦場の南から迂回させ、長篠城を囲む武田方の付城を襲撃させていたのです。
これによって、開戦から2時間たった午前8時ごろには、長篠城の包囲網を崩すことに成功!!
退路を断たれた武田軍は、正面の織田・徳川軍への攻撃を強めました。
これを待ち構えていたのが、一説に3000丁ともいわれる鉄砲三段撃ちです。
強力な殺傷能力を持つ鉄砲ですが、当時の火縄銃は、弾込めに時間がかかり連射できませんでした。
弾込めには30秒ほどかかり、その30秒ほどは、騎馬なら時速40キロで340m走ることができました。
弾を込めている間に攻め込まれてしまいます。
そこで、弾込めのロスタイムを無くすために行ったのが三段撃ちです。
そして、鉄砲以外にも弓矢で応戦します。
織田・徳川軍が防御態勢を固める中、武田軍が5回波状攻撃を仕掛けていきますが・・・
そのほとんどが馬防柵を越えることができず、多くの死者が出たといいます。
優勢に立った徳川軍は、時には策の外に出て攻撃を仕掛け、戦は6時間以上に及びました。
次第に、死傷者が増えていく様子を見た勝頼は、遂に撤退を決めます。

朝6時に始まった設楽原の戦いは、8時間後の午後2時、武田軍の敗走により幕を閉じました。
武田軍の敗因は、騎馬による突撃にこだわり、当時最強兵器だった鉄砲を軽視したからだといわれていましたが・・・
信玄の存命中から、武田軍も鉄砲の配備には熱心で、決して軽視していたわけではありませんでした。
さらに、設楽原から発見された弾から、武田軍も織田・徳川軍も性能に差はありませんでした。
では、勝敗を分けたものは・・・??

織田・徳川軍は、鉄砲の弾に使う鉛、火薬を大量に準備することができました。
しかし、武田軍にはそれができなかったのです。
当時、鉄砲の弾の原料となる鉛、塩硝は貴重品で、山国・武田ではなかなか手に入れることができませんでした。
常々、慢性的な不足に悩まされていたのです。
織田信長は、瀬戸内海交易、南蛮貿易の拠点となっている堺を自分の領土にしていました。
堺の商人を通じて、豊富に入手することができました。

通常、戦国の合戦では、鉄砲の撃ち合いから始まり、そこに弓矢が加わってお互いに射撃の展開が行われます。
弾を打ち尽くしたので、騎馬や足軽などを早くに投入しなければならなかったと推測されます。

日本の歴史 長篠の戦い  織田信長と武田騎馬軍団 戦国の合戦 ペーパークラフト ジオラマ 紙模型 家康、秀吉、光秀、風林火山 城郭模型
日本の歴史 長篠の戦い  織田信長と武田騎馬軍団 戦国の合戦 ペーパークラフト ジオラマ 紙模型 家康、秀吉、光秀、風林火山 城郭模型

武田軍が撤退しなかった理由・・・それは、合戦での手柄の戦功基準にあったといわれています。
戦国時代の合戦では、戦場での働きによって褒美や恩賞が定められていました。
一般的には、敵陣に最初に突撃し手柄をあげる一番槍が最も評価が高いのですが・・・
武田家では、”場中の高名”というものが高く評価される習わしがありました。
場中とは、合戦中、敵味方が接近し、激しい矢玉が飛びかう危険な場所のことで、長篠の戦いでは馬防柵のあたりがそうです。
勇猛果敢な武士・・・だからこそ価値があると思われていました。
その結果、武田軍は戦功基準ゆえに前に前に出るものが多くなり、退却することせず、それが、皮肉にも武田軍の戦闘能力を奪うこととなりました。
兵力の消耗が早い戦い方・・・兵の数が相手より多い場合は効果がありますが、設楽原の戦いは、織田・徳川軍3万8000に対し、武田軍は1万2000・・・
三倍以上の開きがあり、場中に飛び込むことは無謀でした。
それでも、手柄を立てるために武将たちは飛び込み、彼等が討ち死にすると戦力は弱まり、武田軍は退却せざるを得なかったのです。

信長・家康軍に果敢に攻め込んだ勝頼軍・・・
そこには、引くに引けない甲州武士としてのプライドがしっかりとありました。
この長篠の戦いで、織田・徳川連合軍に大敗した武田軍は、多くの重臣たちを失いました。
そして、この戦から7年後・・・勝頼は、再び織田・徳川連合軍に敗れ、自害・・・
武田家は滅亡・・・
そして、天下は信長・家康の手に・・・!!

