青森県のほぼ中央に連なる火山群・八甲田山・・・
有数の豪雪地帯であるこの一帯は、冬ともなれば銀世界に・・・多くの人がスキーを楽しみに訪れます。
そんな八甲田山で今から118年前の1902年1月23日・・・日本山岳史上最悪の遭難事件が起こります。
雪中行軍の演習を行っていた大日本帝国陸軍の歩兵部隊が遭難・・・210人中199人が死亡しました。

1902年1月23日午前6時
その日、陸軍の基地である青森屯営では朝早くから兵士たちが雪の八甲田山で行われる雪中行軍の準備に追われていました。
行軍演習を行うのは、青森歩兵第五連隊、部隊構成は指揮官である中隊長の神成文吉大尉を中心に先頭を行くのはカンジキを履いて雪道を作るカンジキ隊、それに4つの小隊が続き、その後に食料や燃料などを運搬するソリ隊、また編制外として特別移動大隊本部(大隊長・山口鋠少佐、倉石一大尉、永井源吾軍医など)が加わり、総勢210人の中隊編制となりました。
この日は雪こそ降っていたものの、風邪は弱く、朝の最低気温はマイナス6度、積雪は90cmほどでした。
舞台が整ったのを確認した神成中隊長は号令します。
「演習中隊の指揮をこの神成がとる
 本日予定のごとく、田代新湯に向かい行軍を成す」
青森第五連隊の行軍計画は、青森屯営から八甲田山にある田代新湯まで行き、折り返して屯営に帰ってくるという往復およそ42キロの1泊2日の行程でした。
決して大遠征というものではありませんでした。

午前6時55分、青森歩兵第五連隊、屯営出発
総勢210名の部隊が、八甲田山に向けて出発しました。
これが死の行軍になるとは誰も知らずに・・・。
屯営から八甲田山の麓にある幸畑まで3.2キロ、ほとんど平たんな道です。
人や馬の往来もあって、雪も多少踏みしめられて歩きやすく順調に進みました。

午前7時40分、青森歩兵第五連隊、幸畑到着
荷物を運んできたソリ隊は、この時すでに大汗を掻いていました。
そのため、毛布で作られた防寒外套を脱ぎ、薄い外套に着替えてしまいました。
カンジキ隊は、幸畑より積雪が多くなるためここからカンジキを履くことに。
そして、ここで命運を分ける最初の判断ミスがありました。

地元農民からこの先の行軍は止めた方がいい、するなら案内をつけるべきだ・・・と、忠告されます。
しかし、小隊の隊長たちは聞き入れませんでした。
夏に度々行軍練習をしていたので、必要ないとしたのです。
しかし、冬の八甲田山・・・道案内をつけずに行軍を始めました。
目的地である田代新湯までは残り18キロ・・・
ここからはほとんどが登り、進むにつれてどんどん雪が深くなっていきました。
すると問題が・・・
降り積もったフカフカの新雪ではソリが動きません。
人も馬も通らない雪山・・・先鋒のカンジキ隊だけでは道は作れず、ソリは雪に沈みなかなか前に進みませんでした。

午前11時30分、青森歩兵第五連隊、小峠到着
出発からおよそ4時間半、青森歩兵第五連隊の本体が小峠に到着、ソリ隊が着いたのはその1時間後でした。
第五連隊は昼食を・・・しかし、その時すでにご飯は凍っていました。
ポケットに入れていた餅が石のような固さに・・・
いつもの訓練とおなじように食料を持ってきましたが、石のように凍っていてほとんど食べられなかったのです。
豪雪の山岳地の気温は、予想をはるかに超えていたのです。

しかし、どうして雪中行軍を行う必要があったのでしょうか??