一説には、長篠の戦いで数千の兵を失ったといわれている武田軍・・・
戦ののち、避難先から帰った村人たちが目にしたのは、そこかしこに横たわる無数の亡骸でした。
勇猛果敢に戦い、散った、遠く甲州の武将たちを、村人たちは丁重に葬ったといいます。
そして、その勇壮な戦いぶりは、時を経て今に至るまで語り継がれています。

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感想(14件)



戦国最強・武田信玄の不思議をめぐる甲府の城下町です。
人口・190,456人、面積212.47㎢、特産はブドウ・イチゴ・ワイン。
山梨県甲府市は、四方を2000m級の山に囲まれた甲府盆地にあります。
その中央に武田神社が・・・その昔、ここに信玄の本拠地があり、ここから家臣たちと共に大きく甲府の町を発展させました。
その後、豊臣秀吉によって、新たに甲府城が建てられました。
しかし、庶民にとって、甲府はやはり信玄の町です。
そんな民に愛された信玄の町にはどんな不思議があるのでしょうか?

武田通り・・・武田信玄公にあやかってつけられています。
甲府市は、信玄公・・・武田家の町です。

疾きこと風の如く
徐かなること林の如く
侵掠すること火の如く
動かざること山の如し

ご存じ信玄の代名詞、”風林火山”の旗印の内容は・・・
戦における兵たちの心得を旗に記したといわれています。

風林火山は、孫氏の兵法を引用したものです。
孫氏とは、紀元前500年頃・・・中国春秋時代の思想家・孫武の作とされる兵法書です。
信玄は、そこに書かれていた戦に対する心得を徹底的に学んだといわれています。

武田神社は、1919年に創建されています。
武田信玄が御祭神として祀られています。
戦において、連戦連勝の信玄にあやかって、勝負事のご利益があるとされています。
武田神社に隠された謎とは・・・??
ここは、武田信玄の館でした。
難攻不落の信玄屋敷です。
甲府駅から北に二キロ・・・町全体を見守るように鎮座する武田神社。
戦国時代、この時代には、信玄が本拠地として活動した武田氏館がありました。
現在も、堀や土塁、古井戸などの信玄時代の遺構がそのまま残されています。
信玄はこの地に城を建てず、生涯屋敷住まいでした。

どうして戦上手の信玄が、平屋の屋敷に住んでいたのでしょうか?
館の周りは、三方を山に囲まれ両側には左に相川、東に藤川が流れていました。
つまり、南側以外は、天然の要害で、敵が容易に侵入できないようになっていました。
武田氏館を攻めるためには、南側だけしかありません。
その南側も橋もなく、堀で囲まれて入り口は東側にありました。
正面を塞ぎ、東側へ敵を迂回させるようにしたのです。
しかもその手前には、家臣たちの屋敷があるために、容易に近づくことができません。
万一東側・追手門にたどり着いても、門の前に三日月堀と土塁があり、その内側に味方が忍び、弓や投石で狙い撃ちできるようになっていました。
この防壁は、丸馬出とよばれ武田氏考案の鉄壁の防御システムです。
安心して外へ攻めていけたのです。

信玄が残したといわれる言葉があります。

人は城
  人は石垣
     人は堀
 情けは味方
    仇は敵なり

当時、戦国大名たちは、己の権力を見せつけるために、巨大な天守や石垣を作りました。
しかし、信玄は、堅牢な城を造ることより、町の整備にお金と労力をかけたといわれています。
400年以上たった今も、その姿を残す”信玄堤”。
川の氾濫を防ぎ、広大な新田開発に大いに役立ちました。
信玄は、家臣や民との信頼関係を築くことができれば、城などなくても強固な国づくりができると考えていたのです。

戦国最強といわれた武田騎馬隊。
最大で5万人以上いたといわれる中で、最も優れた武将24人を武田二十四将といいます。
信玄の右腕ともいわれた軍師・山本勘助を始め、武勇に優れたものが集まり、彼らの手によって、武田最強伝説が作られたのです。

最近、武田の騎馬隊にある疑問が出てきました。
それは、大きな馬に乗ってかっこよかったのではないのでは??
ポニーに乗っていたようです。
颯爽と戦場を駆け抜け、百戦錬磨といわれた武田騎馬隊がポニー集団??
今でこそ馬といえばサラブレッド・・・彼らが日本に伝わったのは明治時代です。
信玄の時代にサラブレッドは存在しません。
当時の馬は、長野の木曽馬などが一般的でした。
この木曽馬、ポニーと呼ばれることもあり、サラブレッドに比べて小柄で足も短くスピードも出ません。
そして平成元年7月・・・武田氏館から一頭の馬の骨が発見されました。
馬でありながら人のように埋葬されていたことから、武田家の中でも重要人物・・・大将クラスの馬の可能性があるといわれています。
125センチとかなり小柄で、この小柄な馬が、武田騎馬隊の馬の可能性を秘めているのです。

1575年長篠の戦いでは、信長と家康の連合軍が、当時最も恐れられていた武田の騎馬隊と激突!!
3日前、家康は武田軍を警戒して家臣に命じます。

「武田の騎馬隊がまっしぐらに突入してくるので、柵など念入りに作るように。」by家康

「関東衆(武田軍)は馬の扱いがうまい。」by信長

騎馬専用の防護柵を築いて警戒したといいます。
果たしてポニーの武田騎馬隊は、信長&家康が警戒するほど強かったのでしょうか?
孫氏の兵法は、「戦わずして勝つ!!」です。
「百戦百勝は、善の善なる者に非ざるなり」・・・つまり、百戦百勝は、最善に見えるが、勝った方も被害が出るため、戦わずに敵を屈するのが最善ということなのです。

これこそ、信玄が生涯実践しようとしていた「戦わずして勝つ」なのです。
諜報活動、調略を重んじ、「武田軍団は強い、騎馬軍団も強い!!」と、イメージ戦略していたのです。
それはもちろん本当の強さがあってのこと。
信玄の生涯戦績は。72戦3敗です。
それだけの強さがありながら、戦わないようにしていたのは、戦いによる被害の大きさを知っていたからなのかもしれません。


北杜市には・・・味噌なめ地蔵があります。
全身味噌まみれです。
お地蔵さんに味噌を塗る部分は、自分の身体の悪い部分です。
武田信玄が信濃の国で初陣(海ノ口城の戦い)を飾った信玄が、帰り道に光り輝く地蔵菩薩を見つけ、持ち帰ったものです。
っしかし、正覚寺の前で、急にお地蔵さんが動かなくなり、仕方なくこの場所において行ったとされています。
背中には信玄が括りつけて持ち帰った二筋の縄の跡が残っています。
どうしてお地蔵さんに味噌を塗るようになったのか??
味噌は、塩分のきいた保存食で腐らない=悪くならない=これ以上悪くならなように塗っているのです。
その理由には諸説あり、コメの不作が関係しているといいます。
甲府は、山に囲まれた盆地で、味噌の原料となる米の栽培が難しかったといいます。
貴重な味噌を塗ってご利益を願ったのです。
信玄は400年後、この地蔵が味噌まみれになっているとは思いもよらなかったでしょう。

山梨には甲斐九筋があり、領地拡大を図り軍用道路として当時の武田軍にとって重要な道でした。
街道筋には狼煙が置かれました。
戦国時代は、馬での伝達が主でしたが、山で道が入り組んでいた甲州では、狼煙を重宝しました。
信玄ほど、狼煙をたくさん置いた人はいないといわれています。
記録によれば、4,5キロ置きに狼煙が置かれました。

狼煙は”狼の煙”と書きます。
それは、狼煙は、古来中国で連絡手段として生まれました。
狼の糞を燃やしたところから、狼煙といわれるようになりました。
情報を確実に伝達するためには、煙が風に流されないことが重要でした。
そのために、強い火力で、濃い煙を出すことが重要でした。
肉食動物である狼には、たんぱく質が豊富に含まれ、草木だけで燃やすより高温となり、蒸気機関車のように真っ直ぐな煙が上がったといわれています。
どのくらいの速さで届けられたのでしょうか??
新幹線と狼煙とどちらが早いのか??実験した過去があります。
新尾道駅から新大阪駅までの全長250km・・・新幹線と僅か10分ほどの差だったといわれています。


信玄が死ぬと跡を継いだのは勝頼です。
2年後には武田家の行く末を左右する長篠の戦いへ・・・
大量のてっぽうを用いた織田・徳川軍に武田軍は完敗!!
二十四将の多くはこの戦いで命を落とし、武田家を滅亡させた戦といわれています。
武田家にとって、歴史的な敗戦となった長篠の戦い・・・
二十四将の中で、四天王のひとりとして活躍した内藤修理亮は、勝頼を安全に逃がすために戦場に残る選択をします。
その時、勝頼に頼みごとをします。
形見の旗を家族に・・・!!
無事に甲斐国に戻った勝頼は、自ら内藤家に足を運び、内藤の旗を家族に渡し、気にかけたといいます。

山梨県内では、ほうとうを食べられる店がたくさんあり、家庭料理で花嫁修業の一つといわれています。
ほうとうのルーツは、武田信玄です。
ほうとうは、小麦粉を平たく練って作られています。
即席に造ることができるので、陣中の非常食でした。
戦場に運ぶ兵糧には限りがあり、携帯性や保存性が重視されていました。
ほうとうは、味噌と小麦粉さえあれば、どこでも作ることができるので信玄が広めたといわれています。
信玄が自ら刀で細く切ったことから「伝家の宝刀」=ほうとうとなったといわれています。
戦場でしっかりとした食事ができるかどうかは、戦いを左右する大事なことでした。