7年前の1895年・・・
日本は日清戦争に勝利し、下関条約を締結します。
当時の日本円で3億円・・・国家予算の4倍という2億両(テール)の賠償金や、遼東半島、台湾、澎湖諸島などの領土を得ますが、その6日後、ロシア・ドイツ・フランスが3千万両(テール)と引き換えに遼東半島の返還を日本に勧告しました。
この三国干渉に対し、日本は止む無く受諾し、遼東半島を清に返還することとなりました。
するとロシアが南へと勢力を拡大し、朝鮮半島に迫ってきました。
日本はこのままいけばロシアとの戦争が起こると予測します。
その際、ロシアが津軽海峡を経由して陸奥湾から日本国内に侵入してきた場合、ロシアに弘前から八戸につながる交通網を押さえられるのは必至、そうなれば、日本軍が青森・弘前方面から八戸方面に抜けるためには八甲田山を経由しなければなりません。
また、寒冷地であるロシアへの上陸も想定し、寒さと雪に耐える訓練が必要であると判断。
こうして雪中行軍は想定されるロシアとの戦争に向けての演習として行われました。

青森歩兵第五連隊の210名は、来るべきロシアとの戦争に備え、雪深い八甲田山での雪中行軍を実施。
小峠にでの昼食も凍ってしまっていて食べることができず、その上天候も悪化。
すると隊員の中から意見が・・・

「天気が荒れてきて大雪になりそうだ・・・田代新湯へ進むのは無理だろう
 戻った方がよいのではないか」

このまま前進するか、行軍を中止して戻るか、演習を指揮する神成文吉大尉は決断を迫られます。
結論は・・・このまま前進。
しかし、この判断を下したのは神成中隊長ではなく、編制外として参加していた大隊長の山口少佐でした。
陸軍のメンツにかけても簡単に中止することなどできなかったのかもしれません。
当然大隊長の決定に反対するものなどいませんでした。

目的地である田代新湯まで残りあと10キロほどだったこともあり、着きさえすれば温泉にゆっくり浸かって一杯・・・と、楽観的な隊員たちも多かったといいます。
神成中隊長は、雪中行軍実施の5日前に予行演習を行ってはいましたが、実際に行ったのはこの時食事をした小峠まで・・・
田代新湯については、地元の人間に聞いただけでした。
小屋が4、5件あるといっても着替えをできる程度の建物で、210人が宿泊できるなど到底無理・・・渓谷にあって冬には見つけるのも困難な小さな温泉場でした。
そうとは知らずに田代新湯を目指して進む青森第五連隊は・・・小峠・大峠・大滝平・賽の河原・按ノ木森・馬立場・・・6.5キロを進んでいきました。

午後4時、青森歩兵第五連隊、馬立場到着
積雪量も増えて傾斜もきつく、ソリ隊は更なる困難を極めます。
主力部隊が馬立場に到着しても、ソリ隊の中には按ノ木森にまでもたどり着いていない者もいたといいます。

神成中隊長は、遅れているソリ隊に応援を送るとともに、先に宿泊の手配をするために田代新湯にも人を向かわせました。
本隊も後を追い出発、暫くすると・・・先に田代新湯へと向かわせた隊員たちが戻ってきました。
吹雪が激しく、進めなかったのです。
天候はますます悪化、しかし、猛吹雪の中でも行軍は続けられました。
この日は満月が近く、吹雪の中でも月明かりが積もった雪に反射、周囲を明るく照らしていたため日没の午後5時ごろを過ぎても行けると判断してしまいました。
しかし・・・

午後8時15分、青森歩兵第五連隊、露営
流石に夜も8時を過ぎると周囲は暗くなり、猛吹雪となり田代新湯への道も分からなくなってしまいました。
止む無く野宿することに・・・
そこは、目的地である田代新湯の1.5キロ手前にある平沢でした。
猛吹雪の冬山での露営は、想像を絶する過酷なものでした。
深さ2m、広さ6畳ほどの雪山を5つ堀り、40人ほどに分かれてその中へ・・・
雪の中での煮炊きは難しく、夕食は生煮えのご飯がわずかばかり支給されただけでした。
寒さと空腹に耐えながら、隊員たちは自ら掘った穴の中で立ったまま身を寄せ合い、朝を待つことになります。
眠ると投資の危険があるため、足踏みや軍歌を歌い続けていたといいます。