天目山栖雲寺は、信玄の先祖が眠っている寺です。
信玄の祖先にあたる武田信満が眠る栖雲寺には、信玄ゆかりの貴重な品がたくさんあります。
経に軍配を持っている武田信玄・・・川中島の戦いは伝説として受け継がれていますが、その時、謙信の刀を受けたのも軍配だったといわれています。
どうして右手に軍配なのか??
相撲で使われる軍配ですが、元々は、戦において武将が軍を采配する道具のことです。
多くの武将の中でもひときわ軍配のイメージが強い信玄。
この栖雲寺にはたくさんのお宝が眠っていますが・・・その中に、信玄が使っていたといわれる本物の軍配があります。
普通は木や紙でつくられますが、鉄製の軍配で、鍛冶屋に武器として作らせた一点物です。
信玄が本当に鉄製の軍配を使っていたなら、伝説の川中島の一騎打ちで謙信の刀を軍配で受け止めたのも頷けます。
軍配には傷が入っており・・・謙信と交えたときの刀傷かも知れません。
信玄は38歳の時に、戦国大名でありながら出家の道を歩みます。
その時、晴信から信玄に改名。
さらに、恵林寺住職の快川紹喜を招きます。
そこで、信玄の人生を変えてしまう出来事が!!
ある日信玄は和尚がどれほどの人物なのかお経を読んでいる時に刀を突き付けます。
和尚はびくともせずに、
「一国の主たる者、そうやすやすと刀を抜いてはいけません。
 刀を抜かないということが、家臣を信頼している証で、采配をしっかりしておけばそれでよいのです。」と進言を諭しました。
己をたいそう恥じた信玄は、以来刀を抜くことなく、軍配を持つようになったのです。

武田信玄と徳川家康が変えてしまった日本の伝統文化とは??
それは「門松」です。
門松を飾る習慣は、平安時代からで、家内安全や豊作をもたらす神様が訪れる目印として松を飾ったものです。
武田流門松は、竹を削ぎ切りではなく、寸胴に切ってあります。
寸胴型門松が日本のスタンダードでした。
しかし、戦を機に新しい門松が誕生しました。
1572年三方が原の戦いで、浜松城で待ち構えていた徳川家康と上洛の途上にあった信玄との戦いで、信玄が家康を手玉に取った戦いとしても知られています。
武田軍に完膚なきまでに叩かれた家康・・・家康は無様な姿を一生忘れないようにしかみ像を書かせたことで有名です。
そんな家康に勝った信玄から手紙が・・・その手紙の内容は??

松枯れて 竹類なき 明日かな

松は松平のことで、竹は武田のことです。
松平は終わって、武田の将来は類まれなく良くなる明日である。
これを怒った家康は、返歌を送ります。

松枯れで 武田首なき あしたかな

子供じみたようにもなりますが・・・家康の返歌は、ひらがなにするとすべて同じ字で書かれています。
濁点だけで全く違う意味になります。
そして、武田の首を斬ってしまえ!!ということで、削ぎ切りの門松を送ったといわれています。
これをきっかけに、江戸幕府以降、削ぎの門松が主流になりました。

甲斐・善光寺・・・長野の善光寺と深いかかわりがります。
創建664年国宝・信州善光寺。江戸時代は、伊勢神宮と並んで、庶民の観光スポットNo,1で、一生に一度は善光寺参りといわれるほどでした。
6世紀半ばごろ、百済から持ち込まれた日本最古の阿弥陀如来像が安置されています。
そんな信州善光寺と同じ名を持つ甲斐善光寺・・・甲斐善光寺は、武田信玄が長野の善光寺を移した時からあります。
お寺には川中島の陣太鼓があります。
川中島の戦いの舞台となった川中島から信州善光寺は近く、戦いによって消失してしまう可能性がありました。
消失を恐れて、こちらに移したともいわれています。
信玄は、信州善光寺の全てを持ってきたのは、親切心だけではなく・・・
信州善光寺にある日本最古の如来像・・・それを手にすることは権力を手にすることになる。
以後、信長→家康→秀吉の手から、善光寺に戻されたといいます。
手にした彼らは、大きな権力を手に入れていきます。

山梨県甲府には、人と人とのつながりを大切にする信玄の想いが息づいていました。

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今回は、やっと歴史の表舞台が出てきます。
長篠の戦いです!!

前回、材木の手配の仕事を願い出た万千代でしたが・・・丸太の調達は近藤殿がすることとなり、万千代は浜松城で留守居役となりました。
そう・・・歴史の表舞台、長篠の戦いには行けないのですよ・・・??
だから、ドラマの方でもほとんど書かれず・・・??

井伊の材木を携えて、長篠へ向かった徳川軍!!
留守居の者たちは、武具・兵糧の更なる用意をすることに・・・!!

皆が無事に戻ることを願うおとわ。

その頃・・・万千代は草履棚を作り直していました。

naotora6













「丸太で失ったものを、留守居で取り戻す!!」by万千代

その頃家康は・・・長篠城の近くの設楽原に布陣!!

信康は信長に会見・・・信長の目論見は・・・??
そこへやってきたのは家康!!

織田の策とは・・・??
鉄砲を用いたいとの事!!
徳川がいまだ武田に勝てないのは、武田と同じやり方で戦おうとするから・・・
と、信長の勧めでした。
助っ人の織田に勝手に決められて、徳川の面目丸つぶれ・・・と、怒る家臣たちも。
しかし、今大事なのは、長篠を武田から救うこと!!
と、本多忠勝がみんなをまとめます。

そんなピリピリな中、万千代は草履棚を製作中!!
他の小姓に頼まれて・・・いじめのような・・・槍の手入れをすることに。
怒りながらも、武具の手入れを始めた万千代と万福。

「押し付けたことを後悔させてやるわっ!!」by万千代

槍の手入れを完璧にする万千代。
日の本一の留守居を目指しています。

そんな中、戦しつらえが始まった長篠・・・

naotora5












彼らもいますよ??
なんか、材木が足りないみたい・・・
この材木は自分達が伐り出した・・・と、足らない材木を伐りに行きたいと申し出ます。
柵を立てるために、伐り出しに向かいます。

naotora4















信康と家康は、久しぶりの碁。
とっても聡明な信康です。

信長の命による大規模な普請が完成!!
それを受け、酒井忠次率いる別動隊が武田勝頼を背後から攻撃!!
織田、徳川の大軍が待ち受ける設楽原に突撃をかける武田勝頼!!

信長の立てた策は、絶大な戦果を挙げ、長篠は織田・徳川軍の大勝利に終わりました。

織田信長に呼び出された直之と六左!!
暗がりの中にいるのは恐れ多き殿・信長!!
「面をあげよ」そう言った信長は、血のような赤いワインを飲んでいました。
キンチョーの二人・・・


その頃、武具をたくさん・・・1か月も作っていた万千代&万福!!
長篠は大勝利で、遠江の武田の城まで攻めるから武具がたくさんいるという!!
兵糧と武具を届けよ!!との事で、喜ぶ万千代ですが・・・。

「お持ちしました!!
 かようなこともあろうかと、昼夜を徹し!!」と、あの万千代たちをいじめていた小姓が自分が作ったの如く振る舞う始末!!
手柄を取られてしまいました。

「おやめなされ、行っても無駄にございます。
 あれは酒井の一門!!
 立場が悪うなるだけにございます!!」byノブ

「向こうが徳川での権勢を誇る家の子を強みとしてくるなら、こちらは今川の国衆の、しかも潰れた家の子であることを強みとしてはいかがですか?」byノブ

「潰れた家の子の強み??」by万千代

「はい・・・あれは、潰れた家の子にしかできぬ。
 さすがは潰れた家の子!!
 いや、あっぱれ!!そういわせるのです。」byノブ
 
ノブは・・・流石は裏切り者と言わせる働きをするつもりだ・・・恥知らずだ・・・と言われるような働きをいつかすると言う。

「あ・・・しかし、井伊の殿様がまさにしておられることではないですか?
 潰れた家を利用するというのは。」by万福

今は無理かもしれないけれど、必ず意味がある・・・殿を信じてその時を待て!!
というノブ!!
殿は信じて良いお方だと・・・!!


戦いで亡くなった近藤の者たちはいないと安堵するおとわ。
なんと、直之と六左が信長から褒美をいただいたとか!!
それは、城一つにも値する茶碗!!

その茶碗を寺に寄進をするという。。。

naotora3















戦で亡くなった者たちを偲んで読経を始めるおとわ。

しばらくして・・・家康たちが浜松に戻ってきました。
どんちゃん騒ぎのお城!!
そんな中でも、万千代、万福、ノブは働いていました。

榊原様に殿の寝所に呼ばれてしまった万千代。
どうして寝所・・・??
もしかして・・・そういうこと・・・??

あたらしい褌を締めて戦闘準備完了!!