1月24日午前1時・・・

日付が変わると天候はさらに悪化。
激しい雪と風が打ち付けます。
気温は-20℃を下回っていました。
すると、大隊長の山口少佐が・・・
「このままでは皆凍え死んでしまう・・・
 いますぐ帰営だ・・・!!」
これに反対したのが、司令官である神成中隊長でした。
「帰営は夜が明けるのを待つべきです!!」
「いや、一刻も早く帰るべきだ!!」by山口少佐
山口大隊長の命令により、青森歩兵第五連隊は、猛吹雪の中帰営することになりました。

1月24日午前2時30分、青森歩兵第五連隊、帰営開始
これが判断ミスでした。
猛吹雪のため、顔をあげて進むことができず、部隊は完全に方向を見失ってしまうのです。
極寒の雪山を彷徨う隊員たちは、ひどい低体温症に陥り、凍傷にかかっていきます。
極度の疲労と不眠により、幻覚を見ておかしなことを言う者、錯乱して踊り出すものなど、精神的に異常をきたす者が現れはじめます。
そんな中、
「田代新湯への道を知っています!!」
隊員のこの言葉に、山口大隊長は帰営するよりは近くの田代新湯に行く方がいいだろうと考え・・・
「しからば案内せよ!!」
こうして青森歩兵第五連隊は再び方向転換し、田代新湯へと向かうことになります。
ところが、1時間もしないうちに道に迷ってしまいます。
目の前に現れたのが、駒込川・・・道が違っていました。
そのため、山口大隊長の判断で、三度の反転・・・夜半に出発した平沢の露営地に逆戻りすることになりました。
しかし、3時間、5時間、10時間歩いても、露営地にたどり着くことはできず・・・隊員たちはまるで雪に吸い込まれていくかのように倒れていきました。

重い凍傷にかかり、気力も体力も限界を超えていました。
青森歩兵第五連隊は、八甲田山中で完全に遭難してしまったのです。
やっとのことで露営できるくぼ地を見つけたのは、2日目の夕方でした。

午後5時、青森歩兵第五連隊、2日目露営

多くの命を失った第五連隊は、ようやく進行を止め、鳴沢の西南のくぼ地に露営することに・・・第一露営地から第二露営地までおよそ15時間・・・その間の距離は700mほどしかなく、雪がないと10分もかからない場所でした。
隊員たちはただただ寒さに耐えるほかなく、激しい体力の消耗と空腹、睡魔との戦い・・・!!
極限状態の中の第五連隊は、天は見放します。

露営と言っても野ざらしのくぼみ・・・ただただ寒さに耐えるしかなく・・・
しかし、山口大隊長は、多くの犠牲者を出してしまったことで夜半に出発することの怖さを身にしみて感じたのか慎重になっていました。

「夜が明けてから出発する」
「凍え死んでしまいます。
 もっと早くに出発させてください!!」

隊員たちに何度も懇願された山口大隊長は、再び夜中に出発することに・・・。

1月25日午前3時、青森歩兵第五連隊、鳴沢出発

山口大隊長の命を受けた神成中隊長は、各小隊を集めると露営地を出発。
身を切るような寒さの中、鳴沢渓谷を下っていきました。
しかし・・・方向が間違っていると倉石大尉に指摘され反転。
容赦なく吹きすさぶ猛吹雪の中、結局道に迷い周辺を行ったり来たり・・・
すると、隊を率いていた神成中隊長が、
「天は我らを見捨てたらしい・・・!!
 俺も死ぬから、全員夕べの露営地に戻って枕を並べて死のう!!」
指揮官のこの悲痛な叫びが、わずかな気力だけで生き抜いてきた隊員たちの心を砕きました。
皆の士気が下がったのか、あっちでばたり、こっちでばたり・・・もう、足の踏み場もないほど倒れていきました。
朝方なんとか露営地に戻って点呼して見ると、210人いた隊員は60人ほどになっていました。