とっても可愛い勝負服の万千代です。

naotora1














??呑気にお菓子を食べるとのですが・・・??
「かような契りは結んだことはございませぬ故・・・」by万千代

「何の契りじゃ??」by家康

と、キンチョーしていたのに、笑い飛ばされてしまいました

「あの・・・槍弓を整えたのは、そなたと万福か。
 いつもよりずいぶんと細かく手入れされておった故・・・
 弓や槍は磨き込まれ、矢は寸分の狂いもなく真っすぐに・・・。
 新しくあつらえたのかと言うものもおった。
 
 小五郎がやったと言うておったが、以前はさようではなかった故、新しく入った者がやったのではないかと思うてな。

 草履棚も様変わりしておったし。。。
 そなたの事じゃ。 日の本一の留守居と言われたら、日の本一の留守居を本気でやろうと思うたのではないのか?」by家康

「誰も・・・気付いてなど下さらぬと・・・
 取り乱し、失礼いたしました。」by万千代

そう・・・家康はすべてをわかっていたのでした。

「いっそ、まこと、色小姓としてしまうという手もあるか。
 万千代!!
 ここはひとつ、まことそういうことにしてしまわぬか??」

naotora2














そんな万千代を可愛いと思ってしまったのかしら・・・??

そうね、色小姓・・・そういう説もあるぐらい、家康は直政を可愛がったといわれています。
だって、三河武士でもないのに徳川四天王だもんね

この時、直政は15歳です。
草履番をしていたのか??それは多分していないでしょうけど・・・
15歳の直政がどうやって活躍し、家康の目に留まるのか??
それは、15歳では、武功ではなかなか難しいんじゃなかったかと思います。

とにかく、直政の子供の頃の境遇は、家康の子供の頃に似ています。
家康は子供の頃、ず~っと人質生活でした。
今川にやられ、織田にとられ、嫁は今川の息がかかった女性で・・・
そして、直政も・・・子供の頃は、親元を離れ、寺での生活を余儀なくされていました。
強い大名に惑わされながら生きて来た弱小な家・・・自分の非力さを痛感する時期が長かったと思います。
そんな二人の似た境遇が、家康が直政を可愛がり、直政はご恩に報いるために命を懸ける!!そんな関係になっていったんじゃないかな??って思います。

いい感じ。
やっぱり大河ドラマは男性じゃないとね!!って思っちゃいます

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今回も草履番の回です
なんと、日の本一の草履番となったので、小姓にあげてもらったのだそう。
って・・・前回、松下源太郎が出てきていたんだけれども、彼は回収しないのかしら・・・??

新しい者を指南してくれ・・・そう頼まれてやってきたのはこの人。

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本多正信でした。
う~ん、イメージが・・・違う。。。

「ノブ」と呼んでいいらしい。
このノブ、もちろん出来る男です。
この人も百戦錬磨の男です。

代わって井伊家・・・
松下は、直久を養子にもらうそう。
近藤殿もどうすればいいのか・・・
そして、六左の再就職先を探さなければ!!

人柄も良くて畑仕事ができると言っても、近藤としては不必要!!と言われてしまいました。
が・・・
「馬の世話がお上手にございますよ。」by高瀬
と、鶴の一声のようで再就職先が決まりました。
高瀬のことが好きなのか??近藤殿??!!


そして・・・ノブを教育しようとする直政ですが・・・
そこへ本多忠勝登場!!なんだか怒っていますが・・・
ず~っと徳川に仕えていた忠勝・・・
しかし、正信は・・・三河一向一揆で家康に刃を向け、他国へ逃げていました。
そんな本多一族の身内の恥なのです。
ちなみに家康は、裏切り者のこの本多正信を重用していきます。
何と言っても、諸国を歩いてきた生きた情報を大切にしていたのです。

家臣の行動から、武田が攻めて来るのでは??と、感じたノブ。
流石、これを家康は欲しかったのでしょう。
武田勝頼が三河・遠江へ進軍を開始!!
その勢いで徳川方を圧勝し、長篠城を包囲するに至ります。
浜松と岡崎が分断されてしまう!!
武田を叩けと言っている織田!!

その頃六左は・・・

naotora













窓際に追いやられていました。
いっそ武家を辞める??というおとわでしたが・・・
柄にもなく六左は武功をあげてみたいという。
戦に向いていないが故の憧れだと・・・。
そんな六左は等身大でとってもいい感じ
ほんと、この人数の少ない「おんな城主直虎」で、いい役者さんです。

その頃、草履番として上達したノブは、どんな順番で出てくるのか?ピタリと当てます。
洞察力が鋭いようです。
そこから情報を得ていくノブ。
近いうちに木が必要だということ!!
丸太を3000本用意するように織田に仰せつかったというのです。

naotora4












そこで、井伊が丸太を用意することを申し付けてくれるように願い出る万千代。

万千代の望みは「初陣!!」。

ということで、材木の調達を言いつかります。
おとわに書状を書くも、井伊の所領は今では近藤のもの。。。
どうする??