そんな中、午前7時ごろ、一時的に視界が開けるのです。
まさに一筋の光明・・・神成中隊長は、帰路を見つけるための捜索隊を出します。
今井米雄特務曹長と渡邊幸之助軍曹以下10人を2隊に分けて派遣するのです。

午前11時
行軍3日目にして初めての朗報が届きます。
「帰路、見つけました!!」
渡邊軍曹でした。
青森第五連隊はすぐに出発、馬立場を目指して出発します。
ところが、どこまで行っても馬立場に到着しません。
部隊は森の中をただグルグル回っていただけ・・・また道に迷ったのです。
途中さらに落伍者が続出!!
隊はばらばらとなりました。
こうして犠牲者199人、日本山岳史上最悪の遭難事件は起こったのです。

1月23日~26日
青森歩兵第五連隊は、氷点下猛吹雪の八甲田山中で遭難。
出発から4日目の点呼で確認された隊員は、わずか30人・・・最終的には210人中199人が命を落としました。
どうして起こってしまったのでしょうか??

遭難した原因①予行演習との違い
隊を率いる神成文吉大尉は、事前に行った予行演習で目的地である田代新湯まで行きませんでした。
ソリをたった一台引き、小峠までの平たんな道を折り返しただけ。
そして報告書にこう書くのです。

「ソリを運搬具に使用するのは、甚だしく困難にあらざることを認めたり
 この日 天気晴朗にして積雪三尺ないし四尺
 表面やや堅硬にして良好の景状なり」

ソリを使うのは難しくないと判断、しかし実際は多くのソリを使ったことが間違いでした。
行軍を大きく遅らせ、隊員たちの体力を消耗させる原因となってしまいました。

遭難した原因②天候の悪化
当時の天気図が残されています。

1月22日、太平洋沿岸に大きな低気圧が現れていました。
この低気圧の影響で、1月24日ごろから北日本を大寒波が襲います。
青森測候所でも、例年1月の平均最低気温が-4℃ですが、1月23~27日の最低気温は-9℃でした。
標高の高い八甲田山では、平地以上に気温が低下していたと考えられます。
記録的な寒さのため、ほとんどの隊員が低体温症・・・凍傷になり動けなくなっただけでなく、錯乱状態など精神に異常をきたしました。
また、大寒波の影響で、暴風雪が吹き荒れ、視界不良になるホワイトアウトが起き、目的地までの道を完全に見失ってしまったのです。

遭難した原因③準備不足
雪中行軍の計画が正式に発表されたのは、出発のわずか2日前の21日のことでした。
そのため、隊員たちに必要な装備を準備する時間はありませんでした。
さらに、行軍が1泊2日であること、行先が田代新湯という温泉場であったことから隊員たちは通常の冬の訓練着より薄着だったり、なかには所持品が手ぬぐいだけという者もいたといいます。
防寒着も、隊員たちの多くは綿の生地の薄地のモノを着用、履物も多くの者が昔ながらの藁靴で、防寒性に優れたものではありませんでした。
さらに・・・当時のカイロは安価ではなく、各自で用意するのは難しかったのです。
いかに準備が大事であったか・・・別の部隊がそれを証明しています。

同じ時期(1月20日~1月31日)に、雪中行軍を行った弘前歩兵第31連隊も、八甲田山での雪中行軍を行っていました。
その工程は、弘前から十和田湖を通って八甲田山を踏破して青森を経由して弘前に戻るというものでした。
総延長224キロ・・・11泊12日という青森第五連隊よりも長いものでした。
第31連隊は、計画を行軍の1か月前に発表。
準備を万全にしたうえで、行軍を行う町村役場に食料、休憩、宿泊所などの協力を要請。
特に道案内人の手配は怠りませんでした。その結果、31連隊の37人は無事に帰営しています。