方久が家康のもとへやってきました。
薬や綿布、刺繍などをしているという・・・もちろん本題は・・・??
おとわからの手紙が・・・。
そこには、井伊谷に材木を・・・という話でしたが、そこはすでに近藤殿のもの。
物事の筋道を通して、万千代を甘やかすことなく、近藤殿にお役を命じ直してほしいと書かれていました。

そして近藤殿にお沙汰が・・・!!
10日のうちに丸太を500戦場に届けよ!!と。
そこで力を発揮するのは・・・もちろん、奥山六左衛門でした

naotora2















違った形だけれどもこれも武功・・・材木を調達し、そして徳川は長篠へ・・・!!

naotora5















ということで、草履番の事ばかりだったらどうしよう・・・って思っていたけれど、今回は、各々がいい味を出していましたね。
実は私、結構六左が好きなんですよ。
気は優しくて力持ちタイプです
ほろっとしちゃったわ・・・

で・・・本多正信も!!
草履番かどうかは知らないけれど、彼もまた一筋縄ではいかない曲者です。
そして・・・やっとわめいているだけのおとわさまから変身してくれたのかもしれませんが・・・
おとわの母としての厳しい態度です

期待していなかっただけに、とっても面白い回でした
きっとそれは、単純明快だからでしょう。


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1575年5月21日・・・その後の戦国時代を左右する戦いがありました。
織田信長・羽柴秀吉・徳川家康・・・三人の天下人VS武田勝頼の長篠の戦いです。
結果は、織田・徳川連合軍の勝利に終わりましたが、勝敗を分けた一つには、ある下級武士の激走がありました。

愛知県新城市にある設楽原・・・今から440年前、長篠の戦いがありました。
3000丁もの鉄砲を有する織田・徳川軍が、当時最強と謳われた武田の最強騎馬軍団を破った戦い・・・最新の戦法で勝ったとされています。
が・・・長篠の戦いとはどんな戦いだったのでしょうか??

当時、甲斐国を中心に強大な勢力を誇っていた武田家・・・。
これに脅威を感じていた織田と徳川は同盟を結んでいました。
勝頼は、信玄の死後・・・1575年4月・・・満を持して三河を攻めます。
このとき、勝頼には勝算がありました。
信長が石山本願寺を攻めるために大阪に進軍する!!との情報を手に入れていました。
それなら・・・三河に援軍を送ることはできないだろう!!と、岡崎城に狙いを定めます。
場内に裏切り者を作り、うちから崩そうとしましたが、情報が洩れて失敗!!

次に家康が入城していた吉田城に狙いを定めます。
勝頼は、場外での野戦を望んでいましたが、家康に籠城されてしまいました。
戦が長期化すること・・・兵力の浪費を恐れ、これも断念!!

そこで、兵を向けたのが、長篠城でした。
城主は、武田側から寝返った奥平信昌が務めていました。
長篠城を守るのは500でしたが、天然の要害で、なかなか攻め入るスキがありません。
5月1日、1万5000の武田軍は長篠城を包囲・・・城攻めは、攻め入るほうにはリスクが高く、孫子の「兵法」にも、城兵の5倍の兵力が必要だと書かれています。

勝頼は、20倍もの兵をそろえて圧倒的!!
で、長篠城攻略に臨みます。
長篠城を見下ろす医王子山に陣取り、援軍を阻止するべく付城も築き、この付城を拠点にし竹束、大楯でじりじりと攻め寄せていきます。
5月13日、長篠城の一部・瓢丸を占拠し、井楼を作り、城内に攻め入ろうとします。
しかし、城から放たれた大鉄砲で井楼は大破、完成を阻止されてしまいます。

そこで・・・兵糧蔵がある二の丸に目をつけます。
しかし、長篠城の必死の抵抗は2週間に及び、その間、城の兵士たちは、陣太鼓で鼓舞していたといわれています。
5月14日、武田軍の猛攻に耐えきれず、二の丸・弾正曲輪を放棄し、本丸を残すのみ・・・と、追い詰められてしまいました。
最後の望みは後詰・・・織田・徳川の援軍でしたが・・・
周囲との連絡を絶たれた長篠城では、後詰が来るのか来ないのかわかりません。。。
その時一人の下級武士が使者に・・・奥平家につかえていた鳥居強右衛門です。
指名は長篠城から50㎞離れた岡崎城へ行き、後詰が来るかどうか確かめること・・・。

5月14日深夜・・・強右衛門は闇に紛れて下水口から長篠城を脱出!!
川を泳いで下り・・・険しい山を敵に見つからないように、西へ・・・西へ・・・半日経って岡崎城へ!!
そこには、家康だけではなく、信長もいました。
石山本願寺との戦いを終え、家康の要請に応じて入城していたのです。
強右衛門が状況を報告すると・・・長篠城への出陣を快諾してくれました。
しばらくの休息を勧められた強右衛門でしたが・・・
この朗報を一刻も早く知らせるために、岡崎城を来た道へと引き返していきました。
再び50㎞・・・長篠城の近くに来たものの・・・長篠城は包囲され、近づくことができません。
周囲をうかがっていると・・・武田軍の兵士につかまってしまいました。

織田徳川軍が長篠にやってくることを知った勝頼・・・
武田家の家臣となり、援軍は来ないとウソの情報を流すように命じられます。
従わざるを得ない強右衛門・・・自分のための城が落ちる・・・??