遭難した原因④指揮系統の乱れ
本来ならば、指揮官である中隊長の神成大尉が部隊の指揮を行う筈でした。
しかし、前進か露営か、帰営か・・・常に大事な決定を下したのは、編制外として参加していた山口大隊長でした。
雪中行軍の生還者の一人はこう語っています。

「雪中行軍のあの悲惨事は、山口大隊長が軽率にも行軍計画者であり、指揮官である神成大尉に相談せず命令を発したのがそもそもの原因である」

とはいっても、軍隊にあって階級の差は絶対です。
神成中隊長より上官の山口大隊長が命令を下すのは至極当然ともいえます。
問題は別のところにありました。
生還者はこうも証言しています。

「山口大隊長はその時、寒さのために頭脳の明瞭を欠いていた」

極限の寒さが判断を誤らせてしまったというのです。
様々な要因が重なり遭難してしまった青森歩兵第五連隊・・・
実は弘前歩兵第31連隊も遭難しかかったのですが・・・天候悪化のために無理をしませんでした。
そして7人の道案内がいたおかげで、助かったといわれています。
その途中・・・第31連隊は、無残な姿を目撃します。
弘前歩兵第31連隊中隊長の福島泰蔵大尉は、案内賃の2円を手渡し村人たちにこう言いました。

「この二日間のことは口外すべからず」と。

丁度その頃、遭難した第五連隊が救助隊に発見され始めていました。

1月24日を過ぎても青森歩兵第五連隊は帰ってきませんでした。
しかし、救助が開始されたのは26日のこと・・・どうして・・・??
ひとつは連隊本部が楽観的だったこと。
行軍部隊はどこかで宿営し、25日は天候が少し回復したので帰ってくだろうとしていたのです。
しかも、この日には呑気に送別会をしていたといいます。
しかし、夜になっても帰ってこないため、急ぎ銃所隊を編制。
翌26日の早朝、救助隊が田代新湯へ出発します。
しかし、案内人を手配するのに手間取ったり、露営の準備をしていなかったり、さらに雪が深かったこともあって捜索は難航・・・

1月27日午前10時ごろ・・・雪の中で直立不動で仮死状態の後藤房之介伍長を発見。
その近くで神成中隊長を見つけるも氷のように固まって亡くなっていました。
先に見つかり一命をとりとめた後藤伍長がこの時に発した一言がさらに救助を遅らせます。

「ほかに生存者はいない 皆、死んだ」

どうしてそんなことを言ってしまったのか・・・??
自分だけが救助されたと思い、皆が亡くなってしまったと思い込んでいたのです。
帰ってくるだろうという楽観視と、生存者はいないだろうという諦め、天候の悪さなどが重なったのです。

後藤伍長の後に16人が救出されました。
わずか16名・・・。
青森第五連隊の捜索は、雪解けの5月まで続けられたといいます。
救出された隊員たちはその後、懸命な治療も敵わず6人が命を落とし、死者の数は199人となってしまいました。
生存者はわずか11人・・・これが、山岳史上最悪の遭難事件の全貌です。

救助された人々の中にはこの悲劇の行軍の実質的な指揮を執った山口大隊長もいました。
しかし、凍傷がひどく、治療の甲斐なく命を落とします。(2月2日)
静観した隊員の一人、倉石一大尉は、その後日露戦争に従軍、多くの命を奪った雪中行軍の本来の目的を果たします。
最初に発見された後藤伍長は凍傷のため両手の指と両ひざ下を切断・・・退役後は郷里の宮城で結婚し、子宝にも恵まれたといいます。
そんな後藤伍長をモデルにしたといわれる雪中行軍遭難記念像が遭難現場近くに立っています。
痛ましい事件を忘れないようにと・・・!!

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