「あと3日・・・城を持ちこたえろ!!」by強右衛門

勝頼は激怒し、長篠城から見えるところに強右衛門を磔にし、処刑させたといいます。
このことで長篠城の士気は上がり、援軍が来るまで持ちこたえられました。

5月15日、信長と家康は岡崎城を出て長篠城に向かいます。
そして長篠城の手前・・・設楽原に陣地を築きます。
設楽原に陣取ったのは・・・この先は、一騎打ちの節所と呼ばれる細い道になっていて、武田軍に狙い撃ちされることは明らか・・・
そして、3万8000という兵力の差を見せつけて、退却させようとしていたのかもしれません。

着々と戦の準備をする信長・家康軍・・・逆茂木や土塁を築き、武田の最強騎馬軍団に対抗するために、馬房柵を作ります。

これは3000ともいわれる鉄砲隊を生かすためだともいわれています。
馬房柵の横木に鉄砲の先を置いて撃つ!!、心理的安心・・・で安定できます。
布陣にも信長は周到!!鉄壁の布陣で挑みます。

医王子山に本陣を構えた勝頼は・・・
3万8000もの軍に対しどうするのか??軍議が開かれていました。
①一時撤退
②長篠城攻略の続行
③決戦
どうする??

「設楽原に討って出て決戦に挑む!!」by勝頼

どうして無謀ともいえる決戦を選んだのでしょうか??

それは勝頼の出自に関係があるようで・・・
勝頼は諏訪四郎勝頼と呼ばれ、諏訪氏の当主として育てられてきていました。
もともと正当な跡継ぎではなかったのです。
微妙な立場の自分が正当な後継者を重臣たち、諸大名たちに知らせるために討って出たようです。


5月20日・・・勝頼は長篠城包囲のメンバーを残し、1万2000で設楽原へ・・・連吾川を挟んで織田・徳川軍と対峙!!
5月21日午前6時過ぎ・・・けたたましく武田軍が馬房柵に突撃!!
織田・徳川軍は、戦いを有利に進めるために・・・長篠城を囲む武田の付城を攻撃!!
これによって2時間後には長篠城の包囲網を撃破!!
退路を断たれた武田軍は、前に向かって突進!!
これを待ち構えていたのが鉄砲・三段撃ちでした。
三段撃ち・・・連射のできない火縄銃・・・弾込めのロスを少なくするためと言われていますが・・・。
三段とは・・・三列ではなく三つの鉄砲部隊の意味かもともいわれています。
波状攻撃を見せる武田軍でしたが、馬房柵を越えることはできませんでした。
多くの死者がでた武田軍・・・優勢に立つ徳川軍・・・戦は6時間以上に及びました。
使者が増えていく現状に、撤退を決心する勝頼。

武田軍は本当に三段撃ちに負けたのでしょうか??

しかし、信玄が存命中から鉄砲の配備には熱心で、軽視していたわけではありません。
そして、その性能にも差はありませんでした。

勝敗を分けた理由は・・・??
鉄砲の鉛・弾・火薬だったようです。
山深い甲斐では、物資の調達には慢性的に悩まされていたようです。
その物資の差・・・弾も尽き・・・火薬も尽き・・・敵に飛び込んでいくしかなかったのです。


戦国時代は、その戦場での戦いで褒美や恩賞が決められました。
選考基準の一番は・・・一番槍・・・武田家では場中の高名が評価されました。

合戦中の矢玉が飛び交うところ・・・今回では馬房柵のところで戦うこと・・・

勇猛果敢さが必要とされ、価値があるとされたのです。

前に、前に!!退却することなく突進していきます。

兵力の消耗が半端なく・・・撤退を余儀なくされたのです。
そしてこの戦いでは、多くの重臣たちを奪われました。

この戦から7年後・・・織田・徳川軍に挑み・・・破れ・・・武田家は滅亡してしまうのです。
天下は・・・信長、家康の手に・・・!!

勇猛果敢に戦って亡くなった武田軍は、丁重に葬られ今も語り継がれています。


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